南木佳士 「ウサギ」
2008年8月31日 読書
『冬物語』(文藝春秋、1997/文春文庫、2002)所収、12篇中の7篇目。“浪人と恋愛”みたいなキーワード(?)を使って読んでしまうと、とりあえず「冬への順応」(『ダイヤモンドダスト』所収)の短い版みたいな印象を受ける。妻と2人の息子、そして妻が主に食事や排泄の世話をしている寝たきりの父(妻にとっては義父)と暮らしている主人公(たぶん医師)が、中学生の次男の言葉をきっかけにして、小学生のときに“初恋”の相手にしてしまったこと、さらに浪人中にその相手(中川清子)と再会したときのことなどを思い出す、みたいな話。再会といっても1度だけだったらしいけれど――「冬への順応」とは違っている――、そのきっかけとなったのが、予備校(お茶の水にある大規模なところ)で模擬試験の結果に掲示されていて、その中にその子の名前が載っていたこと。通っていた医学部のコース(たぶん)はF組まであったらしいけれど、主人公は(1学期は)C組で、中川さんのほうはA組――女の子のほうが頭がいいというあたりも、主人公のほうが優秀な(?)予備校に通っている「冬への順応」とは異なっている。んで、結論というか、先に読んでしまったせいか、個人的にはやっぱり「冬への順応」のほうがいいと思う。そちらのほうが第1志望の大学に落ちた挫折感、みたいなものが詳しく語られているからかな、よくわからないけれど。
誰もが疑問に思うのは、中川清子はどうして亡くなったのか、ということ? ――それに対するいちばんつまらない答え(推測)は“失恋による自殺”かもしれないけれど、その可能性は(可能性の1つとして)捨てきれないと個人的には思う。<淋しい葬式だった>理由は、なんだろうね? 自身が大学5年のとき、という語り手の不確かな記憶が正しいとすれば、小学校のときの同級生である清子も(語り手と同じく1浪して医学部に入っているので)、23, 4歳ということになる(亡くなったのが夏とのことで、算数的には23歳の可能性のほうが高い)。20代前半の女性のお葬式が淋しくなってしまう理由っていったい?(そもそも淋しくないお葬式のほうが珍しいだろうし、私にはよくわからないな)。浪人中に再会した時点で、語り手が清子に対して感じた変化とその変化の原因は、具体的にはなんだろうね? うーん…(それもよくわからんです)。あ、推理小説ではないからこれが正しい、みたいな1つの解答はないと思う。間違っている解答は、本文に照らせばいくらもあるだろうけれど。
例えば……いいかげんなことを言うとちゃんとした人から怒られそうだけれど、テキトーなことを言ってよければ、清子のランドセルに語り手がいたずらで入れたウサギ――語り手には結局のところ、どうなったのかわからずじまいのそのウサギは、淋しいと死んでしまう種類のウサギで、鞄に入れられた時点で清子の心の中に移り住んでしまい(もちろんスピリチュアルな話をしている(汗))、中学時代か高校時代か、そのことによって(?)精神的な変調をきたし出して――精神科医になりたい人の多くが他人を治療したいというより、自分が治療されたい、または自分で自分を治療したいと考えている?――で、大学に入学後に“淋しいと死んでしまう病気”を発症して、大学5年の夏に淋しさが致死量に達してついに帰らぬ人に?? 精神的な病気であるとすれば、村上春樹『ノルウェイの森』の直子も、結局のところ、なんだかよくわからない感じだし、この小説も――なんだかよくわからない感じかもしれない。真逆な可能性というか、大学の友だちたちと江ノ島の海で楽しく海水浴中に足をつって溺死→淋しい式、みたいな可能生だってもちろんある。
