久間十義 『海で三番目につよいもの』
2008年7月6日 読書新潮社、1993(図書館本)。1年半くらい前に1度読んで、今回再読。なんていうか、中途半端な“文学”作品という感じがするかな。連続企業爆破事件(反日武装戦線)、在日朝鮮人(北朝鮮)、沖縄の米兵(ベトナム戦争)……、主人公が直接それらにぶちあたっている(いく)わけではなく、背景としてあるいは間接的に関わっている感じ。全体的に“青春小説”になっているっぽいから、その点は個人的にはいいと思うけれど。そういえば、最初のへんは、けっこう面白く読んでいたような気がする、けれど、最後のほうになると「だから何?」みたいな例の禁断の(?)問いが頭にちらついていたような。
1975年(20年近く前のこと)、上京して予備校に通う「ぼく」(洋一、18歳)は、青い目に栗色の髪をした小学生ミッキー(与那嶺美樹夫)と、「ぼく」と同じ歳で専門学校生(というよりフリーター?)の茉莉と出会って、デパートで集団万引きを始めたりする。「ぼく」が茉莉と付き合い始めたり、ミッキーのお母さん(ひろ子、源氏名はカンナ)が出てきたりして、3人(「ぼく」、ミッキー、茉莉)の関係はじょじょに変化していく。――そう、ミッキーの母親が勤める六本木のクラブの名前が『新世界』。そういうところも微妙にお文学? 「ぼく」は夏に2週間、そのクラブの呼び物であるショーの照明係のアルバイトをしている。あと登場人物としては、人物は(回想でしか)出てこないけれど、1つ歳が上の幼なじみで、在日である金世光(キム・セグァン)が手紙を送ってきたりする。――小説のテーマみたいなものの1つは、虚/実、といったことかな。「架空」とか「生身」という言葉も使われていたっけ。うーん…、であっても、小説としてどうなのかな? よくわからんです。誰かこの小説について解説して欲しいや(ああ他力本願…)。
この小説では、18歳、という年齢が意外とキーワード(キー年齢?)かな。「ぼく」と茉莉が18歳、沖縄で(ネタバレしてしまうけれど、アメリカ兵たちに輪姦されてできた)ミッキーをカンナさんが生んだのが18歳。大学生の金世光は「ぼく」より1つ年上だから、たぶん19歳――でも、神経(精神?)を病んでしまった、みたいなことを手紙で言っている。なんていうか(あいかわらずのボキャ貧だけれど)18歳が全員のターニング・ポイントになっている感じ?
あと、細かいところだけれど、最初のへん、まともな(?)予備校生であれば、三角関数→三角形、みたい連想って、あまり働かないと思うのだけれど、どう? 三角関数から連想されるものといえば、単位円とか複雑な公式とか?(わからないけれど)。いずれにしても、たいていの“受験生小説”は、そういう受験生を演出している箇所で、かえってつまづいているというか、読者は幻滅させられてしまう(現実に引き戻されてしまう)ことが多いような。
そういえば、「ぼく」はどこから上京したんだっけ?(ちゃんと読み直さないとわからないな(涙))。アパートは雑司が谷にある六畳1間で、トイレ・台所あり(風呂なし)らしい。予備校へは手なずけた(?)地下鉄を利用して。で、結局、この人は大学には受かったのかな? 模擬試験の結果がよくなかったりもしているけれど、ま、けっこう勉強はしていたし、ふつうに合格できたかもしれないな(テキトーな推測(汗))。
1975年(20年近く前のこと)、上京して予備校に通う「ぼく」(洋一、18歳)は、青い目に栗色の髪をした小学生ミッキー(与那嶺美樹夫)と、「ぼく」と同じ歳で専門学校生(というよりフリーター?)の茉莉と出会って、デパートで集団万引きを始めたりする。「ぼく」が茉莉と付き合い始めたり、ミッキーのお母さん(ひろ子、源氏名はカンナ)が出てきたりして、3人(「ぼく」、ミッキー、茉莉)の関係はじょじょに変化していく。――そう、ミッキーの母親が勤める六本木のクラブの名前が『新世界』。そういうところも微妙にお文学? 「ぼく」は夏に2週間、そのクラブの呼び物であるショーの照明係のアルバイトをしている。あと登場人物としては、人物は(回想でしか)出てこないけれど、1つ歳が上の幼なじみで、在日である金世光(キム・セグァン)が手紙を送ってきたりする。――小説のテーマみたいなものの1つは、虚/実、といったことかな。「架空」とか「生身」という言葉も使われていたっけ。うーん…、であっても、小説としてどうなのかな? よくわからんです。誰かこの小説について解説して欲しいや(ああ他力本願…)。
この小説では、18歳、という年齢が意外とキーワード(キー年齢?)かな。「ぼく」と茉莉が18歳、沖縄で(ネタバレしてしまうけれど、アメリカ兵たちに輪姦されてできた)ミッキーをカンナさんが生んだのが18歳。大学生の金世光は「ぼく」より1つ年上だから、たぶん19歳――でも、神経(精神?)を病んでしまった、みたいなことを手紙で言っている。なんていうか(あいかわらずのボキャ貧だけれど)18歳が全員のターニング・ポイントになっている感じ?
あと、細かいところだけれど、最初のへん、まともな(?)予備校生であれば、三角関数→三角形、みたい連想って、あまり働かないと思うのだけれど、どう? 三角関数から連想されるものといえば、単位円とか複雑な公式とか?(わからないけれど)。いずれにしても、たいていの“受験生小説”は、そういう受験生を演出している箇所で、かえってつまづいているというか、読者は幻滅させられてしまう(現実に引き戻されてしまう)ことが多いような。
そういえば、「ぼく」はどこから上京したんだっけ?(ちゃんと読み直さないとわからないな(涙))。アパートは雑司が谷にある六畳1間で、トイレ・台所あり(風呂なし)らしい。予備校へは手なずけた(?)地下鉄を利用して。で、結局、この人は大学には受かったのかな? 模擬試験の結果がよくなかったりもしているけれど、ま、けっこう勉強はしていたし、ふつうに合格できたかもしれないな(テキトーな推測(汗))。
干刈あがた 「予習時間」
2008年6月12日 読書これも全集みたいなものに収録されているかもしれないけれど、手もとにあるのは『ホーム・パーティー』(新潮社、1987/新潮文庫、1990)の文庫のほうで、その4篇中の1篇目。最後がちょっと嫌だったかな、この小説。なんとなくもっと明るい終わり方をするのかと想像していたから。中学2年生の女の子(矢木典子、13歳)の目から見た、学校の教師や同級生、家族、家の下宿人、家の近所(移りゆく東京というか)などが描かれている。本の後ろの「解説」(アルバート・ノヴィック)に、<「予習時間」は高層ビルのまだ少ない昭和二十九年頃の話で(略)>(p.204)と書かれているのだけれど、どこを根拠にして昭和29年と言っているのか、歴史オンチのせいか私にはさっぱりわからない。下宿人の原田のところに出入りしている高校のときの同級生、三輪が、典子の兄に対して、<「昇よ、あと二年で赤線がなくなるから、今のうちに連れてってやろうか」>(p.18)と言っているので、1956年=昭和31年? 同じ作者による「雲とブラウス」(単行本『樹下の家族』などに所収)という、高校生が主人公の小説に、<「(略)。売春防止法実施一九五八年。廓[くるわ]へ一九[イク]のも五八[コンヤ]かぎり、廓知らずのわが世代と覚えるの。試験には出ないだろうけど」>([括弧]は原文ルビ)とあるから(すごい覚え方だな。というか、この作者の言語センスにはいまいちついていけない(涙))、1958年から2年を引いて1956年……で、間違っているのかな? あ、赤線が消える=売春防止法実施、ではないとか?(わからんです(涙))。でも、いま読むとすれば、昭和29年よりも昭和31年のほうが、いまだにゆるく続いている(?)映画『ALWAYS・三丁目の夕日』に始まる“昭和30年代ブーム”と微妙にかぶさる感じでよいかもしれない。作中年はどちらにせよ、東京と縁もゆかりもない私が読んでも、けっこう懐かしい感じがするので(冒頭なんて、かつて広く愛されていた英語の教科書、ジャック&ベティの一節から始まっているし)、そういう関心からも読めるかもしれない。もちろん、短篇小説なので短いけれど。――話を戻して。家は「住宅金融公庫」からお金を借りていて、それを返すために下宿をしているのだけれど、下宿人の1人、原田が浪人生。
<原田は六畳間に下宿してから三回大学を受験したが、まだ浪人だ。去年九州から出てきて同居するようになった操は、探偵小説ばかり読んでいる兄を心配している。「早稲田にこだわるんですもの。プライドばかり高くて」と典子の母親に言う。同級生の三輪は、もう早稲田演劇科の三年生だ。>(p.17)
要するにこの人は何浪? 下宿暮らしを始めてから3度受験に失敗している、ということは、4浪かな。その場合、高校の同級生の三輪は1浪か1留していないといけないけれど。それとも、現役のとき、大学を受験する前から東京に住み始めてしまって、3浪とか。素人下宿であれ、妹(洋裁学校へ通っている)といちおう2人で暮らしている浪人生、というのはちょっと珍しいかな(あ、小説の話です)。原田にたかっている(?)三輪によれば、<原田の実家は旧家で金持ち>(p.32)とのことで、妹の操によれば<お兄ちゃんのお尻を叩くために>(p.34)親が彼女を上京させたらしい。親が原田(兄)のことをどう思っているのかわからないけれど、経済的には恵まれている感じ、かな。でも、1955年前後の早稲田大学って(1970年以降と較べて)入るのがそれほど難しくはなかったのではないかと思うけれど(そうでもなかった?)、であれば、3浪以上しても入れないというのは、よほど勉強していないかなんなのか、この人。うーん…。ちなみに、下宿人には原田兄妹のほかに、早稲田の法学部の学生が1人いるらしい(帰省していて名前が出てこない)。あ、家があるのは、
<二人の家[=典子と同級生のカオルの家(引用者注)]は、西武新宿線の井荻駅と中央線の荻窪駅方向とを結ぶ、環状八号線のバス通りを挟んで筋向いに面していた。>(p.8)
といった感じの場所。
<原田は六畳間に下宿してから三回大学を受験したが、まだ浪人だ。去年九州から出てきて同居するようになった操は、探偵小説ばかり読んでいる兄を心配している。「早稲田にこだわるんですもの。プライドばかり高くて」と典子の母親に言う。同級生の三輪は、もう早稲田演劇科の三年生だ。>(p.17)
要するにこの人は何浪? 下宿暮らしを始めてから3度受験に失敗している、ということは、4浪かな。その場合、高校の同級生の三輪は1浪か1留していないといけないけれど。それとも、現役のとき、大学を受験する前から東京に住み始めてしまって、3浪とか。素人下宿であれ、妹(洋裁学校へ通っている)といちおう2人で暮らしている浪人生、というのはちょっと珍しいかな(あ、小説の話です)。原田にたかっている(?)三輪によれば、<原田の実家は旧家で金持ち>(p.32)とのことで、妹の操によれば<お兄ちゃんのお尻を叩くために>(p.34)親が彼女を上京させたらしい。親が原田(兄)のことをどう思っているのかわからないけれど、経済的には恵まれている感じ、かな。でも、1955年前後の早稲田大学って(1970年以降と較べて)入るのがそれほど難しくはなかったのではないかと思うけれど(そうでもなかった?)、であれば、3浪以上しても入れないというのは、よほど勉強していないかなんなのか、この人。うーん…。ちなみに、下宿人には原田兄妹のほかに、早稲田の法学部の学生が1人いるらしい(帰省していて名前が出てこない)。あ、家があるのは、
<二人の家[=典子と同級生のカオルの家(引用者注)]は、西武新宿線の井荻駅と中央線の荻窪駅方向とを結ぶ、環状八号線のバス通りを挟んで筋向いに面していた。>(p.8)
といった感じの場所。
干刈あがた 「樹下の家族」
2008年6月12日 読書文庫は福武文庫と朝日文庫から出ているようだし、全集のようなものでも読めるようだけれど、いま手もとにあるのは、図書館から借りてきた同名の単行本(福武書店、1983)。その4篇中の1篇目。なんていうか、この小説もありがちかもしれないけれど、文学チックな要素を必要以上にたくさん詰め込んでいる、ような印象を受ける。うーん…、でも、それほどでもないか(わからない)。
語り手の「私」は、仕事で忙しい夫と2人の子ども(小学4年生と2年生)をもつ主婦。で、その頭の中身というか、考えたり悩んだりしていることが語られている小説、といった感じなのだけれど、なんていうか、夫に対する不満は直接、その夫に言ったほうがいいのではないか、みたいなことも思ってしまう、かな。そんなことを言ったら元も子もないかもしれないけれど(汗)。だから(?)動きというかストーリーみたいなものはあまりなく、場所は紀伊国屋書店の入り口付近、ジョン・レノンの死を報じているその夕刊紙(デイリー)を見せてくれませんか、みたいなことで、「私」は1人の青年から声をかけられ、そのあとお礼に下の喫茶店でコーヒーをおごられたり、代わりに歩いて移動して代々木・原宿のほう、行きつけの店でご飯をおごってあげたりする……くらいの動きで、そのあいだ「私」は過去のことと絡めてあれこれと考えている、みたいな感じ。青年というのは――引用してしまったほうが早いかな、
