「序」(久米正雄『学生時代』大正7年)
2021年8月27日 読書 序
私はここ[※横に「玄」を2つを並べた漢字]に学生々活を題材にした小説ばかりを集めて見た。殊にその半ばは一高の寮生活に取材したものである。
学生としての生活は、今迄の私の生涯の大部分を占めていると云ってもいい。従って其生活を描写する事は、私に許されたる最も安全な道であった。しかも或る意味では、私にのみ許されたる独特の道であるかの観さえ在った。
学生という社会制度上の一階級が、事実世の中に存在している以上、而してその数が甚だ尠くはない以上、それを題材にした芸術品が、在って然るべき筈なのである。しかも今迄其数は甚だ少なかった。而して其僅少な中にも吾々学生の真相に触れぬものが多かった。私の此の小さな著作集は、そう云う意味に於ての不足を、少しは満たすところがあろうと信ずる。境遇が少しく偏しているかも知れぬが、明治の末から大正の初めにかけての、学生気質の或る一面だけは、兎も角描写し得た積りだからである。
其意味に於て此の小説集は、現在学生である人は勿論、是から学生であるべき人、嘗って学生であった人、学生を子弟に持つ人等、凡ゆる知識階級の人々から、実用的に近い一読を要求して然るべき事を信じている。敢えて此の虫のよき要求の下に、喜んで此集を書肆に託する。
大 正 七 年 五 月
久 米 正 雄
※ 打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。
私はここ[※横に「玄」を2つを並べた漢字]に学生々活を題材にした小説ばかりを集めて見た。殊にその半ばは一高の寮生活に取材したものである。
学生としての生活は、今迄の私の生涯の大部分を占めていると云ってもいい。従って其生活を描写する事は、私に許されたる最も安全な道であった。しかも或る意味では、私にのみ許されたる独特の道であるかの観さえ在った。
学生という社会制度上の一階級が、事実世の中に存在している以上、而してその数が甚だ尠くはない以上、それを題材にした芸術品が、在って然るべき筈なのである。しかも今迄其数は甚だ少なかった。而して其僅少な中にも吾々学生の真相に触れぬものが多かった。私の此の小さな著作集は、そう云う意味に於ての不足を、少しは満たすところがあろうと信ずる。境遇が少しく偏しているかも知れぬが、明治の末から大正の初めにかけての、学生気質の或る一面だけは、兎も角描写し得た積りだからである。
其意味に於て此の小説集は、現在学生である人は勿論、是から学生であるべき人、嘗って学生であった人、学生を子弟に持つ人等、凡ゆる知識階級の人々から、実用的に近い一読を要求して然るべき事を信じている。敢えて此の虫のよき要求の下に、喜んで此集を書肆に託する。
大 正 七 年 五 月
久 米 正 雄
※ 打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。
母
第一高等学校校長矢田部博造先生は七月十一日の朝、八時少し過ぎて茗荷谷〔みようがだに〕の邸〔やしき〕を出た。今日は学校に別して出勤を要すると云う程の事務がある訳ではない。只入学試験の第二日で、英語の課せられる日であるから何か受験生の様子に、参考になる点、又は他日講堂の訓話か人生訓の材料にでもなる事は無いかと、それを見に出かけたのである。勿論〔もちろん〕非常に平易な気持の先生の事ではあるし、英語は人も許す堪能を極めた先生であるから、人手が足りなければ書取りの読み手位にはなってやるつもりであったらしい。
いつも時間を守りつけている先生は、今朝必然の事務で出るのでない安堵〔あんど〕の為〔ため〕に、何やかや家用に手間取って、八時を過ぎたのを少しく不快に思っている。そして俥〔くるま〕に揺られながら、書取りを読んでやるのに間に合えばいいと心で願っていた。それは必ずしも林田や沢柳などという教授連より立派に読めることを人に示したい為ではない。先生は、機会のある毎に自分の舌を動かして見て、吾れと吾が流暢〔りゆうちよう〕な外国語に聞き惚〔と〕れてみたいと云う、可愛い欲望を持っていたためである。
ようやく校門に着いた。見上げると時計台の針は既に十五分を過ぎている。もう試験は始まったであろう。いつもより校内がひっそりしているように感ぜられる。先生は例によって慇懃〔いんぎん〕な礼をする髯〔ひげ〕の門衛に礼を返して、遅れたことを本能的に気恥かしいような思いをしながら、敷石の上を軋〔きし〕らして行った。
ところが俥が正面の蓊鬱〔おううつ〕とした檜葉〔ひば〕の横をめぐって玄関を斜に見込んだ時、先生はふと見馴れぬ光景を認めた。それは門の処からは檜葉に隠れて見えなかったが、一人の清楚〔せいそ〕な中年の婦人が、傍に俥を従えて、玄関の傍にじっと立っているのであった。
勿論夏の衣装ではあるし、そう云う方面は疎〔うとい〕い先生のことであるから、その婦人の、割合に地味な黒と鼠との間色を行った服装によって、地位身分を判断することはできない。只薄茶色の日傘の中に与えた一瞥〔べつ〕で、その婦人の顔容〔かおつき〕に、卑しくない緊〔し〕まりを見出した。外国婦人を細君にしている先生は、決して浮薄の意味からではなく、日本の婦人にのみある一種の道義的聯想〔れんそう〕を伴う、一種の美に気附いていた。先生は、近づいて、その婦人が割合に年を取っているのを発見した。と同時に、この種の賢母にある、眉宇〔びう〕の緊張から来る感じをもはっきり認めざるを得なかった。
婦人の方では、近づいて来る先生の、よく婦人雑誌なぞで見馴れた顔を落着いた心で受取った。そして翳〔かざ〕していた薄茶の日傘を畳んで、丁寧に礼をした。
先生は俥を下りると、丁寧に礼を返して、刹那〔せつな〕に何の為に婦人がここへ来ているかを思い惑いながら、機械的に石段を上って玄関へ入った。ところがその時ふとそれが受験生の母ではないかと云う推測が先生の心に起った。そしてそれの上にすぐ教育家的の物語〔ロマンス〕を聯想せしめた。
「嘆願に来たのかも知れない」先生はふとそうした女気をも忖度〔そんたく〕して見た。答案を調べる教師の処へ、稀〔まれ〕に私交などを辿〔たど〕って、そうした嘆願に来ることは、先生も話には聞いていたからである。しかしそれにしてもその種の哀願者には見られない落着がその婦人にはあった。……
「何にせよ、一応聞いてみてやろう」と先生は思い回〔めぐら〕した。「そこには何か面白い事情があるかも知れない」
一旦玄関に入った先生は、又出て来て婦人に向った。婦人は一応窄〔すぼ〕めた日傘をまた開きもしないで先生の後を見送っていたらしかったが、先生の戻って来るのを見ると、ちょっとの間どぎまぎした。しかしその少しく汗ばんだ顔には先生の戻って来たのを、明らかに自分への用だと見て取った嬉しさが動いていた。
「何か御用なのですか」と先生は静かに訊〔たず〕ねた。そして有名な人が自分の名を云う時に感ずる一種の誇りで、「私は矢田部ですが」と附け加えた。
婦人は答える前に一つ長い礼をした。それはあたかも今発表せられた矢田部という名に対して、殊に敬意を払ったかの如くであった。
「私は今日試験を受けに参っておるものの母でございますが――」とその婦人は女が系統を立てて話をする時によくする抑揚で云い始めた。「ちょうど昨夜から伜〔せがれ〕が少々発熱を致しまして、今朝も受験は見合したら宜〔よ〕かろうと云うのを押して出て参りましたので、ひょいとして試験場で卒倒でもして皆さまに御迷惑でも掛けては何ですから、そんな事があったら早速私が看護してやろうと思いまして、薬なぞを用意して参った次第なのでございます。……洵〔まこと〕にお恥かしい処をお目にとまって恐れ入ります」
先生はその話をふむふむと点頭〔うなず〕いて聞きながら教育家の感動を抑え切れなかった。そして猶〔なお〕もその婦人の話を聞くと、彼女が某と云う海軍中佐の未亡人で、今の息子が十歳の時に夫を失い、それから十幾年と云うものを夫の恩給をたよりに自分の手一つで育て上げたと云う事が解った。その時先生はふと彼女の顔を見上げて、十数年の寡婦生活が刻んだらしい、きかぬ気を表わす眉間〔みけん〕の皺〔しわ〕と、頬に漂い残した女盛りの潤いのある光沢とを見定めた。
「それで御子息は何部を御志望なのですか。試験票の番号はお解りではありませんか」と尋ねた。先生の心に、この母に対する同情と共に、その子を見て置きたいと云う好奇心が湧いたのである。
「一部の甲でございます。私はもう軍人の夫で懲〔こ〕りておりますので文官を志望させました」と婦人は心安くそんな事まで云った。番号は確か十六番かと存じます。何でも番が早い方がいいとか申して受附の最初の日に、非常に早く参りましたのです」
「ああそうですか英法の十六番ですね、ではちょっとお待ち下さい」と云い棄てて先生は試験のある分館の教室の方へ歩いて行った。そして取りつきの教室で、試験官に尋ねて、英法の十六番が試験している教室は何処かと小声で尋ねた。
先生は受験生の注意を散らすまいと、爪尖〔つまさき〕で廊下を歩いて、尋ね知った教室まで来た。
先生はそっと教室の戸を開けたつもりであったが、出来の悪い分館の戸はきゅうと軋〔きし〕った。その途端に受験生の大多数の上気した顔が錯綜〔さくそう〕した視線を先生に浴びせた。受験生の中には咄嗟〔とつさ〕に矢田部先生であると見て取ったものもあったらしい。この不安な緊張を見て取った先生は、手で何でもないと云う鎮静の身振りを示して、監督をしている体操の老教師に近づきながら、小声で聞いた。
「ここは英法の受験生ばかりかね」
老教師は人のいい無遠慮な大声を出した。
「はあそうです。一部甲類の一番から四十番までの受験室です」
「もう書取りは済んだのかね」と先生は尋ねて、まだ済まなかったら、この教室で、ゆっくり原文を読んでやろうとさえ思った。
「はあもう済みました。先刻沢柳先生が読んでおいでになりました」
「ああそうですか」と先生は少し気落ちがして生徒の方を見渡した。もう受験生は一人として頭を上げてるものはない。微〔かすか〕な咳〔しわぶき〕の音と、鉛筆のさらさらするばかりである。先生はそれと思うあたりを物色した。が黒い頭を一様に垂れた列位の中にそれとはっきり見て取れる筈はなかった。それで静かに教壇を下りてすべての試験官がするように、机の間をぐるぐる廻って見ることにした。
先生が番号を辿〔たど〕って第四列の三側目まで来ると、そこに十六番の受験生が熱心に筆を動かしているのを見出した。母に似た端正な顔だちであるが、成程蒼白〔あおじろ〕い顔の眼のあたりがぼっと上気に赤らんで、額に薄く汗が滲〔にじ〕んでいる。それへ中庭の枇杷〔びわ〕の緑が反映して余計蒼〔あお〕ざめているように見える。先生は静かに歩みをとめてその生徒の様子をじっと見た。そして割合に字面の揃〔そろ〕った答案の文字を安心に似た心持で見やった。
受験生はその時ちょうど英文和解の第二題を書き終って、今まで心持斜にして書いていた答案を真直ぐにしながら、一応読み返してほっと息を吐いた。先生はそれを機〔しお〕に近づいて、静かに、
「どうだね、体の具合は何ともないかい」と聞いた。
受験生は顔を上げて、不思議そうに先生の顔を眺めたが、右の言葉が明らかに自分に向けられたのを知ると幾らか狼狽〔ろうばい〕して、
「はあ、何でもありません」と答えた。
「そうか。じゃあ気をつけてしっかり書き給え」
「はあ」と猶受験生は理由を知らぬ好意の先生の顔にあるのを見守っていた。
先生は何かもっと云いたいと感じた。しかし何も云わないで置くのが猶嬉しいような感じもした。それで再び生徒が筆を取り上げるのを見ると、黙って教室を出た。只出る時、教室の通風の具合を一応見分して、北の端の窓の上半が開けてないのを見、それを教官に注意することを忘れなかった。
「あれは毀〔こわ〕れているのです」と体操の教官は無邪気に弁解した。
「それじゃ早速小使に直させて置き給え」
こう先生は云いすてて廊下へ出た。そして玄関の婦人の所へ晴ればれした顔をして帰って来た。
「お安心なさい。御子息は大変元気で答案を書いておいでです」
「まあ左様でございますか。それはどうも有難うございます。とんだ御迷惑を掛けまして」
と婦人も笑いを湛〔たた〕えて御辞儀をした。そして再び上げた顔には黒眼が濡れて光っていた。
先生は只何となく嬉しかった。そして殊に又一つ訓話の材料が出来たのを思うと、嬉しさが二倍するのを感じた。
その後矢田部先生は講堂で右の話を予定通りに訓話した事は云うまでも無い。
只それを聞いた当時の学生の自分は、家へ帰って何かの拍子にふとその話を母にした。それたら母は、
「私にはとてもそんな真似はできないよ」
と云って自分の顔を見ながら微笑を洩らした。
※底本:久米正雄『学生時代』新潮文庫、四十五刷改版、1968年7月(初版、1948年4月)。
※どこか打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。
第一高等学校校長矢田部博造先生は七月十一日の朝、八時少し過ぎて茗荷谷〔みようがだに〕の邸〔やしき〕を出た。今日は学校に別して出勤を要すると云う程の事務がある訳ではない。只入学試験の第二日で、英語の課せられる日であるから何か受験生の様子に、参考になる点、又は他日講堂の訓話か人生訓の材料にでもなる事は無いかと、それを見に出かけたのである。勿論〔もちろん〕非常に平易な気持の先生の事ではあるし、英語は人も許す堪能を極めた先生であるから、人手が足りなければ書取りの読み手位にはなってやるつもりであったらしい。
いつも時間を守りつけている先生は、今朝必然の事務で出るのでない安堵〔あんど〕の為〔ため〕に、何やかや家用に手間取って、八時を過ぎたのを少しく不快に思っている。そして俥〔くるま〕に揺られながら、書取りを読んでやるのに間に合えばいいと心で願っていた。それは必ずしも林田や沢柳などという教授連より立派に読めることを人に示したい為ではない。先生は、機会のある毎に自分の舌を動かして見て、吾れと吾が流暢〔りゆうちよう〕な外国語に聞き惚〔と〕れてみたいと云う、可愛い欲望を持っていたためである。
ようやく校門に着いた。見上げると時計台の針は既に十五分を過ぎている。もう試験は始まったであろう。いつもより校内がひっそりしているように感ぜられる。先生は例によって慇懃〔いんぎん〕な礼をする髯〔ひげ〕の門衛に礼を返して、遅れたことを本能的に気恥かしいような思いをしながら、敷石の上を軋〔きし〕らして行った。
ところが俥が正面の蓊鬱〔おううつ〕とした檜葉〔ひば〕の横をめぐって玄関を斜に見込んだ時、先生はふと見馴れぬ光景を認めた。それは門の処からは檜葉に隠れて見えなかったが、一人の清楚〔せいそ〕な中年の婦人が、傍に俥を従えて、玄関の傍にじっと立っているのであった。
勿論夏の衣装ではあるし、そう云う方面は疎〔うとい〕い先生のことであるから、その婦人の、割合に地味な黒と鼠との間色を行った服装によって、地位身分を判断することはできない。只薄茶色の日傘の中に与えた一瞥〔べつ〕で、その婦人の顔容〔かおつき〕に、卑しくない緊〔し〕まりを見出した。外国婦人を細君にしている先生は、決して浮薄の意味からではなく、日本の婦人にのみある一種の道義的聯想〔れんそう〕を伴う、一種の美に気附いていた。先生は、近づいて、その婦人が割合に年を取っているのを発見した。と同時に、この種の賢母にある、眉宇〔びう〕の緊張から来る感じをもはっきり認めざるを得なかった。
婦人の方では、近づいて来る先生の、よく婦人雑誌なぞで見馴れた顔を落着いた心で受取った。そして翳〔かざ〕していた薄茶の日傘を畳んで、丁寧に礼をした。
先生は俥を下りると、丁寧に礼を返して、刹那〔せつな〕に何の為に婦人がここへ来ているかを思い惑いながら、機械的に石段を上って玄関へ入った。ところがその時ふとそれが受験生の母ではないかと云う推測が先生の心に起った。そしてそれの上にすぐ教育家的の物語〔ロマンス〕を聯想せしめた。
「嘆願に来たのかも知れない」先生はふとそうした女気をも忖度〔そんたく〕して見た。答案を調べる教師の処へ、稀〔まれ〕に私交などを辿〔たど〕って、そうした嘆願に来ることは、先生も話には聞いていたからである。しかしそれにしてもその種の哀願者には見られない落着がその婦人にはあった。……
「何にせよ、一応聞いてみてやろう」と先生は思い回〔めぐら〕した。「そこには何か面白い事情があるかも知れない」
一旦玄関に入った先生は、又出て来て婦人に向った。婦人は一応窄〔すぼ〕めた日傘をまた開きもしないで先生の後を見送っていたらしかったが、先生の戻って来るのを見ると、ちょっとの間どぎまぎした。しかしその少しく汗ばんだ顔には先生の戻って来たのを、明らかに自分への用だと見て取った嬉しさが動いていた。
