最近読んだ小説またはエッセイ×4
2011年11月17日 読書・亀和田武「1966年冬、ハートブレイク・ホテル」/「時間の街路」
SF短篇集『時間街への招待状』(光風社、1985/新潮文庫、1987)所収、15篇収録されているうちの最初の一篇と最後の一篇。両方とも忘れられない過去=元彼女がらみの物語というか。前者(主人公の小木曾康彦は<音楽ライターとか作詞家>)では、15年前の高校3年のときのことが語られている。後者(「ぼく」=皆川幸夫はサラリーマン)では、10年前の大学1年(=1968年)くらいのときのことが語られている。前者、入試よりも彼女のほうが大事だった、みたいなことが書かれている。
<なに、志望校の入試に失敗したとしても、一年浪人すればすむ話じゃないか(略)。/なにしろ、大学の入学試験には来年があるが、恋には明日さえない。その日、その日が勝負なのだから。それくらい、ぼくは彼女に夢中だった。/多分、女と入試をハカリにかけて、あえて女を選ぶというその決断にぼくはヒロイックな喜びを味わっていたに違いない。しかし、そのことを指摘するだけでは、やはり片手落ちというものだ。彼女が素晴らしく魅力的な子でなかったら、ぼくもそこまでノボセ上がったりはしなかったはずだ。>(p.15、「康彦」ではなく「ぼく」となっているのは作中エッセイだから)
高校3年の受験生には読ませたくないというか、教育上よろしくない文章?(汗)。「ヒロイックな喜び」というのが個人的には微妙に意味がわからないな…。誰に対して「ヒロイック」? あ、自分に対してか(「俺ってかっこいい!」みたいな?)。あと、もし仮に彼女がそれほど「魅力的な子」でなかったとしたら、この人の場合、入試(受験勉強)のほうが優先されていたのかな? なんだか差別だな…。というか、どうでもいいか。どのみち、12月中にはフラれた形になっているから(汗)。しかも、ちゃんと予定通り(?)1年浪人しているようだし。そう、最後の最後、女性のほうはハッピーエンドかもしれないけれど、男性のほうは、なにやらちょっと微妙な感じ? 後者の作品=「時間の街路」は、なんていうか“学生運動もの”だけれど、主人公は浪人中(=1967年)は、まだデモとかには参加したりしていなかったのかな?(大学に入学してから?)。世代的によくわからないけれど、「神田川」の世界?(違うか)。カップルどうしで別々のセクトに属している、みたいなことは当時、よくあったの?
・久世光彦「風の童話」
小説ではなくてエッセイだけれど、小説として読んでいたような。エッセイ集『美の死 ぼくの感傷的読書』(筑摩書房、2001/ちくま文庫、2006)所収。[小川未明]という副題があるというか、初出は<「新潮日本文学アルバム60」一九九六年三月>とのこと。文庫版では7ページ弱の短いもの。私が内容を説明するより読んでもらったほうが早いと思うけれど、もう絶版?(この前、後ろの解説を書いている鴻巣友季子の『全身翻訳家』(ちくま文庫)を買ってみたら、カバー折り返しのお薦め(?)既刊本リストのところに名前が載っていなかった)。すごく面白かった…というと、気分とちょっとずれるかな(あいかわらずボキャ貧ですみません)。とりあえずある意味、感傷的な話ではある。――40年前の話、
<十九歳の秋から次の年の春近くまで、天沼のアパートで、一つ年上の女の子と暮らしたことがある。(略)――昭和三十年、私はようやく東京の生活に慣れはじめた、二年目の予備校生だった。>(p.147)
アパートは風の通り道にあったらしい。というか、久世光彦(1935年生まれ、東大卒)は浪人していたのか、知らなかった。“浪人生小説”というよりは“19歳小説”だけれど。えーと、詩ではなく童話を書く体の熱い「女の子」…。相手を傷つける若さゆえの身勝手さとか、うーん…、いい話…ではないけれど、いい話だと思う(意味不明か)。
・坂上弘「本町通り三丁目」
