清岡卓行 「アカシヤの大連」
2010年8月8日 読書
この小説もだいぶ前から読まねば、という感じで自分に対する宿題みたいになっていたので、とりあえず読めてよかったです。いま手もとにあるのは、講談社文庫から出ている同名の本(1973年)。初出は『群像』1969年12月号らしい。同名の単行本は講談社から1970年に出ているようだけれど、この文庫版は単行本をそのまま文庫化したものではなく、ほかの単行本との合本になっているっぽい(よくわからないけれど)。文庫はあと、例によって(?)講談社文芸文庫からも出ている模様(画像はこれ)。
読めてよかったのだけれど、でも、純文学系の小説、今回も読んでいてぜんぜん内容が頭に入ってこなくて(涙)、無理やり読了という感じ。なんていうか、詩的で思索的で(それほどでもないとは思うけれど)ちょっと自己陶酔的な、回想的エッセイ風な自伝的小説というか。読んでいるとちょっといい具合に“酔える”かもしれない。青春論みたいな話とか、<憂鬱の哲学>とか、「旅とは?」みたいな話とか、個人的にはもう少し若いときに読みたかったな、とは思う。あ、でも主人公の「彼」は、もう40歳を過ぎている…どころか、50歳に近いのか。若いやね、精神的に。――小説の感想は以上で終わりです(汗)。
<故知れぬ憂鬱、抑え難い衝動のさなかに「甘美な死」への誘惑から「芳潤な生」へと導いた妻との出会い、そして父と子の細やかな交流の襞々に詩と散文とを織りまぜた独自の世界――「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「フルートとオーボエ」「萌黄の時間」「鯨もいる秋の空」の五部作に一つの青春とその後の生き様を追う。>(カバー背より)
最初に入った高校は旅順の高校らしいけれど、そこには大連から通っていたのかな?(それとも寮生活とか?)。小学校の遠足で旅順に行った、みたいなことが書かれているから、通えば通える距離なのかな?(地理的なことにも歴史的なことにも疎すぎる、自分(涙))。ま、細かいことはいいとして。「彼」は生まれてから17歳くらいまで大連で暮らし、そのあと旅順の高校を中退して東京の高校(たぶん一高)に入り直すのだけれど、高校生のときの夏休みにも帰郷したり、大学1年のときにも友人(たち)といっしょに郷里に戻って――それが終戦の5ヶ月ほど前で、それから3年くらいを大連で過ごしている(そして引き揚げ)。小説の最後のへんが(時系列に書かれている小説ではないのだけれど)大連での奥さんと出会い。
高校は浪人(1浪)というより、翌年再受験という感じかもしれないけれど、本の後ろについている年譜(作者自筆)には、<東京に出て浪人生活>とある(昭和15年=1940年、18歳のところ)。今日も引用が多くなってしまう予感がするけれど、引用させてもらうとして(すみません)、
<彼は十七歳である。大連から門司に向う<ばいかる丸>は、秋の夜の玄海灘にさしかかっている。(略)/彼の心は、少年らしい感傷に貫かれている。旅順に出来たばかりの高校に入学した彼は、三箇月ほどで自分からそこを退学してしまった。一口で言えば、おこがましくも、文学をやりたいためである。もう少し具体的に言えば、彼は恥かしがるかもしれないが、ランボーを原語で読む勉強ができる高校にかわりたいためである。それで、東京にある予備校に向かおうとしている彼は、まるで父母とふるさとを、無情に捨てたかのような胸の疼きを覚えているのだ。/今日の昼、彼は生れて始めて煙草を吸った。(略)はじめて母から離れて旅をする海の眩ゆさのように、その煙草のけむりは、いがらっぽく喉にしみた。>(pp.88-9)
後ろの年譜によれば、作者は6月29日生まれらしいから、4月から3ヶ月……ということは、18歳にかなり近い17歳かもしれない。高校をやめた理由は、同じ年譜には<軍国調になじめず>ともある。手もとにある作者の別の年譜(自筆)によれば、作者が通っていた予備校は、城北高等補習学校らしい。現実と小説の境を無視してよければ、上の<東京にある予備校>というのは、その予備校ということになる。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
いちどまとめておきたかったのだけれど、城北高等補習学校(城北予備校)に通っていた小説家は、
昭和13年(1938年) 安岡章太郎、古山高麗雄
昭和14年(1939年) 安岡、古山(→三高)
昭和15年(1940年) 安岡(→慶応予科)、清岡卓行(→一高)
昭和16年(1941年)
昭和17年(1942年)
昭和18年(1943年) 丸谷才一(→新潟)
こんな感じでいい? 少ないな、探せばもっとたくさんいそう。作家以外では、だいぶ前、高田里惠子『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書、2008)という本を読んでいて知ったのだけれど、世間を賑わせた有名な犯罪者というか、「光クラブ」の東大生社長・山崎晃嗣は、昭和15年(1940年)に通っていたようだ(1浪→一高)。逆にまったくの無名な人というか、青木正美『自己中心の文学 日記が語る明治・大正・昭和』(博文館新社、2008)という本の「第三部 無名人の日記は語る」では、6人の無名な人の日記が取りあげられているのだけれど(著者は古本屋さんで日記を収集しているらしい)、その5人目の人は、昭和17年(1942年)の8月25日にその予備校の入学試験を受けて落ちている。ほかには、沢野ひとし『転校生』(角川文庫)によれば、肩書きは文芸評論家でいい? 香山二三郎(1浪→W大)も、1974年に通っていたらしい。ちなみに、開校がいつなのかは私にはわからないのだけれど、廃校は1987年と書かれている本がある(あ、私が浪人していたときにはもうなかったのか)。
