短篇集『時鐘館の殺人』(中公文庫、1998)に収録されているいちばん短い1篇(5/6、20頁くらい)。「あとがき」を読むとノベルス版が出ているようだ(何ノベルス?――あとで検索すればいいか)。※以下、ネタバレ注意です。すみません。

8月半ばのある日の夜、浪人2年目、受験勉強よりもアルバイトが忙しくなっている主人公、善郎(高岡善郎)がアルバイトから1人暮らしをしているワンルーム・マンションに帰ってくると、留守番電話に見知らぬ女性からのどうやら間違い電話らしいメッセージが残されている。その後も家に帰ると、同じ女性からのメッセージがたびたび残されていてそれが日増しに狂気を帯びたものになってくる、みたいな話。ネタバレしてしまうけれど、電話口なのに(あなたの)子どもがう、産まれるー、みたいなこととか(怖)。最後にオチはあるのだけれど、ミステリーというよりホラーな感じかもしれない(どう違うのか、よくわからないけれど)。

ところで、地元に現役のときに同じ大学(東京の大学?)を受けて仲良く落ちて、いまは短大に通っている彼女(片瀬真紀)がいるらしいし、主人公はどうして地元で浪人しなかったのかな? 実家から通える範囲に予備校がないのかな。彼女のほうも、どうして短大(たぶん滑り止め)で妥協してしまって、彼と一緒に浪人しなかったのか。両親が浪人を許してくれない、とかそういう理由でもあるのか、それとも本人自身が浪人するくらいなら彼氏と離れて暮らしたほうがいい、とか思っているのか。そう、どうでもいいことだけれど、受験生どうしで付き合っていて、受験の結果、男の子=東京で浪人生、女の子=地元で大学生(短大生)という状況になっている小説は始めて読んだ(たぶん)、短めの短篇だけれど。

善郎くんは、彼女というか真紀から手紙が何通も来ても留守電にメッセージが残されていても、3月に大学不合格を告げて以来、1度も連絡をしていないらしい。――音信不通は5ヶ月くらい? 現実であれば、地元にいる彼女に新しい彼氏ができたりとかして、自然消滅してしまいそうな感じだけれどね。あ、でも、高校1年のときから付き合っているらしいから(4年以上?)それほど浅い、簡単に別れられるような付き合いでもなかったのか。連絡をしていない理由は――ちょっと引用させてもらうと、

 <真紀が嫌いになったのではなかった。この大都会の中で、いつのまにか人生の道しるべを見失い、途方に暮れている自分が嫌になりはじめていたのだ。そんな自分を、知り合いの誰にも見られたくない。>(p.237)

バイトにはまっていたり(逃げていたり)、東京に負けそうになっていたり(?)、浪人生というよりちょっと大学生の心理っぽいかな。モラトリアムというかスチューデント・アパシーというか。話が逸れていくけれど、浪人生が出てくる小説を読んでいて、ときどき「モラトリアム」という言葉を見かけるけれど、なんか違和感がある。借金返済猶予期間――留年を繰り返している大学生などとは違って、浪人生には本来、社会的に猶予期間なんて与えられていないと思うのだけれど、どうだろう? 勉強しろや=すぐに金返せや、という感じ? そのへん、大学生(あるいは高校生)と浪人生との違いはけっこう大きいような気も。

善郎くん、アルバイトはしていても、昼間はちゃんと(?)予備校には通っているらしいけれど、成績は現役のときよりも落ちている、とのことだし、来年ちゃんと当初の志望大学には合格できるのかな? このままでは無理かもしれないけれど、でも、まだ入試までに3、4ヶ月あるから、どうにかなっているかもしれない。
 
同じ作者の長篇小説『学問ノススメ』(全3冊)に形を変えたりして含まれている部分がけっこうあるし、それと比べるととても短い(すなわち、浪人生について書かれていることも少ない)かもしれないけれど、この短篇も個人的にはけっこうお薦めです。短篇集『イエスタデイ』(徳間書店、1989/徳間文庫、1992)に収録されている。文庫は講談社文庫からも出ているようだけど、手元にあるのは徳間文庫版。いつものようにカバーに載っているコピー(宣伝文句)を引用してみると、

 <それは高校二年の秋、授業中、密かに回覧されてきた奇天烈な原稿から始まった。東京オリンピックの年だ。四人で同人誌を作った。十円で売った。『平凡パンチ』が五十円だった。/高三の春。「勉強やる気せんな」「あったり前だがや。あんなもん好きでやる奴おれせんて」/受験直前、自家製の単行本を出した。二百五十枚の大長篇も。あの日々が、彼らの始まりだった。パスティーシュ作家の半自伝的青春連作。>

とのこと。これが高校生編である表題作についてで、「続・〜」はその続きの浪人生編。1966年(東京五輪の2年後)、4人の仲間のうち、主人公の志水義夫ともう1人(田中靖昭)が浪人に。1つ年下の弟(幸夫)も受験生。――浪人生だから勉強しなくてはいけなくて、もちろんその自覚もあるのだけれど、小説を書いてまた同人誌を出したり(どういう小説を書いたのかも、具体的に書かれている)、予備校に行かずにいかがわしさ(?)で評判になっている映画を見に行ったり…。そういうのは、なんだろうね、個人的には、自分の浪人経験に照らしてもよくわかるから(小説は書いていないし、映画も見ていないけれど)、たんなる「現実逃避」のひと言では片付けたくない気はする。ただ、そういう浪人中にした受験勉強以外のことが、将来の夢というか仕事につながれば(もちろんあとから振り返ってしかわからないことだけど)サボタージュでも許されてしまう、みたいな面もあるのか、世の中(世間)はなんて現金? 小説の最後には、志水くんはのちのちというか、現在(イエスタデイではなくトゥデイ?)小説家になっている、ということが書かれている。(持っていないけれど、確か作者=清水義範は映画についての本も何か出していたと思う。)

で、ひと言でいえば、持つべきものは(生涯の)友人たち、みたいな話なのかな(ちょっと違うか)。受験に関しても、田中くんが手紙に同封してきた手作りの問題がきっかけで、問題の出し合いになって、結果、それが大なり小なり志水くんの合格に結びついたようであるし。そう、関係ないけれど、個人的にちょっとうらやましいと思ったのは、同じ予備校に高校のときの友達がいる、ということ。自分の場合、コミュニケーションが全般的に苦手というのもあるけれど、予備校を休んだときにノートを借りたりするのにだいぶ苦労した覚えがある。親切に貸してくれた人も多いけれど。友達がいればそんな苦労はあまりいらないよね(もちろん親しき仲にも礼儀あり、だろうけれど)。思うに、予備校というのも、結局、勉強しに行くというよりも、人に会いに行くという面が大きいのかもしれない。「会う」というか、友達であれば予備校以外でも会えるんだろうけれど、なんていうか、友達も通っていると思えば多少行く気にもなる、というか。でも、志水くん、友達がいてもかなりさぼっていたみたいだけれど。