「何か御用なのですか」と先生は静かに訊〔たず〕ねた。そして有名な人が自分の名を云う時に感ずる一種の誇りで、「私は矢田部ですが」と附け加えた。
婦人は答える前に一つ長い礼をした。それはあたかも今発表せられた矢田部という名に対して、殊に敬意を払ったかの如くであった。
「私は今日試験を受けに参っておるものの母でございますが――」とその婦人は女が系統を立てて話をする時によくする抑揚で云い始めた。「ちょうど昨夜から伜〔せがれ〕が少々発熱を致しまして、今朝も受験は見合したら宜〔よ〕かろうと云うのを押して出て参りましたので、ひょいとして試験場で卒倒でもして皆さまに御迷惑でも掛けては何ですから、そんな事があったら早速私が看護してやろうと思いまして、薬なぞを用意して参った次第なのでございます。……洵〔まこと〕にお恥かしい処をお目にとまって恐れ入ります」
先生はその話をふむふむと点頭〔うなず〕いて聞きながら教育家の感動を抑え切れなかった。そして猶〔なお〕もその婦人の話を聞くと、彼女が某と云う海軍中佐の未亡人で、今の息子が十歳の時に夫を失い、それから十幾年と云うものを夫の恩給をたよりに自分の手一つで育て上げたと云う事が解った。その時先生はふと彼女の顔を見上げて、十数年の寡婦生活が刻んだらしい、きかぬ気を表わす眉間〔みけん〕の皺〔しわ〕と、頬に漂い残した女盛りの潤いのある光沢とを見定めた。
「それで御子息は何部を御志望なのですか。試験票の番号はお解りではありませんか」と尋ねた。先生の心に、この母に対する同情と共に、その子を見て置きたいと云う好奇心が湧いたのである。
「一部の甲でございます。私はもう軍人の夫で懲〔こ〕りておりますので文官を志望させました」と婦人は心安くそんな事まで云った。番号は確か十六番かと存じます。何でも番が早い方がいいとか申して受附の最初の日に、非常に早く参りましたのです」
「ああそうですか英法の十六番ですね、ではちょっとお待ち下さい」と云い棄てて先生は試験のある分館の教室の方へ歩いて行った。そして取りつきの教室で、試験官に尋ねて、英法の十六番が試験している教室は何処かと小声で尋ねた。
先生は受験生の注意を散らすまいと、爪尖〔つまさき〕で廊下を歩いて、尋ね知った教室まで来た。
先生はそっと教室の戸を開けたつもりであったが、出来の悪い分館の戸はきゅうと軋〔きし〕った。その途端に受験生の大多数の上気した顔が錯綜〔さくそう〕した視線を先生に浴びせた。受験生の中には咄嗟〔とつさ〕に矢田部先生であると見て取ったものもあったらしい。この不安な緊張を見て取った先生は、手で何でもないと云う鎮静の身振りを示して、監督をしている体操の老教師に近づきながら、小声で聞いた。
「ここは英法の受験生ばかりかね」
老教師は人のいい無遠慮な大声を出した。
「はあそうです。一部甲類の一番から四十番までの受験室です」
「もう書取りは済んだのかね」と先生は尋ねて、まだ済まなかったら、この教室で、ゆっくり原文を読んでやろうとさえ思った。
「はあもう済みました。先刻沢柳先生が読んでおいでになりました」
「ああそうですか」と先生は少し気落ちがして生徒の方を見渡した。もう受験生は一人として頭を上げてるものはない。微〔かすか〕な咳〔しわぶき〕の音と、鉛筆のさらさらするばかりである。先生はそれと思うあたりを物色した。が黒い頭を一様に垂れた列位の中にそれとはっきり見て取れる筈はなかった。それで静かに教壇を下りてすべての試験官がするように、机の間をぐるぐる廻って見ることにした。
先生が番号を辿〔たど〕って第四列の三側目まで来ると、そこに十六番の受験生が熱心に筆を動かしているのを見出した。母に似た端正な顔だちであるが、成程蒼白〔あおじろ〕い顔の眼のあたりがぼっと上気に赤らんで、額に薄く汗が滲〔にじ〕んでいる。それへ中庭の枇杷〔びわ〕の緑が反映して余計蒼〔あお〕ざめているように見える。先生は静かに歩みをとめてその生徒の様子をじっと見た。そして割合に字面の揃〔そろ〕った答案の文字を安心に似た心持で見やった。
受験生はその時ちょうど英文和解の第二題を書き終って、今まで心持斜にして書いていた答案を真直ぐにしながら、一応読み返してほっと息を吐いた。先生はそれを機〔しお〕に近づいて、静かに、
「どうだね、体の具合は何ともないかい」と聞いた。
受験生は顔を上げて、不思議そうに先生の顔を眺めたが、右の言葉が明らかに自分に向けられたのを知ると幾らか狼狽〔ろうばい〕して、
「はあ、何でもありません」と答えた。
「そうか。じゃあ気をつけてしっかり書き給え」
「はあ」と猶受験生は理由を知らぬ好意の先生の顔にあるのを見守っていた。
先生は何かもっと云いたいと感じた。しかし何も云わないで置くのが猶嬉しいような感じもした。それで再び生徒が筆を取り上げるのを見ると、黙って教室を出た。只出る時、教室の通風の具合を一応見分して、北の端の窓の上半が開けてないのを見、それを教官に注意することを忘れなかった。
「あれは毀〔こわ〕れているのです」と体操の教官は無邪気に弁解した。
「それじゃ早速小使に直させて置き給え」
こう先生は云いすてて廊下へ出た。そして玄関の婦人の所へ晴ればれした顔をして帰って来た。
「お安心なさい。御子息は大変元気で答案を書いておいでです」
「まあ左様でございますか。それはどうも有難うございます。とんだ御迷惑を掛けまして」
と婦人も笑いを湛〔たた〕えて御辞儀をした。そして再び上げた顔には黒眼が濡れて光っていた。
先生は只何となく嬉しかった。そして殊に又一つ訓話の材料が出来たのを思うと、嬉しさが二倍するのを感じた。
その後矢田部先生は講堂で右の話を予定通りに訓話した事は云うまでも無い。
只それを聞いた当時の学生の自分は、家へ帰って何かの拍子にふとその話を母にした。それたら母は、
「私にはとてもそんな真似はできないよ」
と云って自分の顔を見ながら微笑を洩らした。
※底本:久米正雄『学生時代』新潮文庫、四十五刷改版、1968年7月(初版、1948年4月)。
※どこか打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。
※以前ツイッターで書いたものです。こちらに移しておきます。少し加筆訂正ありです。
*
62. 作家の本岡類って俳優の中村雅俊と同じ1951年早生まれらしいから同じ年に同じ寮?(↓8/12/2003のところ)。
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/motookarui/current.htm
62.1. S台のN寮っていつからあったんだろう? 1963年くらいっぽいんだけど。私にはわからない。それくらいの時期だとすれば、Yゼミの後追いというか?
61. テーマによるだろうけど、「~小説/文学の系譜」とか時系列配置のアンソロジーとかでは、「受験生の~」の前には漱石作品が置かれやすいかも。当たり前?(^_^;)。『自殺ブンガク選』(彩流社、2010.6)というムックでは(間にコラムが挟まっているけど)手前は『こころ』。若者の自死。
60. 『Jブンガク』よりも早い『掘りだしものカタログ2 青春×小説』(明治書院、2009.2)。52作紹介されていて、「受験生~」は5番目。前後2作は、夏目漱石『それから』→田山花袋『田舎教師』→「受験生~」→加能作次郎「世の中へ」→菊池寛『無名作家の日記』。
59. そういえば、昔『ぼく勉』を読んだのは浪人中だった。あまり共感ができなかった覚えが。同時期にヘッセの『車輪の下』も読んだ記憶があるけれど、そっちはよかった。私は優等生とかではなかったけれど。(風景描写を読むのが面倒、と言っていた人がいたけれど、同感。)
58. 6、7年前、NHK教育テレビ『Jブンガク』の第1シーズン(2009年度)の最初の週で取り上げられた文学作品4つは、福沢諭吉『学問のすゝめ』、夏目漱石『三四郎』、久米正雄「受験生の手記」、山田詠美『ぼくは勉強ができない』。
57. 「~小説の系譜」というお題のエッセイで作者の生年が偏っている小説ばかりを取りあげるのっていいのかな?
中上健次 1946年生まれ
宮本輝 1947年早生まれ
・
清水義範 1947年生まれ
北重人 1948年早生まれ
橋本治 1948年早生まれ
・
村上春樹 1949年早生まれ
56. 村上春樹「イエスタデイ」(『女のいない男たち』所収。初出『文藝春秋』2014年1月号)。すでに内容をあまり覚えていない(^_^;)。お風呂で替え歌を歌っていたことは覚えている。ほのぼの小説?(たぶん違う)。海外で武者修行をして、最後は寿司職人になるんだっけ?(たぶん違う)。
55. 宮本輝「星々の悲しみ」(1980)は1965年で、主人公の名前は志水靖高。清水義範「続・イエスタデイ」(『イエスタデイ』所収、1989)は1966年で、主人公の名前は志水義夫。(なんか既視感というかbot的というか、同じことを繰り返し書いているようなループ感が(泣)。)
54. かんべむさしは1948年早生まれ。清水義範は1947年生まれで、同学年。『学問ノススメ』の作者(福沢諭吉ではない)が『学生時代』を読んでいてもおかしくはないと思う。1つ年下の弟。(村上春樹は1949年早生まれで、1学年下。)
53. 「競漕」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001151/files/43799_24697.html
52. (続き)久米正雄の『学生時代』的人物、こっちが恥かしくて見ちゃいられんのですがねえ。」(「記念祭の夜はふけて」)。学校対抗ではなくて学校内だけど、「競漕」のイメージが強いのかな? でも、確かに一高生またはその卒業生が団結(?)している話が多いかも。
51. かんべむさし『むさしキャンパス記』(1979)に次のような箇所がある。「友人知人に体育会出身だという人は何人かおり、そのそれぞれはおもしろくていい人物なのに、団体になるとなぜあれほど「肩に力を入れ」て「母校の名誉を一身に担う」というが如き言動をとるのだろう。(続く)
50. 3大予備校生作品は、TVドラマの『予備校ブギ』、漫画の原秀則『冬物語』、小説の清水義範『学問ノススメ』?(異論噴出?)。ときどき思うけど、浪人生をまともに描いている小説って、『学問ノススメ』(全3巻、1989-9)以外にないんじゃないかな。うーん、さすがにそれは言い過ぎか。。
50.1. このへん微妙などっちが先か問題が...。『学問ノススメ』の初出はカッパ・ノベルス(書き下ろし)で、Amazonによれば、1巻目(挫折編)の発売日は1989/4/1、2巻目(奮闘編)は1989/8/1、最後の巻(自立編)は1990/3/1。作者の清水義範は1947年生まれ。
50.2. 『予備校ブギ』(TBS系列)の放送は、Wikipediaによれば「1990年4月20日から7月6日まで」。脚本は遊川和彦。1955年生まれ。
50.3. Wikipediaによれば「冬物語 (漫画)」は「1987年から1990年まで『少年ビッグコミック』およびその後継誌『ヤングサンデー』にて連載」。最終回は何月何日? アマゾンを見ると単行本の第1巻の発売日は1987/10/5、最後の第7巻は1990/6/1。原秀則は1961年生。
49. もう高校生ではなく、まだ大学生でもない、という両側から否定される存在。小説では変装したりとかも多いかも。伊井直行『草のかんむり』(初出『群像』1983年6月号)は変身譚、蛙になる(作者は1953年生まれ、1浪して慶応。上京してYゼミ)。あ、もちろん(?)“19歳小説”も多い。
(※ちょっと間違えた。直すは大変なので、48は欠番にします。)
47. 「他人は、善意の施しを隙あらば与えてやろうと手ぐすねひいている大人は、君は予備校生ではないか、と言うだろう。そうだ、僕は予備校生でもある。隙あらば(略)なにものかになってやろうと思っている者だ。しかしぼくがなにになれると言うのか。」ー中上健次「十九歳の地図」(1973)
46. もう時系列を回復できない、無念です(泣)。あ、村上春樹の『1973年のピンボール』は1980年なのか(初出も単行本も)。三石(誰?)は1954年生まれ。7、8年くらいの時間差? あ、久間(誰?)は1953年生まれか。
45. 「十九歳の地図」をぱらぱらと再読していたら意外と泣けてきて。泣けるような小説?(^_^;)。あと、河出文庫、後ろの松本健一「同時代の爆弾」を読んでいて、1970年代といえば、久間十義『海で三番目につよいもの』(初出『新潮』1993年1月号)というのもあったっけ、と思い出した。
44. ウィキペディアの「三石由起子」のところに「「ダイアモンドは傷つかない」が三浦哲郎の推薦で1981年『早稲田文学』に掲載され、(略)」とある。なんとなく「三浦哲郎」の名前に納得してしまう。(三浦哲郎・三浦晶子『林檎とパイプ』という本が読みたいけど、地元の図書館になくて。)
43. 作者が1961年生まれなので、「雨季」は1980年の話かもしれない。以前にも書いたけれど、作者が1951年生まれなので、「冬への順応」の浪人生時代は1970年の話かもしれない。
42. 受賞は峰原が半年早い(文學界は年2回)。南木は「雨季」を読んでいると思う(勝手な推測(^_^;))。同誌翌年の1983年5月号に掲載された「冬への順応」。主人公はお茶の水の予備校に通っているのに小学校のときの同級生と再会する場面が代々木駅になっている。(続く)
41. 峰原緑子「雨季」(『文學界』1982年4月号)は代々木小説。Yゼミではないけど。以前、図書館でコピーをとってきて(雑誌は貸してくれないので)読んだのだけど、確か表紙か目次かに文學界新人賞受賞第一作として南木佳士「重い陽光」と並んでいたと思う。(続く)
40. (続き)同時受賞作である田久保英夫氏の『深い河』の方が好きだったが、彼らの同意は得られなかった。」と書いている。(柏原兵三「徳山~」(初出『新潮』1967年7月号)はたまたま読んだことがあるけど、面白かったです。孫の1人が浪人生ーどうでもいいか(汗)。)
39. 薫くんの1学年下の(だから学校群制度の)南木佳士は「徳山道助の帰郷」というエッセイ(『青春の一冊』、単著では『ふいに吹く風』所収)で、『赤頭巾ちゃん~』について、「(略)この作品は、級友たちに圧倒的に支持されていた。ただ、そのとき私は(続く)
38. 安岡は芥川賞の選評で中上「十九歳の地図」(初出『文藝』1973年6月号)をスルーしている(?)。
37. 安岡章太郎は久米「受験生の手記」を読んでいるのか? という疑問が。「試験地獄」(『とちりの虫』)というエッセイに「先日、「いとこ同志」というフランス映画を見たら、これはフランス版の“受験生の手記”であった。」という記述がある。読んではいるのかも。
36. 宮本輝「星々の悲しみ」(初出『別冊小説新潮』1980年秋号)と南木佳士「冬への順応」(初出『文學界』1983年5月号)は意外と似ているような。同学年で親しい人の死を経験する。前者の作中年は1965年、後者は作者が1951年生まれなので、主人公たちの浪人時代はおそらく1970年。
35. (続き)読んでいる。「...多少の不安はあったが、...。不安というのは、作品全体から感じられる新鮮な感覚の中に、時折、汚れというか分別臭いというか、そうしたものが顔を...」(選評)。確かに洪作は「分別」を向こう側へ押しやっている感じが。
34. 井上靖『北の海』は面白いと思う。かたくなでとぼけた(?)主人公。勉強はしてないけど、柔道はしている。大正15年(1926年)の話。初出は東京新聞ほか1968年12月9日~翌年11月17日。芥川賞選考委員として井上は『赤頭巾ちゃん~』(初出『中央公論』1969年5月号)を(続く)
33. そういえば、梶龍雄『ぼくの好色天使たち』(1979)。ずいぶん前に図書館で借りて読んだのだけれど、単行本も文庫本も、ブック×フその他でいまだに見かけないな(レアなのかな?)。ちょっと欲しいけれど。青春ミステリというか。戦後の1946年の話だったと思う。闇市とか。
32. (続き)正修~って午前部、午後部のほかに夜間部も生徒を募集していたようだけど、(同じ経営の)夜間中学と同じ校舎を使っていたっぽい。夜間はどうしてたんだろう? 教室は足りていたのかな? それとも同じ授業を受けていたとか?
