田山花袋 『田舎教師』
2010年8月6日 読書
もともと単行本書き下ろしらしい(左久良書房、明治42年=1909年)。いま手もとにあるのは、岩波文庫(第53刷改版、1980)。画像は新潮文庫。読みにくくはなかったけれど、なぜか読み終わるのにいつもよりも時間が…(涙)。
<日露戦争に従軍して帰国した花袋(1871-1930)は、故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった。多感な青年が貧しさ故に進学できず、代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ、残された日記をもとに、関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。>(表紙カバー・表より)
「従軍」というのは、博文館の記者として。作中に原杏花(はら・きょうか)として作者(を思わせる人物)も登場している。『少年世界』に『中学世界』に、あと『女学世界』とか、ちらちらと博文館の雑誌も出てくる(作者は自分好き?)。『むさし野』とか、新体詩な『藤村詩集』などの本も出てくる(仲間褒め?)。私は文学史的な知識をほとんど持ち合わせていないけれど、人によってはそういう点でも、ちょっと歴史(?)が感じられていいかもしれない。
内容は、ひと言でいえば“小学校代用教員もの”(そのままだな)。明治34年(=1901年)、熊谷の中学校を卒業した林清三は、進学していく同級生たちと同じように進学には憧れているけれど、家(両親と3人暮らし)が貧しいのでそれは叶わず、同級生の1人で、清三と同じく行田に家がある親友・加藤郁治の父親(郡視学)のコネ(というか)で、羽生の三田ヶ谷村弥勒(みろく)の小学校に勤めることに。最初のへんでは、その小学校に初めて訪れた場面などが描かれているけれど、清三が訪ねてみると、役場にも校長にも話が通っていなくて――こんなに詳しく書いてもしようがないな(汗)。場所はだいたい埼玉県の北部というか北東部というかで、もう群馬、栃木、茨城の3県の近く。中田(なかだ)って茨城だっけ? そこに通う途中、利根川を渡っていったん群馬に入ったりもしている(栃木にもだっけ?)。あ、熊谷、行田、羽生は「市」ではなくて「町」。
「田舎教師」と言われると、その教師も田舎者という感じを受けるかもしれないけれど、林くんはそれほど田舎者というわけではなくて(東京の一部以外はみな田舎、という考えもあるかもしれないけれど)、家はもともと足利(栃木県)で呉服店をしていて(当時は裕福)、その店が傾いて7歳(8歳?)のときに埼玉県熊谷へ、そしてさらに中学2年のときに夜逃げに近い形で、行田に引っ越してきたらしい。熊谷の中学に通うのに、行田からは3里もあるらしい。あ、徒歩通学です。(国語辞典を引いてみると、1里は約3.9kmとのこと。3里は約11.7kmか。)それはともかく、やっぱりお父さんの稼ぎが悪いと、貧乏のスパイラルから抜け出せないのかな?(うーん…)。お父さんのいまの職業は、偽の書画の売り歩き(そりゃ駄目だよな…)。お母さんは縫いものの内職をしている。きょうだいは兄も弟も亡くなっていて――そう、弟の話は出てくるけれど、お兄さんの話がぜんぜん出てこない(「清三」だから兄は2人?)。要するに清三くんは、いまは両親の唯一の子ども。そう、性格というか、お父さんもお母さんも優しい感じで(特にお母さんが)、あぁこの親だからこの息子か、みたいなことも思う。そういえば、登場人物にぜんぜん悪人がいなかったような。特に清三のもとによく遊びにくる、郵便局勤めの荻生(おぎゅう)君は、いいキャラクターだよね(?)。
「多感な青年」というか、詩とか音楽(オルガン好き)とか芸術の才能は少しあるようだけれど、何か「これこれがしたい!」といった強い意志はないようだ、この青年には。本文中に「薄志弱行」という言葉がなかったっけ?(…ちゃんと読み直さないとわからないな)。あ、文脈はともかく「消極的」という言葉なら使われている。恋愛に関しても、親友の郁治と同じで、北川の妹・美穂子(=「Artの君」)のことが好きなのだけれど、郁治には言い出せず、こっそりと身を引いてしまう感じだし。進学に関しても、友達たちを羨ましがって、漠然と憧れているだけ…ではどうにもならないというか。強い意志がないせいか、最後に死んでしまうにしても、読んでいて“挫折譚”(挫折物語)という感じはあまりしない(そうでもないかな)。ま、意志の強さに関してはぜんぜん人のことが言えないけれど(涙)。