ところで、「予備校が受験の時代の大道具とすれば、参考書は小道具である」(竹内洋『立志・苦学・出世』、p.32)ということなので、小道具のほう、その代表選手(?)な『豆単』(有名な英単語集)がちらっと出てきているので、そこにも触れておきたい。少し引用してもだいじょうぶかな、

 <義夫も、まるっきり勉強しないわけではなかった。豆単も、above, abroad, abundantくらいまではいったのである。だがそれは、豆単の二ページ目だった。>

abundant……単語集自体をabandonでabandonする(=捨てる)みたいなよくある冗談よりは先まで進んでいる。そういえば、『豆単』というのは、above(〜の上に)とかabroad(外国へ)とか、中学校で習うような単語も入っているんだよね。いま現在売られている版を重ねたものもそうなのかな?
 
『下町探偵局 PART?』に収録されている1篇というか、全4話のなかのいちばん短い「第三話」。手元にあるのは1999年に出ているハルキ文庫のものなのだけれど、単行本は、PART?巻末の「解説」(日下三蔵)によれば、1977年に潮出版から出ているらしい。文庫化もハルキ文庫以前に数度行なわれているようだ。詳しいことは「解説」を読んだほうが早いです。――そんなことはどうでもよくて。まだ?のほうしか読んでいないけれど、あまり期待していなかったせいか、意外と面白かったです。内容は、タイトルに反して(?)あまり推理小説っぽい話ではないけれど、※以下、いつものようにネタバレ注意です。

 <所長の名前が下町[しもまち]誠一、だから名付けて「下町[しもまち]探偵局」――ところが場所が東京・両国なものだから誰もが“シタマチ”探偵局と呼ぶ。平和な下町ゆえ、所長以下五人の局員たちはのんびりと依頼人を待つ毎日。久しぶりの依頼も、近所の中華そば屋で働く女の子からのものだった。あるお屋敷にお手伝いさんとして住み込みたいので、その家の内情を調べてほしいというのだが……。人情味とペーソスあふれる連作ミステリー第一弾。>(カバーより。[ ]はルビ)

全体的にこの「しもまち/したまち」的なずれが、名前とかだけではなく、内容的にも多いかもしれない。「第三話」の冒頭、下町は探偵事務所と同じ建物の部屋で暮らしているのだけれど、夜、寝ていたところを救急車の音で起こされる。あとで大家のお婆さんが教えてくれたところによると、近所のアパートで浪人生(1浪)が睡眠薬を飲んで自殺を図ったらしい(未遂に終わったらしい)。その浪人生は同じ下町にあるメリヤス屋の竹下のいちばん上の息子で、家がうるさいのでアパートは勉強部屋として借りていたらしい……って、そんなことはどうでもいいか(汗)。一方、そのころ、裏口入学の斡旋の依頼ではなく、ある大学(東日本医大)の裏口入学の噂などについて調べて欲しい、という依頼をしてきた女性(野口昌代)に関して、局員の1人である岩瀬(岩瀬五郎)が調べている。ネタバレしてしまうけれど、その女性にはその医大を目指している浪人生(2浪)の息子(弘治)がいて、別れてきた先というか元夫の一家は医師の家系らしくその医大卒の人がたくさんいる、みたいな家であることがわかる。――2人の浪人生に接点はまったくないのだけれど(「しもまち/したまち」的なずれ?)、浪人生といえば例によって、自殺、あるいは医学部志望、みたいなイメージなのだろうか、やっぱり。なんていうか、何か面白いオチがあるという小説でもなくて。人情味があるというか、読み終わってしみじみしてしまうというか。

浪人生目線ではなく、やっぱり親の目線になっているのかな。親の目線というか、親は子どもに対してどう接するべきか、みたいなことも語られている。浪人生小説(そんなジャンルはない)としては、個人的にはクエスチョン・マークな感じです。少なくとも浪人生が読んで面白い小説、という感じではないと思う。小説としては(繰り返しになるけれど)個人的には意外と面白かったです。ちょっと昔の東京の下町やその住人を描いた小説として。PART?のほうも時間があればとっとと読みたい。そう、老人介護・福祉とか貧富の格差とか(ネタバレしてしまうけれど)公害問題・薬害問題とか、けっこういろいろと考えさせられる小説(集)だったかも。

何かいつも書いているようなことで書き忘れたことってあるかな。――あ、季節は、冬の手前くらいの秋。時代はよくわからないけれど、1977年…ではなくて、1976年かな。あと、そう、あまり書けなかったけれど、「しもまち/したまち」的なずれ、というか、けっこう不思議な内容的/形式的なリンクが多い、この小説。例えば、飛び込みのお客を意味する隠語らしい「窓口の客」と、どういう意味かよくわからないけれど「第三話」のタイトル「裏口の客」とか。あと、「第ニ話」の最後が電車に飛び込む人身自殺で終わっているのだけれど、「第三話」の冒頭が睡眠薬を飲んでの薬物自殺で始まっている、みたいなこととか。ほかには(何か以前に読んだ小説でもそうだったけれど)ぜんぜん関係のない登場人物に同じ姓または名が付いていることとか(別にそれがいけないというわけじゃないけれど)。ずれ、というか、そういう微妙な異同が多いような。それがどういう読書効果を与えているのか、私にはわからないけれど。
 
単行本『ZOO』(集英社、2003)、文庫は分冊になっていて『ZOO 2』(集英社文庫、2006)に収録されている1篇。手元にあるのは文庫のほう(6篇中の5篇目)。※以下、ネタバレ注意です。ほかはすべて雑誌に1度掲載されたものらしいけれど、この1篇だけは単行本書き下ろしであるらしく、それがわからないと意味がわからない(というか特に面白くもない)箇所がある。その箇所だけでなく、メタフィクションというと言い過ぎかもしれないけれど、ちょっと自己言及的な感じが数箇所ある。たぶんそういう所も面白いのだろうけれど、なんていうか(今日も歯切れが悪い…)、ここが面白いんだろうな、というのはわかるのだけれど、個人的にはどこが面白いのか(反語)、みたいなことは思ってしまう。