31. 時系列がすでにぐだぐだ(^_^;)。1945, 6年、吉村昭。友人が通っていたから正修英語学校にした、と何かエッセイに書いていたと思うけど、卒業した東京開成中学校と正修~とは経営が同じところっぽい(予備校だから内部進学とは言わない?)。(続く)
30. 「だから何?」というつぶやきばかりで、ほんとすみませんm(__)m。そういえば(ネタバレになってしまうかな)「受験生の手記」よりも吉村昭「星への旅」(初出は『展望』1966年8月号)のほうがよほどバッドエンドだと思う。「浪人」はあまり関係ないかもしれないけれど。
29. 中上健次って新聞は配ってないよね? 中上と宮本輝は同学年(北重人は1つ下)。中上「隆男と美津子」(初出は「遠い夏」という題で『文藝首都』1966年12月号)は、宮本編『わかれの船』に収録されている。1966年、高校卒業が前年? あまり遠くない夏かも。
28. 最近亡くなった小鷹信光(2浪して早稲田)は1956年、2浪目は大塚の啓成予備校に通っていたらしい(p.118、『私のハードボイルド』)。10年後の1966年、北重人『鳥かごの詩』(2009)の主人公は、新聞配達をしながらその予備校に通っている(作中では「K予備校」)。
27. 筒井康隆「慶安大変記」。マンモス予備校。語り手は高3だけど。初出というかは「慶安の変始末記」という題で『高3コース』1966年12月号。作者は当時、Yゼミの近く(森ビル)に住んでいたらしい(徳間文庫『近所迷惑』巻末の作者へのインタビュー)。
26. そういえば、村上春樹『1Q84』(全3巻、2009-10)に出てくる代々木の予備校は、とても近代的な感じがする。うーん、なんでだろう? きれいそうで、効率的な(無駄がなさそうな)感じがするからかな。ちなみに(?)大江健三郎『個人的な体験』の単行本は1964年刊。
25. (続き)自分は確か10年くらい前に図書館で開高健の全集の1冊を借りて読んだけれど(記憶があまりない)、たぶん単行本『ずばり東京』(上下、1964)には収録されていると思う(文春文庫はわからないけれど、光文社文庫の選集には収録されていない)。「きわめて近代的」だったっけ。
24. 『小田実の受験教育』の文庫版(講談社文庫、1984)の解説=古藤晃「予備校講師としての小田実」に、「1963年であったと思うが、『週刊朝日』連載の開高健のルポタージュの中で、きわめて近代的な予備校として代々木ゼミナールが紹介された。」とある(pp.174-5)。(続く)
23. それでなぜ東大に入れなかったのだろう?(2浪して早稲田)。 ところで、渡辺淳一『白夜』第1巻で、東大への未練というか、前年(大学1年のとき)の話で、仲間が東京で東大を目指して勉強している、みたいな話があったと思う。渡辺・荒巻は同じ高校の同学年。
24. 「東大よりS台のほうが入りにくい」という神話(?)が神話でなかった時代? 大江が1953年にS台を受けて落ちていたらちょっと面白いかも(不謹慎か)。荒巻義雄は1952年にS台(『柔らかい時計』徳間文庫の年譜によると)。10倍までいかなくてもたぶん前年も高倍率。(続く)
23. 『学歴貴族~』に付いている年表の1953年のところに「ーー大学受験の予備校・講習会など急増。東京の予備校はこの年前後で十数校増加、駿台予備校の競争率約10倍」とある(p.366)。昭和30年(1955年)前後に浪人している有名な作家は多いと思う。(続く)
22. 安岡家は1952年10月に鵠沼を去る。大江健三郎は1953年東大受験に失敗、藤沢に下宿して正修予備校(御茶ノ水)に。小谷野敦『大江と江藤』を読むと、藤沢なのも正修~なのも理由が不明なようだ(pp.89-90)。結局、浪人中に『悪い仲間』(10月刊)は読んだのか読まなかったのか。
21. なんと順太郎その5(?)。遠藤周作『一・二・三!』(1963)に出てくる東大受験生の1人が「順太郎」。阿倍ではなくて丸山だけど。遠藤周作、個人的には『ただいま浪人』(1972)より『灯のうるむ頃』(『浮世風呂』改題、1964)がいいと思う。父子の話。
20. 大学(予科)生になってしまうけど、順太郎その3「相も変らず」の初出は『新潮』1959年6月号。進学断念系(?)の北杜夫「異形」の初出は『新潮』1959年7月号。この「異形」は面白いです。北村薫・宮部みゆき編のアンソロジーに収録されている。
19. 思えば、そもそも「くげぬま物語」が「鵠沼日記」であるなら『学歴貴族~』にそう書いてあるはず。竹内洋は「青葉~」の一節を引用したあとで、「かの女の小説に「向陵の月」「赤門出の秀才」など一高生を描いたものがいくつかある」と書いている(p.38、単行本)。
18. 読んでみた。やっぱり「鵠沼日記」(『ホネームーン』)には忘れられないような一高生は出てこない(泣)。(上)に中山さんという一高生が出てくるけれど、明らかに違う。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888231
17. https://ci.nii.ac.jp/naid/110009426400
註の(8)に「ここでいう「くげぬま物語」とは『ホネームーン』収録の「鵠沼日記」のことだと思われる。(略)」とある。えー! やっぱり「鵠沼日記」か。確かに一高生は出てくるっぽいけど。やっぱりちゃんと読んでみないとダメだな。
16. 年譜を見ると、作者が藤沢市鵠沼に住んでいたのは1945年10月から1952年。両親はその1952年に高知県に帰郷、母親が亡くなるのは1957年。お母さんの生年は? 川端より少し上かな。5歳は離れていないかも。一高に現役合格の川端、3浪して私大予科(といっても慶応)の安岡...。
15. いまだに紙の本しか読んでないのだけれど、以前、小谷野敦『川端康成伝』(2013)を読んで内藤千代子が近デシで読めることを知って。ちゃんと確認していないけど、題名が似ている「鵠沼日記」(『ホネームーン』)には魅力的な一高生は出てこないのでは? 別の作品か...。
14. 「おふくろは若いころ読んだ内藤千代とかいう人の「くげぬま物語」という小説に出てくる一高の生徒のことが忘れられず、(略)生まれた子供の順太郎を、(略)」ー「青葉しげれる」(1958)。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(1999)でも引かれている箇所。(続く)
13. そうえいば、以前『私説聊斎志異』(1975)を読んで知って、読んでみた太宰治「竹青ー新曲聊斎志異ー」(初出『文藝』1945年4月号)は面白かった。ちょっとお薦めです。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1047_20130.html
12. 「青葉~」の冒頭「ことし、また落第ときまった。」は、太宰治「盗賊」(「逆行」にあとから加えられた1編、初出は『帝国大学新聞』1935年10月7日)の冒頭「ことし落第ときまった」を踏まえている。たぶん。「落第」違いだけれど。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/260_34634.html
11. なんだろう、大岡玲「スピリチュアル」(『オール讀物』2007年6月号)という作品があるみたいで(ネット調べ)、ちょっと読みたいけれど、地元の図書館、雑誌のバックナンバーを出してもらうのが面倒なんだよね(泣)。たんなる趣味で小説を読んでいるので、あまり人の手を煩わせたくない。
10. そういえば、この前、初めて島田雅彦の年譜を見た。1979年にS台。ああそうなのか、と。ほかにS台に通っていた作家には南木佳士、田中康夫、奥泉光、小谷野敦、石黒達昌などがいる。たぶん藤野千夜も。「午後の時間割」(1995)にちらっと「ヤマモトヨシタカ」と出てくる。
9. 順太郎ものって4作しかないのかな?(4部作?)。ところで、福田章二の中央公論新人賞受賞作「喪失」の初出は『中央公論』1958年11月号。作者は、同誌同年10月号初出の「青葉~」を読んでいないわけがない? というか、そもそも『赤頭巾ちゃん~』の語り手は浪人生ではない!(汗)
8. 以前、夏目房之介が著書で否定的に触れていて、気になっていた漫画、青柳祐介「いきぬき」をこの前、やっと『COM傑作選上』 (ちくま文庫、2015.4)で読んだ。最後のへんで頭巾をかぶった女の子が出てくる。初出は1967年9月号で、『赤頭巾ちゃん気をつけて』よりも前。
8.1. 「原型」があるらしい。「...1966年に、この『60』という雑誌に十枚ほどの短い小説を発表したことがあった...。...『赤頭巾ちゃん気をつけて』の最後の章の原型ともいうべきもので、本屋の店先でちっちゃな女の子に...される話だった...。」(庄司薫『狼なんかこわくない』)。
8.2. どちらが早いか問題は、けっこうめんどくさいな(泣)。
8.3. あまり関係がないけど(?)、三木卓の年譜の1965年のところに、「12月、「ほろびた国の旅」起稿。」と書かれている。『ほろびた国の旅』は、1969年5月刊(盛光社)。三木卓は1935年生まれ。(ちなみに、庄司薫は1937年生まれ。宇能鴻一郎は1934年生まれ。)
7. 文学や作家、文壇の知識がぜんぜんなくてわからないけれど、松井が松岡、佐藤が里見...みたいな対応関係があるのかな? 久野は明らかに久米だもんね(?)。あと、これは誰か書いていた気がするけれど、筆といえば墨? 筆子→墨子→澄子?
6. 「受験生の手記」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001151/files/52934_45453.html
5. 安岡「逆立」(浪人はあまり関係ないかもしれないけれど)の初出は『三田文学』1954年10月号、川上宗薫「初心」(読み方はたぶん「うぶ」)の初出は、同誌1954年11月号。
4. (続き)『現代日本文学全集25 里見とん・久米正雄集』(1956)で解説を書いていたり、その前に「受験生~」の主人公の下の名前が「健吉」だったりして、記憶が薄れていなかっただけかもしれない。(久米は1952年に亡くなっている。)
3. 安岡章太郎「青葉しげれる」(初出『中央公論』1958年10月号)を山本健吉が文芸時評でとりあげていて、そのさい久米正雄「受験生の手記」(1918)を持ち出している。40年も前の作品。ただ、山本健吉は(続く)
2. 「君には浪人の経験が無いからわからないかも知れないが、あれは全くつらい地獄だ」 /「君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い」ー太宰治『パンドラの匣』(1946)
1. twitter、再挑戦です。よろしくお願い致します。「青春小説の系譜」と嘘をついておけば(いや嘘にはならないだろうけど)何を書いているかバレないかも。おお、これが例の噂の(?)異常な執着心?(違)。
※「浪人生小説の系譜」について書こうとしている。
*
62. 作家の本岡類って俳優の中村雅俊と同じ1951年早生まれらしいから同じ年に同じ寮?(↓8/12/2003のところ)。
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/motookarui/current.htm
62.1. S台のN寮っていつからあったんだろう? 1963年くらいっぽいんだけど。私にはわからない。それくらいの時期だとすれば、Yゼミの後追いというか?
61. テーマによるだろうけど、「~小説/文学の系譜」とか時系列配置のアンソロジーとかでは、「受験生の~」の前には漱石作品が置かれやすいかも。当たり前?(^_^;)。『自殺ブンガク選』(彩流社、2010.6)というムックでは(間にコラムが挟まっているけど)手前は『こころ』。若者の自死。
60. 『Jブンガク』よりも早い『掘りだしものカタログ2 青春×小説』(明治書院、2009.2)。52作紹介されていて、「受験生~」は5番目。前後2作は、夏目漱石『それから』→田山花袋『田舎教師』→「受験生~」→加能作次郎「世の中へ」→菊池寛『無名作家の日記』。
59. そういえば、昔『ぼく勉』を読んだのは浪人中だった。あまり共感ができなかった覚えが。同時期にヘッセの『車輪の下』も読んだ記憶があるけれど、そっちはよかった。私は優等生とかではなかったけれど。(風景描写を読むのが面倒、と言っていた人がいたけれど、同感。)
58. 6、7年前、NHK教育テレビ『Jブンガク』の第1シーズン(2009年度)の最初の週で取り上げられた文学作品4つは、福沢諭吉『学問のすゝめ』、夏目漱石『三四郎』、久米正雄「受験生の手記」、山田詠美『ぼくは勉強ができない』。
57. 「~小説の系譜」というお題のエッセイで作者の生年が偏っている小説ばかりを取りあげるのっていいのかな?