ちょっと話を戻して、恋愛に関しては、清三くんは意外ともてている感じで――例えば、郁治には妹が2人いて、上の雪子から好かれている感じなのだけれど、その雪子との縁談(?)の話が来ても、頭の中でどちらかといえば妹の繁子のほうが好きだ、みたいなことを言っている。ま、「少女病」なんていう小説を書いている作者だから、ロ○コンなのはしかたがない?(最後の田原秀子にしてもね…)。というか、天然自然なものが好きなのかな、この青年は。もともと散歩好きで、最後のほう、同僚の関さんの影響で関心が“植物”に向かっているし。
さらに話が前後してしまうけれど、同級生たちは、進学に関してみんなわりとのんびりしている感じ? 卒業してからどうするかを考えている人が多いような。郁治(加藤)と小畑くんは、卒業の翌春の高等師範学校を(浦和で)受験して合格している。この年の9月から東京に。桜井くんはそれに落ちたらしく、浅草の工業学校に。で、師範学校というのは、卒業の年(の春)には受けられないの?(よくわからん)。あと、その前に卒業の年に(たぶん7月入試)、「第一(高等学校)」志望だった小島くんが「第四」(いまの金沢大学)に合格している。兼六園の絵葉書、ってベタだよな(汗)。で、現在の目線で見てゆいいつ“浪人生”と呼べそうな人物は、北川(もちろん兄のほう)だけかもしれない。卒業の年に士官学校(陸軍士官学校)を受けたらしい。――引用させてもらおう。小説の最初のほう、清三と郁治が北川家を訪れた場面、
<それこれする中[うち]に、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨の出た男で、手織の綿衣[わたいれ]に絣の羽織を着ていた。話の最中[さなか]にけたまましく声を立てて笑う癖がある。石川や清三などとはちがって、文学に対しては余り興味を持っていない。学校にいた頃は、有名な運動家で、ベースボールなどに懸けては級[クラス]の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志望で、卒業するとすぐに熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じて見たが、数学と英語とで失敗した。けれど余り失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、然るべき学校に入って、充分な準備をすると言っている。>(pp.60-1、[括弧]はルビ)
中学校は3月卒業じゃないの? <卒業するとすぐに>といっても、4月の入試に間に合うわけないよね?(よくわからんです)。英語と数学の試験については、もう少し具体的に書かれている。英語では<書取>のとき1度しか読んでくれなかった(注が必要か、書取(かきとり)というのは、いまのリスニング試験と似ているといえば似ているもので、先生が教室というか試験会場の前で英語を読みあげて、それを受験生が書き取るというもの)。数学は代数(の2次方程式)の問題が、ばかに難しかったそうだ(問題を見せてもらった清三くんも納得)。お父さんが漢学者らしいので、国語は得意なのかもしれない。<然るべき学校>というのは、予備校かそれに近いところ? でも、結局――小説のだいぶあとのほう、士官学校には受からずに(何度受験したのかな?)日露戦争中、一年志願兵になっている。ちなみに下の名前は「薫」らしい。(あ、↑引用中の石川というのは、家がお金持ちというか、青縞(あおじま)商の息子で、進学はする必要がない感じ。その石川が中心となって清三たちは『行田文学』という同人誌を発行している。)
“浪人”は関係ないけれど、清三もいちおう上野の音楽学校を受験している。で、落ちている。――これも、引用しておこうか。
<その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群がぞろぞろと出て来た。羽織袴もあれば洋服もある。廂[ひさし]髪や菫[すみれ]色の袴を穿いた女学生もある。校内からはピアノの音が緩やかに聞えた。/その群の中に詰襟の背広を着て、古い麦稈帽子を冠って、一人てくてくと塀際に寄って歩いて行く男があった。靴は埃に塗れて白く、毛繻子[けじゅす]の蝙蝠傘は褪めて羊羹色になっていた。それは田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。/>(p.174、[括弧]はルビ、以下同じ)