例えば、「ほっといてください。ほっといてください。僕のことなんか僕のことなんか」(p.168)と言うハイジャック犯の男の子に対して、客室乗務員が「ほっとけません。仕事ですから!」(同頁)と言う箇所。ふつうなら(?)ちょっとクスっとしてしまうのではないかと思うのだけれど、私にはできないというか、どうも淡々と読んでしまう(なぜ?)。だから(繰り返すけれど)、ここが面白いんだろうな、というのはだいたいわかる。でも…、という感じ。登場人物の言葉のやりとりだけでなく、行動――例えば(だいぶネタバレしてしまうか)、「私」が自分は死んで幽霊になったと思っていて、拳銃を持っている犯人に近づく場面(まぁ漫画っぽいかな)なんかも同じで、個人的にはどこが面白いのだろうか(いや、面白くない)みたいな感想です。

ところで、ノストラダムスの大予言って信じていました? あれってなんだったんだろうな…。あまり関係ないけれど、あのドラマ、日本テレビ系で放送されていた『すいか』(小林聡美とかともさかりえとかが出ていた)は好きだったけれどね。――それはそれとして。これいつくらいの話なのかな、ま、1999年よりはあとの話だろうけれど。「私」は、話し掛けてきた隣の座席のセールスマンに対して「年齢は三十歳ほどで私と同年代だろうと思った」と語っていて(p.163)、あとで、1999年のときに21歳、と言うセールスマンに対して「じゃあ私と同い年だ」(p.165)と言っているので、30歳であるとすれば2008年くらいの話か。ストーリーというか内容は、とりあえず、「私」がセールスマンから彼が持っていた安楽死の薬を買うか買わないか、みたいな話。

T大を5回受けて受からなくて、飛行機をT大に突っ込ませようとしている男の子――浪人生といえば浪人生かもしれないけれど、語り手は「無職」と言っている(認識している)。ただ、ネタバレしてしまうけれど、副業(?)で300万円も収入があるらしい。最後の場面はどうなのかな、これでいいのか? だいぶネタバレしてしまうけれど、飛行機の中でけっこうな数の乗客が拳銃で撃たれて亡くなっているのに、「私」が憎んでいた男は無傷なまま。それってどうよ? 個人的には(小説が面白く読めなかったということもあるけれど)微妙にフラストレーションが残る感じ。T大にも(恨みはないけれど)突っ込んじゃえばよかったのに……って、よくないか(あくまで小説の話だけれど)。そう、男の子の最後の言葉を聞いていて思い出したけれど、昔、夜、受験勉強をしていて、夜が明けて陽が射し始めるといつも、ああ早く寝なくちゃ、あと2時間くらいしか眠れない、みたいな焦りばかりで、私の場合、爽やかな気持ちにはまったくなれなかったです。
 
※毎度毎度書いていますが、以下ネタバレ注意です。今回はいちおうミステリーなので特に。

同名書(集英社、1980/集英社文庫、1983)所収。8篇中、最後に収録されている。あまり饒舌ではないけれど、いちおう“僕小説”という感じかな。聞き手(たぶん読者)に対して語りかけてもいるような感じ。内容は、1月のある真夜中、予備校生の2人が駈け落ちをしようしていたところ、女の子のほうが持ってきた旅行用トランクから死体が出てくる、どうやらどこかで入れ替わってしまったらしい、みたいな話。女の子(浅倉明子)のほうが行動的で(でも気まぐれな感じ?)、「僕」(佐々木哲)はその彼女にふりまわされているような感じ。要するに、現状につまらなさ、退屈さを感じていた浪人生が、それなら、と駈け落ち(その後、生活がうまくいかなかったら心中)をしようとしていたところ、別の出来事というか事件が発生して(解決して)、ひとまず退屈さの霧が晴れてくれる(で、日常へ回帰する)、みたいな感じ? ←ぜんぜん「要するに」になっていない(涙)。

まぁ面白いといえば面白いし、お薦めかと訊かれればお薦めです、と応えるとは思うけれど、そこは赤川次郎だから(?)なんていうか、独特のゆがみのようなものがあるよね。よね、というか、例えば、

 <「ねえ」/と明子が言った。/「ん?」/「つまんないわね」/「つまんない」/「二人でどっか行っちゃおか」/「行くって……駈け落ち?」>(p.236)

なんかむりやり「駈け落ち」の話に接続しているような。そういうところがユーモアに通じるのかもしれないけれど、ただ、常識的には、この人=「僕」の頭の中はどうなっているのか、とか、日頃どういう思考をしているのか、とか、やや(というかだいぶ)疑問に思ってしまう。現実との対応度という意味で、リアリティがあまりない感じ。

2人が出会ったのは、予備校が始まった初日とのこと。席が隣どうしになったらしい。――これもなんだこりゃ、みたいなことを思うのだけれど、えーと、もう少し引用してもだいじょうぶかな(引用率が心配…)、

 <(略)男子高卒の僕と女子高卒の明子が予備校初日に席を並べたってわけだ。お互い、隣に異性がいるってんで勉強どころじゃない。で、帰り道に今後こんなことになると困るので、よく相談しようじゃないかって喫茶店へ誘ったのが、付き合いの始まりだった。>(pp.237-8)

高校が共学ではなかったから異性に免疫がない、みたいなことは、ちょっと時代を感じるかな(単行本が出たのが1980年)。別に時代のせいではないか。「勉強どころじゃない」というのは、ちょっと過剰反応? 異性に飢えていた……というわけでもないのか。ちなみに、「僕」は手が早いようで早くなくて(これもネタバレしてしまうけれど)10ヶ月間、彼女とはキスもしていなかったらしい(だからそれもユーモアなのか、いきなり駈け落ちっていう)。

その後、大学は受かったのか、この2人は? 女の子のほうはだいじょうぶかもしれないけれど、彼女より成績が下らしい「僕」のほうがかなり心配。ドロップアウトはせずに2浪へ突入という感じかな、雰囲気的に。だいたい「つまらない」とか「退屈」とか言っているけれど、1月の時期であればもう入試が始まっているはずだよね、私立大学とか。いずれにしても、結果はすぐに出るだろうね。(共通一次が始まったのって何年? ――1979年か。もともと雑誌連載なのかな、この短篇集? わからないけれど、「共通一次」という言葉が出てこなくてもしかたがない年代。)2人の志望大学・学部などについては書かれていない。
 
