解   説


 久米正雄君の『学生時代』が今度改版になるに就〔つ〕いて、その解説ようのものを書け、という御注文だが、これは私の適任ではない。久米君とは群〔グループ〕をも異にしていたし、従って生活的にも深く触れ合ってはいなかったし、第一、私には学生時代というものが無い。故郷の村の小学校以外、学校というものにはいった事の無い私にとっては、ここに描かれた大学生生活はただ縁遠いものである。それ故、ここに何か書く事は御辞退申上げるのが本当だと思うが、略々〔ほぼ〕同時代に文学に発足し、その後の行路の、君の軽快な飛翔〔ひしよう〕に対しては私の鈍重な匍匐〔ほふく〕のただ憐〔あわれ〕む可〔べ〕きものであったとはいえ、穎才〔えいさい〕の多くが斃〔たお〕れた後にともかくも今日生き残って、君の顧眄〔こべん〕にこたえ得るこの身の冥加〔みようが〕を思えば、私は、ここに若干の思い出を語らざるを得ない。
 人も知る如く、久米君の出発は、同人雑誌『新思潮』によって、菊池寛君、芥川龍之介君、松岡譲君、成瀬正一君等と共になされた。しかし、私が久米君の名を知ったのは、それ以前であった。年も月も忘れてしまったが、『万朝報』という新聞で、学生から選手を募り、方面を東西に分けて、長途の徒歩旅行を試みさせ、その旅行記を毎日紙上に掲げて、世の喝采〔かつさい〕を博した事がある。選手となって東北、関東の方面を受持ったのが一高生の佐々木好母という人であったが、中途で病気で斃れた佐々木氏に代ったのが、同じく一高の久米正雄君であった。私はその才気煥発〔かんぱつ〕の筆に瞠目〔どうもく〕した。おまけにその文には上手なスケッチも添えられていた。私の下宿には、名は忘れたが万朝の記者がいた。目出度く着京の久米君を出迎えたというその某君は私に語った。「身体も達者なんだな、日にやけて真っ赤になっていたが、元気な顔をして、まだ歩き足らん、書き足らんという様子だった!」
『新思潮』には、芥川君の『羅生門』『鼻』などがあらわれた。久米君の策では、『父の死』などを記憶している。菊池君の不朽の作『父帰る』『屋上の狂人』もたしかこの二三十頁〔ページ〕の粗末な雑誌――貧弱きわまる小同人雑誌に出たものだったと思うが、当時は格別の世評を呼ばなかったのでは無かろうか。松岡君には、題ははっきり記憶せぬが、(『赤頭巾』(?))なかなか異色のある作があったが、これもあまり注目されず、この輝かしい揺籃〔ゆりかご〕からは、芥川、久米の両君が相ついで飛び立った。ややおくれて菊池君、翼を連ねたこの三者は、あれよあれよと見るうちに、たちまち文壇の中空に翺翔〔こうしよう〕しはじめた。
 「芥川はピンセットだ。菊池は指だ。いや指じゃない手だ。いきなりぐいとつかんでしまう」
 私共は、ともすれば噂〔うわさ〕にのぼる三君についてこんな事を言った。
 「久米は?」
 「箸〔はし〕だ。器用に箸をつかう」
 「箸は何の箸だ。象牙〔ぞうげ〕の箸か?」
 「象牙の箸ほど貴族的じゃない。といって割箸ほど粗末ではない。普通の塗箸――そこがいいところさ」
 芥川君のように、理智的な乃至〔ないし〕神経的な鋭さも無ければ、菊池君のような、体当たり的な手強〔てごわ〕さも無かった。しかし程好く調和された知性と感性、適度に配合された現実味と抒情味〔じよじようみ〕。やや独自性の稀薄〔きはく〕な憾〔うら〕みのある代り、その危な気の無い作風によって、最も小説らしい小説を見せてくれたのは久米君であった。比較的視野も広く、想像力も豊富で、その鋭敏な感受性は当時の社会情勢をも反映して、左翼がかった作品の、いくつかを見せた。『三浦製糸場主』という戯曲も多分、この『学生時代』の諸作と前後して現われたものだったと記憶するが、君は戯曲の方面でも、逸早〔いちはや〕く活動をはじめていた。中学生時代から俳句をつくり、句集『牧唄』の作者三汀として知られていた、と知ったのは、ずっと後の事だったが、至るところ可ならざるなき才人、驚く可き才人――というのが、私に与えた当時の久米君の印象であった。
 長袖〔ちようしゆう〕善く舞うこの才人を、軽佻〔けいちよう〕という者もあった。浮華という者もあった。にもかかわらず、久米文学はよく一代を魅了した。魅力の根源は何よりも、その親しみ易さにあった。――私は曽〔かつ〕て水谷八重子に就いて謂〔い〕った事がある。八重子の美しさは、平凡他奇無きところにある。一町内に二三人は必ずある美人、隣の娘からも、むかいのおかみさんからも見出〔いだ〕される美しさ、花ならば垣根の朝顔といったような、目に馴〔な〕れた美しさ、それが八重子の美しさで、八重子の代表的美人を謂〔い〕わるる所以〔ゆえん〕のものは、そのような平凡奇なき美しさにあると――。これを移して久米文学の評語とする事はできないであろうが。ともかくも久米文学の魅力は、何よりもその親愛感にある――と、私は今でもそう思っている。
