高須智士 「見知らぬ街を歩いた記憶」
2007年7月2日 読書
連作短篇集『君を、愛している』(ミックス・ジャパン、1997)に収録されている1篇(3篇中の2篇目)。この連作集について、文芸評論家というか書評家というかの斎藤美奈子が、<『赤頭巾ちゃん気をつけて』と『ノルウェイの森』を足してニで割って水で薄めて幼稚にしたような小説>と言っている(「渋谷名物はいかが? シブヤ系文学の謎」『リテレール別冊? ことし読む本 いち押しガイド99』メタローグ、1998)。図書館で借りてきて読んでみた結果、その通り、としか言えないような…。この2篇目の「見知らぬ街を〜」が浪人生小説なのだけれど、本文中にも『赤頭巾ちゃん〜』がちらっと出てきている。「僕」の両親がその小説の薫くん(庄司薫)と同じ歳なのだそうだ。語り口だけでなく、世代的にも文字通り薫くんの“チルドレン”であり、浪人生小説としては逆にこれが正統派であると言えよう(?)。
物語はなんていうか、ワン・アイディアで成り立っていて、それを言ってしまったらおしまいかもしれない。でも、わりと早い段階でこんな感じかな、とは予想できる書き方がされているけれど。(都立日比谷高校ではなく)都立西高校出身の「僕」こと、高木純一(18歳)が浪人している理由は、冬に街を歩いているとき、信号が変わって急ぎかけた瞬間、アキレス腱を断絶してしまって入院・手術になり、入試が受けられなかったからだそうである。ちまたで(?)「都会の公立進学校は、四年制」と言われるその都立受験校に通っていたり、偏差値が5も足りなかったりと、もともと浪人する予定(覚悟?)ではあったらしいけれど。両親も主人公と同じ高校出身で浪人していて、浪人することは簡単に許されたらしい。両親が東大卒だそうだから(書かれていないけれど)高木くんの志望大学も東大? ――それはそれとして、今日は1997年5月終わりの日曜日。足の怪我がまだ完治していないため、目的地は「僕」の家がある同じ杉並区の街なのだけれど、そこに直接行くことができず、(薫くんのように長靴は履いていないけれど)自転車で吉祥寺駅まで行き、井の頭線に乗ってその街で降りて(杉並区内の移動? それとも杉並区を経って杉並区へ到着?)足を引きづりながら歩く、みたいな話。
話が戻ってしまうけれど、「都会の公立進学校は、四年制」(p.68)という言葉はちょっと面白いかな。でも、以前にも触れた気がする「一浪は「ひとなみ」と読む」とか、小峰元の小説に出てきたような気がするけれど、六・三・三・四制ではなく「六・三・三・一・四制」とかと同じようなものか。関係ないけれど、1篇目(「リアルワールド」)の冒頭の「恋愛部」という言葉もちょっといいかな(でも「ラ○カツ」?)。
<宮坂と森川はつきあっているので、同じ電車で帰る。帰宅部といったところだが、本人は「恋愛部」と呼んでほしいと思っている。>(p.7)
「本人」というのは宮坂くんのほうだけれど、そう、1篇目といえば(浪人は関係ないけれど、受験がらみの話で)、1995年夏、主人公兼視点人物の宮坂くんは、ほかの高校に通う親友の高木くんと予備校の夏期講習(英作文)を受けているのだけれど、
<その講義はその予備校の看板の一つにもなっているもので、大きなテレビカメラで撮影され、全国十あまりのその予備校の系列地方校に衛星放送で送られ、同時講義がされていた。≪テレビ講義なんて受けて、面白いのかな……。馬ッ鹿みたい。(略)≫>(p.21)
「馬ッ鹿みたい」というのは、彼女=森川さんの口癖をまねたか? それはいいとして、自分が高校生(もちろん地方)のとき、友達が「あれは寝ちゃうね」と言っていたけれど、まぁそうなのかも。生放送(ライブ授業)と録画とでもまた違うのかもしれないけれど、同じコンテンツというか授業内容なのに、臨場感のあるなしが雲泥の差をひらかせるのかなんなのか。そりゃ宮坂くんよ、送られるものではなく送っているものが見られればそれに越したことはないのかもしれないけれど。というか、ばかみたいな差があるとして同じ授業料なら詐欺だよね。