<「学生ですか」/「はい……いえ、二年前に一度出て来て受験したんですが、全部落ちてしまいました。それで帰って働いていたんですが、すごく焦りを感じて、この夏また出てきました」/「来年また受験するの」/「それがよくわからなくなってきました。アルバイトをしながら予備校に通っているんですが、このところ行く気がなくてサボっています」>(p.17-18)
ひと言でいえば、大学受験ドロップアウトぎみの苦学予備校生。浪人生(予備校生を含む)というのは、平均すれば(平均できれば)高校生や大学生以上に、文字通りの“学生”なのではないか、と私は思っているのだけれど、それはともかく。この人は去年は受験しなかったのかな? ジョン・レノンが殺されたのは1980年?(月は12月?)。この浪人生は1960年生まれ(の20歳)らしいから、少なくとも年齢的には2浪目、ということでいいかもしれない。沖縄から上京して(いまが12月であれば)まだ半年も経っていないくらい、相手が歳上ということもあるだろうけれど、丁寧なカタコト東京弁、になっている。アルバイトは具体的には、道路工事やビルの窓拭きなどをしているらしい。予備校をさぼっていると言っているけれど、次のようにも言っている。
<「僕はこのごろ、大学へ行くのはやめて金を貯めてインドへ行こうかと思ったりします」/「心理学とか宗教はどうするの」/「そういうことも含めて。人間を知るために。(略)」>(p.43)
こういうのはどうなの? シリアスな本を読んだりもしているこの人の場合、しっかりとした考えも持っているみたいだから、やっぱり止めないほうがいいような気も…(よくわからない)。同じ海外に行くのでも、浪人が長引いていてご近所などへの体裁が悪いから留学させちゃえ、みたいな放り出されてしまう金持ちの息子(ちょっと違うけれど、遠藤周作『灯のうるむ頃』の安川など)とは好対照? そう、この浪人生は「私」に対しては何を思っているのかな? たんに話を聞いてもらいたい、くらいの気持ち?(うーん…)。「私」の歳はいくつだっけ? 1960年に17歳の高校生、ということは、いま37歳くらいか(37歳とどこかに書かれていた気もするけれど。作者と同じで1943年生まれ?)。学生運動といっても、60年安保のほうだもんね(なんていうか、感慨?)、小説の最後のへんでは頭の中で(その渦中で亡くなった)樺美智子さんに語りかけているし。あと、関係ないけれど、この作者って意外と“だじゃれ小説”が得意かもしれない。紀伊国屋で『別役実戯曲集マザー・マザー・マザー』という本を買ったという「私」に対しての、青年の反応、
<「マザー・マザー・マザーか。まったく語感の連想だけで買ったんですね。もしこれが、母、母、母だったら……」/言いかけて、彼はハハ、ハハ、ハハと笑い出してしまった。>(p.14)
わ、笑えない…(汗)。このあと「妙薬」と「妙訳」とか、けっこう出てくるのだけれど(下ネタ系もあり)、ただ、そのほとんどが笑いのつぼというか、私の中の感情のポイント(?)を外している感じで、ぜんぜん笑ったりとかができない、上滑りしていく感じ(涙)。
(ちなみに、紀伊国屋書店ということでは、庄司薫<薫くんシリーズ>、苦学予備校生ということでは、中上健次「十九歳の地図」「黄金比の朝」、など参照です。また、1980年といえば、11月には予備校生が金属バットで両親を殺害するという事件が起きている。)
語り手の「私」は、仕事で忙しい夫と2人の子ども(小学4年生と2年生)をもつ主婦。で、その頭の中身というか、考えたり悩んだりしていることが語られている小説、といった感じなのだけれど、なんていうか、夫に対する不満は直接、その夫に言ったほうがいいのではないか、みたいなことも思ってしまう、かな。そんなことを言ったら元も子もないかもしれないけれど(汗)。だから(?)動きというかストーリーみたいなものはあまりなく、場所は紀伊国屋書店の入り口付近、ジョン・レノンの死を報じているその夕刊紙(デイリー)を見せてくれませんか、みたいなことで、「私」は1人の青年から声をかけられ、そのあとお礼に下の喫茶店でコーヒーをおごられたり、代わりに歩いて移動して代々木・原宿のほう、行きつけの店でご飯をおごってあげたりする……くらいの動きで、そのあいだ「私」は過去のことと絡めてあれこれと考えている、みたいな感じ。青年というのは――引用してしまったほうが早いかな、
<「学生ですか」/「はい……いえ、二年前に一度出て来て受験したんですが、全部落ちてしまいました。それで帰って働いていたんですが、すごく焦りを感じて、この夏また出てきました」/「来年また受験するの」/「それがよくわからなくなってきました。アルバイトをしながら予備校に通っているんですが、このところ行く気がなくてサボっています」>(p.17-18)
ひと言でいえば、大学受験ドロップアウトぎみの苦学予備校生。浪人生(予備校生を含む)というのは、平均すれば(平均できれば)高校生や大学生以上に、文字通りの“学生”なのではないか、と私は思っているのだけれど、それはともかく。この人は去年は受験しなかったのかな? ジョン・レノンが殺されたのは1980年?(月は12月?)。この浪人生は1960年生まれ(の20歳)らしいから、少なくとも年齢的には2浪目、ということでいいかもしれない。沖縄から上京して(いまが12月であれば)まだ半年も経っていないくらい、相手が歳上ということもあるだろうけれど、丁寧なカタコト東京弁、になっている。アルバイトは具体的には、道路工事やビルの窓拭きなどをしているらしい。予備校をさぼっていると言っているけれど、次のようにも言っている。
<「僕はこのごろ、大学へ行くのはやめて金を貯めてインドへ行こうかと思ったりします」/「心理学とか宗教はどうするの」/「そういうことも含めて。人間を知るために。(略)」>(p.43)
こういうのはどうなの? シリアスな本を読んだりもしているこの人の場合、しっかりとした考えも持っているみたいだから、やっぱり止めないほうがいいような気も…(よくわからない)。同じ海外に行くのでも、浪人が長引いていてご近所などへの体裁が悪いから留学させちゃえ、みたいな放り出されてしまう金持ちの息子(ちょっと違うけれど、遠藤周作『灯のうるむ頃』の安川など)とは好対照? そう、この浪人生は「私」に対しては何を思っているのかな? たんに話を聞いてもらいたい、くらいの気持ち?(うーん…)。「私」の歳はいくつだっけ? 1960年に17歳の高校生、ということは、いま37歳くらいか(37歳とどこかに書かれていた気もするけれど。作者と同じで1943年生まれ?)。学生運動といっても、60年安保のほうだもんね(なんていうか、感慨?)、小説の最後のへんでは頭の中で(その渦中で亡くなった)樺美智子さんに語りかけているし。あと、関係ないけれど、この作者って意外と“だじゃれ小説”が得意かもしれない。紀伊国屋で『別役実戯曲集マザー・マザー・マザー』という本を買ったという「私」に対しての、青年の反応、
<「マザー・マザー・マザーか。まったく語感の連想だけで買ったんですね。もしこれが、母、母、母だったら……」/言いかけて、彼はハハ、ハハ、ハハと笑い出してしまった。>(p.14)
わ、笑えない…(汗)。このあと「妙薬」と「妙訳」とか、けっこう出てくるのだけれど(下ネタ系もあり)、ただ、そのほとんどが笑いのつぼというか、私の中の感情のポイント(?)を外している感じで、ぜんぜん笑ったりとかができない、上滑りしていく感じ(涙)。
(ちなみに、紀伊国屋書店ということでは、庄司薫<薫くんシリーズ>、苦学予備校生ということでは、中上健次「十九歳の地図」「黄金比の朝」、など参照です。また、1980年といえば、11月には予備校生が金属バットで両親を殺害するという事件が起きている。)
日暮茶坊 『メモリーズオフ アフターレイン vol.3 卒業』
2008年6月11日 読書
ファミ通文庫、2005。シリーズものの途中の巻あるいは最終巻をいきなり読んでみる企画、第4回目くらい。
<大学に合格し、高校卒業を間近に控えた健。順風満帆に見える彼だったが、その胸の内には漠然とした将来に対する不安を抱えていた。同じ頃、受験に失敗した智也も、失意の底にあった。そんなふたりが出会いの先に見いだしたものは……(『卒業』)。その他、卒業する智也にプレゼントを贈ろうと、伊吹みなもが初アルバイトに挑戦する『みなもの贈りもの』、朝凪荘にまつわる幽霊事件を描く『朝凪荘の怪』の二本の短編も収録。>(表紙カバー後ろのところより。)
大学に合格してまだ大学に通う前から将来の心配ってするかな? 大学に入れば入学式とか授業とかあれこれ忙しくてしばらくは(5月くらいまでは?)それどころではないような…。あと、大学に合格した健(苗字は伊波)のほうはまだしも、大学に落ちてしまった智也(苗字は三上)が健くんと同席して、大学生たち(女子2名)の“人生相談”を受けている意味がよくわからない。要するに何が言いたいかというと、個人的にはリアリティがぜんぜん感じられない。だいたい大学に落ちたら、浪人するかどうかそんな話題が出てもいいはずなのに、浪人のろの字も口にしていない、智也くん。でも、大学に落ちて八つ当たりできたりする彼女(今坂唯笑(ゆえ))がいるだけで、もてない男子受験失敗生たちにとってはうらやましいかぎり?(夢物語?)。
なんていうか、でも、正論ばかり言っているというか、意外と健全な小説だと思うから、ラノベな見てくれに反して、これも中学校の図書館に置いておけばいいような小説本かもしれない。あ、いや、中学生を馬鹿にしているわけではないけれど。
<大学に合格し、高校卒業を間近に控えた健。順風満帆に見える彼だったが、その胸の内には漠然とした将来に対する不安を抱えていた。同じ頃、受験に失敗した智也も、失意の底にあった。そんなふたりが出会いの先に見いだしたものは……(『卒業』)。その他、卒業する智也にプレゼントを贈ろうと、伊吹みなもが初アルバイトに挑戦する『みなもの贈りもの』、朝凪荘にまつわる幽霊事件を描く『朝凪荘の怪』の二本の短編も収録。>(表紙カバー後ろのところより。)
大学に合格してまだ大学に通う前から将来の心配ってするかな? 大学に入れば入学式とか授業とかあれこれ忙しくてしばらくは(5月くらいまでは?)それどころではないような…。あと、大学に合格した健(苗字は伊波)のほうはまだしも、大学に落ちてしまった智也(苗字は三上)が健くんと同席して、大学生たち(女子2名)の“人生相談”を受けている意味がよくわからない。要するに何が言いたいかというと、個人的にはリアリティがぜんぜん感じられない。だいたい大学に落ちたら、浪人するかどうかそんな話題が出てもいいはずなのに、浪人のろの字も口にしていない、智也くん。でも、大学に落ちて八つ当たりできたりする彼女(今坂唯笑(ゆえ))がいるだけで、もてない男子受験失敗生たちにとってはうらやましいかぎり?(夢物語?)。
なんていうか、でも、正論ばかり言っているというか、意外と健全な小説だと思うから、ラノベな見てくれに反して、これも中学校の図書館に置いておけばいいような小説本かもしれない。あ、いや、中学生を馬鹿にしているわけではないけれど。
尾崎翠 「第七官界彷徨」
2008年6月10日 読書
いま手もとにあるのは、中野翠編『尾崎翠集成(上)』(ちくま文庫、2002)。書名のほうの下の名前の上「羽」の漢字がちょっと違う……けれど、まぁどうでもいいか。読み始めて、でも、いまいちピンとこなくて30ページくらいで挫折(涙)。「私」(小野町子)は上京して「変な家族」――兄の小野一助と二助、従兄の佐田三五郎――と一緒に暮らし始める。――語り手の「私」も変わっている感じなので、ツッコミ担当がいないんだよね、この小説。読者が自分でツッコミを入れる必要がある、たぶん。なんていうか、ふつうの小説をたくさん読んで、読み疲れたころにもう1度読んでみたら、けっこう面白く読めるかも。
最後まで読んでいないけれど、いつも書いているようなことも書いておかないと。従兄の三五郎が音楽学校を目指している浪人生で、音楽予備校(「分教場」)に通っている。三五郎による意外な名言があるな、例えば、
<「受験生とは淋しいものだ。一度受験して二度目にも受験しなければならぬ受験生はより淋しいものだ。(略)」>(p.16)
<「(略)/あのピアノは、きっと音楽学校に幾度も幾度もはいれなかった受験生が、僕に捨てておいたピアノだよ。その受験生は国で百姓をしているにちがいない。(略)」>(p.34)
など。別に「名言」とは言わないか(汗)。ちなみに、この小説の初出は(本の後ろのほうを見ると)1931年らしい。
(あまり関係ないし、たまにちらっと見かけただけだからよく知らないけれど、いわゆる朝ドラ、NHKの連続テレビ小説『純情きらり』で、宮崎あおい演じる桜子も、確か音楽学校に入るのに浪人していたと思う。上京して変わった住人ばかり(?)がいる下宿に住み始める。あれは、時間的にはもっとあと、かな、そのあとに戦争が始まる(と思う)から。)
最後まで読んでいないけれど、いつも書いているようなことも書いておかないと。従兄の三五郎が音楽学校を目指している浪人生で、音楽予備校(「分教場」)に通っている。三五郎による意外な名言があるな、例えば、
