手もとにあるのは、阿刀田高選『恐怖の花』(ランダムハウス講談社文庫、2007)というアンソロジー。『掌の小説』(新潮文庫)に収録されているものらしい。純文学系のホラー小説? 読み終わっても、頭にだいぶもやもやが残ってしまう感じ(涙)。まんまだけれど「白い馬って何?」とか、ちょっと考え込んでしまう。――それはともかく、次のような箇所が。
<それを思い出したのは、眠れぬ真夜なかに、とつぜんであった。息子が大学の入学試験に落ちて、毎晩二時三時まで勉強をしているのが、野口は気にかかって寝つけなかった。眠れぬ夜がつづくうちに、野口は人生のさびしさに出合った。息子には来年があり、希望を持って、夜も寝ない。しかし、父親は床のなかでただ起きている。息子のためにではなく、自分のさびしさをおぼえたのであった。さびしさにつかまると、それははなれてくれないで、野口の奥へどこまでも根を入れて来る。>(pp.152-3)
午前3時までって、けっこう勉強しているほう? でも、微妙に(間接的に)お父さんの安眠妨害になってしまっているのか。このさびしいお父さんにとっては、「息子の未来=自分の未来」とはならないようだ。そういえば、ぜんぜん関係ないけれど、うちはいま猫を8匹くらい飼っていて、そのうちの一匹だけ、ときどき自分と一緒に寝ることがあるのだけど、猫と寝ると、猫の夢を見てしまうというか、猫が見ているのと同じ夢を見てしまう気がして…。電波な話?(汗)。電波というか動物な話だけれど。言語化すれば、「今日はねずみを獲って食べておいしかったにゃあ、むにゃむにゃ…」みたいな悪夢(涙)。
これもあまり関係ないけれど、思うに作家別の日本文学ベスト10を決めるとしたら、そこに必ず入ってくるような人たち――例えば、鴎外や漱石、谷崎に川端に三島、あと芥川とか、太宰とか……ずるずる挙げていたら10人超えちゃうな(汗)、でもそういうビッグ・ネームな人たちは、たぶん“浪人生”をあまり描いてきていないよね? なんでやろ? ――この問題はペンディングというか、また今度ゆっくりと考えてみることにして。そう、この前、チャイナ・ファンタジー…ではないか、太宰治の「竹青」を読んでみたら(青空文庫で)意外と面白かったです。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
ちなみに、川端康成は浪人していない。現役で一高に入っている。ただ、いちおう予備校には通っている(何かの本にはすぐに行かなくなった、みたいに書かれていた記憶もあるけれど)。大正6年(1917年)、中学卒業後(当時の入試は7月)、上京して(浅草の従兄の家から)明治大学の予備校(=たぶん明治高等予備校)に通っていたらしい。――ノーベル文学賞作家・世界のカワバタが、S台の山崎寿春の授業を受けていたら(大学受験史的に)ちょっと面白いかと思うのだけれど、可能性としては低いかな…。S台の前身、東京高等受験講習会の開設は……なんでだろう、本によって大正6年になっていたり、大正7年になっていたりする(涙)。いずれにしてもニアミス?([追記]私は何か勝手な誤解をしていたらしい、その講習会を開いたあとも山崎寿春は、明治大学をやめていないようだ)。思うにこの大正6年とか7年とかって、けっこう微妙で重要な時期かもしれないな。有名な受験雑誌『考へ方』(考へ方研究社)や『受験と学生』(研究社)が創刊されたり、久米正雄の小説「受験生の手記」(『学生時代』)が発表されたり…。それはともかく、少し引用しておけば(上が6年、下が7年)、
<父は明治大学の教授と予備校の教師という二つの職をこなしながら、大正五年、(略)「受験英語」を発刊した。(略)/(略)翌六年には、英語(英文解釈・和文英訳・書き取り)と数学(代数・幾何・三角関数)の二科目を設定した「東京高等受験講習会」を開設しているのだ。>――山﨑春之『教育界のトップブランド「駿台」 親子二代に引き継がれた「愛情教育」』(財界研究所、2003)、p.26
