いま手もとにあるのは、小学館『昭和文学全集』の第14巻、そのpp.164-261(3段組み)。単行本は1977年に河出書房新社から、文庫本は集英社文庫、講談社文芸文庫から出ているようだ(ちゃんと調べたわけではないので、ほかからも出ているかもしれない。画像は文芸文庫版)。作者の自伝的な長篇小説で、小学生くらいのときから(あ、それ以前のことも書かれているか)中学4年を修了して北海道から上京、東京で書生暮らしをしているとき(関東大震災の翌年)までが描かれている。「明るい」とは言えないけれど、それほど暗い小説でもなかった…かな。けっこう『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)=性遍歴、性人生みたいにもなっている? でも、ちょっと思ったのは『クローバー』とか『グミの実』とか、何かもっと明るいタイトルを付けて、新潮文庫(ちょっと安いから)で文庫化して、『あすなろ物語』とか『しろばんば』とか(ともに井上靖)の隣りにでも置いておけば、間違って(?)けっこう売れるんじゃないかな、この小説? ←何が言いたいのかといえば、読んでいてけっこう面白かったです(汗)。

最近、たまたま“貧乏小説”をいくつか読んだのだけれど(私にとってはぜんぜん他人事ではないけれど)、いちど貧乏になってしまうと(それが常識かもしれないけれど)なかなか脱出ができないみたい、だよね。そもそもの生活困窮の原因は、やっぱりお父さんの稼ぎが悪かったり、それがまったく無かったり、のせいかな。お母さんや子どもたちが内職したり、新聞配達をしたりしても、収入はたかが知れている感じ。この人、中学卒業後にではなく在学中に小学校の代用教員をしているのだけれど、中学校の教頭の紹介で奨学金も受けているし、その1年間の家の暮らしはけっこう楽になったのではないか、と思うのだけれど、ぜんぜんそんな風には見えない感じ。(どうでもいいけれど、田山花袋『田舎教師』の月給は11円だったのに対して、こちらの田舎教師の月給は33円。明治34年=1901年(から3年くらい)→大正11年=1922年、学校や地域によっても違うかもしれないけれど、20年くらいで物価が3倍に?)あと、貧乏以外では“病気”もある。時代は明治の後期から大正――なかには、平成な現在なら簡単に治る病気もあるかもしれない。というか、けっこう時間をかけて読んだわりに今回もたいした感想がない(汗)。

浪人生もいちおう出てくる、万年浪人生1名。――その前に中学を卒業して…じゃなくて、4年を修了して上京するまでもあれこれけっこう大変なのだけれど、それは省略するとして、上京した「私」(=花田吉平、作者の名前からしてたぶん「きっぺい」とかではなく「よしへい」)は、中学時代から奨学金をもらっていた資産家(同郷というかの海運業者)の佐藤家に書生として住み込んで、進学を目指して神田の研数学館に通っている。その予備校では、前年(大正12年=1923年)の関東大震災で被災している友人もできたと言っている。でも、

 <去年の大震災にあうまでは、かなりな生活をしていたという話に、みなが落ちてゆくのは、意地わるく見ると嘘を言っているようでもあった。人間のたのしみのうちに、状態の変更ということがあり、わざわいを利用してその人たちは、あまい夢を見ているようであった。/町には仮設建築がたち並び、東京は復興しつつあった。>(p.241・上)

とも語っている。「かなりな生活」とそうではない生活とが、ご破算にされてしまうのが震災というもの? そこに嘘=夢が入り込む余地があるのかもしれない(いままでの「私」が、決して「かなりな生活」をしてこなかったことも考慮しないといけない)。ある意味、いま置かれている立場を忘れたいのが受験生というもの。もちろん死者、負傷者は多数出ているけれど、大地震=非日常的な出来事だから嘘もしかたがない?(よくわからないけれど)。――地震の話はそれくらいにして。家屋敷では主人(2代目社長)の歳の離れた弟の1人や娘に勉強を教えたり、あと、結局、肉体的な関係はないまま終わっているけれど、社長の奥さんとなんだかんだみたいな話もあったりする……けれど、それも措いておいて。「私」は脚気になったりして、いったん帰郷したりするのだけれど、再び上京。で、引用が長くなってしまう予感がするけれど、個人的に(私はいちおう教育学部の英語科卒)興味深い箇所がある。夏…ではなくてもう秋くらいの話か、

 <第一外国語学校に受験生の夏季講座があり、私は途中から受講することにした。元一高教授だった岡田実麿が英語の訳解を教えていた。いわゆる紳士といった風格があり、堂堂とした恰幅だった。/>(p.257・下)