手もとにあるのは、旺文社文庫『遅い帰りの道で』(1978)。5篇中の3篇目。後ろの「年譜」を見ると、初出は『群像』1971年2月号であるようだ。――読んでいて意外と面白かったな。どこがどう面白かったのか、考えてみてもさっぱりわからないけれど(汗)。――15年前=昭和29年の話、大学に受かった「僕」(=信二、苗字は山崎)は家を出て、それ以前から付き合っていた美代子とアパートで同棲生活(「結婚生活」)を始める。仕事というかアルバイトをして稼がなくてはいけないし(家庭教師をしている)、美代子は妊娠して手術後には具合が悪くなっているし、大学にいけば、若い女子学生たちが華やかに見えるし――というか、なんだかんだ言って小南福子という女の子と付き合っているし…。そう、家主のHさんはいい人でよかったよね。本の後ろの「年譜」を見ると、作者は大学1年のときには杉並区高円寺のアパートに住んでいたようだけれど(その後、引っ越したりしている)、この小説=「本町通り~」は、中野区でいい?(東京のことがよくわからん、調べる気もないし(汗))。――ちゃんと登場してくるわけではないけれど、浪人中の元同級生が。
<昭和二十九年の春、友人の月岡と一緒に受けたK大学には当然受かるはずの月岡が落ちて反対に僕の方が受かってしまった。僕は受験が近づいても美代子と会ったりして殆ど家に寄りつかない生活をしており、家からせしめた受験料をおおかた使ってしまったりして、たった一つだけ受けることにしたK大の文学部に落ちたらそのままどうにでもなれというつもりだった。/(略)/しかし実際に浪人して落胆した月岡と喋っていると、(略)>(p.72)
こういうことがあるから、友達と一緒に合格発表は見に行っちゃいけない! と思うんだけれど、まぁこの2人は仲が悪くなってはいないようだから、別にいいか。月岡くん、その後、「僕」たちのアパートに転がり込んだりもしているけれど(「僕」と同じで家を出たがっている)、結局のところ、大学生にはなれたのかな?(書かれていないのでわからない)。あと、藤井という1年先輩がいるらしい。1年浪人していて「僕」と大学では同級生。(関係ないけれど、最初のへんに出てくる<路地には石炭殻>(p.69)。この「石炭殻」というのは「コークス殻」とも言う? どういうものだったんだろう?(それとも意識せず、どこかで見たことがあるのかな…)。よく知らないけれど、現在のアスファルトにしても、石油の残り部分から作られているんだっけ? であれば、似たようなもんだな、道路は。)
・三木卓「炎に追われて」
『童貞小説集』(小谷野敦編、ちくま文庫)に収録されているのってこれだっけ?(本屋で探してみたらもう売っていなかった(涙))。いま手もとにあるのは、『ミッドワイフの家』(講談社、1973/講談社文庫、1978)の文庫のほう(もちろん古本)。3篇中の2篇目に収録されている。後ろの「解説」(高橋英夫)によれば、初出は『群像』1973年1月号であるようだ。なんていうか微妙な小説? 純文学系の小説、例によって私にはところどころ意味がわからなかったりするけれど。あと、そう、あまり読んだことがないけれど、三木卓の小説って、ちょっと病んでいるように感じることがある(そんなこともない?)。ま、病んでいるのは読んでいる自分のほうかもしれないけれど(涙)。若いころ(高校~大学ぐらいのとき)に読んでいたら、どう思ったかな、この小説…。うーん、やっぱり微妙な小説だと思ったかも(わからないけれど)。――季節は最初は夏、目の前は雑草原で草ぼうぼうな借家に暮らしている大学生の「わたし」(=匹田)。大学は東大を落ちて<二期校だった地方の国立大学の学芸学部理科専攻>(p.89、「地方」といっても東京の隣県)で、高校のときには生物クラブに所属――とにかく植物や昆虫にはちょっと詳しい感じ。以前は、看護学校に通う妹の菊代(2つ歳下)も一緒に暮らしていたけれど、男(医師)を作って出て行ってからは1人きり。男子学生のひとり暮らし、掃除が行き届くはずもなく、性的にも孤独だし(解説で「性的孤独」という言葉が使われている)、その住み処を「わたし」は<窖(あなぐら)>と称している。雑草原の向こうには、はるみ(本名・山口君子)のやっている食堂兼飲み屋(「はるみ」)があって、「わたし」はふだんはそこで食事をしたり…。妹は男を知っているのに、「わたし」ははまだ女を知らない…みたいなことも言っていて、えーと、妹の友人の和子(薬科大学の学生。