☆雑誌について雑記。
2011年3月10日 読書
(※あちこち間違っていたので、書き直すためにいったん削除しました。2017.08.30)
(※うまく直せそうにないので、いったんそのまま元に戻します。2021.09.09)
*
この前、初めて中学校受験生(あるいはその親御さんたち)向けの雑誌『進学レーダー』(みくに出版)を買ってみたよ。2011年3月号。子どもはいないし、もちろん自分が受験をするわけでもないし、目当ては、特集の「私学と作家 もう一つの私立中学案内」。――その「城北」についての箇所、<安岡章太郎は、浪人一年目は[城北高等補習学校の]夜間部にいて、二年目から中間部に入る。>とある(p.24、[括弧]は私の補足、以下同じ)。1年目が夜間部だったのか、知らなかったです(でもどうして1年目だけ?)。ここの記事の執筆者は、荻原魚雷(おぎはら・ぎょらい)。何で読んだのだったか、この人はたしか大学受験で浪人をしていたと思う。それどころか(だいぶ前に買っていまだに読んでいないけれど)遊学社編『ザ・浪人 元気の出る浪人生活入門』(第三書館、新版・1993)という本の後ろのへん、「EDITORIAL STAFF」のいちばん上に名前が見える。武藤康史とかと違って、浪人がらみの発言には信頼が置けるかもしれない。
隣のページ(p.25、執筆者は河上進=南陀楼綾繁)を見れば、ミステリ作家、直木賞作家の結城昌治は、旧制中学に入るのに浪人をしているらしい。中学浪人している作家も、いなそうで実はけっこういる?(黒岩重吾もそうじゃなかったっけ?)。でも、中学浪人はいったん高等小学校に入学して(翌年また受験)みたいなことも多いし、実態がわかりにくいような…。――そもそも思うに、こういう、作家と結びつけた形の学校案内を読んで、「ここに入りたい!」と思う小学生は、いったいどれくらいいるのかな?(やっぱり少数派だろうね)。
* * *
この前、たまたま目に入ったのだけれど、『占領期雑誌資料大系 文学編Ⅳ』(岩波書店、2010)という本に、水谷準「フェア・プレー」というエッセイが収録されていて(pp.246-8)。掲載誌は、
<『学生』33巻6号 研究社出版(東京)/1949年6月1日>(p.246)
とのこと(漢数字はアラビア数字に直した。以下の引用でも同様)。[解題]は、次のように書き始められている。
<掲載誌は1916年に創刊された『中学生』の後継誌。巻号はそのまま続いている。表紙には「主筆大佛次郎」とあり、大佛は毎号「鎌倉通信」を連載。(略)>(同頁)
個人的にまた頭の中に「?」が増えてくる感じだけれど(涙)、この『学生』という読み物雑誌の前身は、1918年(大正7年)創刊の受験雑誌『受験と学生』ではないのか? 庭野吉弘『日本英学史叙説 英語の受容から教育へ』(研究社、2008)という本では、『中学生』ではなく『受験と学生』の後継誌という感じで記述されている(pp.468-9)。巻数を考えると――1年に1巻出ているとすれば、1917年に第1巻が? であれば、両誌とも変だな。出されなかった年があるとすれば、1916年創刊はいいけれど、1918年創刊では(1年足りないから)ダメだな(うーん…)。あ、『学生』はいちど誌名を『中学生』と変えたことがあるらしく、ひょっとして2誌が合併した可能性も?(よくわからんです)。
青木雨彦『男と女の泣きボクロ』(集英社文庫、1984)というエッセイ集に、次のような箇所がある。
<私立のなかでも、早稲田に決めたのは、当時、たまたま読んだ新庄嘉章というひとの、早稲田大学を紹介した文章に、井伏鱒二さんの『休憩時間』という小説が引用してあったからだ。(略)/新庄さんの文章は、たしか「螢雪時代」に対抗して創刊された「学生」とかいう雑誌に掲載されていた。(略)>(p.328、「勉強が嫌いだ」)
著者は(黒井千次と同じで)1932年生まれ。雑誌って似たような名前のものも多いし、私にはよくわからないけれど、『日本英学史叙説』によれば、読み物雑誌化していた『学生』(研究社)は、1950年1月号から再び受験雑誌(学習雑誌)に戻ったらしいので――要するに当時高校生だった青木氏は(「たしか」という言葉はたしかでないときに使われる)雑誌のリニューアルを創刊だと勘違いしたのではないか、と思う(のだけれど、どうでしょうか?)。ちなみに『(受験と)学生』はその後も誌名を変えたりして、最後は、『高校英語研究』として1996年3月号で休刊に。結局、80年近くの歴史があったことになる。
