いま手もとにあるのは、図書館から借りてきた小学館の『昭和文学全集』第7巻。そのpp.969-93(3段組み)。初出は、『群像』の1964年11月号とのこと。ぜんぜん期待していなかったけれど、読んでみたら(読んでいるあいだは)意外と面白かったです。「私」は昨年、母親を亡くしていて、その母親のことを含めて、幼い頃のことから現在にいたるまでのことを、あれこれと思い出している小説。もちろん(?)作者の自伝的な小説。だいたい時系列に(年齢に沿って)語られているけれど、けっこう行ったり来たりもしている。出てくる親族が意外と多くて、私は頭のなかでちょっとごっちゃごちゃになる感じだったかな。

この前読んだ小説、和田芳恵『暗い流れ』のお父さんは、雪道での自動車チェーンみたいなものの特許を取ろうとしていたり、皇室アルバムを売り歩いたり、郷土史の写真集の予約販売みたいなことをしようとしたりしていたけれど、こちらのお父さん――歌人で、謡本を出版したり、引き継いだ(「私」の)母方の紡績工場をつぶしてしまったり――も、

 <そうした雲を掴むような話の相棒は、いつも父の義弟になる国文学者の松川の叔父で、自動製本機を考案して、試作品を作ってみたり、自動車の車輪につける泥除けの特許を取ったりしていた。/まだその頃、どの新聞社でも手掛けていなかった年鑑の発行は、予約募集を相当大袈裟にやってみたが、僅かに百部内外の申込みで、中止したそうである。>(p.957・中)

という感じ。『暗い流れ』のお父さんよりも、全体的にものになっている感じだけれど、時代が近いせいなのか、目の付けどころというか、やっていることの発想がちょっと似ている。こちらのお父さんは、でも、一家が暮らしている(読んでいると、引越しが多いけれど)場所がずっと東京であるし、経済的にはどうなっているのやら、ぜんぜん貧乏な感じはしないし(家にお手伝いさんだけでなく一高生の書生=原口さんがいたり)、あと、歌人=文化人で、やっぱり知的で頭がいいのかもしれない。――お父さんの話はともかく。そう、私が田舎者のせいか、「私」=東京の人という感じがけっこうする。やぼったさが少なめというか。そういえば、性的なことはぜんぜん語られていない。あ、病気はしている(入院している)。そうそう、「私」ではないけれど、西森さんという書生(私立大学に通っていたけれど、女中たちが一高生の原口さんと区別するので、頑張って一高生に)が脚気になって郷里に帰って亡くなった、みたいな挿話というかがある(p.983・下)。脚気(かっけ)って死に至る病だったのか、いままで知らなかったです(『暗い流れ』の「私」は夏みかんを食べているくらいな治療だけれど、よく脚気が治ったな。あ、治ったとは書かれていないか)。

「私」は中学卒業後、慶応(の文科)に入るまでに2年浪人している(作中で「浪人」という言葉も使われている)。まず、四修で受けたのは、東京高校の高等科(いまの何大学?)とのこと。中学5年のときと翌年(1浪のとき)に受けたところは――たぶん書かれていないと思う。具体的にどこの学校かわからないけれど、中学5年のときの秋には、<神田の受験講習会に通った>(p.981・中)とある。受験生時代にどこで何をしたかは、わりと書かれているけれど、ちゃんと勉強はしていたのかな、この人?(それがよくわからない)。浪人2年目(何年だっけ? ――作者の年譜をカンニングしたほうが早い(汗)、大正15年=1926年のことか)の最初のころは、

 <浪人生活二年目は、私が出たカトリックの中学とは、対照的な校風の府立四中の補修科にいた。/始業時間の合図に、ラッパが鳴った。生徒は脚に、ゲートルを捲いて登校した。カトリックの学校は、女人禁制だったが、この府立の学校の教員室には、気性の激しい女の先生がいたりした。/補修科と云っても、そこへ通うには、相当な競争率の試験があった。だが、私にはさし当って、無用な、英語の時間があまりの多いのを口実に、一学期だけでそこをよした。>(p.982・上)

とのこと。注が必要かもしれない、「府立四中」というのは、現在の都立戸山高校。「補修科」(「補習科」という表記のほうがふつう)というのは、そこの学校の先生が卒業生(その学校以外の卒業生も可)に受験の指導をする場所というか授業というか。絶滅すんぜんなようだけれど、全国的にはいまでも設けている高校はあるらしい(授業料は予備校よりも安かったりする)。あ、ちょっと注意というか、これは、高女(高等女学校)の補習科とは別もの。あと、本当なのかどうなのか、府立四中の補習科が独立してできたものが、城北高等補習学校(=城北予備校、作家では安岡章太郎や丸谷才一が通っている)だと書かれている本もある。あまり関係ないけれど、植草甚一は、同じ年(1926年)に府立五中(現在の都立小石川高校)の補習科に通っている(参考文献:津野海太郎『したくないことはしない――植草甚一の青春』)。やっぱり府立一中(現在の都立日比谷高校)の補習科がいちばん人気で、いちばん競争率が高かったのではないか、と思うのだけれど、よくわからない(手もとに何も資料がない)。――話を戻して、えーと、↑のあと「私」は親戚や知人がいる場所に遠出したりしているけれど、最終的には(?)まず、官立の入試は「小さい叔母」が結婚して暮らしている静岡で受験している。

 <二校制という制度が出来、一つところで、二つの高等学校を受けられることになったので、静岡と、京都の三高を選んだ。私は東京を離れて、学校生活をしたく思っていた。/(5段落省略)/しかし静岡で試験をすませると、東京へ戻って慶応の文科を受けた。浪人生活の屈辱に、もうこれ以上、堪えられぬと思ったからだ。結果は、慶応に這入ったが、三高も静岡も駄目だった。>(p.983・中~下)

浪人生活を屈辱に思っている具体的な話が、前後を探してもどこにも書かれていないような? ちょっと唐突かもしれない。注はいらないかもしれないけれど、一応、「静岡」はもちろん静岡高校、「三高」はいまでいえば京都大学。「慶応」というのは、慶応義塾大学の――いきなり大学(の本科)には入れないから――もちろん予科のこと。あ、文学で(人生を?)失敗しているお父さんは、息子には官立の高校を出て外交官になってもらいたかったらしい。

話が前後してしまうけれど、「私」の家は、関東大震災(大正12年=1923年)で焼けてしまったらしい(翌年、引っ越している)。でも、被災の状況についてはぜんぜん書かれていない。一方(?)戦争中、東京の最後の大空襲のさい、奥さんと一緒に逃げている場面はちょっと詳しく書かれている(2人は九死に一生を得ている)。
 

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