<「受験生とは淋しいものだ。一度受験して二度目にも受験しなければならぬ受験生はより淋しいものだ。(略)」>(p.16)
<「(略)/あのピアノは、きっと音楽学校に幾度も幾度もはいれなかった受験生が、僕に捨てておいたピアノだよ。その受験生は国で百姓をしているにちがいない。(略)」>(p.34)
など。別に「名言」とは言わないか(汗)。ちなみに、この小説の初出は(本の後ろのほうを見ると)1931年らしい。
(あまり関係ないし、たまにちらっと見かけただけだからよく知らないけれど、いわゆる朝ドラ、NHKの連続テレビ小説『純情きらり』で、宮崎あおい演じる桜子も、確か音楽学校に入るのに浪人していたと思う。上京して変わった住人ばかり(?)がいる下宿に住み始める。あれは、時間的にはもっとあと、かな、そのあとに戦争が始まる(と思う)から。)
狗飼恭子 『低温火傷』
2008年6月10日 読書
?〜?、2002、幻冬舎文庫。1冊ずつはけっこう薄め(3冊目はほか2冊よりちょっと厚め)なのだけれど、読んでいていっこうに気分が乗らなくて(というより面白くなくて)読み終わるのにだいぶ時間がかかってしまったよ(涙)。でも、まぁ、タイトルからしてテンションが低くなるのはしかたがないのか。あと(文句ばっかりになってしまうけれど)こういうふうに本が分冊・複数巻になっていると、漫画ほどではないにしてもそろえるのが大変、しかも、古本屋で買うにしても余計にお金がかかってしまって…(涙)。読んでつまらないと、疲れも倍増です。
<音大受験に失敗して生きる意味を見失った音海は、妻子ある男との恋に逃げ道を求めていた。暴力を振るう父、従順な母、死んでしまった兄……家族は誰も助けてくれない。ある日、男との逢瀬から戻った音海は兄の仏壇に供えられた花に気付く。その花には、兄の死と家族に関する秘密が隠されていた。全三話。書き下ろし隔月刊行シリーズ第一話。>(?の表紙カバーより。)
父親が自宅で開いている空手道場に通うこの「妻子ある男」(はじめさん、筒井はじめ)は、どうして主人公と付き合っているのか、が結局のところよくわからん。週1回、近くのラ○ホテルに行って帰ってくるだけ、って、それはあなた(?)やっぱりこのご時世、体だけが目当てなのではなかろうか、とか心配してしまう。というか、お兄さんと友達だったらしいこの人、あとあとお兄さんが亡くなった理由とからんでくるのかと思ったら、最後まで読んでもぜんぜん関係なかったよな、そういえば。どうでもいいことだけど、スタントをしていたお兄ちゃんが亡くなったときセーラー服を着ていた、って、ちょっとあれを思い出すな、亡くなった彼女の制服を着た男の子が出てくる吉本ばなな(よしもとばなな)の「ムーンライト・シャドウ」(『キッチン』)。それはともかく、結局のところ、推理小説っぽい(ミステリー的な)部分、すなわち死の真相というか、お兄さんが亡くなったときの交友関係みたいなものがはっきりしてきても、個人的には、いまいち「だからどうした?」みたいな気分に…。最後のへん、むりやり主人公の成長に結び付けている? これでほんとうに成長した、と言えるだろうかよくわからない。
宣伝文句のなかでは「音大受験に失敗して」とか書かれているけれど、受験する前に手を骨折、要するに音海さん(柳川音海)は試験じたいを受けていない。入試本番の前に手を怪我をしてしまう、というのは、漫画とかでよくありそうな、ドタバタにつながる定番という感じだけれど(小説でもあったような気がするけれど、具体的に何が、とか思い出せない(涙))、ふつうの大学ならともかく、受験大学が音大であると(主人公の楽器はピアノ)片手を怪我しただけで、もうアウトになってしまうんだね…。というか、疑問に思うに実技試験だけなの? 来年また受験する気があるなら(最後のほうでそんな方向の宣言をしているけれど)手が使えなくても、とりあえず筆記試験の勉強をしたり、技術向上のための本を読んだりしていればいいのにね。ま、他人事だからどうでもいいけどさ。
<音大受験に失敗して生きる意味を見失った音海は、妻子ある男との恋に逃げ道を求めていた。暴力を振るう父、従順な母、死んでしまった兄……家族は誰も助けてくれない。ある日、男との逢瀬から戻った音海は兄の仏壇に供えられた花に気付く。その花には、兄の死と家族に関する秘密が隠されていた。全三話。書き下ろし隔月刊行シリーズ第一話。>(?の表紙カバーより。)
父親が自宅で開いている空手道場に通うこの「妻子ある男」(はじめさん、筒井はじめ)は、どうして主人公と付き合っているのか、が結局のところよくわからん。週1回、近くのラ○ホテルに行って帰ってくるだけ、って、それはあなた(?)やっぱりこのご時世、体だけが目当てなのではなかろうか、とか心配してしまう。というか、お兄さんと友達だったらしいこの人、あとあとお兄さんが亡くなった理由とからんでくるのかと思ったら、最後まで読んでもぜんぜん関係なかったよな、そういえば。どうでもいいことだけど、スタントをしていたお兄ちゃんが亡くなったときセーラー服を着ていた、って、ちょっとあれを思い出すな、亡くなった彼女の制服を着た男の子が出てくる吉本ばなな(よしもとばなな)の「ムーンライト・シャドウ」(『キッチン』)。それはともかく、結局のところ、推理小説っぽい(ミステリー的な)部分、すなわち死の真相というか、お兄さんが亡くなったときの交友関係みたいなものがはっきりしてきても、個人的には、いまいち「だからどうした?」みたいな気分に…。最後のへん、むりやり主人公の成長に結び付けている? これでほんとうに成長した、と言えるだろうかよくわからない。
宣伝文句のなかでは「音大受験に失敗して」とか書かれているけれど、受験する前に手を骨折、要するに音海さん(柳川音海)は試験じたいを受けていない。入試本番の前に手を怪我をしてしまう、というのは、漫画とかでよくありそうな、ドタバタにつながる定番という感じだけれど(小説でもあったような気がするけれど、具体的に何が、とか思い出せない(涙))、ふつうの大学ならともかく、受験大学が音大であると(主人公の楽器はピアノ)片手を怪我しただけで、もうアウトになってしまうんだね…。というか、疑問に思うに実技試験だけなの? 来年また受験する気があるなら(最後のほうでそんな方向の宣言をしているけれど)手が使えなくても、とりあえず筆記試験の勉強をしたり、技術向上のための本を読んだりしていればいいのにね。ま、他人事だからどうでもいいけどさ。
幻冬舎アウトロー文庫、2003(どうして官○小説は画像が一発で出てくるの?)。最初のあたりしか読んでいないけれど、いままで読んで挫折したほかの官○小説(長篇1、短篇2)と較べると、これはだいぶまし、ずっと面白いかもしれない。そう、私は活字中毒とかではないけれど、小説の内容以前に文字がちゃんと詰まっているのを見ただけで、ちょっとほっとしてしまうというか。
カバーの紹介文を引用すると、変な(?)検索にかかってしまうかな。…まぁいいか、少しだけ。
<予備校生の直人はある日突然、父親に美夜を紹介された。真っ赤な口紅、胸元から覗く谷間、露になった太腿――(以下省略)>
いままで読んだ○能小説のなかの浪人生は、みんな(といっても3人)童貞だったけれど、この小説ではそうではなくて、高校の同級生で先に大学生になっている彼女、梨花(りか)がいて、なんていうか、最初のへんではその子とやっていたりもする。作者は女性? そういう違いからくる違いもあったりするのかな。
“浪人生小説”としては…、えーと、彼女が先に大学生になっているとか、父親との関係とか、けっこうお約束を踏まえている感じ? 浪人生にかぎらないけれど、母親が夜食をもってきてくれるとか(この小説ではお母さんは継母で、やってしまうわけだけれど)。1視点小説ではないけれど、直人に関してはちゃんと浪人生である、という設定が生きている感じもするかな。
ネタバレしてしまうけれど、最後のほうのページをカンニングしてみると、直人くん、大学にはちゃんと受かってしまう模様。やってばかりいたくせにね?(たいていの男子浪人生にとっては、うらやましいかぎり?)。
カバーの紹介文を引用すると、変な(?)検索にかかってしまうかな。…まぁいいか、少しだけ。
<予備校生の直人はある日突然、父親に美夜を紹介された。真っ赤な口紅、胸元から覗く谷間、露になった太腿――(以下省略)>
いままで読んだ○能小説のなかの浪人生は、みんな(といっても3人)童貞だったけれど、この小説ではそうではなくて、高校の同級生で先に大学生になっている彼女、梨花(りか)がいて、なんていうか、最初のへんではその子とやっていたりもする。作者は女性? そういう違いからくる違いもあったりするのかな。
“浪人生小説”としては…、えーと、彼女が先に大学生になっているとか、父親との関係とか、けっこうお約束を踏まえている感じ? 浪人生にかぎらないけれど、母親が夜食をもってきてくれるとか(この小説ではお母さんは継母で、やってしまうわけだけれど)。1視点小説ではないけれど、直人に関してはちゃんと浪人生である、という設定が生きている感じもするかな。
ネタバレしてしまうけれど、最後のほうのページをカンニングしてみると、直人くん、大学にはちゃんと受かってしまう模様。やってばかりいたくせにね?(たいていの男子浪人生にとっては、うらやましいかぎり?)。
山田詠美 「声の血」
2008年6月9日 読書
色がモチーフ(?)になっている短篇集『色彩の息子』(新潮社、1991/新潮文庫、1994)に収録されている1篇(12篇中の2篇目、12色のうちの赤)。既視感があるというか、似たような内容・似たような文体で、もっとうまく書かれた小説を読んだことがあるような…。“1人称語りかけてくる文体”は、だんだんと語り手の頭のおかしさみたいなものが露呈してくる、みたいなパターンが多い気がするけれど、この小説もそんな感じかもしれない。ちょっとホラー小説っぽくて、自分は(何度も書いている気がするけれど)女性作家によるホラー小説のたぐいがあまり好きではない、みたいなことが再確認できたです。
予備校にも通っているらしい浪人生の「ぼく」(国雄)は、2年前(1年前?)にやってきた「あの人」=新しい母親の“声”にのしかかられている。――なんのこっちゃだな(汗)。受験勉強がはかどらなくて、とかではなくて、<ああ、何もかもが嫌だ。>(p.41、文庫)というのは、虚無感とは違うかもしれないけれど、意外とあの小説――なんだっけな…、おじいちゃん状態だな(涙)、あ、あれか、→集団自殺が描かれた吉村昭「星への旅」、にちょっと似ているのかな(似ていないか)。ちなみに、家族はほかに、父親はもちろん、あと妹がいる。
予備校にも通っているらしい浪人生の「ぼく」(国雄)は、2年前(1年前?)にやってきた「あの人」=新しい母親の“声”にのしかかられている。――なんのこっちゃだな(汗)。受験勉強がはかどらなくて、とかではなくて、<ああ、何もかもが嫌だ。>(p.41、文庫)というのは、虚無感とは違うかもしれないけれど、意外とあの小説――なんだっけな…、おじいちゃん状態だな(涙)、あ、あれか、→集団自殺が描かれた吉村昭「星への旅」、にちょっと似ているのかな(似ていないか)。ちなみに、家族はほかに、父親はもちろん、あと妹がいる。
篠田節子 「38階の黄泉の国」
2008年6月8日 読書
「めであいづき」と読むらしい『愛逢い月』(集英社、1994/集英社文庫、1997)所収。6篇中の2篇目。初めて読んだけれど、篠田節子って意外に面白いな。“浪人”とはぜんぜん関係ない短篇だけれど、最初のへんで、入院しているらしい主人公(菜穂子)が次のように言われている。
<「ママ、僕、受かったよ。第一志望の大学。二浪しないで済んだ」>(p.29、文庫)
親への合格報告で「2浪しないで済んだ」みたいなことって言うかな、ふつう? ――言うか別に。日ごろから親に現状(=浪人生活)への不満をもらしていたのかもしれないし。あと、「ママ」とか言われると(それがいけないわけではないけれど)19歳くらいであるはずの息子が、けっこう幼く感じてしまうな。そうでもない? あ、「ママ」にかぎらないか話か、これは。曽野綾子『太郎物語 高校編』(1973)には、息子の次のようなセリフがある。
<「ねえ。ねえ。母さん。僕一年浪人するからね。その間、あんまり邪魔者扱いにしないでうちに置いてくれる? さもないと僕、首つっちゃうよ」>(p.223、新潮文庫(三十一刷改版))
「ママ」ではなく「母さん」。太郎くん、かわいらしい感じだけれど、でも、もう高校生だから…。母親目線であるからちょっと幼く感じてしまうのかも。これが同じ息子を描いたものでも、父親目線だったりすると変わってくるような気が。ちなみに、この受験生の息子は結局、浪人しないで済んでいる。
話を戻して。息子目線でいえば、浪人中は母親が入院したまま、大学に受かったと思ったら死んでしまうわけだから、ちょっと大変というか、少し同情してしまうというか。しかもこのお母さん、亡くなる前に父親とは違う男性の名前を口に出したりしているし。そう、このあまりよく描かれていない旦那さんは、息子に対してはいい人なのかな?
