南木佳士 「冬への順応」
2007年2月16日 読書
『ダイヤモンドダスト』(文藝春秋、1989/文春文庫、1992)所収。とてもいい話だと思うし、個人的にはとてもお薦めな短篇です。
時間がけっこう行き来するというか、これは回想的な場面の1つなのだけれど、主人公(「ぼく」)は友人と待ち合わせていた代々木駅で、偶然、小学校のときの同級生、千絵子と再会する。
<「やっぱり代々木?」/「いや、お茶ノ水」/「すごいわね」/「代々木?」/「うん」>(p.23)
私のような永久地方在住者にとっては、なんのこっちゃ? という感じだけれど、この会話でたぶん、主人公はS台、彼女のほうはYゼミ、ということになるらしい。別々の予備校に通う浪人生どうしが付き合っているケース(恋人どうしとしてちゃんと付き合っているわけではないけれど)は、小説としてはけっこう珍しいかもしれない。そう、主人公が通うほうの予備校で、2人で学外生(校外生)として夏期講習の申し込みをする場面があるのだけれど、それが徹夜で、なのが(深夜に浪人生があふれていたりするのが)ちょっとびっくり。大変だよね…。作者は1951年生まれらしいので、1970年くらいの話かな、今ではそんなことないと思うけれど。
1浪の末、医学部志望の「ぼく」は、東京の大学には落ちたものの、東北地方にある大学(の医学部)に受かって通うことになる。でも、千絵子が東京の大学に受かって通っているので(東京に戻るために)いわゆる仮面浪人の状態で受験勉強を続けることに。あ、そういえば、仮面浪人生が出てくる小説ってあまり読んだことがない気がする。それでその後、お約束だけれど、女の子のほうの気持ちがだんだんと離れていって、さらに新しい恋人らしき人も出てきて……という感じ。
話を現在に向ければ(説明の手ぎわが悪くて申しわけないです)、その彼女が治る見込みのない癌患者として、主人公(妻子持ち、1週間ほど前に難民医療活動から帰ってきたばっかり)が勤める病院に入院してくる。市川拓司の『VOICE』でもそうだけれど、どうして男性主人公のもとを去った女性が、のちのち不幸に見舞われなければならないのかが、ちょっとよくわからない(ま、小説だからそんなことを言っても始まらないけれど)。女性のほうも女性のほうで、主人公とお母さんとのやり取り、
<「あの子がいちばん懐かしがっている、あの浪人の頃のように、はげましてやってはいただけないものでしょうか。ほんとに勝手なお願いなんですけど」/「はあ」/(略)/「はげまされたのは、むしろぼくの方で……」/「いいえ、そんなことはございません。生きてたってほんとに言えるのは、あの頃だけだ、なんて申しておりますものですから」/「それはぼくもおなじです」>(p.47)
死が迫っている娘のために母親が嘘をついているのでなければ、彼女は浪人生の頃が「いちばん懐かしい」、その頃だけが「生きてたってほんとに言える」と口にしていたわけで、だったらどうしてもっと早く、大学のときには? と多少疑問が生じなくもない。でも、青春(?)なんてそういうもんなのかもしれない。逆に、そういう話を聞くと(上のようなくだりを読むと)自分もそう思えるような浪人生活を過ごしてみたかったな、と思いもする。たくさんの――それほど多くはないかな、いくつかの大きな悔いが残っている。「悔い」は関係ないか。何か生き生きとした出来事・状態があるかないか、あったかなかったか、か。
時間がけっこう行き来するというか、これは回想的な場面の1つなのだけれど、主人公(「ぼく」)は友人と待ち合わせていた代々木駅で、偶然、小学校のときの同級生、千絵子と再会する。
<「やっぱり代々木?」/「いや、お茶ノ水」/「すごいわね」/「代々木?」/「うん」>(p.23)
私のような永久地方在住者にとっては、なんのこっちゃ? という感じだけれど、この会話でたぶん、主人公はS台、彼女のほうはYゼミ、ということになるらしい。別々の予備校に通う浪人生どうしが付き合っているケース(恋人どうしとしてちゃんと付き合っているわけではないけれど)は、小説としてはけっこう珍しいかもしれない。そう、主人公が通うほうの予備校で、2人で学外生(校外生)として夏期講習の申し込みをする場面があるのだけれど、それが徹夜で、なのが(深夜に浪人生があふれていたりするのが)ちょっとびっくり。大変だよね…。作者は1951年生まれらしいので、1970年くらいの話かな、今ではそんなことないと思うけれど。
1浪の末、医学部志望の「ぼく」は、東京の大学には落ちたものの、東北地方にある大学(の医学部)に受かって通うことになる。でも、千絵子が東京の大学に受かって通っているので(東京に戻るために)いわゆる仮面浪人の状態で受験勉強を続けることに。あ、そういえば、仮面浪人生が出てくる小説ってあまり読んだことがない気がする。それでその後、お約束だけれど、女の子のほうの気持ちがだんだんと離れていって、さらに新しい恋人らしき人も出てきて……という感じ。
話を現在に向ければ(説明の手ぎわが悪くて申しわけないです)、その彼女が治る見込みのない癌患者として、主人公(妻子持ち、1週間ほど前に難民医療活動から帰ってきたばっかり)が勤める病院に入院してくる。市川拓司の『VOICE』でもそうだけれど、どうして男性主人公のもとを去った女性が、のちのち不幸に見舞われなければならないのかが、ちょっとよくわからない(ま、小説だからそんなことを言っても始まらないけれど)。女性のほうも女性のほうで、主人公とお母さんとのやり取り、
<「あの子がいちばん懐かしがっている、あの浪人の頃のように、はげましてやってはいただけないものでしょうか。ほんとに勝手なお願いなんですけど」/「はあ」/(略)/「はげまされたのは、むしろぼくの方で……」/「いいえ、そんなことはございません。生きてたってほんとに言えるのは、あの頃だけだ、なんて申しておりますものですから」/「それはぼくもおなじです」>(p.47)
死が迫っている娘のために母親が嘘をついているのでなければ、彼女は浪人生の頃が「いちばん懐かしい」、その頃だけが「生きてたってほんとに言える」と口にしていたわけで、だったらどうしてもっと早く、大学のときには? と多少疑問が生じなくもない。でも、青春(?)なんてそういうもんなのかもしれない。逆に、そういう話を聞くと(上のようなくだりを読むと)自分もそう思えるような浪人生活を過ごしてみたかったな、と思いもする。たくさんの――それほど多くはないかな、いくつかの大きな悔いが残っている。「悔い」は関係ないか。何か生き生きとした出来事・状態があるかないか、あったかなかったか、か。
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