<だが、大正七年に公布された大学令によって各私立専門学校が大学として認可されたことにより、学校経営が安定する一方、文部省の監視も厳しくなり副業としての予備校経営は次第に衰退する。そして、それに代わって新たに登場するのが、大正七年開設の東京高等受験講習会(現在の駿台予備学校)に代表される受験指導専門機関としての予備校である。>――石川巧『「国語」入試の近現代史』(講談社選書メチエ、2008)、p.146
。明大のことがわからないけれど、中央大学の予備校(=中央高等予備校)が廃校になったのは、大正9年のことらしい(竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史』講談社現代新書、1991、p.29)。上のほうの本によれば、山崎氏(お父さんのほう)が予備校を作った理由は、大学生より予備校生のほうがよく勉強するから、みたいなことらしいけれど(勉強を教えたい教師が、勉強熱心な生徒(だけ)を教えたいと考えるのは自然か)、個人的にいまいちよくわからないのは、そもそも私大では予科生と予備校生を1つの教室でいっぺんに教えていたの?(入り口は違うけれど、なかに入ると一緒みたいな?)。天野郁夫『大学の誕生(上) 帝国大学の時代』(中公新書、2009)という本の最後のへん(第五章)に「「私立大学」予科の実態」という小見出しの付いている箇所があって。それを読むと、予科とはほとんど名ばかりで(官立の高校を目指す)浪人生が多く通っていたようだ。じゃあなんで(同じ私大の)予備校には通わずわざわざ予科に通うの? みたいな疑問が…。世間体を気にしたりとか、徴兵猶予の特典があったりするから?(よくわからんです)。
見づらいから少し改行して…、えーと、よく行く図書館にあった本だけれど、『日本の教育課題6 選抜と競争』(東京法令出版、1994)という本に、資料として松韻生「向陵一橋受験奮闘記」(『中学世界』明治43年=1910年)と題された、ちょっと長めの合格体験記(?)が収録されていて(pp.104-16)――少し引用したいのだけれど、その前に、この書き手(この文章、本当に実話かどうかわからない感じ?)は、中学卒業後、<神田の正則英語>(=たぶん正則予備学校)に通って、タイトルにもある2校、一高(向陵)と高商(一橋)を受けて落ちている。で、浪人生として中央大学の予備校に通う。
<愈々9月に入つたので、始めは汽車で通つた。車中で高商の得意気な新入生に会ふと、癪に障つて堪らなかつた。中央には、高商の高島、長谷川の二氏、一高の村田、岡田の両氏、外語の浅田氏が講義をするので英語は何にとなく正則より愉快だ。其上数学には、快活な語気を強める根津氏が居る。此等の先生の時には、予備校生、予科生は雲集して来るが、真の中央大学予科生は九牛の一毛だ。他の先生の時でも講義録を貰う時だけ賑やかだが、講義が進行するに従つて生徒が段々消えて行く。(略)>(p.105左、原文の傍点はすべて外した。なくてもわかるので。)
これを読むと(予科生には本科にあがるために必修科目がいろいろあったかもしれないけれど)、やっぱり予備校生にも予科生にも同じ授業を受けさせていた感じ? ま、人気教師(講師、教授)と不人気教師ができてしまうのは、いまも昔も(どんな学校でも)変わらないか。あと、現在、国立大学の先生(「講師」ならいいのかもしれないけれど)が、ほかの学校で教えること(アルバイト)は禁止されている…と思うけれど、昔はそうではなくて――そういえば、久米正雄「受験生の手記」(小説です)には、一高の試験本番のとき(英語の書取のさい)に……これも引用しておこうか(今日も引用が多いな(汗))。
<そのうち書取りの教師が来た。予備校で一、二度馴染のある、肩のいかつい黒川教授だった。発音をそう気取らないのが、嬉しかった。たいていわかるように感じた。が、(略)>
