遠藤周作 『ただいま浪人』
2007年4月1日 読書
講談社、1972/講談社文庫、1974。何がいちばん言いたいかというと、とにもかくにも手元にある文庫本で750ページを超えるこの小説を、どうにか読み終えた、ということである。比較的会話や改行が多い小説であるし、けっして読みにくいわけではない、というか、むしろとても読みやすいのだけれど、個人的な悩みとしてとにかく文章を読むのが遅いという事情があって…。1日あたりかなり長い時間読んでいながら読み終わるのに計6日かかりました(涙)。(あと、花村萬月『たびを』という小説を図書館で借りて来たのだけれど、1000ページくらいあって、どうしようか、もう読む気がしない。)
この本も、後ろの宣伝文というか紹介文の時点で、かなりのネタバレをしている。
<東大受験に失敗した浪人の信也は、無気力で空虚な日常から脱出しようと、家出してスナックに勤める。一方、姉の真理子は、中年の男優との恋に悩みつつも、平凡な結婚に踏み切る。人生という学校に合格していない浪人たちが、生きることと生活することの違いを自覚していく過程を描いた感動的長編。>
出版社に勤めているお姉さんが、だいぶ歳上の子持ちの役者(これがまたいい人なんだ)ではなくて、お見合いで知り合った平凡な男性のほうを選ぶのにいったいどれくらい読めばいいんだよ? ほとんど終わりが近い(涙)。それで、よくある悩みと言えばよくある悩みなのかもしれないけれど、姉弟の2人とも生きがいのある、生き生きとした生(上では「生きること」)と、退屈だけれど、食べるものに困らないような、将来が約束された安定した人生(「生活すること」)とのどちらを選ぶか、みたいなことで心が揺れている。1970年代の初めくらいに書かれた小説で、ちょっと古く感じるかもしれないけれど、そのわりには共感して読めるかと思う。あ、でも、「家」とか「お見合い」とか、やっぱりいまでは通じない部分もあるかな。お父さんの権限みたいなものも、現代の平均(そんなものは数値化できないだろうけれど)よりは強そうな感じであるし。信也くんが東大志望なのは、学歴のせいで出世競争で悔しい思いをして来た会社勤めをしている父親(豊次)の強い希望でもある(このお父さん、でも、『岸辺のアルバム』よりは人間味があるかな)。息子のほうも父親の期待に沿おうとするのだけれど、結局、不合格。家に戻れず、そのまま住み込みで働き始めてしまう。とりあえず、浪人生小説としては、よくあるタイプの(?)ドロップ・アウト系である。
物語は、石井きょうだいのほかにもう1人、アメリカから日本人女性との間にできた娘を探しに来た、元米兵のロバート・オノラを中心にして進んでいく。人探し部分は、話としてはいちばんわかりやすいかもしれない。見つかるか見つからないかだし。そのロバートも、朝鮮戦争が始まって身ごもった女性(とお腹の子ども)を捨てた形になっていたり、胃のあたりに痛みがあるらしかったりと、悩みというか葛藤を抱えている。悲愴感もかなり漂っている。そう、「外人」という言い方にはやっぱりいま読むとちょっと違和感があるかな。でも、かなり繰り返されているからすぐに慣れるけど。
人がけっこう死ぬのは気になるけれど、まぁいい小説、であるということで、いちおうお薦めです。5段階評価で3くらいのお薦め度。――以下、受験関係のことについても少し触れておきたい。まず、いわゆる『豆単』が登場している場面がある。
<(略)電車は意外に込んでいる。信也は(略)思い出したようにポケットから「豆単」と受験生の間で言われている英単語熟語集を出して読み始めた。/往復の電車の中でこの本を使ってやっている現在の勉強は、日本語の文例を見てはそれを英語に訳してみることである。英文和訳のほうは信也は多少、自信があったが、和文英訳のほうはどうも苦手で弱かった。だから、イディオムを日本文を見てすぐ思い出せるようにする勉強を電車の中で行なっているのだ。>(p.134)
あとで出てくるときは表記が、赤尾の豆タン、となっている。このブレはなに?(まぁいいか)。「すき間時間」というのかな、電車の中で単語集を勉強する、というのはふつうなことかもしれない(逆に自習室で単語集を勉強していたら、なんとなくほかの勉強をしたほうがいいのではないか、と思ってしまう。cf. 清水義範『学問ノススメ』)。英文和訳よりも和文英訳のほうが苦手、というのもわかる(それがふつうだと思う)。でも、イディオムうんぬん、の話がちょっとよくわからない。――と思っていたらちょっと先に具体例があって、
<「彼は行って戻らなかった。私は声をあげて叫んだのだが……」/声をあげて叫ぶとはきれいな英語でどう言ったらいいだろう。/彼はニ、三の表現を考えて、そっと解答を見て安心した。考えていたイディオムだったからである。>(p.135)
