2016年7月。

2021年9月6日 読書
※以前ツイッターで書いたものです。少し加筆修正、補足ありです。



39. ウィキペディアの「城北予備校」によれば、この予備校が府立四中の補習科から独立した(分離された)のは、1935年(昭和10年)らしい。城北高等補習学校/城北予備校に通っていた作家には、安岡章太郎、古山高麗雄、清岡卓行、丸谷才一がいる(たぶんもっとたくさんいると思うけど)。

39.1. あ、「から独立」という言い方はまずかったかも。補習科が独立して予備校になった、みたいに言わないと? すみません。(でも、そのあと府立四中に補習科がなくなったわけではない? そのへんがよくわからないな(泣)。)

38. 山田克己『予備校 不屈の教育者』という本の、正修英語学校(という予備校)が取り上げられている箇所によれば、その予備校の元職員や元講師の人たちは、S台の真のライバルは正修だった、と言っているらしい。いつごろの話なのかな? 場所は同じ御茶ノ水だから近くだろうけど。

38.1. 山崎春之『教育界のトップブランド「駿台」』にこんな箇所がある。「また当時[=昭和27年]の予備校のナンバーワンは、戦前の府立四中(現・戸山高校)の補習科が独立して生まれた城北予備校である。(略)ここを追い越すことは男の仕事としてやり甲斐のあるものではないか。(略)」(p.56)。

37. 府立一中で小林秀雄と同級の正岡忠三郎という人(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』の主人公らしい)は大正8年、四修で二高に合格しているっぽい。urlを貼っても大丈夫かな、↓このページの「1919/09」のところ。
http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/tominaga.html

37.1. 四修(中学4年修了)での受験はやっぱり(?)大正8年(1919年)からちゃんと行われていたのか...。7月入試(大正8, 9年)だと中学5年目がけっこう進んでしまっていて? あと、小林は四修での受験はどうしたのかな、どこも受験していない?

37.2. 数学者・岡潔の『春の草』に「私たちのころは、中学四年から高等学校へ行く制度はなく、受験勉強は五年になってからやったものです。」と書かれている。岡潔の三高入学は大正8年(1919年)。同級生には四修での入学者がいたのではないか、と思ってしまう。

37.3. この前、古本屋(といってもコミックやDVD、ゲームが中心の)に寄ったら、単行本のほうが売っていた。上下巻セットで200円。迷った末に購入。「忠三郎さんが、中学四年終了で仙台の二高を選んだのも、あるいは東京から逃げだしたいのが理由だったようでもある。」司馬遼太郎『ひとびとの跫音』

36. 検索したらこんなのが。(ネットオークションを使ったことがなくて、どんなサイトかわからないけど。) 「エンタイア資料 大正9年 東京 第一高校 受験票 心得」
http://aucview.aucfan.com/yahoo/d163807301/
「受験者心得」の最後、「第一高等学校」の前に「大正九年六月」。

35. ウィキペディアの「小林秀雄」の項、「略年譜」があって「1920年(大正9年)/・3月 - 府立一中卒業。 第一高等学校受験、不合格。」と書かれている。高校受験は何月? 3月あたりかと思ってしまう。翌大正10年のところには「4月 - 第一高等学校文科丙類入学。」とある。

35.1. たぶん旧制高校(官立)の入学試験は大正9年(1920年)までが7月(入学は9月)で、大正10年(1921年)以降が3月(入学は4月)だと思う。(ちゃんと調べたわけではなくて、自分にはよくわからないけど。すみません。)

34. 丸岡明が府立四中の補修科に通っていた(浪人2年目、1学期だけ)のと同じ年(大正15年)に、植草甚一は府立五中の補修科(「補習科」という表記のほうが一般的)に通っている。ウィキぺディアの「植草甚一」のところには(続く

34.1. 続き)「1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。併せて神田錦町の日土講習会に通う。(略)1927年、第一高等学校を再度受験して失敗し、第一早稲田高等学院理科に補欠で入学した。」と書かれている。府立五中は現在の都立小石川高校。

33. 戸川幸夫『猛犬 忠犬 ただの犬』講談社文芸文庫版。以前、本屋で見かけて買っちゃったんだけど、いまだにほとんど読んでいない(^_^;)。表紙カバー背に「自伝的小説」と書かれているので、たぶん小説。後ろの「年譜」によれば、作者は(続く

33.1. 続き)1930年(昭和5年)、私立高千穂中学卒業。この年は広島高校、翌年は佐賀高校を受験して失敗。1932年、山形高校に入学。1936年、その高校を退学。ーという感じ。2浪ということで? 本文によれば「神田の予備校」や「府立五中の補修科」に通っていたようだ。

