文藝春秋、1990/ハルキ文庫、1999/文春文庫、2008。手もとにあるのは文春文庫版。8月中に読む予定が、10月の今ごろに。浪人生は全く関係のない高校生小説。ミステリではないですが、以下、いちおうネタバレ注意です。そう、推理小説でも警察小説でもないけれど、ニセ警察官なら登場してくる(トメちゃん)。『目ン無い千鳥』(どういう歌?)というより、目ん玉つながりお巡りさんの世界? あ、職務質問してくる本物のお巡りさんも出てくるか。

 <けだるくて退屈な夏休み。高校生のぼくは不思議な魅力を持つ少女、晶子と出会う。晶子、親友の田中くん、そしてそれぞれの家庭や周囲の大人たちを傍観しながら、ぼくの夏が終わっていく……。1960年代の北関東の小さな街を舞台に、清冽な文体で描かれた、ノスタルジックで透明感に満ちた青春小説の傑作。 解説・福井健太>(表紙カバーより)

基本的には青春ユーモア小説。少人数だけれど、家族小説でもあるかな。で、以前『風少女』は読んであったけれど、また改めてM市を舞台とした青春小説が成立可能なことにびっくり。さらに読んでいて、なんというかM市にあれこれ持って来てしまえるんだな、とか思えて。それが今回、個人的には大発見だった。別に小説を書く予定があるわけではないけれど。だいたい埼玉県熊谷市ほどでないにしても、毎年夏はニュース級に暑くなるのだから、それくらい許されても当然(?)、要は、M市という鍋であれこれ煮込んじゃえばいいんだよ(意味不明か)。ところで暑いのは誰のせいか? 確かに誰のせいでもないかもしれないけれど、この小説とは関係のない話、現代でいえば石炭や石油を燃やして、二酸化炭素を排出し続けている人間(のエゴ)のせい、だと思わなくもない。えーと、話を戻して…というか、県庁所在地をつかまえて「小さな街」とか言うな!(涙)。市北部のA山麓からは、富士山ことニッポン一の山(標高もハイエスト)が小さく小さく見える……こともある。素晴らしきかな、このコントラスト? そういえばこの前、FM地元局のラジオ番組を聴いていたら、東京スカイツリーからA山が見えるとか見えないとか。私は一生行かないと思うけれど、行ったら確かめたくなっちゃうな、たぶん(ザ・定番行動、家の近く探し?)。

 <「赤城山のてっぺんまでぶっとばそうぜ。なあ? このくそあちいのに汗たらしながら西瓜食ってるだけなんて、健全な青少年のやることじゃねえや」/「健全な青少年は赤城山に行くべきかな」/「そうよ。健全な青少年はみんな気合い入れて、クルマぶっとばすのよ」>(p.28)

よく知らないけれど、高千穂遙『ヒルクライマー』(私は未読)の影響らしい、最近では自転車急増中の道路――あの道って昔から酒屋さんが多いよね、酒屋というかお酒も売っている「なになに商店」。もうやめてしまった店も多いけれど。ま、作中年から40年以上経っている現在(人生観を左右するらしい料金所もすでにないし)、ビールが飲みたければ24時間営業のコンビニもあるし、小銭がなくても自動販売機に千円札なら入るだろうし(あ、夜に酒類は買えないか)――そんな道路の、A山帰り(山道だからくねくね、下りだからスピードも)にて、17歳の「ぼく」たちは事故を起こす。自転車ではなくて、自動車の無免許&飲酒運転。運転していた田中くん(=田中広司、ひろちゃん)は意識不明で、自宅の隣にある顔のきく(もみ消し可能な)病院に入院…。でも、結局、命に別状はなし。ちょっとイカれた看護婦さん…は措いておくとして、後部座席の「ぼく」(=葉山研一)と助手席の晶子さんは、最初からとりあえず、無事。――で、だから(?)神戸かどこかの猿の檻のある公園に車で突っ込まなくても(村上春樹『風の歌を聴け』)、通称・A県道(=県道4号)沿いの切り立った崖に突っ込めばいいわけだし(「よく」はないか)、「神経痛の牛」ではなくても(同作品)「肩こりの猫」でいいわけだし、コンタクト・レンズやレコード…は措いておくとして、待ち合わせの場所なら、新宿・紀伊国屋書店ではなくても(庄司薫“薫くんシリーズ”)M市K堂の前でいいわけだし。あ、紀伊国屋もK堂も現在のそれとは別の建物…というか、年がばれるな(汗)。あるいは、残念な“海なし県”――海がなくてもA山のO沼(という湖、ワカサギ釣りで有名)や市営プールはあるし、散骨をしたければ大きなT川が流れているわけだし。

