中野孝次 『わが少年記』
2010年11月21日 読書
彌生書房、1996。手もとにあるのは図書館で借りてきた本。ひと言でいえば、なんだろう…、小説風の自伝的(体験的)教育エッセイ、という感じかな(別に無理やりひと言にまとめなくてもよかったか(汗))。著者=「わたし」が、過去の自分を「耕次」(苗字は中原)と呼んで、その「彼」が生まれてから旧制高校を卒業するまでに体験した“教育”(もろもろの学校だけでなく独学や軍隊でのそれも含まれる)などについて、ほぼ時系列に沿って語っている本。初出は――後ろのほうから引用してしまえば、<本書は、「総合教育技術」(小学館)に一九八七年四月から一九八八年三月にかけて連載された作品「心のかじけざるように」に一部加筆したものです。>(p.222)とのこと。私は一度も見たことがないけれど、学校の先生とか向けの雑誌? 感想というかは、とりあえず以前読んだことのある、この著者の自伝的な小説『麦熟るる日に』(河出文庫ほか)よりはわかりやすくてよかったです。
「浪人生」「浪人生活」という言葉がはっきりと使われているけれど、例によって(?)“「浪人」と言ってもいいのかいけないのか問題”がなくもない感じかな…。とりあえずその「浪人」にいたるまでを説明したほうがいいか。耕次くんは、1925年(大正14年)1月、千葉県市川市に生まれる。翌年から昭和なので人生がほぼ昭和の歴史と重なる。9つ歳上の兄が1人(のちに弟や妹も)。父親は栃木県出身で大工さん(のちに棟梁に)。えーと、時間をだいぶ飛ばして――小学校の尋常科を卒業する年、中学校への進学を希望するけれど、父親から「職人の子に学問はいらない」と反対されて断念、高等科(2年間ある)へ進学。卒業後は、いったん横須賀に新しくできた海軍航空廠技手養成所(これも学校で寄宿舎生活)に入るけれど、前期試験のあと退学してしまう。←これが1939年(昭和14年)・14歳のときの話。その後は、実家に戻って父親の仕事を手伝いながら(大工見習いと同じような仕事をしながら)「高検」の合格を目指して、勉強をする。最初は「専検」を受けようとしていたのだけれど――そう、「専検」と「高検」の違いがわかりやすく書かれていたので、ちょっと引用しておきたい。
<秋になって耕次は受験雑誌で、専検(専門学校入学者資格検定試験)とは別に、高検(高等学校入学者資格検定試験)という制度があるのを知った。専検が中学校五年卒業者と同じ資格をうる試験なら、高検は四年修了者と同じ資格をうる試験で、前者が学科ごとに一つずつ試験をうけるのにたいして、後者は全部をひとまとめにうけられるのが違っている。>(p.114)
「秋」というのは1941年(昭和16年)の秋(でいい?)。で、耕次は、翌年(1942年=昭和17年)の3月下旬に「高検」を受験して(*1)合格する。それからは高校を受験するために予備校に通い始める。――ここも引用させてもらえば、
<耕次は受験雑誌であらかじめ見当をつけておいた予備校に手続きをとり、四月の半ばから通い出した。それは歴史のある受験雑誌の出版社がその春開校したばかりの予備校で(略)。(略)講師には受験雑誌でも有名ないい先生をそろえていた。>(p.121)
といった感じ(?)。この本には予備校の名前は書かれていないけれど、中野孝次のある年譜には「英通社予備校」と書かれている。でも(よく覚えていないけれど)どこかで見たことがある本人による年譜(自筆年譜)には、<「英数学院」と言ったか>と書かれていたような記憶がある。本文でも「学院」「学院」と言っていて、わからないけれど(ちゃんと調べればわかりそうだけれど)とりあえず折衷しておけば、「英通学院」といった感じの名前かな?(いいかげんなことを言うと怒られそうだな、ちゃんとした人から(涙))(*2)。その予備校には1年では受からずに結局、2年通っている。1年目は松本高校(長野)に不合格、2年目は第五高等学校(現在でいえば熊本大学?)を受験して合格。この2年目の高校入試=1944年(昭和19年)は、試験科目として英語がなかったらしい(もちろん戦争の影響)。
“浪人中”の話で、読みどころ(注目ポイントというか)はけっこうあったと思うのだけれど、えーと、それまで独学していた耕次が、予備校に通うようになってから成績が上がっていく様子とか、あと時代は戦時下、ほかの予備校生=予備校仲間(耕次とは違って普通に中学校を卒業している普通の(?)浪人生が多いはず)についての話とか。ほかには、予備校講師に関して、頼まれたからしかたがなく教えてやっているんだという態度の有名な英文学者よりも、熱心に熱弁をふるって生徒に知識を伝えようとする万年予備校講師のほうが、生徒には人気があった、みたいな話――には(10年以上も前の、自分の予備校生時代を振り返ってみたりして)ちょっと納得させられる。他人事だけれど、予備校にかぎらず先生(教師、講師)には“熱心さ”は必要だよね。ま、空回りしてしまう場合もあるかもしれないけれど。