東京創元社、1994/創元推理文庫、2002。※以下、ネタバレしている箇所もあるので、ご注意ください。

 <知り合いの編集者から霊能者と誤解された結果、ある少年の失踪調査をその母親から依頼された女性推理作家の「私」。気は進まないものの、なかば息子の勇起に引きずられるようにして、慣れない探偵活動に着手するが……やがて彼女が直面した恐るべき真実とは? そして少年は今どこにいるのか? 安住の地を求めて彷徨う少年を通し、「家族」の意味を問い掛ける緊迫の心理ミステリ。>(文庫カバーより。)

1990年代前半の7月。いちおう2浪になるのかな、行方知れずの浪人生(高瀬明)を探す話。ここ最近、若い人が主人公の青春小説ばかり読んでいたので、たまにこうして(若く見えるらしいけれど)40歳くらいの女性というか母親というかが語り手になっている小説を読むと、けっこう新鮮に感じてしまう。ただ、その新鮮味も3分の1も読まないうちになくなって、またいつものような苦痛の読書に…。読み終わってみて結局、どういうストーリーだったのかを思い出してみても、別にたいしたこともなかった気がする。「心理ミステリ」であるなら、それもしかたがないのかもしれないけれど。そういえば、真ん中あたりなんて、農作業+BLだよ(あらびっくり)。

他人の息子を探す「私」(有村靖子)が同時に探さなくてはいけないのは、いつのころからか何を考えているのかわからなくなった自分の息子(勇起、大学院生)の心、であるらしい(なんかテキトーに安っぽくまとめてしまった(汗))。で、キーワードというかテーマというかは、タイトルにも付いているように「家族」なのかもしれないけれど、両親がそろっていて子どもがいて、みたいなふつう、理想的であると考えられるような家族(像)はでも、結局のところ、拒否されている感じ。

浪人生、明くんに関しては…、大学受験と絡む話ではそれほど面白いことも書かれていないような。英語が苦手、とかそういうことはどうでもいいし。でも、そう、探してほしいと依頼するのは母親(黒部美保子)のほうなのだけれど、明は、両親が離婚後、父親(高瀬英行)とマンションで2人暮らし。お父さんが息子に関心をあまり払っていないせいで、行方知れずになっても気づかれないまま。浪人生ってひきこもりになりやすいだけでなく、予備校に籍があるくらいでは、いなくなっちゃってもわかりにくいのか。上京して1人暮らしの人とかも同じように危ないよね(親は子どもに定期的に電話やメールをすべし?)。
 
手元にあるのは同名の新潮文庫なのだけれど、「二十一刷改版」(1993)となっている。初版は1974年に出ているらしい。単行本は、収録作品が違うようだけれど、同名のものが筑摩書房から出ているようだ(1966年)。その単行本ではどうなっているのかわからないけれど、手元の文庫では6篇中の5篇目に収録されている。いつものように後ろの紹介文を引用してみると、

 <平穏な日々の内に次第に瀰漫する倦怠と無気力感。そこから抜け出ようとしながら、ふと呟かれた死という言葉[「死」に傍点――引用者注]の奇妙な熱っぽさの中で、集団自殺を企てる少年たち。その無動機の遊戯性に裏づけられた死を、冷徹かつ即物的な手法で、詩的美に昇華した太宰治賞受賞の表題作。他に『鉄橋』『少女架刑』など、しなやかなロマンティシズムとそれを突き破る堅固な現実との出会いに結実した佳品全6編。>(文庫のカバー後ろより。)

とのこと。後ろの「解説」(磯田光一)から切り貼りした感じの文章なので、これだけではわかりにくいかもしれないけれど、要するにストーリー的には、少年たちが集団自殺するという話。主人公というか視点人物の圭一(いちおう苗字は光岡)は、似たような倦怠感、無気力感を抱えている少年グループと付き合っていて、その少年たちの1人として集団自殺を目的とした旅に加わっている。仲間の1人(有川)が運転するトラックに乗って行き着く先は、背後に山があるような北の国の海。――最後、そんな感じで終わっちゃうのか、と思ったけれど、全体的な感想としては、うーん、どうなのかな…。まだ読み終わってあまり日が経っていないけれど、意外と記憶に残りそうな短篇である気はする。って、感想になっていないか(汗)。

死を意識することでしか生が精彩を取り戻さない、みたいな逆説っていったい何だろうね…。こういうことは、ちゃんと考えようとすると、哲学とか心理学の話になってしまうのかな。――それはそれとして、圭一くんが倦怠感にとらわれるようになったのは、予備校に通い始めて2ヶ月くらい経ったころで、夕空を見上げて、それはどうも突然のことだったらしい。家庭環境(両親が不在がち)とか、趣味の移り変わり(小学生のときは昆虫、中学生のときは模型作り)とか、大学受験(かなりの自信があったらしいけれど、不合格)とかは、書かれているのだけれど、結局、それらが倦怠感に襲われたこととどう関係しているのかよくわからない。とりあえず、この小説では、受験に失敗→何をしても無意味、もう何もする気が起きない(=無気力感)みたいなわかりやすいことにはなっていない。勉強がいやで、もう何もかもを放り出したい、みたいなわかりやすい現実逃避とも違っている。それで、どうすればいいのかな、執拗な倦怠感というのは? 精神科の医者に見てもらって元気になる薬をしょ……安易な発想ですね(すみません)。

ところで、いまというか、この旅をしている、季節はいつなのかな? 三宅たちと知り合ったのが3ヶ月前と言っていて、その時点で4月から2ヶ月は経っているはずだから、まぁ、9月くらいでいいのか。海にもまだ入れているし。(というか、ちゃんと読み直せば季節くらい書いてあるかも。)あと、書き忘れたけれど、ちゃんとした参加メンバーは、本人を入れて5人いる。リーダ的な存在の三宅(画塾に籍)、紅一点の(?)槙子(美容学校)、太っている運転手の有川(予備校)、いちばん若い望月(定時制高校)。――高校生(全日制の)とか大学生とかはいないのか、それはそれでちょっと不自然かも。
 
これほどテンションの下がる浪人生小説も逆に珍しいかも。まだ単行本には収録されていないと思うけれど(2007年6月現在)、『野性時代』(角川書店)の2006年8月号に掲載されている1篇(短めの短篇)。「青春小説オール読切特集「夏休み」」の1つとして載っているのだけれど、予備校を1ヶ月くらい通って自宅浪人に切り換えた浪人生にそもそも「夏休み」なんてないだろうし、これが貴方の考える「青春小説」ですかそうですか、みたいな暴言をはきたくもなってくる。文筆業、注文に応えられてなんぼのものでは? よく知らないけれど。例えば、同じ雑誌の後ろのほうに「青春文学大賞」(第2回)に関する座談会が載っていて「犬」という人は次のように述べている。