中上健次 1946年生まれ
宮本輝 1947年早生まれ
・
清水義範 1947年生まれ
北重人 1948年早生まれ
橋本治 1948年早生まれ
・
村上春樹 1949年早生まれ
56. 村上春樹「イエスタデイ」(『女のいない男たち』所収。初出『文藝春秋』2014年1月号)。すでに内容をあまり覚えていない(^_^;)。お風呂で替え歌を歌っていたことは覚えている。ほのぼの小説?(たぶん違う)。海外で武者修行をして、最後は寿司職人になるんだっけ?(たぶん違う)。
55. 宮本輝「星々の悲しみ」(1980)は1965年で、主人公の名前は志水靖高。清水義範「続・イエスタデイ」(『イエスタデイ』所収、1989)は1966年で、主人公の名前は志水義夫。(なんか既視感というかbot的というか、同じことを繰り返し書いているようなループ感が(泣)。)
54. かんべむさしは1948年早生まれ。清水義範は1947年生まれで、同学年。『学問ノススメ』の作者(福沢諭吉ではない)が『学生時代』を読んでいてもおかしくはないと思う。1つ年下の弟。(村上春樹は1949年早生まれで、1学年下。)
53. 「競漕」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001151/files/43799_24697.html
52. (続き)久米正雄の『学生時代』的人物、こっちが恥かしくて見ちゃいられんのですがねえ。」(「記念祭の夜はふけて」)。学校対抗ではなくて学校内だけど、「競漕」のイメージが強いのかな? でも、確かに一高生またはその卒業生が団結(?)している話が多いかも。
51. かんべむさし『むさしキャンパス記』(1979)に次のような箇所がある。「友人知人に体育会出身だという人は何人かおり、そのそれぞれはおもしろくていい人物なのに、団体になるとなぜあれほど「肩に力を入れ」て「母校の名誉を一身に担う」というが如き言動をとるのだろう。(続く)
50. 3大予備校生作品は、TVドラマの『予備校ブギ』、漫画の原秀則『冬物語』、小説の清水義範『学問ノススメ』?(異論噴出?)。ときどき思うけど、浪人生をまともに描いている小説って、『学問ノススメ』(全3巻、1989-9)以外にないんじゃないかな。うーん、さすがにそれは言い過ぎか。。
50.1. このへん微妙などっちが先か問題が...。『学問ノススメ』の初出はカッパ・ノベルス(書き下ろし)で、Amazonによれば、1巻目(挫折編)の発売日は1989/4/1、2巻目(奮闘編)は1989/8/1、最後の巻(自立編)は1990/3/1。作者の清水義範は1947年生まれ。
50.2. 『予備校ブギ』(TBS系列)の放送は、Wikipediaによれば「1990年4月20日から7月6日まで」。脚本は遊川和彦。1955年生まれ。
50.3. Wikipediaによれば「冬物語 (漫画)」は「1987年から1990年まで『少年ビッグコミック』およびその後継誌『ヤングサンデー』にて連載」。最終回は何月何日? アマゾンを見ると単行本の第1巻の発売日は1987/10/5、最後の第7巻は1990/6/1。原秀則は1961年生。
49. もう高校生ではなく、まだ大学生でもない、という両側から否定される存在。小説では変装したりとかも多いかも。伊井直行『草のかんむり』(初出『群像』1983年6月号)は変身譚、蛙になる(作者は1953年生まれ、1浪して慶応。上京してYゼミ)。あ、もちろん(?)“19歳小説”も多い。
(※ちょっと間違えた。直すは大変なので、48は欠番にします。)
47. 「他人は、善意の施しを隙あらば与えてやろうと手ぐすねひいている大人は、君は予備校生ではないか、と言うだろう。そうだ、僕は予備校生でもある。隙あらば(略)なにものかになってやろうと思っている者だ。しかしぼくがなにになれると言うのか。」ー中上健次「十九歳の地図」(1973)
46. もう時系列を回復できない、無念です(泣)。あ、村上春樹の『1973年のピンボール』は1980年なのか(初出も単行本も)。三石(誰?)は1954年生まれ。7、8年くらいの時間差? あ、久間(誰?)は1953年生まれか。
45. 「十九歳の地図」をぱらぱらと再読していたら意外と泣けてきて。泣けるような小説?(^_^;)。あと、河出文庫、後ろの松本健一「同時代の爆弾」を読んでいて、1970年代といえば、久間十義『海で三番目につよいもの』(初出『新潮』1993年1月号)というのもあったっけ、と思い出した。
44. ウィキペディアの「三石由起子」のところに「「ダイアモンドは傷つかない」が三浦哲郎の推薦で1981年『早稲田文学』に掲載され、(略)」とある。なんとなく「三浦哲郎」の名前に納得してしまう。(三浦哲郎・三浦晶子『林檎とパイプ』という本が読みたいけど、地元の図書館になくて。)
43. 作者が1961年生まれなので、「雨季」は1980年の話かもしれない。以前にも書いたけれど、作者が1951年生まれなので、「冬への順応」の浪人生時代は1970年の話かもしれない。
42. 受賞は峰原が半年早い(文學界は年2回)。南木は「雨季」を読んでいると思う(勝手な推測(^_^;))。同誌翌年の1983年5月号に掲載された「冬への順応」。主人公はお茶の水の予備校に通っているのに小学校のときの同級生と再会する場面が代々木駅になっている。(続く)
41. 峰原緑子「雨季」(『文學界』1982年4月号)は代々木小説。Yゼミではないけど。以前、図書館でコピーをとってきて(雑誌は貸してくれないので)読んだのだけど、確か表紙か目次かに文學界新人賞受賞第一作として南木佳士「重い陽光」と並んでいたと思う。(続く)
40. (続き)同時受賞作である田久保英夫氏の『深い河』の方が好きだったが、彼らの同意は得られなかった。」と書いている。(柏原兵三「徳山~」(初出『新潮』1967年7月号)はたまたま読んだことがあるけど、面白かったです。孫の1人が浪人生ーどうでもいいか(汗)。)
39. 薫くんの1学年下の(だから学校群制度の)南木佳士は「徳山道助の帰郷」というエッセイ(『青春の一冊』、単著では『ふいに吹く風』所収)で、『赤頭巾ちゃん~』について、「(略)この作品は、級友たちに圧倒的に支持されていた。ただ、そのとき私は(続く)
38. 安岡は芥川賞の選評で中上「十九歳の地図」(初出『文藝』1973年6月号)をスルーしている(?)。
37. 安岡章太郎は久米「受験生の手記」を読んでいるのか? という疑問が。「試験地獄」(『とちりの虫』)というエッセイに「先日、「いとこ同志」というフランス映画を見たら、これはフランス版の“受験生の手記”であった。」という記述がある。読んではいるのかも。
36. 宮本輝「星々の悲しみ」(初出『別冊小説新潮』1980年秋号)と南木佳士「冬への順応」(初出『文學界』1983年5月号)は意外と似ているような。同学年で親しい人の死を経験する。前者の作中年は1965年、後者は作者が1951年生まれなので、主人公たちの浪人時代はおそらく1970年。
35. (続き)読んでいる。「...多少の不安はあったが、...。不安というのは、作品全体から感じられる新鮮な感覚の中に、時折、汚れというか分別臭いというか、そうしたものが顔を...」(選評)。確かに洪作は「分別」を向こう側へ押しやっている感じが。
34. 井上靖『北の海』は面白いと思う。かたくなでとぼけた(?)主人公。勉強はしてないけど、柔道はしている。大正15年(1926年)の話。初出は東京新聞ほか1968年12月9日~翌年11月17日。芥川賞選考委員として井上は『赤頭巾ちゃん~』(初出『中央公論』1969年5月号)を(続く)
33. そういえば、梶龍雄『ぼくの好色天使たち』(1979)。ずいぶん前に図書館で借りて読んだのだけれど、単行本も文庫本も、ブック×フその他でいまだに見かけないな(レアなのかな?)。ちょっと欲しいけれど。青春ミステリというか。戦後の1946年の話だったと思う。闇市とか。
32. (続き)正修~って午前部、午後部のほかに夜間部も生徒を募集していたようだけど、(同じ経営の)夜間中学と同じ校舎を使っていたっぽい。夜間はどうしてたんだろう? 教室は足りていたのかな? それとも同じ授業を受けていたとか?
31. 時系列がすでにぐだぐだ(^_^;)。1945, 6年、吉村昭。友人が通っていたから正修英語学校にした、と何かエッセイに書いていたと思うけど、卒業した東京開成中学校と正修~とは経営が同じところっぽい(予備校だから内部進学とは言わない?)。(続く)
30. 「だから何?」というつぶやきばかりで、ほんとすみませんm(__)m。そういえば(ネタバレになってしまうかな)「受験生の手記」よりも吉村昭「星への旅」(初出は『展望』1966年8月号)のほうがよほどバッドエンドだと思う。「浪人」はあまり関係ないかもしれないけれど。
29. 中上健次って新聞は配ってないよね? 中上と宮本輝は同学年(北重人は1つ下)。中上「隆男と美津子」(初出は「遠い夏」という題で『文藝首都』1966年12月号)は、宮本編『わかれの船』に収録されている。1966年、高校卒業が前年? あまり遠くない夏かも。
28. 最近亡くなった小鷹信光(2浪して早稲田)は1956年、2浪目は大塚の啓成予備校に通っていたらしい(p.118、『私のハードボイルド』)。10年後の1966年、北重人『鳥かごの詩』(2009)の主人公は、新聞配達をしながらその予備校に通っている(作中では「K予備校」)。
27. 筒井康隆「慶安大変記」。マンモス予備校。語り手は高3だけど。初出というかは「慶安の変始末記」という題で『高3コース』1966年12月号。作者は当時、Yゼミの近く(森ビル)に住んでいたらしい(徳間文庫『近所迷惑』巻末の作者へのインタビュー)。
26. そういえば、村上春樹『1Q84』(全3巻、2009-10)に出てくる代々木の予備校は、とても近代的な感じがする。うーん、なんでだろう? きれいそうで、効率的な(無駄がなさそうな)感じがするからかな。ちなみに(?)大江健三郎『個人的な体験』の単行本は1964年刊。
25. (続き)自分は確か10年くらい前に図書館で開高健の全集の1冊を借りて読んだけれど(記憶があまりない)、たぶん単行本『ずばり東京』(上下、1964)には収録されていると思う(文春文庫はわからないけれど、光文社文庫の選集には収録されていない)。「きわめて近代的」だったっけ。
24. 『小田実の受験教育』の文庫版(講談社文庫、1984)の解説=古藤晃「予備校講師としての小田実」に、「1963年であったと思うが、『週刊朝日』連載の開高健のルポタージュの中で、きわめて近代的な予備校として代々木ゼミナールが紹介された。」とある(pp.174-5)。(続く)
23. それでなぜ東大に入れなかったのだろう?(2浪して早稲田)。 ところで、渡辺淳一『白夜』第1巻で、東大への未練というか、前年(大学1年のとき)の話で、仲間が東京で東大を目指して勉強している、みたいな話があったと思う。渡辺・荒巻は同じ高校の同学年。
24. 「東大よりS台のほうが入りにくい」という神話(?)が神話でなかった時代? 大江が1953年にS台を受けて落ちていたらちょっと面白いかも(不謹慎か)。荒巻義雄は1952年にS台(『柔らかい時計』徳間文庫の年譜によると)。10倍までいかなくてもたぶん前年も高倍率。(続く)
23. 『学歴貴族~』に付いている年表の1953年のところに「ーー大学受験の予備校・講習会など急増。東京の予備校はこの年前後で十数校増加、駿台予備校の競争率約10倍」とある(p.366)。昭和30年(1955年)前後に浪人している有名な作家は多いと思う。(続く)
22. 安岡家は1952年10月に鵠沼を去る。大江健三郎は1953年東大受験に失敗、藤沢に下宿して正修予備校(御茶ノ水)に。小谷野敦『大江と江藤』を読むと、藤沢なのも正修~なのも理由が不明なようだ(pp.89-90)。結局、浪人中に『悪い仲間』(10月刊)は読んだのか読まなかったのか。
21. なんと順太郎その5(?)。遠藤周作『一・二・三!』(1963)に出てくる東大受験生の1人が「順太郎」。阿倍ではなくて丸山だけど。遠藤周作、個人的には『ただいま浪人』(1972)より『灯のうるむ頃』(『浮世風呂』改題、1964)がいいと思う。父子の話。
20. 大学(予科)生になってしまうけど、順太郎その3「相も変らず」の初出は『新潮』1959年6月号。進学断念系(?)の北杜夫「異形」の初出は『新潮』1959年7月号。この「異形」は面白いです。北村薫・宮部みゆき編のアンソロジーに収録されている。
19. 思えば、そもそも「くげぬま物語」が「鵠沼日記」であるなら『学歴貴族~』にそう書いてあるはず。竹内洋は「青葉~」の一節を引用したあとで、「かの女の小説に「向陵の月」「赤門出の秀才」など一高生を描いたものがいくつかある」と書いている(p.38、単行本)。
18. 読んでみた。やっぱり「鵠沼日記」(『ホネームーン』)には忘れられないような一高生は出てこない(泣)。(上)に中山さんという一高生が出てくるけれど、明らかに違う。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888231
17. https://ci.nii.ac.jp/naid/110009426400
註の(8)に「ここでいう「くげぬま物語」とは『ホネームーン』収録の「鵠沼日記」のことだと思われる。(略)」とある。えー! やっぱり「鵠沼日記」か。確かに一高生は出てくるっぽいけど。やっぱりちゃんと読んでみないとダメだな。
16. 年譜を見ると、作者が藤沢市鵠沼に住んでいたのは1945年10月から1952年。両親はその1952年に高知県に帰郷、母親が亡くなるのは1957年。お母さんの生年は? 川端より少し上かな。5歳は離れていないかも。一高に現役合格の川端、3浪して私大予科(といっても慶応)の安岡...。
15. いまだに紙の本しか読んでないのだけれど、以前、小谷野敦『川端康成伝』(2013)を読んで内藤千代子が近デシで読めることを知って。ちゃんと確認していないけど、題名が似ている「鵠沼日記」(『ホネームーン』)には魅力的な一高生は出てこないのでは? 別の作品か...。
14. 「おふくろは若いころ読んだ内藤千代とかいう人の「くげぬま物語」という小説に出てくる一高の生徒のことが忘れられず、(略)生まれた子供の順太郎を、(略)」ー「青葉しげれる」(1958)。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(1999)でも引かれている箇所。(続く)
13. そうえいば、以前『私説聊斎志異』(1975)を読んで知って、読んでみた太宰治「竹青ー新曲聊斎志異ー」(初出『文藝』1945年4月号)は面白かった。ちょっとお薦めです。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1047_20130.html
12. 「青葉~」の冒頭「ことし、また落第ときまった。」は、太宰治「盗賊」(「逆行」にあとから加えられた1編、初出は『帝国大学新聞』1935年10月7日)の冒頭「ことし落第ときまった」を踏まえている。たぶん。「落第」違いだけれど。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/260_34634.html
11. なんだろう、大岡玲「スピリチュアル」(『オール讀物』2007年6月号)という作品があるみたいで(ネット調べ)、ちょっと読みたいけれど、地元の図書館、雑誌のバックナンバーを出してもらうのが面倒なんだよね(泣)。たんなる趣味で小説を読んでいるので、あまり人の手を煩わせたくない。
10. そういえば、この前、初めて島田雅彦の年譜を見た。1979年にS台。ああそうなのか、と。ほかにS台に通っていた作家には南木佳士、田中康夫、奥泉光、小谷野敦、石黒達昌などがいる。たぶん藤野千夜も。「午後の時間割」(1995)にちらっと「ヤマモトヨシタカ」と出てくる。
9. 順太郎ものって4作しかないのかな?(4部作?)。ところで、福田章二の中央公論新人賞受賞作「喪失」の初出は『中央公論』1958年11月号。作者は、同誌同年10月号初出の「青葉~」を読んでいないわけがない? というか、そもそも『赤頭巾ちゃん~』の語り手は浪人生ではない!(汗)
8. 以前、夏目房之介が著書で否定的に触れていて、気になっていた漫画、青柳祐介「いきぬき」をこの前、やっと『COM傑作選上』 (ちくま文庫、2015.4)で読んだ。最後のへんで頭巾をかぶった女の子が出てくる。初出は1967年9月号で、『赤頭巾ちゃん気をつけて』よりも前。
8.1. 「原型」があるらしい。「...1966年に、この『60』という雑誌に十枚ほどの短い小説を発表したことがあった...。...『赤頭巾ちゃん気をつけて』の最後の章の原型ともいうべきもので、本屋の店先でちっちゃな女の子に...される話だった...。」(庄司薫『狼なんかこわくない』)。
8.2. どちらが早いか問題は、けっこうめんどくさいな(泣)。
8.3. あまり関係がないけど(?)、三木卓の年譜の1965年のところに、「12月、「ほろびた国の旅」起稿。」と書かれている。『ほろびた国の旅』は、1969年5月刊(盛光社)。三木卓は1935年生まれ。(ちなみに、庄司薫は1937年生まれ。宇能鴻一郎は1934年生まれ。)
7. 文学や作家、文壇の知識がぜんぜんなくてわからないけれど、松井が松岡、佐藤が里見...みたいな対応関係があるのかな? 久野は明らかに久米だもんね(?)。あと、これは誰か書いていた気がするけれど、筆といえば墨? 筆子→墨子→澄子?
6. 「受験生の手記」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001151/files/52934_45453.html
5. 安岡「逆立」(浪人はあまり関係ないかもしれないけれど)の初出は『三田文学』1954年10月号、川上宗薫「初心」(読み方はたぶん「うぶ」)の初出は、同誌1954年11月号。
4. (続き)『現代日本文学全集25 里見とん・久米正雄集』(1956)で解説を書いていたり、その前に「受験生~」の主人公の下の名前が「健吉」だったりして、記憶が薄れていなかっただけかもしれない。(久米は1952年に亡くなっている。)
3. 安岡章太郎「青葉しげれる」(初出『中央公論』1958年10月号)を山本健吉が文芸時評でとりあげていて、そのさい久米正雄「受験生の手記」(1918)を持ち出している。40年も前の作品。ただ、山本健吉は(続く)
2. 「君には浪人の経験が無いからわからないかも知れないが、あれは全くつらい地獄だ」 /「君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い」ー太宰治『パンドラの匣』(1946)
1. twitter、再挑戦です。よろしくお願い致します。「青春小説の系譜」と嘘をついておけば(いや嘘にはならないだろうけど)何を書いているかバレないかも。おお、これが例の噂の(?)異常な執着心?(違)。
※「浪人生小説の系譜」について書こうとしている。
※以前ツイッターで書いたものです。少し加筆訂正ありです。
*
51. センター試験の話題をいまだに引きずってしまう(泣)。進適といえば、三好京三(1931年早生まれ)の『なにがなんでも作家になりたい!』(2003)には「進学適性検査だけは受けた、その時の写真」が載っている(p.111)。受験票の左のほう。学生服を着た若い頃の著者の写真。
51.1. 野坂昭如との対談で阿部牧郎(1933年生まれ)が「その知能テストで思い出すのですが、ぼくらのときは同じような進適(=進学適性検査)があったけど、たとえば作家の五木寛之さんや筒井康隆は、どちらも九十八、九点で全国一だったそうですよ。でもあれは知能というよりも、(続く)
51.2. (続き)要領の競争という気がしますね。」と口にしている(「ぼくたちの受験生時代ー若いときこそチャレンジできるー」『螢雪時代』1978年4月号。『教育読本 入学試験』河出書房新社、1981に収録)。阿部は1浪して京大だけど、五木・筒井はそんなに勉強ができたのになぜ私大に?
