手もとにあるのは、同タイトルの新潮文庫。『正義と微笑』という作品が併録されている。後ろの「解説」(奥野健男)によれば、<昭和20年(1945年)10月22日から翌21年1月7日まで64回にわたって『河北新報』に連載され、昭和21年(1946年)6月、河北新報社より単行本として刊行された>とのこと(p.333、数字は原文では漢数字)。※以下いちおうネタバレ注意です。とりあえずこれも、広い意味で“戦争小説”かな。

 <「健康道場」という風変りな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた表題作。社会への門出に当って揺れ動く中学生の内面を、日記形式で巧みに表現した『正義と微笑』。いずれも、著者の年少の友の、実際の日記を素材とした作品で、太宰文学に珍しい明るい希望にみちた青春小説。>(カバー背より)

あれこれ黒いものが出ていったあと、箱の底に残っているのは“希望”。――書簡は1通ではなくて(合計10通は超えている? …面倒だから数えないことにする(汗))、各手紙の最後には日付が入っていて、最初のものが昭和20年(1945年)8月25日で、最後のものが12月9日。だから、えーと、3ヶ月半くらい?(「僕」は6ヶ月で全快すると言われたらしい)。手紙しかないから、読者としてはその内側(内容)から判断するしかないけれど、送り主は「僕」(道場でのあだ名は「ひばり」=小柴利助)で、送り先は中学校のときの同級生で、詩人の卵(?)である高校生の「君」。「僕」が入っている「桜の間」の愉快な(?)面々は、

  ひばり(=「僕」、小柴利助) …20歳、中学を卒業してそのまま。
  越後獅子(=大月松右衛門) …けっこう年配、娘がいる。実は××。
  かっぽれ(=木下清七) …28歳、独身。俳句を詠んだり。
  つくし(=西脇一夫) …北海道へ転院。そこから助手さんの1人・マァ坊(=三浦正子)に手紙。
  固パン(=須川吾郎) …「つくし」に代わって入室。26歳、法科の学生。英語が得意(?)。

といった感じ。あだ名で呼び合うのも絶対(ちゃんとした規則)ではないようで、例えば「僕」は助手さん(=看護婦さんのこと)の1人・竹さん(=竹中静子)から、「ひばり」ではなく「ぼんぼん」と呼ばれたりもしている。あ、「僕」のお父さんは「数学の教授」らしい。そう、誰かのコネがないと入れないような特殊な療養施設なのかな、ここは? でも、やっていることは、ほとんどベッドの上での体操と摩擦(助手さんに体を拭いてもらう)だけだもんね。お父さんは(数学が得意でも)お金の勘定は苦手で、家は貧乏…みたいな言い訳(?)はある。そう、読んでいて飽きてくるのは、閉じているというか、外部(道場の外)の場面がほとんどないからかな…(よくわからないけれど)。

本日の本題に。長めに引用させてもらえば――最初のへん(1通め)に次のような箇所がある。

 <そりゃ僕だって、いままでずいぶんつらい思いをして来たのです。君もご存じのとおり、僕は昨年の春、中学校を卒業と同時に高熱を発して肺炎を起し、三箇月も寝込んでそのために高等学校への受験も出来ず、どうやら起きて歩けるようになってからも、微熱が続いて、医者から肋膜の疑いがあると言われて、家でぶらぶら遊んで暮らしているうちに、ことしの受験期も過ぎてしまって、僕はその頃から、上級の学校へ行く気も無くなり、そんならどうするのか、となると眼の先がまっくらで、家でただ遊んでいるのもお父さんに申しわけなく、またお母さんに対しても、ていさいの悪いこと並たいていではなく、君には浪人の経験が無いからわからないかも知れないが、あれは全くつらい地獄だ。僕はあの頃、ただもうやたらに畑の草むしりばかりやっていた。そんな、お百姓の真似をする事で、わずかにお体裁を取りつくろっていた次第なのだ。(略)>(p.189)

途中を省略してもよかったけれど、↑2文めがやけに長いでしょ?(涙)。最初の「そりゃ」に対応する「けれども」もあとで出てくるけれど(p.190の真ん中へんのほう)、長くなりすぎるから無視したい(中途半端な引用で諦めたい(涙))。それはともかく、注目すべきは「浪人」という言葉が使われている点かな。その言葉が“上級学校への進学を目指して勉強している過年度卒業生”に対して使われるようになったのは――これもちゃんと引用しておくか、

 <過年度卒業生を指す浪人という言葉がいつごろから使われるようになったかは不明だが、おそらく大正末期からであろう。>(竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史』講談社現代新書、1991、p.72)

という説(?)もある。単行本で言ったほうがいいかな、『パンドラの匣』は終戦の翌年=1946年(昭和21年)6月に出ている。大正が終わって昭和になってから20年も経っているじゃないか、とか言うなかれ(?)、もしかしたら、私がいままでに見たことがある「浪人」という言葉が使われている、いちばん古い小説かもしれない(探せば――別に探しているわけではないけれど、探せばもっと古いものがたくさん出てきそうだけれど)。ただ、残念なことに(?)上の箇所をよく読むと、たんなる“受験浪人”の意味でその言葉を使っている感じではない。

でもまぁ、病気では受験放棄(放置)もしょうがないか。あ、四修では受験しなかったのかな?(わからないな)。でも、お父さんが数学の教授(大学? 高校?)で、いちばんの友人も高校に入学しているのに、この人、高校(もちろん旧制)に対する憧れ、みたいなものが弱すぎない?(まぁいいか)。ちなみに小説ではなくて現実の話、昭和19年(1944年)には入試科目から英語がなくなり、翌年=昭和20年(1945年)には試験じたいがなくなる(内申書のみ)。この小説を読んでもわからないけれど、昭和20年の旧制高校受験浪人生は、実際問題、どうだったのかな? 試験がないから現役受験生(四修or五卒)と比べて不利だったみたいなこともあった?(あ、四修ではないや、この年は中学4年で繰上げ卒業だから、四卒?)。

関係ないけれど(なくはないか)、上の引用の少しあとに、太宰文学のキーワードの1つ(?)<余計者>という言葉が見られる。――これも引用しておこうか(引用多すぎ(涙))、

 <君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。>(p.190)
 

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