上下巻、集英社文庫コバルトシリーズ、1982。たいして期待していなかったせいか、意外に面白く読めました。言葉、特に固有名詞なんかは、時代を感じるけれど(4半世紀前に書かれた小説、仕方がない)、成績優秀な高校生が語り手なせいもあってか、語彙は豊富な感じであるし(諺が得意そうだ)、読んでいてそれほど苛々もしなかったです。※以下いつものようにネタバレ注意です(毎度、すみません)。

 <“倉橋さんちの数子さん”――開校以来の才媛と評判の娘が、あたしってわけ。ところが失恋しちゃったの、同居中の譲叔父さんに……。がっくりしたあたしは、外国へ教えに行く花取教授邸の留守番をかってでたの。ところが、その家へ押しかけてきたのが、同じ学校の漫画家志望の三井家弓っていう問題児。そしてもうひとり勉という北大志望の浪人生。かくして女二人男一人の雑居生活が始まったのだ。>(上巻のカバーの折り返し)

舞台は北海道は札幌市。微妙に今で言うところのBL系要素あり。実家にいるさい「あたし」(数子)は、譲叔父さんを人手に渡さないために、叔父さん(若い大学講師)の教え子で、ホ○である鉄馬(家は金持ちで御曹司)と手を組んでいたということもあって、その鉄馬が花取邸に出入りしたりしてる。ハンサムで素直な(というより鈍い)勉は、鉄馬にちょっと狙われている。――具体的に書かれているところもあって(ス○キノ近し)、読みなれていないせいもあるけれど、若干ひきつつ、そういうところも面白いことは面白いです。ちょっとドタバタな感じであるし。漫画家の卵が出てきたり、譲叔父さんと結婚した女性(清香)が素人劇団に所属していたりで、ほんのちょっとメタフィクションっぽい要素もあるかな(作中作、作中劇的な)。

「あとがき」(下巻)によれば、もともと雑誌『小説ジュニア』の1981年10月号から1982年6月号に連載されていたらしく、作中の時間もだいたいそれと対応している。高校2年の2学期(10月号が発売される?9月ごろ)から始まっている。――時間的に、浪人生の勉くん(安藤勉)の入試まで描かれているのだけれど、どうしようか、これについてはひと騒動あるから、合否などは触れないでおこうか。出身は仙台、お父さんは「村の出納係を兼ねた、山林地主」(p.164)とのこと。仙台といっても中心市街地とかではないのかも。もともと札幌市内の(?)「代々木ゼミ」の寮にいたけれど、さる事情から、我慢の限界がきて飛び出して来たらしい。ネタバレしてしまうけれど、「さる事情」というのは、マヨネーズなど、食べ物に関して特定のブランドにこだわる性格らしく(「マヨネーズはキューピー印じゃなきゃ!」上、p.38)、寮の食べ物には耐えられなかったらしい。あ、でも4月から8月くらいまでは我慢できていたわけか(意外と我慢できる性格?)。

大学は、北海道大学の医学部を志望。北大を受けるのは、ちゃんとした理由はわからないけれど、「雄大な北海道の自然にあこがれて」(p.34)らしい。宮城県の自然はそれほど雄大ではないのか。でも、こういう人は意外に多いのかも。古い神社や寺院が好きだから京都大学へとか。一方、なぜ医学部なのかについては、書かれていない。共通一次の結果が思わしくなかった時点で、医学部受験をやめようともしていたらしいから、学部にはそれほどこだわっていないのかも。そういえば、語り手ではないからかもしれないけれど、前年どうして落ちたかについては何も語られていなかったと思う。

あと、トムくん、予備校では「代々木のプリンス」と呼ばれて、もてているらしい。でも、やっぱり、家にまで友達を連れてきちゃったりすると、勉強の妨げにはなるよね。やめましょう(?)。あまり関係がないけれど、予備校については、次のような箇所が具体的である。

 <通称、札予備[さつよび]、札幌予備校といえば、三年前、本州資本の代々木ゼミナールが道内に進出してくるまでは、道内随一の規模を誇った名門予備校である。/何ごとにもブランドに固執する勉なんかは、ローカルな名門よりは全国共通の名門がいいというわけで、代々木ゼミナールに通っているが、北海道内の有名私大や女子大をめざす者にとっては、道内の大学の教授が多く講師をつとめる札幌予備校のほうが、いざというときに有利だという情報もあり、なかなか盛況のようだ。>(下、p.216、[括弧]はルビ)

「いざというとき」ってどういうとき? これはなんていうか、入試問題漏洩的な「有利」さなのかなんなのか。勉くん、予備校もブランドで選んでいるなら、大学もやっぱりブランドで選んでいそうな気がするけれど、どうなんだろう。あと、Yゼミが津軽海峡(?)を越えたのは、1982-3=1979年で正しいの? 遅いのか早いのかいまいちわからないし、だいたいYゼミがいつごろから存在していて、いつごろから全国展開を開始したのか、とかまったく知らない(あまり興味もない)。語り手の数子(「開校以来の才媛」)は、高校3年になっても予備校には通わないようだ。

大学受験がらみでは、英単語集『でる単』(森一郎『試験にでる英単語』)がちらっと出てきているところ(上、pp.233-)がちょっと目にとまったかな。『でる単』が(リアルタイムで?)小説に小道具として登場するのは、70年代後半から80年代まで、遅くて90年代初めくらいまで、という感じか。データはないけれど、そんな気がする。2000年以降の高校生にその単語集を持たせている小説があったら、かなりの時代錯誤? (かといって、『も○たん』を持たせている小説があったらそれはそれで…。)
 
『少年と少女のポルカ』(ベネッセコーポレーション、1996/講談社文庫、2000)所収。いちおう3人称小説なのだけれど、主人公のホンダハルコからの1視点で、ほとんど1人称小説のようなもの。語りは、安定している饒舌系というか。衒学的というよりも雑学的な感じで、小説や漫画、映画に音楽、社会的な出来事とか、わかる人にはわかることがたくさん出てくる(友達の「委員長」の本の読み方など雑食的?)。知識がないので私には何を踏まえているのやら、疎外感を感じることがしばしば。あと、そういう知識みたいなものもそうだけれど、何かを言い出しておいて、適当な理由をつけてすぐに引っ込めるというか、切り捨てていく、みたいなことがかなり多い。お喋りの基本はどうでもいい話だから(?)それが“饒舌”の推進力の1つになっているのかなんなのか。ストーリー自体は、恋愛小説みたいなものとして読むと別にたいしたこともなく、高校のときの同級生から電話が掛かってきて、付き合い始めてこちらもちょっとその気になったら、やっぱりごめん、みたいに振られてしまう、というような話(たぶん)。

ハルコは、予備校の午後部に「二勤一休」のペースで通っている。要するに多くの浪人生小説と同様、あまり勉強はしていないわけだけれど、でも、この小説、予備校や予備校生についてはわりと書かれているほうかもしれない。それがちょっと具体的であるというか、個人的にはデジャ・ヴュなこともいくつかあって。例えば、教室には「四人掛けの机と長椅子が三列×十一個」(文庫、p.137)とか。あの長椅子って隣との区切れ目がないし、窮屈でいやだったよなぁ(遠い目)。隣のクラスというか友達(「委員長」)がいるクラスと自分とのクラスとの時間割がおおむねパラレルになっている、とか。2時間目の授業はどうでもいいけれど、1時間目の授業はどうでもよくない、でも寝坊して1時間目に間に合わなかった、みたいな場合に隣のクラスで同じ授業を受けたことがあります、私(どうでもいい思い出)。予備校生については、ボーリング場が俺の校舎だ、みたいなことを言っている元同級生がいて、そういえば私も(思い出しばなし、すみません)予備校に通っているとき、予備校ではなくて予備校の近くのパチンコ屋に通っている高校のときの同級生がいたのだけれど、彼は結局、大学には入れたのだろうか。

1991年の話、描かれているのは予備校の初日(4月最初の月曜日)から5月の連休があけて少し経つくらいまで。志望大学というかは、たぶん私立文系で、現役のときには「七回半」落ちている(「半」はJ智の学課までは合格とのこと)。現役で8つくらい受けるのはふつうかな、それとも多い?(小説ではちょっと多いような。宮部みゆき『蒲生邸事件』では「五校六学部」)。予備校は、坂の上にあってどうのこうのと場所が書かれているので、東京にある程度詳しい人なら特定できるのでは?(私には無理です)。授業は日本史の授業を受けている場面がある、

