若桜木虔 『青春に涙はいらない』
2010年8月5日 読書
秋元文庫、1980。正木恵子さんという女性の半生(大学1年くらいまで)が描かれた「ドキュメンタリー小説」。いまや2010年、これをどういうふうに読めばいいのやら、あれこれ悩んでいるうちに読み終わってしまった感じ(汗)。内容や、感想もちょっと書きにくいな。
主人公というか恵子さんは、昭和29年(1954年)・群馬県生まれ。小学生のときお母さんを結核で亡くし、お父さんも再婚してすぐに癌で入院、そのまま治ることなく亡くなって。新しいお母さんが家を出て行くことはなかったけれど、大黒柱を失った家庭(姉が2人に弟が1人)は、当然、生活が苦しくなる。恵子さんは明るいというか、学校などで嫌なことがあっても、すぐに忘れる楽天的な性格(というふうに描かれている)。高校生のときは下のお姉さんが高校のときにしていたアルバイトを引き継ぐ。卒業後は進学を希望して、でも現役での受験(東外大)には失敗。予備校の費用をかせぐために上京して1年間のアルバイト、翌年は新聞販売店に住み込んで働きながらの予備校通い。でも受験した東大には受かることなく、2次募集の私大に入学して、ダン研部(東大の舞踏研究会)に入り、夏の合宿などで文字通り血のにじむ練習をして、大会ではみごとに優勝。
最後(の章=第五章)は、それまでの貧乏ばなし・苦学物語から体育会系・スポ根ものに変わっている感じ? 家が貧しいゆえのほぼ義務的なアルバイトとは違って、大学の部活なら本当に嫌ならやめられるしね。でも、読んでいて最後、それまでのもやもや(?)がちょっとすっきりするかもしれない。貧乏に関しては、こういうことは較べてはいけないのかもしれないけれど、この人よりも3つ歳上なのかな、うちの母親(昭和26年生まれ)の小さいころの貧乏ばなし(私が小さいころによく聞かされた)のほうが、貧乏がひどい感じ(汗)。父親――私からいえばもう10年以上も前に亡くなった母方の祖父――があまり働かない人だったらしくて。高校は定時制で、そのときにはもう昼間ちゃんと働いていたらしい。――関係ない話はいいとして。
新聞販売店(M新聞)では最初、12人の学生(配達員)のために食事を作っているのだけれど、石油危機(1973年10月?)の影響で――考えてみれば新聞もトイレットペーパーと同じ(というか材料にもなる)紙だもんね――店が傾いて、女の子であるにもかかわらず自転車で新聞を配達することに。(雨ではなく)みぞれが降っているなかでの配達が描かれていて(涙)、泣ける人には泣けるかもしれない。予備校はS台。女子生徒はやっぱり少ない(少なかった)ようです。1クラス約300人のうち、どのクラスも女子は10人足らずとのこと。文系だけれど、東大志望――というより時代のせいかな、女子浪人生が少ないのは。あと、某有名予備校講師について書かれているので、引用しておきたい。
<恵子は人気のある講師の授業が楽しみで、特に英語の鈴木長十という講師は駿台の古だぬきで、生徒からは「長十」としたわれていた。/父子三代に渡って教えた生徒がいるというほどだから、かれこれ五十年は駿台で働いているのだろう。/>(pp.131-2)
いったん切らしてもらって。いま手もとにある情報によれば(*1)、1979年に72歳で亡くなっているらしいので、<五十年>は言いすぎかな。主人公がこの予備校に通っているのは、1954年生まれで高校卒業後2年目なので1974年? 単純計算をすれば、この講師は1974年には67歳。50年前は17歳? あ、でも、学生時代から教えていたとすれば、ぎりぎり50年“近く”にはなるか。――引用を続けると、
<「田舎で皆さん、一生懸命勉強してきたと思うが、ここは東京である。東京に来たからには、都会の洗練された英文解釈を身につけなくてはだめだ。この駿台は全国から優秀な人が集まって来ているが、田舎の人はよくわかるでしょ? 御飯を食べてゆくからには、田舎の高校教師のような教え方じゃ駄目なんですね。さあ今日も、一日も早く僕のような古だぬきとオサラバできるよう頑張って下さいよ」/と言った調子で、丸々と肥った小柄な長十は授業を始める。/毒舌をはくだけあって、彼の授業は一流のものだったが、日本の政治家や文部省に対して猛烈に攻撃し、それが生徒にバカ受けするものだから調子に乗ってしまい、授業も時々脱線した。>(p.132)