苗字は古石、<鍼医の娘で、われわれの地元ではよく名の通った家>とのこと、p.100)にアプローチしてみたり、はるみ(若くはないというか、胸も垂れていて、首には皺もみられる。直子という小学生の子どもが1人いる)にも結局、接近していったり…。ひと言でまとめれば、♪愛をください、ウォウォ、愛をください、ウォウォ、動物園動物園…みたいな感じ?(違うか(汗))。他人の体を必要とするという意味では、性行為というのは、多かれ少なかれ、身勝手な行為にならざるを得ないというか、ある程度の強引さがないと童貞は捨てられないというか。うーん…、思うにこの主人公、ちょっと自分勝手? 微妙に冷静でもあるかな。(よく覚えていないけれど、以前読んだことがある小檜山博『地吹雪』(河出書房新社、1982)はもっと肉食系…というか動物系だったような。一方のこちらは草食系…ではなくて、昆虫系?)――真面目な話はもういいや、疲れるから(涙)。射精とロケットはイメージ的に相性がいい?(くだらないことを言ってみる(汗))。作中年、ロシア…じゃなくてソビエトが人類初の人工衛星の打ち上げに成功…というのは、スプートニクな1957年かな。それはそれとして、「わたし」には、菊代に会いに来ていたらしい木俣という友人(のちに絶交)がいたらしい。
<(略)。かれは高校で一緒に生物クラブをやっていた男だが、二年浪人したあげく東京大学に入学したのだ。学校時代の成績はどちらかといえばわたしの方が多少良かったかもしれない。卒業後は疎遠になっていたが、ある日、かれは制帽をかぶってこの家にあらわれ、(略)>(pp.90-1)
「わたし」はあとのほうで1度、自分は東大にも受からなかった、みたいなことも言っているけれど、いわゆる「二期校コンプレックス」という感じ…はしないかな。そういえば、大学の何年生? …4年かな(ちゃんと読み直さないとわからないけれど)。
SF短篇集『時間街への招待状』(光風社、1985/新潮文庫、1987)所収、15篇収録されているうちの最初の一篇と最後の一篇。両方とも忘れられない過去=元彼女がらみの物語というか。前者(主人公の小木曾康彦は<音楽ライターとか作詞家>)では、15年前の高校3年のときのことが語られている。後者(「ぼく」=皆川幸夫はサラリーマン)では、10年前の大学1年(=1968年)くらいのときのことが語られている。前者、入試よりも彼女のほうが大事だった、みたいなことが書かれている。
<なに、志望校の入試に失敗したとしても、一年浪人すればすむ話じゃないか(略)。/なにしろ、大学の入学試験には来年があるが、恋には明日さえない。その日、その日が勝負なのだから。それくらい、ぼくは彼女に夢中だった。/多分、女と入試をハカリにかけて、あえて女を選ぶというその決断にぼくはヒロイックな喜びを味わっていたに違いない。しかし、そのことを指摘するだけでは、やはり片手落ちというものだ。彼女が素晴らしく魅力的な子でなかったら、ぼくもそこまでノボセ上がったりはしなかったはずだ。>(p.15、「康彦」ではなく「ぼく」となっているのは作中エッセイだから)
高校3年の受験生には読ませたくないというか、教育上よろしくない文章?(汗)。「ヒロイックな喜び」というのが個人的には微妙に意味がわからないな…。誰に対して「ヒロイック」? あ、自分に対してか(「俺ってかっこいい!」みたいな?)。あと、もし仮に彼女がそれほど「魅力的な子」でなかったとしたら、この人の場合、入試(受験勉強)のほうが優先されていたのかな? なんだか差別だな…。というか、どうでもいいか。どのみち、12月中にはフラれた形になっているから(汗)。しかも、ちゃんと予定通り(?)1年浪人しているようだし。そう、最後の最後、女性のほうはハッピーエンドかもしれないけれど、男性のほうは、なにやらちょっと微妙な感じ? 後者の作品=「時間の街路」は、なんていうか“学生運動もの”だけれど、主人公は浪人中(=1967年)は、まだデモとかには参加したりしていなかったのかな?(大学に入学してから?)。世代的によくわからないけれど、「神田川」の世界?(違うか)。カップルどうしで別々のセクトに属している、みたいなことは当時、よくあったの?