 <現代史担当の講師は、蚊の鳴くような声で不似合いな日本改造の話をしていた。まったく吸引力のない下手くそな授業で、来シーズンの契約はなしだな、とオーナーでもないくせにハルコが勝手に見限った講師だった。北一輝のことなら手塚治虫の漫画で読むからいいや、とハルコは高三のときクラスの誰かがそう言ってたのを思い出して真似た。>(同、p.135)

小さな声、というのは確かに生徒とするとちょっと嫌かな。というか、マイクはないのか。不似合いと言われても、試験に出るなら日本改造の話だろうかなんだろうがしないといけない。講師の「吸引力のなさ」(魅力に欠けるの)は何に由来するのだろうか(うーん)。「来シーズン」とか「オーナー」とかって、もしかして野球の比喩? ……それはいいとして。浪人生として(高校生としてではなく)予備校に通うと、1週間で都合何人くらいの講師の授業を受けることになるの? 例えば仮に20人くらいであるとして、何人くらい“当たり”がいればいいのか。5人(4分の1、25%)いれば多いほうかも。でも、同じく5人くらいの“はずれ”が自分の苦手な科目・分野に集中していたら悲惨だよね。まぁ夏期講習とかでどうにかすればいいのかも。日本史は選択していなかったので知らないけれど、そういえば、自分が高校のときには、井上靖の小説『蒼き狼』を読んで、しばらくの間、頭の中がモンゴル、モンゴルみたいなことになっていたけれど。

以上、あまりちゃんとした紹介ができなかったけれど、予備校生小説としてはお薦めの1篇です。浪人生小説のアンソロジーが編まれたら(編まれるわけないだろうけど)、ぜひ入れてもらいたい1作だと思う。

(追記。椅子に対する不満はよくあるようだ。例えば、どちらも主人公は高校生だけれど、中沢けい「海を感じる時」や川西蘭「春一番が吹くまで」にはちらっと出てくる。)
 
講談社、1983/講談社文庫、1985。手元にあるのは、いつものように文庫本。

青春大河小説、『桃尻娘』シリーズの2作目。章ごとに語り手が変わる形式で書かれている小説なのだけれど、最初の、榊原玲奈(「榊」の真ん中は「ネ」ではなくて「示」)が語り手になっている表題作しか読んでいないです。1人称饒舌体(18歳だからteenage skazか)で読みやすくていいのだけれど、個人的にはなぜだか頭に意味が残っていかないというか、右の耳から左の耳に抜けていく感じがして。それでもどうにか頑張って、高校生編の1作目『桃尻娘』は読み終えたのだけれど、どうやらそれが私には限界でした(無念)。

浪人がらみの話は、文庫の後ろのところの紹介文を読むと面白そうに感じるのだけど――引用してしまうか(今回も手抜き感想文…)、

 <グスッ。あたし、榊原玲奈は、浪人ですッ。クラスのみんなはしっかり大学生になって、あたしとは無関係に青春やっているようです。ち・く・しょ・お――。かの衝撃のデビュー作「桃尻娘」で、お父さんお母さんの度肝をぬき、少年少女の大喝采を浴びた著者の大河シリーズ第二作。浪人・玲奈を中心にお馴染みメンバーが大活躍する疾風怒濤の青春後期。>

浪人生です、と宣言してはいるものの、浪人生だからどうのこうの、という話はそれほど多くなくて。表題作なんて高校のときのこと(村松クンとの短い交際)について回想していたりする。――でも、まぁ、面白い箇所もなくはない。最初のあたり、浪人が決まったらしい「あたし」は、散る桜を眺める、みたいな“お約束”をするではなく、お母さんから「あるわよ」と言われた桜餅をすぐに食べず、いじりまわしている(笑)。あと、最初のほうで、予備校の特徴というか、高校と予備校の違いみたいなことについて少々語っている箇所がある。

 <予備校ってサ、行ったって行かなくたって、別に誰からも怒られないでしょ? 予備校の授業なんて、さぼったって別に罪の意識なんてのも感じないし、さぼったからって、別にサバサバするような種類のもんでもないでしょ? /大教室にビシッと詰められている人間達の中にいたらそんな気がしたの。だって、予備校の先生なんて、あたしの顔を知らないんだもん。(略)/(略)。向こうは商売で講義をしてて、こっちは金払ってそれ聞いてて、ただそれだけのことなんだなって(略)。>(pp.19-20)

当り前すぎるからかもしれないけれど、教師と生徒との(心理的な)距離について書かれている小説は、そういえばあまり見かけないかも。予備校はさぼったって平気、とか解説する前に予備校生小説では多くの場合、もう勝手にさぼっちゃってるし。個人的には高校よりも予備校のほうが好きだったけれど(予備校が好きだったのではなく高校が嫌いだっただけ)、高校で友達たくさん、青春していた人たちは、高校のほうがよかった、ってな感慨になるのだろうか。いちがいに比べられないだろうけど。榊原さんは予備校では友達はできなかったのかな?(シリーズの3作目を読めばわかるかもしれないけれど、読む気がしない、買ってはあるけれど)。そう、高校生小説と比べて、予備校生小説はあまり生徒と教師が付き合っていないような気がするけれど(逆にその手の高校生小説が多すぎるのか)、そうであれば、その距離感みたいなもの(講師に対する「遠さ」)が関係しているのかもしれない。

通っている予備校は、表題作では「代々木の予備校」(p.56)と書かれているけど、あとのほうでは「代々木ゼミナール」と言ってしまっている。通っている予備校として、実在する予備校の名前を出している小説は珍しいかも。現役のときの第1志望は、早稲田大学(文系)。落ちた理由は、ぐちゃぐちゃ書いてあるようなないような(ちゃんと読めばわかるかも)。3作目を読むと、1浪して合格するかしないかわかる(書いてもさほど問題はない気がするけれど、いちおう伏せておきます)。関係ないけれど、現国(現代文)の問題集の問題が引用されている箇所がある(ちょっと清水義範の小説のよう。「国語入試問題必勝法」とか)。
 
『消滅飛行機雲』(新潮社、2001/新潮文庫、2005)所収。鈴木清剛って中村航っぽいな。あ、逆か、中村航が鈴木清剛っぽいのか。というか、どっちでも同じ。

直接告白する勇気はなかった食器洗いマシン担当の「オレ」が、癒し系というかほのぼの系というか不思議系というか「ふんわりしていてあったかい」(同、p.43)周りの誰もが認めるビールバーのアイドル、ウェイトレスの咲月ちゃんといかにして付き合うことができるようになったか、というような話。――それはいいのだけれど。

 <今年の春、オレはあっけなく大学に落ち、浪人生活をできるだけ有意義に過ごそうと、駅ビルの中にあるビールバーでアルバイトを始めた。>(文庫、p.41)

アルバイトをするとどうして有意義に過ごせるのかわからない。たった(?)5時間でも動きっぱなし立ちっぱなしでけっこう大変、とのことで、勉強する時間はちゃんとあるのだろうか、この人。でも、昼間、予備校へはちゃんと通っているようだ。あと、「オレ」(並木くん)は、浪人生の定番アイテム(?)原付でバイト先へ通っている。

アルバイトかぁ…。あまり長続きはしなかったけれど、大学のときに塾講師のアルバイトで高校生を教えていると、無限に勉強時間が必要なんじゃないか、と疑える生徒にかぎって「バイト始めたんで、時間をどうにか(ずらしてくれ)」みたいなことを言ってくることが多くて。家にお金がないとか借金があるとかというなら話は別だけれど、遊ぶためのお金がほしい(お金だけではなく時間もかかるよ?)とか、何だかよくわからない「有意義さ」を求めてとか、理由としてどうなんだろうね、もちろん本人しだいだとは思うし、他人事ではあるけれど。

