読書メモ。

2014年12月9日 読書
『教育読本 入学試験』(新装版、河出書房新社、1983.8)という本に「われら落第派」という、有名人に対するアンケート結果(18人分)をまとめた記事が収録されているのだけれど(pp.64-7、初出は『週刊朝日』昭和49年=1974年2月8日号)、そのなかに俳人・水原秋桜子(明治25年=1892年生まれ)のものもあって。

<★明治四十一年、東京の独協中学から一高を三度受験し、三度目に合格した。/☆予備校のほうも、三つの学校を渡り歩いた。はじめの独協付属予備校、中央大予備校では、みんなのんきな話ばっかりしているので、これはまずいと、最後は当時、評判の高かった早大予備校に入って、猛勉強した。今の浪人には同情する。なんといっても、昔はのんびりしていた。>(p.67)

この短い文章がずっと気になっていて、ーそれはともかく。最初の★のほうは、編集部(初出誌の)がまとめたものだと思うけれど、この人が中学校(独協中学)を卒業して、最初の受験をするのは、明治41年ではなくて明治42年(=1909年)ではないか?(あ、当時はまだ中学4年修了での受験は無理で、高等学校の入試は7月)。

最近、やっと図書館で「私の履歴書」(pp.245-94)が収録されている『水原秋櫻子全集 第十九巻 自伝回想』(講談社、1978.1)を借りてきて、ぱらぱらと読んでみたのだけれど(高校浪人中の話は意外と少なかったかな)、小学校を卒業して中学校に入ったのは、明治37年(=1904年)になっている(p.253)。というか、年譜が収録されている巻も借りてくればよかったよ(泣)。

家は東京というか神田にあって、医者で(現在の感覚でいえば)医学部志望。で、もし明治42年に中央大学の予備校に通っていたなら、ひょっとしたら松岡譲(翌年の明治43年に一高に合格・入学、芥川龍之介やのちに小説「受験生の手記」を書く久米正雄と同級生)や堀口大学(松岡と同じ中学校)と一緒に授業を受けていた可能性もある。(同じ予備校でも時間帯がいろいろだろうし、水原は理系で、松岡は文系だし、水原は英語ではなくてドイツ語での受験だから、ー可能性は低いといえば低いかも。)

翌年(=明治44年?)一高には首席で合格したと言っている。

<一年間[=浪人2年目のこと(引用者注)]でかなり力がついたらしい。三度目の一高の入学試験ではむずかしいと思う問題が一つもなかった。これなら大丈夫だろうと発表を待っていたら、私は首席でパスした。学問のことで首席になったのは後にも先にもこの時だけである。当時「中学世界」という雑誌があって、その記者がやって来た。いろいろと質問を受けて、銀メダルを贈られた。>(p.260)

ああそうか、トップ合格であると受験関係の雑誌の人がインタビューに来たりするのか(首席ではなくても一高=いまでいえば東大だし、取材は来るか)。「銀メダル」って何だろう? でも、たぶん高校から何かもらえるわけではないから、もらえると記念になってうれしいよね?(あ、いや、わからないけれど)。

あ、あと、この「私の履歴書」には「独協付属予備校」に関する記述がまったくない(私は何か見落としているかな...)。(私立大学ではなくて私立中学が予備校を設けていたことは、竹内洋の本を読んで知っていたけれど、独協中学もなのか。)



ちょっとした偶然(符合)があったというか。上の全集の1巻と一緒に、たまたま青木保ほか編『近代日本文化論4 知識人』(岩波書店、1999.9)という本も借りてきて。ネットで知った、収録されている広田照幸「受験勉強の社会史 明治末期のある受験失敗者の心象風景」という記事(pp.119-47)が読みたかったから。明治43年(=1910年)に書かれた浪人生の日記(執筆者が古書店で入手したという)の内容が紹介されている。事情があって医者志望、早稲田のそばにある寄宿舎に入っていて、専修大学の予備校に通っている。水原秋桜子はこの年=浪人2年目、神田から早稲田の予備校に通っているのに対して、この無名の浪人生は同じ年(であれば同じ年)早稲田のそばから神田にある予備校に通っている(ちょっと面白い)。



中央大学よりも専修大学のほうが長く予備校を経営(設置)していたようだ。

中央大学の予備校・・・明治38年(1905年)~大正9年(1920年)。
専修大学の予備校・・・明治39年(1906年)~昭和2年(1927年)。
 

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