確かに「声をあげて叫ぶ」という表現はいろいろありそうで、どれなのか迷いそうだ(「呼びとめる」みたいな意味だから、何? 私には正解がないからわからない(涙))。でも、その前に『豆単』というのは、そもそもそういう参考書だったっけ? という疑問がある。現在は『豆単』と『豆熟』の2冊に分かれているらしいけれど、どうも昔は一緒だったらしい。よく知らないけれど、熟語(イディオム)も単語と一緒にアルファベット順に並んでいたらしく、例えばbe about to 〜ならB(あるいはA?)のところに並んでいるような形。――それはわかるのだけれど、でも、例文(が本当にあるのかな)の日本語訳を見て英語に戻す、といっても、イディオムの先頭の単語の頭文字はわかっちゃうよね? アルファベット順だから。うーん…、よくわからないけれど、どこかおかしい気が。目の前で実践してもらえばわかるかもしれないけれど。(いまさらわかったけれど、小説から勉強方法は学べないことが多いね。最初からそういう目的で書かれた情報小説みたいなものなら別だろうけれど。)
あと、予備校(所属は「東大コース」)の場面が2箇所くらいあって(pp.120-, pp.221-)、それも取りあげようかと思ったけれど、文字数的にちょっと限界…。書き忘れたけれど、信也くんは文科志望(文系)。東京の土地鑑がほとんどないからよくわからないけれど、家はちょっと郊外らしい、予備校はどこだ? 駒場の近くかな(違っているかもしれない、東京に詳しい人ならわかるはず)。そう、ちょっと疑問というか、作中の時間は、前年の秋か冬くらいから始まっていて、受けるのはたぶん1970年度の入試だと思うのだけれど、信也くんは去年も東大を受けたと言っていて(1951年生まれ?)、そうすると1969年って東大の入試は行なわれていないから(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』参照)、なんだか矛盾してしまう。ま、細かいことはいいか。それで、結局、上で書いたように不合格になるのだけれど、「第一次」(2段階選抜らしい)には合格している。で、2次に落ちるわけだけれど、ショックを受けて、酒+女みたいなことは、受験生小説にかぎらず、よくあるパターンかもしれない。あと、そう、友達で予備校仲間だった後藤くんが、大学受験をやめて、画家を目指してニューヨークに旅立ってしまうけれど、友達が芸術系、というのもパターンの1つ。
感想がいつも以上にぐちゃぐちゃ…(と言い訳をしておきたい)。
この本も、後ろの宣伝文というか紹介文の時点で、かなりのネタバレをしている。
<東大受験に失敗した浪人の信也は、無気力で空虚な日常から脱出しようと、家出してスナックに勤める。一方、姉の真理子は、中年の男優との恋に悩みつつも、平凡な結婚に踏み切る。人生という学校に合格していない浪人たちが、生きることと生活することの違いを自覚していく過程を描いた感動的長編。>
出版社に勤めているお姉さんが、だいぶ歳上の子持ちの役者(これがまたいい人なんだ)ではなくて、お見合いで知り合った平凡な男性のほうを選ぶのにいったいどれくらい読めばいいんだよ? ほとんど終わりが近い(涙)。それで、よくある悩みと言えばよくある悩みなのかもしれないけれど、姉弟の2人とも生きがいのある、生き生きとした生(上では「生きること」)と、退屈だけれど、食べるものに困らないような、将来が約束された安定した人生(「生活すること」)とのどちらを選ぶか、みたいなことで心が揺れている。1970年代の初めくらいに書かれた小説で、ちょっと古く感じるかもしれないけれど、そのわりには共感して読めるかと思う。あ、でも、「家」とか「お見合い」とか、やっぱりいまでは通じない部分もあるかな。お父さんの権限みたいなものも、現代の平均(そんなものは数値化できないだろうけれど)よりは強そうな感じであるし。信也くんが東大志望なのは、学歴のせいで出世競争で悔しい思いをして来た会社勤めをしている父親(豊次)の強い希望でもある(このお父さん、でも、『岸辺のアルバム』よりは人間味があるかな)。息子のほうも父親の期待に沿おうとするのだけれど、結局、不合格。家に戻れず、そのまま住み込みで働き始めてしまう。とりあえず、浪人生小説としては、よくあるタイプの(?)ドロップ・アウト系である。
