※これももともと次の過去記事、
http://54487.diarynote.jp/201205062302245711/
への[追記2]として書いていたもの。ぐちゃぐちゃです(涙)。作家の小峰元(1921-1994)について。

・浪人はしているのか?
どこかにちゃんとした(1年ごとにわかる)年譜はないかな? ーあぁ、めんどうだし、間違えそうだし(涙)。

文庫の解説やウィキペディア(今日現在)を参考にすると、まず、1941年に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)スペイン語科を卒業しているらしい。この時点でもう紛らわしい感じで、ーというのは、本来、1942年の3月に卒業するはずだった学生が、戦争の影響で1941年12月に繰り上げ卒業(3ヶ月の短縮卒業)になっているから。庄野潤三(1939年入学)がそう。要するに「1941年卒業」と言われても3月なのか12月なのかがわからない(涙)。次に、大阪外国語学校の前に、姫路商業学校(現・姫路商業高校)を卒業しているらしい。その学校のホームページ(に掲載されている「姫商の歴史」)を見ると、小峰元は1938年卒になっている(本当?)。うーん、よくわからないけれど、そこの間で浪人している可能性は低いか。。つまり、1938年に姫路商業学校を卒業して、その年(の4月?)に大阪外国語学校に入学、留年することもなく1941年3月に卒業、という感じがする。いや、だから12月に卒業しているなら、1浪している可能性もあるけれど。(ちなみに、小峰元と同じ1921年早生まれの庄野潤三は、商業学校ではなくて中学校なのだけれど、病気で1年休学している。で、中学校卒業の年=1939年に大阪外国語学校に入学。)

学校の卒業後は、貿易商、教員などを経験して、1943年に毎日新聞社に入社しているらしい。ーあ、そうか、商業&語学を生かすなら「貿易商」がいいのか。いや、実際のところはどうかわからないけれど。でも思うに小峰元の経歴って、当時の地元(兵庫、大阪あたり)の人が見たら、なんていうかすごくキレイというか、かなりわかりやすいものなのかな? ーそれはそれとして、どうしてやめたんだろう? やっぱり戦争というか、国際情勢の影響があったのかな? 次の「教員」というのは、教えていたのは、語学ができそうだからやっぱり英語? だとしたら、これもすぐに食いっぱぐれてしまいそう、「敵性語」になるから。←あくまで私の勝手な想像です。ご注意を。以下、同様です。

・浪人は損(?)。
でも、1941年に卒業して1943年に入社だから、その間の2年前後(1~3年)は、就職浪人に近いものと言えなくもないかもしれない(落ち着くまでに少し遠回りしているというか)。小峰作品(どれだっけな)には浪人すると、生涯獲得賃金でいくら損するか、みたいなことが具体的に書かれていたと思うけれど、もしかしたら「あと2年早く入社していれば、云々」みたいなことを思ったことがあったのかな?(ないか)。

1973年に『アルキメデスは手を汚さない』で江戸川乱歩賞を受賞。毎日新聞社は1976年に退職して、専業作家に。ーーこれは小説の執筆のために退社したわけではなく、55歳、定年退職だよね?(違うのかな)。同じ職場で働いていたこともあった長井彬(1949年入社)は、ウィキペディアなどには「定年退職」と書かれている(1979年の話)。もしかして定年退職の前後だからこそ、生涯獲得賃金みたいな話が作中に? うーん、違うか(そもそも新聞記者だから社会問題とか詳しそう)。そう、長井彬が小峰元から小説を書いたらどうか、と言われた(『ソロンの鬼っ子たち』文庫解説に書かれている話)ときには、小峰元にはすでに小説の著書があったんだよね?(『百万塔の秘密』、1948年)。

・マメタン/通信添削
小峰作品には「マメタン」(豆単)がよく(というか何度か)出てくる。だから、作者本人も受験生のときに使っていたのかな? とか思ってしまうだけれど、うーん、どうなのかな。。そもそも間に合っているのか? という問題(?)がある。

江利川春雄『受験英語と日本人 入試問題と参考書からみる英語学習史』(研究社、2011.3)によれば、まず、1934年に『受験英語単語の綜合的研究』(単綜)が出て、次にそれが圧縮されたもの=元祖「豆単」、『英語基本単語集』が1935年に出ているらしい(p.209)。このへんまでは商業学校在学中(1938年卒)に使うことができる。で、ー引用したほうが早いか。

<さらに、1938(昭和13)年には熟語を加えた改訂新版の『受験英語単語熟語の綜合的研究』を発行し、それにともなって、1942(昭和17)年には豆単の改訂版である『英語基本単語熟語集』を発行した。>(同頁)

という流れらしい。マメタン(豆単)といえば、ふつうこの『英語基本単語熟語集』のことかな(現在書店で売られているものは、単語と熟語が別になっているけれど)。1942年では小峰元は、間に合っていない。ただし、1941年から1943年の間に教員をしていたことがあるらしいから(どこで何を教えていたのか、私にはわからないけれど)教師としてそれをチェックしていた可能性はあるし、新聞記者として(ベストセラー本の1つとして)よく知っていたかもしれない。いや、実際のところはわからないけれど。

ところで、司馬遼太郎は中学校卒業後、2浪(高等学校に受からず)の末、1942年に大阪外国語学校に入学している。『受験英語と日本人』では、『昭和十七年度 欧文社通信添削会員 合格者一覧 合格通知転載』という資料を使って、データというか数値が算出されている(pp.170-1)。

<(略)最も占有率が高かったのは大阪外国語学校(略)の77.3%だった。(略)司馬遼太郎の本名「福田定一」も、この『合格者一覧』に掲載されている。高校で最も占有率が高かったのは姫路高校の70.6%で、ナンバースクールを見ると、一高58.3%、(略)>(p.171)

通信添削というものが、地方(東京と比べれば予備校などがほとんどなかったり)や文科系と相性がいいらしい、みたいな理由も書かれているけれど、大阪外国語学校の合格者の4人に3人が、欧文社(旺文社)の通信添削をしている(いた)ーというのは、うーん、なんだろう、数値が高すぎてちょっとあやしい気がしなくもない。途中で止めてしまった人も(試しに短期間やってみた人とかも)含まれている? とは思うけれど。1942年だから戦争の影響は? とか。えーと、姫路高校(旧制)は現在の神戸大学でいいのかな? ーそれはともかく、それで1942年の4年前、1938年はどうだったのだろうか? 75%以上の高確率かどうかはわからないけれど、個人的には小峰元が旺文社の通信添削をしていてもおかしくはないとは思う(根拠はないけれど、小説内での「赤尾好夫」という言葉の使われ方とか、ーーやっぱり根拠にはならないか)。
 

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