51.3. ウィキペディアに「知能検査」という項目があって「・1946年に(略)アメリカ教育使節団が(略)日本の教育を指導した。/(略)/・1947年に(略)高等教育の学校の入学試験で知能検査が開始された」とある。野坂昭如(1930年生まれ)が受けたという「知能テスト」はこれ? 進適の前身。
50. 谷沢永一は受験学参を蔑視しない人?(学参にもよるか)。確か「早稲田中学講義録」についても書いていたと思う(『紙つぶて』?)。中学校に行きたくても行けなかった人向けの通信講座というか。/そういえば、開高健は小野圭(小野圭次郎)の参考書を使っていたようだ(『青い月曜日』)。
49. RT>蓑田胸喜という人。ウィキペディアによれば、「熊本県(略)に生まれる。八代中学校を経て、第五高等学校(略)に学ぶ。(略)/1917年(略)、東京帝国大学に入学する。」。たしかに高校受験が何年かあとなら『受験と学生』とか『考へ方』などが。(『白鷺』というのは1926年?)
48. 『青春の一冊』(文春文庫)に収録されているエッセイ、谷沢永一「佐藤正彰訳『覚書と雑考』鼇頭」の最後の段落は次のとおり。「そのうち佐藤正彰の文体感覚の一端が、或いは厳父の学識に発するかと推察し、佐藤正範の『受験漢文研究』『最新研究 漢文解釈法』(続く)
48.1. (続き)『受験と学生 漢文解釈要法』『増訂 漢文解釈研究法』を入手し得た。しかしセイバン先生の説くところ「漢文を解釈するには、生硬な直訳語を避けて、円熟な意訳語を用ひて解くことが肝要である」と。もちろん適切至極な訓戒であるのだが、些か釈然とせぬ次第、(続く)
48.2. (続き)そこで『最新研究 国文の解釈』(大正13年訂正22版)も開いてみた。先生ここでは身を乗り出し、「我が国小説家の泰斗として、学問博学、思想雲湧、才藻富贍の曲亭馬琴が、終生の心血を濺いだ八犬伝六巻の大文章は」と、勇躍して漢文調に遊んでおられるのであった。(続く)
48.3. (続き)なお『受験適用 現代文要解』『最新研究 国文法の要領』は残念ながら未だ手に入らない。」。お父さんより、ヴァレリーを訳している仏文学者の息子のほうが有名? 谷沢永一が手に入っていないと言う『現代文要解』が、『「国語」入試の近現代史』では取りあげられていたと思う(たぶん)。
47. 『「国語」入試の近現代史』(講談社選書メチエ、2008)は持っているというか、読んだことがあって。『駿台式!本当の勉強力』(2001)とは異種同根の本というか。本当に「異種」かもしれないけど。(入不二基義『時間は実在するか』(2002)ほど「異種」ではないだろうけど。)
46. そういえば、石川巧『「いい文章」ってなんだ? 入試作文・小論文の思想』(ちくま新書、2010)という本。欲しかったんだけど、買いそびれたままになっちゃったなぁ。まぁいいか。(副題、アマゾンの表紙画像を見ると「思想」ではなくて「歴史」と書かれている。どっちが正しいんだろう?)
45. そういえば、関係ないと思うけど、山田詠美『無銭優雅』(幻冬舎、2007のち文庫)に出てくる予備校講師の名前が北村栄。(文庫版、豊島ミホが解説を書いていたので、買ってしまったんだけど、未読です。積ん読本多し(泣)。)
44. 「講義2 ブラームスはお好き?ーー国語」(『駿台式!本当の勉強力』講談社現代新書、2001)に出てくる小説は、フランソワーズ・サガン『ブラームスはお好き』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』、山田詠美「眠れる分度器」(『ぼくは勉強ができない』)、川端康成「夏の靴」(『掌の小説』)。
43. 野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』は1964年刊(白水社)。あー、東京オリンピックの年だね。白水Uブックス版(新書版)は1984年? そんなにあとになってからだったのかな? ちなみに、野崎訳の前には、1952年に橋本福夫訳『危険な年齢』が出ている。←ほとんどウィキペディア情報。
42. タイトルがなんかなんか的な(?)沢部ひとみ『評論なんかこわくない』(飛鳥新社、1992)のほうが『~開発講座』(1993)よりも早いみたい。そういえば、確か岡田寿彦『論文って,どんなもんだい』(駿台文庫、1991)にも『ライ麦~』が。
41. ニュースを見ていて、本からそんなに引用していいのか、と思ったけれど、ぜんぜん人のことが言えない(泣)。「もしも君が、ほんとうに現代文の実力をつけたいなら、まず、キーワードはどこにあるとか、チャチな選択肢の見分け方とか、今までの読書体験はどんなだったかとか、(続く)
41.1. (続き)そういった《国語入試問題必勝法》式のくだらないことから聞きたがるかもしれないけど、実をいうと僕は、(略)」ー「“イイタイコト”をつかまえて」『現代文読解力の開発講座』(1993)。デビッド・~式ではなくてーというか、パロディの中にパロディが得意な某作家の「国語~」が。
40. 「そのうえ、学力共通一次は、遠からず廃止の運命にあることは歴史が証明している。昭和23年に“大学進学に対する素質・能力を科学的に検出する”と称して始めた進学適性検査は29年に廃止された。そして10年後の38年には似たような共通能研が始まって、43年にポシャってしまった。(続く)
40.1. (続き)そして性こりもなく、またも10年めの54年に共通一次の発足だ。二度あることは三度ある。数年でチョンだ。大人たちは10年サイクルで入試改革ゴッコを楽しんでるんじゃないの。/が、恋愛共通一次は違う。」ーー小峰元『パンドラの恋愛能力共通一次テスト』(1979)。(続く)
40.2. (続き)「おれ」が予言した通り、共通一次は10年続いて1990年からセンター試験に。違いは私大が参加できるという点くらいだけど。で、今やセンター試験も終了が決まっているわけだけど、歴史を振り返れば(たぶん戦前も含めて)例外的にずいぶん長く続いた制度だと言える。今年は2016年。
39. ここ!という線引きはしづらいけど(異論はたくさんあると思うけど)、受験生時代がだいたい1976, 7年より前なら「『豆単』世代」、それ以降なら「『でる単』世代」と言ってもいいかも。『でる単』(または『シケ単』)だけでなく、ラジオの深夜放送とかいろいろあるだろうけど。
38. 小説と関係ないツイートばっかりに(泣)。小説に限定しないほうがいいかも。1965年~1976, 7年。「過渡期」という言葉はよくないな。「移行期」とかのほうがいいかも。 『69』には『豆単』が、『さよなら快傑黒頭巾』や「黄金比の朝」(作中年は?)にはabandonが出てくる。
37. エッセイストの玉村豊男さんは1945年、東京生まれ。高校は都立で、1浪(S台)して東大。『人生おこがま指南』(中公文庫)に載っている年譜の、1964年のところには「(略)予備校の屋上でよく相撲をとった。東京オリンピックはテレビで見る」とある。屋上で相撲ーー牧歌的な?
36. 薫くんより1学年下の(『69 sixty nine』という作品もある)村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は1976年刊(講談社)。初出は『群像』1976年6月号らしい。(村上龍の本名は龍之介。1952年早生まれ。1952年は辰年。1892年生まれの芥川龍之介とは60歳違い。)
35. 中上健次「黄金比の朝」の初出は『文學界』1974年8月号? あと、ウィキペディアの「庄司薫」の項に「1975年、『中央公論』新年号から24回にわたり『ぼくの大好きな青髭』を連載。1977年7月、『ぼくの大好きな青髭』を中央公論社から刊行」とある。薫くんシリーズ(四部作)の最後。
34. 誰かが書いていたと思うけど、「青春小説」の流れって、昭和40年代(1965~1974年)、あるいは1970年代(1970~1979年)を過渡期とすると、うまく説明できるらしくて。昭和40年代のほうがいいような気がするけど、後ろのほうは中間をとって1976, 7年でもいいと思う。
33. なんとなく言い出しにくかったんだけど、TVのニュースにもなっていた某問題集をこの前、買ってしまって(^_^;)。13日のお昼前くらいだったかな、本屋に寄ったときに。自主回収の報道が出るよりも前。もともとこの著者の参考書をわりと買っていて、『生きる』のあとの2冊も持っていたので。
33.1. 漢字というと川上弘美『いとしい』を思い出す。大塚英志もどこかで引用してい
たけど。
・
「せんせい、こないだ机の整理してたら、小学校のときの漢字のテストが出てきた」 考えあぐねていると、ミドリ子は唐突にそんなことを言う。 「おもしろかったです」 「なにが」聞くと、
(続く)
33.2. (続き)
「あのね」と始める。
「暗い夜
銀色の世界
美しい声
短所を直す
ごま油を買う
歌って歩く
小屋を作る
幸せになる」
ミドリ子はとなえた。
「え」
(続く)
33.3. (続き)
「そういう書き取りでした」
ごまあぶらをかう、うたってあるく、こやをつくる、しあわせになる、ミドリ子はささやくように繰りかえした。ささやきながら、
「せんせいまたね」と言って、スカートをひらめかせて去っていってしまう。
・
性的な表現は含まれていないけど(^_^;)。
32. 「デューク」ってTVドラマ版なら見たことがある(国語1っていつからいつまであったのかな? 「冬への順応」も国語1だっけ?)。オムニバスというかで、光原百合「十八の夏」(初出は『小説推理』2001年12月号らしい)のドラマが見たくて。
http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d2277/
31. 喫茶店、小池真理子(1952年生まれ)の『無伴奏』(1990)はクラシック(バロック音楽)、熊谷達也(1958年生まれ)の『モラトリアムな季節』(2010)はロック。同じ仙台市で、7年くらい違い。(あ、村上龍は1952年早生まれだから、学年は小池真理子より1つ上なのか。)
30. 以前、井上靖『北の海』を読んでいて、当時の旧制高校受験生は具体的にどんな「参考書」を使っていたのかな? と書名が気になったことがあって。中学校の学年でいえば2学年上、高見順『わが胸の底のここには』に参考書の名前が列挙されている箇所がある。引用してみる。
30.1. 「然し、――その頃、そうした耽読と同時に、受験参考書もとにかく耽読していたのだが、その参考書のひとつの、当時藤森の「考へ方」などとともに有名な南日の「英文和訳法」に、こんな英文があった(引用者註:「藤森」「南日」に傍点)。同書の三六八頁に、(続く
30.2. 続き)/The very facility of obtaining books is causing them to be less valued than once they were./巻尾の訳文を見ると「書籍が容易に得らるてふ事実こそまさしく其価値を往時よりも(続く
30.3. 続き)減じつゝあるなれ」とある。私と同年輩の当時の受験生諸君は、この訳文を見て、うたた懐旧の情に襲われるのではなかろうか。塚本の「国文解釈法」「漢文解釈法」というのもあったじゃないか(引用者註:「塚本」に傍点)。そういう諸君の声が耳に聞こえてくるようだ。(続く
30.4. 続き)では、塚本哲三先生編「諸官立学校入学試験国語問題釈義」全一冊、正価金八拾銭というのを諸君は覚えておられるか。漢文にも同じ題のものがあった。学習院教授南日恒太郎先生の受験参考書には「和文英訳法」正価金三十銭というのもあった。(続く
30.5. 続き)神田乃武先生校閲、南日恒太郎先生著「難問分類、英文詳解」正価金三十銭というのもあった。妻木忠太先生編「最新日本歴史解釈」はどうだ。故博言博士イーストレーキ先生、早稲田大学教授増田藤之助先生共編「英和比較、英文法十講」はどうだ。(続く
30.6. 続き)苦しかったが懐しい受験生生活よ。/こうした受験参考書を買うだけで手いっぱいの、否、それすら思うように買えなかった私は「書籍が容易に得らるてふ事実」からよほど遠かった。従って私が図書館から借りたり同級生から借りたりして読んだ本は、数は少くても、(続く
30.7. 続き)私にとって価値は多い読書と成った。」科目が文系に偏っているかな。理系なのは数学の藤森(良蔵)だけ。久米正雄「受験生の手記」(1918)や菊池寛『半自叙伝』に出てくる南日の『英文解釈法』は『難問分類英文詳解』が改訂されたもので、(続く
30.8. 続き)それがさらに改訂されたものが『英文和訳法』らしい。でも、『英文解釈法』も並行して売れたらしい(pp.88-9、江利川春雄『受験英語と日本人』)。
『難問分類英文詳解』1903年
『英文解釈法』1905年
『英文和訳法』1914年
29. Wikipediaにある「山川京子」のところ。なんで旧姓が田中ではなくて松本なんだろう? ↓これは田中と書かれている。
https://mainichi.jp/articles/20150830/ddl/k21/040/049000c
28. (続き)「田中嘉三郎」でネット検索してみると(著書もあるみたいだけど)、『山川弘至書簡集』 というのが出てくる(義理の息子さん?)。「西田」は住んでいた場所から?
https://shiki-cogito.net/library/ya/yamakawahiroshi-shokanshu.html
27. (続き)その家族が住んでいた)に寄宿した。/翌年1954年の7月に一家が上京、当初は練馬区関町の借家に住んでいたが、(略)」と書かれている。この叔父さん、小説「父系の指」(初出『新潮』1955年9月号)では「西田民治」という名前で出てくる。(続く)
26. Wikipediaで「松本清張」を見てみると、「1953年12月1日付で朝日新聞東京本社に転勤となり[44]、上京する。当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家(田中嘉三郎は清張の父である峯三郎の弟。嘉三郎はすでに死去していたが、(続く)
26.1. お父さん、峯三郎でなくて峯太郎だな。誰か直してあげて。
25. (続き)中野静という人、近デジで参考書が1冊読める(大正9年のもの、なぜか上巻のみ)。Googleブックスで検索してみると(著作権的な問題があるかな...、Googleブックス情報)お父さんは中野保という人で、長野で数学を教えていたらしい。親子2代で数学の先生だったようだ。
25.1. 「中野塾のあった場所と開校年が知りたい。 | レファレンス協同データベース」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000080856
Googleブックス、よく見えないから勘違いをしてしまった(言い訳)。お父さんは数学を教えていたわけではない? 何を教えていたんだろう?
24. 某掲示板に「昭和11年の日記出て來たから一日づつ載っける」というのがあげられている。読むとこの日記の人、中野静の中野塾に通っている(ほんとは話が逆で「中野塾」などを検索したら出てきた)。その11年前かな、大正14年(1925年)に藤枝静男が通っていた名古屋の予備校。(続く)
23. 手もとにある新潮文庫『学生時代』(たぶんブックオフで購入)の奥付を見てみたら、昭和51年(1976年)の59刷だった。けっこう古いなー。「新潮文庫の(限定)復刊」全百冊のものって、古本屋で意外と(?)見かける気がする。棚に入っているとあずき色でかなり地味だけど。
22. あと『久米正雄伝』に「新潮文庫の『学生時代』は、94年に69刷が出ているが、その後、品切れとなった。」とある(p.541)。この1994年のって「新潮文庫の復刊」全百冊のうちの1冊かも。1つ前の68刷のほうが気になる。『学問ノススメ』(89-90)が出た頃には手に入ったのかな?