 <あと、やっぱり青春文学大賞っていう名前なんですけれど、青春の思い出を語る賞では決してないです。私たちの説明もちょっと足りないのかもしれないんですけど。青春的な、心の沸点が高い状態をエンタテインメントしてほしいということを、重ねてお伝えしたいと思います。>(p.459)

エンタメはしてないけれど、確かに心の沸点が高い=なかなか沸騰しなそうな読んでいるこちらもかなりげんなりしてくる小説である、「夏が逝く」。もちろん「高い」じゃなくて「低い」か何かの間違いだろうけれど。(「低い」でもおかしいなら、そもそも比喩として不適切な表現なのかも。)読んでいてどうして気分が沈んでくるのかといえば、いちばんの理由は、夏なのに暑そうじゃないから、かな。夏が逝くというか、主人公の中ですでに夏がとこかへ行っちゃっているような。Tシャツに汗じみができるくらいの夏なのだから、教習所の建物やパチンコ屋に出入りしたり、送迎バスに乗り降りしたりすれば、外の暑さと冷房の涼しさとの落差について語ってくれてもよさそうなのに、そういう発言がいっさいない。パチンコ屋で話しかけられて、教習所までついて来てしまった「孤独臭」を放つ男から逃げるために、友達(及川)と走っているのだけれど、走ればふつう汗くらいかくよね? 新人賞応募作ではなくても、青春の楽しい思い出があるならそれを語ってくれたほうがまだまし。でも、リアルかリアルじゃないかと言われれば、こちらがリアル(現実)なのかも。現実逃避したい今日このごろです(?)。なんていうか、世の中が「ダルい」なんてことは、とっくにわかっているから、とにかく先へ進んでほしい。こういう人(作者&主人公)はだから、とりあえず<涼宮ハルヒ>でも読んで勉強してほしい。

そう、主人公というか「俺」(宮本)が教習所通いをしているのは(伊藤たかみって“自動車小説”が得意? 免許を取らないと運転できないもんね)、お父さんが息子がひきこもりになるのを心配して勧めたかららしい。浪人生ってひきこもりになりやすいと思うのだけれど、お父さん、グッド・アイディアといえばグッド・アイディアです。ちなみに、家は豆腐屋とのこと。男の兄弟はいるのかいないのか、とりあえず「俺」は継ぐ気はほとんどなさそう。高校は(大学生になる気がないのか、たんに後ろ向きなのか、大学に関する言及よりも高校に関する言及のほうが多い)「N高」という高校で、近所ではいちばんよいところらしい。あと、専門学校に通う彼女(めぐみ)とはうまくいっていないらしい。――というか、そんなことどうでもいい。と言いたくなってくる小説である。

本日の教訓: 夏は炎天下で“涼宮ハルヒ”を読むべし。
 
連作短篇集『君を、愛している』(ミックス・ジャパン、1997)に収録されている1篇(3篇中の2篇目)。この連作集について、文芸評論家というか書評家というかの斎藤美奈子が、<『赤頭巾ちゃん気をつけて』と『ノルウェイの森』を足してニで割って水で薄めて幼稚にしたような小説>と言っている(「渋谷名物はいかが? シブヤ系文学の謎」『リテレール別冊? ことし読む本 いち押しガイド99』メタローグ、1998)。図書館で借りてきて読んでみた結果、その通り、としか言えないような…。この2篇目の「見知らぬ街を〜」が浪人生小説なのだけれど、本文中にも『赤頭巾ちゃん〜』がちらっと出てきている。「僕」の両親がその小説の薫くん(庄司薫)と同じ歳なのだそうだ。語り口だけでなく、世代的にも文字通り薫くんの“チルドレン”であり、浪人生小説としては逆にこれが正統派であると言えよう(?)。

物語はなんていうか、ワン・アイディアで成り立っていて、それを言ってしまったらおしまいかもしれない。でも、わりと早い段階でこんな感じかな、とは予想できる書き方がされているけれど。(都立日比谷高校ではなく)都立西高校出身の「僕」こと、高木純一(18歳)が浪人している理由は、冬に街を歩いているとき、信号が変わって急ぎかけた瞬間、アキレス腱を断絶してしまって入院・手術になり、入試が受けられなかったからだそうである。ちまたで(?)「都会の公立進学校は、四年制」と言われるその都立受験校に通っていたり、偏差値が5も足りなかったりと、もともと浪人する予定(覚悟?)ではあったらしいけれど。両親も主人公と同じ高校出身で浪人していて、浪人することは簡単に許されたらしい。両親が東大卒だそうだから(書かれていないけれど)高木くんの志望大学も東大? ――それはそれとして、今日は1997年5月終わりの日曜日。足の怪我がまだ完治していないため、目的地は「僕」の家がある同じ杉並区の街なのだけれど、そこに直接行くことができず、(薫くんのように長靴は履いていないけれど)自転車で吉祥寺駅まで行き、井の頭線に乗ってその街で降りて(杉並区内の移動? それとも杉並区を経って杉並区へ到着?)足を引きづりながら歩く、みたいな話。

話が戻ってしまうけれど、「都会の公立進学校は、四年制」(p.68)という言葉はちょっと面白いかな。でも、以前にも触れた気がする「一浪は「ひとなみ」と読む」とか、小峰元の小説に出てきたような気がするけれど、六・三・三・四制ではなく「六・三・三・一・四制」とかと同じようなものか。関係ないけれど、1篇目(「リアルワールド」)の冒頭の「恋愛部」という言葉もちょっといいかな(でも「ラ○カツ」?)。

 <宮坂と森川はつきあっているので、同じ電車で帰る。帰宅部といったところだが、本人は「恋愛部」と呼んでほしいと思っている。>(p.7)

「本人」というのは宮坂くんのほうだけれど、そう、1篇目といえば(浪人は関係ないけれど、受験がらみの話で)、1995年夏、主人公兼視点人物の宮坂くんは、ほかの高校に通う親友の高木くんと予備校の夏期講習(英作文)を受けているのだけれど、

 <その講義はその予備校の看板の一つにもなっているもので、大きなテレビカメラで撮影され、全国十あまりのその予備校の系列地方校に衛星放送で送られ、同時講義がされていた。≪テレビ講義なんて受けて、面白いのかな……。馬ッ鹿みたい。(略)≫>(p.21)