・久世光彦「風の童話」
小説ではなくてエッセイだけれど、小説として読んでいたような。エッセイ集『美の死 ぼくの感傷的読書』(筑摩書房、2001/ちくま文庫、2006)所収。[小川未明]という副題があるというか、初出は<「新潮日本文学アルバム60」一九九六年三月>とのこと。文庫版では7ページ弱の短いもの。私が内容を説明するより読んでもらったほうが早いと思うけれど、もう絶版?(この前、後ろの解説を書いている鴻巣友季子の『全身翻訳家』(ちくま文庫)を買ってみたら、カバー折り返しのお薦め(?)既刊本リストのところに名前が載っていなかった)。すごく面白かった…というと、気分とちょっとずれるかな(あいかわらずボキャ貧ですみません)。とりあえずある意味、感傷的な話ではある。――40年前の話、
<十九歳の秋から次の年の春近くまで、天沼のアパートで、一つ年上の女の子と暮らしたことがある。(略)――昭和三十年、私はようやく東京の生活に慣れはじめた、二年目の予備校生だった。>(p.147)
アパートは風の通り道にあったらしい。というか、久世光彦(1935年生まれ、東大卒)は浪人していたのか、知らなかった。“浪人生小説”というよりは“19歳小説”だけれど。えーと、詩ではなく童話を書く体の熱い「女の子」…。相手を傷つける若さゆえの身勝手さとか、うーん…、いい話…ではないけれど、いい話だと思う(意味不明か)。
・坂上弘「本町通り三丁目」
手もとにあるのは、旺文社文庫『遅い帰りの道で』(1978)。5篇中の3篇目。後ろの「年譜」を見ると、初出は『群像』1971年2月号であるようだ。――読んでいて意外と面白かったな。どこがどう面白かったのか、考えてみてもさっぱりわからないけれど(汗)。――15年前=昭和29年の話、大学に受かった「僕」(=信二、苗字は山崎)は家を出て、それ以前から付き合っていた美代子とアパートで同棲生活(「結婚生活」)を始める。仕事というかアルバイトをして稼がなくてはいけないし(家庭教師をしている)、美代子は妊娠して手術後には具合が悪くなっているし、大学にいけば、若い女子学生たちが華やかに見えるし――というか、なんだかんだ言って小南福子という女の子と付き合っているし…。そう、家主のHさんはいい人でよかったよね。本の後ろの「年譜」を見ると、作者は大学1年のときには杉並区高円寺のアパートに住んでいたようだけれど(その後、引っ越したりしている)、この小説=「本町通り~」は、中野区でいい?(東京のことがよくわからん、調べる気もないし(汗))。――ちゃんと登場してくるわけではないけれど、浪人中の元同級生が。
<昭和二十九年の春、友人の月岡と一緒に受けたK大学には当然受かるはずの月岡が落ちて反対に僕の方が受かってしまった。僕は受験が近づいても美代子と会ったりして殆ど家に寄りつかない生活をしており、家からせしめた受験料をおおかた使ってしまったりして、たった一つだけ受けることにしたK大の文学部に落ちたらそのままどうにでもなれというつもりだった。/(略)/しかし実際に浪人して落胆した月岡と喋っていると、(略)>(p.72)
こういうことがあるから、友達と一緒に合格発表は見に行っちゃいけない! と思うんだけれど、まぁこの2人は仲が悪くなってはいないようだから、別にいいか。月岡くん、その後、「僕」たちのアパートに転がり込んだりもしているけれど(「僕」と同じで家を出たがっている)、結局のところ、大学生にはなれたのかな?(書かれていないのでわからない)。あと、藤井という1年先輩がいるらしい。1年浪人していて「僕」と大学では同級生。(関係ないけれど、最初のへんに出てくる<路地には石炭殻>(p.69)。この「石炭殻」というのは「コークス殻」とも言う? どういうものだったんだろう?(それとも意識せず、どこかで見たことがあるのかな…)。よく知らないけれど、現在のアスファルトにしても、石油の残り部分から作られているんだっけ? であれば、似たようなもんだな、道路は。)