(同じ本(『愛逢い月』)の6篇目、「内助」という短篇は、主人公の30歳近くになる夫が10年も続けてきた司法浪人をドロップアウトする話。個人的には、司法浪人生に対してはあまり興味がないのだけれど、これも意外と面白かったです。)
<「ママ、僕、受かったよ。第一志望の大学。二浪しないで済んだ」>(p.29、文庫)
親への合格報告で「2浪しないで済んだ」みたいなことって言うかな、ふつう? ――言うか別に。日ごろから親に現状(=浪人生活)への不満をもらしていたのかもしれないし。あと、「ママ」とか言われると(それがいけないわけではないけれど)19歳くらいであるはずの息子が、けっこう幼く感じてしまうな。そうでもない? あ、「ママ」にかぎらないか話か、これは。曽野綾子『太郎物語 高校編』(1973)には、息子の次のようなセリフがある。
<「ねえ。ねえ。母さん。僕一年浪人するからね。その間、あんまり邪魔者扱いにしないでうちに置いてくれる? さもないと僕、首つっちゃうよ」>(p.223、新潮文庫(三十一刷改版))
「ママ」ではなく「母さん」。太郎くん、かわいらしい感じだけれど、でも、もう高校生だから…。母親目線であるからちょっと幼く感じてしまうのかも。これが同じ息子を描いたものでも、父親目線だったりすると変わってくるような気が。ちなみに、この受験生の息子は結局、浪人しないで済んでいる。
話を戻して。息子目線でいえば、浪人中は母親が入院したまま、大学に受かったと思ったら死んでしまうわけだから、ちょっと大変というか、少し同情してしまうというか。しかもこのお母さん、亡くなる前に父親とは違う男性の名前を口に出したりしているし。そう、このあまりよく描かれていない旦那さんは、息子に対してはいい人なのかな?
(同じ本(『愛逢い月』)の6篇目、「内助」という短篇は、主人公の30歳近くになる夫が10年も続けてきた司法浪人をドロップアウトする話。個人的には、司法浪人生に対してはあまり興味がないのだけれど、これも意外と面白かったです。)
歌野晶午 「サクラチル」
2008年6月8日 読書
なんていうか、笑えないな。『ハッピーエンドにさよならを』(角川書店、2007)所収、11篇中の2篇目(本の後ろのほうを見ると、あまり最近のものではないらしいというか、この1篇の初出は『小説すばる』1999年3月号らしい)。おんぼろの借家に暮らしている常盤さんちの秘密とは? みたいな話。浪人生が出てくると言ってしまうだけで、すでにネタバレしてしまうし、言いたいことがほとんど言えないな、この小説(涙)。でも、これも、東大入学が諦めきれないで、長いこと浪人生活を続けている人が読むとよいような内容ではあるかも。東大に入れば(私は入ったことがないけれど)何もかもが帳消しになるような、バラ色の未来が待っている、なんてことは、しょせん幻想だろうしね。このブログでは何度も書いている気がするけれど、やっぱり浪人生活は3年くらいが上限だな、と改めて思った次第です。
[追記]収録本の文庫化は、2010.9。角川文庫。
[追記]収録本の文庫化は、2010.9。角川文庫。
笹沢左保 「裏切りの雨」
2008年6月7日 読書『邪魔者』(光文社文庫)に収録されているみたいなのだけれど、古本屋で探しても見つからず。いま手もとにあるのは、図書館から借りてきた『午後の死刑』(青樹社、1980)で、その10篇中の9篇目が「裏切りの雨」。笹沢左保も初めて読んだけれど、文章がテンポよく言い切られている感じで、意外と読ませられました。
内容というかは、まず、上京して喫茶店でウェイトレスをしていた女の子(上田貴子、18歳)がひとり暮らしをしていた部屋で、半裸状態で殺されているところを発見される。いつだっけ? ――8月くらいか。それで、ちょっとネタバレしてしまうけれど(というか、犯人さがし小説ではなくて、この小説の読みどころは、どうして殺害にいたったのかという部分にあるのだろうけれど)、近所に住んでいる予備校生の伊沢栄二(19歳)が自首をしてくる。<英語の特訓に通っている夜間部は、土曜と日曜だけが休みだった。>(p.238、下段)――これはどういうこと? 昼間も予備校に通っていて、そのほかに夜(夕方)余分に英語の授業を受けている、みたいなことかな。私鉄を利用、帰りは8時くらいになるらしい。
読み終わって思い浮かんだのは(ネタがバレすぎてしまうかな)、TVドラマとか漫画とかでよくありそうな、自分に手を振っているのかと思ったら実は後ろにいる人に振っていたみたいな、それに近いような“ネタ”かもしれない(だいぶ違うかな、わからない)。関係ないけれど、この殺されてしまったウェイトレスの貴子の設定が、個人的にはちょっとハテナ。もともと絵画を志して上京、部屋には本がたくさんでロマンティスト……? いまでいえば、部屋には漫画がたくさん趣味はお絵描き、(喫茶店は喫茶店でも)秋○原にあるメ○ド喫茶でアルバイト、みたいなそんな感じ? 違いますかそうですか(汗)。
内容というかは、まず、上京して喫茶店でウェイトレスをしていた女の子(上田貴子、18歳)がひとり暮らしをしていた部屋で、半裸状態で殺されているところを発見される。いつだっけ? ――8月くらいか。それで、ちょっとネタバレしてしまうけれど(というか、犯人さがし小説ではなくて、この小説の読みどころは、どうして殺害にいたったのかという部分にあるのだろうけれど)、近所に住んでいる予備校生の伊沢栄二(19歳)が自首をしてくる。<英語の特訓に通っている夜間部は、土曜と日曜だけが休みだった。>(p.238、下段)――これはどういうこと? 昼間も予備校に通っていて、そのほかに夜(夕方)余分に英語の授業を受けている、みたいなことかな。私鉄を利用、帰りは8時くらいになるらしい。
読み終わって思い浮かんだのは(ネタがバレすぎてしまうかな)、TVドラマとか漫画とかでよくありそうな、自分に手を振っているのかと思ったら実は後ろにいる人に振っていたみたいな、それに近いような“ネタ”かもしれない(だいぶ違うかな、わからない)。関係ないけれど、この殺されてしまったウェイトレスの貴子の設定が、個人的にはちょっとハテナ。もともと絵画を志して上京、部屋には本がたくさんでロマンティスト……? いまでいえば、部屋には漫画がたくさん趣味はお絵描き、(喫茶店は喫茶店でも)秋○原にあるメ○ド喫茶でアルバイト、みたいなそんな感じ? 違いますかそうですか(汗)。
井上光晴 『乾草の車』
2008年6月7日 読書
画像は関係ない本です。講談社、1967。単行本が手に入らなくて、いま手もとにあるのは『井上光晴新作品集 2』(勁草書房、1970)、その最初に収録されている長篇小説。意外と読みやすかったのだけれど、なんていうか、意外とひっかかりどころみたいなものもなかったかな。いつものように私が読めていないだけかもしれないけれど。
内容というかは、予備校(「東和予備校」)の事務局長、小粥寮一は終戦直後に長崎の炭鉱(「立浦炭鉱」)で起こった自決事件に関して、突然訪ねてきた浅原幸雄という男から、同じ団体(「樸会(しらきかい)」)に所属していて一緒に自決するはずだったのにあなたはなぜ事前に逃亡したのか、などと問い質される。逃亡したのではない、あれは(純粋な)自決ではない、などと説明するのだけれど、相手は納得しない。それが1週間くらい前の話で、今日は幼稚園に通う娘(達子)の運動会に義姉(友子)と来ている。私立大学のグラウンドを借りて行なわれていて、そこの学生による仮装行列も行なわれたりしている(←この小説の雑誌掲載時のタイトルが「仮装行列」だったらしいから、触れておいたほうがいいかと思って)。でも、それを見ていて落ち着かなくなった小粥は、1人で先に家へ帰ると、妻(豊子、流産したあと療養中)から学校から電話があった、と言われる。かけ直すと、宿直員の相羽から学生の1人(工藤康平)が自殺して親類らしい人から予備校の責任を問うような電話があった、と言われる。で、すぐにその学生の家を訪ねてみると、そんな電話は誰がかけたのやら、追い返されるような扱いを受ける。しかも、後日、その自殺の件で浅原とは関係があるのかないのか別の男(藤林孝)から脅されるようなことに。ひと言でいえば、災難続きというか?
一方(そんなに詳しく内容を書いても意味がないかな)予備校生の早坂正衛は、母親(藤子)が書き残した手帳を見たことから、母親の自殺は、療養所の清掃員をしている安田国芳という男が原因ではないかと疑って会いに行ったり、一緒に暮らしている父親、早坂実を問い質したりする。母親が安田に宛てた手紙を読んだりもするのだけれど、死の真相は結局、わからずじまいというか、正衛は最後まで誤解させつづけられる感じ。で、実は(ネタバレしてしまうけれど)浅原幸雄というのは、その父親の早坂実のことだったりする。最後のほうではお父さんのほうも妻の死の真相を疑い出したりもしていて、要するにふつうの(?)推理小説などとは違って真実はうやむやな感じに。――戦後20年くらいの話、“戦争”はまだ終わっていないみたいな小説ではなくて、右翼思想(といっていいの?)がまだ続いている、みたいな小説かな。本の箱についている帯には<長編『乾草の車』の人間たちは、明らかに「勤皇」の黒い影をひきずっている。天皇制の内面を鋭く追及し、右翼の不気味な復活を予見しながら、70年代にかかわる危機の本質を訴える秀作。(略)>とある。仮想行列(「オバQ」や白装束)から感じられる「不気味さ」が、でも、ちゃんと出てきている小説なのかな、個人的にはいまいち感じられなかったのだけれど。
そう、これは言っておかないと。冒頭に出てくる小粥事務局長が、英語講師(「競輪」というあだ名)の授業が休講になったときにその穴埋めとして教室で読んだと言っている「戦時中の受験雑誌に掲載された学生小説」(p.3、上段)というのは、書かれている内容(あらすじ)から言って、たぶん山田風太郎(1922年生まれ)が『螢雪時代』の懸賞小説に応募して1等で当選して掲載された、「国民徴用令」という実在する小説のこと。井上光晴(1926年生まれ)はこれを(?)自分で書いたと言っているらしいけれど(*1)、それはたぶん虚言か誤解か何かで、山田風太郎の日記本『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)を読むと、山田風太郎が自身の体験などからそういう内容の小説を書いていることがはっきりわかる(1943年の話)。私はその「国民徴用令」を読んだことがないので異同がわからないけれど、この冒頭に書かれているあらすじでは、軍需工場で働きながら一高(旧制第一高等学校)の試験に合格するのだけれど、工場に徴用がかかっていてそれがどうにもならならず、結局、一高の入学を取り消して戦争に行くこと(天皇に身を捧げること)を決意する、みたいな話。予備校生たちはそれを聞かされ、失笑を返えす、一高(東大)の入学を取り消すなんてバカだ、みたいなことで。そのことに小粥はショックを受けているらしいのだけれど、そもそもどうしてその小説を読み聞かせたのか、その理由がよくわからないな。戦争中、右翼思想(というか)を持っていたことは隠しているのでは? 勘の鋭い生徒であれば気づいてしまうかもしれないよね。
あと、ちょっと疑問に思ったのは、予備校生が自殺をすると、ふつうその予備校はどういう対応をとるの? この小説のように事務のちょっと偉めの人が出てきて、お悔やみを申しあげます、みたいなことが多いのかな。それだけだとちょっと不誠実な感じがしないでもないな、大学受験や予備校に無関係なことで悩んでいたのなら別だろうけど。この小説の工藤康平くんの自殺の理由というかについては、誰がかけてきたのかわからない謎の電話によれば、昭和になってからの一高の入試問題をすべてやらされた、みたいなことを言っていて。実際、国語の講師(真鶴、元旧制水戸高校の教授)が、希望者にのみだけれど、昭和2年から19年まで入試問題をプリントして配っていたことがわかる。その講師によれば、いまの入試問題はクイズみたいもので、一高の入試問題は「格調が高い」らしい。いまなら例えば「東大の入試問題はすぐれている」みたいなことを言いそうな予備校講師、ってところかな(違うか)。難しい問題をたくさんやらされて解けなくて絶望→受験ノイローゼ、みたいなことってあるかな? 例えば、偏差値がぜんぜん足りていないのにどうしても東大に入りたい人とか、そんなことになりやすいような…、そんなことないか。ちなみに、「昭和十年度国文解釈問題」とそれへ付されたの講師の「あまりうまくない回答」が紹介されている(p.40、上-下段)。
書き忘れていたけれど、小粥が勤めていて正衛が通っているらしい予備校は、御茶ノ水にあるらしい。
*1 作家の井上荒野が『ひどい感じ――父・井上光晴』という本を出していて、そのなかで、ちょっと孫引きっぽくなってしまうけど、
<紀伊国屋ホールでの講演を記録した『小説の書き方』によれば、父がはじめて小説を書いたのは、小学校四年生のときだという。(略)/次が十六歳のときに書いた受験小説。軍需工場で働いている者が希望の学校にすすめないという当時の受験システムをテーマにしたもので、「その矛盾というか、危険な素材には、誰も触れなかったんですよ」「青春小説としてもわりに緊迫した、いい作品だと自負していますよ」と父は語っている。/(略)>(pp.54-5、講談社文庫)
と書いている。
内容というかは、予備校(「東和予備校」)の事務局長、小粥寮一は終戦直後に長崎の炭鉱(「立浦炭鉱」)で起こった自決事件に関して、突然訪ねてきた浅原幸雄という男から、同じ団体(「樸会(しらきかい)」)に所属していて一緒に自決するはずだったのにあなたはなぜ事前に逃亡したのか、などと問い質される。逃亡したのではない、あれは(純粋な)自決ではない、などと説明するのだけれど、相手は納得しない。それが1週間くらい前の話で、今日は幼稚園に通う娘(達子)の運動会に義姉(友子)と来ている。私立大学のグラウンドを借りて行なわれていて、そこの学生による仮装行列も行なわれたりしている(←この小説の雑誌掲載時のタイトルが「仮装行列」だったらしいから、触れておいたほうがいいかと思って)。でも、それを見ていて落ち着かなくなった小粥は、1人で先に家へ帰ると、妻(豊子、流産したあと療養中)から学校から電話があった、と言われる。かけ直すと、宿直員の相羽から学生の1人(工藤康平)が自殺して親類らしい人から予備校の責任を問うような電話があった、と言われる。で、すぐにその学生の家を訪ねてみると、そんな電話は誰がかけたのやら、追い返されるような扱いを受ける。しかも、後日、その自殺の件で浅原とは関係があるのかないのか別の男(藤林孝)から脅されるようなことに。ひと言でいえば、災難続きというか?