小説上、抽象的なウサギにしても(小学校時代の)具体的なウサギにしても、とりあえずトリックスター(狂言回し、道化役)として使われている…感じかな。上の子どもが高校2年生ということは、語り手はもう40歳はすぎているか。最後、<ウサギは淋しいと死んじゃう>というTVドラマの台詞を(おそらく二男とは異なる理由で)肯定している、すなわち、成績優秀でスポーツ万能な、ウサギのような(?)色白で可愛らしい清子は、何やら淋しくて、若くして死んでしまった、と考えることくらい許してあげないといけない、中年のおじさんだから(?)。生活は現実であるというか、奥さん&介護されている父親は、現実そのものを強く見せているけれど。そういえば、読んでいてお父さんの性格付け(過去も現在も)がまったくされていないことがちょっと気にはなったかな。
※大幅に加筆、訂正しました(2010/07/31)。
[追記]初出は文庫の後ろのほうに書かれていて、『文學界』1996年6月号らしいです。
誰もが疑問に思うのは、中川清子はどうして亡くなったのか、ということ? ――それに対するいちばんつまらない答え(推測)は“失恋による自殺”かもしれないけれど、その可能性は(可能性の1つとして)捨てきれないと個人的には思う。<淋しい葬式だった>理由は、なんだろうね? 自身が大学5年のとき、という語り手の不確かな記憶が正しいとすれば、小学校のときの同級生である清子も(語り手と同じく1浪して医学部に入っているので)、23, 4歳ということになる(亡くなったのが夏とのことで、算数的には23歳の可能性のほうが高い)。20代前半の女性のお葬式が淋しくなってしまう理由っていったい?(そもそも淋しくないお葬式のほうが珍しいだろうし、私にはよくわからないな)。浪人中に再会した時点で、語り手が清子に対して感じた変化とその変化の原因は、具体的にはなんだろうね? うーん…(それもよくわからんです)。あ、推理小説ではないからこれが正しい、みたいな1つの解答はないと思う。間違っている解答は、本文に照らせばいくらもあるだろうけれど。
例えば……いいかげんなことを言うとちゃんとした人から怒られそうだけれど、テキトーなことを言ってよければ、清子のランドセルに語り手がいたずらで入れたウサギ――語り手には結局のところ、どうなったのかわからずじまいのそのウサギは、淋しいと死んでしまう種類のウサギで、鞄に入れられた時点で清子の心の中に移り住んでしまい(もちろんスピリチュアルな話をしている(汗))、中学時代か高校時代か、そのことによって(?)精神的な変調をきたし出して――精神科医になりたい人の多くが他人を治療したいというより、自分が治療されたい、または自分で自分を治療したいと考えている?――で、大学に入学後に“淋しいと死んでしまう病気”を発症して、大学5年の夏に淋しさが致死量に達してついに帰らぬ人に?? 精神的な病気であるとすれば、村上春樹『ノルウェイの森』の直子も、結局のところ、なんだかよくわからない感じだし、この小説も――なんだかよくわからない感じかもしれない。真逆な可能性というか、大学の友だちたちと江ノ島の海で楽しく海水浴中に足をつって溺死→淋しい式、みたいな可能生だってもちろんある。
小説上、抽象的なウサギにしても(小学校時代の)具体的なウサギにしても、とりあえずトリックスター(狂言回し、道化役)として使われている…感じかな。上の子どもが高校2年生ということは、語り手はもう40歳はすぎているか。最後、<ウサギは淋しいと死んじゃう>というTVドラマの台詞を(おそらく二男とは異なる理由で)肯定している、すなわち、成績優秀でスポーツ万能な、ウサギのような(?)色白で可愛らしい清子は、何やら淋しくて、若くして死んでしまった、と考えることくらい許してあげないといけない、中年のおじさんだから(?)。生活は現実であるというか、奥さん&介護されている父親は、現実そのものを強く見せているけれど。そういえば、読んでいてお父さんの性格付け(過去も現在も)がまったくされていないことがちょっと気にはなったかな。
※大幅に加筆、訂正しました(2010/07/31)。
[追記]初出は文庫の後ろのほうに書かれていて、『文學界』1996年6月号らしいです。
コメント