32. 猪瀬直樹『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』(1998)。別の本を探していたら出てきた。文庫版。拾い読みしかしていなくて。ちゃんと読もうかな。「大正六年になった。三学期である。志望校を決めなければいけない。『中学世界』に「一高ロマンス」と題した読物が連載されていた。」p.63。

31. 宮本(中條)百合子の日記が青空文庫にたくさんあるなー。日本女子大学に入学したのは大正5年(1916年)で、その前後の日記もあるみたい。試験は(7月とかではなくて)4月か。

31.1. 宮本百合子「日記 03 一九一六年(大正五年)」
http://aozora.gr.jp/cards/000311/card46236.html

31.2. あ、Wikipediaでは「中條」になっているけど、青空文庫では「中条」になっている。

30. 1作も読んだことないな、梅崎春生。Wikipediaを見ると「父親(略)は佐賀県出身で陸軍士官学校を卒業した軍人であり、(略)。(略)第32回直木賞は、佐賀出身の戸川幸夫と合わせ、佐賀の血を引く作家が同時受賞した。」と書かれている。第32回は1954年下半期。

29. 知らなかったけど、青空文庫に梅崎春生『狂い凧』という小説が。「その竜介は中学校を卒業して、上級学校の受験に再度失敗した。ぶらぶらしている中に、思想的に赤化した。福次郎は生涯それを口に触れたがらなかったし、栄介も(略)」
http://aozora.gr.jp/cards/001798/card56775.html

28. 三浦哲郎『驢馬の鈴』(1977―78)に出てくる兄弟は、お兄ちゃんが4浪、弟が現役受験生。たぶん大下宇陀児『鉄の舌』(昭12=1937)の兄弟と年齢差(学年の違い)が同じ。

27. 宮本輝「途中下車」(初出『螢雪時代』1978年7月号)というエッセイを再読したいんだけど、収録されている『二十歳の火影』(講談社文庫)がどっか行っちゃって(泣)。あー、買い直すのは嫌だな...

26. 小島信夫。以前『公園/卒業式 小島信夫初期作品集』(講談社文芸文庫、2014)で読んだことがあるんだけど、一高時代に書かれたものの1つ、「鉄道事務所」(昭和12年)という小説は、女学校の先生をしているお兄さんと「私」は同居していて、そこに訪ねてくる女生徒たちがいて、ーみたいな話。

25. 庄野潤三『休みのあくる日』(1975)。ちょっと気になる。図書館にあるかな、中身を確認したい。短編集らしいけど。(RT)
※リツイートしたのは庄野順三のbotかな。

24. 駒田信二「私的「遁走」論」(『私の小説教室』所収)に次のような箇所がある。「私は安岡氏よりも、6、7歳年上である。安岡氏が中学(旧制)を卒業したのは昭和13年。そして大学予科(旧制高校にあたる)に入学したのは昭和16年である。3年間、いわゆる浪人生活をしたことになる。(続く

24.1. 続き)その7年さきを、私は殆ど同じような歩き方をした。私が中学を卒業したのは昭和6年。3年間浪人生活をして、旧制高校に入学したのは昭和9年である。」。入学した高校は山形高校。そういう年齢差なのか...。小島信夫(3浪して昭和10年一高入学)なら7年さきではなくて6年さきかな。

23. 以前、何か高校生が主人公の小説を読んでいたら「戦争に行く用意」という語呂合わせが出てきて。あぁそう覚えるのかと思った記憶が。1941年(昭和16年)。/学生時代、ほんと歴史(というか社会科全般)が苦手だったんだけど(泣)、あと日露戦争っていつだっけ? ー1904年~1905年か。

22. 以前、何か高校生が主人公の小説を読んでいたら「戦争に行く用意」という語呂合わせが出てきて。あぁそう覚えるのかと思った記憶が。1941年(昭和16年)。/学生時代、ほんと歴史(というか社会科全般)が苦手だったんだけど(泣)、あと日露戦争っていつだっけ? ー1904年~1905年か。
※たぶん小峰元の小説。

21. 「僕の書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。/その頃、僕は中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時僕の地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、(続く

21.1. 続き)家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、僕は小学校教員をかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、その頃は、そんなのがめずらしくはなかったよ。何しろ給料に比べて物価の方がずっと安い時代だからね。」江戸川乱歩「百面相役者」

21.2. 初出は何(いつ)だろう? ...ネットで検索してみると、『写真報知』大正14年7月15日・25日となっている。

20. 「女学校を出た年の夏、私は海岸の祖父母の家へ身を寄せて、先生になりました。その生活は最初の予想通り長続きしませんでしたが色々な意味で、私の過去の重要な部分だったようです。この話は其時代の事です。」尾崎翠「花束」(初出『水脈』1924年3月号)