+ + +
その昔、第1回の芥川賞(1935年の上半期)の候補作は、
石川達三 「蒼氓」(受賞作)
外村繁 「草筏」
高見順 「故旧忘れ得べき」
衣巻省三 「けしかけられた男」
太宰治 「逆行」
の5作だったらしい。だからどうした? という感じだけれど、まず、上から4番目の人については私はまったく知らない。残りの4人のうち、中学卒業後に浪人しているのは石川(1浪→早稲田大学第二高等学院、新庄嘉章は同級生)と外村(1浪→三高)。あとの2人は――太宰(四修で弘前高校)と高見(四修では落ちて卒業の年に一高)――は浪人していない。関係ないけれど、太宰治「逆行」(掌篇4作の総題)のうちの一篇「盗賊」(2篇目)の書き出しは、
<ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐のない努力の美しさ。(略)>
となっている(いま手もとにあるのは新潮文庫『晩年』)。主人公は東京帝大生で「落第」というのは留年のことだけれど、この冒頭部分は、安岡章太郎の浪人生小説「青葉しげれる」(新潮文庫『質屋の女房』など所収)の冒頭部分に受け継がれている。
<ことし、また落第ときまった。何とも奇妙な心持だった。>
主人公は不合格通知が届いて浪人3年目が決定。――ま、太宰治は措いておいて、石川達三について。いま手もとにあるのは、『日本の文学 56 石川達三』(中央公論社、1966)という本。後ろの「年譜」(久保田正文)を見ると、1905年(の7月)生まれで、小学校卒業の年(1918年)に府立一中(のちの都立日比谷高校)を受験して落ちている。で、いったん高等小学校に通って、翌年(1919年)、岡山県立の中学校に。途中で転校(というか)をして、1924年に関西中学を卒業。1924年(大正13年、19歳)のところをそっくり引用すれば、
<3月、関西中学を卒業。岡山の第六高等学校を受験したが不合格。一年間の浪人生活のあいだに、ゾラ、アナトール・フランス、石川啄木、島崎藤村などを熟読し、初めて詩や小説を書いた。雑誌「受験と学生」に手記を投稿して2回ほど当選し、その都度3円ぐらいの賞金を得た。海軍志願の熱は次第に薄らぎ、小説家になろうかと考えたが自信はなく、新聞記者がよいかと思ったりした。>
とのこと。「手記」というのは具体的には? いちど落ちているから不合格体験記とか?(わからない)。菅原亮芳編『受験・進学・学校 近代日本教育雑誌にみる情報の研究』(学文社、2008)という本によれば、英語研究社(のちの研究社)の創業者・小酒井五一郎は、その出版社の設立以前に、神田の書籍取次店に勤めていて、
<1906(明治39)年3月島崎藤村の自費出版小説『破戒』(1906年)が刷り上ったとき、小さな荷車で運んできたのも小酒井であった。>(p.50)
そうだ。同じ本=『受験・進学・学校』には、『受験と学生』の創刊号(1918年10月号)の「構成」が載っていて(表1.2.2、pp.54-5)、それを見ると、「一高ロマンス」という記事(?)を「野尻草雄」という人が書いている。「一高ロマンス」はもともと『中学世界』(博文館)で連載されていたもので(1915年から翌年まで)、1918年に東亜堂というところから単行本が出されている。昔、一高を受験する中学生がよく読んだという話もあるけれど、本当? それで、なんていうか、別の雑誌でその続編の連載が登場?(それとも単発の、いま風にいえばスピンオフ?)。執筆者の「野尻草雄」というのは、何を隠そう(?)大佛次郎のことだ。その“一高通信”がのちに「鎌倉通信」に変わっちゃうわけだけれど(違うか)、接点というかは、12歳年上のお兄さん・天文屋(?)の野尻抱影(星座についての本がたくさん)が研究社に勤めていたらしい(この出版社からも星座の本が)。創刊号にはほかに、のちに城北高等補習学校=城北予備校をつくる、府立四中の校長・深井鑑一郎の名前なんかも見られる。(和文英訳について書いている久保田正次という人は、久保田正文の弟?)