(あとで取りあげると思うけれど、アルバイトをしていても、村山由佳『天使の卵』みたいなのなら好感がもてるかな。家計というか、1人で居酒屋で働いている母親のことを考えて、春休みとか夏休みとかに集中して土方のアルバイトをしている。好感がもてないけれど、あと予備校生がアルバイトをしている小説としては、久間十義『海で三番目につよいもの』とか、主人公ではないけれど、立松和平『光の雨』とか。あと、アルバイトというイメージではないけれど、中上健次「十九歳の地図」とか。早瀬乱『三年坂 火の夢』はバイトは始めるけれど……やっぱり違うな、浪人時ではない。)
 
よくあるタイプのアンソロジーというか、1人1篇ずつの、7名の作家が参加している短篇集、角田光代ほか『Teen Age』(双葉社、2004)、に収録されている最後の1篇。川上弘美というと『神様』とか、ちょっとへんてこな話、が多いみたいな印象があるかもしれないけれど、この話も、そんな路線のものかもしれない。「あたし」が知り合って仲良くなる一実ちゃんは、実はクローン人間、みたいな話。クローン生まれゆえの悩みみたいなものもあるのだけれど、そういうところが面白いのではなく(それも面白いけれど)、えーと、どこがどうとかはうまく言えないけれど、小説として面白いので、お薦めはお薦めです。語り口が幼い感じだから、青春小説としては……ちょっと読めそうで読めないかも。でも、読めなそうで読めるかもしれない、わからないけれど。ただ、生きるのがめんどくさい、何かすごいこと(っぽいこと)がしたい、というのは、若い人やかつて若かった人なら共有できる悩みではないか、と思う。

予備校で顔だけを知っていて、学校外で声を掛けられたりして、友達になるみたいな話はよくあるのだけれど(受験生のせいか、場所は図書館が多いかな。宮本輝「星々の悲しみ」、堀田あけみ『ボクの憂鬱 彼女の思惑』など)、この小説では、牛丼屋へ入ろうとしたときに呼びとめられてなのがちょっと面白い。建物(校舎)についてもちょっと面白いというか、やや不思議なところがあって(川上弘美だから許せるけれど)、「駅のそばの、大きな新しいビルの五階から八階までを占める、できたての予備校」(p.243)……って、1階から4階まではどうなっているやら、とか(笑)。あ、関係ないけれど、小説に出てくる予備校ってなぜか8階建てが多い気がする。駅の近くのビルってたいていそれくらいの高さがあるのか、なんなのか。あと、「あたし」(律ちゃん)たちは、文系の午前コースに通っているらしいのだけれど、なぜなのか、文系クラスの机のほうが理系の机よりも狭いらしい(p.249のへん)。

受験勉強に関しては、「あたし」は勉強しているのかしていないのか、とりあえず、午前中はたいてい予備校へは通っているのではないか、と思われる。ぼんやりと授業を聴いているにしても。常識で考えて、お互いの家を行き来するほどの友達ができてしまうと、やっぱりおしゃべりとかに時間をとられてしまいそう。来年は合格できるのかな。作中の時間は、春から秋ぐらいまで進むのだけれど、「秋になってあたしの合格率は五十パーセントまで回復した(第四志望だけれど)」(p.263)と言っていて、大丈夫なのか、この人(笑)。第1志望のところを受けて受かる気はあるのかないのか。(ただ、このへんも、勉強しろ、みたいなことは思わず、川上弘美だからまぁいいか、と思えてしまう。)

[追記]のち、単著『天頂より少し下って』(小学館、2011.5/小学館文庫、2014.7)に収録される。7篇中の1篇目。
[追記2]『Teen Age』の文庫版は双葉文庫、2007.11。その前に初出は『小説推理』2001年6月号らしい。
 
講談社、1999/講談社文庫、2006。中学2年生と年齢が低いので青春小説というより児童文学(あるいは家族小説?)に分類されるのかもしれないけれど、季節は例によって夏であるし、素性のよく知れない年上の青年と出会うし、ひと言で言えばガール・ミーツ・ボーイな感じである。おむすびとかピザとか、ペットボトルで作った風車とか、例えば宮崎駿の映画『耳をすませば』などよりは、庶民的な感じかもしれない。似たような小説はいくらでもありそうな気がするけれど、最後の場面がけっこう好きだし、お薦めはお薦めです。――で、「浪人生」は出てこないけれど「ローニンセイ」なら出てくる。

 <夏期講習を抜け出した14歳の真名子は、広い庭のある古びた家が気なって、入り込んでしまう。そこでは青年がひとり静かな時間を過ごしていた。彼と話していくうちに、真名子の悩みが少しずつ明らかになる。友情、家族、進路、誰もが共鳴する、思春期の苦悩を瑞々しい筆致で描いた講談社児童文学新人賞受賞作。>(文庫カバーより)

これではちょっとはしょられすぎな気が。自分でまとめるしかないか(涙)。「わたし」(真名子)は中学2年生だけれど、講習を抜け出した時点ではまだ14歳ではない。その講習というのは、自分が受験するかもしれない私立高校で開かれているもので、友達たち(3人)と受講している。古びた家というのは、校舎の窓から見える隣にある元医院(奥窪医院)のことで、庭にはいつも白いシーツが干されている。思春期の――という言葉は当然(?)嫌っている思春期中の中学生、溺れたような息苦しさを感じている真名子(まなこ)は、そのシーツに自分を救いあげてくれる船の帆のイメージを重ねている。で、雨が降り出して、衝動的に学校を飛び出して濡れないようにそのシーツを取り込みに庭に入ったところ、家の奥から出てくるのが「ローニンセイ」(奥窪さん)。そのあと、主人公はしばしばその家を訪れるようになる。――なんていうか、2人の関係は、軽口や冗談を言い合ったり、奥窪さんがちょっと老成した感じもあったりで、ちょっと茶飲み友達っぽい感じが。もちろん(?)真名子の悩みだけでなく、奥窪ローニンセイの素性も明らかになっていく。

「わたし」は、「浪人生と中学生なら半人前どうし」(文庫、p.171)と語っている。あと、これは常識的な認識かもしれないけれど、浪人生のほうは「宙ぶらりん」(同頁)な存在であるとも思っているようだ。同じ「半人前」でも、その内実はぜんぜん違うように思うけれど――中学生が半人前なのは当然として、浪人生はたいてい自業自得的に半人前?――、そんなことは関係ないのかもしれない。(ちゅうぶらりんな者どうしが出会う、浪人生が出てくる小説としては、高校を中退した元女子高生が2浪中の男子浪人生と出会う藤野千夜「恋の休日」など参照。)

関係ないけれど、全体的に「自然/人工」という2項対立が多いかもしれない(だから宮崎アニメを思い出したのかも)。食べ物とか、弟が描いている直線もそうだし(直線/曲線)、いまテレビゲームにはまっている父親がかつて天体観測少年だったとか(テレビゲーム/天体観測)。ただ、自然がよくて人工が悪い、みたいな単純な図式ではなく、農薬野菜や添加物が入っているピザでも、形の悪い手作りのおむすびでも、それが自分のために作られたものならそのほういい、ということらしい。子どもが大人になるには汚れ(穢れ)なくてはいけない、みたいなよくある話とはちょっと違う(でも、ピザのほうはちょっとそれっぽいかな)。
 
タイトル通り11作収録されている短篇集『イレブン殺人事件』(ジョイ・ノベルズ、1982/角川文庫、1986)のちょうど真ん中の1篇。よくわからないけれど、熾烈さみたいなものは、受験競争<受験戦争<受験地獄、という感じ? ……まぁそれはそれとして。※以下、ネタバレしているので気をつけてください。手元にあるのがたぶん装丁の古い文庫版なのだけれど、表紙カバーの折り返しのところに紹介文があって。そこから引用すると、

 <昌彦はすでに二年間浪人している受験生である。今年こそと思っていたが、目標のT大受験の日に、寝坊してしまった。だが神は彼を見捨てなかった。苦しまぎれの絶妙の方法が浮かんだのだ! だがその為に、姿なき脅迫者が……。(略)>

試験の当日から描かれていて、結局、受かってしまうので(主人公がT大/東大に合格する小説は珍しいかも)、あまり浪人生小説とは言えないわけだけれど(別に言えなくて困ることもないけれど)、あらびっくり(?)そのあとT大ひとすじ5浪の男性が出てくる。5浪くらいになると“万年浪人生”(死語?)と呼んでもかまわないか。というか、現実(大学受験の実態)がどうかはともかく、個人的には小説では3浪くらいが限界である、と思う。志望が東大であろうと医学部であろうと。なので、この小説はちょっと例外っぽく、あるいはやや漫画っぽく感じてしまう。

