清水義範 「続・イエスタデイ」
2007年7月29日 読書
同じ作者の長篇小説『学問ノススメ』(全3冊)に形を変えたりして含まれている部分がけっこうあるし、それと比べるととても短い(すなわち、浪人生について書かれていることも少ない)かもしれないけれど、この短篇も個人的にはけっこうお薦めです。短篇集『イエスタデイ』(徳間書店、1989/徳間文庫、1992)に収録されている。文庫は講談社文庫からも出ているようだけど、手元にあるのは徳間文庫版。いつものようにカバーに載っているコピー(宣伝文句)を引用してみると、
<それは高校二年の秋、授業中、密かに回覧されてきた奇天烈な原稿から始まった。東京オリンピックの年だ。四人で同人誌を作った。十円で売った。『平凡パンチ』が五十円だった。/高三の春。「勉強やる気せんな」「あったり前だがや。あんなもん好きでやる奴おれせんて」/受験直前、自家製の単行本を出した。二百五十枚の大長篇も。あの日々が、彼らの始まりだった。パスティーシュ作家の半自伝的青春連作。>
とのこと。これが高校生編である表題作についてで、「続・〜」はその続きの浪人生編。1966年(東京五輪の2年後)、4人の仲間のうち、主人公の志水義夫ともう1人(田中靖昭)が浪人に。1つ年下の弟(幸夫)も受験生。――浪人生だから勉強しなくてはいけなくて、もちろんその自覚もあるのだけれど、小説を書いてまた同人誌を出したり(どういう小説を書いたのかも、具体的に書かれている)、予備校に行かずにいかがわしさ(?)で評判になっている映画を見に行ったり…。そういうのは、なんだろうね、個人的には、自分の浪人経験に照らしてもよくわかるから(小説は書いていないし、映画も見ていないけれど)、たんなる「現実逃避」のひと言では片付けたくない気はする。ただ、そういう浪人中にした受験勉強以外のことが、将来の夢というか仕事につながれば(もちろんあとから振り返ってしかわからないことだけど)サボタージュでも許されてしまう、みたいな面もあるのか、世の中(世間)はなんて現金? 小説の最後には、志水くんはのちのちというか、現在(イエスタデイではなくトゥデイ?)小説家になっている、ということが書かれている。(持っていないけれど、確か作者=清水義範は映画についての本も何か出していたと思う。)
で、ひと言でいえば、持つべきものは(生涯の)友人たち、みたいな話なのかな(ちょっと違うか)。受験に関しても、田中くんが手紙に同封してきた手作りの問題がきっかけで、問題の出し合いになって、結果、それが大なり小なり志水くんの合格に結びついたようであるし。そう、関係ないけれど、個人的にちょっとうらやましいと思ったのは、同じ予備校に高校のときの友達がいる、ということ。自分の場合、コミュニケーションが全般的に苦手というのもあるけれど、予備校を休んだときにノートを借りたりするのにだいぶ苦労した覚えがある。親切に貸してくれた人も多いけれど。友達がいればそんな苦労はあまりいらないよね(もちろん親しき仲にも礼儀あり、だろうけれど)。思うに、予備校というのも、結局、勉強しに行くというよりも、人に会いに行くという面が大きいのかもしれない。「会う」というか、友達であれば予備校以外でも会えるんだろうけれど、なんていうか、友達も通っていると思えば多少行く気にもなる、というか。でも、志水くん、友達がいてもかなりさぼっていたみたいだけれど。
ところで、「予備校が受験の時代の大道具とすれば、参考書は小道具である」(竹内洋『立志・苦学・出世』、p.32)ということなので、小道具のほう、その代表選手(?)な『豆単』(有名な英単語集)がちらっと出てきているので、そこにも触れておきたい。少し引用してもだいじょうぶかな、
<義夫も、まるっきり勉強しないわけではなかった。豆単も、above, abroad, abundantくらいまではいったのである。だがそれは、豆単の二ページ目だった。>
abundant……単語集自体をabandonでabandonする(=捨てる)みたいなよくある冗談よりは先まで進んでいる。そういえば、『豆単』というのは、above(〜の上に)とかabroad(外国へ)とか、中学校で習うような単語も入っているんだよね。いま現在売られている版を重ねたものもそうなのかな?