読めてよかったのだけれど、でも、純文学系の小説、今回も読んでいてぜんぜん内容が頭に入ってこなくて(涙)、無理やり読了という感じ。なんていうか、詩的で思索的で(それほどでもないとは思うけれど)ちょっと自己陶酔的な、回想的エッセイ風な自伝的小説というか。読んでいるとちょっといい具合に“酔える”かもしれない。青春論みたいな話とか、<憂鬱の哲学>とか、「旅とは?」みたいな話とか、個人的にはもう少し若いときに読みたかったな、とは思う。あ、でも主人公の「彼」は、もう40歳を過ぎている…どころか、50歳に近いのか。若いやね、精神的に。――小説の感想は以上で終わりです(汗)。
<故知れぬ憂鬱、抑え難い衝動のさなかに「甘美な死」への誘惑から「芳潤な生」へと導いた妻との出会い、そして父と子の細やかな交流の襞々に詩と散文とを織りまぜた独自の世界――「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「フルートとオーボエ」「萌黄の時間」「鯨もいる秋の空」の五部作に一つの青春とその後の生き様を追う。>(カバー背より)
最初に入った高校は旅順の高校らしいけれど、そこには大連から通っていたのかな?(それとも寮生活とか?)。小学校の遠足で旅順に行った、みたいなことが書かれているから、通えば通える距離なのかな?(地理的なことにも歴史的なことにも疎すぎる、自分(涙))。ま、細かいことはいいとして。「彼」は生まれてから17歳くらいまで大連で暮らし、そのあと旅順の高校を中退して東京の高校(たぶん一高)に入り直すのだけれど、高校生のときの夏休みにも帰郷したり、大学1年のときにも友人(たち)といっしょに郷里に戻って――それが終戦の5ヶ月ほど前で、それから3年くらいを大連で過ごしている(そして引き揚げ)。小説の最後のへんが(時系列に書かれている小説ではないのだけれど)大連での奥さんと出会い。
高校は浪人(1浪)というより、翌年再受験という感じかもしれないけれど、本の後ろについている年譜(作者自筆)には、<東京に出て浪人生活>とある(昭和15年=1940年、18歳のところ)。今日も引用が多くなってしまう予感がするけれど、引用させてもらうとして(すみません)、
<彼は十七歳である。大連から門司に向う<ばいかる丸>は、秋の夜の玄海灘にさしかかっている。(略)/彼の心は、少年らしい感傷に貫かれている。旅順に出来たばかりの高校に入学した彼は、三箇月ほどで自分からそこを退学してしまった。一口で言えば、おこがましくも、文学をやりたいためである。もう少し具体的に言えば、彼は恥かしがるかもしれないが、ランボーを原語で読む勉強ができる高校にかわりたいためである。それで、東京にある予備校に向かおうとしている彼は、まるで父母とふるさとを、無情に捨てたかのような胸の疼きを覚えているのだ。/今日の昼、彼は生れて始めて煙草を吸った。(略)はじめて母から離れて旅をする海の眩ゆさのように、その煙草のけむりは、いがらっぽく喉にしみた。>(pp.88-9)
後ろの年譜によれば、作者は6月29日生まれらしいから、4月から3ヶ月……ということは、18歳にかなり近い17歳かもしれない。高校をやめた理由は、同じ年譜には<軍国調になじめず>ともある。手もとにある作者の別の年譜(自筆)によれば、作者が通っていた予備校は、城北高等補習学校らしい。現実と小説の境を無視してよければ、上の<東京にある予備校>というのは、その予備校ということになる。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
いちどまとめておきたかったのだけれど、城北高等補習学校(城北予備校)に通っていた小説家は、
昭和13年(1938年) 安岡章太郎、古山高麗雄
昭和14年(1939年) 安岡、古山(→三高)
昭和15年(1940年) 安岡(→慶応予科)、清岡卓行(→一高)
昭和16年(1941年)
昭和17年(1942年)
昭和18年(1943年) 丸谷才一(→新潟)
こんな感じでいい? 少ないな、探せばもっとたくさんいそう。作家以外では、だいぶ前、高田里惠子『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書、2008)という本を読んでいて知ったのだけれど、世間を賑わせた有名な犯罪者というか、「光クラブ」の東大生社長・山崎晃嗣は、昭和15年(1940年)に通っていたようだ(1浪→一高)。逆にまったくの無名な人というか、青木正美『自己中心の文学 日記が語る明治・大正・昭和』(博文館新社、2008)という本の「第三部 無名人の日記は語る」では、6人の無名な人の日記が取りあげられているのだけれど(著者は古本屋さんで日記を収集しているらしい)、その5人目の人は、昭和17年(1942年)の8月25日にその予備校の入学試験を受けて落ちている。ほかには、沢野ひとし『転校生』(角川文庫)によれば、肩書きは文芸評論家でいい? 香山二三郎(1浪→W大)も、1974年に通っていたらしい。ちなみに、開校がいつなのかは私にはわからないのだけれど、廃校は1987年と書かれている本がある(あ、私が浪人していたときにはもうなかったのか)。
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