物語は、石井きょうだいのほかにもう1人、アメリカから日本人女性との間にできた娘を探しに来た、元米兵のロバート・オノラを中心にして進んでいく。人探し部分は、話としてはいちばんわかりやすいかもしれない。見つかるか見つからないかだし。そのロバートも、朝鮮戦争が始まって身ごもった女性(とお腹の子ども)を捨てた形になっていたり、胃のあたりに痛みがあるらしかったりと、悩みというか葛藤を抱えている。悲愴感もかなり漂っている。そう、「外人」という言い方にはやっぱりいま読むとちょっと違和感があるかな。でも、かなり繰り返されているからすぐに慣れるけど。
人がけっこう死ぬのは気になるけれど、まぁいい小説、であるということで、いちおうお薦めです。5段階評価で3くらいのお薦め度。――以下、受験関係のことについても少し触れておきたい。まず、いわゆる『豆単』が登場している場面がある。
<(略)電車は意外に込んでいる。信也は(略)思い出したようにポケットから「豆単」と受験生の間で言われている英単語熟語集を出して読み始めた。/往復の電車の中でこの本を使ってやっている現在の勉強は、日本語の文例を見てはそれを英語に訳してみることである。英文和訳のほうは信也は多少、自信があったが、和文英訳のほうはどうも苦手で弱かった。だから、イディオムを日本文を見てすぐ思い出せるようにする勉強を電車の中で行なっているのだ。>(p.134)
あとで出てくるときは表記が、赤尾の豆タン、となっている。このブレはなに?(まぁいいか)。「すき間時間」というのかな、電車の中で単語集を勉強する、というのはふつうなことかもしれない(逆に自習室で単語集を勉強していたら、なんとなくほかの勉強をしたほうがいいのではないか、と思ってしまう。cf. 清水義範『学問ノススメ』)。英文和訳よりも和文英訳のほうが苦手、というのもわかる(それがふつうだと思う)。でも、イディオムうんぬん、の話がちょっとよくわからない。――と思っていたらちょっと先に具体例があって、
<「彼は行って戻らなかった。私は声をあげて叫んだのだが……」/声をあげて叫ぶとはきれいな英語でどう言ったらいいだろう。/彼はニ、三の表現を考えて、そっと解答を見て安心した。考えていたイディオムだったからである。>(p.135)
確かに「声をあげて叫ぶ」という表現はいろいろありそうで、どれなのか迷いそうだ(「呼びとめる」みたいな意味だから、何? 私には正解がないからわからない(涙))。でも、その前に『豆単』というのは、そもそもそういう参考書だったっけ? という疑問がある。現在は『豆単』と『豆熟』の2冊に分かれているらしいけれど、どうも昔は一緒だったらしい。よく知らないけれど、熟語(イディオム)も単語と一緒にアルファベット順に並んでいたらしく、例えばbe about to 〜ならB(あるいはA?)のところに並んでいるような形。――それはわかるのだけれど、でも、例文(が本当にあるのかな)の日本語訳を見て英語に戻す、といっても、イディオムの先頭の単語の頭文字はわかっちゃうよね? アルファベット順だから。うーん…、よくわからないけれど、どこかおかしい気が。目の前で実践してもらえばわかるかもしれないけれど。(いまさらわかったけれど、小説から勉強方法は学べないことが多いね。最初からそういう目的で書かれた情報小説みたいなものなら別だろうけれど。)
あと、予備校(所属は「東大コース」)の場面が2箇所くらいあって(pp.120-, pp.221-)、それも取りあげようかと思ったけれど、文字数的にちょっと限界…。書き忘れたけれど、信也くんは文科志望(文系)。東京の土地鑑がほとんどないからよくわからないけれど、家はちょっと郊外らしい、予備校はどこだ? 駒場の近くかな(違っているかもしれない、東京に詳しい人ならわかるはず)。そう、ちょっと疑問というか、作中の時間は、前年の秋か冬くらいから始まっていて、受けるのはたぶん1970年度の入試だと思うのだけれど、信也くんは去年も東大を受けたと言っていて(1951年生まれ?)、そうすると1969年って東大の入試は行なわれていないから(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』参照)、なんだか矛盾してしまう。ま、細かいことはいいか。それで、結局、上で書いたように不合格になるのだけれど、「第一次」(2段階選抜らしい)には合格している。で、2次に落ちるわけだけれど、ショックを受けて、酒+女みたいなことは、受験生小説にかぎらず、よくあるパターンかもしれない。あと、そう、友達で予備校仲間だった後藤くんが、大学受験をやめて、画家を目指してニューヨークに旅立ってしまうけれど、友達が芸術系、というのもパターンの1つ。
感想がいつも以上にぐちゃぐちゃ…(と言い訳をしておきたい)。
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