中上健次 「隆男と美津子」
2007年4月28日 読書
手元にある文庫には、単行本とか初出に関する情報が書かれていない。調べたほうがいい気もするけれど、とりあえず、短篇集『十八歳、海へ』(集英社文庫、1980)に収録されている短めの1篇。※以下、ネタバレ――という言葉が似合わない小説だけれど。ミステリーではないし――にはご注意ください。いつもと同じです。
隆男と美津子というのは、「僕」がよく行く新宿駅東口のジャズ喫茶で肩を寄せ合っていつもラリっているカップル。隆男の家からのお金が途絶えたらしく、その2人が始めた仕事のようなことが「心中未遂業」。――方法も書かないと話の説明もできないか。ひと言で言えば、アタリ屋にちょっと美人局を混ぜたような感じ? 女の子のほうを、誰か適当な男に口説かれるにまかせて食事とかに連れて行かせ、頃合いを見て男の子が現れて女の子を連れ帰る。そのあと、聞き出しておいた、口説いてきた相手の名前とかを手帳に書いておいて、致死量未満の睡眠薬を飲んで2人で自殺する。それはもちろん未遂に終わって、入院中の2人の前に現れた相手がショックを受けたり、良心の呵責を感じたりして、治療費、養生費をくれる、みたいな寸法。まぁあれこれと計算したら割に合わない犯罪(?)だよね。いや、そんなことはどうでもよくて。それで――2人が亡くなるのは冒頭で予告されているのだけれど、あるとき、「僕」は代々木の病院からの電話で呼び出される。院長と警察官の話によれば、隆男たちが致死量の3倍の薬を飲んで、「僕」のニックネーム(「ボス」)と住所を新しい手帳に書き残して、亡くなったという。いつ死んでもおかしくない2人だったのだけれど、涙が頬を伝う、みたいな話。2人が何を考えていたのか、「僕」に何を言いたかったのかは、もちろんわからないまま。――ミイラ取りがミイラになる…ではなくて、ひと言でまとめられる言葉があれば苦労しないか(涙)。というか、思うに、私が内容や粗筋をまとめたのでは、どんな小説でも台無しだよね…(すみません)。
2人とも18歳で「僕」と同じ歳、隆男のほうは親友で、美津子のほうとは寝たことがある。――「自殺」というのは青春小説の定番である、みたいなことを言うのは簡単かもしれないけれど、どうなんだろうね? 昔(個人的な話です)、18歳か19歳のとき、ある女の子が高校のときの同級生が事故で亡くなった、と言って1日中、暗く沈んでいることがあって。慰めることができなかったというか、本人は「ぜんぜん仲が良くなかったんだけれど、でも、あたしたちと同じくらいの歳で死んじゃったんだよ」みたいなことを言っていて…。うーん…、としか返せなかったのだけれど、そのとき私は、何をどう言えばよかったのかな? とにかく、他人の事故死ですらそうなのだから、他人じゃない人の自殺死となると、何を言っていいのやら、よくわからないかもしれない。別に、この語り手のボスくんを慰めたいとか、彼に同情しているとかではないけれど。
予備校生の「僕」は、学校へはあまり(ほとんど?)通っていないような感じであるけれど、例えばこんなところは、「僕」のスタンスや、予備校観、予備校生観みたいなものがわかるかな、
<予備校は夏期講習を終え、大学入試までに残されたわずかな日数を最高度に消化しようとして、授業を念入りにやっていた。僕は他の予備校生と同じように明年の試験に不安を感じていた。だが不安など嘘だ。どうでもよい。/従順な山羊の仔のような予備校生にもなれるし、予備校などいつやめてもよい。僕の一等好きな事は、ジャズを聴くことだった。今、ジャズばかり聴いていれば、先々のことなどどうでもよい。ケセラセラ、なるようになるさ。ならなければ、ならないでよい。>(pp.51-2)
。9月くらいからラスト・スパート(?)をかけたのでは、入試前に息切れしちゃいそうだけれど。それはともかく、いつやめてもいい、どうでもいいと言うならさっさとやめて、大好きなジャズ絡みの仕事でも探せばいいのにね。どうしてやめないのか、そちらのほうがかえって疑問に思うくらいの言いよう? ちょっと古めの小説ではありがちかもしれないけれど、「従順な山羊の仔のような予備校生」というのは、自分だけは違う、自分とその他大勢、みたいな無意識的な区別が働いているようで、ちょっと癪に障る気がしなくもない。自分が排除されているようで。みんな黒板のほうを向いているけれど、1人だけ窓の外を見ている私(あるいは彼/彼女)みたいなことは、高校生小説のほうがありがちかもしれない。それと同じようなものか(ちょっと違うけれど、予備校生小説では松村栄子「窓」など参照)。どうでもいいけれど、従順なのは、山羊(やぎ)ではなくて、ふつう羊(ひつじ)? あ、でも、山羊のほうが紙を食べるから(?)受験生向けの比喩として合っているのかも。