[追記]『一千万人誘拐計画』という本(文庫は角川文庫)にも収録されているらしく、そちらのほうが手に入れやすいかもしれない(いや、探している方がいるようなので)。初出は『週刊小説』1979年3月30日号らしい。あー、時期的には赤川次郎「駈け落ちは死体とともに」(『週刊プレイボーイ』1979年3月13日号)や式貴士「窓鴉」(『奇想天外』1979年4月号)などと近いのか。
[追記2]『殺人偏差値70』(角川文庫、2014.5)という短篇集が出ていて、その1篇目にも収録されているようです。
 
同名書(講談社、1999/講談社文庫、2002)所収。これもひと言で言えば、ガール・ミーツ・ボーイな感じ。タイトルを最初に読んだときには、恋するのを休む日、みたいな意味かと思ったのだけれど、逆なのかもしれない。恋をする休みの日、みたいな意味? 別にどちらでもいいけれど。8月……ではなくて9月の半ばすぎ。7月に高校を中退したフィン(山口佐知子)は山梨の別荘へ行くことに。近くの渓谷の散歩コースのような山道を登り、その先の滝壷で泳いでいた良一(西河良一)と出会う。

 <「二十一で浪人って、何浪?」/「高校二回ダブって、それから二浪」/「それって結構はげしくない?」/「まあ、そうかな」>(文庫、p.41)

「やばくない?」とかではなく「はげしくない?」というのがちょっとよいかも。なぜ高校で2回だぶって2浪中なのか、その理由みたいなものも先を読むと語られている。けっこう大変な目に遭ったらしい。関係ないけれど、自宅浪人なのかな? 身体がなまらないように朝、牛乳配達のアルバイトをしているらしい。フィンのほうは、父親が病気になって愛人の看病を受けながら入院していて(母親は実家に戻ったまま「娘がえり」)、なんていうか、社会的な身分がちゅうぶらりんなうえ、平気なふりをしているけれど、本当は心配事とか、何か大変なものを抱えている者どうしが(必然的に?)出会ったというか、そんな感じかもしれない。フィンの別れたはずの(元)彼氏は、平気なふりとかではなく、たんに軽々しいだけ? それがかえってよい、ってことなのかもしれけれど。

一般にというか、一般化なんてできないとは思うけれど、高校を中退して大検(まだ「大検」と言ったほうが通じるか)の勉強をしている人と、高校は卒業していて大学受験の勉強をしている人(浪人生)とは、心理的にどう違うのかな。やっぱり、高卒の学歴(資格みたいなものだ)がないぶん、前者の人のほうが不安が大きいか。
 
同名書(河出書房新社、1979/河出文庫、1984)所収。ボーイ・ミーツ・ガールな青春小説というか、そんな感じである。小説としてはいまいち面白くない気がするけれど(主人公の頭の悪い皮肉っぽさ(?)とか、人を馬鹿にした感じがちょっと癪に障る)、予備校についてはけっこう具体的に書いてあって興味深いというか。

「僕」(ケン=藤村健)は高校3年生。母親から夏休みくらい予備校に通ったら、みたいなことを言われて、上京して予備校(有名なところらしい)に通うことに。わざわざ下宿を借りてで20日近くも、らしい。それで日程の半分を消化した日、午後の授業が始まるのを屋上のベンチで座って待っていたところ(自殺防止のために入れないとかではないようである、屋上)寝てしまい、慌てて授業がある別の校舎へ行き、エレベーターに飛び乗って、そこで女の子(ユウコ=縞崎夕子)と出会う、みたいな感じ。そのユウコの元カレとして出てくるのが、浪人生の佐藤くん。やっぱり3浪ともなると、医学部志望に設定しないと(小説としては)ダメなのかな、家は「でかい病院」とのこと。アパートというよりもマンションのようなところで1人暮らししている。伊井直行『草のかんむり』の主人公がわりと明るかったのに対して、こちらのほうがふつうだろうか、暗いというか内省的な感じである。でも、自分のことをわかってくれているらしい今カノのような存在(弥生、不思議系?)がいたりもする。

ここは「小説にみる浪人生」というテーマのブログなので(嘘)、浪人生以外はどうでもいいのだけれど、大学受験に関係してもう少し。高校生のケンくん、知り合ったその日にもうやっちゃってる(言葉を選んだほうがよかったかな)わけだけれど、その前に連れ込んだ下宿でのユウコとの会話(レコードは実家から送って置いてある)、

 <「(略)ところで、変な話だけれど、ブラームスの方にもう一曲入ってるんだ。何だと思う」/「何なの?」/「大学祝典序曲」/「大学祝典序曲ってあの」/「そう、ラジオ講座のテーマソング。参ってるんだよ、それで」>(文庫、pp.55-6)

。どう参っているのかわからないけれど、パブロフの犬みたいな感じかな、勉強せねばという気分になるのかも。ちなみに、志望大学は、ケンくんはいちおう国立の法学部、ユウコは私立の理系らしい。

あと、授業については、「予備校の授業は、僕の想像どおり事務的、よく言えば合理的に進められた」(同、p.12)と「僕」は語っていて、特に感慨もないようだ。後半のほう、浪人生どうし(弥生と佐藤)の会話がちょっと面白いかな(pp.85-6のへん)。大学と掛け持ちしている、世界史のおじいちゃん先生の(夏期講習の)最後の授業で、生徒が机の上にアイスティーを置いておいたら、感激してすごかった、みたいな話を弥生が言い出して、

 <「(略)君たちの実力は手に取るように分る。君たちのような人材なくして何の大学か。明日の日本は君たちが作るんだ、って。すごい勢いだったよ」/「そりゃ、あれじゃないかな。学生運動が華やかだった頃にさんざんつるし上げられて、優しさに飢えているんだよ」>(同、p.86)

20年以上も前に書かれた小説、ちょっと時代を感じるというか。学生運動で嫌な思いをした大学教師で、現在も予備校の教壇に立っている人はかなり少なくなっているのではないかと思う。
 
講談社、1983/講談社文庫、1990。ひと言で言えば、成長物語というか。「ぼく」は寝ていたところを講師(李珍明)に起こされ(授業はすでに終了)、私は君のひいおじいさんの知り合いで、君に見せたいものがある、みたいなことを言われて、のこのこと家までついて行ったところ、粘土板に刻まれた謎の文字のようなものを見せられて、気づいたときには蛙(アマガエル)に。そのあとは人間に戻るにはどうすればよいのか、とあれこれ考えたり試したりする。――そんな感じの話です。人間に戻ろうとしているとき、(人間の)女性と出会ったりするので、恋愛小説としても読めるみたいである。

小説としては、単純に読んでいて面白いのでお薦めはお薦めです。とても読みやすいし。ただ、伊井直行のほかの小説(ぜんぶ読んでいるわけではないけれど)もそうなのだけれど、どうも素直に好きと言えない感じはある。悪い形で(?)精神を病んでいる人が出てきたり、人と動物とが交わったり――描かれ方にもよるかもしれないし、そういう部分的な箇所が理由ではないような気がするけれど。たしか、眠り込んでいる奥さんを犯すみたいな話もあったと思う(『ジャンナ』?)。村上春樹と比べると(「僕」小説、芥川賞の受賞し損ないつながり?)同じ蛙にしても伊井直行のほうが土着的、土俗的な感じかもしれない。

主人公は「できれば旧帝大、少なくとも国立大学」(文庫、p.13)の医学部志望の3浪生。5代(または6代)続く医者(5代目から病院)の跡取り息子。3浪している理由というか、落ちた理由のようなものは、楽観的らしい本人によれば、

 <現役のときは、どうせ一浪するつもりで大して勉強していなかったから、落ちても平気だった。(略)その次は、[(引用者注)バイクで模擬試験を受けに行く途中、巻き込まれた交通事故で]入院中で試験を受けられなかった。(略)三回目は、割とよく勉強していて自信満々で受けたのに、どういうわけか落ちた。>(同、p.24)

