奥泉光 『シューマンの指』
2011年10月9日 読書
講談社、2010。昨年(=2010年)わりと話題になっていた本。書名や装丁を見て、あとクラシック(西洋古典音楽)が扱われているらしい、みたいな事前情報から、なんとなく新潮クレスト・ブックスとかにありそうな、海外文学みたいな小説かなと勝手に思っていたら、そんな感じでもなかったです。文章的にも内容的にも、意外とけっこう俗っぽい? えーと、この小説も、ネタバレをさせないで何か言えそうな気がしないな…、すみません、※以下、ネタバレ注意です。
ページ数でいえば、大部分が「私」(=里崎優)による手記というか、「私」がそう称している文章で構成されている。で、その回想的な手記によれば、「私」が高校3年になったとき、音楽界ではすでに有名人・天才ピアニストでシューマン推しの永嶺修人(「修人」は「まさと」と読む)が1年生として入学してくる。「私」とその永嶺は、「私」の中学からの友達・鹿内堅一郎を加えて「僕らのダヴィッド同盟」を結成、音楽に関することなどを書き込むノートを巡回させたりしている。「私」が高校を卒業した春(3月下旬)「私」は偶然、学校で永嶺修人の演奏を耳にする機会を得たのだけれど、そのとき、学校のプールで女子生徒が殺害される事件が発生。これは、結局(30年後の話)犯人が捕まらないまま時効になったようだ。「私」と永嶺修人との交流は、ピアニストとしては致命的な出来事、すなわち永嶺が指を失うまで――1979年の夏、「私」が1浪して入学したT音大の1年のときまで――続いている。
読んでいて音楽を聞いてみたくはなったけれど、「シューマン」という言葉には現時点で、もううんざりです(涙)。というか、私は(以前にも書いたけれど)音楽的な知識がぜんぜんなくて(クラシックでもジャズでも、ロックでも)、正直、これだけ薀蓄(というか不案内なジャンルの言葉)が多いと読んでいて、めんどくさくなる…。ただ、天ぷらの衣というか、音楽的な要素をとっぱらってしまえば、意外とシンプルな推理小説しか残らない?(そうでもないのか)。実際に演奏された不完全な音楽から、完全な音楽そのものを聴く――みたいな大袈裟なことではなくて、シューマンの曲は陰でこっそりと(?)暗い感じの別の曲が流れている――みたいな音楽的な話でもなくて、俗っぽい話だけれど、推理小説(ミステリー)というのはたぶん、全般的に多かれ少なかれ、語られていることの裏っかわを読もうとしないと、最後あたりで、あー、だまされた、みたいなことになってしまう…よね? でも、私の場合、テレビで手品を見ていたりしても、どうなっているのやら、タネが分かったためしがないし(涙)。ま、頭が悪いと言ってしまえばそれまでかもしれないけれど。この小説も、読み終わったあとで、ぱらぱら読み返してみると、ヒントというか伏線というかが山ほどあって、あ゛ー、という気分です。
ところで、これは、音大受験生が読んで面白かったり、役に立ったりする作品になっているかな?(私にわかるわけがないか)。高校や自宅があるのは東京っぽいけれど(あるいはその近郊?)、最初のへんで「私」の音大時代の友人の話で、和歌山から飛行機で東京までレッスンを受けに来ていた、みたいな話もあって(ちょっとびっくり)。「私」も5歳からピアノを習っていたと言っているし、「T音大」に入るのに、通常のレッスン(K先生)以外にそのT音大の先生のレッスンも受けているようだし。自宅や学校での練習量はもちろん多い…。音大にもよるのかもしれないけれど、かなり大変な感じ。身近に音楽の“天才”がいる……みたいなことは、どうなのかな? この人の場合、わりと受験には役立っているような? (あ、すっかり忘れていたけれど、漫画、さそうあきら『神童』(文庫版・全3巻)をだいぶ前に買ったまま、まったく読んでいない(涙)。)
そういえば、なんとなく予想していたよりも「私」の浪人中の話が多くて、その点ではよかったかな(何がよいのやら?(汗))。月光下プールサイド殺人がらみ事件も、3月中とはいえ「私」が卒業してから起こっているし。えーと、何年だっけ? …1978年か。浪人(1浪)するのは予定通りとか、織り込み済みだったみたいなことも言っているけれど、浪人中は苦しかったとも語っている(でも、その苦しみの数パーセントは永嶺修人のせいらしい)。そう、文脈の説明は省略させてもらうけれど、演奏や音楽に関してあれこれ言ってしまった「私」が、ある音大生女子(?)から「まだあれのくせに」とか言われている。「あれ」=浪人。「私」に遠慮したというより「浪人」という言葉を口にするのが汚らわしかった? ちなみに、高校に入ってからケガや病気で1年遅れた(「私」の1学年下の)堅一郎も、1年浪人している(結局、第2志望の私大に入学したらしい)。こちらの浪人年は1979年か。