一方(そんなに詳しく内容を書いても意味がないかな)予備校生の早坂正衛は、母親(藤子)が書き残した手帳を見たことから、母親の自殺は、療養所の清掃員をしている安田国芳という男が原因ではないかと疑って会いに行ったり、一緒に暮らしている父親、早坂実を問い質したりする。母親が安田に宛てた手紙を読んだりもするのだけれど、死の真相は結局、わからずじまいというか、正衛は最後まで誤解させつづけられる感じ。で、実は(ネタバレしてしまうけれど)浅原幸雄というのは、その父親の早坂実のことだったりする。最後のほうではお父さんのほうも妻の死の真相を疑い出したりもしていて、要するにふつうの(?)推理小説などとは違って真実はうやむやな感じに。――戦後20年くらいの話、“戦争”はまだ終わっていないみたいな小説ではなくて、右翼思想(といっていいの?)がまだ続いている、みたいな小説かな。本の箱についている帯には<長編『乾草の車』の人間たちは、明らかに「勤皇」の黒い影をひきずっている。天皇制の内面を鋭く追及し、右翼の不気味な復活を予見しながら、70年代にかかわる危機の本質を訴える秀作。(略)>とある。仮想行列(「オバQ」や白装束)から感じられる「不気味さ」が、でも、ちゃんと出てきている小説なのかな、個人的にはいまいち感じられなかったのだけれど。
そう、これは言っておかないと。冒頭に出てくる小粥事務局長が、英語講師(「競輪」というあだ名)の授業が休講になったときにその穴埋めとして教室で読んだと言っている「戦時中の受験雑誌に掲載された学生小説」(p.3、上段)というのは、書かれている内容(あらすじ)から言って、たぶん山田風太郎(1922年生まれ)が『螢雪時代』の懸賞小説に応募して1等で当選して掲載された、「国民徴用令」という実在する小説のこと。井上光晴(1926年生まれ)はこれを(?)自分で書いたと言っているらしいけれど(*1)、それはたぶん虚言か誤解か何かで、山田風太郎の日記本『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)を読むと、山田風太郎が自身の体験などからそういう内容の小説を書いていることがはっきりわかる(1943年の話)。私はその「国民徴用令」を読んだことがないので異同がわからないけれど、この冒頭に書かれているあらすじでは、軍需工場で働きながら一高(旧制第一高等学校)の試験に合格するのだけれど、工場に徴用がかかっていてそれがどうにもならならず、結局、一高の入学を取り消して戦争に行くこと(天皇に身を捧げること)を決意する、みたいな話。予備校生たちはそれを聞かされ、失笑を返えす、一高(東大)の入学を取り消すなんてバカだ、みたいなことで。そのことに小粥はショックを受けているらしいのだけれど、そもそもどうしてその小説を読み聞かせたのか、その理由がよくわからないな。戦争中、右翼思想(というか)を持っていたことは隠しているのでは? 勘の鋭い生徒であれば気づいてしまうかもしれないよね。
あと、ちょっと疑問に思ったのは、予備校生が自殺をすると、ふつうその予備校はどういう対応をとるの? この小説のように事務のちょっと偉めの人が出てきて、お悔やみを申しあげます、みたいなことが多いのかな。それだけだとちょっと不誠実な感じがしないでもないな、大学受験や予備校に無関係なことで悩んでいたのなら別だろうけど。この小説の工藤康平くんの自殺の理由というかについては、誰がかけてきたのかわからない謎の電話によれば、昭和になってからの一高の入試問題をすべてやらされた、みたいなことを言っていて。実際、国語の講師(真鶴、元旧制水戸高校の教授)が、希望者にのみだけれど、昭和2年から19年まで入試問題をプリントして配っていたことがわかる。その講師によれば、いまの入試問題はクイズみたいもので、一高の入試問題は「格調が高い」らしい。いまなら例えば「東大の入試問題はすぐれている」みたいなことを言いそうな予備校講師、ってところかな(違うか)。難しい問題をたくさんやらされて解けなくて絶望→受験ノイローゼ、みたいなことってあるかな? 例えば、偏差値がぜんぜん足りていないのにどうしても東大に入りたい人とか、そんなことになりやすいような…、そんなことないか。ちなみに、「昭和十年度国文解釈問題」とそれへ付されたの講師の「あまりうまくない回答」が紹介されている(p.40、上-下段)。
書き忘れていたけれど、小粥が勤めていて正衛が通っているらしい予備校は、御茶ノ水にあるらしい。
*1 作家の井上荒野が『ひどい感じ――父・井上光晴』という本を出していて、そのなかで、ちょっと孫引きっぽくなってしまうけど、
<紀伊国屋ホールでの講演を記録した『小説の書き方』によれば、父がはじめて小説を書いたのは、小学校四年生のときだという。(略)/次が十六歳のときに書いた受験小説。軍需工場で働いている者が希望の学校にすすめないという当時の受験システムをテーマにしたもので、「その矛盾というか、危険な素材には、誰も触れなかったんですよ」「青春小説としてもわりに緊迫した、いい作品だと自負していますよ」と父は語っている。/(略)>(pp.54-5、講談社文庫)
と書いている。
遠藤周作 『灯のうるむ頃』
2008年5月28日 読書文庫は講談社文庫(遠藤周作文庫?)と角川文庫があるっぽいけれど、地元の古本屋(ブックオフを含む)で探しても見つからず。単行本は最初『浮世風呂』というタイトルで1964年に講談社から出ているようだけれど(これも探しても見つからず)、図書館から借りてきて今、手もとにあるのは、そのタイトルで、奥付に「昭和四二年四月二五日 第一刷発行」と書かれたソフトカバーのもの。なんていうか、それほど“人情もの”っぽくないとは思うけれど、でも、けっこうしみじみしてしまうというか。特に読み終わったときに。あと、いくつかの偶然による人のつながりとかは、ちょっと漫画っぽいかなと思う。※以下、内容にまでかなり踏み込んでいますので、まだ読まれていない方はご注意ください。
お父さん牛田善之進は、学会などとは無縁に自分の研究所(とは名ばかりのバラック小屋)で血液に注目して、癌の研究を地味に続けている気の弱い初老の町医者。そんな彼には昔、医学生のころ下宿の近所から聞こえてきたピアノの音がきっかけで憧れていた女性がいて(なんかベタな感じだけれど)、でも、その人(名前は節子)はあとで(ネタバレしてしまうけれど)善之進が卒業前に送られた大学病院で、上下関係に厳しい医学界、絶対に服従しなければならない皮肉屋の助手・加納の婚約者であるらしいことがわかる。要するに失恋の記憶というか。一方、浪人生である息子の龍馬は、占い師から何かいいことがあると言われた日にもかかわらず、駿河台にある学校からの帰りに道で体がぶつかった学生に殴られてしまい、でも、通りがかった犬を連れた女の子から血を拭くようにハンカチを渡されて、みたいな…(これもベタですね)。そんな龍馬が予備校の友達、knife(ナイフ)を「クニフェ」と読んでしまうくらいおバカな、でも人がよくて憎めない感じのおぼっちゃん、バク顔の安川に頼まれて、パーティーで見かけて好きになったと言う女の子を探しに一緒に、通っている学校(パーティーのときに着ていた制服から判明)へ行ってみると、その子はなんと(?)龍馬にハンカチを渡してくれたあの女の子のことで…(名前は加納百合子)。でもだけど、なんだかんだで(これもネタバレしてしまうか)もちろん自分も好きになっているのだけれど、安川には言えず言わず、結局、その子を譲ってしまう感じに…。というか、あいかわらず内容紹介が下手だな、自分(涙)。
これも小説の最後のほうのことを書くことになってしてしまうけれど、(浪人生小説の古典、久米正雄「受験生の手記」と同じく)ダブル・パンチというか、2浪であるらしい龍馬くんは、東京大学(文科だっけ?)を受けて1次試験には合格するものの、2次試験には合格しない、すなわち恋だけでなく大学受験にも失敗してしまう。あ、でも、この浪人生はそれほど恋愛に(精神的にも)邪魔されることなく、「三当四落」とか言ってけっこう勉強しているのだけれど。うーん、いったい何が敗因だったのかな? 小説的には蛙の子は蛙というか、人が生まれながらにして持っている運命(安川くんとの違い参照)みたいなことが言いたいのかもしれないけれど。ま、常識的にはたんに東京大学の壁はやっぱり高い、みたいな理由もあるのかもしれない(主人公が東大にすんなり合格して終わる“受験生小説”って何かあったっけ? ……記憶にないな)。あと、お父さんのほうも(これもネタというか最後のほうに触れることになるけれど)やっとこさ開発した癌の治療薬に関して、学会というか大学教授たちを前にした説明で、息子と同じく落第のような、悲惨な結果になっている。要するにこの小説をひと言でまとめれば、蛙の子は蛙、男はだまって負けるが勝ち、みたいな?(後者は違うか)。このお父さん、そもそも家族(息子のほかに奥さんの滝子と高校生の娘、真弓がいる)の中で権威がない感じで、今風というか、とりあえず受験生の息子に対して、ぜったいに大学に入れよ、みたいな強制的な感じがなくて、その意味ではよいかもしれない。
そう、同じ作者の『ただいま浪人』よりも、この『浮世風呂』(=『灯のうるむ頃』)のほうが好きかもしれないな、個人的には。ちょっとほのぼのしているというか、あまり人が死なないからかな。癌に侵されて亡くなった患者の話は出てくるけれど、(これもネタバレごめんです)現在の患者の杉山さんは間に合ったというか、投薬のおかげでちょっと快復しているし、本当の理由は闇の中だけれど、癌の疑いがあった加納お父さん(加納卓郎)も死なずに生きているし。
(どうでもいいことだけれど、表札がどうのとどこかにちらっと書かれていたと思う。ということは、1960年代からいたんだろうね、表札泥棒受験生。この受験文化(?)は、でも、80年代くらいになって廃れちゃったのかな、90年代になるとまったく忘れられてしまった感が?)