いったん切らしてもらって。手もとにある、あまり当てにならない感じの文献(1つ)には、研数学館に英語科が設置されたのが大正8年(=1919年)、第一外国語学校が開校したのが大正13年(=1924年)とある。それが本当であるなら、「私」は(大正13年の話です)どうして英語を習うために、すでに数学を習っている研数学館ではなくて、出来たばかりの第一外国語学校へ? …ま、どうでもいいか。自伝的な小説だろうが小説(フィクション)には変わりがないし。あ、でも、夏期講習だけはほかの予備校に行ってみる、みたいなことはいまでもよくあることかな。

 <教室の椅子は、五、六人がいっしょに並んで掛け、机も、それにふさわしい長めのものだった。早いものから、前にすわるので、いろんな人と隣りあわせになった。/「君、『蒲団』という小説を読んだことがあるか」/鉄縁の度の強い眼鏡をかけた青年が私に言った。白絣の単衣をきて、くたびれた袴をはいていた。/「読んだよ。田山花袋の小説だろ」/「よく知っていたな。あのなかに出てくる女弟子横山芳子のモデル岡田美知代の兄が、口髭を生やした口を動かして、英語を訳している岡田実麿なんだ。小説に深入りして、モデルの穿鑿などにうつつを抜かすようになると、僕のような万年受験生になるよ。/私が、ひそかに考えたように、この青年は受験慣れした、落伍者の一人であった。/「癖のように、毎年、受けては落ち、受けては落ち、……」/歌うように言って、私を小莫迦にした笑いを浮かべた。>(p.257・下~p.258・上)

万年浪人生に絡まれている(?)。あ、いままで気にしていなかったけれど、この時点での「私」も、浪人生といえば浪人生(1浪)といえるかも(現役=四修のときにはどこも受験していなかったと思うけれど)。えーと、「蒲団」の初出は明治40年(=1907年)で、それが収録されている単行本(『花袋集』)は翌年の明治41年(=1908年)に出ているようだ。ということは、15年くらい前? 思うにモデル探しができるような小説なんて、世の中にそんなにないよね? 「小説を読みすぎないように」みたいなアドバイスをするならわかるけれど、この青年のロジックが個人的にはよくわからない。あと、「私」のなかでは「万年受験生」=「落伍者」なのか、うーん…。受験生をずっと続けていると、いやでも“受験周辺情報”に詳しくなってしまうよね?(ま、人によるか)。最後、「小莫迦にした笑い」――「私」を馬鹿にしているというよりは、たんなる自嘲という感じも。ちなみに「私」は最初、官立の高校に入ろうと思っていて(それで数学も勉強していたのだけれど)、成績のいいらしい弟(の修平)が小樽の高商を受けると言っていて、でも、なんだかんだで(?)私立でもいいや、みたいなことに。ただ、この小説ではそこまで(受験まで)は描かれていない。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
上の話とは関係がないことだし、どうでもいいことだけれど、大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003/角川文庫、2006)という本をぱらぱらと読み直していたら、次のような箇所があった。

 <明治三〇年代の花袋は「中学世界」という雑誌に編集者兼作家として関わっていました。『蒲団』という作品を書く以前の彼は「言文一致」体という文体や「文学」を若い読者に啓蒙する仕事をしていたのです。「言文一致」体や「文学」はそのようにして地方の読者に広がっていきました。(略)>(p.269、文庫版)

田山花袋が中学生向けの雑誌(?)『中学世界』(博文館)に関わっていたというのは本当?(関係ないけれど、『中学世界』は「受験雑誌」と呼ばれることが多いけれど、個人的には安易にその言葉は使いたくない)。

 <(略)[引用者注・『蒲団』の]芳子のモデルとされる岡田美知代は「文章世界」の読者で、実は花袋に弟子入りする前に男の筆名でこの雑誌に小説を投稿していたのですが、花袋は気づいていなかったようです。>(p.270、同上)

いま手もとにある岩波文庫『蒲団・一兵卒』(改版、2002)の後ろに付いている作者の略年譜を見てみると、岡田美知代の入門(最初の上京)が明治37年(=1904年)で、雑誌『文章世界』(田山花袋主筆、博文館)の創刊はそれよりあとの明治39年(=1906年)となっている。――ちゃんと調べないとわからないけれど、大塚英志のほうが何か(どこか)勘違いしているのではないかと思う。(昔の、事実関係に関しては、ちょっとしたことであっても、1つの資料に当たるだけでなくて、いくつかの資料を組み合わせて考えてみないと、ほんと駄目な感じ。間違ってしまいやすい。1次資料に簡単に当たれるような環境に自分がいれば、話は別かもしれないけれど。)
 

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