21. (続き)東中野に愛人でも住んでいたのだろうか。」(pp.371-2)。いたら鎌倉から通っていたのかな? 知らないけど、下落合=目白文化村、上落合=落合文士村? 尾崎は1919年に日本女子大に入学、寮が目白。昭和2年(1927年)から7年まで上落合。そこで『第七~』(昭和6)も。
20. 健吉と三五郎の比較に意味はあるかな? とりあえず共通点は上京者で予備校生、あと失恋者。小谷野敦『久米正雄伝』(2011)という厚い本に尾崎翠の名前は出てこない。でも(?)こんな箇所が。「しかし久米はこの[=昭和2年連載『青眉』の]後も、東中野に住むヒロインを使うのだが、(続く)
19. 「五月二十五日 晴/今村隆氏菊池の本の装幀の見本を持ってくる。出来思わしからず。装幀なぞ引き受けなければよかったと思う。午後塚本八洲来たる。一高の入学試験を受ける由。」ー芥川龍之介「我鬼窟日録」(1919)。義弟の家は鵠沼? 「受験生の~」(1918)は読んでいるかな?
18. 1917年、尾崎は小学校の代用教員を辞めて最初の上京。渋谷道玄坂の三兄(帝大農科在学中)のところに。そこには東京音楽学校志望の従弟もいたらしい(p.86、川崎賢子『尾崎翠 砂丘の彼方へ』)。(あ、農科は本郷じゃなくて駒場なんだよね。)
17. いま受験シーズン。受験生に「落ちる」とか「すべる」とかは禁句ーというのは、明治時代からあるのかな? それなら三五郎に気安く「丸善で『ドッペル何とか』買ってきて」とか言ってはいけない? というか、『ドッペル何とか』と勝手に略したのは本人のほうだったかも。
16. 尾崎翠『第七官界彷徨』(1931)。語り手は小野町子。2人の兄は小野一助、二助。いとこは佐田三五郎。名前だけは夏目漱石みたいだよね。小川三四郎(『三四郎』)、長井代助(『それから』)、野中宗助(『門』)。あと、長野一郎、二郎(『行人』)とか。
15. 「『坊ちゃん』と『田舎教師』は先生と生徒の関係だった!?」
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/note/n250125 #知恵袋
15.1. 消えている(泣)
14. 『田舎教師』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1668.html
13. おととし(2014年)何かテレビで林先生(林修氏)が『田舎教師』を取りあげたらしいけれど(知らなくて見逃してしまった)、林清三(こちらも林先生)は小学校のオルガンで練習、一方(?)佐田三五郎は以前の住人が置いていった、音が狂っているピアノで練習。
12. ああもうやめたいこんなつぶやき(泣)。でもとりあえず100ツイートまではがんばろう。
11. 小説に出てくる浪人生といえば? やっぱり「ぴいくん」?(人によって違うに決まっている(^_^;))。高田崇史『試験に出るパズル』(講談社ノベルス、2004のち文庫)からの「千葉千波の事件日記」。作者は1958年生まれらしい。『ぼく勉』山田詠美(1959年早生まれ)と同学年だよね。
10. 忘れていたけど、高橋源一郎が1951年早生まれで、薫くんと同学年なんだよね。浪人はしていないけど。もちろん(?)東大は受験できず、京大に落ちて横国。高橋氏は、山田詠美が特集された『文藝』2005年秋号で、「ぼくも勉強ができない」というエッセイを書いている(pp.100-3)。
9. 「ティーンズハートの花井文体は、官能小説にもヒントを得ていた!! なーんてね。」(p.81、同書)。花井愛子は1956年生まれ。関係ないけど、川上弘美は1958年早生まれーー1学年下か。(川上「一実ちゃんのこと」はやっぱり「ローニン」と「クローニング」がかかっている?)
8. (続き)間違いなく40代以上であろう。」(p.80)。なんか引用していて苛々してくる(泣)。単純計算で2005年に40歳の人は1965年生まれ? 『天使の卵』(1994)の主人公が宇能鴻一郎の名前を知っているというのは、どうなんだろう? ちなみに、村山由佳は1964年生まれ。
7. 花井愛子『ときめきイチゴ時代』(2005)に次のような箇所が。「主語と述語のみの短文。会話多用。改行バリバリ。擬音擬態語たっぷり。体言止め。/ーーこれって......。/宇能鴻一郎センセイの、官能小説じゃんっ!!/と、ね。/いまウケてくださったかたは、(続く)
6. 庄野潤三『明夫と良二』(1972)。以前、図書館で借りて読んで、ちょっと欲しいけれど、岩波現代文庫にも講談社文芸文庫にも収録されていない(児童向けだから?)。お父さん視点の小説。確かお兄ちゃんの明夫くんが村上龍と同学年だったと思う(わからない、1年ずれているかも)。
6.1. 講談社文芸文庫から出たみたいだね。2019年2月。
5. そういえば、山田詠美編のアンソロジー『せつない話』(光文社、1989のち文庫)には、田辺聖子「恋の棺」(『ジョゼと虎と魚たち』所収、角川書店、1985のち文庫)が採録されている。年上の女性目線。
4. 『天使の卵』の文庫版(集英社文庫、1996.6)で解説を書いているのは、村上龍。確認してないけど、たいしたことは書かれていなかった覚えが。村上は2浪(一応)してムサ美。ベストセラー『限りなく透明に近いブルー』(1976)は、浪人中の(?)体験がもとになっている(要出典?)。
3. 平均するよりも、9人中5人が浪人している、とか言ったほうがよかったかも。
2. 芥川賞の現在の選考委員はみんな大学に入学している。小川・川上・堀江が0浪、島田・高樹・宮本・山田が1浪、奥泉・村上が2浪。(村上を2浪とするのはちょっとまずいかも。)平均すると、8割る9で、0.888...浪。1浪を下回っちゃうな。
1. そういえば(今ごろ思い出した)『学問ノススメ』には確か『父帰る』が出てくる。大道寺くんが口にする。(ぜんぜん関係ないけど、村山由佳『天使の卵』(1994)にはちらっと宇能鴻一郎の名前が出てくる。)
*
51. センター試験の話題をいまだに引きずってしまう(泣)。進適といえば、三好京三(1931年早生まれ)の『なにがなんでも作家になりたい!』(2003)には「進学適性検査だけは受けた、その時の写真」が載っている(p.111)。受験票の左のほう。学生服を着た若い頃の著者の写真。
51.1. 野坂昭如との対談で阿部牧郎(1933年生まれ)が「その知能テストで思い出すのですが、ぼくらのときは同じような進適(=進学適性検査)があったけど、たとえば作家の五木寛之さんや筒井康隆は、どちらも九十八、九点で全国一だったそうですよ。でもあれは知能というよりも、(続く)
51.2. (続き)要領の競争という気がしますね。」と口にしている(「ぼくたちの受験生時代ー若いときこそチャレンジできるー」『螢雪時代』1978年4月号。『教育読本 入学試験』河出書房新社、1981に収録)。阿部は1浪して京大だけど、五木・筒井はそんなに勉強ができたのになぜ私大に?
51.3. ウィキペディアに「知能検査」という項目があって「・1946年に(略)アメリカ教育使節団が(略)日本の教育を指導した。/(略)/・1947年に(略)高等教育の学校の入学試験で知能検査が開始された」とある。野坂昭如(1930年生まれ)が受けたという「知能テスト」はこれ? 進適の前身。
50. 谷沢永一は受験学参を蔑視しない人?(学参にもよるか)。確か「早稲田中学講義録」についても書いていたと思う(『紙つぶて』?)。中学校に行きたくても行けなかった人向けの通信講座というか。/そういえば、開高健は小野圭(小野圭次郎)の参考書を使っていたようだ(『青い月曜日』)。
49. RT>蓑田胸喜という人。ウィキペディアによれば、「熊本県(略)に生まれる。八代中学校を経て、第五高等学校(略)に学ぶ。(略)/1917年(略)、東京帝国大学に入学する。」。たしかに高校受験が何年かあとなら『受験と学生』とか『考へ方』などが。(『白鷺』というのは1926年?)
48. 『青春の一冊』(文春文庫)に収録されているエッセイ、谷沢永一「佐藤正彰訳『覚書と雑考』鼇頭」の最後の段落は次のとおり。「そのうち佐藤正彰の文体感覚の一端が、或いは厳父の学識に発するかと推察し、佐藤正範の『受験漢文研究』『最新研究 漢文解釈法』(続く)
48.1. (続き)『受験と学生 漢文解釈要法』『増訂 漢文解釈研究法』を入手し得た。しかしセイバン先生の説くところ「漢文を解釈するには、生硬な直訳語を避けて、円熟な意訳語を用ひて解くことが肝要である」と。もちろん適切至極な訓戒であるのだが、些か釈然とせぬ次第、(続く)
48.2. (続き)そこで『最新研究 国文の解釈』(大正13年訂正22版)も開いてみた。先生ここでは身を乗り出し、「我が国小説家の泰斗として、学問博学、思想雲湧、才藻富贍の曲亭馬琴が、終生の心血を濺いだ八犬伝六巻の大文章は」と、勇躍して漢文調に遊んでおられるのであった。(続く)
48.3. (続き)なお『受験適用 現代文要解』『最新研究 国文法の要領』は残念ながら未だ手に入らない。」。お父さんより、ヴァレリーを訳している仏文学者の息子のほうが有名? 谷沢永一が手に入っていないと言う『現代文要解』が、『「国語」入試の近現代史』では取りあげられていたと思う(たぶん)。
47. 『「国語」入試の近現代史』(講談社選書メチエ、2008)は持っているというか、読んだことがあって。『駿台式!本当の勉強力』(2001)とは異種同根の本というか。本当に「異種」かもしれないけど。(入不二基義『時間は実在するか』(2002)ほど「異種」ではないだろうけど。)
46. そういえば、石川巧『「いい文章」ってなんだ? 入試作文・小論文の思想』(ちくま新書、2010)という本。欲しかったんだけど、買いそびれたままになっちゃったなぁ。まぁいいか。(副題、アマゾンの表紙画像を見ると「思想」ではなくて「歴史」と書かれている。どっちが正しいんだろう?)
45. そういえば、関係ないと思うけど、山田詠美『無銭優雅』(幻冬舎、2007のち文庫)に出てくる予備校講師の名前が北村栄。(文庫版、豊島ミホが解説を書いていたので、買ってしまったんだけど、未読です。積ん読本多し(泣)。)
44. 「講義2 ブラームスはお好き?ーー国語」(『駿台式!本当の勉強力』講談社現代新書、2001)に出てくる小説は、フランソワーズ・サガン『ブラームスはお好き』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』、山田詠美「眠れる分度器」(『ぼくは勉強ができない』)、川端康成「夏の靴」(『掌の小説』)。
43. 野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』は1964年刊(白水社)。あー、東京オリンピックの年だね。白水Uブックス版(新書版)は1984年? そんなにあとになってからだったのかな? ちなみに、野崎訳の前には、1952年に橋本福夫訳『危険な年齢』が出ている。←ほとんどウィキペディア情報。
42. タイトルがなんかなんか的な(?)沢部ひとみ『評論なんかこわくない』(飛鳥新社、1992)のほうが『~開発講座』(1993)よりも早いみたい。そういえば、確か岡田寿彦『論文って,どんなもんだい』(駿台文庫、1991)にも『ライ麦~』が。
41. ニュースを見ていて、本からそんなに引用していいのか、と思ったけれど、ぜんぜん人のことが言えない(泣)。「もしも君が、ほんとうに現代文の実力をつけたいなら、まず、キーワードはどこにあるとか、チャチな選択肢の見分け方とか、今までの読書体験はどんなだったかとか、(続く)
41.1. (続き)そういった《国語入試問題必勝法》式のくだらないことから聞きたがるかもしれないけど、実をいうと僕は、(略)」ー「“イイタイコト”をつかまえて」『現代文読解力の開発講座』(1993)。デビッド・~式ではなくてーというか、パロディの中にパロディが得意な某作家の「国語~」が。
40. 「そのうえ、学力共通一次は、遠からず廃止の運命にあることは歴史が証明している。昭和23年に“大学進学に対する素質・能力を科学的に検出する”と称して始めた進学適性検査は29年に廃止された。そして10年後の38年には似たような共通能研が始まって、43年にポシャってしまった。(続く)
40.1. (続き)そして性こりもなく、またも10年めの54年に共通一次の発足だ。二度あることは三度ある。数年でチョンだ。大人たちは10年サイクルで入試改革ゴッコを楽しんでるんじゃないの。/が、恋愛共通一次は違う。」ーー小峰元『パンドラの恋愛能力共通一次テスト』(1979)。(続く)
40.2. (続き)「おれ」が予言した通り、共通一次は10年続いて1990年からセンター試験に。違いは私大が参加できるという点くらいだけど。で、今やセンター試験も終了が決まっているわけだけど、歴史を振り返れば(たぶん戦前も含めて)例外的にずいぶん長く続いた制度だと言える。今年は2016年。
39. ここ!という線引きはしづらいけど(異論はたくさんあると思うけど)、受験生時代がだいたい1976, 7年より前なら「『豆単』世代」、それ以降なら「『でる単』世代」と言ってもいいかも。『でる単』(または『シケ単』)だけでなく、ラジオの深夜放送とかいろいろあるだろうけど。
38. 小説と関係ないツイートばっかりに(泣)。小説に限定しないほうがいいかも。1965年~1976, 7年。「過渡期」という言葉はよくないな。「移行期」とかのほうがいいかも。 『69』には『豆単』が、『さよなら快傑黒頭巾』や「黄金比の朝」(作中年は?)にはabandonが出てくる。
37. エッセイストの玉村豊男さんは1945年、東京生まれ。高校は都立で、1浪(S台)して東大。『人生おこがま指南』(中公文庫)に載っている年譜の、1964年のところには「(略)予備校の屋上でよく相撲をとった。東京オリンピックはテレビで見る」とある。屋上で相撲ーー牧歌的な?
