昨年(2013年)読んだ本、小谷野敦『川端康成伝 双面の人』(中央公論新社、2013.5)。例によって自分、あまりに無知すぎて、読んでいて全然頭に入って来ない(涙)。でも『久米正雄伝』より読みやすくてよかった(『谷崎伝』『里見伝』は読んでいないのでわからない。そういえば、少し前にあまり行かない本屋に寄ったら『里見伝』がまだ売っていて、思いきって買っちゃえばよかったな)。で、細かい話だけれど、というか、自分でもよくわかっていないので、人のことが全然言えないけれど、入試制度(受験制度)に関して。
〈当時は中学校を四年修了すれば高等学校へ行けたが、康成は五年いて卒業している。〉p.70
〈大正六年三月、[大阪の]茨木中学校を卒業。高校はまだ九月開始だったため、試験は七月だった。(略)川端は一高を志願し、第二志望が三高、第三志望が鹿児島高等学校だったというが、鹿児島を受けたかどうか、分からない。〉p.83
〈一高入試は七月十一日かや十四日までで、(略)。その後関西へ帰って三高も受けたようだ。合格発表は八月九日で、(略)。〉p.88
竹内洋や天野郁夫の本を読み返したりして(あと、すっかり忘れていたけれど、秦郁彦『旧制高校物語』[文春新書、2003]という本も持っていた)、調べてみたところ、いわゆる「四修」でも受験が可能になるのは、大正7年(1918年)末に公布された「高等学校令」によってで、実施は翌年の大正8年(1919年)からになるらしい。だから中学校の学年でいえば、川端康成の3つ下の学年から。あと、大正6~7年(1917~1918年)の高等学校の入試は、「共通試験総合選抜」に分類されるもので、「共通」というのは全国の高等学校で同じ試験、「単独選抜」ではない「総合選抜」というのは、各高等学校で合格者を決めるのではなくて、ーー要するにたぶん、川端康成は京都にも鹿児島にも受験しには行っていない。その必要がないから。このへんのことがわかっていないと、久米正雄「受験生の手記」(1918)の「作者付記」(大正七年二月)に、
〈だからこの話は受験制度が今のように綜合的に改良されない、以前の事であると思って貰いたい。〉
と書かれていても、意味がわからないということになる(主人公の健吉は一高に落ちても第二志望以下に受かったのではないか? とか、松井くんは「都落ち」しなくても一高で受けられたのでは? とか「今」の人は思ってしまう?)。
そのほか少し。
〈大正九年(一九二〇) 22歳/ 三月、一高を卒業。〉p.614(年譜)
たんなる誤植かな。「三月」ではない。もう1ヶ所、これも細かいところだけれど、たまたま本を持っていて、気づいた、
〈小学校高学年の四年間の母宛書簡を、母[波多野]勤子が『少年期』(一九五〇)として刊行〉p.301
中学校(旧制)の4年間。
[追記(2016.06.08)] 七高(鹿児島)がよくわからないんだけど、ほかの高校よりも試験が1ヶ月早くて東京でも受験できた、という話は、大正5年までで大正6年からは無理?
[追記2(2016.06.08)] ちょっと時系列に整理。
大正6年(1917年)
・3月 川端、中学卒業。
・7月 川端、高校受験。
・9月 受験雑誌『考へ方』創刊。
・9月 川端、一高入学。
大正7年(1918年)
・3月 久米「受験生の手記」。
・5月 久米『学生時代』。
・10月 受験雑誌『受験と学生』創刊。
・10月 川端、伊豆へ旅行。
・12月 高等学校令(→四修での受験が可能に)。
*
昭和2年(1926年)
・1~2月 川端「伊豆の踊子」。
〈当時は中学校を四年修了すれば高等学校へ行けたが、康成は五年いて卒業している。〉p.70
〈大正六年三月、[大阪の]茨木中学校を卒業。高校はまだ九月開始だったため、試験は七月だった。(略)川端は一高を志願し、第二志望が三高、第三志望が鹿児島高等学校だったというが、鹿児島を受けたかどうか、分からない。〉p.83
〈一高入試は七月十一日かや十四日までで、(略)。その後関西へ帰って三高も受けたようだ。合格発表は八月九日で、(略)。〉p.88
竹内洋や天野郁夫の本を読み返したりして(あと、すっかり忘れていたけれど、秦郁彦『旧制高校物語』[文春新書、2003]という本も持っていた)、調べてみたところ、いわゆる「四修」でも受験が可能になるのは、大正7年(1918年)末に公布された「高等学校令」によってで、実施は翌年の大正8年(1919年)からになるらしい。だから中学校の学年でいえば、川端康成の3つ下の学年から。あと、大正6~7年(1917~1918年)の高等学校の入試は、「共通試験総合選抜」に分類されるもので、「共通」というのは全国の高等学校で同じ試験、「単独選抜」ではない「総合選抜」というのは、各高等学校で合格者を決めるのではなくて、ーー要するにたぶん、川端康成は京都にも鹿児島にも受験しには行っていない。その必要がないから。このへんのことがわかっていないと、久米正雄「受験生の手記」(1918)の「作者付記」(大正七年二月)に、
〈だからこの話は受験制度が今のように綜合的に改良されない、以前の事であると思って貰いたい。〉
と書かれていても、意味がわからないということになる(主人公の健吉は一高に落ちても第二志望以下に受かったのではないか? とか、松井くんは「都落ち」しなくても一高で受けられたのでは? とか「今」の人は思ってしまう?)。
そのほか少し。
〈大正九年(一九二〇) 22歳/ 三月、一高を卒業。〉p.614(年譜)
たんなる誤植かな。「三月」ではない。もう1ヶ所、これも細かいところだけれど、たまたま本を持っていて、気づいた、
〈小学校高学年の四年間の母宛書簡を、母[波多野]勤子が『少年期』(一九五〇)として刊行〉p.301
中学校(旧制)の4年間。
[追記(2016.06.08)] 七高(鹿児島)がよくわからないんだけど、ほかの高校よりも試験が1ヶ月早くて東京でも受験できた、という話は、大正5年までで大正6年からは無理?
[追記2(2016.06.08)] ちょっと時系列に整理。
大正6年(1917年)
・3月 川端、中学卒業。
・7月 川端、高校受験。
・9月 受験雑誌『考へ方』創刊。
・9月 川端、一高入学。
大正7年(1918年)
・3月 久米「受験生の手記」。
・5月 久米『学生時代』。
・10月 受験雑誌『受験と学生』創刊。
・10月 川端、伊豆へ旅行。
・12月 高等学校令(→四修での受験が可能に)。
*
昭和2年(1926年)
・1~2月 川端「伊豆の踊子」。
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