19. 直木三十五「死までを語る」
http://aozora.gr.jp/cards/000216/card1725.html

18. 月給、田山花袋『田舎教師』は明治34年(1901年)?で11円、直木三十五は明治43年で11円50銭、芹沢光治良『人間の運命』は大正4年(1915年)、8円のところを特別に9円50銭、和田芳恵『暗い流れ』は大正11年で33円。(33円は多すぎ? 何か読み間違えているかも。)

17. 「翌大正十五年に私は一番で八高理科乙類に入学することができた。一番でパスしたということは後に指導教官の高嶺教授から告げられたのであるが、不思議にもそれを聞いたとき私は格別の喜びを感じなかった。私は「浪人」というあの不安と苦渋に満ちた青春前期の二年間が終わったという解放感で(続く

17.1. 続き)十二分にふくれ上がっていた。そして怠け者の私は、もう当分勉強しなくていいんだという想念に性こりもなくとりつかれはじめていたのである。」藤枝静男「少年時代のこと」。中学には四年修了で行かなくなっていて「二年間」。大正15年だけど、井上靖と同じく「二班制」かどうか不明な感じ。

16. 「翌年は仲間と静岡高校を受験したが、もちろん私も仲間も入学できなかった。この時も二日目は試験場を早く出て、レストランでカツレツを食べた。この時仲間の一人が岡田嘉子のブロマイドを買って、写真に口づけしたのを、受験というといつも思い出す」井上靖「青春放浪」

16.1. ちょっとツッコミを入れたくなるけど(笑)、それは置いといて。前年(四修)は山形まで山形高校を受けに行ったのに、この年=大正15年は、いちばん近くの静岡高校を(で?)受験している。よくわからないけど、入試制度が関係しているかも。(井上靖は翌年=昭和2年、四高に。)

15. 大正15年~昭和2年(1926年~1927年)の高校入試は「2班制」というもので、2校受けられた(受けられるというか、志望が出せたというか)。第1班と第2班に分けられた高校の中から、1校ずつ選べる。試験会場は全国どこの高校でも。(遠出しなくて済む。)

15.1. 丸岡明「静かな影絵」。昭和2年かな、静岡(高校)で、静岡と三高を受けたと書かれている(作中では「二校制」と呼ばれている)。どちらを第1志望にしたかは不明。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』を見ると(p.108)、前者が第1班で、後者が第2班。(でも、両方とも落ちて、慶應予科に。)

14. 「浪人生活二年目は、私が出たカトリックの中学とは、対照的な校風の府立四中の補修科にいた。/(略)/(略)だが、私にはさし当って、無用な、英語の時間があまりの多いのを口実に、一学期だけでそこをよした。」丸岡明「静かな影絵」(初出『群像』1964年11月号)。大正15年の話。

13. 村上春樹『若い読者のための短編小説案内』の後ろの「付録 読書の手引き」(文責・文藝春秋出版局)の「長谷川四郎」のところに「(略)中学を卒業すると、単身東京に出た。/二年間の浪人の後、昭和三年に立教大学予科に入学。(略)」と書かれている(p.248、文庫版)。「浪人」は受験浪人?

12. 藤枝静男は四修で八高を受験して不合格。翌年の大正14年(1925年)は「三月、第一高等学校に願書を出すが試験場で引き返し、未受験。兄と名古屋に下宿し予備校に通う。(略)」(「年譜」『藤枝静男随筆集』講談社文芸文庫)。引き返した理由(心理)はなんだろう? 何かに書かれているかも。

11. 「中学四年の時山形高校を受けに出掛けた。試験は最初の一日であきらめ、二日目は試験場へ行く代りに映画館へ出掛けた。(略)私には最初の旅であったので、この山形行きは十分楽しく、サクランボのジャムと(略)。」井上靖「青春放浪」。予定ゆるめの観光旅行?(笑)。大正14年の話。

10. 「村田さんのところへは行った。君が藪のある所を曲ると云ったから、(略)。村田さんのうちは村田さんのあたまのような家じゃあないか。紅茶を御馳走になった。女中が小さいくせに大へん丁寧なので感心した。」『芥川竜之介書簡集』。一高の卒業式がもう済んでいて大正2年7月17日、井川恭宛。

10.1. 続き)大正5, 6年ではなくて大正2年の話。「あたまのような家」ってどんな家だろう?(笑)。村田さん=村田先生=村田祐治(1864―1944)。どこの予備校で教えていたんだろう?(複数校?)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942985
この参考書は大正4年。