とのこと。1度は入院していて受けられなかったということは、実質的には2浪になるのかもしれない。あまり関係がないけれど(説教くさい話になってしまうか)、現役のときに「浪人してもいいや」という気持ちで勉強していると、2浪、3浪とずるずるいっちゃうのかもしれない。当り前だけれど、やっぱり現役で受かる気持ちで勉強したほうがいいかと思う。そうしたほうが仮に浪人した場合でも1年くらいで済むのではないか。←根拠というかデータとかがないので、そう思うとゆうだけの話。

予備校講師の李(英語、授業は悪くないらしい)に声を掛けられたのが5月なかば。ネタバレしてしまうけれど、かなりの苦労の末に蛙から人間に戻れたのが1年以上経ってから。病院のほうは新しい跡取りが見つかっていたみたいだし、主人公のほうも新しい目標が見つかっている(つまり医者はやめる)。でも、そのためには大学を受けなくてはみたいだから、4浪へ突入という感じか(実質は2浪?)。話が前後してしまうけれど、通っている予備校があるのは、「大手と中堅六つの予備校があわせて十一の校舎をもつという予備校街」(同、p.9)とのこと(いわゆるO通り?)。前年も同じ予備校で、前々年(1浪のとき)は、窓から見える(!)別の予備校に通っていたらしい。
 
水曜社、2004。毎度のように書いていますが、今回はミステリーなので、いつも以上に※ネタバレにはご注意ください。最後のあたりについても触れるつもりです。ただ、あいかわらず内容を説明するのが得意ではないので(というか、得意な文章ジャンルなんてないけれど)、とりあえず帯の文章を引用させてもらうと、

 <十九歳の夏、平穏だったぼくの日常に突然終止符が打たれた。親友の秀雄が、バイクとともに姿を消したのだ。残された謎のメールに導かれるように、ぼくと遙香は秀雄の跡を追った――。瑞々しい筆致で青春の恋と悩みを描きだした、新しいスタンダードの誕生!!>(帯より。改行はつめました)

という感じの物語です。舞台は海の近くで、自動車で東京まで2時間くらいの場所らしい。秀雄(早坂秀雄)の失踪の件以外には、彼がいなくなる1か月くらい前に、たまたま海で水死体として発見してしまった人(松本菜摘)についても調べていく。子どもを亡くした夫婦とか、刺青師とか詐欺師とか、長めの小説なので(?)あれこれと出てくる。

語り手兼主人公(森崎誠司)は、内面的なことをあまり語ってくれないうえに、人とちょっと距離をとるような性格らしく(会話の部分を読むとやや村上春樹っぽい)、いまいち好感が持てないというか、感情移入しながらは読みにくいかもしれない。19歳にしてはちょっとおっさんくさくもあるような。2度目の大学受験に失敗し、でも、来年受験するかどうかまだ決めていない、みたいな状態らしくて、ちゃんとした浪人生、とは言えないわけだけれど(ある意味では浪人生以上に社会という海で漂っている浪人かもしれないけれど)、人から身分などを尋ねられれば、

 <「あなたは大学生?」/「いいえ」どう説明すればいいのか、迷った。自分の今の状態を正確に言い当てる言葉はないような気がする。「浪人です」/「時代劇みたいね」>(p.136)

というように「浪人」と答えるしかないわけで。ラーメン屋のような“海の家”のようなところ(『海乃家(うみのや)』)でアルバイトをしているのだから、「フリーター」と答えることもできたはずで、要するに無意識的にはやっぱり浪人生、という感じなのかもしれない。その証拠にあれこれと事件の真相がわかったあと、結局、受験生に戻るかして大学には行ったようである。よくある小説では、大学に行く意味が見出せずに漠然と浪人生をしているときに、何か非日常的な出来事が起こって、また現実に帰ってきて勉強に身が入るようになる、みたいなことが多いのだけれど、浪人以前な時点でのそんなような小説はちょっとめずらしいかな。ま、どちらも心理的には似たようなもので、表面的な違いにすぎないだろうけれど。

あと、過去のこともあまり語ってくれないので、例えば小さい頃から友だちという秀雄にしても、高校のときの「ほとんど唯一の女友だち」だという遙香(桐生遙香)にしても、かつてどういう友だち付き合いをしていたのか、がいまいちよくわからない。同じように(?)大学受験についても、どうして現役のときと1浪のときと不合格になったのか、がまったく語られていない。もちろんそんなことは本人にもわからないかもしれないけれど、少しくらい自己分析してくれてもよさそうなのに。

 <受験に二度も失敗して、私は生きていく自信をなくしていた。かと言って、死ぬ勇気もなかった。私は生と死の狭間を漂っている状態だった。>(p.8)
 <あの頃はまだ最初の受験に失敗したショック状態がずっと続いていた。ただ無色透明な時間をやりすごすだけで、自分がなにをしているのかに注意を払うこともなく、あらゆる出来事に対してなんの感情も持てなかった。>(p.79)

時間順は逆で、上が1浪のときの不合格後(「私」が使われているのは最初のあたりの回想場面だから)、下が現役のときの不合格後。下のほうはこのあと、女友だちの遙香と高校の卒業以来、1度も会っていなかった理由が語られる(ネタバレしてしまうけれど「ヤラセテクレ」と言ったらしい。泣きっ面に蜂の状態を自ら求めるというか、悲しいときには雨に打たれていたい、みたいな気持ち? 冬にこたつで食べるアイスは格別……それは違うか)。なんだろう、2度とも十分に勉強していて自信満々で入試に臨んだとかなのかな? やけにショックを受けちゃっているよね。いや、ショックを受けるのは当然だとして、頭の切り換えみたいなことが得意ではないのかも。だから2浪するかどうかもさっさと決められないのか。

森崎くんのプロフィールをもう少し。2度目の受験に失敗後、親元を離れてアパート(風呂はあるようなないような)で1人暮らしを始める。あとのほうを読むとわかるのだけれど、祖母が管理人をしている住人が老人ばかりのアパート。管理人の代理をすることで、家賃はタダ。朝はジョギング、昼間は飲食店の『海乃屋』でアルバイト。水死体を発見するまでは海でときどき素潜りをしていたらしい。健康的ざんすよね。最後のところを読むと、6年後に大学を卒業したと言っているから、たぶんもう1年浪人をしたか、大学で1年留年したか、のどちらか。

(誤植。1箇所、「名刺」が「名詞」になっている(p.116)。逆の変換ミスのほうがありそうだけど。)
 
河出文庫、2006。『カップリング・ノー・チューニング』(河出書房新社、1997)が文庫化で改題されたもの。最後まで読めず、早めに放り出してしまったのだけれど(古本ではなく新刊で買ったのに…。もったいない)、この小説はいったいどこが面白いのだろう、わからないです。個人的には冒頭からしてすでに躓く。

 <すっぽりかぶせられた布袋の底にあいた、いくつもの小さな穴ぼこみたいに、暗闇の向こうに明かりがちらちらと見えはじめる。>(p.7)

要するに時間的に夜で、「明かり」はこの次の文で「ラブ○テルの看板」(たぶん電飾の)だとわかるのだけれど、どうして穴のあいた布袋をわざわざ(しかも頭から)かぶらないといけないの? もちろん比喩なのはわかっているけれど、それにしても違和感が。「穴ぼこ」という言葉も気に入らないな。語り手の「ぼく」(本橋くん)が頭がよくない、みたいな設定だからかもしれないけれど、地の文はもう少しどうにかならないのか。ふだん生活の中でも嫌なことはたくさんあるし、個人的には小説を読んでいてまで不愉快な気分になりたくはない。もちろんほかに取るべきところがあればというか、面白ければ多少不愉快になってもOKなんだけど。

 <中古で買った愛車「ネモ号」に乗って、当てもなく道を走るぼく。とりあえず、遠くへ行きたい。行き先は、乗せた女しだい――高校の同級生だった春香、バーで偶然隣り合わせていたトモコ、ヒッチハイク中の年上女……助手席にやってくる奇妙な彼女たちとのちぐはぐな旅はどこまで続く? 直木賞作家による青春ロード・ノベル。>(表紙カバー)

