木崎さと子 『光る沼』
2007年9月16日 読書
新潮社、1996。文学作品ですとか言われれば、そうですかとは思うけれども、なんだろうね、こういう小説は? 個人的にはよくわからないです。とりあえずデジャ・ヴュな感じはする、というか、具体的な名前は思いつかないけれど、昔なんとなく読んだことがある、いくつかの有名な作品のパロディーっぽいというか、劣化コピー的な感じがするというか、一読、そんなような印象を受ける。たんに自分の読みが浅いから、小説の底も浅く感じるのかもしれないけれど。※推理小説ではないですが、以下、いちおうネタバレ注意です。
配置されている文学的な要素(?)じたいに既視感がある、のはしかたがないとして、それらの関連性みたいなことが小説を浅く感じさせるのかな?(わからんです)。文学的な要素というのは、列挙すれば、土地(田舎、方言)や自然災害(大規模な地滑り、現在もゆるく続いている)、宗教――お寺(親鸞『歎異抄』の講演会など)や神社(山の中にある古いもの)、占い師(不気味で預言者的)――、戦争(残留孤児、中国での戦争体験)や人種(中国人、ブラジル人、日本国旗)、女の子・女性(への犯罪的な/残忍な行為)など。小説というのはその手のものを混ぜ合わせれば、簡単に文学チックになってしまうのかなんなのか。
季節は初秋、東京から母方の祖父が暮らす北陸の田舎町、氷江(ひえ)に来て、名門寺院である称光寺に“ホーム・ステイ”している潮子(しおこ、遠藤潮子)が、その寺が経営する保育園の遠足に参加していたとき、不注意で(?)草むらで用を足していた園児、ユキちゃん(ユキコ)から目を離してしまい、見つかったときにはスカートは濡れていてパンツははいておらず、体には腹部と腿にまたがって血のにじんだ歯型がついている。――という、始まりはちょっとショッキングな感じなのだけれど、その後は最後のへんまでたいしたことは特に起こらない小説かな。あらすじを書いても意味がない気がするけれど、潮子視点でいえば、かつての大規模な地滑りによって廃村になっている国見という所で1人暮らしをしている変わり者の祖父(嘉吉)に会いに行って、心を開かせられるかどうか、とか、いなくなった女の子を捜すのに手を貸してくれた地元の土木業者(小川工業)の常務である杉田のことを、潮子は好きになるのだけれど、なんていうか、2人がどうなるのか、とか、そんなような話もある。
終始1つのテーマがある小説なのかよくわからないけれど、1つの筋(話の筋)はないのではないかと思う。いちおう、潮子、杉田、嘉吉のほかに視点人物としては、女の子に歯を立てた、残留孤児の母を持つ中国出身の太一(いちおう高校生)、太一を見逃してあげた、杉田と同じ会社で働く初老の男、瀬尾、潮子の祖父、嘉吉の面倒を見たりしている民生委員の高畠がいる。まぁ、孤独であるらしい太一くんがどうなるのか、とか、お祖父さんが娘にも孫にも心を開かない理由は? とか、そういうことも気になって読み進められる小説でもあるかもしれない。そう、視点が複数ある小説は、やっぱり登場人物どうしの認識のずれ、気持ちのずれみたいなものが書かれていることが多いのかな。この小説でもそうで、例えば潮子と杉田の気持ちはずれている(/いく)感じ。
潮子は浪人生であるようなないような、小説ではよくある状態にある。
<(略)予備校通いにも身が入らず夏期講習も休みがちだったあげく、来年また受験する気にもなれそうもなくて、行く手がみえないという気分に襲われ出したころ、ふと氷江という土地に行ってみたい、と思った。>(p.7)
東京の予備校にまだ籍があるにしても、これでは、浪人生であると断定はできないか。それゆえ“浪人生小説”としても認定できないような。また、次のようにも考えている。
<来年の夏、わたしは何をしているのだろう? 大学にでも行っているのだろうか? そんな、つまらない。氷江にいつまでもいたい。はっきり、そう思ってから、自分でおどろいた。>(p.44)
つまらないのか。好きになった相手、杉田と会話をしているときの心中なので、杉田から離れたくないゆえ、なのかもしれないけれど、それでも浪人生という感じはしない。ほかにも、自分のことを<学生でもなければ勤めもしていない風来坊の身分>(p.97)と説明している箇所もある。風来坊…って? 浪人生に「風来坊」というイメージってある? どうでもいいか。でも、事件(?)を起こしてマスコミ報道で取りあげられたりすれば、こういう人も良かれ悪しかれ、なぜか「浪人生」という肩書きがつけられてしまう(世の中って?)。
ちなみに潮子の家族としては、氷江の国見出身の母親のほかに、サラリーマンの父親(娘との関係は淡白らしい)と歳の離れた弟がいるらしい。作中の年は、細川首相がまだ首相を辞めていないようだから、……っていつ?(汗)。雑誌掲載年&単行本出版年が1996年なので、それくらい?