+ + +
3、4ヶ月くらい前だったか、北村薫・宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』(ちくま文庫、2008)に収録されている戸板康二「少年探偵」という小説を読んでいたら、ちょっとびっくり、2番目の“野球グローブ行方不明事件”(?)はほかでもない、研究社で起っている。社の隣には社長の小宮山さん宅があって、子どもの中学生2人兄弟の弟のほうが、お父さんに神田の美津濃(!)で買ってもらったグローブをなくしている。そういえば(もう4、5年くらい東京にすら出かけていないけれど)、あのへん(=神田とか、御茶ノ水駅のへん)って、楽器だけでなくスポーツ用具も売っているよね。――そんなことより、いったいいつの時代の話なんだろう?(初出が書かれていない)。あと、推理小説だからか、作中に小酒井不木の名前が出てくるけれど、初代社長とは無関係?(関係ないっぽいな。苗字が同じだとちょっと気にはなる)。
話を戻してもう1人、高見順について。“全集”なのに統一感がないけれど(ブックオフで適当に買っているので)、いま手もとにあるのは、『現代日本の文学 24 高見順集』(学習研究社、1970)という本。後ろの年譜などによれば、1907年の早生まれ。1919年、府立一中入学。1923年、四修で一高を受けるも不合格に。翌1924年、一高入学。1927年、東京帝大入学。1930年、同卒業。――で、まだ読んでいないのだけれど、『故旧忘れ得べき』という小説(単行本は、1936年に人文社というところから出ているようだ)。芥川賞の候補になったのは連作中の、途中までのもののようだ。最初のへんを読むと――主人公・小関は、英語雑誌の出版社に勤めていて、いまは英和辞書編纂部で働いている。で、ちょっとびっくり、どれくらい反映されているのやら、この出版社は研究社がモデルになっているようだ。作者は、大学を(3月に)卒業後、市河三喜(ビッグネームやな)の紹介で研究社の英和辞典編纂部に、臨時雇として勤めていたらしい(秋にはコロムビア・レコードに就職したらしいので、結局、半年くらい?)。あ、高見は、正社員の小関のほうではなく、臨時雇の「友人」のほうの立場だったのか。
あと、関係ないけれど、手もとにある本(学研の文学全集の一巻)には、『わが胸の底のここには』という小説も収録されている(単行本は1949年に出ているようだ、エピグラフにも使われているけれど、書名の出典は島崎藤村)。これも内容は措いておいて、とりあえず次のような箇所がある。
<「一高合格率が全国一だなんて自慢してるんだったら、日土講習会なんかとおんなしじゃないか」>(「おんなし」に傍点)
<――その頃、そうした耽読と同時に、受験参考書もとにかく耽読していたのだが、その参考書のひとつの、当時藤森の「考へ方」などとともに有名な南日の「英文和訳法」に、こんな英文があった。(略)>(「藤森」と「南日」に傍点)
下のほう、このあと国語の塚本のものとか、受験参考書の名前があれこれ(それほど多くはないか)と出てくるけれど――要するに何が言いたいかといえば、高見順は受験雑誌でいえば、『受験と学生』派ではなくて、『考へ方』派? あ、上の<藤森の「考へ方」>というのは、受験雑誌『考へ方』(考へ方研究社、1917年創刊)ではなくて、文脈的にたぶん藤森良蔵の参考書(数学)のシリーズだと思う。
+ + +
そう、個人的にいまだによくわからないのが、松本清張の小説「父系の指」(新潮文庫『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』など所収)に出てくる受験雑誌『受験と学生』。私の勘では、研究社から出ていた同名の雑誌とは、たぶん別もの(実名ではなく虚名)だと思うけれど、よくわからない。(自伝的エッセイ集『半生の記』を読むと、松本清張の父方の、血縁上の叔父さんの名前なども書かれているけれど、それだけではよくわからない。…ちゃんと調べないと。)
* * *
もともとネットで知ったんだっけ、藤森成吉編『受験小説選集』という本があるらしい。最低でも1作くらい浪人生が出てくる小説が入っていそうな予感がするので、ずっと気にはなっているのだけれど、例によって最寄りの図書館にはなくて。その後、板倉聖宣『かわりだねの科学者たち』(仮説社、1987)という本の、藤森良蔵について書かれている章を読んでいたら、その本=『受験小説選集』は、「考へ方叢書」(考へ方研究社)の1冊として出されたもの(pp.219-20)だということがわかった。――邪推すれば、プロの作家が書いたものではなくて、受験雑誌『考へ方』の懸賞小説の当選作などから選んで編んだもの? 要するに読者(受験生)が書いた小説が集められているのかな?(わからんです)。ちなみに、血縁関係があるのかわからないけれど、良蔵と成吉は、とりあえず同郷(信州上諏訪)ではあるらしい。小野圭次郎は同郷(福島)の出版社社長に頼まれて、最初の参考書『英文の解釈 考へ方と訳し方』(書名は微妙な異同あり、初版は山海堂、1921)を書いたらしいけれど――副題に「考へ方」とあるのは、藤森良蔵のアドバイスらしい――、良蔵は、同郷の縁で成吉に頼んだのかな?(やっぱりちゃんと調べないとわからないな、こういうことは)。小島信夫(3浪→一高)は、森敦(1浪→一高)がデビューする以前にその名前を知っていた、『考へ方』に森敦の講演録(森は当時、一高生)が載っていたから、みたいなことを書いていたと思うけれど、一般に(?)受験雑誌って、一高(のちの世なら東大)をはじめとする有名な学校との強いコネクション、ネットワークをあれこれ持っていそうだよね。
