岡松和夫 「道連れ」
2007年10月14日 読書フィクションの度合いはともかく、この作者(1931年生まれ)が浪人していた時期を描いた作品はぜんぶで何篇あるの? ――たくさんありそうな気がするのだけれど、探してみた結果、とりあえず3作確認できました。
「新宿仲通り」(『人間の火』文藝春秋、1981、7篇中の4篇目)
「道連れ」(『楠の森』福武書店、1984、7篇中の4篇目)
「雛」(『口紅』講談社、1987、8篇中の8篇目)
※いちおう以下、内容まで書いてしまいますので、まだ読んでいなくて、まっさらな状態で読みたい人はご注意ください。名前はそれぞれ違うけれど、3篇とも主人公は、浪人生(〜大学生)。1949年から翌年にかけての話で、主人公は九州から上京して従兄夫婦のところに下宿し、最初は日暮里の工場でアルバイトを、次に従兄が新宿に和風喫茶店を開くと、住み込みでそこの手伝いをしている(大学に合格してからは寮に)。「新宿仲通り」と「雛」は、赤線地帯で身を売る女性たち(やその1人に嵌ってしまった男性)を描いたものなので、それらよりは、浪人生仲間も出てくるし、“浪人度”が高そうな「道連れ」を、ここでは取りあげておきます。(「取りあげる」と言っても、いつものようにテキトーに感想を書くだけだけど。)
冒頭、次のように始まっている。
<もう三十年ほど昔になる。十代の終わりだった久我は、郷里から東京の大学を受験に来て親戚の家に泊めてもらったが、その夜から三日か四日続けて夢精してしまい、心も体もくたくたになった記憶がある。>(p.203)
この時点でなんかめんどくせえと思ってしまったけれど、読み進めてみたら意外とふつうの小説でした。ふつうというか、淡々としていてあまり小説ぽくない小説かもしれない。30年も前のことだからか、自分は性欲が強いのではないかという悩みや、性と愛情はどういう関係にあるのかという疑問(これも悩みか)などについても、けっこう冷静に語られている(書かれている)感じ。“青春小説”はテンションが高くないと、といったご意見もあると思いますが(それには私も賛成ですが)、これはこれで読んでいてつまらなくはないです。あと、全体的なことでは、何か不穏なことが起こりそうで起こらない小説だったかな。主人公の久我のほかには、OとKという同じ工場で働く浪人仲間(3人は高校が同じ)が出てくるのだけれど、OもKも人生を棒に振りそうになりながら、でもそういう方向には向かわない。
試験前日・期間中の連夜の夢精……だけが敗因ではないと思うけれど、浪人している主人公の久我は、浪人生は浪人生でも現在の大学受験浪人のイメージとは若干ずれるかもしれない。というのは、いちど旧制高校には通っているから(もちろん受験して合格していなければ通えない)。なのに、1年生のときに「学制切り替え」で(高校には1年しかいられず)新制大学を受験して、不合格→浪人という経緯を辿っている。でも、どうなのかな…、別にふつうの浪人生といえばふつうの浪人生かもしれない(というか「ふつう」って何?)。そういえば、この久我くんは、高校に入るのに浪人はしなかったのかな?(していれば作中で触れられているか)。例えば、旧制中学5年のときに旧制高校の受験に失敗して、しかたなく翌年の1年間を新高校3年生として過ごして、そのうえ新制大学受験にも失敗、みたいな悲惨な人も多かったのではないか(そんなこともない?)。そういう人が主人公の小説を、個人的には読みたいな。あ、久我くんたちの志望大学は、直接的には書かれていなかったと思うけれど、たぶん東京大学(久我とOは文系、Kは理系)。
浪人生3人は3人3様という感じ。でも、共通しているのは“お金”が足りないという状況かもしれない。主人公の久我くんは、お兄さんが仕送りもしてくれているし(それでも足りないらしいけれど)3人のなかではいちばん恵まれているっぽい。Kくんは、ひとまわりくらい年上の彼女(S子)が田舎から上京してきて、一緒に暮らすのにもっと給料のいい大変なアルバイトを始めなくてはいけなかったり、Oくんは、工場をやめて9月から予備校に通うために親戚などからお金を借りて、大学に入ってからだけれど、その借金のせいで自殺することまで考え、結局、大学は中退することになったり…。日暮里のつぶれそうな工場での3人の仕事は、シリカゲル作りの手伝いで、体力を消耗するだろうし、やっぱり“苦学浪人生”という感じかもしれない。主人公は、和風喫茶店時代には2階の屋根裏部屋の直立できないようなところで勉強している。合否については、Kくんだけが不合格になるけれど、別に受験していた「教員養成大学」には合格して(いろいろ考えた末にだろうけれど)そこに通うことにしたらしい。