<それは高校二年の秋、授業中、密かに回覧されてきた奇天烈な原稿から始まった。東京オリンピックの年だ。四人で同人誌を作った。十円で売った。『平凡パンチ』が五十円だった。/高三の春。「勉強やる気せんな」「あったり前だがや。あんなもん好きでやる奴おれせんて」/受験直前、自家製の単行本を出した。二百五十枚の大長篇も。あの日々が、彼らの始まりだった。パスティーシュ作家の半自伝的青春連作。>
とのこと。これが高校生編である表題作についてで、「続・〜」はその続きの浪人生編。1966年(東京五輪の2年後)、4人の仲間のうち、主人公の志水義夫ともう1人(田中靖昭)が浪人に。1つ年下の弟(幸夫)も受験生。――浪人生だから勉強しなくてはいけなくて、もちろんその自覚もあるのだけれど、小説を書いてまた同人誌を出したり(どういう小説を書いたのかも、具体的に書かれている)、予備校に行かずにいかがわしさ(?)で評判になっている映画を見に行ったり…。そういうのは、なんだろうね、個人的には、自分の浪人経験に照らしてもよくわかるから(小説は書いていないし、映画も見ていないけれど)、たんなる「現実逃避」のひと言では片付けたくない気はする。ただ、そういう浪人中にした受験勉強以外のことが、将来の夢というか仕事につながれば(もちろんあとから振り返ってしかわからないことだけど)サボタージュでも許されてしまう、みたいな面もあるのか、世の中(世間)はなんて現金? 小説の最後には、志水くんはのちのちというか、現在(イエスタデイではなくトゥデイ?)小説家になっている、ということが書かれている。(持っていないけれど、確か作者=清水義範は映画についての本も何か出していたと思う。)
で、ひと言でいえば、持つべきものは(生涯の)友人たち、みたいな話なのかな(ちょっと違うか)。受験に関しても、田中くんが手紙に同封してきた手作りの問題がきっかけで、問題の出し合いになって、結果、それが大なり小なり志水くんの合格に結びついたようであるし。そう、関係ないけれど、個人的にちょっとうらやましいと思ったのは、同じ予備校に高校のときの友達がいる、ということ。自分の場合、コミュニケーションが全般的に苦手というのもあるけれど、予備校を休んだときにノートを借りたりするのにだいぶ苦労した覚えがある。親切に貸してくれた人も多いけれど。友達がいればそんな苦労はあまりいらないよね(もちろん親しき仲にも礼儀あり、だろうけれど)。思うに、予備校というのも、結局、勉強しに行くというよりも、人に会いに行くという面が大きいのかもしれない。「会う」というか、友達であれば予備校以外でも会えるんだろうけれど、なんていうか、友達も通っていると思えば多少行く気にもなる、というか。でも、志水くん、友達がいてもかなりさぼっていたみたいだけれど。
ところで、「予備校が受験の時代の大道具とすれば、参考書は小道具である」(竹内洋『立志・苦学・出世』、p.32)ということなので、小道具のほう、その代表選手(?)な『豆単』(有名な英単語集)がちらっと出てきているので、そこにも触れておきたい。少し引用してもだいじょうぶかな、
<義夫も、まるっきり勉強しないわけではなかった。豆単も、above, abroad, abundantくらいまではいったのである。だがそれは、豆単の二ページ目だった。>
abundant……単語集自体をabandonでabandonする(=捨てる)みたいなよくある冗談よりは先まで進んでいる。そういえば、『豆単』というのは、above(〜の上に)とかabroad(外国へ)とか、中学校で習うような単語も入っているんだよね。いま現在売られている版を重ねたものもそうなのかな?
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