* * *
で、なんとなく藤森成吉を読んでみたいと思っていて、先月(2月)、地元の古本屋(あまりちゃんとしたところではないけれど)に行ったら、たまたま筑摩書房『現代日本文學全集』の第77巻(1957)が売っていたので(105円)、なんとなく買ってみる(箱とかけっこうぼろぼろ、藤森以外にこの巻に収録されているのは、前田河廣一郎、徳永直、村山知義)。後ろの解説を書いているのは、木村毅(きむら・き)。
<難関の一高へは、当時できた推薦制度で、無試験入学をゆるされた。二年あとの久米正雄が「藤森君は最初の無試験入学のトップだった。僕などは同じ無試験入学でも八番だった。全国の秀才のあつまる一高を、しかも無試験の一番というのだから、藤森君がどんな秀才だったか推して知るべし」と、言っていたのをきいたことがある。久米は、当時のいわゆるブルジョア文学の代表のようにみられ、藤森氏とは、仲がわるいというのではなくても、疎遠ではあった、それがそう言っていたのだ。>(p.404、「藤森成吉の人と作品」。旧漢字は勝手に直した、以下同様)
夏目漱石の娘に振られた(松岡譲に負けた)久米正雄に対して、本の後ろの年譜を見てちょっとびっくり、藤森成吉は大学卒業と同時に岡倉由三郎(これまたビッグネームやな)の娘と結婚している。――それはともかく、解説の最後がちょっと面白い。長めに引用させてもらえば、
<さいごに一つの挿話で、この小稿を結ぼう。あるとき逗子をたずねて話していたら、藤森氏はまだ小綬鶏をくったことがないというので、私はいつか贈ろうといって、それを猟友会の会長にたのんだ。ところがこの人は、終戦後、人民裁判にかけられ、共産党をにくむこと蛇蝎のごとく極端なのである。おくり先が藤森氏だときくと、ちょっと緊張した顔をしたが、/「しかし、あの人は共産党員のなかで、一ばんいい人だ。よし心得た。うってきてとどけよう」と快諾してくれた。しかし、不猟だったらしく、ニ、三ヵ月ののちに二羽だけとどけてくれた。この日本猟友会の会長とはすなわち旺文社の赤尾好夫社長なのである。多分この話は、藤森氏の人がらを考えるのに、一つの示唆となるであろう。>(p.406)
「小綬鶏」の読み方がわからない(涙)。なに鳥? とりあえずいま漢和辞典で「綬」を引いてみたら「綬鶏(じゅけい)」というのが載っていて、七面鳥の別名、とのこと。――それはともかく。木村・赤尾がどういう仲なのか知らないけれど、↑を読むと、受験雑誌『螢雪時代』(旺文社)の懸賞小説の選者を、木村毅が担当していたのも別に不思議ではないと思える。
+ + +
旺文社は今年、創業40周年らしいよ。……というのは嘘で、今年(2011年)創業80年を迎えたらしいよ。有名な参考書というか、原仙作『英文標準問題精講〔改訂新版〕』(旺文社)には、次のように書かれている。
<旺文社が創業40年を迎えた。昭和6年といえば、赤尾社長もまだ白面の青年であり、私も京城の龍山公立中学校の英語教師になったばかりの青二才であった。そのとき赤尾氏の依頼によって2年がかりで書き上げたのが本書の初版であった。(略)すでに3回にわたって改訂を行なったが、今回の改訂では(略)>
「改訂新版の序」(p.2)より。去年(2010年)ブックオフで買ったんだっけな、この本。奥付というか表紙カバーの折り返しのところによれば、この改訂新版=3訂版は、1971年に出ている(著者の原仙作が亡くなったのは、1974年)。初版は、1933年(=昭和8年)に出ている。そう、どうでもいいことだけれど、江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか 英語教育の社会文化史』(研究社、2008)という本の「表2-6」(p.78)。私がたまたま持っている「1971年版」がなぜか抜けている(涙)。というか、『英標』はいままでに何種類の版が出ているの? ――ま、それはともかく。例によってお金のないなか、私は、80周年記念の↓復刊本2冊を買っちゃったんだよね。
赤尾好夫編『英語基本単語熟語集』(5訂版、旺文社、1966)
*通称『(赤尾の)豆単』。初版は1942年とも1935年とも。
赤尾好夫編『英語の綜合的研究』(6訂版、旺文社、1964)
*初版は1941年。