<その年>=明治36年(=1903年)。9月なので中学を卒業してから2年半後くらい?(あ、卒業が3月であれば)。ん? 「塀(へい)」という漢字が微妙に違うかな(ま、いいか。というか、昔の小説はめんどくさいな(涙))。清三くん、背広以外は、帽子にしても靴にしても傘にしても、ふだんのまま来ちゃった感じ?(でも、スーツに麦わら帽子ってなかなかグッドです(汗))。東京まで行くと“田舎者”という感じになってしまうか。――上の続きです、
<入っただけでも心が戦えるような天井の高い室[へや]、鬚の生えた肥った立派な体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴を穿いた女が後向になって頻りに妙[たえ]な音を立てていた。清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、何の役に立たなかったことをやがて知った。一生懸命で集めた歌曲の譜も全く徒労に属したのである。かれは初歩の試験に先ず失敗した。顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿が徒らに試験官の笑を買ったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。「駄目! 駄目!」と独で言ってかれは頭を振った。/公園のロハ台は樹の影で涼しかった。風がおりおり心地よく吹いて通った。かれは心を静めるために其処に横になった。(略)>(p.175)
現在でも通じる、努力や希望が無駄になった瞬間の心理というか。「ロハ台」というのは、ベンチのこと(横書きだとわかりにくいかも、「ロハ」=「只(ただ)」で「無料」の意味)。あと、「ピアノ」と「ピヤノ」みたいな表記のずれは原文のままです。そういえば、久米正雄「受験生の手記」(1918)では「ベンチ」という言葉が使われていたと思う。――それはそれとして、現在でも通じる、たそがれるのにベストな場所は、やっぱり公園のベンチなのかな? 清三はこのあと、お茶の水に寄宿しているらしい加藤(郁治)や小畑を訪ねるのはやめて、上野動物園で動物(ライオンなど)を見て、そば屋でそばを食べて帰郷している。――もう受験の話はいいや(汗)。主人公が散歩好きというか、道をよく歩いていて、風景描写もかなり多いし、意外と全体的に“ほのぼの小説”だったような?(そうでもないか、うーん…)。そういえば、「莞爾(にこにこ)」という言葉が何度か使われていたのが、ちょっと印象に残っている。でも、“病気小説”というか“結核文学”というか、最後には、遼陽の占領達成@日露戦争で町じゅうが騒々しい(おめでたくなっている)なか、肺を病んだ清三は、静かに息を引き取っている。
あとは余談です。作者の田山花袋は、館林市(いまは群馬県)出身らしい。地元県なのに私は、館林に3回くらいしか行ったことがないと思う。でも、たまたま<川向こうの上州の赤岩付近>(p.150)には1度だけ行ったことがある(あ、私にとっては川のこちら側)。近くに古本屋さんが1軒あって、そこに行くついでというかで。利根川沿いの土手に、かつて渡し場だったことを示す記念碑みたいなものが立っていたような?(かなりうろ覚え、どこかほかの場所と間違えているかも)。その日は雨が降ったあとか何かで、利根川の水も漫々としていてちょっとよかった覚えも。ほかに上州ということでは、弥勒の小学校にまで板倉沼で獲れた鮒(ふな)を、売りに来ている人がいる(pp.137-41、節番号でいえば「二十八」)。美味しいらしいです、上州の鮒や雑魚(ざっこ)は。あと、ちょっと個人的に驚いたのは、
<[(引用者注)行田の家から羽生へ帰る]途中で日が全く暮れて、さびしい田圃道を一人てくてく歩いて来ると、ふと擦違った人が、/「赤城山[あかぎやま]なァ、山火事だんべい」/と言って通った。/振返ると、暗い闇を通して、其処[そこら]あたりと覚しき処に果して火光が鮮かに照って見えた。山火事! 赤城山の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴[しるし]であった。>(p.118)
という箇所。ときどき「あかぎさん」と言う人がいるけれど、私のなかでは「あかぎやま」が常識。それはともかく、冬の到来の目印となるくらい、毎年のように山火事が?(本当に?)。(そういえば、何で読んだか忘れてしまったけれど、「あか」や「あさ」は語源的に「火」を意味して、火山であることが多い、みたいな説があったような。いずれにしても、とりあえず火事で赤くなるから「赤~」みたいなネーミングではないと思う。)あと、本文中で「赤城おろし」という言葉が使われているけれど(最後の最後にも出てくるけれど)、私は小さいころからあまり耳にしていない。やっぱり「空っ風」という言葉のほうがなじみがある。もちろん埼玉県北東部のことは知らないし、明治30年代のことも知らないけれど。