ってなことも起こりうる(もちろんテープレコーダーも普及していない時代、ちょっとラッキーな?)。ちなみに、芥川龍之介や久米正雄は一高に入るのに浪人はしていないけれど(しかもこの2人は推薦入学というか無試験入学)、同級生の松岡譲は中学卒業後、いちおう1年浪人していて(現役=中学5年のときは、頼んだ人が願書を出し忘れて受験そのものをしていないらしい)、上京して、中央大学の予備校に通っている(関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店、1991)。あ、1909年(明治42年)の話。
あまり関係ないけれど、ついでに。松井慎一郎『河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実』(中公新書、2009)に次のような箇所がある。
<当時、『中学世界』などの雑誌に掲載された合格体験記に見られるように、受験生の多くが、河合同様、日課表を作成したが、当初の計画どおり勉強できたのは、きわめて少数に限られていたようである。たとえば、その頃の一高受験を題材にした久米正雄の小説「受験生の手記」では、主人公の健吉と違って、最難関の一高第三部に現役合格することになる弟の健次をしても、(略)>(pp.48-9)
長くなるから「日課表」の例が出てくる前に切らせてもらうけれど、まず(読み終わったあとで、そう記憶が変わってしまう気持ちはよくわかるけれど)「第三部」を受験するのは、弟ではなくて兄のほう。ま、それはともかく、気になるのは<その頃の一高受験を題材にした>という箇所。ほかの本を読んでいても思ったことだけれど、小説「受験生の手記」の高校受験がらみの部分が、雑誌『中学世界』(博文館)の合格体験記の影響を受けている可能性について、たぶん考慮されていない。そんなことを言ってもしかたがないか(汗)。でも、『学生時代』所収のほかの短篇に『中学世界』が出てくるものがあるのに。あと、そう、上で触れた合格体験記(=「向陵一橋~」)では、書き手が自分(たち)のことを比喩的に「落武者」と呼んでいて、現在の意味での「浪人(生)」という言葉(の使用)が成立するまで、もう一歩という感じもする。
<それを思い出したのは、眠れぬ真夜なかに、とつぜんであった。息子が大学の入学試験に落ちて、毎晩二時三時まで勉強をしているのが、野口は気にかかって寝つけなかった。眠れぬ夜がつづくうちに、野口は人生のさびしさに出合った。息子には来年があり、希望を持って、夜も寝ない。しかし、父親は床のなかでただ起きている。息子のためにではなく、自分のさびしさをおぼえたのであった。さびしさにつかまると、それははなれてくれないで、野口の奥へどこまでも根を入れて来る。>(pp.152-3)
午前3時までって、けっこう勉強しているほう? でも、微妙に(間接的に)お父さんの安眠妨害になってしまっているのか。このさびしいお父さんにとっては、「息子の未来=自分の未来」とはならないようだ。そういえば、ぜんぜん関係ないけれど、うちはいま猫を8匹くらい飼っていて、そのうちの一匹だけ、ときどき自分と一緒に寝ることがあるのだけど、猫と寝ると、猫の夢を見てしまうというか、猫が見ているのと同じ夢を見てしまう気がして…。電波な話?(汗)。電波というか動物な話だけれど。言語化すれば、「今日はねずみを獲って食べておいしかったにゃあ、むにゃむにゃ…」みたいな悪夢(涙)。
これもあまり関係ないけれど、思うに作家別の日本文学ベスト10を決めるとしたら、そこに必ず入ってくるような人たち――例えば、鴎外や漱石、谷崎に川端に三島、あと芥川とか、太宰とか……ずるずる挙げていたら10人超えちゃうな(汗)、でもそういうビッグ・ネームな人たちは、たぶん“浪人生”をあまり描いてきていないよね? なんでやろ? ――この問題はペンディングというか、また今度ゆっくりと考えてみることにして。そう、この前、チャイナ・ファンタジー…ではないか、太宰治の「竹青」を読んでみたら(青空文庫で)意外と面白かったです。