昔、使っていたわけではないから「懐かしい」わけでもないし、買ったのはいいけれど、今後、あまり使い道もないような…。あ、これらを使って英語の勉強をすればいいのか(盲点だった。←嘘つけ!)。というか、80年もの歴史があって……批判はやめておこうか。持っていないけれど(最寄りの図書館にはある)、『日本国「受験ユーモア」五十五年史』(旺文社、1985)みたいな、なんていうか“読める本”ならいいけれど。記念本として。そう、『豆単』といえば、私は高校生のときに『英単語ターゲット1900』(旺文社、初版は1984)を持っていて。ぜんぜん覚えられなかったけれど(本のせいではなく怠惰のせい)、著者の宮川幸久氏は、一昨年(=2008年に)亡くなっている。
「40年」でも「55年」でもわりとそうだけれど、「80年」と聞いてもあまりピンとこないな、個人的には。ある程度の想像はできるけれど。――『螢雪時代』の前身の『受験旬報』の創刊は、1932年10月らしい。今年は2011年、旺文社の『螢雪時代』は、研究社の『受験と学生』~『高校英語研究』(1918年~1996年。途中、受験雑誌ではなくなっているけれど)の歴史的な長さを、やっと追い抜いたようだ。
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[参考文献] 本文中で書名を挙げたもの以外。
板倉聖宣責任編集『週刊朝日百科 日本の歴史103 近代Ⅰ-4 学校と試験』朝日新聞社、1988。
竹内洋『立志・苦学・出世 受験生の社会史』講談社現代新書、1991。
高田里惠子『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』中公新書、2008。
森敦『酩酊船 森敦初期作品集』講談社文芸文庫、2008。
(※うまく直せそうにないので、いったんそのまま元に戻します。2021.09.09)
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この前、初めて中学校受験生(あるいはその親御さんたち)向けの雑誌『進学レーダー』(みくに出版)を買ってみたよ。2011年3月号。子どもはいないし、もちろん自分が受験をするわけでもないし、目当ては、特集の「私学と作家 もう一つの私立中学案内」。――その「城北」についての箇所、<安岡章太郎は、浪人一年目は[城北高等補習学校の]夜間部にいて、二年目から中間部に入る。>とある(p.24、[括弧]は私の補足、以下同じ)。1年目が夜間部だったのか、知らなかったです(でもどうして1年目だけ?)。ここの記事の執筆者は、荻原魚雷(おぎはら・ぎょらい)。何で読んだのだったか、この人はたしか大学受験で浪人をしていたと思う。それどころか(だいぶ前に買っていまだに読んでいないけれど)遊学社編『ザ・浪人 元気の出る浪人生活入門』(第三書館、新版・1993)という本の後ろのへん、「EDITORIAL STAFF」のいちばん上に名前が見える。武藤康史とかと違って、浪人がらみの発言には信頼が置けるかもしれない。
隣のページ(p.25、執筆者は河上進=南陀楼綾繁)を見れば、ミステリ作家、直木賞作家の結城昌治は、旧制中学に入るのに浪人をしているらしい。中学浪人している作家も、いなそうで実はけっこういる?(黒岩重吾もそうじゃなかったっけ?)。でも、中学浪人はいったん高等小学校に入学して(翌年また受験)みたいなことも多いし、実態がわかりにくいような…。――そもそも思うに、こういう、作家と結びつけた形の学校案内を読んで、「ここに入りたい!」と思う小学生は、いったいどれくらいいるのかな?(やっぱり少数派だろうね)。
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この前、たまたま目に入ったのだけれど、『占領期雑誌資料大系 文学編Ⅳ』(岩波書店、2010)という本に、水谷準「フェア・プレー」というエッセイが収録されていて(pp.246-8)。掲載誌は、
<『学生』33巻6号 研究社出版(東京)/1949年6月1日>(p.246)
とのこと(漢数字はアラビア数字に直した。以下の引用でも同様)。[解題]は、次のように書き始められている。
<掲載誌は1916年に創刊された『中学生』の後継誌。巻号はそのまま続いている。表紙には「主筆大佛次郎」とあり、大佛は毎号「鎌倉通信」を連載。(略)>(同頁)
個人的にまた頭の中に「?」が増えてくる感じだけれど(涙)、この『学生』という読み物雑誌の前身は、1918年(大正7年)創刊の受験雑誌『受験と学生』ではないのか? 庭野吉弘『日本英学史叙説 英語の受容から教育へ』(研究社、2008)という本では、『中学生』ではなく『受験と学生』の後継誌という感じで記述されている(pp.468-9)。巻数を考えると――1年に1巻出ているとすれば、1917年に第1巻が? であれば、両誌とも変だな。出されなかった年があるとすれば、1916年創刊はいいけれど、1918年創刊では(1年足りないから)ダメだな(うーん…)。あ、『学生』はいちど誌名を『中学生』と変えたことがあるらしく、ひょっとして2誌が合併した可能性も?(よくわからんです)。
青木雨彦『男と女の泣きボクロ』(集英社文庫、1984)というエッセイ集に、次のような箇所がある。