36. 薫くんより1学年下の(『69 sixty nine』という作品もある)村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は1976年刊(講談社)。初出は『群像』1976年6月号らしい。(村上龍の本名は龍之介。1952年早生まれ。1952年は辰年。1892年生まれの芥川龍之介とは60歳違い。)
35. 中上健次「黄金比の朝」の初出は『文學界』1974年8月号? あと、ウィキペディアの「庄司薫」の項に「1975年、『中央公論』新年号から24回にわたり『ぼくの大好きな青髭』を連載。1977年7月、『ぼくの大好きな青髭』を中央公論社から刊行」とある。薫くんシリーズ(四部作)の最後。
34. 誰かが書いていたと思うけど、「青春小説」の流れって、昭和40年代(1965~1974年)、あるいは1970年代(1970~1979年)を過渡期とすると、うまく説明できるらしくて。昭和40年代のほうがいいような気がするけど、後ろのほうは中間をとって1976, 7年でもいいと思う。
33. なんとなく言い出しにくかったんだけど、TVのニュースにもなっていた某問題集をこの前、買ってしまって(^_^;)。13日のお昼前くらいだったかな、本屋に寄ったときに。自主回収の報道が出るよりも前。もともとこの著者の参考書をわりと買っていて、『生きる』のあとの2冊も持っていたので。
33.1. 漢字というと川上弘美『いとしい』を思い出す。大塚英志もどこかで引用してい
たけど。
・
「せんせい、こないだ机の整理してたら、小学校のときの漢字のテストが出てきた」 考えあぐねていると、ミドリ子は唐突にそんなことを言う。 「おもしろかったです」 「なにが」聞くと、
(続く)
33.2. (続き)
「あのね」と始める。
「暗い夜
銀色の世界
美しい声
短所を直す
ごま油を買う
歌って歩く
小屋を作る
幸せになる」
ミドリ子はとなえた。
「え」
(続く)
33.3. (続き)
「そういう書き取りでした」
ごまあぶらをかう、うたってあるく、こやをつくる、しあわせになる、ミドリ子はささやくように繰りかえした。ささやきながら、
「せんせいまたね」と言って、スカートをひらめかせて去っていってしまう。
・
性的な表現は含まれていないけど(^_^;)。
32. 「デューク」ってTVドラマ版なら見たことがある(国語1っていつからいつまであったのかな? 「冬への順応」も国語1だっけ?)。オムニバスというかで、光原百合「十八の夏」(初出は『小説推理』2001年12月号らしい)のドラマが見たくて。
http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d2277/
31. 喫茶店、小池真理子(1952年生まれ)の『無伴奏』(1990)はクラシック(バロック音楽)、熊谷達也(1958年生まれ)の『モラトリアムな季節』(2010)はロック。同じ仙台市で、7年くらい違い。(あ、村上龍は1952年早生まれだから、学年は小池真理子より1つ上なのか。)
30. 以前、井上靖『北の海』を読んでいて、当時の旧制高校受験生は具体的にどんな「参考書」を使っていたのかな? と書名が気になったことがあって。中学校の学年でいえば2学年上、高見順『わが胸の底のここには』に参考書の名前が列挙されている箇所がある。引用してみる。
30.1. 「然し、――その頃、そうした耽読と同時に、受験参考書もとにかく耽読していたのだが、その参考書のひとつの、当時藤森の「考へ方」などとともに有名な南日の「英文和訳法」に、こんな英文があった(引用者註:「藤森」「南日」に傍点)。同書の三六八頁に、(続く
30.2. 続き)/The very facility of obtaining books is causing them to be less valued than once they were./巻尾の訳文を見ると「書籍が容易に得らるてふ事実こそまさしく其価値を往時よりも(続く
30.3. 続き)減じつゝあるなれ」とある。私と同年輩の当時の受験生諸君は、この訳文を見て、うたた懐旧の情に襲われるのではなかろうか。塚本の「国文解釈法」「漢文解釈法」というのもあったじゃないか(引用者註:「塚本」に傍点)。そういう諸君の声が耳に聞こえてくるようだ。(続く
30.4. 続き)では、塚本哲三先生編「諸官立学校入学試験国語問題釈義」全一冊、正価金八拾銭というのを諸君は覚えておられるか。漢文にも同じ題のものがあった。学習院教授南日恒太郎先生の受験参考書には「和文英訳法」正価金三十銭というのもあった。(続く
30.5. 続き)神田乃武先生校閲、南日恒太郎先生著「難問分類、英文詳解」正価金三十銭というのもあった。妻木忠太先生編「最新日本歴史解釈」はどうだ。故博言博士イーストレーキ先生、早稲田大学教授増田藤之助先生共編「英和比較、英文法十講」はどうだ。(続く
30.6. 続き)苦しかったが懐しい受験生生活よ。/こうした受験参考書を買うだけで手いっぱいの、否、それすら思うように買えなかった私は「書籍が容易に得らるてふ事実」からよほど遠かった。従って私が図書館から借りたり同級生から借りたりして読んだ本は、数は少くても、(続く
30.7. 続き)私にとって価値は多い読書と成った。」科目が文系に偏っているかな。理系なのは数学の藤森(良蔵)だけ。久米正雄「受験生の手記」(1918)や菊池寛『半自叙伝』に出てくる南日の『英文解釈法』は『難問分類英文詳解』が改訂されたもので、(続く
30.8. 続き)それがさらに改訂されたものが『英文和訳法』らしい。でも、『英文解釈法』も並行して売れたらしい(pp.88-9、江利川春雄『受験英語と日本人』)。
『難問分類英文詳解』1903年
『英文解釈法』1905年
『英文和訳法』1914年
29. Wikipediaにある「山川京子」のところ。なんで旧姓が田中ではなくて松本なんだろう? ↓これは田中と書かれている。
https://mainichi.jp/articles/20150830/ddl/k21/040/049000c
28. (続き)「田中嘉三郎」でネット検索してみると(著書もあるみたいだけど)、『山川弘至書簡集』 というのが出てくる(義理の息子さん?)。「西田」は住んでいた場所から?
https://shiki-cogito.net/library/ya/yamakawahiroshi-shokanshu.html
27. (続き)その家族が住んでいた)に寄宿した。/翌年1954年の7月に一家が上京、当初は練馬区関町の借家に住んでいたが、(略)」と書かれている。この叔父さん、小説「父系の指」(初出『新潮』1955年9月号)では「西田民治」という名前で出てくる。(続く)
26. Wikipediaで「松本清張」を見てみると、「1953年12月1日付で朝日新聞東京本社に転勤となり[44]、上京する。当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家(田中嘉三郎は清張の父である峯三郎の弟。嘉三郎はすでに死去していたが、(続く)
26.1. お父さん、峯三郎でなくて峯太郎だな。誰か直してあげて。
25. (続き)中野静という人、近デジで参考書が1冊読める(大正9年のもの、なぜか上巻のみ)。Googleブックスで検索してみると(著作権的な問題があるかな...、Googleブックス情報)お父さんは中野保という人で、長野で数学を教えていたらしい。親子2代で数学の先生だったようだ。
25.1. 「中野塾のあった場所と開校年が知りたい。 | レファレンス協同データベース」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000080856
Googleブックス、よく見えないから勘違いをしてしまった(言い訳)。お父さんは数学を教えていたわけではない? 何を教えていたんだろう?
24. 某掲示板に「昭和11年の日記出て來たから一日づつ載っける」というのがあげられている。読むとこの日記の人、中野静の中野塾に通っている(ほんとは話が逆で「中野塾」などを検索したら出てきた)。その11年前かな、大正14年(1925年)に藤枝静男が通っていた名古屋の予備校。(続く)
23. 手もとにある新潮文庫『学生時代』(たぶんブックオフで購入)の奥付を見てみたら、昭和51年(1976年)の59刷だった。けっこう古いなー。「新潮文庫の(限定)復刊」全百冊のものって、古本屋で意外と(?)見かける気がする。棚に入っているとあずき色でかなり地味だけど。
22. あと『久米正雄伝』に「新潮文庫の『学生時代』は、94年に69刷が出ているが、その後、品切れとなった。」とある(p.541)。この1994年のって「新潮文庫の復刊」全百冊のうちの1冊かも。1つ前の68刷のほうが気になる。『学問ノススメ』(89-90)が出た頃には手に入ったのかな?
21. (続き)東中野に愛人でも住んでいたのだろうか。」(pp.371-2)。いたら鎌倉から通っていたのかな? 知らないけど、下落合=目白文化村、上落合=落合文士村? 尾崎は1919年に日本女子大に入学、寮が目白。昭和2年(1927年)から7年まで上落合。そこで『第七~』(昭和6)も。
20. 健吉と三五郎の比較に意味はあるかな? とりあえず共通点は上京者で予備校生、あと失恋者。小谷野敦『久米正雄伝』(2011)という厚い本に尾崎翠の名前は出てこない。でも(?)こんな箇所が。「しかし久米はこの[=昭和2年連載『青眉』の]後も、東中野に住むヒロインを使うのだが、(続く)
19. 「五月二十五日 晴/今村隆氏菊池の本の装幀の見本を持ってくる。出来思わしからず。装幀なぞ引き受けなければよかったと思う。午後塚本八洲来たる。一高の入学試験を受ける由。」ー芥川龍之介「我鬼窟日録」(1919)。義弟の家は鵠沼? 「受験生の~」(1918)は読んでいるかな?
18. 1917年、尾崎は小学校の代用教員を辞めて最初の上京。渋谷道玄坂の三兄(帝大農科在学中)のところに。そこには東京音楽学校志望の従弟もいたらしい(p.86、川崎賢子『尾崎翠 砂丘の彼方へ』)。(あ、農科は本郷じゃなくて駒場なんだよね。)
17. いま受験シーズン。受験生に「落ちる」とか「すべる」とかは禁句ーというのは、明治時代からあるのかな? それなら三五郎に気安く「丸善で『ドッペル何とか』買ってきて」とか言ってはいけない? というか、『ドッペル何とか』と勝手に略したのは本人のほうだったかも。
16. 尾崎翠『第七官界彷徨』(1931)。語り手は小野町子。2人の兄は小野一助、二助。いとこは佐田三五郎。名前だけは夏目漱石みたいだよね。小川三四郎(『三四郎』)、長井代助(『それから』)、野中宗助(『門』)。あと、長野一郎、二郎(『行人』)とか。
15. 「『坊ちゃん』と『田舎教師』は先生と生徒の関係だった!?」
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/note/n250125 #知恵袋
15.1. 消えている(泣)
14. 『田舎教師』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1668.html
13. おととし(2014年)何かテレビで林先生(林修氏)が『田舎教師』を取りあげたらしいけれど(知らなくて見逃してしまった)、林清三(こちらも林先生)は小学校のオルガンで練習、一方(?)佐田三五郎は以前の住人が置いていった、音が狂っているピアノで練習。
12. ああもうやめたいこんなつぶやき(泣)。でもとりあえず100ツイートまではがんばろう。
11. 小説に出てくる浪人生といえば? やっぱり「ぴいくん」?(人によって違うに決まっている(^_^;))。高田崇史『試験に出るパズル』(講談社ノベルス、2004のち文庫)からの「千葉千波の事件日記」。作者は1958年生まれらしい。『ぼく勉』山田詠美(1959年早生まれ)と同学年だよね。
10. 忘れていたけど、高橋源一郎が1951年早生まれで、薫くんと同学年なんだよね。浪人はしていないけど。もちろん(?)東大は受験できず、京大に落ちて横国。高橋氏は、山田詠美が特集された『文藝』2005年秋号で、「ぼくも勉強ができない」というエッセイを書いている(pp.100-3)。
9. 「ティーンズハートの花井文体は、官能小説にもヒントを得ていた!! なーんてね。」(p.81、同書)。花井愛子は1956年生まれ。関係ないけど、川上弘美は1958年早生まれーー1学年下か。(川上「一実ちゃんのこと」はやっぱり「ローニン」と「クローニング」がかかっている?)
8. (続き)間違いなく40代以上であろう。」(p.80)。なんか引用していて苛々してくる(泣)。単純計算で2005年に40歳の人は1965年生まれ? 『天使の卵』(1994)の主人公が宇能鴻一郎の名前を知っているというのは、どうなんだろう? ちなみに、村山由佳は1964年生まれ。
7. 花井愛子『ときめきイチゴ時代』(2005)に次のような箇所が。「主語と述語のみの短文。会話多用。改行バリバリ。擬音擬態語たっぷり。体言止め。/ーーこれって......。/宇能鴻一郎センセイの、官能小説じゃんっ!!/と、ね。/いまウケてくださったかたは、(続く)
6. 庄野潤三『明夫と良二』(1972)。以前、図書館で借りて読んで、ちょっと欲しいけれど、岩波現代文庫にも講談社文芸文庫にも収録されていない(児童向けだから?)。お父さん視点の小説。確かお兄ちゃんの明夫くんが村上龍と同学年だったと思う(わからない、1年ずれているかも)。
6.1. 講談社文芸文庫から出たみたいだね。2019年2月。
5. そういえば、山田詠美編のアンソロジー『せつない話』(光文社、1989のち文庫)には、田辺聖子「恋の棺」(『ジョゼと虎と魚たち』所収、角川書店、1985のち文庫)が採録されている。年上の女性目線。
4. 『天使の卵』の文庫版(集英社文庫、1996.6)で解説を書いているのは、村上龍。確認してないけど、たいしたことは書かれていなかった覚えが。村上は2浪(一応)してムサ美。ベストセラー『限りなく透明に近いブルー』(1976)は、浪人中の(?)体験がもとになっている(要出典?)。
3. 平均するよりも、9人中5人が浪人している、とか言ったほうがよかったかも。
2. 芥川賞の現在の選考委員はみんな大学に入学している。小川・川上・堀江が0浪、島田・高樹・宮本・山田が1浪、奥泉・村上が2浪。(村上を2浪とするのはちょっとまずいかも。)平均すると、8割る9で、0.888...浪。1浪を下回っちゃうな。
1. そういえば(今ごろ思い出した)『学問ノススメ』には確か『父帰る』が出てくる。大道寺くんが口にする。(ぜんぜん関係ないけど、村山由佳『天使の卵』(1994)にはちらっと宇能鴻一郎の名前が出てくる。)
加藤武雄「解説」(久米正雄『学生時代』新潮文庫)
2021年8月31日 読書 解 説
久米正雄君の『学生時代』が今度改版になるに就〔つ〕いて、その解説ようのものを書け、という御注文だが、これは私の適任ではない。久米君とは群〔グループ〕をも異にしていたし、従って生活的にも深く触れ合ってはいなかったし、第一、私には学生時代というものが無い。故郷の村の小学校以外、学校というものにはいった事の無い私にとっては、ここに描かれた大学生生活はただ縁遠いものである。それ故、ここに何か書く事は御辞退申上げるのが本当だと思うが、略々〔ほぼ〕同時代に文学に発足し、その後の行路の、君の軽快な飛翔〔ひしよう〕に対しては私の鈍重な匍匐〔ほふく〕のただ憐〔あわれ〕む可〔べ〕きものであったとはいえ、穎才〔えいさい〕の多くが斃〔たお〕れた後にともかくも今日生き残って、君の顧眄〔こべん〕にこたえ得るこの身の冥加〔みようが〕を思えば、私は、ここに若干の思い出を語らざるを得ない。
人も知る如く、久米君の出発は、同人雑誌『新思潮』によって、菊池寛君、芥川龍之介君、松岡譲君、成瀬正一君等と共になされた。しかし、私が久米君の名を知ったのは、それ以前であった。年も月も忘れてしまったが、『万朝報』という新聞で、学生から選手を募り、方面を東西に分けて、長途の徒歩旅行を試みさせ、その旅行記を毎日紙上に掲げて、世の喝采〔かつさい〕を博した事がある。選手となって東北、関東の方面を受持ったのが一高生の佐々木好母という人であったが、中途で病気で斃れた佐々木氏に代ったのが、同じく一高の久米正雄君であった。私はその才気煥発〔かんぱつ〕の筆に瞠目〔どうもく〕した。おまけにその文には上手なスケッチも添えられていた。私の下宿には、名は忘れたが万朝の記者がいた。目出度く着京の久米君を出迎えたというその某君は私に語った。「身体も達者なんだな、日にやけて真っ赤になっていたが、元気な顔をして、まだ歩き足らん、書き足らんという様子だった!」