この先生をからかっている四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮社、2004→新潮文庫)を読んだあとに読むと、ちょっと心が洗われるというか。それはともかく、ご本人の“声”がどれくらい再現できているのか私にはわからないけれど、懐かしい人には懐かしいのではないかと思う。ちなみに何で知ったか忘れてしまったし、ものすごくうろ覚えなのだけれど、作者の若桜木虔(昭和22年生まれ、東大卒)も、予備校講師をしていたことがあるんだっけ? とりあえず、私には昔のジュニア小説の書き手というイメージしかない。あ、でも、私が読んだことがあるのは、わりと最近の、新書(ベスト新書?)で出ている小説の書き方本だけ(どこかに行ってしまったけれど、2冊持っていたような記憶が)。そう、読んでいるとき、やっぱり女性のことは女性作家が書いたほうがいいのではないか、とは何度か思ったけれどね(あと、この小説の場合には、東大卒ではない作家のほうがよくない? 主人公がその大学に落ちているんだもんね)。
*1 伊村元道「年表でみる英語教育50年」(『『英語教育』創刊50周年記念別冊 英語教育Fifty』大修館書店、2002、pp.97-109)のいちばん最後、「物故者一覧」(p.109)による。
~・~・~・~・~・~・~・~・~
あまり関係ないけれど、四方田犬彦(1浪→東大)がS台に通っていたのは1971年で、坪内祐三(1浪→W大、もともと東大志望)が通っていたのが1977年だから、正木さんが通っていた1974年(推定)はちょうどそのあいだになる。小説家では、1956年生まれの田中康夫(1浪→一橋)が通っていたのが、1975年? この年には奥泉光(2浪→ICU)も通っている(浪人1年目)。1974年……有名な人で誰かいないかな?(ま、いいか)。ちなみに上京組は田中康夫だけで(長野県出身)、あとの3人は地元東京(奥泉光は埼玉)。
主人公というか恵子さんは、昭和29年(1954年)・群馬県生まれ。小学生のときお母さんを結核で亡くし、お父さんも再婚してすぐに癌で入院、そのまま治ることなく亡くなって。新しいお母さんが家を出て行くことはなかったけれど、大黒柱を失った家庭(姉が2人に弟が1人)は、当然、生活が苦しくなる。恵子さんは明るいというか、学校などで嫌なことがあっても、すぐに忘れる楽天的な性格(というふうに描かれている)。高校生のときは下のお姉さんが高校のときにしていたアルバイトを引き継ぐ。卒業後は進学を希望して、でも現役での受験(東外大)には失敗。予備校の費用をかせぐために上京して1年間のアルバイト、翌年は新聞販売店に住み込んで働きながらの予備校通い。でも受験した東大には受かることなく、2次募集の私大に入学して、ダン研部(東大の舞踏研究会)に入り、夏の合宿などで文字通り血のにじむ練習をして、大会ではみごとに優勝。
最後(の章=第五章)は、それまでの貧乏ばなし・苦学物語から体育会系・スポ根ものに変わっている感じ? 家が貧しいゆえのほぼ義務的なアルバイトとは違って、大学の部活なら本当に嫌ならやめられるしね。でも、読んでいて最後、それまでのもやもや(?)がちょっとすっきりするかもしれない。貧乏に関しては、こういうことは較べてはいけないのかもしれないけれど、この人よりも3つ歳上なのかな、うちの母親(昭和26年生まれ)の小さいころの貧乏ばなし(私が小さいころによく聞かされた)のほうが、貧乏がひどい感じ(汗)。父親――私からいえばもう10年以上も前に亡くなった母方の祖父――があまり働かない人だったらしくて。高校は定時制で、そのときにはもう昼間ちゃんと働いていたらしい。――関係ない話はいいとして。
