新潮社、2010。どこが面白いのやらさっぱりわからなかったです(涙)。なんていうか登場人物たちにも、小説じたいにも中身がなさすぎるというか。「中身」とは何か? ――言っている自分にもよくわからないけれど(汗)。どこかに「Aではない。Bではなかった。ただCでしかなかった。Cだけであった」みたいなセンテンスがなかったっけ? 「否定の言辞が多い」みたいなフレーズもどこかに使われていた気がするけれど、この小説じたい全体的に否定文が多いよね?(それほどでもないか…)。ほかにも具体的に気になったのは(付箋を貼っていないのでどこだかわからないけれど)、いったん「AはAである」と言って、その次に「AはAでしかなかった」と言い換えている箇所がどこかにあったと思う(「AはAである。AはAでしかなかった」)。なんていうか、ある(在る、有る)物や事のことを、ある、とだけ言ってくれれば結構です、個人的には。

いちばんの主人公(?)は、砺波文三・59歳(のち60歳、明治41年生まれ)で、小説は奥さんの十三回忌が終わって家に戻った場面から、いちおう始まっているのだけれど、とりあえず、昔の60歳前後の人は、やっぱりいまの人よりも老いている(枯れている)感じ?(作者の橋本治は1948年3月生まれで、もう60歳を過ぎている)。それはそれとして、今回も早めに本題(?)に。富山県から上京して居候している甥(妹の子)・国分秀和について。最初、高校3年で翌年、東大を受験して(落ちて)浪人生に。砺波家には高校1年のときからお世話になっている。――ちょっと疑問に思うに、1967年(高3)や1968年(1浪)頃、こんな状況・雰囲気の受験生は東京にはたくさんいたのかな?(うーん…)。若干明るすぎるのがひっかかるな…。日本海側で雪の降る富山県出身。東京の高校を選んだ理由が、坊主頭が嫌で長髪にしたいから(!)。ま、東京じゅうを探せば秀和のような受験生もたくさんいたのかも。ただ、読んでいると個人的には、秀和くん、子どもの頃から東京出身&東京在住な感じがすごくする(“半東京の人”みたいな設定は『桃尻娘』シリーズの、高崎市出身・醒井さんと同じ)。あとは、いわゆる“団塊の世代”の受験に関してとか、学生運動の影響で1969年に東大が入試を中止したこととか……なんていうか別に新発見(?)もなかったかな。

(あまり関係ないけれど、夏目房之介『青春マンガ列伝』(マガジンハウス、1997。たしか少し改題されてちくま文庫に収録されていたと思う)という本で、青柳裕介「いきぬき」(『COM』1967年9月号)という漫画が取りあげられているのだけれど(私は未読です)、それを思い出した。主人公は2浪の地方出身者だそうで、内容も絵柄もすごく暗そうな感じ。――何が“現実”なのか、まだ生まれてすらいなかった私には、結局のところよくわからないけれど。)

[追記]その後、文庫化(新潮文庫、2013.1)。
 

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