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ちなみに、川端康成は浪人していない。現役で一高に入っている。ただ、いちおう予備校には通っている(何かの本にはすぐに行かなくなった、みたいに書かれていた記憶もあるけれど)。大正6年(1917年)、中学卒業後(当時の入試は7月)、上京して(浅草の従兄の家から)明治大学の予備校(=たぶん明治高等予備校)に通っていたらしい。――ノーベル文学賞作家・世界のカワバタが、S台の山崎寿春の授業を受けていたら(大学受験史的に)ちょっと面白いかと思うのだけれど、可能性としては低いかな…。S台の前身、東京高等受験講習会の開設は……なんでだろう、本によって大正6年になっていたり、大正7年になっていたりする(涙)。いずれにしてもニアミス?([追記]私は何か勝手な誤解をしていたらしい、その講習会を開いたあとも山崎寿春は、明治大学をやめていないようだ)。思うにこの大正6年とか7年とかって、けっこう微妙で重要な時期かもしれないな。有名な受験雑誌『考へ方』(考へ方研究社)や『受験と学生』(研究社)が創刊されたり、久米正雄の小説「受験生の手記」(『学生時代』)が発表されたり…。それはともかく、少し引用しておけば(上が6年、下が7年)、
<父は明治大学の教授と予備校の教師という二つの職をこなしながら、大正五年、(略)「受験英語」を発刊した。(略)/(略)翌六年には、英語(英文解釈・和文英訳・書き取り)と数学(代数・幾何・三角関数)の二科目を設定した「東京高等受験講習会」を開設しているのだ。>――山﨑春之『教育界のトップブランド「駿台」 親子二代に引き継がれた「愛情教育」』(財界研究所、2003)、p.26
<だが、大正七年に公布された大学令によって各私立専門学校が大学として認可されたことにより、学校経営が安定する一方、文部省の監視も厳しくなり副業としての予備校経営は次第に衰退する。そして、それに代わって新たに登場するのが、大正七年開設の東京高等受験講習会(現在の駿台予備学校)に代表される受験指導専門機関としての予備校である。>――石川巧『「国語」入試の近現代史』(講談社選書メチエ、2008)、p.146
。明大のことがわからないけれど、中央大学の予備校(=中央高等予備校)が廃校になったのは、大正9年のことらしい(竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史』講談社現代新書、1991、p.29)。上のほうの本によれば、山崎氏(お父さんのほう)が予備校を作った理由は、大学生より予備校生のほうがよく勉強するから、みたいなことらしいけれど(勉強を教えたい教師が、勉強熱心な生徒(だけ)を教えたいと考えるのは自然か)、個人的にいまいちよくわからないのは、そもそも私大では予科生と予備校生を1つの教室でいっぺんに教えていたの?(入り口は違うけれど、なかに入ると一緒みたいな?)。天野郁夫『大学の誕生(上) 帝国大学の時代』(中公新書、2009)という本の最後のへん(第五章)に「「私立大学」予科の実態」という小見出しの付いている箇所があって。それを読むと、予科とはほとんど名ばかりで(官立の高校を目指す)浪人生が多く通っていたようだ。じゃあなんで(同じ私大の)予備校には通わずわざわざ予科に通うの? みたいな疑問が…。世間体を気にしたりとか、徴兵猶予の特典があったりするから?(よくわからんです)。
見づらいから少し改行して…、えーと、よく行く図書館にあった本だけれど、『日本の教育課題6 選抜と競争』(東京法令出版、1994)という本に、資料として松韻生「向陵一橋受験奮闘記」(『中学世界』明治43年=1910年)と題された、ちょっと長めの合格体験記(?)が収録されていて(pp.104-16)――少し引用したいのだけれど、その前に、この書き手(この文章、本当に実話かどうかわからない感じ?)は、中学卒業後、<神田の正則英語>(=たぶん正則予備学校)に通って、タイトルにもある2校、一高(向陵)と高商(一橋)を受けて落ちている。で、浪人生として中央大学の予備校に通う。