<日露戦争に従軍して帰国した花袋(1871-1930)は、故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった。多感な青年が貧しさ故に進学できず、代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ、残された日記をもとに、関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。>(表紙カバー・表より)
「従軍」というのは、博文館の記者として。作中に原杏花(はら・きょうか)として作者(を思わせる人物)も登場している。『少年世界』に『中学世界』に、あと『女学世界』とか、ちらちらと博文館の雑誌も出てくる(作者は自分好き?)。『むさし野』とか、新体詩な『藤村詩集』などの本も出てくる(仲間褒め?)。私は文学史的な知識をほとんど持ち合わせていないけれど、人によってはそういう点でも、ちょっと歴史(?)が感じられていいかもしれない。
内容は、ひと言でいえば“小学校代用教員もの”(そのままだな)。明治34年(=1901年)、熊谷の中学校を卒業した林清三は、進学していく同級生たちと同じように進学には憧れているけれど、家(両親と3人暮らし)が貧しいのでそれは叶わず、同級生の1人で、清三と同じく行田に家がある親友・加藤郁治の父親(郡視学)のコネ(というか)で、羽生の三田ヶ谷村弥勒(みろく)の小学校に勤めることに。最初のへんでは、その小学校に初めて訪れた場面などが描かれているけれど、清三が訪ねてみると、役場にも校長にも話が通っていなくて――こんなに詳しく書いてもしようがないな(汗)。場所はだいたい埼玉県の北部というか北東部というかで、もう群馬、栃木、茨城の3県の近く。中田(なかだ)って茨城だっけ? そこに通う途中、利根川を渡っていったん群馬に入ったりもしている(栃木にもだっけ?)。あ、熊谷、行田、羽生は「市」ではなくて「町」。
「田舎教師」と言われると、その教師も田舎者という感じを受けるかもしれないけれど、林くんはそれほど田舎者というわけではなくて(東京の一部以外はみな田舎、という考えもあるかもしれないけれど)、家はもともと足利(栃木県)で呉服店をしていて(当時は裕福)、その店が傾いて7歳(8歳?)のときに埼玉県熊谷へ、そしてさらに中学2年のときに夜逃げに近い形で、行田に引っ越してきたらしい。熊谷の中学に通うのに、行田からは3里もあるらしい。あ、徒歩通学です。(国語辞典を引いてみると、1里は約3.9kmとのこと。3里は約11.7kmか。)それはともかく、やっぱりお父さんの稼ぎが悪いと、貧乏のスパイラルから抜け出せないのかな?(うーん…)。お父さんのいまの職業は、偽の書画の売り歩き(そりゃ駄目だよな…)。お母さんは縫いものの内職をしている。きょうだいは兄も弟も亡くなっていて――そう、弟の話は出てくるけれど、お兄さんの話がぜんぜん出てこない(「清三」だから兄は2人?)。要するに清三くんは、いまは両親の唯一の子ども。そう、性格というか、お父さんもお母さんも優しい感じで(特にお母さんが)、あぁこの親だからこの息子か、みたいなことも思う。そういえば、登場人物にぜんぜん悪人がいなかったような。特に清三のもとによく遊びにくる、郵便局勤めの荻生(おぎゅう)君は、いいキャラクターだよね(?)。
「多感な青年」というか、詩とか音楽(オルガン好き)とか芸術の才能は少しあるようだけれど、何か「これこれがしたい!」といった強い意志はないようだ、この青年には。本文中に「薄志弱行」という言葉がなかったっけ?(…ちゃんと読み直さないとわからないな)。あ、文脈はともかく「消極的」という言葉なら使われている。恋愛に関しても、親友の郁治と同じで、北川の妹・美穂子(=「Artの君」)のことが好きなのだけれど、郁治には言い出せず、こっそりと身を引いてしまう感じだし。進学に関しても、友達たちを羨ましがって、漠然と憧れているだけ…ではどうにもならないというか。強い意志がないせいか、最後に死んでしまうにしても、読んでいて“挫折譚”(挫折物語)という感じはあまりしない(そうでもないかな)。ま、意志の強さに関してはぜんぜん人のことが言えないけれど(涙)。