 さて、この『学生時代』の諸作は、『新思潮』から巣立って間もなくの、作家生活に入ったばかり大正の初期の作に属している。今、三十幾年ぶりで再読してみて、発表当時の印象をなつかしく喚〔よ〕び起す事ができた。当時の大学生生活の種々相が、当時の一般の時代風俗と共に鮮〔あざ〕やかに浮びあがり、春廼家〔はるのや〕主人の『書生気質〔かたぎ〕』をついで、我が学生史の一側面を活写したものとも言えよう。『受験生の手記』は、何という雑誌にのったものか記憶に無いが、私は当時これを身につまされて読んだものだった。というのは、私は、青年時代に、度々小学校教員検定試験というものを受けに行って、受験者の苦心と不安とをいやというほど味わわされた経験があったからである。『文学者』『選任』『鉄拳制裁』『嫌疑』『競漕』『万年大学生』等、学生生活の幾多の挿話は、前にも言った通り、私にとっては、縁遠い、別の世界の消息であったが、かくも多彩な学生生活に対する羨望〔せんぼう〕を以て発表の都度愛読したものであった。『母』は、芥川君の『手巾〔ハンケチ〕』と対照せらる可き作で、この対照の裡〔うち〕に、両者の全芸術を比較し得るように思った。この一冊の中で、私の記憶に最も鮮やかなのは、『求婚者の話』の一編であった。後年長編小説において示された、縦横の才気は明らかにこの一編に予示されている。これが『黒潮』という雑誌に発表された直後、新潮社の応接室でたまたま君に会った時、「あれは仲々面白かったですが、同人諸君の評判はどうです」と問うと、君は昻然〔こうぜん〕として、「え、仲間でも評判がいいんです」と答えられたことを記憶している。この作などは、いわゆる私小説全盛の当時の芸術小説から逸脱したもので、大衆小説家としての久米君の前途を約束するものであった。勿論、当時私共の考えていた大衆小説は、決して現在あるようなものでは無かった。事志と違う――大衆小説家としての私の慨嘆〔がいたん〕は、おそらく久米君も同〔どう〕じてくれるところと思う。
 勿論この一冊はその頃の久米君の作の中から学生時代を記念す可き諸編を選集したもので、この外にも久米君は多くの作を書いている。
 菊池君が黒革縅〔くろかわおどし〕ならば芥川君は紫裾濃〔むらさきすそご〕か、久米君が緋縅〔ひおどし〕の花やかさで、新興文壇の先を駆けていた颯爽〔さつそう〕たる英姿は今も私の眼にある。
 私は新潮社の編集室の、ほこりだらけの机にかじりついて、わびしい日を送っていた。心は常に捨てて来た故郷にあり、農民の文学という意気込みで書き出した三、四の小説も、野暮くさい土くさい作と一掃的に片付けられて、一向世評にのぼらず、従って己れを疑う気持にもなって悶々〔もんもん〕鬱々の毎日であった。その私の眼に、久米君等の姿がいかに輝かしいものに見えた事か。
 久米君と面識の機会を得たのもこの前後の事だったと思う。新潮社で、新潮文庫という袖珍〔しゆうちん〕の翻訳叢書を出した事があるが、その中の一冊に『ロメオとジュリエット』その他沙翁〔さおう〕の戯曲二、三編をおさめたのがありその訳者が久米君であった。その翻訳の用件で、社にも見え、私の陋宅〔ろうたく〕にも見えた事があったが、その頃の久米君の濃過ぎるほどの濃い髪は、その「茜〔あかね〕さす」顔色と共に最も特徴的なものであった。私は、今でも、久米君のきれいに抜けあがった広い額を見る時その頃の久米君を思い出す。
 久米君の作品の魅力は、即ちその人柄の魅力である。「みちのくの固き小栗ぞうり難き」というような毅然〔きぜん〕たるものを内に蔵しながら、久米君はいかにも物柔らかな紳士である。議論をしても、あたまから相手を叩きつけようとはせず、どんな愚説でも暴論でも、一応とっくりときいてから、おもむろにこれに応〔こた〕えるという風である。鋭敏な社交的感情と、潑剌〔はつらつ〕たる才気とは常にその周囲に人を牽(ひ)きつける。このひとを迎えれば一座が頓〔とみ〕に活気づくというような情景を私は屢々〔しばしば〕見てきた。そしてかくの如きが、又、文壇における君の姿でもあった。大正昭和の文壇に、久米正雄がいなかったら、それはどんなに寂寥〔せきりよう〕なものとなったであろう。
 その非社交的な点においてその魯鈍迂愚〔ろどんうぐ〕なる点において、私の如きは久米君とは正に対蹠的〔たいしよてき〕だといえよう。別に心あって為〔な〕すわけではないが、私は常に孤立であった。でなかったら、久米君とも、もう少し深い交渉を持ち得たに違い無い。今や、遅暮の時において、相見相知る機会をしばしば恵まるるにつけ、私は君と誼〔よしみ〕を結ぶ事のあまりに遅かりしを憾〔うら〕まざるを得ない。

                                   加 藤 武 雄


※底本:久米正雄『学生時代』新潮文庫、四十五刷改版、1968年7月(初版、1948年4月)。
※どこか打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。
 

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