「新宿仲通り」(『人間の火』文藝春秋、1981、7篇中の4篇目)
「道連れ」(『楠の森』福武書店、1984、7篇中の4篇目)
「雛」(『口紅』講談社、1987、8篇中の8篇目)
※いちおう以下、内容まで書いてしまいますので、まだ読んでいなくて、まっさらな状態で読みたい人はご注意ください。名前はそれぞれ違うけれど、3篇とも主人公は、浪人生(〜大学生)。1949年から翌年にかけての話で、主人公は九州から上京して従兄夫婦のところに下宿し、最初は日暮里の工場でアルバイトを、次に従兄が新宿に和風喫茶店を開くと、住み込みでそこの手伝いをしている(大学に合格してからは寮に)。「新宿仲通り」と「雛」は、赤線地帯で身を売る女性たち(やその1人に嵌ってしまった男性)を描いたものなので、それらよりは、浪人生仲間も出てくるし、“浪人度”が高そうな「道連れ」を、ここでは取りあげておきます。(「取りあげる」と言っても、いつものようにテキトーに感想を書くだけだけど。)
冒頭、次のように始まっている。
<もう三十年ほど昔になる。十代の終わりだった久我は、郷里から東京の大学を受験に来て親戚の家に泊めてもらったが、その夜から三日か四日続けて夢精してしまい、心も体もくたくたになった記憶がある。>(p.203)
この時点でなんかめんどくせえと思ってしまったけれど、読み進めてみたら意外とふつうの小説でした。ふつうというか、淡々としていてあまり小説ぽくない小説かもしれない。30年も前のことだからか、自分は性欲が強いのではないかという悩みや、性と愛情はどういう関係にあるのかという疑問(これも悩みか)などについても、けっこう冷静に語られている(書かれている)感じ。“青春小説”はテンションが高くないと、といったご意見もあると思いますが(それには私も賛成ですが)、これはこれで読んでいてつまらなくはないです。あと、全体的なことでは、何か不穏なことが起こりそうで起こらない小説だったかな。主人公の久我のほかには、OとKという同じ工場で働く浪人仲間(3人は高校が同じ)が出てくるのだけれど、OもKも人生を棒に振りそうになりながら、でもそういう方向には向かわない。
試験前日・期間中の連夜の夢精……だけが敗因ではないと思うけれど、浪人している主人公の久我は、浪人生は浪人生でも現在の大学受験浪人のイメージとは若干ずれるかもしれない。というのは、いちど旧制高校には通っているから(もちろん受験して合格していなければ通えない)。なのに、1年生のときに「学制切り替え」で(高校には1年しかいられず)新制大学を受験して、不合格→浪人という経緯を辿っている。でも、どうなのかな…、別にふつうの浪人生といえばふつうの浪人生かもしれない(というか「ふつう」って何?)。そういえば、この久我くんは、高校に入るのに浪人はしなかったのかな?(していれば作中で触れられているか)。例えば、旧制中学5年のときに旧制高校の受験に失敗して、しかたなく翌年の1年間を新高校3年生として過ごして、そのうえ新制大学受験にも失敗、みたいな悲惨な人も多かったのではないか(そんなこともない?)。そういう人が主人公の小説を、個人的には読みたいな。あ、久我くんたちの志望大学は、直接的には書かれていなかったと思うけれど、たぶん東京大学(久我とOは文系、Kは理系)。
浪人生3人は3人3様という感じ。でも、共通しているのは“お金”が足りないという状況かもしれない。主人公の久我くんは、お兄さんが仕送りもしてくれているし(それでも足りないらしいけれど)3人のなかではいちばん恵まれているっぽい。Kくんは、ひとまわりくらい年上の彼女(S子)が田舎から上京してきて、一緒に暮らすのにもっと給料のいい大変なアルバイトを始めなくてはいけなかったり、Oくんは、工場をやめて9月から予備校に通うために親戚などからお金を借りて、大学に入ってからだけれど、その借金のせいで自殺することまで考え、結局、大学は中退することになったり…。日暮里のつぶれそうな工場での3人の仕事は、シリカゲル作りの手伝いで、体力を消耗するだろうし、やっぱり“苦学浪人生”という感じかもしれない。主人公は、和風喫茶店時代には2階の屋根裏部屋の直立できないようなところで勉強している。合否については、Kくんだけが不合格になるけれど、別に受験していた「教員養成大学」には合格して(いろいろ考えた末にだろうけれど)そこに通うことにしたらしい。
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