初めて車を購入して浮かれて友達に会いに回るのだけれど、あまりうれしい反応が返ってこず、唯一、うれしい反応をしてくれたのが、好きではないけれど、高校のときにバレンタイン・デーにチョコレートをくれたりした春香。で、助手席に乗せてしまうわけだけれど、ずっと通っている予備校のことやら高校のときのことやら、一方的に愚痴を言い続けている。――小説よりも実際にありそうな話だけれど、お互いに自分勝手というか、不幸な形で閉じた関係というか、もう少しこうすればハッピーになれるのでは、みたいなことも思ったり……というか、要するに読んでいて非常にいらいらする。

その春香の愚痴をちょっと聞いてみようか。

 <「だからね、予備校行ってるとなんだかこわくなってくるのよね。今年一年ばかみたいに勉強して、それで希望の大学に行っても、高校のときと同じ、水槽の中にいるみたいで、おもしろいこともやりたいことも一つもなくて、ただ受かったから学校に行くだけの毎日だったらどうしようって思っちゃうの。それでも高校のときはまだまわりに友達も好きな人もいたからよかったけど、今みたいに、友達もいない、好きな人もいない、毎日おもしろくない、そんなふうだったらどうしようってこわくなるの」>(p.14)

浪人生向けの受験雑誌(あまり存在しないか、何かティーン向けの雑誌でもいいけれど)のお悩み相談コーナーに投稿してみたほうがよさそうな内容かもしれない。毎日勉強はちゃんとしていてたまにこういうことを考えたり、口に出したりするのならいいと思うけれど、この種のことが日々頭の中をぐるぐるしているとしたら、この人、来年また落ちちゃいそうだよね(わからないけど)。おもしろいことがない、というのは、どうすればいいのか。ちょっとしたことでも日々おもしろがるようにするとか。だからどうやって?――わかりません(汗)。

将来の、あるいは当面のやりたいことがない、というのは、ありふれたふつうの悩みかと思うのだけれど、そのふつうの悩みを、話し相手に共感を持って聞いてもらうのが、意外と大変というか。どういう言い方をすればよかったのかな。共感してもらうだけでずいぶんと楽にはなるかと思う。友達については、予備校よりも大学のほうができやすいのではないか、サークルとかもあるだろうし。あと、こわい、こわい言っているけれど、いったい何が怖いの? 毎日おもしろくなくても、別に何も「怖く」はないのでは? 
 
読み方は「セブン」。角川ホラー文庫、2002。毎度のことですが、※以下、ネタバレしているのでご注意ください。――ひと言で言うと、女の子っぽくない女の子が自分が女の子であることを認める物語、である……違うかな、違うような気がするけれど、そう言ってしまってもさほど間違いではないような気もする。文章、文体はごてごてしていなくてわりと好きかもしれないけれど、物語(ストーリー)があまり面白いと思えなくて。展開もいまいちだと思ったし、あまり深みもなかったような。私はホラー小説をほとんど読んだことがないのでわからないけれど、いちおうホラー小説らしいです。

主人公の長谷川那津は、前の週から家に戻らない大学生の兄貴(聡史)を探すため、事情を知っているらしい史学科の(元?)彼女(柳亜希子)が発掘調査に訪れているらしい山口県に行くことに。本人は行きたくはなかったのだけれど、自分よりも兄をかわいがっている母親に懇願されて(帰りに京都でも観光してくれば、みたいなことも言われて)しぶしぶ行くことに。行ってみたところ、彼女は出土した、北斗七星の力を宿すらしい「七星剣」を盗んでどこかへ去ったあと。その共犯であるとの言いがかりを付けられ、追われていたところを、出会った父子(体格のよいお坊さんと茶髪にピアスの若者)に助けられて、彼らと行動をともにすることになる。――内容紹介はこれくらいで。というか、粗筋をまとめるのがいっこうにうまくならない(涙)、誰かこつを教えてくれないかな。

表紙カバーの紹介文には「浪人生の」という形容がなされているけれど、主人公なっちゃんは大学に落ちてまだ日が浅い、最後の部分を除いて予備校が始まる前(3月くらい)の話なので、浪人生といってもまだ本格的な浪人生というわけではない。でも、それで正しいというか、ほかの小説もいくつか読んで思うのは(小説ではいまいち説得力がないけれど)やっぱり、浪人というのは、入学するつもりがあった大学をすべて落ちた時点から始まるみたいである。要するに予備校開始の4月からではなくて、浪人決定時点が浪人開始時点でもある、というか。(いちおう挙げておいたほうがいいかな、例えば、橋本治『その後の仁義なき桃尻娘』の最初のあたりなど参照。)

そんな浪人生のなっちゃんは、髪はショートで化粧なし、スカートではなくジーンズをはくというように、女の子っぽくなく設定されているのだけれど(そんなに男の子っぽくもない気がするけれど)、これは小説的には1つの手段なのかもしれない。というのは、浪人の世界は男の世界である、浪人生と言えば男(の子)みたいな社会的なイメージがあって(ありませんか?)、女の子の浪人生を描くさいに手っ取り早いのは、男の子っぽく描いてしまう、みたいなことになるのではないか、邪推であるけれど。(例えば、のちのち取りあげられたら取りあげたいけれど、乃南アサ『あなた』の美作とか、藤野千夜「午後の時間割」のハルコとか、小室みつ子『彼女によろしく』の奈々緒とか。)ただ、そう考えると、那津は高校のときからショートカットだったりするわけで、時間的・設定的なねじれが――男の子っぽいから浪人する、みたいなおかしな理屈が――生じてしまうかもしれない。

でも、この小説、ジェンダー的に見るとけっこう疑問が湧いてくる。「男らしさ/女らしさ」とは何か、というのはとりあえず措いておくとして、例えば、母親が妹の自分よりも兄のほうをかわいがっている理由は、別に自分が女で、兄が男だからというわけではないようだし、自分には兄貴風を吹かせていた兄は、同じ女である亜希子には奴隷のように扱われていたわけだし。男&男である父子(常元親子)と出会ったりするのは、考えてみれば何か意味があるのかもしれないけれど、そうではないみたいなことも書いてあるし。――要するにジェンダー(性差)は別に関係がないようにも読める。それと(ちょっと話がずれるけれど)、自分が男だからかもしれないけれど、女の子の成長って、男の子のそれよりもわかりにくい感じである。冒険をして成長、みたいな単純な描かれ方がされていないことが多い。でも、この小説もちょっとした成長小説、として読めなくもない。あまり関係ないけれど、そういえば、亜希子の背景ってほとんど描かれていないような。それが個人的にはちょっと不満かな。どうして「剣」に興味を持つようになったのか、もよくわからなかったし。

大学受験関係のところをもう少し。現役のときの第1志望は、昔から優等生だった兄が通っている大学なので、那津自身も平均よりは勉強ができるのかもしれない(そんなこともないか)。ただ、第1志望以外もすべて落ちた理由は「自分の学力を買いかぶり、狙いを絞りすぎた」(p.29)せいとのこと。狙いの絞りすぎ、というのは、偏差値的にもっと低いところも受けておけば、みたいなことかな(あと、学部・学科的なことも含むのかな)。「日本史は受験の必須科目」(p.63)とも言っているので、理系ではなく文系かもしれない(少なくとも私立理系ではないような)。卒業旅行は行かなかったらしい。引用しても大丈夫かな、

 <大学合格した暁には、高校の同級生だった友人たちと遊ぶ計画も立てていたものの、いまは合格組の彼らと逢うのもつらい。むこうだって、気兼ねするだろう。/友人たちには、「うーん、暇にはなったんだけどね、家族の中でちょっと揉め事があって。ごめん、出られないわ。こっちのことは気にせず、みんなで楽しんできてよ」と告げて、旅行をキャンセルした。電話のむこうで、相手もホッとしたようだった……気の回しすぎかもしれないが。>(p.75)