<私立のなかでも、早稲田に決めたのは、当時、たまたま読んだ新庄嘉章というひとの、早稲田大学を紹介した文章に、井伏鱒二さんの『休憩時間』という小説が引用してあったからだ。(略)/新庄さんの文章は、たしか「螢雪時代」に対抗して創刊された「学生」とかいう雑誌に掲載されていた。(略)>(p.328、「勉強が嫌いだ」)
著者は(黒井千次と同じで)1932年生まれ。雑誌って似たような名前のものも多いし、私にはよくわからないけれど、『日本英学史叙説』によれば、読み物雑誌化していた『学生』(研究社)は、1950年1月号から再び受験雑誌(学習雑誌)に戻ったらしいので――要するに当時高校生だった青木氏は(「たしか」という言葉はたしかでないときに使われる)雑誌のリニューアルを創刊だと勘違いしたのではないか、と思う(のだけれど、どうでしょうか?)。ちなみに『(受験と)学生』はその後も誌名を変えたりして、最後は、『高校英語研究』として1996年3月号で休刊に。結局、80年近くの歴史があったことになる。
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その昔、第1回の芥川賞(1935年の上半期)の候補作は、
石川達三 「蒼氓」(受賞作)
外村繁 「草筏」
高見順 「故旧忘れ得べき」
衣巻省三 「けしかけられた男」
太宰治 「逆行」
の5作だったらしい。だからどうした? という感じだけれど、まず、上から4番目の人については私はまったく知らない。残りの4人のうち、中学卒業後に浪人しているのは石川(1浪→早稲田大学第二高等学院、新庄嘉章は同級生)と外村(1浪→三高)。あとの2人は――太宰(四修で弘前高校)と高見(四修では落ちて卒業の年に一高)――は浪人していない。関係ないけれど、太宰治「逆行」(掌篇4作の総題)のうちの一篇「盗賊」(2篇目)の書き出しは、
<ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐のない努力の美しさ。(略)>
となっている(いま手もとにあるのは新潮文庫『晩年』)。主人公は東京帝大生で「落第」というのは留年のことだけれど、この冒頭部分は、安岡章太郎の浪人生小説「青葉しげれる」(新潮文庫『質屋の女房』など所収)の冒頭部分に受け継がれている。
<ことし、また落第ときまった。何とも奇妙な心持だった。>
主人公は不合格通知が届いて浪人3年目が決定。――ま、太宰治は措いておいて、石川達三について。いま手もとにあるのは、『日本の文学 56 石川達三』(中央公論社、1966)という本。後ろの「年譜」(久保田正文)を見ると、1905年(の7月)生まれで、小学校卒業の年(1918年)に府立一中(のちの都立日比谷高校)を受験して落ちている。で、いったん高等小学校に通って、翌年(1919年)、岡山県立の中学校に。途中で転校(というか)をして、1924年に関西中学を卒業。1924年(大正13年、19歳)のところをそっくり引用すれば、
<3月、関西中学を卒業。岡山の第六高等学校を受験したが不合格。一年間の浪人生活のあいだに、ゾラ、アナトール・フランス、石川啄木、島崎藤村などを熟読し、初めて詩や小説を書いた。雑誌「受験と学生」に手記を投稿して2回ほど当選し、その都度3円ぐらいの賞金を得た。海軍志願の熱は次第に薄らぎ、小説家になろうかと考えたが自信はなく、新聞記者がよいかと思ったりした。>
とのこと。「手記」というのは具体的には? いちど落ちているから不合格体験記とか?(わからない)。菅原亮芳編『受験・進学・学校 近代日本教育雑誌にみる情報の研究』(学文社、2008)という本によれば、英語研究社(のちの研究社)の創業者・小酒井五一郎は、その出版社の設立以前に、神田の書籍取次店に勤めていて、
<1906(明治39)年3月島崎藤村の自費出版小説『破戒』(1906年)が刷り上ったとき、小さな荷車で運んできたのも小酒井であった。>(p.50)
そうだ。同じ本=『受験・進学・学校』には、『受験と学生』の創刊号(1918年10月号)の「構成」が載っていて(表1.2.2、pp.54-5)、それを見ると、「一高ロマンス」という記事(?)を「野尻草雄」という人が書いている。「一高ロマンス」はもともと『中学世界』(博文館)で連載されていたもので(1915年から翌年まで)、1918年に東亜堂というところから単行本が出されている。昔、一高を受験する中学生がよく読んだという話もあるけれど、本当? それで、なんていうか、別の雑誌でその続編の連載が登場?(それとも単発の、いま風にいえばスピンオフ?)。執筆者の「野尻草雄」というのは、何を隠そう(?)大佛次郎のことだ。その“一高通信”がのちに「鎌倉通信」に変わっちゃうわけだけれど(違うか)、接点というかは、12歳年上のお兄さん・天文屋(?)の野尻抱影(星座についての本がたくさん)が研究社に勤めていたらしい(この出版社からも星座の本が)。創刊号にはほかに、のちに城北高等補習学校=城北予備校をつくる、府立四中の校長・深井鑑一郎の名前なんかも見られる。(和文英訳について書いている久保田正次という人は、久保田正文の弟?)