「馬ッ鹿みたい」というのは、彼女=森川さんの口癖をまねたか? それはいいとして、自分が高校生(もちろん地方)のとき、友達が「あれは寝ちゃうね」と言っていたけれど、まぁそうなのかも。生放送(ライブ授業)と録画とでもまた違うのかもしれないけれど、同じコンテンツというか授業内容なのに、臨場感のあるなしが雲泥の差をひらかせるのかなんなのか。そりゃ宮坂くんよ、送られるものではなく送っているものが見られればそれに越したことはないのかもしれないけれど。というか、ばかみたいな差があるとして同じ授業料なら詐欺だよね。

関係ないけれど(関係ない話ばっかり)、1篇目を読むと宮坂くん、それほど好感度が高い人物には思えないのだけれど、2篇目、3篇目(「運命を辿って」、1999年春〜秋)を読むとやけに、親友(高木)やら恋人(森川)やらその他の人(森川の親友の鴇沢)やらに愛されていたことがわかるけれど、どうして? だったら1篇目でもっといい人物として描いておけばいいのに。――まぁどうでもいいか。あ、ぜんぜん気づかなかったけれど、この小説のテーマは「親友」だったの?(うーん…)。
 
『恋愛アンソロジー 蜜の眠り』(光文社文庫、2001)所収。10篇(10人が1篇ずつ書いている)中の9篇目。単行本は廣済堂出版から出ている(2000)ようだけれど、収録作によって長さがまちまちなので、たぶん単行本書き下ろしではないと思う。何か他の本でも読めるかもしれない。

森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」ってどういう話だっけ? いちおう読んだことがあるのだけれど、記憶がほとんどないです。それの短め・女性版という感じなのかな(だいぶ違う気もするけれど)。語られているのは、東北の田舎街にいる中学3年のとき、同じく高校3年のとき、上京して寮生活を送っている大学3年のとき、最後、結婚して夫がいる27歳のとき、の4つの時期。3年きざみで最後だけ6年あいているのか。読んでいて、エロいといえばエロいと思うけれど、どうなのかな…、とりあえず、冷静に語られている感じではある。

高校のときの話。同じ部活の先輩として浪人生が登場してくる。浪人生目線で読んでいるせいもあるかと思うけれど、けっこうかわいそうな感じ、この人。というか、かわいそうと思うことがかわいそうなのか(ごめんなさい)。卒業生がうろうろしている学校というのも、ちょっとどうなのかな、在校生からすると嫌というか、じゃまっけな感じ? でも、しかたがない、田舎で予備校がなく、学校の先生が「補講科コース」を設けて卒業生を教えているらしい。敷地内には専用のプレハブ校舎もあるそうだ(進学率、現役合格率がどれくらいの高校なのかわからないけれど、人によっては“四年制高校”という感じかも)。

小説家または翻訳家を目指している「私」(恩田麻美子)は、文芸部(の部室)でパソコンを使って小説を書いているのだけれど、先輩の政志はそこに現れてうろうろしている。それ以外の場所でも「私」につきまとっているらしい(ひと言でいえば、不器用な男の子なのかな)。ほかに好きな男の子もいるし、最初はうとましく思っているのだけれど、「憧れの作家は、山田詠美と中沢けい」(p.243)という「私」は、洋雑誌を見て性器の部分の名前を知ったり、鏡の前で足を開いて確認したり(もちろん家というか自分の部屋で)と、性に対して関心が高まっていて。政志――そういえば語り手は先輩なのに呼び捨て――のことをだんだんと嫌わなくもなるのだけれど、結局、性への関心というか好奇心から、部室で誘惑(のようなこと)を繰り返して、しんぼうたまらん(?)政志くんはことに及んで、失敗…。入れる前にいっちゃうというか。なんていうか、これが青春だよね(違うか)。

中沢けいの「海を感じる時」ってどういう話だっけ? わりと最近読んだのに、すでに記憶がほとんどない。確か文芸部ではなくて新聞部で、先輩につきまとわれるのではなくて先輩(浪人ではない)につきまとう感じ、じゃなかったっけ? ――そんなことはどうでもいいか。大学に関しては、推薦で合格する「私」に対して、1浪の政志のほうはまた失敗。現役のときにはすべり止めもすべて落ちたらしいけれど、今回は受かったすべり止め(私立と国立)を蹴って2浪へ、とのこと。志望は「有名私立大学の文学部」(p.234)で、作家になると言っていたそうだ。最後のへん、「私」が27歳のとき、今では「二浪した政志はロンドン駐在の銀行員だ」(p.271)と言っているので、3浪はしなかったようである。どこの大学に入ったのかわからないけれど、(留年していないければ)24歳で卒業、28歳くらいで海外に飛んでいる銀行員って、一般的な日本人(?)としてはどうなのかな、収入が不安定な小説家よりはずっとまし?

(作中の年代、がよくわからないのだけれど、大学3年のときにはインターネットや携帯電話があって、でも、高校3年のときにはインターネットではなく、わざわざアメリカの雑誌から性に関する知識を得たりしているので、えーと…、わからないや(涙)。高3の時点で1990年代の後半という感じかな。単行本の出版年の2000年から、最後が27歳だから27年を引いてしまうと、おかしくなっちゃうか。1973年生まれ……これでは早すぎる。20、21歳になるのが1993、1994年? 携帯電話ではなくポケットベルの時代? あと、それと関係して中沢けいが好き、というのは1990年代の後半であれば、時代的に多数派じゃないよね、たぶん。山田詠美のほうはわかるけど。)


[追記]アンソロジーではなくて、この1篇が表題作になっている単著があるようだ(『性遍歴』幻冬舎、2001/幻冬舎文庫、2004)。なんで気づかなかったんだろう。
 
連作短篇集『結婚以上』(中央公論社、1981/中公文庫、1985)所収の1篇。5篇中の4篇目。“マンション住人小説”といった感じで、各篇のタイトルの後ろには、例えば「ハンガーの花◇402号室」(1篇目)というように部屋番号が付いている。浪人生が主人公のこの1篇(「地球を〜」)は「702号室」。要するに、主人公というか視点人物の裕治くんは、最上階の702号室に住んでいるらしい。いちおう家族と一緒らしい。※以下、ネタバレ注意です。