・三木卓「炎に追われて」
『童貞小説集』(小谷野敦編、ちくま文庫)に収録されているのってこれだっけ?(本屋で探してみたらもう売っていなかった(涙))。いま手もとにあるのは、『ミッドワイフの家』(講談社、1973/講談社文庫、1978)の文庫のほう(もちろん古本)。3篇中の2篇目に収録されている。後ろの「解説」(高橋英夫)によれば、初出は『群像』1973年1月号であるようだ。なんていうか微妙な小説? 純文学系の小説、例によって私にはところどころ意味がわからなかったりするけれど。あと、そう、あまり読んだことがないけれど、三木卓の小説って、ちょっと病んでいるように感じることがある(そんなこともない?)。ま、病んでいるのは読んでいる自分のほうかもしれないけれど(涙)。若いころ(高校~大学ぐらいのとき)に読んでいたら、どう思ったかな、この小説…。うーん、やっぱり微妙な小説だと思ったかも(わからないけれど)。――季節は最初は夏、目の前は雑草原で草ぼうぼうな借家に暮らしている大学生の「わたし」(=匹田)。大学は東大を落ちて<二期校だった地方の国立大学の学芸学部理科専攻>(p.89、「地方」といっても東京の隣県)で、高校のときには生物クラブに所属――とにかく植物や昆虫にはちょっと詳しい感じ。以前は、看護学校に通う妹の菊代(2つ歳下)も一緒に暮らしていたけれど、男(医師)を作って出て行ってからは1人きり。男子学生のひとり暮らし、掃除が行き届くはずもなく、性的にも孤独だし(解説で「性的孤独」という言葉が使われている)、その住み処を「わたし」は<窖(あなぐら)>と称している。雑草原の向こうには、はるみ(本名・山口君子)のやっている食堂兼飲み屋(「はるみ」)があって、「わたし」はふだんはそこで食事をしたり…。妹は男を知っているのに、「わたし」ははまだ女を知らない…みたいなことも言っていて、えーと、妹の友人の和子(薬科大学の学生。苗字は古石、<鍼医の娘で、われわれの地元ではよく名の通った家>とのこと、p.100)にアプローチしてみたり、はるみ(若くはないというか、胸も垂れていて、首には皺もみられる。直子という小学生の子どもが1人いる)にも結局、接近していったり…。ひと言でまとめれば、♪愛をください、ウォウォ、愛をください、ウォウォ、動物園動物園…みたいな感じ?(違うか(汗))。他人の体を必要とするという意味では、性行為というのは、多かれ少なかれ、身勝手な行為にならざるを得ないというか、ある程度の強引さがないと童貞は捨てられないというか。うーん…、思うにこの主人公、ちょっと自分勝手? 微妙に冷静でもあるかな。(よく覚えていないけれど、以前読んだことがある小檜山博『地吹雪』(河出書房新社、1982)はもっと肉食系…というか動物系だったような。一方のこちらは草食系…ではなくて、昆虫系?)――真面目な話はもういいや、疲れるから(涙)。射精とロケットはイメージ的に相性がいい?(くだらないことを言ってみる(汗))。作中年、ロシア…じゃなくてソビエトが人類初の人工衛星の打ち上げに成功…というのは、スプートニクな1957年かな。それはそれとして、「わたし」には、菊代に会いに来ていたらしい木俣という友人(のちに絶交)がいたらしい。
<(略)。かれは高校で一緒に生物クラブをやっていた男だが、二年浪人したあげく東京大学に入学したのだ。学校時代の成績はどちらかといえばわたしの方が多少良かったかもしれない。卒業後は疎遠になっていたが、ある日、かれは制帽をかぶってこの家にあらわれ、(略)>(pp.90-1)
「わたし」はあとのほうで1度、自分は東大にも受からなかった、みたいなことも言っているけれど、いわゆる「二期校コンプレックス」という感じ…はしないかな。そういえば、大学の何年生? …4年かな(ちゃんと読み直さないとわからないけれど)。
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