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3、4ヶ月くらい前だったか、北村薫・宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』(ちくま文庫、2008)に収録されている戸板康二「少年探偵」という小説を読んでいたら、ちょっとびっくり、2番目の“野球グローブ行方不明事件”(?)はほかでもない、研究社で起っている。社の隣には社長の小宮山さん宅があって、子どもの中学生2人兄弟の弟のほうが、お父さんに神田の美津濃(!)で買ってもらったグローブをなくしている。そういえば(もう4、5年くらい東京にすら出かけていないけれど)、あのへん(=神田とか、御茶ノ水駅のへん)って、楽器だけでなくスポーツ用具も売っているよね。――そんなことより、いったいいつの時代の話なんだろう?(初出が書かれていない)。あと、推理小説だからか、作中に小酒井不木の名前が出てくるけれど、初代社長とは無関係?(関係ないっぽいな。苗字が同じだとちょっと気にはなる)。
話を戻してもう1人、高見順について。“全集”なのに統一感がないけれど(ブックオフで適当に買っているので)、いま手もとにあるのは、『現代日本の文学 24 高見順集』(学習研究社、1970)という本。後ろの年譜などによれば、1907年の早生まれ。1919年、府立一中入学。1923年、四修で一高を受けるも不合格に。翌1924年、一高入学。1927年、東京帝大入学。1930年、同卒業。――で、まだ読んでいないのだけれど、『故旧忘れ得べき』という小説(単行本は、1936年に人文社というところから出ているようだ)。芥川賞の候補になったのは連作中の、途中までのもののようだ。最初のへんを読むと――主人公・小関は、英語雑誌の出版社に勤めていて、いまは英和辞書編纂部で働いている。で、ちょっとびっくり、どれくらい反映されているのやら、この出版社は研究社がモデルになっているようだ。作者は、大学を(3月に)卒業後、市河三喜(ビッグネームやな)の紹介で研究社の英和辞典編纂部に、臨時雇として勤めていたらしい(秋にはコロムビア・レコードに就職したらしいので、結局、半年くらい?)。あ、高見は、正社員の小関のほうではなく、臨時雇の「友人」のほうの立場だったのか。
あと、関係ないけれど、手もとにある本(学研の文学全集の一巻)には、『わが胸の底のここには』という小説も収録されている(単行本は1949年に出ているようだ、エピグラフにも使われているけれど、書名の出典は島崎藤村)。これも内容は措いておいて、とりあえず次のような箇所がある。
<「一高合格率が全国一だなんて自慢してるんだったら、日土講習会なんかとおんなしじゃないか」>(「おんなし」に傍点)
<――その頃、そうした耽読と同時に、受験参考書もとにかく耽読していたのだが、その参考書のひとつの、当時藤森の「考へ方」などとともに有名な南日の「英文和訳法」に、こんな英文があった。(略)>(「藤森」と「南日」に傍点)
下のほう、このあと国語の塚本のものとか、受験参考書の名前があれこれ(それほど多くはないか)と出てくるけれど――要するに何が言いたいかといえば、高見順は受験雑誌でいえば、『受験と学生』派ではなくて、『考へ方』派? あ、上の<藤森の「考へ方」>というのは、受験雑誌『考へ方』(考へ方研究社、1917年創刊)ではなくて、文脈的にたぶん藤森良蔵の参考書(数学)のシリーズだと思う。
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そう、個人的にいまだによくわからないのが、松本清張の小説「父系の指」(新潮文庫『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』など所収)に出てくる受験雑誌『受験と学生』。私の勘では、研究社から出ていた同名の雑誌とは、たぶん別もの(実名ではなく虚名)だと思うけれど、よくわからない。(自伝的エッセイ集『半生の記』を読むと、松本清張の父方の、血縁上の叔父さんの名前なども書かれているけれど、それだけではよくわからない。…ちゃんと調べないと。)
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もともとネットで知ったんだっけ、藤森成吉編『受験小説選集』という本があるらしい。最低でも1作くらい浪人生が出てくる小説が入っていそうな予感がするので、ずっと気にはなっているのだけれど、例によって最寄りの図書館にはなくて。その後、板倉聖宣『かわりだねの科学者たち』(仮説社、1987)という本の、藤森良蔵について書かれている章を読んでいたら、その本=『受験小説選集』は、「考へ方叢書」(考へ方研究社)の1冊として出されたもの(pp.219-20)だということがわかった。――邪推すれば、プロの作家が書いたものではなくて、受験雑誌『考へ方』の懸賞小説の当選作などから選んで編んだもの? 要するに読者(受験生)が書いた小説が集められているのかな?(わからんです)。ちなみに、血縁関係があるのかわからないけれど、良蔵と成吉は、とりあえず同郷(信州上諏訪)ではあるらしい。小野圭次郎は同郷(福島)の出版社社長に頼まれて、最初の参考書『英文の解釈 考へ方と訳し方』(書名は微妙な異同あり、初版は山海堂、1921)を書いたらしいけれど――副題に「考へ方」とあるのは、藤森良蔵のアドバイスらしい――、良蔵は、同郷の縁で成吉に頼んだのかな?(やっぱりちゃんと調べないとわからないな、こういうことは)。小島信夫(3浪→一高)は、森敦(1浪→一高)がデビューする以前にその名前を知っていた、『考へ方』に森敦の講演録(森は当時、一高生)が載っていたから、みたいなことを書いていたと思うけれど、一般に(?)受験雑誌って、一高(のちの世なら東大)をはじめとする有名な学校との強いコネクション、ネットワークをあれこれ持っていそうだよね。