10.2. 『英文直読直解法 : 附・和文英訳』南総舎、大正4。最初のほうを見ると、ページの下のほうが読めなかったり、書き込みがけっこうあったり…

9. 芹沢光治良は大正4年(1915年)に沼津中学を卒業、代用教員をしたりして、翌年の大正5年(1916年)に一高入学。『人間の運命』ってどれくらい自伝的なものなんだろう? 主人公は森次郎。新潮文庫の『人間の運命 (一)』は単行本の1、2巻を合わせたものらしい。(続く

9.1. 続き)その2巻に当たるほうで、一高生になった主人公が家庭教師の口を探す話が出てくる(大正5年ではなくてもう6年かな)。新聞の募集広告を見て訪ねても、著名な紹介者がいなくて断られることが続いて...。「二カ月近く無駄な努力をしたあとで、或る家庭でふと思いついて言ってみた。/(続く

9.2. 続き)「英語の村田先生の紹介状ではどうですか。一高の僕の保証人ですからーー」/「あの有名な英語学者の村田教授ですね。上の子が予備校でおならいして、一ッ橋に入学しましたよ」/「先生の保証でも紹介状でももらえますね」/「はい」/それで、漸くその婦人は、(続く

9.3. 続き)一高志望の中学三年生の英語と数学と漢文を週二回見てくれと言い、条件は、当日夕食を出して、月二円の謝礼だと、一方的にきめていた。」(p.443)。山の手の主婦らしい? お兄ちゃんが高商(一橋大学)で、弟が一高(東大)志望。...弟のほうができるのかな? 次郎は二ヶ月で首に。

8. 牧野信一「文学的自叙伝」は青空文庫にあるね。
http://aozora.gr.jp/cards/000183/card52851.html

7. 「私の履歴書」
http://aozora.gr.jp/cards/001569/card57295.html
→『ドミトリーともきんす』の住人の中谷くん。1浪して四高。その落第について、のちに寺田寅彦に語る中谷くん(笑)。某私大ってどこだろう? 参考書は時代的に「『考へ方』の本」なのか(岡潔も藤森のを使っている)。

6. 「横溝正史 秘話 正史伝承/2. 退職理由は?」
http://yokomizo.to/chronicle/biography02.htm
→わかりやすくて面白かった。中学卒業(大正9年)後の就職や進学について。「汁粉屋の娘」(大10)を読むと、神戸高商を受けている? とか思うけど、受けてないっぽい。

5. 牧野信一「文学的自叙伝」(1935)に次のような箇所が。「(略)[一高の]試験会場へ行きあまり大勢の学生が青ざめているのを目撃すると、一人でも余分に入学させてやりたいといわんばかりの凡そ意味もない覇気見たいなものに駆られて、そのまま方角も(続く

5.1. 続き)知らなかった早稲田へ人力車を走らせた。」(p.291、『ゼーロン・淡雪 他十一篇』岩波文庫)。早稲田で入学手続き(無試験)。敵前逃亡的な行動?(ちょっと違うか...)。大正3年(1914年)の話、「青ざめている」「あまり大勢の学生」のなかには大下宇陀児がいるかも。

4. 大下宇陀児『鉄の舌』という小説があって。初出は『新青年』昭和12年(1937年)3月号~9月号らしい。最初、たしかお兄ちゃんが3浪中で、弟も中学4年で受験生(四修での受験が可能)。年齢差は違うけど、久米正雄「受験生の手記」(1918)と同じくお兄ちゃんが不利な(?)状況。

3. 1917年(大正6年)、尾崎翠の最初の上京は春? ちくま文庫『尾崎翠集成』の年譜には書かれていないけど、『定本尾崎翠全集』の年譜には書かれているようだ(p.23、川崎賢子『尾崎翠 砂丘の彼方へ』)。小学校(代用教員)には3月まで勤めていたのかな? 川端康成が上京したのと同時期?

2. 1896年(明治29年)生まれの作家は、「犬養健/大下宇陀児/尾崎翠/久野豊彦/小山勝清/佐々木味津三/芹沢光治良/中戸川吉二/浜尾四郎/牧野信一/宮沢賢治/山田清三郎/吉屋信子」という感じ(『日本現代小説大事典 増補縮刷版』明治書院、2009、p.1465より)。

1. 時代で変えたいとも思うけど、「同世代」と言った場合に、個人的には(私的な定義はダメな言葉だろうけど)プラスマイナス2歳以内がいい、と思っていて。5年の幅。ただそう考えると、AさんとBさんは同世代、BさんとCさんは同世代、なのにAさんとCさんは同世代ではない、というケースも普通に。
 

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