友だちであれば一緒に行けなくて残念、な気持ちもあるはずだから、たんにほっとするよりも、複雑な気持ちのほうが強いのでは?(というのは、気の回しすぎか)。「家族の中でちょっと揉め事」というのは、嘘から出た真というか、お兄さんを探すはめになって、結果としてまんざら嘘にもなっていない。あと、「遊ぶ計画」であれば、これは別に卒業旅行というわけでもないのか。近場のどこかでカラオケとかボーリングとかを1、2時間、くらいな計画にしておけばよかったのにね。というか、それでは高校生のときと変わらず、卒業後の遊び(?)にならないのか。会うだけでもつらいのなら、いずれにしても断ってしまうかもしれないけれど。(浪人生は出てこない小説だけれど、堀田あけみ『さくら日記』という小説では、国立大学の入試が終わって合格発表がある前に――つまり受験勉強から解放されて、しかも合格組と不合格組が別れる前に――みんなでスキーに行っている。友達どうしが似たような日程で大学を受けるならそういうことも可能かもしれないけれど、ふつうは無理じゃないか、という気がする。)
 
中央公論社、1977/中公文庫、1980。<薫くんシリーズ>(赤白黒青4部作)の4作目。主人公の「ぼく」(庄司薫)が浪人生であるようなないような、そんな感じなので、自殺した(いま病院で生死の境をさまよっている)高校のときの同級生、高橋くんのほうも、浪人生であるような、ないような……そんな状態なのかもしれない。それゆえ(?)浪人生が自殺する小説、としてはあまり典型的な例にはならないかもしれないけれど、いちおう取りあげておきます。

時は1969年7月20日、場所は東京の新宿。物語は、薫くんがいろいろな人と会って(向こうからやってきたり、こちらから出向いたりして)高橋くんの自殺の原因というか、自殺に至るまでの過程を知っていく、というような感じ。「青髭」って誰なのか、という謎もあったりする。←こう書き方をすると推理小説にありがちなストーリーみたいだけれど、たぶんそうではなくて。なんていうか、主人公の話自体もそうだけれど、抽象的なことをながながと語る登場人物が多くて、個人的には何を言っているのやら難しくて、さっぱり理解できないことも多かったです、読み終わってしばらくしてみたら、自殺の原因って結局、どんなだったっけ? みたいな状態に(涙)。文章自体は読みやすくていいのだけれど、言いたい、ことみたいなことは、論文調で書いてもらったほうがまだ理解できるかもしれない。……それ(=私の頭の悪さ)は措いておいて。

高橋くんのケースも結局、複雑であったわけだし、最初のあたりで「浪人した東大受験生の自殺ってことならわりと平凡な話だけれど」(古いのほうの文庫、p.11)みたいなことが言われているけれど(本当かよ?)、それがデータ的に本当であったとしても、「受験勉強(過剰なそれ、成績の伸び悩み、合格への不安など)→受験ノイローゼ→自殺」みたいな、単純なケースというか短絡思考的なケースは、小説と現実とを問わず、あまりないのではないかと思う。少なくとも、小説のほうではあまり見かけないかな。
 
連作集というか、探偵役に同じキャラクターが登場する同名の短編集(実業之日本社、2001/講談社文庫、2006)の表題作。このタイトルで浪人生が出てこないわけがない、と思って読んでみたところ(※以下ネタバレちょっと注意です)いちおう出てきました。私はその名前の通りには(というか九州にさえ)行ったことがないのだけれど、予備校がたくさんある、とは話に聞いていて。けれど、最近ではそうでもないらしい、

 <今はもう大手予備校がいくつかあるだけで、昔はそこここにあったはずの鬱屈した空気は消え、賑やかな飲食店街になってしまった。>(文庫、p.251)

あと、浪人生の中でも美大受験生は、なんとなく勝手なイメージで、明るい人ばかりなような気がしていたけれど、この小説に出てくるのは、暗い人だったり(明るくても)垢抜けていない人だったりする。通りはけっこう変化しても(?)、語り手(あるいは作者)の中で、昔からある浪人生のイメージ(鬱屈した人間?)は、そのまま残っているのかもしれない。
 
廣済堂出版、2000/文春文庫、2003。柴田よしき、初めて読んだけれども、うーん、どうもねえ…。それはそれとして、いちおう出てくると言えば出てきます、浪人生。家政婦は見た、ではないけれど、語り手の「あたし」(工藤瑞恵)は通いの家政婦。その通っている家(原家)の長男(裕次)が浪人生。

 <(略)裕次は、昨年大学受験に失敗して以来市内の有名予備校に籍をおいていたのだが、将来にわたって食うにはまったく困らないという環境のせいなのか、どこまで本気で大学に行こうとしているのかわからない感じがある。もう夏休みに入るというのに、相変わらず、授業はほとんどさぼり、夕方からどこへともなく遊びに出かけて朝帰りの毎日なのだ。>(文庫、p.13)

高校卒業後、なんとなく大学へみたいな感じかな。勉強していない理由がたんなる怠惰ではないあたりが、ふつうの(?)小説とは多少異なるか。父親(他界)が一生働かなくてもいいだけの財産を残してくれている、というのは、お羨ましいかぎりです。舞台は京都なので「市内の有名予備校」というのはいくつかに限定できるかも。「授業はほとんどさぼ」っているのに「予備校での友達」(同、p.129)はいるようだ。どうでもいいけれど、音楽はビートルズ好きで、性格は優しいらしい。(推理小説の常で、あとあと「実は…」的な話もあり。)

血のつながっていない弟(祥、後妻である愛美の連れ子というか)もいるけれど、1人血がつながっている姉(長女かおり――ひき逃げ事故にあい、意識が戻らず、象牙色の顔で眠り続けている)がいるので、これはいちおう例のパターン、男女1人ずつの子どもがいる場合、浪人生は男のほう、に当てはまるかもしれない。(ネタバレするから書きにくいけれど、「実は…」的な話があるかもしれない(し、ないかもしれない)から、とりあえず小説の最初のほうの段階では。)
 
角川書店、2000/角川文庫、2002。※ ミステリーなので特にネタバレ(少ししているので)にはご注意ください。

予備校生(栗本俊)はすでに亡くなっている。無実の罪で逮捕され、留置場で自殺。1977年の4月、20歳になったばかりのとき(ということはたぶん2浪目が始まって間もないころに)逮捕されている。描かれ方が典型的というか、埼玉(川越)で病院を経営している家の長男で、両親は医学部に入って欲しいと思っているけれど、自分は美術教師になりたくて……みたいな。医大と美大(美術系)という、小説に出てくる2大志望先(?)を1人で体現している。

そう、小説の本筋とは関係がなくて瑣末なことなのかもしれないけれど、最後まで読んでも、俊(しゅん)が捕まった事件の真犯人が誰なのかがわからないのが、ちょっと不満。

ゴーストライターをしている主人公(松尾)も1年浪人しているらしいし、音大を4度受けた(3浪して駄目だった)と言う刑事(岸川)も出てくるし、この作者(深谷忠記)、ほかにも浪人生が出てくる小説を書いていそうな予感が。ちょっと探してみようかな。
 
光文社文庫、2006。山田太一というとTVドラマの脚本家というイメージが強くて(『ふぞろいの林檎たち』とか)、この小説も脚本(シナリオ)を膨らませたようなTVドラマのノベライゼーションか何かと思っていたら、後ろの「解説」(奥田英朗)によれば、昭和52年(1977年)にTVドラマ(連続もの)が放送される前年(つまり1976年)から新聞で連載されていたものらしい。後ろのほう(奥付の前の頁)を見ると、単行本は東京新聞出版局から、文庫はいちど角川文庫から出ている(単・1977/文・1982)。※以下、ネタバレというか内容も書いてしまいますので、読まれていない方はご注意ください。

東京は多摩川沿いに暮らす家族4人(田島家)の話。10年くらい前に建売で購入した家の1階からは土手が、2階からは川が見える。番号は付いていないけれど、数えてみると全部で23の章(というか節というか)に分かれている。違う章もあった気がするけれど、ほとんど、1つの章が1人の視点で(3人称で)書かれている。前半には専業主婦である妻/母(則子)の視点が多く、最後のほうでは会社に勤める夫/父(謙作)の視点の章も出てくる。大学生の娘/姉(律子)の視点はいちばん少なく、一方、高校生の息子/弟(繁)の視点は3分の2くらいまで多い。