新聞販売店(M新聞)では最初、12人の学生(配達員)のために食事を作っているのだけれど、石油危機(1973年10月?)の影響で――考えてみれば新聞もトイレットペーパーと同じ(というか材料にもなる)紙だもんね――店が傾いて、女の子であるにもかかわらず自転車で新聞を配達することに。(雨ではなく)みぞれが降っているなかでの配達が描かれていて(涙)、泣ける人には泣けるかもしれない。予備校はS台。女子生徒はやっぱり少ない(少なかった)ようです。1クラス約300人のうち、どのクラスも女子は10人足らずとのこと。文系だけれど、東大志望――というより時代のせいかな、女子浪人生が少ないのは。あと、某有名予備校講師について書かれているので、引用しておきたい。
<恵子は人気のある講師の授業が楽しみで、特に英語の鈴木長十という講師は駿台の古だぬきで、生徒からは「長十」としたわれていた。/父子三代に渡って教えた生徒がいるというほどだから、かれこれ五十年は駿台で働いているのだろう。/>(pp.131-2)
いったん切らしてもらって。いま手もとにある情報によれば(*1)、1979年に72歳で亡くなっているらしいので、<五十年>は言いすぎかな。主人公がこの予備校に通っているのは、1954年生まれで高校卒業後2年目なので1974年? 単純計算をすれば、この講師は1974年には67歳。50年前は17歳? あ、でも、学生時代から教えていたとすれば、ぎりぎり50年“近く”にはなるか。――引用を続けると、
<「田舎で皆さん、一生懸命勉強してきたと思うが、ここは東京である。東京に来たからには、都会の洗練された英文解釈を身につけなくてはだめだ。この駿台は全国から優秀な人が集まって来ているが、田舎の人はよくわかるでしょ? 御飯を食べてゆくからには、田舎の高校教師のような教え方じゃ駄目なんですね。さあ今日も、一日も早く僕のような古だぬきとオサラバできるよう頑張って下さいよ」/と言った調子で、丸々と肥った小柄な長十は授業を始める。/毒舌をはくだけあって、彼の授業は一流のものだったが、日本の政治家や文部省に対して猛烈に攻撃し、それが生徒にバカ受けするものだから調子に乗ってしまい、授業も時々脱線した。>(p.132)
この先生をからかっている四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮社、2004→新潮文庫)を読んだあとに読むと、ちょっと心が洗われるというか。それはともかく、ご本人の“声”がどれくらい再現できているのか私にはわからないけれど、懐かしい人には懐かしいのではないかと思う。ちなみに何で知ったか忘れてしまったし、ものすごくうろ覚えなのだけれど、作者の若桜木虔(昭和22年生まれ、東大卒)も、予備校講師をしていたことがあるんだっけ? とりあえず、私には昔のジュニア小説の書き手というイメージしかない。あ、でも、私が読んだことがあるのは、わりと最近の、新書(ベスト新書?)で出ている小説の書き方本だけ(どこかに行ってしまったけれど、2冊持っていたような記憶が)。そう、読んでいるとき、やっぱり女性のことは女性作家が書いたほうがいいのではないか、とは何度か思ったけれどね(あと、この小説の場合には、東大卒ではない作家のほうがよくない? 主人公がその大学に落ちているんだもんね)。
*1 伊村元道「年表でみる英語教育50年」(『『英語教育』創刊50周年記念別冊 英語教育Fifty』大修館書店、2002、pp.97-109)のいちばん最後、「物故者一覧」(p.109)による。
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あまり関係ないけれど、四方田犬彦(1浪→東大)がS台に通っていたのは1971年で、坪内祐三(1浪→W大、もともと東大志望)が通っていたのが1977年だから、正木さんが通っていた1974年(推定)はちょうどそのあいだになる。小説家では、1956年生まれの田中康夫(1浪→一橋)が通っていたのが、1975年? この年には奥泉光(2浪→ICU)も通っている(浪人1年目)。1974年……有名な人で誰かいないかな?(ま、いいか)。ちなみに上京組は田中康夫だけで(長野県出身)、あとの3人は地元東京(奥泉光は埼玉)。
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