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[追記]上の文章を書いたあとで古本屋に行ったら角川文庫版(1979年)が手に入りました。表紙カバー折り返しのところに書かれている宣伝文句というかコピーというかは次のとおり。
<東京の小さなS医専を出て、学界とも無縁に、町の片隅で一人ひっそりと癌の研究を続ける老医師牛田善之進。浪人で受験勉強にあけくれながらも、異性への想いに身を焦がす息子龍馬。だが、癌の研究成果を学界に発表しようとする父親の前には閉鎖的な学閥の壁が……。そして龍馬の前にかたく閉ざされた大学の門。/医学に、愛に、そして受験にと挫折を繰り返しながらも、自らの悲しみを胸に秘めて懸命に生きていく父子の姿を哀歓をこめて描く傑作長篇。>
お父さん牛田善之進は、学会などとは無縁に自分の研究所(とは名ばかりのバラック小屋)で血液に注目して、癌の研究を地味に続けている気の弱い初老の町医者。そんな彼には昔、医学生のころ下宿の近所から聞こえてきたピアノの音がきっかけで憧れていた女性がいて(なんかベタな感じだけれど)、でも、その人(名前は節子)はあとで(ネタバレしてしまうけれど)善之進が卒業前に送られた大学病院で、上下関係に厳しい医学界、絶対に服従しなければならない皮肉屋の助手・加納の婚約者であるらしいことがわかる。要するに失恋の記憶というか。一方、浪人生である息子の龍馬は、占い師から何かいいことがあると言われた日にもかかわらず、駿河台にある学校からの帰りに道で体がぶつかった学生に殴られてしまい、でも、通りがかった犬を連れた女の子から血を拭くようにハンカチを渡されて、みたいな…(これもベタですね)。そんな龍馬が予備校の友達、knife(ナイフ)を「クニフェ」と読んでしまうくらいおバカな、でも人がよくて憎めない感じのおぼっちゃん、バク顔の安川に頼まれて、パーティーで見かけて好きになったと言う女の子を探しに一緒に、通っている学校(パーティーのときに着ていた制服から判明)へ行ってみると、その子はなんと(?)龍馬にハンカチを渡してくれたあの女の子のことで…(名前は加納百合子)。でもだけど、なんだかんだで(これもネタバレしてしまうか)もちろん自分も好きになっているのだけれど、安川には言えず言わず、結局、その子を譲ってしまう感じに…。というか、あいかわらず内容紹介が下手だな、自分(涙)。
これも小説の最後のほうのことを書くことになってしてしまうけれど、(浪人生小説の古典、久米正雄「受験生の手記」と同じく)ダブル・パンチというか、2浪であるらしい龍馬くんは、東京大学(文科だっけ?)を受けて1次試験には合格するものの、2次試験には合格しない、すなわち恋だけでなく大学受験にも失敗してしまう。あ、でも、この浪人生はそれほど恋愛に(精神的にも)邪魔されることなく、「三当四落」とか言ってけっこう勉強しているのだけれど。うーん、いったい何が敗因だったのかな? 小説的には蛙の子は蛙というか、人が生まれながらにして持っている運命(安川くんとの違い参照)みたいなことが言いたいのかもしれないけれど。ま、常識的にはたんに東京大学の壁はやっぱり高い、みたいな理由もあるのかもしれない(主人公が東大にすんなり合格して終わる“受験生小説”って何かあったっけ? ……記憶にないな)。あと、お父さんのほうも(これもネタというか最後のほうに触れることになるけれど)やっとこさ開発した癌の治療薬に関して、学会というか大学教授たちを前にした説明で、息子と同じく落第のような、悲惨な結果になっている。要するにこの小説をひと言でまとめれば、蛙の子は蛙、男はだまって負けるが勝ち、みたいな?(後者は違うか)。このお父さん、そもそも家族(息子のほかに奥さんの滝子と高校生の娘、真弓がいる)の中で権威がない感じで、今風というか、とりあえず受験生の息子に対して、ぜったいに大学に入れよ、みたいな強制的な感じがなくて、その意味ではよいかもしれない。
そう、同じ作者の『ただいま浪人』よりも、この『浮世風呂』(=『灯のうるむ頃』)のほうが好きかもしれないな、個人的には。ちょっとほのぼのしているというか、あまり人が死なないからかな。癌に侵されて亡くなった患者の話は出てくるけれど、(これもネタバレごめんです)現在の患者の杉山さんは間に合ったというか、投薬のおかげでちょっと快復しているし、本当の理由は闇の中だけれど、癌の疑いがあった加納お父さん(加納卓郎)も死なずに生きているし。
(どうでもいいことだけれど、表札がどうのとどこかにちらっと書かれていたと思う。ということは、1960年代からいたんだろうね、表札泥棒受験生。この受験文化(?)は、でも、80年代くらいになって廃れちゃったのかな、90年代になるとまったく忘れられてしまった感が?)
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[追記]上の文章を書いたあとで古本屋に行ったら角川文庫版(1979年)が手に入りました。表紙カバー折り返しのところに書かれている宣伝文句というかコピーというかは次のとおり。
<東京の小さなS医専を出て、学界とも無縁に、町の片隅で一人ひっそりと癌の研究を続ける老医師牛田善之進。浪人で受験勉強にあけくれながらも、異性への想いに身を焦がす息子龍馬。だが、癌の研究成果を学界に発表しようとする父親の前には閉鎖的な学閥の壁が……。そして龍馬の前にかたく閉ざされた大学の門。/医学に、愛に、そして受験にと挫折を繰り返しながらも、自らの悲しみを胸に秘めて懸命に生きていく父子の姿を哀歓をこめて描く傑作長篇。>
阿久悠 『ぼくといとこの甘い生活』
2008年5月28日 読書集英社、1989。ぜんぜん期待していなかったのだけれど、読み始めてみたらけっこう面白くて。意外におすすめな小説かもしれないです。今年は2008年なので、えーと…、19年前に出た小説本か、そのわりには古びていないような気がする。ただ、格好のつけ方みたいなものは、ひと昔前な感じがするけれどね。あ、作中年もわかるように書かれている、東京ディズニーランドの開園5周年とか、ソウルオリンピックとか。――1988年? この本、欲しいのだけれど、いつものように最寄の古本屋で探してみたものの、見当たらず。いま手もとにあるのは図書館で借りてきたものです。※以下、たぶん内容まで書いてしまうので読まれていない方はご注意。
1人称が「ぼく」であると、やっぱり庄司薫・村上春樹ラインぽく感じてしまうな。でも、この小説の場合、それだけが理由ではないかも。まわりくどい語り口にも似たものを感じるし、主人公が適切な(?)距離を保って付き合い始める女の子の名前が「村上夏子」で、これはいわずもがな「村上春樹」のもじりっぽいし。「キキ」という名前の女の子も出てくるし。ベストセラー小説の『ノルウェイの森』が1987年、「キキ」が出てくる『ダンス・ダンス・ダンス』が1988年だからそのへんか、あるいはそれ以前の村上作品から影響を受けているかもしれない。
「ぼく」=世良大地(19歳、趣味は詩を書くこと)は、予備校に通うために神戸から上京して、いとこの津野秀樹のところで暮らしている。家主というか、世界的に有名な画家である伯父さん(暁介)はいま、壁画を描くために海外に長期滞在中で、不在。いとこの秀樹は劇団を主宰する劇作家で、家にはいろいろな人――名前が出てくるのは、モデルのキキ、女優の平尾由衣、職業はあとのほうでわかるけれど、巨漢の荒木、小男の日色――が出入りしていたり、お手伝いさんというか料理を出してくれる尾崎さんという謎の(?)女性もいたりして、なんていうか、「ぼく」はからかわれて、おもちゃのように扱われながらも、刺激的な生活を楽しんでいる感じ。
タイトルの「甘い」というのは、ちょっとミスリーディングかもしれない。「ぼく」は秀樹に誘惑されたりもしているけれど、BL小説とかではなく(なんでこんなタイトルをつけたのかな?)、ネタバレしてしまうけれど、「いとこ」ということでは、あとのほうで結婚して家を出ていた、秀樹の異母姉の阿佐子が出戻ってきたりする。秀樹も阿佐子も、父親の暁介(ぎょうすけ)の影響をすごく受けているのだけれど、推理小説によくあるような狂気に満ち満ちているような芸術家の家、みたいな感じではなく、もっとずっと風通しはよい感じ。
そうした家(というより邸か)の出来事のほかに、もう1つメインになっているのは、地下鉄で予備校に向うさいに知り合った、同じ予備校に通う村上夏子との付き合い(というか)。「ぼく」とその夏子との会話も、飛躍している感じがちょっと村上春樹っぽいかもしれない。これもけっこうあとでわかるのだけれど、夏子(東京が地元)は両親が離婚していていまマンションで1人暮らし。両親は学生運動の仲間だったらしく、母親はビートルズの大ファンだったらしい。いわゆる第二次ベビーブーム世代というか、団塊ジュニアが19歳になり始めるのは、何年くらいから? 1991年くらい? 1989年(単行本の出版年)ならぜんぜんおかしくないか。であれば、ちょっと早めの“団塊Jr.浪人生小説”といえるかもしれない(「だからどうした?」と言われても困るけれど(汗))。
ただ、大半の小説と同様、“浪人生小説”としての読みどころはあまりないかな。「concentration」という言葉が繰り返されているのと(ヘッドフォンでイージー・リスニングを聴きながら勉強するのって、はかどるの?)、あと、そう、「順調」という言葉について少し書かれていたっけな。浪人生どうしのあいだで、「順調?」といえば、それは勉強が順調かどうかのことらしい。そういえば(思い出した)自分も浪人しているときに「最近、調子が悪くて…」と、浪人生ではない人に言ったら、「大丈夫?」と体の心配をされて、あわてて訂正した覚えがある。これは少しネタバレになってしまうけれど、高校の同窓会の案内がきて出かけてみたら、ほかに4人しか来ていない、要するに仲間どうしの集まりだった……みたいな場面があるのだけれど、自分以外の全員が大学生。なのに、この主人公はあまり気にしていない感じ。現実でもほかの浪人生小説でも、たいてい浪人生がばつの悪い思いをしそうな場面だけどね。
ちなみに、「ぼく」は最初いちおう東大志望。志望の理由は両親(世良富士太、ちづる。母親が津野暁介と兄妹)がどうのこうのだったと思う(←省略してすみません、気になる方は読んでください)。夏子は早稲田大学法学部志望。描かれているのは、4月からクリスマスくらいまで。あ、主人公の親が(少しだけでも)出てくるあたりは、村上春樹っぽくないか。
1人称が「ぼく」であると、やっぱり庄司薫・村上春樹ラインぽく感じてしまうな。でも、この小説の場合、それだけが理由ではないかも。まわりくどい語り口にも似たものを感じるし、主人公が適切な(?)距離を保って付き合い始める女の子の名前が「村上夏子」で、これはいわずもがな「村上春樹」のもじりっぽいし。「キキ」という名前の女の子も出てくるし。ベストセラー小説の『ノルウェイの森』が1987年、「キキ」が出てくる『ダンス・ダンス・ダンス』が1988年だからそのへんか、あるいはそれ以前の村上作品から影響を受けているかもしれない。
「ぼく」=世良大地(19歳、趣味は詩を書くこと)は、予備校に通うために神戸から上京して、いとこの津野秀樹のところで暮らしている。家主というか、世界的に有名な画家である伯父さん(暁介)はいま、壁画を描くために海外に長期滞在中で、不在。いとこの秀樹は劇団を主宰する劇作家で、家にはいろいろな人――名前が出てくるのは、モデルのキキ、女優の平尾由衣、職業はあとのほうでわかるけれど、巨漢の荒木、小男の日色――が出入りしていたり、お手伝いさんというか料理を出してくれる尾崎さんという謎の(?)女性もいたりして、なんていうか、「ぼく」はからかわれて、おもちゃのように扱われながらも、刺激的な生活を楽しんでいる感じ。
タイトルの「甘い」というのは、ちょっとミスリーディングかもしれない。「ぼく」は秀樹に誘惑されたりもしているけれど、BL小説とかではなく(なんでこんなタイトルをつけたのかな?)、ネタバレしてしまうけれど、「いとこ」ということでは、あとのほうで結婚して家を出ていた、秀樹の異母姉の阿佐子が出戻ってきたりする。秀樹も阿佐子も、父親の暁介(ぎょうすけ)の影響をすごく受けているのだけれど、推理小説によくあるような狂気に満ち満ちているような芸術家の家、みたいな感じではなく、もっとずっと風通しはよい感じ。