なんだか今日も中身のない文章を書いちゃってるな…(涙)。(↑気が向いたらそっくり書き直しておきたい。)
*1 よく知らないけれど、作家では井上光晴がこれくらいの時期に「専検」を受験していたと思う。買ったまま積ん読状態だけれど、小説では「地の群れ」の冒頭とか、あと「虚構のクレーン」でも、専検受験について触れられている。文芸評論家・柄谷行人は文芸時評で(のちに『麦熟るる日に』に収録される中野孝次「雪ふる年よ」を取りあげたさいに)椎名麟三について書かれた評論(=佐藤忠男「椎名麟三論」)を持ち出しているけれど(あ、いま手もとにあるのは『反文学論』講談社学術文庫、1991)、椎名麟三って時代も違うし(明治44年生まれ)、やっぱり中学校にいちど通っている(中学3年で中退、のちに専検受験)のと、1年も通わせてもらえずに小学校高等科卒(で、高検受験)では、思うに両者の置かれている状況はぜんぜん違うのではないか。
*2 菅原亮芳編『受験・進学・学校――近代日本教育雑誌にみる情報の研究』(学文社、2008)という本の後ろのほう、「資料編」の最初の表、「1 戦前日本における受験雑誌一覧および出版点数」(小熊伸一)を見ると、1934年に英語通信社というところから『進学指導』と『受験戦』という2つの雑誌が創刊されているようだ。――これらはぜんぜん関係ないかな?(汗)。創刊されてから10年にも達していないのでは(1942年-1934年=8年?)、まだまだ<歴史のある受験雑誌>とは言えないしな(そんなこともないか)。あ、<歴史のある受験雑誌の出版社>って、雑誌ではなくて出版社に歴史が?(うーん…)。一般に(?)「~通信社」という名前のところは、そもそも通信添削をしている出版社なのかな?
[追記(2011/04/20)]山田克己『予備校 不屈の教育者』(育文社、2009)という本によれば、中野孝次が通っていた予備校は「進学練成学院」といったらしい。というか、やっと名前がわかったよ(涙)。しかも、びっくりなのは、『わが少年記』に出てくる<数学の三井先生>という人に、吉村昭も「正修英語学校」(正修予備校)で習っているらしい。気づかなかったけれど、中野は戦中、吉村は戦後でも、考えてみれば時期は近いんだよね。
・中野孝次
1942年(昭和17年) 高検合格。予備校に通い始める。
1943年(昭和18年) 高校(松高?)不合格、また予備校に通う。
1944年(昭和19年) 高校(五高)合格。
・吉村昭
1945年(昭和20年) 中学卒業、進学の手続きをするも(無試験・内申書のみ)合格通知は届かず。終戦後、予備校に通う。
1946年(昭和21年) 高校(六高)不合格、また予備校に通う。
1947年(昭和22年) 官立高校はあきらめ、学習院高等科に。
「浪人生」「浪人生活」という言葉がはっきりと使われているけれど、例によって(?)“「浪人」と言ってもいいのかいけないのか問題”がなくもない感じかな…。とりあえずその「浪人」にいたるまでを説明したほうがいいか。耕次くんは、1925年(大正14年)1月、千葉県市川市に生まれる。翌年から昭和なので人生がほぼ昭和の歴史と重なる。9つ歳上の兄が1人(のちに弟や妹も)。父親は栃木県出身で大工さん(のちに棟梁に)。えーと、時間をだいぶ飛ばして――小学校の尋常科を卒業する年、中学校への進学を希望するけれど、父親から「職人の子に学問はいらない」と反対されて断念、高等科(2年間ある)へ進学。卒業後は、いったん横須賀に新しくできた海軍航空廠技手養成所(これも学校で寄宿舎生活)に入るけれど、前期試験のあと退学してしまう。←これが1939年(昭和14年)・14歳のときの話。その後は、実家に戻って父親の仕事を手伝いながら(大工見習いと同じような仕事をしながら)「高検」の合格を目指して、勉強をする。最初は「専検」を受けようとしていたのだけれど――そう、「専検」と「高検」の違いがわかりやすく書かれていたので、ちょっと引用しておきたい。
<秋になって耕次は受験雑誌で、専検(専門学校入学者資格検定試験)とは別に、高検(高等学校入学者資格検定試験)という制度があるのを知った。専検が中学校五年卒業者と同じ資格をうる試験なら、高検は四年修了者と同じ資格をうる試験で、前者が学科ごとに一つずつ試験をうけるのにたいして、後者は全部をひとまとめにうけられるのが違っている。>(p.114)
「秋」というのは1941年(昭和16年)の秋(でいい?)。で、耕次は、翌年(1942年=昭和17年)の3月下旬に「高検」を受験して(*1)合格する。それからは高校を受験するために予備校に通い始める。――ここも引用させてもらえば、