(ちなみに、同じ短篇集に収録されている、「隆男と美津子」の次の1篇、「愛のような」には、予備校のときのことが回想されている場面がある。)
隆男と美津子というのは、「僕」がよく行く新宿駅東口のジャズ喫茶で肩を寄せ合っていつもラリっているカップル。隆男の家からのお金が途絶えたらしく、その2人が始めた仕事のようなことが「心中未遂業」。――方法も書かないと話の説明もできないか。ひと言で言えば、アタリ屋にちょっと美人局を混ぜたような感じ? 女の子のほうを、誰か適当な男に口説かれるにまかせて食事とかに連れて行かせ、頃合いを見て男の子が現れて女の子を連れ帰る。そのあと、聞き出しておいた、口説いてきた相手の名前とかを手帳に書いておいて、致死量未満の睡眠薬を飲んで2人で自殺する。それはもちろん未遂に終わって、入院中の2人の前に現れた相手がショックを受けたり、良心の呵責を感じたりして、治療費、養生費をくれる、みたいな寸法。まぁあれこれと計算したら割に合わない犯罪(?)だよね。いや、そんなことはどうでもよくて。それで――2人が亡くなるのは冒頭で予告されているのだけれど、あるとき、「僕」は代々木の病院からの電話で呼び出される。院長と警察官の話によれば、隆男たちが致死量の3倍の薬を飲んで、「僕」のニックネーム(「ボス」)と住所を新しい手帳に書き残して、亡くなったという。いつ死んでもおかしくない2人だったのだけれど、涙が頬を伝う、みたいな話。2人が何を考えていたのか、「僕」に何を言いたかったのかは、もちろんわからないまま。――ミイラ取りがミイラになる…ではなくて、ひと言でまとめられる言葉があれば苦労しないか(涙)。というか、思うに、私が内容や粗筋をまとめたのでは、どんな小説でも台無しだよね…(すみません)。
2人とも18歳で「僕」と同じ歳、隆男のほうは親友で、美津子のほうとは寝たことがある。――「自殺」というのは青春小説の定番である、みたいなことを言うのは簡単かもしれないけれど、どうなんだろうね? 昔(個人的な話です)、18歳か19歳のとき、ある女の子が高校のときの同級生が事故で亡くなった、と言って1日中、暗く沈んでいることがあって。慰めることができなかったというか、本人は「ぜんぜん仲が良くなかったんだけれど、でも、あたしたちと同じくらいの歳で死んじゃったんだよ」みたいなことを言っていて…。うーん…、としか返せなかったのだけれど、そのとき私は、何をどう言えばよかったのかな? とにかく、他人の事故死ですらそうなのだから、他人じゃない人の自殺死となると、何を言っていいのやら、よくわからないかもしれない。別に、この語り手のボスくんを慰めたいとか、彼に同情しているとかではないけれど。
予備校生の「僕」は、学校へはあまり(ほとんど?)通っていないような感じであるけれど、例えばこんなところは、「僕」のスタンスや、予備校観、予備校生観みたいなものがわかるかな、
<予備校は夏期講習を終え、大学入試までに残されたわずかな日数を最高度に消化しようとして、授業を念入りにやっていた。僕は他の予備校生と同じように明年の試験に不安を感じていた。だが不安など嘘だ。どうでもよい。/従順な山羊の仔のような予備校生にもなれるし、予備校などいつやめてもよい。僕の一等好きな事は、ジャズを聴くことだった。今、ジャズばかり聴いていれば、先々のことなどどうでもよい。ケセラセラ、なるようになるさ。ならなければ、ならないでよい。>(pp.51-2)
。9月くらいからラスト・スパート(?)をかけたのでは、入試前に息切れしちゃいそうだけれど。それはともかく、いつやめてもいい、どうでもいいと言うならさっさとやめて、大好きなジャズ絡みの仕事でも探せばいいのにね。どうしてやめないのか、そちらのほうがかえって疑問に思うくらいの言いよう? ちょっと古めの小説ではありがちかもしれないけれど、「従順な山羊の仔のような予備校生」というのは、自分だけは違う、自分とその他大勢、みたいな無意識的な区別が働いているようで、ちょっと癪に障る気がしなくもない。自分が排除されているようで。みんな黒板のほうを向いているけれど、1人だけ窓の外を見ている私(あるいは彼/彼女)みたいなことは、高校生小説のほうがありがちかもしれない。それと同じようなものか(ちょっと違うけれど、予備校生小説では松村栄子「窓」など参照)。どうでもいいけれど、従順なのは、山羊(やぎ)ではなくて、ふつう羊(ひつじ)? あ、でも、山羊のほうが紙を食べるから(?)受験生向けの比喩として合っているのかも。
(ちなみに、同じ短篇集に収録されている、「隆男と美津子」の次の1篇、「愛のような」には、予備校のときのことが回想されている場面がある。)
コメント