ちょっと話を戻して、恋愛に関しては、清三くんは意外ともてている感じで――例えば、郁治には妹が2人いて、上の雪子から好かれている感じなのだけれど、その雪子との縁談(?)の話が来ても、頭の中でどちらかといえば妹の繁子のほうが好きだ、みたいなことを言っている。ま、「少女病」なんていう小説を書いている作者だから、ロ○コンなのはしかたがない?(最後の田原秀子にしてもね…)。というか、天然自然なものが好きなのかな、この青年は。もともと散歩好きで、最後のほう、同僚の関さんの影響で関心が“植物”に向かっているし。
さらに話が前後してしまうけれど、同級生たちは、進学に関してみんなわりとのんびりしている感じ? 卒業してからどうするかを考えている人が多いような。郁治(加藤)と小畑くんは、卒業の翌春の高等師範学校を(浦和で)受験して合格している。この年の9月から東京に。桜井くんはそれに落ちたらしく、浅草の工業学校に。で、師範学校というのは、卒業の年(の春)には受けられないの?(よくわからん)。あと、その前に卒業の年に(たぶん7月入試)、「第一(高等学校)」志望だった小島くんが「第四」(いまの金沢大学)に合格している。兼六園の絵葉書、ってベタだよな(汗)。で、現在の目線で見てゆいいつ“浪人生”と呼べそうな人物は、北川(もちろん兄のほう)だけかもしれない。卒業の年に士官学校(陸軍士官学校)を受けたらしい。――引用させてもらおう。小説の最初のほう、清三と郁治が北川家を訪れた場面、
<それこれする中[うち]に、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨の出た男で、手織の綿衣[わたいれ]に絣の羽織を着ていた。話の最中[さなか]にけたまましく声を立てて笑う癖がある。石川や清三などとはちがって、文学に対しては余り興味を持っていない。学校にいた頃は、有名な運動家で、ベースボールなどに懸けては級[クラス]の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志望で、卒業するとすぐに熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じて見たが、数学と英語とで失敗した。けれど余り失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、然るべき学校に入って、充分な準備をすると言っている。>(pp.60-1、[括弧]はルビ)
中学校は3月卒業じゃないの? <卒業するとすぐに>といっても、4月の入試に間に合うわけないよね?(よくわからんです)。英語と数学の試験については、もう少し具体的に書かれている。英語では<書取>のとき1度しか読んでくれなかった(注が必要か、書取(かきとり)というのは、いまのリスニング試験と似ているといえば似ているもので、先生が教室というか試験会場の前で英語を読みあげて、それを受験生が書き取るというもの)。数学は代数(の2次方程式)の問題が、ばかに難しかったそうだ(問題を見せてもらった清三くんも納得)。お父さんが漢学者らしいので、国語は得意なのかもしれない。<然るべき学校>というのは、予備校かそれに近いところ? でも、結局――小説のだいぶあとのほう、士官学校には受からずに(何度受験したのかな?)日露戦争中、一年志願兵になっている。ちなみに下の名前は「薫」らしい。(あ、↑引用中の石川というのは、家がお金持ちというか、青縞(あおじま)商の息子で、進学はする必要がない感じ。その石川が中心となって清三たちは『行田文学』という同人誌を発行している。)
“浪人”は関係ないけれど、清三もいちおう上野の音楽学校を受験している。で、落ちている。――これも、引用しておこうか。
<その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群がぞろぞろと出て来た。羽織袴もあれば洋服もある。廂[ひさし]髪や菫[すみれ]色の袴を穿いた女学生もある。校内からはピアノの音が緩やかに聞えた。/その群の中に詰襟の背広を着て、古い麦稈帽子を冠って、一人てくてくと塀際に寄って歩いて行く男があった。靴は埃に塗れて白く、毛繻子[けじゅす]の蝙蝠傘は褪めて羊羹色になっていた。それは田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。/>(p.174、[括弧]はルビ、以下同じ)
<その年>=明治36年(=1903年)。9月なので中学を卒業してから2年半後くらい?(あ、卒業が3月であれば)。ん? 「塀(へい)」という漢字が微妙に違うかな(ま、いいか。というか、昔の小説はめんどくさいな(涙))。清三くん、背広以外は、帽子にしても靴にしても傘にしても、ふだんのまま来ちゃった感じ?(でも、スーツに麦わら帽子ってなかなかグッドです(汗))。東京まで行くと“田舎者”という感じになってしまうか。――上の続きです、