<耕次は受験雑誌であらかじめ見当をつけておいた予備校に手続きをとり、四月の半ばから通い出した。それは歴史のある受験雑誌の出版社がその春開校したばかりの予備校で(略)。(略)講師には受験雑誌でも有名ないい先生をそろえていた。>(p.121)
といった感じ(?)。この本には予備校の名前は書かれていないけれど、中野孝次のある年譜には「英通社予備校」と書かれている。でも(よく覚えていないけれど)どこかで見たことがある本人による年譜(自筆年譜)には、<「英数学院」と言ったか>と書かれていたような記憶がある。本文でも「学院」「学院」と言っていて、わからないけれど(ちゃんと調べればわかりそうだけれど)とりあえず折衷しておけば、「英通学院」といった感じの名前かな?(いいかげんなことを言うと怒られそうだな、ちゃんとした人から(涙))(*2)。その予備校には1年では受からずに結局、2年通っている。1年目は松本高校(長野)に不合格、2年目は第五高等学校(現在でいえば熊本大学?)を受験して合格。この2年目の高校入試=1944年(昭和19年)は、試験科目として英語がなかったらしい(もちろん戦争の影響)。
“浪人中”の話で、読みどころ(注目ポイントというか)はけっこうあったと思うのだけれど、えーと、それまで独学していた耕次が、予備校に通うようになってから成績が上がっていく様子とか、あと時代は戦時下、ほかの予備校生=予備校仲間(耕次とは違って普通に中学校を卒業している普通の(?)浪人生が多いはず)についての話とか。ほかには、予備校講師に関して、頼まれたからしかたがなく教えてやっているんだという態度の有名な英文学者よりも、熱心に熱弁をふるって生徒に知識を伝えようとする万年予備校講師のほうが、生徒には人気があった、みたいな話――には(10年以上も前の、自分の予備校生時代を振り返ってみたりして)ちょっと納得させられる。他人事だけれど、予備校にかぎらず先生(教師、講師)には“熱心さ”は必要だよね。ま、空回りしてしまう場合もあるかもしれないけれど。
なんだか今日も中身のない文章を書いちゃってるな…(涙)。(↑気が向いたらそっくり書き直しておきたい。)
*1 よく知らないけれど、作家では井上光晴がこれくらいの時期に「専検」を受験していたと思う。買ったまま積ん読状態だけれど、小説では「地の群れ」の冒頭とか、あと「虚構のクレーン」でも、専検受験について触れられている。文芸評論家・柄谷行人は文芸時評で(のちに『麦熟るる日に』に収録される中野孝次「雪ふる年よ」を取りあげたさいに)椎名麟三について書かれた評論(=佐藤忠男「椎名麟三論」)を持ち出しているけれど(あ、いま手もとにあるのは『反文学論』講談社学術文庫、1991)、椎名麟三って時代も違うし(明治44年生まれ)、やっぱり中学校にいちど通っている(中学3年で中退、のちに専検受験)のと、1年も通わせてもらえずに小学校高等科卒(で、高検受験)では、思うに両者の置かれている状況はぜんぜん違うのではないか。
*2 菅原亮芳編『受験・進学・学校――近代日本教育雑誌にみる情報の研究』(学文社、2008)という本の後ろのほう、「資料編」の最初の表、「1 戦前日本における受験雑誌一覧および出版点数」(小熊伸一)を見ると、1934年に英語通信社というところから『進学指導』と『受験戦』という2つの雑誌が創刊されているようだ。――これらはぜんぜん関係ないかな?(汗)。創刊されてから10年にも達していないのでは(1942年-1934年=8年?)、まだまだ<歴史のある受験雑誌>とは言えないしな(そんなこともないか)。あ、<歴史のある受験雑誌の出版社>って、雑誌ではなくて出版社に歴史が?(うーん…)。一般に(?)「~通信社」という名前のところは、そもそも通信添削をしている出版社なのかな?
[追記(2011/04/20)]山田克己『予備校 不屈の教育者』(育文社、2009)という本によれば、中野孝次が通っていた予備校は「進学練成学院」といったらしい。というか、やっと名前がわかったよ(涙)。しかも、びっくりなのは、『わが少年記』に出てくる<数学の三井先生>という人に、吉村昭も「正修英語学校」(正修予備校)で習っているらしい。気づかなかったけれど、中野は戦中、吉村は戦後でも、考えてみれば時期は近いんだよね。
・中野孝次
1942年(昭和17年) 高検合格。予備校に通い始める。
1943年(昭和18年) 高校(松高?)不合格、また予備校に通う。
1944年(昭和19年) 高校(五高)合格。
・吉村昭
1945年(昭和20年) 中学卒業、進学の手続きをするも(無試験・内申書のみ)合格通知は届かず。終戦後、予備校に通う。
1946年(昭和21年) 高校(六高)不合格、また予備校に通う。
1947年(昭和22年) 官立高校はあきらめ、学習院高等科に。
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