これも、どんどこストーリーがあるような小説ではなくて。心理的な小説というか、繊細な感情の動きを読んでいくタイプの話かもしれない。秋祭りの日、平戸裕治は幼なじみ(小中高浪一緒)の青木圭子と2人で、同じく幼なじみ(同前)の天藤敬介を待っている。敬介がなかなか来ないその間に圭子と会話したり、圭子についてあれこれ思いを巡らせたりする。――とてもネタバレしてしまうけれど、結局、「○○小説かよ!」ってな感じです。単行本が出たのが……80年代の初め? しかたがないのかもしれないけれど。でも、圭子から打ち明けられた裕治くんは時期的に犯人(?)ではなく、裕治たちが溜まり場にしている喫茶店の店主、小川大輔という人がそうであるらしい。よくわからないけれど、結局、子どもと大人、あるいは子どもから大人へ、みたいな話なのかな。まだ到着していない敬介くんはわからないけれど、裕治くんもやっているわけだし、なんていうか、「セクス」が大人への入り口というわけでもない感じである。

本人ではなく、3人の中でいちばん成績がよいという圭子が大学(早稲田)に落ちた理由は、裕治によれば家庭が原因(の1つ?)のようだ。一昨年の暮れにお父さんが亡くなったり(cf.清水義範『バードケージ』)、その半年後にお母さんが再婚したり。冷静な感じではあるけれど、この圭子さんは来年大学にちゃんと受かるのかな、まだちょっと心配な感じ。受験まではあと5ヶ月らしい(そういえば作中の季節が秋だったね)。圭子の学部はわからないのだけれど、主人公というかの裕治が落ちたのは、早稲田の商学部らしい。ちなみに、3人は同じ商店会に入っている店の子ども――裕治の家が文房具屋、圭子が呉服屋、敬介が布団屋。あ、裕治の家は(よくわからないけれど)「等価交換方式」とやらで(お店とは別の?)土地をあけ渡してマンション1部屋を得たらしい。702号室――最上階でいちばんいい部屋なのかな?

それで、うーん…。浪人生小説としては、何か学べるところがあるかといえば、ほとんどないような。とりあえず、妊娠には気をつけよう?(違うか)。そう、関係ないけれど、(序章ともプロローグとも書かれていないけれど)冒頭に短いイントロがあって、マンションの1階というかエレベーターホールで、裕治(と思われる男の子)が丸めた予備校のテキストで自分の肩を叩いている、のだけれど、それはなに、カバンはどうしたの? むき出しのテキストを持って予備校ヘはいかないよね、ふつう。歩いて行ける距離にある圭子か敬介の家でわからない問題でも質問してきたのかな。
 
『ドッペルゲンガー奇譚集』(角川ホラー文庫)というアンソロジー本でも読めるようだけれど、手元にあるのは、連作短篇集『見知らぬ扉』(日文文庫、2000。[単行本は『人生のもう一つの扉』天山出版、1989])。“マンション住人小説”というか、「フラワーマンション」と呼ばれるマンションの住人たちが描かれた連作短篇集。その(「ENTRANCE」と「EXIT」を除いて)全11篇中の5篇目。各篇のタイトルの前には部屋番号が付いていて(例えば1篇目は「701号室の話 人生の二つの扉」など)、この「エイプリル・シャワー」は901号(「901号室の話」)。予備校生の川本哲也はそのマンションの最上階、いちばんデラックスな部屋らしい901号室に住んでいる。いちおう文庫カバーの紹介文も引用しておくと、

 <都心に向かう私鉄沿線の駅近くのゆるやかな丘陵にある、甘い花の香りに包まれた九階建ての白いマンション。住民たちは、サラリーマン、大学教授、OL、看護婦、受験生…管理人、そして一匹の猫。どこにでも見かけそうな人々の生活だが、その部屋の扉をあけてみると、人間の深層に隠された危険な欲望が、そしてあなたのもう一つの人生が…。心の奥底に潜む戦慄を捉えた連作ホラー。>

とのこと。植物や一匹の猫に憑かれているマンション、という感じでもないけれど、でも、そんな感じなのかな(連作の最後まで読んでいるから、こういう言い方もちょっと白々しい…)。あと、「人生のもう一つの扉」というよりは「もう1人の自分」(だいたい同じ意味か)みたいな小説集かもしれない。

本題というか、上の文章でいえば「受験生」にあたる話だけれど、星好きの浪人生が好奇心から望遠鏡で自分の部屋(901号)からほかの部屋(910号、マンションはL字型になっている)を覗くと全裸の女性が見え、さらにその女性に後ろから革手袋をした手を巻きつける男の姿が…、みたいな話。こういう話(遠視というか、のぞく系な話)は結局、相手と何らかの形で接触しないと終わりにならないのかなんなのか、結局のところ、最後はそんな感じになって終わる(遠くから眺めたりのぞいたり、眺められたりのぞかれたりする小説は、過去にまとめてとりあげてあるので、過去ログを適当に参照されたし)。もちろん裸の女性を見てからは、妄想が膨らんで(?)勉強があまり手につかなくなっている感じ。関係ないけれど、主人公が付けている「星日記」というのがちょっと面白いかな、下ネタだけれど。

5つの大学(医学部)に落ちて熊本から上京したばかり、哲也くんは、両親をはじめ親族に慈恵医大出身者が多く、開業医の父親からジケイ合格を言い渡されている、らしいのだけれど、これは、東京の医大→慈恵医大、みたいなイメージ?(でも、この前とりあげた佐川光晴の小説では、東京医科歯科大に受かるのだったっけ)。それにしても、ほんと医学部志望の受験生小説って多いな、それくらいの需要があるということなのか。まぁ“おんぼろアパート小説”であれば、医者の息子、みたいな設定は不用だったのかもしれないけれど。安いらしいとはいえ、いちおう“マンション小説”だから。朝晩には母親から電話がかかってきて、野菜は食べているかとか、模擬テストの結果はどうか、とか聞かれている(過干渉なのはわかるけれど、あまり医学部卒なお母さんっぽくないな、なんとなく)けれど、それをテッちゃんは受け流している感じ。浪人生小説といえば、もちろん移動手段はオートバイで(?)、通学にはオートバイを使っているらしい。予備校がらみでは、小田陽子という「予備校のたった一人のガールフレンド」が出てくる。こんな会話はちょっと面白いかな、

 <「ちゃんと、ジケイしてる?」/「ま、どうにかね。I・C・Uしてる?」>(p.149)