<入っただけでも心が戦えるような天井の高い室[へや]、鬚の生えた肥った立派な体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴を穿いた女が後向になって頻りに妙[たえ]な音を立てていた。清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、何の役に立たなかったことをやがて知った。一生懸命で集めた歌曲の譜も全く徒労に属したのである。かれは初歩の試験に先ず失敗した。顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿が徒らに試験官の笑を買ったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。「駄目! 駄目!」と独で言ってかれは頭を振った。/公園のロハ台は樹の影で涼しかった。風がおりおり心地よく吹いて通った。かれは心を静めるために其処に横になった。(略)>(p.175)
現在でも通じる、努力や希望が無駄になった瞬間の心理というか。「ロハ台」というのは、ベンチのこと(横書きだとわかりにくいかも、「ロハ」=「只(ただ)」で「無料」の意味)。あと、「ピアノ」と「ピヤノ」みたいな表記のずれは原文のままです。そういえば、久米正雄「受験生の手記」(1918)では「ベンチ」という言葉が使われていたと思う。――それはそれとして、現在でも通じる、たそがれるのにベストな場所は、やっぱり公園のベンチなのかな? 清三はこのあと、お茶の水に寄宿しているらしい加藤(郁治)や小畑を訪ねるのはやめて、上野動物園で動物(ライオンなど)を見て、そば屋でそばを食べて帰郷している。――もう受験の話はいいや(汗)。主人公が散歩好きというか、道をよく歩いていて、風景描写もかなり多いし、意外と全体的に“ほのぼの小説”だったような?(そうでもないか、うーん…)。そういえば、「莞爾(にこにこ)」という言葉が何度か使われていたのが、ちょっと印象に残っている。でも、“病気小説”というか“結核文学”というか、最後には、遼陽の占領達成@日露戦争で町じゅうが騒々しい(おめでたくなっている)なか、肺を病んだ清三は、静かに息を引き取っている。
あとは余談です。作者の田山花袋は、館林市(いまは群馬県)出身らしい。地元県なのに私は、館林に3回くらいしか行ったことがないと思う。でも、たまたま<川向こうの上州の赤岩付近>(p.150)には1度だけ行ったことがある(あ、私にとっては川のこちら側)。近くに古本屋さんが1軒あって、そこに行くついでというかで。利根川沿いの土手に、かつて渡し場だったことを示す記念碑みたいなものが立っていたような?(かなりうろ覚え、どこかほかの場所と間違えているかも)。その日は雨が降ったあとか何かで、利根川の水も漫々としていてちょっとよかった覚えも。ほかに上州ということでは、弥勒の小学校にまで板倉沼で獲れた鮒(ふな)を、売りに来ている人がいる(pp.137-41、節番号でいえば「二十八」)。美味しいらしいです、上州の鮒や雑魚(ざっこ)は。あと、ちょっと個人的に驚いたのは、
<[(引用者注)行田の家から羽生へ帰る]途中で日が全く暮れて、さびしい田圃道を一人てくてく歩いて来ると、ふと擦違った人が、/「赤城山[あかぎやま]なァ、山火事だんべい」/と言って通った。/振返ると、暗い闇を通して、其処[そこら]あたりと覚しき処に果して火光が鮮かに照って見えた。山火事! 赤城山の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴[しるし]であった。>(p.118)
という箇所。ときどき「あかぎさん」と言う人がいるけれど、私のなかでは「あかぎやま」が常識。それはともかく、冬の到来の目印となるくらい、毎年のように山火事が?(本当に?)。(そういえば、何で読んだか忘れてしまったけれど、「あか」や「あさ」は語源的に「火」を意味して、火山であることが多い、みたいな説があったような。いずれにしても、とりあえず火事で赤くなるから「赤~」みたいなネーミングではないと思う。)あと、本文中で「赤城おろし」という言葉が使われているけれど(最後の最後にも出てくるけれど)、私は小さいころからあまり耳にしていない。やっぱり「空っ風」という言葉のほうがなじみがある。もちろん埼玉県北東部のことは知らないし、明治30年代のことも知らないけれど。
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