「里崎優」の下の名前の読み方って、どこかに書かれていたっけ? でも、たぶん「まさる」だよね。「マルタ」と「マルデ」とか、「ケンイチロウ」とか、やっぱりこの小説、振り返ればヒント(?)がいらないくらい沢山あったんだよね。
[追記]文庫本は、講談社文庫、2012.10。
ページ数でいえば、大部分が「私」(=里崎優)による手記というか、「私」がそう称している文章で構成されている。で、その回想的な手記によれば、「私」が高校3年になったとき、音楽界ではすでに有名人・天才ピアニストでシューマン推しの永嶺修人(「修人」は「まさと」と読む)が1年生として入学してくる。「私」とその永嶺は、「私」の中学からの友達・鹿内堅一郎を加えて「僕らのダヴィッド同盟」を結成、音楽に関することなどを書き込むノートを巡回させたりしている。「私」が高校を卒業した春(3月下旬)「私」は偶然、学校で永嶺修人の演奏を耳にする機会を得たのだけれど、そのとき、学校のプールで女子生徒が殺害される事件が発生。これは、結局(30年後の話)犯人が捕まらないまま時効になったようだ。「私」と永嶺修人との交流は、ピアニストとしては致命的な出来事、すなわち永嶺が指を失うまで――1979年の夏、「私」が1浪して入学したT音大の1年のときまで――続いている。
読んでいて音楽を聞いてみたくはなったけれど、「シューマン」という言葉には現時点で、もううんざりです(涙)。というか、私は(以前にも書いたけれど)音楽的な知識がぜんぜんなくて(クラシックでもジャズでも、ロックでも)、正直、これだけ薀蓄(というか不案内なジャンルの言葉)が多いと読んでいて、めんどくさくなる…。ただ、天ぷらの衣というか、音楽的な要素をとっぱらってしまえば、意外とシンプルな推理小説しか残らない?(そうでもないのか)。実際に演奏された不完全な音楽から、完全な音楽そのものを聴く――みたいな大袈裟なことではなくて、シューマンの曲は陰でこっそりと(?)暗い感じの別の曲が流れている――みたいな音楽的な話でもなくて、俗っぽい話だけれど、推理小説(ミステリー)というのはたぶん、全般的に多かれ少なかれ、語られていることの裏っかわを読もうとしないと、最後あたりで、あー、だまされた、みたいなことになってしまう…よね? でも、私の場合、テレビで手品を見ていたりしても、どうなっているのやら、タネが分かったためしがないし(涙)。ま、頭が悪いと言ってしまえばそれまでかもしれないけれど。この小説も、読み終わったあとで、ぱらぱら読み返してみると、ヒントというか伏線というかが山ほどあって、あ゛ー、という気分です。
ところで、これは、音大受験生が読んで面白かったり、役に立ったりする作品になっているかな?(私にわかるわけがないか)。高校や自宅があるのは東京っぽいけれど(あるいはその近郊?)、最初のへんで「私」の音大時代の友人の話で、和歌山から飛行機で東京までレッスンを受けに来ていた、みたいな話もあって(ちょっとびっくり)。「私」も5歳からピアノを習っていたと言っているし、「T音大」に入るのに、通常のレッスン(K先生)以外にそのT音大の先生のレッスンも受けているようだし。自宅や学校での練習量はもちろん多い…。音大にもよるのかもしれないけれど、かなり大変な感じ。身近に音楽の“天才”がいる……みたいなことは、どうなのかな? この人の場合、わりと受験には役立っているような? (あ、すっかり忘れていたけれど、漫画、さそうあきら『神童』(文庫版・全3巻)をだいぶ前に買ったまま、まったく読んでいない(涙)。)
そういえば、なんとなく予想していたよりも「私」の浪人中の話が多くて、その点ではよかったかな(何がよいのやら?(汗))。月光下プールサイド殺人がらみ事件も、3月中とはいえ「私」が卒業してから起こっているし。えーと、何年だっけ? …1978年か。浪人(1浪)するのは予定通りとか、織り込み済みだったみたいなことも言っているけれど、浪人中は苦しかったとも語っている(でも、その苦しみの数パーセントは永嶺修人のせいらしい)。そう、文脈の説明は省略させてもらうけれど、演奏や音楽に関してあれこれ言ってしまった「私」が、ある音大生女子(?)から「まだあれのくせに」とか言われている。「あれ」=浪人。「私」に遠慮したというより「浪人」という言葉を口にするのが汚らわしかった? ちなみに、高校に入ってからケガや病気で1年遅れた(「私」の1学年下の)堅一郎も、1年浪人している(結局、第2志望の私大に入学したらしい)。こちらの浪人年は1979年か。
「里崎優」の下の名前の読み方って、どこかに書かれていたっけ? でも、たぶん「まさる」だよね。「マルタ」と「マルデ」とか、「ケンイチロウ」とか、やっぱりこの小説、振り返ればヒント(?)がいらないくらい沢山あったんだよね。
[追記]文庫本は、講談社文庫、2012.10。
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