『新思潮』には、芥川君の『羅生門』『鼻』などがあらわれた。久米君の策では、『父の死』などを記憶している。菊池君の不朽の作『父帰る』『屋上の狂人』もたしかこの二三十頁〔ページ〕の粗末な雑誌――貧弱きわまる小同人雑誌に出たものだったと思うが、当時は格別の世評を呼ばなかったのでは無かろうか。松岡君には、題ははっきり記憶せぬが、(『赤頭巾』(?))なかなか異色のある作があったが、これもあまり注目されず、この輝かしい揺籃〔ゆりかご〕からは、芥川、久米の両君が相ついで飛び立った。ややおくれて菊池君、翼を連ねたこの三者は、あれよあれよと見るうちに、たちまち文壇の中空に翺翔〔こうしよう〕しはじめた。
「芥川はピンセットだ。菊池は指だ。いや指じゃない手だ。いきなりぐいとつかんでしまう」
私共は、ともすれば噂〔うわさ〕にのぼる三君についてこんな事を言った。
「久米は?」
「箸〔はし〕だ。器用に箸をつかう」
「箸は何の箸だ。象牙〔ぞうげ〕の箸か?」
「象牙の箸ほど貴族的じゃない。といって割箸ほど粗末ではない。普通の塗箸――そこがいいところさ」
芥川君のように、理智的な乃至〔ないし〕神経的な鋭さも無ければ、菊池君のような、体当たり的な手強〔てごわ〕さも無かった。しかし程好く調和された知性と感性、適度に配合された現実味と抒情味〔じよじようみ〕。やや独自性の稀薄〔きはく〕な憾〔うら〕みのある代り、その危な気の無い作風によって、最も小説らしい小説を見せてくれたのは久米君であった。比較的視野も広く、想像力も豊富で、その鋭敏な感受性は当時の社会情勢をも反映して、左翼がかった作品の、いくつかを見せた。『三浦製糸場主』という戯曲も多分、この『学生時代』の諸作と前後して現われたものだったと記憶するが、君は戯曲の方面でも、逸早〔いちはや〕く活動をはじめていた。中学生時代から俳句をつくり、句集『牧唄』の作者三汀として知られていた、と知ったのは、ずっと後の事だったが、至るところ可ならざるなき才人、驚く可き才人――というのが、私に与えた当時の久米君の印象であった。
長袖〔ちようしゆう〕善く舞うこの才人を、軽佻〔けいちよう〕という者もあった。浮華という者もあった。にもかかわらず、久米文学はよく一代を魅了した。魅力の根源は何よりも、その親しみ易さにあった。――私は曽〔かつ〕て水谷八重子に就いて謂〔い〕った事がある。八重子の美しさは、平凡他奇無きところにある。一町内に二三人は必ずある美人、隣の娘からも、むかいのおかみさんからも見出〔いだ〕される美しさ、花ならば垣根の朝顔といったような、目に馴〔な〕れた美しさ、それが八重子の美しさで、八重子の代表的美人を謂〔い〕わるる所以〔ゆえん〕のものは、そのような平凡奇なき美しさにあると――。これを移して久米文学の評語とする事はできないであろうが。ともかくも久米文学の魅力は、何よりもその親愛感にある――と、私は今でもそう思っている。
さて、この『学生時代』の諸作は、『新思潮』から巣立って間もなくの、作家生活に入ったばかり大正の初期の作に属している。今、三十幾年ぶりで再読してみて、発表当時の印象をなつかしく喚〔よ〕び起す事ができた。当時の大学生生活の種々相が、当時の一般の時代風俗と共に鮮〔あざ〕やかに浮びあがり、春廼家〔はるのや〕主人の『書生気質〔かたぎ〕』をついで、我が学生史の一側面を活写したものとも言えよう。『受験生の手記』は、何という雑誌にのったものか記憶に無いが、私は当時これを身につまされて読んだものだった。というのは、私は、青年時代に、度々小学校教員検定試験というものを受けに行って、受験者の苦心と不安とをいやというほど味わわされた経験があったからである。『文学者』『選任』『鉄拳制裁』『嫌疑』『競漕』『万年大学生』等、学生生活の幾多の挿話は、前にも言った通り、私にとっては、縁遠い、別の世界の消息であったが、かくも多彩な学生生活に対する羨望〔せんぼう〕を以て発表の都度愛読したものであった。『母』は、芥川君の『手巾〔ハンケチ〕』と対照せらる可き作で、この対照の裡〔うち〕に、両者の全芸術を比較し得るように思った。この一冊の中で、私の記憶に最も鮮やかなのは、『求婚者の話』の一編であった。後年長編小説において示された、縦横の才気は明らかにこの一編に予示されている。これが『黒潮』という雑誌に発表された直後、新潮社の応接室でたまたま君に会った時、「あれは仲々面白かったですが、同人諸君の評判はどうです」と問うと、君は昻然〔こうぜん〕として、「え、仲間でも評判がいいんです」と答えられたことを記憶している。この作などは、いわゆる私小説全盛の当時の芸術小説から逸脱したもので、大衆小説家としての久米君の前途を約束するものであった。勿論、当時私共の考えていた大衆小説は、決して現在あるようなものでは無かった。事志と違う――大衆小説家としての私の慨嘆〔がいたん〕は、おそらく久米君も同〔どう〕じてくれるところと思う。
勿論この一冊はその頃の久米君の作の中から学生時代を記念す可き諸編を選集したもので、この外にも久米君は多くの作を書いている。
菊池君が黒革縅〔くろかわおどし〕ならば芥川君は紫裾濃〔むらさきすそご〕か、久米君が緋縅〔ひおどし〕の花やかさで、新興文壇の先を駆けていた颯爽〔さつそう〕たる英姿は今も私の眼にある。
私は新潮社の編集室の、ほこりだらけの机にかじりついて、わびしい日を送っていた。心は常に捨てて来た故郷にあり、農民の文学という意気込みで書き出した三、四の小説も、野暮くさい土くさい作と一掃的に片付けられて、一向世評にのぼらず、従って己れを疑う気持にもなって悶々〔もんもん〕鬱々の毎日であった。その私の眼に、久米君等の姿がいかに輝かしいものに見えた事か。
久米君と面識の機会を得たのもこの前後の事だったと思う。新潮社で、新潮文庫という袖珍〔しゆうちん〕の翻訳叢書を出した事があるが、その中の一冊に『ロメオとジュリエット』その他沙翁〔さおう〕の戯曲二、三編をおさめたのがありその訳者が久米君であった。その翻訳の用件で、社にも見え、私の陋宅〔ろうたく〕にも見えた事があったが、その頃の久米君の濃過ぎるほどの濃い髪は、その「茜〔あかね〕さす」顔色と共に最も特徴的なものであった。私は、今でも、久米君のきれいに抜けあがった広い額を見る時その頃の久米君を思い出す。
久米君の作品の魅力は、即ちその人柄の魅力である。「みちのくの固き小栗ぞうり難き」というような毅然〔きぜん〕たるものを内に蔵しながら、久米君はいかにも物柔らかな紳士である。議論をしても、あたまから相手を叩きつけようとはせず、どんな愚説でも暴論でも、一応とっくりときいてから、おもむろにこれに応〔こた〕えるという風である。鋭敏な社交的感情と、潑剌〔はつらつ〕たる才気とは常にその周囲に人を牽(ひ)きつける。このひとを迎えれば一座が頓〔とみ〕に活気づくというような情景を私は屢々〔しばしば〕見てきた。そしてかくの如きが、又、文壇における君の姿でもあった。大正昭和の文壇に、久米正雄がいなかったら、それはどんなに寂寥〔せきりよう〕なものとなったであろう。
その非社交的な点においてその魯鈍迂愚〔ろどんうぐ〕なる点において、私の如きは久米君とは正に対蹠的〔たいしよてき〕だといえよう。別に心あって為〔な〕すわけではないが、私は常に孤立であった。でなかったら、久米君とも、もう少し深い交渉を持ち得たに違い無い。今や、遅暮の時において、相見相知る機会をしばしば恵まるるにつけ、私は君と誼〔よしみ〕を結ぶ事のあまりに遅かりしを憾〔うら〕まざるを得ない。
加 藤 武 雄
※底本:久米正雄『学生時代』新潮文庫、四十五刷改版、1968年7月(初版、1948年4月)。
※どこか打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。
久米正雄君の『学生時代』が今度改版になるに就〔つ〕いて、その解説ようのものを書け、という御注文だが、これは私の適任ではない。久米君とは群〔グループ〕をも異にしていたし、従って生活的にも深く触れ合ってはいなかったし、第一、私には学生時代というものが無い。故郷の村の小学校以外、学校というものにはいった事の無い私にとっては、ここに描かれた大学生生活はただ縁遠いものである。それ故、ここに何か書く事は御辞退申上げるのが本当だと思うが、略々〔ほぼ〕同時代に文学に発足し、その後の行路の、君の軽快な飛翔〔ひしよう〕に対しては私の鈍重な匍匐〔ほふく〕のただ憐〔あわれ〕む可〔べ〕きものであったとはいえ、穎才〔えいさい〕の多くが斃〔たお〕れた後にともかくも今日生き残って、君の顧眄〔こべん〕にこたえ得るこの身の冥加〔みようが〕を思えば、私は、ここに若干の思い出を語らざるを得ない。
人も知る如く、久米君の出発は、同人雑誌『新思潮』によって、菊池寛君、芥川龍之介君、松岡譲君、成瀬正一君等と共になされた。しかし、私が久米君の名を知ったのは、それ以前であった。年も月も忘れてしまったが、『万朝報』という新聞で、学生から選手を募り、方面を東西に分けて、長途の徒歩旅行を試みさせ、その旅行記を毎日紙上に掲げて、世の喝采〔かつさい〕を博した事がある。選手となって東北、関東の方面を受持ったのが一高生の佐々木好母という人であったが、中途で病気で斃れた佐々木氏に代ったのが、同じく一高の久米正雄君であった。私はその才気煥発〔かんぱつ〕の筆に瞠目〔どうもく〕した。おまけにその文には上手なスケッチも添えられていた。私の下宿には、名は忘れたが万朝の記者がいた。目出度く着京の久米君を出迎えたというその某君は私に語った。「身体も達者なんだな、日にやけて真っ赤になっていたが、元気な顔をして、まだ歩き足らん、書き足らんという様子だった!」
『新思潮』には、芥川君の『羅生門』『鼻』などがあらわれた。久米君の策では、『父の死』などを記憶している。菊池君の不朽の作『父帰る』『屋上の狂人』もたしかこの二三十頁〔ページ〕の粗末な雑誌――貧弱きわまる小同人雑誌に出たものだったと思うが、当時は格別の世評を呼ばなかったのでは無かろうか。松岡君には、題ははっきり記憶せぬが、(『赤頭巾』(?))なかなか異色のある作があったが、これもあまり注目されず、この輝かしい揺籃〔ゆりかご〕からは、芥川、久米の両君が相ついで飛び立った。ややおくれて菊池君、翼を連ねたこの三者は、あれよあれよと見るうちに、たちまち文壇の中空に翺翔〔こうしよう〕しはじめた。
「芥川はピンセットだ。菊池は指だ。いや指じゃない手だ。いきなりぐいとつかんでしまう」
私共は、ともすれば噂〔うわさ〕にのぼる三君についてこんな事を言った。
「久米は?」
「箸〔はし〕だ。器用に箸をつかう」
「箸は何の箸だ。象牙〔ぞうげ〕の箸か?」
「象牙の箸ほど貴族的じゃない。といって割箸ほど粗末ではない。普通の塗箸――そこがいいところさ」
芥川君のように、理智的な乃至〔ないし〕神経的な鋭さも無ければ、菊池君のような、体当たり的な手強〔てごわ〕さも無かった。しかし程好く調和された知性と感性、適度に配合された現実味と抒情味〔じよじようみ〕。やや独自性の稀薄〔きはく〕な憾〔うら〕みのある代り、その危な気の無い作風によって、最も小説らしい小説を見せてくれたのは久米君であった。比較的視野も広く、想像力も豊富で、その鋭敏な感受性は当時の社会情勢をも反映して、左翼がかった作品の、いくつかを見せた。『三浦製糸場主』という戯曲も多分、この『学生時代』の諸作と前後して現われたものだったと記憶するが、君は戯曲の方面でも、逸早〔いちはや〕く活動をはじめていた。中学生時代から俳句をつくり、句集『牧唄』の作者三汀として知られていた、と知ったのは、ずっと後の事だったが、至るところ可ならざるなき才人、驚く可き才人――というのが、私に与えた当時の久米君の印象であった。
長袖〔ちようしゆう〕善く舞うこの才人を、軽佻〔けいちよう〕という者もあった。浮華という者もあった。にもかかわらず、久米文学はよく一代を魅了した。魅力の根源は何よりも、その親しみ易さにあった。――私は曽〔かつ〕て水谷八重子に就いて謂〔い〕った事がある。八重子の美しさは、平凡他奇無きところにある。一町内に二三人は必ずある美人、隣の娘からも、むかいのおかみさんからも見出〔いだ〕される美しさ、花ならば垣根の朝顔といったような、目に馴〔な〕れた美しさ、それが八重子の美しさで、八重子の代表的美人を謂〔い〕わるる所以〔ゆえん〕のものは、そのような平凡奇なき美しさにあると――。これを移して久米文学の評語とする事はできないであろうが。ともかくも久米文学の魅力は、何よりもその親愛感にある――と、私は今でもそう思っている。
さて、この『学生時代』の諸作は、『新思潮』から巣立って間もなくの、作家生活に入ったばかり大正の初期の作に属している。今、三十幾年ぶりで再読してみて、発表当時の印象をなつかしく喚〔よ〕び起す事ができた。当時の大学生生活の種々相が、当時の一般の時代風俗と共に鮮〔あざ〕やかに浮びあがり、春廼家〔はるのや〕主人の『書生気質〔かたぎ〕』をついで、我が学生史の一側面を活写したものとも言えよう。『受験生の手記』は、何という雑誌にのったものか記憶に無いが、私は当時これを身につまされて読んだものだった。というのは、私は、青年時代に、度々小学校教員検定試験というものを受けに行って、受験者の苦心と不安とをいやというほど味わわされた経験があったからである。『文学者』『選任』『鉄拳制裁』『嫌疑』『競漕』『万年大学生』等、学生生活の幾多の挿話は、前にも言った通り、私にとっては、縁遠い、別の世界の消息であったが、かくも多彩な学生生活に対する羨望〔せんぼう〕を以て発表の都度愛読したものであった。『母』は、芥川君の『手巾〔ハンケチ〕』と対照せらる可き作で、この対照の裡〔うち〕に、両者の全芸術を比較し得るように思った。この一冊の中で、私の記憶に最も鮮やかなのは、『求婚者の話』の一編であった。後年長編小説において示された、縦横の才気は明らかにこの一編に予示されている。これが『黒潮』という雑誌に発表された直後、新潮社の応接室でたまたま君に会った時、「あれは仲々面白かったですが、同人諸君の評判はどうです」と問うと、君は昻然〔こうぜん〕として、「え、仲間でも評判がいいんです」と答えられたことを記憶している。この作などは、いわゆる私小説全盛の当時の芸術小説から逸脱したもので、大衆小説家としての久米君の前途を約束するものであった。勿論、当時私共の考えていた大衆小説は、決して現在あるようなものでは無かった。事志と違う――大衆小説家としての私の慨嘆〔がいたん〕は、おそらく久米君も同〔どう〕じてくれるところと思う。
勿論この一冊はその頃の久米君の作の中から学生時代を記念す可き諸編を選集したもので、この外にも久米君は多くの作を書いている。
菊池君が黒革縅〔くろかわおどし〕ならば芥川君は紫裾濃〔むらさきすそご〕か、久米君が緋縅〔ひおどし〕の花やかさで、新興文壇の先を駆けていた颯爽〔さつそう〕たる英姿は今も私の眼にある。
私は新潮社の編集室の、ほこりだらけの机にかじりついて、わびしい日を送っていた。心は常に捨てて来た故郷にあり、農民の文学という意気込みで書き出した三、四の小説も、野暮くさい土くさい作と一掃的に片付けられて、一向世評にのぼらず、従って己れを疑う気持にもなって悶々〔もんもん〕鬱々の毎日であった。その私の眼に、久米君等の姿がいかに輝かしいものに見えた事か。
久米君と面識の機会を得たのもこの前後の事だったと思う。新潮社で、新潮文庫という袖珍〔しゆうちん〕の翻訳叢書を出した事があるが、その中の一冊に『ロメオとジュリエット』その他沙翁〔さおう〕の戯曲二、三編をおさめたのがありその訳者が久米君であった。その翻訳の用件で、社にも見え、私の陋宅〔ろうたく〕にも見えた事があったが、その頃の久米君の濃過ぎるほどの濃い髪は、その「茜〔あかね〕さす」顔色と共に最も特徴的なものであった。私は、今でも、久米君のきれいに抜けあがった広い額を見る時その頃の久米君を思い出す。
久米君の作品の魅力は、即ちその人柄の魅力である。「みちのくの固き小栗ぞうり難き」というような毅然〔きぜん〕たるものを内に蔵しながら、久米君はいかにも物柔らかな紳士である。議論をしても、あたまから相手を叩きつけようとはせず、どんな愚説でも暴論でも、一応とっくりときいてから、おもむろにこれに応〔こた〕えるという風である。鋭敏な社交的感情と、潑剌〔はつらつ〕たる才気とは常にその周囲に人を牽(ひ)きつける。このひとを迎えれば一座が頓〔とみ〕に活気づくというような情景を私は屢々〔しばしば〕見てきた。そしてかくの如きが、又、文壇における君の姿でもあった。大正昭和の文壇に、久米正雄がいなかったら、それはどんなに寂寥〔せきりよう〕なものとなったであろう。
その非社交的な点においてその魯鈍迂愚〔ろどんうぐ〕なる点において、私の如きは久米君とは正に対蹠的〔たいしよてき〕だといえよう。別に心あって為〔な〕すわけではないが、私は常に孤立であった。でなかったら、久米君とも、もう少し深い交渉を持ち得たに違い無い。今や、遅暮の時において、相見相知る機会をしばしば恵まるるにつけ、私は君と誼〔よしみ〕を結ぶ事のあまりに遅かりしを憾〔うら〕まざるを得ない。
加 藤 武 雄
※底本:久米正雄『学生時代』新潮文庫、四十五刷改版、1968年7月(初版、1948年4月)。
※どこか打ち間違いなどがありましたらご指摘いただけるとありがたいですm(_ _)m。