そうした家(というより邸か)の出来事のほかに、もう1つメインになっているのは、地下鉄で予備校に向うさいに知り合った、同じ予備校に通う村上夏子との付き合い(というか)。「ぼく」とその夏子との会話も、飛躍している感じがちょっと村上春樹っぽいかもしれない。これもけっこうあとでわかるのだけれど、夏子(東京が地元)は両親が離婚していていまマンションで1人暮らし。両親は学生運動の仲間だったらしく、母親はビートルズの大ファンだったらしい。いわゆる第二次ベビーブーム世代というか、団塊ジュニアが19歳になり始めるのは、何年くらいから? 1991年くらい? 1989年(単行本の出版年)ならぜんぜんおかしくないか。であれば、ちょっと早めの“団塊Jr.浪人生小説”といえるかもしれない(「だからどうした?」と言われても困るけれど(汗))。
ただ、大半の小説と同様、“浪人生小説”としての読みどころはあまりないかな。「concentration」という言葉が繰り返されているのと(ヘッドフォンでイージー・リスニングを聴きながら勉強するのって、はかどるの?)、あと、そう、「順調」という言葉について少し書かれていたっけな。浪人生どうしのあいだで、「順調?」といえば、それは勉強が順調かどうかのことらしい。そういえば(思い出した)自分も浪人しているときに「最近、調子が悪くて…」と、浪人生ではない人に言ったら、「大丈夫?」と体の心配をされて、あわてて訂正した覚えがある。これは少しネタバレになってしまうけれど、高校の同窓会の案内がきて出かけてみたら、ほかに4人しか来ていない、要するに仲間どうしの集まりだった……みたいな場面があるのだけれど、自分以外の全員が大学生。なのに、この主人公はあまり気にしていない感じ。現実でもほかの浪人生小説でも、たいてい浪人生がばつの悪い思いをしそうな場面だけどね。
ちなみに、「ぼく」は最初いちおう東大志望。志望の理由は両親(世良富士太、ちづる。母親が津野暁介と兄妹)がどうのこうのだったと思う(←省略してすみません、気になる方は読んでください)。夏子は早稲田大学法学部志望。描かれているのは、4月からクリスマスくらいまで。あ、主人公の親が(少しだけでも)出てくるあたりは、村上春樹っぽくないか。
連城三紀彦 「私の叔父さん」
2008年5月27日 読書
『恋文』(新潮社、1984/新潮文庫、1987)所収、5篇中の5篇目。カメラマンの田原構治(45歳)は、大学受験のために下関から上京していた姪孫(まためい、姪の娘)の香川有美子(18歳)から、「母さんのこと愛してたんでしょう?」と言われ、有美子を生んですぐに亡くなった姪の有希子(構治より6歳下)のことをあれこれと思い出す、みたいな話。――ちょっと艶っぽいかな(そうでもないか)。自転車が出てくるけれど、この小説も“自転車=青春”みたいなことになっている。あと、また○○小説かよ! みたいなことも思ったけれど、それはそれとして。思うに、こういう小説をよいと思ってしまうあたり、自分もやっぱりいい歳をしたおっさんなのかな(あ゛ー)。でも、よい短篇小説だと思うので、お薦めはお薦めです。別に私が薦めなくても、直木賞受賞作(のうちの1篇)だけれど。そういえば、やっぱり叔父(伯父)と姪、叔母(伯母)と甥は結婚できないらしい(知らなかったです)。
有美子は大学(2つ)には受からなかったようだけれど、大学が駄目だったら祖母(香川郁代、構治の姉、62歳)と祖母が経営する喫茶店で働く約束をしていたらしく、とりあえず働き始めていて、浪人生にはなっていない(なので、取りあげる必要はなかったけれど、まぁいいか)。お父さんの布美雄(婿養子に入っているので同じ苗字、構治より3つ歳下)は、自分で開いた水道屋で働いている。
有美子は大学(2つ)には受からなかったようだけれど、大学が駄目だったら祖母(香川郁代、構治の姉、62歳)と祖母が経営する喫茶店で働く約束をしていたらしく、とりあえず働き始めていて、浪人生にはなっていない(なので、取りあげる必要はなかったけれど、まぁいいか)。お父さんの布美雄(婿養子に入っているので同じ苗字、構治より3つ歳下)は、自分で開いた水道屋で働いている。
山本昌代 「デンデラ野」
2008年5月27日 読書同名書(河出書房新社、1989/新潮文庫、1995)所収、3篇中の2篇目。なんていうか、久しぶりにちゃんとした小説を読んだ、と感じた。のは、なんでだろう?(わからない)。とりあえずとても読みやすかったです。
大きな団地(「帷子団地」)に暮らす「(吉田の)おばあちゃん」が主人公というか、視点人物になっている。タイトルは姥捨山というか姥捨野の名前らしい。おばあちゃんは近所をよく散歩しているのだけれど、団地と姥捨野が重ね合わされているような話。家族――息子の利夫(会社員、54歳)、その嫁の文江(主婦、いくつ?)、孫娘の千代子(フリーター、26歳)、孫息子の透(予備校生、19歳)――からおばあちゃんはほとんど無視されている。家族たちの前ではおとなしくしているけれど、でも、頭の中ではけっこう平気な感じで、何かが起こって家族が(もともと心理的には少しばらばらな感じなのだけれど、より)ばらばらになることを、ちょっと期待していたりもする。で、おしゃべりキャラ(?)の千代子が(もちろん故意にではなく)弟の透の頭に鉄製のヌンチャクをぶつけたあたりから、いままでの均衡が崩れてちょっと話が動いていく感じ。――文章が「おばあちゃんは……」という書き方になっていて、それだけでわりとユーモアが出ているかな(一般に、人名+敬称、例えば「○○氏/さんは……」とかでも、ちょっと飄々とした感じになる、かな。伊井直行『服部さんの幸福な日』とか)。
カバーの後ろ(手もとにあるのは文庫本)に書かれている紹介文に「老人問題」という言葉があるけれど、83歳で外に散歩に出かけられるくらいの健康体で、頭のほうもしっかりしている感じだから、そういう意味ではあまり深刻な問題ではないかもしれない。「ネグレクト」(家族が面倒を放棄)というほどでもないし(だから広い意味での「虐待」ではないし)、やっぱり見えない心理的な疎外(疎外感)というか、そっちのほうが問題というかテーマなのかもしれない(←あいからずのボキャ貧ですみません、情けないな自分(涙))。でも、そう、真夜中に散歩していると、認知症徘徊老人と間違われて警察に通報されちゃいそうだよね、いくら本人が呆けていないと主張しても。関係ないけれど、そういえば、家族小説であるにしても、恋愛的なことがぜんぜん絡んでこない小説というのも、珍しいかもしれない。両親のどちらかが不倫して家族がぎくしゃくするとか、未婚の娘が妊娠するとか息子が誰かを妊娠させるとか……って、そんなベタな家族崩壊小説も、ありそうであまりないか(汗)。
本題というか、浪人生についても触れておかないと。どうでもいいけれど、そう、祖母の目から見た浪人生が出てくる小説は初めて読んだかもしれない(だからどうした?と言われても困るけれど)。季節は秋も深くなっていく11月の半ば以降。透くん(1浪)は、その秋に受けた模擬試験の結果もよくなかったみたいだけれど、夏前に受けた模試では<第一志望の早稲田の商学部は二十パーセントの合格率だった>(p.98)そうだ。これはどうなのかな、「志望」というよりは「夢」?(それほど悪くはないか)。そんなことよりも、お姉ちゃんに頭を打たれてからの、ときどき食事中に箸を落としてしばらく空白の表情になる、というのがかなり危ないよねぇ。それに気づいているのが責任を感じているらしいお姉ちゃんと、家族を観察している感じのおばあちゃんだけで、両親は気づいていない。たぶん勉強のさいにもそのフリーズが起こっているだろうし、来年(といってももうすぐでしょ?)の試験本番では大丈夫だったのだろうか、この人。下手をしたら2浪どころでは済まないかもしれない。
大きな団地(「帷子団地」)に暮らす「(吉田の)おばあちゃん」が主人公というか、視点人物になっている。タイトルは姥捨山というか姥捨野の名前らしい。おばあちゃんは近所をよく散歩しているのだけれど、団地と姥捨野が重ね合わされているような話。家族――息子の利夫(会社員、54歳)、その嫁の文江(主婦、いくつ?)、孫娘の千代子(フリーター、26歳)、孫息子の透(予備校生、19歳)――からおばあちゃんはほとんど無視されている。家族たちの前ではおとなしくしているけれど、でも、頭の中ではけっこう平気な感じで、何かが起こって家族が(もともと心理的には少しばらばらな感じなのだけれど、より)ばらばらになることを、ちょっと期待していたりもする。で、おしゃべりキャラ(?)の千代子が(もちろん故意にではなく)弟の透の頭に鉄製のヌンチャクをぶつけたあたりから、いままでの均衡が崩れてちょっと話が動いていく感じ。――文章が「おばあちゃんは……」という書き方になっていて、それだけでわりとユーモアが出ているかな(一般に、人名+敬称、例えば「○○氏/さんは……」とかでも、ちょっと飄々とした感じになる、かな。伊井直行『服部さんの幸福な日』とか)。
カバーの後ろ(手もとにあるのは文庫本)に書かれている紹介文に「老人問題」という言葉があるけれど、83歳で外に散歩に出かけられるくらいの健康体で、頭のほうもしっかりしている感じだから、そういう意味ではあまり深刻な問題ではないかもしれない。「ネグレクト」(家族が面倒を放棄)というほどでもないし(だから広い意味での「虐待」ではないし)、やっぱり見えない心理的な疎外(疎外感)というか、そっちのほうが問題というかテーマなのかもしれない(←あいからずのボキャ貧ですみません、情けないな自分(涙))。でも、そう、真夜中に散歩していると、認知症徘徊老人と間違われて警察に通報されちゃいそうだよね、いくら本人が呆けていないと主張しても。関係ないけれど、そういえば、家族小説であるにしても、恋愛的なことがぜんぜん絡んでこない小説というのも、珍しいかもしれない。両親のどちらかが不倫して家族がぎくしゃくするとか、未婚の娘が妊娠するとか息子が誰かを妊娠させるとか……って、そんなベタな家族崩壊小説も、ありそうであまりないか(汗)。
本題というか、浪人生についても触れておかないと。どうでもいいけれど、そう、祖母の目から見た浪人生が出てくる小説は初めて読んだかもしれない(だからどうした?と言われても困るけれど)。季節は秋も深くなっていく11月の半ば以降。透くん(1浪)は、その秋に受けた模擬試験の結果もよくなかったみたいだけれど、夏前に受けた模試では<第一志望の早稲田の商学部は二十パーセントの合格率だった>(p.98)そうだ。これはどうなのかな、「志望」というよりは「夢」?(それほど悪くはないか)。そんなことよりも、お姉ちゃんに頭を打たれてからの、ときどき食事中に箸を落としてしばらく空白の表情になる、というのがかなり危ないよねぇ。それに気づいているのが責任を感じているらしいお姉ちゃんと、家族を観察している感じのおばあちゃんだけで、両親は気づいていない。たぶん勉強のさいにもそのフリーズが起こっているだろうし、来年(といってももうすぐでしょ?)の試験本番では大丈夫だったのだろうか、この人。下手をしたら2浪どころでは済まないかもしれない。
田辺聖子 「恋の棺」
2008年5月26日 読書
『ジョゼと虎と魚たち』(角川書店、1985/角川文庫、1987)所収、9篇中の3篇目。インテリア関係の店で働いている離婚歴のある女性=宇禰(うね)は、異母姉の末息子で予備校生である有二(19歳)を手玉にとっているというか、そんな感じ。ストーリーはあまりないのだけれど、9月の遅い夏休みに六甲山のホテルにいることを有二に言って、なんていうか、呼び出すようなことを。――どうも浪人生目線で読んでしまうせいか、微妙な感じ。行動というか考えが読まれてしまっている、おもちゃ状態のこの男の子がちょっとかわいそうというか。若いから少しくらい苦い経験はあったほうがよい、みたいなご意見(?)もあるかもしれないけれど、この大事な時期に(いつ頃だっけ? あ、自分で「9月」と書いている)結局ふらてしまうわけだし、受験勉強に多大な心理的な影響を与えてしまいそう。
やっぱり、田辺聖子であるし、女性が読んだほうが面白く読める話なのかもしれない、こういう話は。そういえば、叔母と甥って結婚できないんだっけ? いとこ同士ができる、というのは漫画とかでよく聞く(見かける)けれど。あと、作中の時代がよくわからないな、80年代くらいでいい?
やっぱり、田辺聖子であるし、女性が読んだほうが面白く読める話なのかもしれない、こういう話は。そういえば、叔母と甥って結婚できないんだっけ? いとこ同士ができる、というのは漫画とかでよく聞く(見かける)けれど。あと、作中の時代がよくわからないな、80年代くらいでいい?
