梨屋アリエ 『でりばりぃAge』
2007年3月28日 読書
講談社、1999/講談社文庫、2006。中学2年生と年齢が低いので青春小説というより児童文学(あるいは家族小説?)に分類されるのかもしれないけれど、季節は例によって夏であるし、素性のよく知れない年上の青年と出会うし、ひと言で言えばガール・ミーツ・ボーイな感じである。おむすびとかピザとか、ペットボトルで作った風車とか、例えば宮崎駿の映画『耳をすませば』などよりは、庶民的な感じかもしれない。似たような小説はいくらでもありそうな気がするけれど、最後の場面がけっこう好きだし、お薦めはお薦めです。――で、「浪人生」は出てこないけれど「ローニンセイ」なら出てくる。
<夏期講習を抜け出した14歳の真名子は、広い庭のある古びた家が気なって、入り込んでしまう。そこでは青年がひとり静かな時間を過ごしていた。彼と話していくうちに、真名子の悩みが少しずつ明らかになる。友情、家族、進路、誰もが共鳴する、思春期の苦悩を瑞々しい筆致で描いた講談社児童文学新人賞受賞作。>(文庫カバーより)
これではちょっとはしょられすぎな気が。自分でまとめるしかないか(涙)。「わたし」(真名子)は中学2年生だけれど、講習を抜け出した時点ではまだ14歳ではない。その講習というのは、自分が受験するかもしれない私立高校で開かれているもので、友達たち(3人)と受講している。古びた家というのは、校舎の窓から見える隣にある元医院(奥窪医院)のことで、庭にはいつも白いシーツが干されている。思春期の――という言葉は当然(?)嫌っている思春期中の中学生、溺れたような息苦しさを感じている真名子(まなこ)は、そのシーツに自分を救いあげてくれる船の帆のイメージを重ねている。で、雨が降り出して、衝動的に学校を飛び出して濡れないようにそのシーツを取り込みに庭に入ったところ、家の奥から出てくるのが「ローニンセイ」(奥窪さん)。そのあと、主人公はしばしばその家を訪れるようになる。――なんていうか、2人の関係は、軽口や冗談を言い合ったり、奥窪さんがちょっと老成した感じもあったりで、ちょっと茶飲み友達っぽい感じが。もちろん(?)真名子の悩みだけでなく、奥窪ローニンセイの素性も明らかになっていく。
「わたし」は、「浪人生と中学生なら半人前どうし」(文庫、p.171)と語っている。あと、これは常識的な認識かもしれないけれど、浪人生のほうは「宙ぶらりん」(同頁)な存在であるとも思っているようだ。同じ「半人前」でも、その内実はぜんぜん違うように思うけれど――中学生が半人前なのは当然として、浪人生はたいてい自業自得的に半人前?――、そんなことは関係ないのかもしれない。(ちゅうぶらりんな者どうしが出会う、浪人生が出てくる小説としては、高校を中退した元女子高生が2浪中の男子浪人生と出会う藤野千夜「恋の休日」など参照。)
関係ないけれど、全体的に「自然/人工」という2項対立が多いかもしれない(だから宮崎アニメを思い出したのかも)。食べ物とか、弟が描いている直線もそうだし(直線/曲線)、いまテレビゲームにはまっている父親がかつて天体観測少年だったとか(テレビゲーム/天体観測)。ただ、自然がよくて人工が悪い、みたいな単純な図式ではなく、農薬野菜や添加物が入っているピザでも、形の悪い手作りのおむすびでも、それが自分のために作られたものならそのほういい、ということらしい。子どもが大人になるには汚れ(穢れ)なくてはいけない、みたいなよくある話とはちょっと違う(でも、ピザのほうはちょっとそれっぽいかな)。
<夏期講習を抜け出した14歳の真名子は、広い庭のある古びた家が気なって、入り込んでしまう。そこでは青年がひとり静かな時間を過ごしていた。彼と話していくうちに、真名子の悩みが少しずつ明らかになる。友情、家族、進路、誰もが共鳴する、思春期の苦悩を瑞々しい筆致で描いた講談社児童文学新人賞受賞作。>(文庫カバーより)
これではちょっとはしょられすぎな気が。自分でまとめるしかないか(涙)。「わたし」(真名子)は中学2年生だけれど、講習を抜け出した時点ではまだ14歳ではない。その講習というのは、自分が受験するかもしれない私立高校で開かれているもので、友達たち(3人)と受講している。古びた家というのは、校舎の窓から見える隣にある元医院(奥窪医院)のことで、庭にはいつも白いシーツが干されている。思春期の――という言葉は当然(?)嫌っている思春期中の中学生、溺れたような息苦しさを感じている真名子(まなこ)は、そのシーツに自分を救いあげてくれる船の帆のイメージを重ねている。で、雨が降り出して、衝動的に学校を飛び出して濡れないようにそのシーツを取り込みに庭に入ったところ、家の奥から出てくるのが「ローニンセイ」(奥窪さん)。そのあと、主人公はしばしばその家を訪れるようになる。――なんていうか、2人の関係は、軽口や冗談を言い合ったり、奥窪さんがちょっと老成した感じもあったりで、ちょっと茶飲み友達っぽい感じが。もちろん(?)真名子の悩みだけでなく、奥窪ローニンセイの素性も明らかになっていく。
「わたし」は、「浪人生と中学生なら半人前どうし」(文庫、p.171)と語っている。あと、これは常識的な認識かもしれないけれど、浪人生のほうは「宙ぶらりん」(同頁)な存在であるとも思っているようだ。同じ「半人前」でも、その内実はぜんぜん違うように思うけれど――中学生が半人前なのは当然として、浪人生はたいてい自業自得的に半人前?――、そんなことは関係ないのかもしれない。(ちゅうぶらりんな者どうしが出会う、浪人生が出てくる小説としては、高校を中退した元女子高生が2浪中の男子浪人生と出会う藤野千夜「恋の休日」など参照。)
関係ないけれど、全体的に「自然/人工」という2項対立が多いかもしれない(だから宮崎アニメを思い出したのかも)。食べ物とか、弟が描いている直線もそうだし(直線/曲線)、いまテレビゲームにはまっている父親がかつて天体観測少年だったとか(テレビゲーム/天体観測)。ただ、自然がよくて人工が悪い、みたいな単純な図式ではなく、農薬野菜や添加物が入っているピザでも、形の悪い手作りのおむすびでも、それが自分のために作られたものならそのほういい、ということらしい。子どもが大人になるには汚れ(穢れ)なくてはいけない、みたいなよくある話とはちょっと違う(でも、ピザのほうはちょっとそれっぽいかな)。
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