“ドラマ”はあるようでないし、ないようでけっこうあるし……。もちろん(?)ここでは繁くんに注目したいわけだけれど、家族の問題、家族が崩壊するような危機的な問題が出てきてしまうと、さすがに大学受験どころではなくなってしまう模様。私立文系、三流大学を3つ受けて全滅する。試験まであと2ヶ月ちょっとというときに、母親が浮気をしているのではないかと調べて回ったり(で、実際にしているわけだし)、3つめの大学を受ける5日前には、姉を強姦した外国人……じゃなくてそれを斡旋したというか手引きした(元)恋人の外国人を殴りに行って逆に殴られたり(顔に痣ができる)、翌日(試験4日前)にはクラスメイトにお金を借りてまでしてワインや食べ物を用意して、母親の誕生日を祝いながら一家の関係を修復しようと思っていたら、痣を指摘されるなどして、父親から、受験前に何をしているんだ! と怒られてしまったり……。たんに高校1、2年のときの勉強が足らなかっただけかもしれないけれど、これではちょっと受かるものも受からない心理状態ではあるよねぇ…。しかも、かなり悲惨なことに、最後の合格発表で不合格がわかった日、すなわち浪人が決定した日(あとで会社の問題で苛々していたことがわかるけれど)父親から、家に帰るなり殴られる。繁くん、考えていることはまだ子どもでも、家族思いのいい子(いいやつ)なのに、かわいそうすぎる。

予備校には通うのだけれど、5月の第1日曜日の翌日(ということは、第1か第2の月曜日に)、母の問題と姉の問題(お姉さんはさらに妊娠発覚に堕胎手術)に加えて、父親が会社で、傾きかけた会社のために人には言えないような仕事をしていたことがわかって、繁くん、ついにキレる! 家を飛び出して、おそらくそれ以降は学校には通っていないものと思われる(まだ5月上旬なのにね…)。結局、ハンバーガー屋で働いていたことがわかるのだけれど。そういえば、浪人生をドロップ・アウトするような小説ってあまり読んだことがない気がする(たくさんありそうだけれど)。

ところで、父親(謙作)は大学を出ているらしいのだけれど、父親が大学を出ている場合、大学に入ることが当り前、という考え方を持っていたりして、それはそれで、息子にとってはプレッシャーになってしまうのかもしれない(この小説ではあまり関係ないみたいな感じだけれど。自分と父親を比較している場面はあまりなかったかと思う)。――あらっぽく整理すれば4通りのパターンがあるのか。

 (1) 自分は大卒ではないため、会社や社会で苦労した。
   →息子には大学に入学して欲しい。
 (2) 自分は大卒ではないけれど、会社や社会で苦労した。
   →息子には大学に入学して欲しくない(?)。
 (3) 自分は大卒であるため、会社や社会で楽をした/損をしなかった。
   →息子にも大学に入学して欲しい。
 (4) 自分は大卒ではあるけれど、会社や社会で楽をした/損をしなかった。
   →息子には大学に入学して欲しくない(?)。

(2)と(4)の場合は「けれど」(逆接)であるよりも、要するに大卒かどうかが会社などでの苦労とは無関係、という感じかもしれない。その場合、息子はわりと自由に振る舞える……のかな? いまどき大学くらい、みたいな父親であるとまた違うか。

1ヶ月くらいしか通っていない予備校は、高田馬場(あれ、新宿か? ――どっちでも同じか)。作中の時代はたぶん、書かれた時代の1976年から1977年にかけて、または、最後のあたりで「家」に対して起こる出来事が、実際に起こった出来事を基にしているらしいので、1976年以前のいつか(調べればわかるかと)。コーヒー1杯が250円、という物価。
 
 
[追記(2016.08.31)]初出に関しては、単行本(図書館本。東京新聞出版局、1977.5)の奥付の前のページに次のように書かれている。<東京新聞/中日新聞/北陸中日新聞/北海道新聞連載 ’76・12・15~’77・5・27>(説明がしづらいんだけど、「東京新聞/中日新聞」と「北陸中日新聞/北海道新聞」のところは2行を使って書かれていて、その下の「連載 ~」に対して角書きのようになっている)。1976年からといっても12月の中頃からだったのか。で、半年弱くらいの連載になるのか(新聞休暇日も少しあっただろうし)。
 
主人公は同じ(田村久雄)で、それぞれ特定の1日が描かれている短編集『東京物語』(集英社、2001/集英社文庫、2004)の6編中の2編目。年月日的には、名古屋から上京した1日を描いたこれがいちばん早い(最後に収録されている「パチェラー・パーティー 1989/11/10」がいちばん最後になるので、11年半くらいの間の話になるのか)。

わくわくもするけれど、反面、落ち着かない、みたいな感じ。読んでいて、うんうん、わかるわかる、という懐かしい感じが、私にはとてもするのだけれど。大学生としてでも、社会人としてでも、田舎から上京したことがある人は、多かれ少なかれ、わかる部分があるのではないか、と思う。何が起こるわけでもないけれど、お薦めな小説です。

田舎は退屈だから、というのが上京した理由の1つであったはずなのに、いざ上京してみると、その日は何もすることがなくて(たしかにまだ勉強する気にはなれないか)、退屈してしまって(「退屈」違いではあるけれど)、商店街など、近所を散策してみたり、大学に合格して上京している知り合いを訪ねてみたりする(自分は訪ねなかったけれど、こういう気持ち、とてもわかる)。要するに東京を歩いたりしてみるわけだけれど、そのさい、自分の方言が気になったり、服装もこれでよいと確認しないではいられなかったり、食事をしたいけれど、どの店もしゃれて見えてなかなか入れず、結局マクドナルドになってしまったり……。1人暮らし、自由といえば自由なんだけれど。東京、人は多くても、ほとんど全員他人だから、孤独というか、人寂しくもなるし。――もう話がぐちゃぐちゃ。まぁいいか(汗)。

予備校は「代々木にある予備校」。アパートは学校まで30分の北池袋(池袋から1駅)、風呂なし4畳半で1万5千円。当時でも格安?(物価的にはマイルドセブンが150円、ハイライトが120円らしい。というか、煙草ではよくわからないな)。いちおう大学には合格する、

 <予備校で彼女ができず、不本意ながら勉強以外にすることがなく、なんとかお茶の水に校舎がある大学の文学部にもぐりこむことができた。>(p.129、「レモン 1979/6/2」)

予備校のクラスというかコースも、私立文系だったのかな。
 
『ビタミンF』(新潮社、2000/新潮文庫、2003)所収。父親が主人公(視点)になっている4人家族の話。あまりパターン、パターン言いたくないけれど、これもなあ…。娘は「御三家」と言われる中学校に受かっていて、一方、息子は大学に落ちて3月から予備校に通っている。男女1人ずつの子どもがいる場合、息子のほうが浪人生、というのはよくあるパターン(例えば、いちおう小説なのかな、山田太一『岸辺のアルバム』とか)。一般的に、男の子(男性)の浪人生のほうが人口的に女の子よりも多いからかもしれないけれど。(このあたり、学歴社会や男性社会の話とつながっていて、深入りするとすぐには帰ってこれない話題?)

ネタバレしてしまうけれど(※以下、ご注意を)、友達どうしでの打ち上げ(卒業パーティ…じゃなくて、ふつうなんて言うの? 未成年だけれど、とりあえず「飲み会」か)は、何かほかの小説でも読んだことがあるけれど、祝賀会と残念会は相容れない、というか、酔って乱れたり荒れたりするのは多少しかたがない……ですよね? 卒業旅行でもそうかもしれないけれど、仲良くしていたのだから行かないわけには行かないし(行かないのも変だし)、受験勉強から解放された友達たちが浮かれているのは当然だし。気を使われないように気を使ってしまうというか、向こうも最初は気を使っていても、だんだんと、そこは友達だから、みたいなことにもなってくるかもしれないし。よくわからないですが、恐るべし酒の席(?)。

話が前後してしまうけれど、春期講習に通っている浪人生が出てくる小説を始めて読んだ。私の場合、もう1年受験生を続けることが決まったとき、春期講習というものの存在がまったく念頭になかったけれど、私のような人のほうが多数派ではないだろうか(たぶん小説でもそう)。脱力していたり、ばたばたしていたりする時期かもしれないけれど、本当はなるべく早く頭を切り換えて、少しでも多く勉強できるように早めにどこか通ったほうが、得策と言えば得策なのかもしれない。ながちょうばだから頭をゆっくり休めてからのほうが、という考え方もあるかもしれないけれど。うーん、どっちがいいんでしょうね?(わからんです)。
 

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