落合恵子 「九月の科白」
2008年5月26日 読書『恋の途中下車』(集英社文庫コバルト・シリーズ、1983)所収、3篇中の3篇目。「科白」には片仮名で「セリフ」とルビがふられている。で、主人公が浪人生であるとか、そういうことの前に、そもそも小説としていかがなものか、と思うのだけれど、これは。例えばわかりやすいところでは、諺とかそのたぐいの決まり台詞なんかが。具体的には――こんなところでいいかな、ふられた「ボク」がひとりごちている箇所、
<「よくあることだ。よくあること……。道ばたに、ゴマンと転がってる失恋物語だ。誰が誰に惚れようと、誰と誰がくっつこうと、カラスの勝手でしょオーイだ」>(p.139)
これくらいで一瞬のけぞってしまう私のほうが変なのか?(うーん…)。ま、出版年が出版年(80年代前半)であるし、コバルト文庫であるし、しかたがないかもしれないけれど。
ストーリーというか内容というかは、予備校に通っているらしい「ボク」(中沢望)と石原孝夫とは友達で、「ボク」には高校1年のときから付き合っている彼女、三枝涼子がいたのだけれど、夏期講習もあったし、最近あまり電話もしていなかったところ、いつの間にか孝夫と涼子が付き合い始めていた、みたいなことに。3人は高校(「都立N高校」)の元同級生で、主人公の望くん以外の2人は大学生なのだけれど、浪人生の主人公が先に大学生になった元同級生の彼女を、ほかの大学生にとられてしまう、みたいなことは、小説や漫画なんかではたぶんかなりのお約束。この小説のように仲のよい友達にとられることは少ないかもしれないけれど。で、そのあとは、失恋したと思ったら目の前に元気な感じの女の子が現れて…、みたいなこれまた既視感のある展開になっている。ちなみに、実家は仙台市で、親は産婦人科を開業しているらしいけれど、「ボク」は高校から東京に出て、出版社に勤める「姉貴」と神楽坂のマンション(2DK)に暮らしている。
で、ちょっとご都合主義的な感じがするけれど、女の子が登場してきたことで、恋愛についても進路についても、一挙に解決というか。その知り合った女の子、糸井冬子(高校3年生)が神楽坂にある料亭(『イト』)の娘で、祖母や母親の望むままにその料亭を継ぐのは嫌だと思っているのだけれど、それを聞いて冬子のお祖母さんとも話をした主人公は、自分はなんとなく親の跡を継ごうと医学部に入ろうとしていたのだけれど、それでいいのかいやよくない(?)と思うようになって、最後、医者になるのはやめる、みたいなことに…。“浪人生小説”としてはどうなのかな、深刻さが足りないというか、やっぱりもっと葛藤があったほうがいい?(誰に尋ねているのやら(汗))。
そういえば、本文の最後にこの小説の初出が書かれていて、<『小説ジュニア』55年9月号>(p.221)とのことだけれど、本文中には「ボク」の元彼女の涼子について、今年の2月に「国立一期校」に合格した、みたいなことが書かれていて。…何が言いたいかというと、昭和55年(1980年)ってもう共通一次試験が始まっているよね?(2年目かな)。作中の年代を敢えて前倒ししたのか、たんに作者の中の受験情報が更新されていないのか…。ま、どうでもいいことだけれど。
<「よくあることだ。よくあること……。道ばたに、ゴマンと転がってる失恋物語だ。誰が誰に惚れようと、誰と誰がくっつこうと、カラスの勝手でしょオーイだ」>(p.139)
これくらいで一瞬のけぞってしまう私のほうが変なのか?(うーん…)。ま、出版年が出版年(80年代前半)であるし、コバルト文庫であるし、しかたがないかもしれないけれど。
ストーリーというか内容というかは、予備校に通っているらしい「ボク」(中沢望)と石原孝夫とは友達で、「ボク」には高校1年のときから付き合っている彼女、三枝涼子がいたのだけれど、夏期講習もあったし、最近あまり電話もしていなかったところ、いつの間にか孝夫と涼子が付き合い始めていた、みたいなことに。3人は高校(「都立N高校」)の元同級生で、主人公の望くん以外の2人は大学生なのだけれど、浪人生の主人公が先に大学生になった元同級生の彼女を、ほかの大学生にとられてしまう、みたいなことは、小説や漫画なんかではたぶんかなりのお約束。この小説のように仲のよい友達にとられることは少ないかもしれないけれど。で、そのあとは、失恋したと思ったら目の前に元気な感じの女の子が現れて…、みたいなこれまた既視感のある展開になっている。ちなみに、実家は仙台市で、親は産婦人科を開業しているらしいけれど、「ボク」は高校から東京に出て、出版社に勤める「姉貴」と神楽坂のマンション(2DK)に暮らしている。
で、ちょっとご都合主義的な感じがするけれど、女の子が登場してきたことで、恋愛についても進路についても、一挙に解決というか。その知り合った女の子、糸井冬子(高校3年生)が神楽坂にある料亭(『イト』)の娘で、祖母や母親の望むままにその料亭を継ぐのは嫌だと思っているのだけれど、それを聞いて冬子のお祖母さんとも話をした主人公は、自分はなんとなく親の跡を継ごうと医学部に入ろうとしていたのだけれど、それでいいのかいやよくない(?)と思うようになって、最後、医者になるのはやめる、みたいなことに…。“浪人生小説”としてはどうなのかな、深刻さが足りないというか、やっぱりもっと葛藤があったほうがいい?(誰に尋ねているのやら(汗))。
そういえば、本文の最後にこの小説の初出が書かれていて、<『小説ジュニア』55年9月号>(p.221)とのことだけれど、本文中には「ボク」の元彼女の涼子について、今年の2月に「国立一期校」に合格した、みたいなことが書かれていて。…何が言いたいかというと、昭和55年(1980年)ってもう共通一次試験が始まっているよね?(2年目かな)。作中の年代を敢えて前倒ししたのか、たんに作者の中の受験情報が更新されていないのか…。ま、どうでもいいことだけれど。
宮本輝 「途中下車」
2008年5月25日 読書
『二十歳の火影』(講談社、1980/講談社文庫、1983)というエッセイ集に収録されている1篇。エッセイといってもけっこう小説っぽくて、小説としても扱われているらしい。手もとにあるのは文庫本で、たったの3ページ。内容はタイトルそのままというか、友達と2人で(大阪から)東京に私立大学を受験に行く列車のなかで、京都から乗ってきた受験帰りの美人の女の子(高校生)に、あれこれ悩んだりした末に声をかけて、話も盛りあがって。その子は三島で降りてしまうのだけれど、「私」と友達も受験に行くのがなんだかばからしくなり、熱海で降りて(受験費用を使って!)温泉など、伊豆の旅に……。女の子との後日談みたいなものもあるのだけれど、何が驚きかといえば、この“受験敵前逃亡エッセイ”(?)の初出が、受験雑誌の『螢雪時代』(1978年7月)である、ということ。受験生の人はまねしたらあかんよね? 佐藤春夫なんかも、雷が鳴っているからとか言い訳して一高(いまでいえば東大)の受験に行かなかったらしいけどね。
ちなみに、同書に収録されている「青春の始まりの日」というエッセイには、浪人生(3浪かな、苦学生)が出てきている。浪人生は関係ないけれど、同書では「土曜日の迷路」という、『螢雪時代』の姉妹誌『高一時代』(1980年3月)に掲載されたエッセイも読める。
[追記(2016.06.22)]このページがときどき検索(訪問)されているんだけど(汗)、感想を書くときには「受験」だけでなくて「嘘」とか「死」などもキーワードとしたほうがいいかもしれません。電話の件は大事だよね(?)。タイトルの「途中下車」も文字通りの意味だけでいいのか、とか一応、検討したほうがいいかも。(私にはよくわからないですが。)
ちなみに、同書に収録されている「青春の始まりの日」というエッセイには、浪人生(3浪かな、苦学生)が出てきている。浪人生は関係ないけれど、同書では「土曜日の迷路」という、『螢雪時代』の姉妹誌『高一時代』(1980年3月)に掲載されたエッセイも読める。
[追記(2016.06.22)]このページがときどき検索(訪問)されているんだけど(汗)、感想を書くときには「受験」だけでなくて「嘘」とか「死」などもキーワードとしたほうがいいかもしれません。電話の件は大事だよね(?)。タイトルの「途中下車」も文字通りの意味だけでいいのか、とか一応、検討したほうがいいかも。(私にはよくわからないですが。)
短篇集ではないのだけれど、『日に新たなり 続・那珂川青春記』(実業之日本社、1999/集英社文庫、2002)の最初の1篇というか1話というか、全5篇(話)のうちの。“続”ではないほうが、主人公の高校生、大山茂が大学の受験に失敗したあたりで終わっているので、続篇はてっきり“浪人生編”かと思って買ってしまったら、時間が2年も飛んでしまっている(あーあ)。大学の寮の生活が描かれている連作的な小説なのだけれど、でも、この最初の1篇(1話)は、大学受験の前夜から翌日にかけてのことが書かれている。
東京大学の受験に2度失敗した茂くんは、今年は東京外語大学(イタリア科)を受ける予定。栃木県の黒磯から出てきて学生寮に泊まっているのだけれど、翌日に2次試験をひかえて、眠ろうとしても眠れないでいると、だいぶ年上の先輩(もちろん受かれば)らしい男(衛藤)がやってきて、話しかけられ、お腹すいてないか、みたいなことで、近くにラーメン屋へ連れて行かれ、あれこれと話をしたり、ラーメンを食べるだけでなくお酒も飲んだりする……。はっきり断れよ、茂! とか思うけれど、まぁ結局大学には受かるわけだから小説的には結果オーライなのかな。でも、現実問題(?)ふつう、試験前日に他人のお酒に付き合ったら駄目だよね、それで翌日起きれなくて……みたいな漫画的なことになってしまうから。浪人生は関係ないけれど、試験が終わったあと、茂は高校の同級生で同じく2浪していて同じ大学を受けた青木と映画を見たり、またお酒を飲んだりしたらしい。――小説を読んでいると、受験生が最後の試験が終わったあとに映画を見る、というのはけっこうある話かな。あと、小説だと(やっぱり小説家が書くからか)本を何冊か買って帰る、とかもときどき見かける気がする。
読んでいて、個人的にああちょっとわかるな(あくまで「ちょっと」)と思ったのは、前年、前々年の受験失敗の原因について書かれている箇所。
<大学受験に失敗した原因ははっきりしていた。自信過剰と高望みをしすぎたせいだ。自分の実力にあった大学を選べばよかったのだ。/二度の受験失敗は、茂の自己過信を完膚無きまでに叩きのめした。世間には頭のいい連中がわんさといる。そのことを嫌というほど、味わった挫折だった。浪人をして、茂はだいぶ夢と現実をわきまえるようになった。>(p.11、文庫)
不合格校が東大であると受かった人より自分は頭がよくない、みたいな挫折のしかたもあるのか。へー。でも、どこの大学であれ、努力すればどうにかなるだろう、みたいな信念も、1浪して2度目の受験に失敗したりすると、たんなる楽観だったこともわかったりするしね。夢と現実、みたいな問題は、受験にかぎらず、人生において繰り返し現れる問題…というより悩みかな。←何が言いたかったのか自分でもわからなくなってきたけれど、まぁいいか(今日もテキトーだ(汗))。
書き忘れていたけれど、年代ははっきりしている。東京オリンピックが2年後というと、1962年、か。自伝的な小説らしいから、作者もたぶん1960年、1961年には浪人していたのかもしれない。茂くんは予備校には通っていなかったのかな?(書かれていないな)。茂が東外大を選んだ理由は、受験科目がほかの国立大学よりも少ないことだけでなく、東京オリンピックがらみで<外語生は通訳や語学のアルバイトでひっぱりだこになるはずだ>(p.12)と考えてのことらしい。
東京大学の受験に2度失敗した茂くんは、今年は東京外語大学(イタリア科)を受ける予定。栃木県の黒磯から出てきて学生寮に泊まっているのだけれど、翌日に2次試験をひかえて、眠ろうとしても眠れないでいると、だいぶ年上の先輩(もちろん受かれば)らしい男(衛藤)がやってきて、話しかけられ、お腹すいてないか、みたいなことで、近くにラーメン屋へ連れて行かれ、あれこれと話をしたり、ラーメンを食べるだけでなくお酒も飲んだりする……。はっきり断れよ、茂! とか思うけれど、まぁ結局大学には受かるわけだから小説的には結果オーライなのかな。でも、現実問題(?)ふつう、試験前日に他人のお酒に付き合ったら駄目だよね、それで翌日起きれなくて……みたいな漫画的なことになってしまうから。浪人生は関係ないけれど、試験が終わったあと、茂は高校の同級生で同じく2浪していて同じ大学を受けた青木と映画を見たり、またお酒を飲んだりしたらしい。――小説を読んでいると、受験生が最後の試験が終わったあとに映画を見る、というのはけっこうある話かな。あと、小説だと(やっぱり小説家が書くからか)本を何冊か買って帰る、とかもときどき見かける気がする。
読んでいて、個人的にああちょっとわかるな(あくまで「ちょっと」)と思ったのは、前年、前々年の受験失敗の原因について書かれている箇所。
<大学受験に失敗した原因ははっきりしていた。自信過剰と高望みをしすぎたせいだ。自分の実力にあった大学を選べばよかったのだ。/二度の受験失敗は、茂の自己過信を完膚無きまでに叩きのめした。世間には頭のいい連中がわんさといる。そのことを嫌というほど、味わった挫折だった。浪人をして、茂はだいぶ夢と現実をわきまえるようになった。>(p.11、文庫)
不合格校が東大であると受かった人より自分は頭がよくない、みたいな挫折のしかたもあるのか。へー。でも、どこの大学であれ、努力すればどうにかなるだろう、みたいな信念も、1浪して2度目の受験に失敗したりすると、たんなる楽観だったこともわかったりするしね。夢と現実、みたいな問題は、受験にかぎらず、人生において繰り返し現れる問題…というより悩みかな。←何が言いたかったのか自分でもわからなくなってきたけれど、まぁいいか(今日もテキトーだ(汗))。
書き忘れていたけれど、年代ははっきりしている。東京オリンピックが2年後というと、1962年、か。自伝的な小説らしいから、作者もたぶん1960年、1961年には浪人していたのかもしれない。茂くんは予備校には通っていなかったのかな?(書かれていないな)。茂が東外大を選んだ理由は、受験科目がほかの国立大学よりも少ないことだけでなく、東京オリンピックがらみで<外語生は通訳や語学のアルバイトでひっぱりだこになるはずだ>(p.12)と考えてのことらしい。