関係ないけれど(関係ない話ばっかり)、1篇目を読むと宮坂くん、それほど好感度が高い人物には思えないのだけれど、2篇目、3篇目(「運命を辿って」、1999年春〜秋)を読むとやけに、親友(高木)やら恋人(森川)やらその他の人(森川の親友の鴇沢)やらに愛されていたことがわかるけれど、どうして? だったら1篇目でもっといい人物として描いておけばいいのに。――まぁどうでもいいか。あ、ぜんぜん気づかなかったけれど、この小説のテーマは「親友」だったの?(うーん…)。
物語はなんていうか、ワン・アイディアで成り立っていて、それを言ってしまったらおしまいかもしれない。でも、わりと早い段階でこんな感じかな、とは予想できる書き方がされているけれど。(都立日比谷高校ではなく)都立西高校出身の「僕」こと、高木純一(18歳)が浪人している理由は、冬に街を歩いているとき、信号が変わって急ぎかけた瞬間、アキレス腱を断絶してしまって入院・手術になり、入試が受けられなかったからだそうである。ちまたで(?)「都会の公立進学校は、四年制」と言われるその都立受験校に通っていたり、偏差値が5も足りなかったりと、もともと浪人する予定(覚悟?)ではあったらしいけれど。両親も主人公と同じ高校出身で浪人していて、浪人することは簡単に許されたらしい。両親が東大卒だそうだから(書かれていないけれど)高木くんの志望大学も東大? ――それはそれとして、今日は1997年5月終わりの日曜日。足の怪我がまだ完治していないため、目的地は「僕」の家がある同じ杉並区の街なのだけれど、そこに直接行くことができず、(薫くんのように長靴は履いていないけれど)自転車で吉祥寺駅まで行き、井の頭線に乗ってその街で降りて(杉並区内の移動? それとも杉並区を経って杉並区へ到着?)足を引きづりながら歩く、みたいな話。
話が戻ってしまうけれど、「都会の公立進学校は、四年制」(p.68)という言葉はちょっと面白いかな。でも、以前にも触れた気がする「一浪は「ひとなみ」と読む」とか、小峰元の小説に出てきたような気がするけれど、六・三・三・四制ではなく「六・三・三・一・四制」とかと同じようなものか。関係ないけれど、1篇目(「リアルワールド」)の冒頭の「恋愛部」という言葉もちょっといいかな(でも「ラ○カツ」?)。
<宮坂と森川はつきあっているので、同じ電車で帰る。帰宅部といったところだが、本人は「恋愛部」と呼んでほしいと思っている。>(p.7)
「本人」というのは宮坂くんのほうだけれど、そう、1篇目といえば(浪人は関係ないけれど、受験がらみの話で)、1995年夏、主人公兼視点人物の宮坂くんは、ほかの高校に通う親友の高木くんと予備校の夏期講習(英作文)を受けているのだけれど、
<その講義はその予備校の看板の一つにもなっているもので、大きなテレビカメラで撮影され、全国十あまりのその予備校の系列地方校に衛星放送で送られ、同時講義がされていた。≪テレビ講義なんて受けて、面白いのかな……。馬ッ鹿みたい。(略)≫>(p.21)
「馬ッ鹿みたい」というのは、彼女=森川さんの口癖をまねたか? それはいいとして、自分が高校生(もちろん地方)のとき、友達が「あれは寝ちゃうね」と言っていたけれど、まぁそうなのかも。生放送(ライブ授業)と録画とでもまた違うのかもしれないけれど、同じコンテンツというか授業内容なのに、臨場感のあるなしが雲泥の差をひらかせるのかなんなのか。そりゃ宮坂くんよ、送られるものではなく送っているものが見られればそれに越したことはないのかもしれないけれど。というか、ばかみたいな差があるとして同じ授業料なら詐欺だよね。
関係ないけれど(関係ない話ばっかり)、1篇目を読むと宮坂くん、それほど好感度が高い人物には思えないのだけれど、2篇目、3篇目(「運命を辿って」、1999年春〜秋)を読むとやけに、親友(高木)やら恋人(森川)やらその他の人(森川の親友の鴇沢)やらに愛されていたことがわかるけれど、どうして? だったら1篇目でもっといい人物として描いておけばいいのに。――まぁどうでもいいか。あ、ぜんぜん気づかなかったけれど、この小説のテーマは「親友」だったの?(うーん…)。
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