配置されている文学的な要素(?)じたいに既視感がある、のはしかたがないとして、それらの関連性みたいなことが小説を浅く感じさせるのかな?(わからんです)。文学的な要素というのは、列挙すれば、土地(田舎、方言)や自然災害(大規模な地滑り、現在もゆるく続いている)、宗教――お寺(親鸞『歎異抄』の講演会など)や神社(山の中にある古いもの)、占い師(不気味で預言者的)――、戦争(残留孤児、中国での戦争体験)や人種(中国人、ブラジル人、日本国旗)、女の子・女性(への犯罪的な/残忍な行為)など。小説というのはその手のものを混ぜ合わせれば、簡単に文学チックになってしまうのかなんなのか。
季節は初秋、東京から母方の祖父が暮らす北陸の田舎町、氷江(ひえ)に来て、名門寺院である称光寺に“ホーム・ステイ”している潮子(しおこ、遠藤潮子)が、その寺が経営する保育園の遠足に参加していたとき、不注意で(?)草むらで用を足していた園児、ユキちゃん(ユキコ)から目を離してしまい、見つかったときにはスカートは濡れていてパンツははいておらず、体には腹部と腿にまたがって血のにじんだ歯型がついている。――という、始まりはちょっとショッキングな感じなのだけれど、その後は最後のへんまでたいしたことは特に起こらない小説かな。あらすじを書いても意味がない気がするけれど、潮子視点でいえば、かつての大規模な地滑りによって廃村になっている国見という所で1人暮らしをしている変わり者の祖父(嘉吉)に会いに行って、心を開かせられるかどうか、とか、いなくなった女の子を捜すのに手を貸してくれた地元の土木業者(小川工業)の常務である杉田のことを、潮子は好きになるのだけれど、なんていうか、2人がどうなるのか、とか、そんなような話もある。
終始1つのテーマがある小説なのかよくわからないけれど、1つの筋(話の筋)はないのではないかと思う。いちおう、潮子、杉田、嘉吉のほかに視点人物としては、女の子に歯を立てた、残留孤児の母を持つ中国出身の太一(いちおう高校生)、太一を見逃してあげた、杉田と同じ会社で働く初老の男、瀬尾、潮子の祖父、嘉吉の面倒を見たりしている民生委員の高畠がいる。まぁ、孤独であるらしい太一くんがどうなるのか、とか、お祖父さんが娘にも孫にも心を開かない理由は? とか、そういうことも気になって読み進められる小説でもあるかもしれない。そう、視点が複数ある小説は、やっぱり登場人物どうしの認識のずれ、気持ちのずれみたいなものが書かれていることが多いのかな。この小説でもそうで、例えば潮子と杉田の気持ちはずれている(/いく)感じ。
潮子は浪人生であるようなないような、小説ではよくある状態にある。
<(略)予備校通いにも身が入らず夏期講習も休みがちだったあげく、来年また受験する気にもなれそうもなくて、行く手がみえないという気分に襲われ出したころ、ふと氷江という土地に行ってみたい、と思った。>(p.7)
東京の予備校にまだ籍があるにしても、これでは、浪人生であると断定はできないか。それゆえ“浪人生小説”としても認定できないような。また、次のようにも考えている。
<来年の夏、わたしは何をしているのだろう? 大学にでも行っているのだろうか? そんな、つまらない。氷江にいつまでもいたい。はっきり、そう思ってから、自分でおどろいた。>(p.44)
つまらないのか。好きになった相手、杉田と会話をしているときの心中なので、杉田から離れたくないゆえ、なのかもしれないけれど、それでも浪人生という感じはしない。ほかにも、自分のことを<学生でもなければ勤めもしていない風来坊の身分>(p.97)と説明している箇所もある。風来坊…って? 浪人生に「風来坊」というイメージってある? どうでもいいか。でも、事件(?)を起こしてマスコミ報道で取りあげられたりすれば、こういう人も良かれ悪しかれ、なぜか「浪人生」という肩書きがつけられてしまう(世の中って?)。
ちなみに潮子の家族としては、氷江の国見出身の母親のほかに、サラリーマンの父親(娘との関係は淡白らしい)と歳の離れた弟がいるらしい。作中の年は、細川首相がまだ首相を辞めていないようだから、……っていつ?(汗)。雑誌掲載年&単行本出版年が1996年なので、それくらい?
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