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で、なんとなく藤森成吉を読んでみたいと思っていて、先月(2月)、地元の古本屋(あまりちゃんとしたところではないけれど)に行ったら、たまたま筑摩書房『現代日本文學全集』の第77巻(1957)が売っていたので(105円)、なんとなく買ってみる(箱とかけっこうぼろぼろ、藤森以外にこの巻に収録されているのは、前田河廣一郎、徳永直、村山知義)。後ろの解説を書いているのは、木村毅(きむら・き)。
<難関の一高へは、当時できた推薦制度で、無試験入学をゆるされた。二年あとの久米正雄が「藤森君は最初の無試験入学のトップだった。僕などは同じ無試験入学でも八番だった。全国の秀才のあつまる一高を、しかも無試験の一番というのだから、藤森君がどんな秀才だったか推して知るべし」と、言っていたのをきいたことがある。久米は、当時のいわゆるブルジョア文学の代表のようにみられ、藤森氏とは、仲がわるいというのではなくても、疎遠ではあった、それがそう言っていたのだ。>(p.404、「藤森成吉の人と作品」。旧漢字は勝手に直した、以下同様)
夏目漱石の娘に振られた(松岡譲に負けた)久米正雄に対して、本の後ろの年譜を見てちょっとびっくり、藤森成吉は大学卒業と同時に岡倉由三郎(これまたビッグネームやな)の娘と結婚している。――それはともかく、解説の最後がちょっと面白い。長めに引用させてもらえば、
<さいごに一つの挿話で、この小稿を結ぼう。あるとき逗子をたずねて話していたら、藤森氏はまだ小綬鶏をくったことがないというので、私はいつか贈ろうといって、それを猟友会の会長にたのんだ。ところがこの人は、終戦後、人民裁判にかけられ、共産党をにくむこと蛇蝎のごとく極端なのである。おくり先が藤森氏だときくと、ちょっと緊張した顔をしたが、/「しかし、あの人は共産党員のなかで、一ばんいい人だ。よし心得た。うってきてとどけよう」と快諾してくれた。しかし、不猟だったらしく、ニ、三ヵ月ののちに二羽だけとどけてくれた。この日本猟友会の会長とはすなわち旺文社の赤尾好夫社長なのである。多分この話は、藤森氏の人がらを考えるのに、一つの示唆となるであろう。>(p.406)
「小綬鶏」の読み方がわからない(涙)。なに鳥? とりあえずいま漢和辞典で「綬」を引いてみたら「綬鶏(じゅけい)」というのが載っていて、七面鳥の別名、とのこと。――それはともかく。木村・赤尾がどういう仲なのか知らないけれど、↑を読むと、受験雑誌『螢雪時代』(旺文社)の懸賞小説の選者を、木村毅が担当していたのも別に不思議ではないと思える。
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旺文社は今年、創業40周年らしいよ。……というのは嘘で、今年(2011年)創業80年を迎えたらしいよ。有名な参考書というか、原仙作『英文標準問題精講〔改訂新版〕』(旺文社)には、次のように書かれている。
<旺文社が創業40年を迎えた。昭和6年といえば、赤尾社長もまだ白面の青年であり、私も京城の龍山公立中学校の英語教師になったばかりの青二才であった。そのとき赤尾氏の依頼によって2年がかりで書き上げたのが本書の初版であった。(略)すでに3回にわたって改訂を行なったが、今回の改訂では(略)>
「改訂新版の序」(p.2)より。去年(2010年)ブックオフで買ったんだっけな、この本。奥付というか表紙カバーの折り返しのところによれば、この改訂新版=3訂版は、1971年に出ている(著者の原仙作が亡くなったのは、1974年)。初版は、1933年(=昭和8年)に出ている。そう、どうでもいいことだけれど、江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか 英語教育の社会文化史』(研究社、2008)という本の「表2-6」(p.78)。私がたまたま持っている「1971年版」がなぜか抜けている(涙)。というか、『英標』はいままでに何種類の版が出ているの? ――ま、それはともかく。例によってお金のないなか、私は、80周年記念の↓復刊本2冊を買っちゃったんだよね。
赤尾好夫編『英語基本単語熟語集』(5訂版、旺文社、1966)
*通称『(赤尾の)豆単』。初版は1942年とも1935年とも。
赤尾好夫編『英語の綜合的研究』(6訂版、旺文社、1964)
*初版は1941年。
昔、使っていたわけではないから「懐かしい」わけでもないし、買ったのはいいけれど、今後、あまり使い道もないような…。あ、これらを使って英語の勉強をすればいいのか(盲点だった。←嘘つけ!)。というか、80年もの歴史があって……批判はやめておこうか。持っていないけれど(最寄りの図書館にはある)、『日本国「受験ユーモア」五十五年史』(旺文社、1985)みたいな、なんていうか“読める本”ならいいけれど。記念本として。そう、『豆単』といえば、私は高校生のときに『英単語ターゲット1900』(旺文社、初版は1984)を持っていて。ぜんぜん覚えられなかったけれど(本のせいではなく怠惰のせい)、著者の宮川幸久氏は、一昨年(=2008年に)亡くなっている。
「40年」でも「55年」でもわりとそうだけれど、「80年」と聞いてもあまりピンとこないな、個人的には。ある程度の想像はできるけれど。――『螢雪時代』の前身の『受験旬報』の創刊は、1932年10月らしい。今年は2011年、旺文社の『螢雪時代』は、研究社の『受験と学生』~『高校英語研究』(1918年~1996年。途中、受験雑誌ではなくなっているけれど)の歴史的な長さを、やっと追い抜いたようだ。
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[参考文献] 本文中で書名を挙げたもの以外。
板倉聖宣責任編集『週刊朝日百科 日本の歴史103 近代Ⅰ-4 学校と試験』朝日新聞社、1988。
竹内洋『立志・苦学・出世 受験生の社会史』講談社現代新書、1991。
高田里惠子『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』中公新書、2008。
森敦『酩酊船 森敦初期作品集』講談社文芸文庫、2008。
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