<愈々9月に入つたので、始めは汽車で通つた。車中で高商の得意気な新入生に会ふと、癪に障つて堪らなかつた。中央には、高商の高島、長谷川の二氏、一高の村田、岡田の両氏、外語の浅田氏が講義をするので英語は何にとなく正則より愉快だ。其上数学には、快活な語気を強める根津氏が居る。此等の先生の時には、予備校生、予科生は雲集して来るが、真の中央大学予科生は九牛の一毛だ。他の先生の時でも講義録を貰う時だけ賑やかだが、講義が進行するに従つて生徒が段々消えて行く。(略)>(p.105左、原文の傍点はすべて外した。なくてもわかるので。)
これを読むと(予科生には本科にあがるために必修科目がいろいろあったかもしれないけれど)、やっぱり予備校生にも予科生にも同じ授業を受けさせていた感じ? ま、人気教師(講師、教授)と不人気教師ができてしまうのは、いまも昔も(どんな学校でも)変わらないか。あと、現在、国立大学の先生(「講師」ならいいのかもしれないけれど)が、ほかの学校で教えること(アルバイト)は禁止されている…と思うけれど、昔はそうではなくて――そういえば、久米正雄「受験生の手記」(小説です)には、一高の試験本番のとき(英語の書取のさい)に……これも引用しておこうか(今日も引用が多いな(汗))。
<そのうち書取りの教師が来た。予備校で一、二度馴染のある、肩のいかつい黒川教授だった。発音をそう気取らないのが、嬉しかった。たいていわかるように感じた。が、(略)>
ってなことも起こりうる(もちろんテープレコーダーも普及していない時代、ちょっとラッキーな?)。ちなみに、芥川龍之介や久米正雄は一高に入るのに浪人はしていないけれど(しかもこの2人は推薦入学というか無試験入学)、同級生の松岡譲は中学卒業後、いちおう1年浪人していて(現役=中学5年のときは、頼んだ人が願書を出し忘れて受験そのものをしていないらしい)、上京して、中央大学の予備校に通っている(関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店、1991)。あ、1909年(明治42年)の話。
あまり関係ないけれど、ついでに。松井慎一郎『河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実』(中公新書、2009)に次のような箇所がある。
<当時、『中学世界』などの雑誌に掲載された合格体験記に見られるように、受験生の多くが、河合同様、日課表を作成したが、当初の計画どおり勉強できたのは、きわめて少数に限られていたようである。たとえば、その頃の一高受験を題材にした久米正雄の小説「受験生の手記」では、主人公の健吉と違って、最難関の一高第三部に現役合格することになる弟の健次をしても、(略)>(pp.48-9)
長くなるから「日課表」の例が出てくる前に切らせてもらうけれど、まず(読み終わったあとで、そう記憶が変わってしまう気持ちはよくわかるけれど)「第三部」を受験するのは、弟ではなくて兄のほう。ま、それはともかく、気になるのは<その頃の一高受験を題材にした>という箇所。ほかの本を読んでいても思ったことだけれど、小説「受験生の手記」の高校受験がらみの部分が、雑誌『中学世界』(博文館)の合格体験記の影響を受けている可能性について、たぶん考慮されていない。そんなことを言ってもしかたがないか(汗)。でも、『学生時代』所収のほかの短篇に『中学世界』が出てくるものがあるのに。あと、そう、上で触れた合格体験記(=「向陵一橋~」)では、書き手が自分(たち)のことを比喩的に「落武者」と呼んでいて、現在の意味での「浪人(生)」という言葉(の使用)が成立するまで、もう一歩という感じもする。
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