水といえば、「ぼく」&田中くんの中学校のときの同級生で、家が「蟹前(かにさき)サイクル」のキヨシくん。市営プールの子ども用プールで、誰からもキャッチされずに死んでしまうわけだけれど、にもかかわらず(?)晶子さんが読んでいるのは、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』ではなくて、田中くんから借りた(もともと「ぼく」が田中くんに貸した)『フラニーとズーイ』。どこかで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』な村上春樹が、関西弁を使って訳したいと言っていた小説。もちろん私は未読。…でもまぁ、田舎だからね、G弁(ないしJ州弁)が使われているこの『八月の舟』――南木佳士(T村出身)や絲山秋子(東京出身)が使っているものと微妙に異なるそれが楽しめていいのではないか、と。関係ないけれど、小説以外では(古本屋によく売っていると思う)多賀たか子『はいすくーる落書』(朝日文庫)は、昔のリアルな高校生のG弁がけっこう楽しめるかも(樋口有介は自分のことについて昔、「不良」だったとも書いていたと思うけれど、一般に、標準語なんてダサくて話してらんねー、というのが不良たるもの? …違うか(汗))。晶子さんはメアリ・マッカーシーも読んでいるようだ(p.131)。なぜ(大江健三郎や村上春樹のように)カーソン・マッカラーズやフラナリー・オコナーじゃないんだろう?(汗)。そういえば、村上春樹が以前どこかで書いていた、新潮文庫から出ていたマッカラーズの『心は孤独な狩人』はいまだに復刊しないよね、作品名は有名なのにな。いや、私も読んだことがないけれど。宮部みゆきとか数学者の藤原正彦とかは、自著にそのもじりタイトルを使っている。そう、以前、小谷野敦『聖母のいない国』(河出文庫)を読んだあと、初めてメアリー・マッカーシー(この人は南部ではなくて北部)を読んでみたいと思ったけれど、そのまま現在まで忘れていた(汗)。というか、そもそも「八月の…?」といえば「光!」なわけだから(人にもよるか)、もっとビッグ・ネームなウィリアム・フォークナーだよね(『八月の光』)。これも当然のごとく私は未読です。というか、そういう意味では、けっこうミステリー寄りの後ろの文庫「解説」がぜんぜん役に立たない(ハルキ文庫版にも付いているかな、解説? 重複を避けたとか?)。

だから(?)アメリカ南部文学のキーワードの1つ、“グロテスク”な要素が散見される。「ぼく」のお母さんの服の趣味はアレな感じだし、田中くん(両親はいない)のお姉さんは、太陽の光を反射するほどの金歯だし。晶子さんのお父さん(「ぼく」&田中くんが通っている高校の校長)の頭は禿げているし(それはまぁいいか(汗))、家の庭で飼っている金魚の頭は、あくまでぼこぼこしているし。体が不自由な人は登場してこないけれど、頭がおかしい(というと語弊があるかもしれないけれど)人は何人か出てくる。上で触れた30歳を過ぎても子どものような自称・警官のトメちゃんや、入院患者・田中くんを「ゼンシンセイシキ(全身清拭)」してくる看護婦さん、ほかにも晶子さんの家のお、お、お手伝いさん(というか)…。それもこれも暑い夏だからこそ、許される?(うーん…)。そう、私はいまだにイナゴ(夏ではなくて秋だけれど)は食べられないです(涙)。「ぼく」は小学校のころ――両親は離婚していて、お母さんはいまはピアノ教室を開いているけれど、以前、小学校の先生をしていたことがある。あ、「ぼく」にはいちおうお姉ちゃんもいる。とにかく家が貧しかったというか、その当時――にイナゴを食べていたおかげで、中学校ではハイジャンプや走り幅跳びが得意だったらしい(少なくとも「ぼく」はイナゴの力(?)を信じているらしい。ま、この小説のユーモア部分の1つかな)。食べればカルシウムは取れそうな気がするけれど、私にはよくわからんです(でも、陸上部の中学生とかは、食べればげん担ぎくらいにはなりそうな? 信じる者は救われる……というか、自分が食べられないものを人に勧めちゃダメだな)。イナゴはともかく、中心市街地にはあまり田んぼや畑はないと思うけれど(この小説を読んでいたとき、作者より1つ歳下・M市出身の母親に「ゴケン道路ってどこ?」と訊いたら、知らないけれど、カンギンのへんじゃないか、とのこと。あのへんか…。「ぼく」の家の近くのS公園にはバラ園もあったりするけれど、とにかく)でも、アメリカで収穫できるものは、たいていM市でも収穫できるんじゃないかな、と。南部といえば農業…。インド人もびっくり(?)カレーに玉ねぎを大量投入する晶子さんが、「ぼく」と行きたがっていた同伴喫茶の名前は『田園』、そのお父さん=校長先生の学校でのあだ名は「案山子(かかし)」…。庭には、金魚の池だけでなく葡萄棚もあったりする。『怒りの葡萄』…は、フォークナーではなくてジョン・スタインベックか(もちろん未読)。

最初、晶子さんの部屋がごみバケツをひっくり返したような散らかり様なのは、何か「ぼく」を試したのかな? 片付ければ片付けられる…。特大の(グロテスクな?)サンドウィッチも同じく? それはそれとして、ネタバレしてしまうけれど、最後――「ぼく」の性格は、冗談の口数は多いにしても、けっこうクールだし(関係ないか)、終始、アツはナツいしで、しかたがないとは思ったけれど、最後のほう、晶子さんでもなく加藤さんでもなく、実はいちばんの恋人だった(?)正子ママンが亡くなってしまう(もちろんアルベール・カミュ『異邦人』参照。米文学ではないけれど)。お母さん、冒頭から「ぼく」に何か言いたそうだったもんね…。で、結局のところ、この小説は若者(男子高校生)にとっての母親の死が描かれた小説、ということ?(別に下手なまとめをしなくてもいいか(汗))。人の死(「人」には自分も含まれる)は、誰にとっても他人事ではないと思うけれど。そう、「かかあ天下とからっ風」という言葉があって――個人的にはあまり好きな言い方ではないけれど(「非国民」ではなくて「非県民」呼ばわりされてしまうかな)、まぁ、夏にからっ風は吹かないからね。

この小説、M市のアピールのために、ちゃんとした人に英訳してもらって海外に向けて売り出せばいいのに。ライトな世界文学として、意外と、アメリカとかフランスあたりで微妙に受け容れられるかも(わからないけれど)。
 

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