帰国子女の小田さんのほうは、両親から国際基督教大学に入るように言われているらしい(書かれていないけれど、これも、自分たち=両親がICU卒くらいの理由からなのだろうか。cf.三浦哲郎「モーツァルト荘の裸婦」)。そう、この誰とでもすぐに仲良くなれるらしい女の子がどうして「逆三角形の色白の顔に、ぶ厚い眼鏡をかけた、内気な青年」(p.127)の哲也にちょっかい(?)を出してるのか、がよくわからない。哲也くんだけでなく、予備校の男の子たちにかたっぱしから声をかけているのか、それとも海外育ちで日本の常識(美意識?)が通じないのか、なんなのか。それはいいとして、去年というか今年落ちた理由はなんだっけ? ――数学が原因なのか。特に微分・積分が苦手らしい。そう、数学の問題が3題(不等式の証明2題、対数を使うらしいウサギとカメの文章題1題)出てくるのだけれど、解答が欲しい(少し解いてみたのだけれど、高校を卒業してはや10年以上、さすがに忘れている…。1/xって、xで積分するとlogxになるんだっけ? というか、どうでもいいや(汗))。あと、浪人とは関係ないけれど、英語の辞書に載っている性的な意味の単語に赤線が引いてある、みたいなことは、それに近いことなら小説を読んでいるとよく出てくる。辞書には口にしにくい言葉も載っているから、かもしれないけれど。(cf.単語集だし、ちょっと違うけれど、庄司薫『さよなら怪傑黒頭巾』の冒頭など参照。)ちなみに描かれているのはタイトルどおり、4月。

本も、いちおう最初から最後まで読んだのだけれど、連作全体の感想としては――その前に、「解説」(篠田真由美による)で前から順に読んでください、と書かれていたので、それに従ってしまったけれど、別に最後の「EXIT」さえ読まなければ、どこから読んでも問題はないと思う、個人的には。で、全体の感想としては、こういう小説(どういう小説?)なら小川洋子の『寡黙な死骸 みだらな弔い』のほうがずっと面白いと思うし、同じく“花”というか“植物”をあしらった小説なら、以前少しとりあげた柄刀一『シクラメンと、見えない密室』のほうがまだましであると思う(そちらのほうがわかりやすくていい)。話が戻ってしまうけれど、「エイプリル・〜」のオチの“ドッペルゲンガー”(本文でこの言葉は使われていない)にしても、こういうのなら、村上春樹の『スプートニクの恋人』とかを見習ったほうがいいのでは、みたいなことも思ってしまう。←ぜんぜん小説の感想じゃないな(汗)。
 
コバルト文庫、1998。「獅子座」は「レオ」と読ませている。この巻しか読んでいないのでよくわからないけれど、<星座>シリーズの、<冒険少女編>三部作の最後のものであるらしい。で、読んでいて、いらいらのしっぱなしだったのだけれど、それはいいとして(よくないか)、例によって初めて読んだ作家なのだけれど、なんていうか、赤川次郎をアク抜きして、何か別のアクを足したような感じ、かな(説明が足りないか…、うまく言えないです(汗))。あと、具体的なことでは、本が出版されたのは1990年代後半なのに、出てくる固有名詞が新旧ごっちゃな感じで(そうでもない?)いつの時代の話なのか、頭の中に違和感が降り積もっていく感じ(涙)。――それはそれとして(今回も投げやりぎみ)。

 <ノリミと朱子は、K予備校で知り合った獅子座生まれの浪人生三人組に、<東京オカルト・ツアー>に誘われた。その企画に共感した朱子は、ツアーの第一弾であるZ寺へ、深夜、八百屋お七の幽霊を探しに出かけていった。担任で恋人の麦倉先生に止められたノリミだが、幽霊が本当に出たと聞き、調査に乗り出すことに。実は、奈良出身のお嬢様・朱子と麦倉先生の関係が少し気になるのだが…!?>(カバーの折り返しより。)

朱子は「あかね」と読む。Kに「ケイ」ではなくて「ケー」とルビがふってあるのが微妙にうざい。原宿駅の近くにあるらしい「K予備学校」では、「夏期講習」の前に「夏休み直前特別強化ゼミ」というものがあるらしく(夏休みの直前に何を強化するの?)、そこでノリミ(大野ノリミ)たちは、浪人生の3人組――天海基(てんかい・もとい)、鬼島孝雄(きじま・たかお)、明神桜(みょうじん・さくら)――と知り合う。どうでもいいけれど、男2人で女1人みたいなグループからして、90年代後半という感じがしない、80年代とかせいぜい90年代前半?(あとで取りあげると思うけれど、浪人生小説では、小室みつ子『彼女によろしく』、落合恵子『結婚以上』所収の「地球を蹴って遊ぶ」などがそう)。自分たちは高校3年で、知り合った相手は浪人生たちなわけだけれど、比較してどうのこうの、みたいな話は出てこない。夏期講習とかで現役生と浪人生が一緒になると、お互いに相手をうっとうしく思う、みたいなことはないのかな。現役受験生にとっては、浪人生は目を背けたくなる否定的な姿、失敗した場合の明日の我が身でしょう? というか、私服であれば見た感じでは現役か浪人かわからないか(制服を着ていても勉蔵さんみたいな浪人生も――いないよな、たぶん(汗))。

最初のあたりの、予備校に関する箇所はちょっと具体的かな。ノリミは授業というか講師の話を録音するために「小型のカセット・デッキ」を持参している。予備校によっては禁止していたり、禁止していても黙認していたりするらしいけれど、そういえば、自分も予備校生のときに録音していた授業があったっけな。ウォークマンのだいぶバッタモンみたいな安いのを買って。あと、授業が始まる前には、「受講生チェッカーズ」というアルバイト学生が「ニセ受講生」(モグリの人)がいないかをチェックして回るらしい。これも実際には、予備校によるのかな、指定席の予備校もあるし、その場合はあまりチェックがいらないかもしれない。あとは、例によって(?)予備校=涼しい、みたいな話も出てくる。引用してみれば、

 <……予備校のいいところは、なんといっても冷暖房が完備している点である。/夏は涼しく、冬は暖かく――まるで<ビーバーエアコン>のCMのように、快適に過ごすことができる。>(p.23)

。こういうちょっとしたところでも、読んでいていらっとする(しないですか。私だけか)。「夏は涼しく、冬は暖かく」――そんなCMがあったっけ? という感じ。

いちおう推理小説であるし、あまり書くとネタバレしすぎてしまうけれど、なんていうか、19歳が特権化されるみたいなことは、確かにあるよね。10代、ティーンエイジ最後の年、という意味で。言われてみれば、特別な年齢なのか。
 
扶桑社文庫、1996。ここ最近読んだ小説の中でいちばんひどかったです(何を読んだ以来のひどさかな、これは?――思い出せないけれど)。なので、個人的には、お薦めはとうていできない。作者がライトノベルというか、昔の少女小説を書いていた人だから、ある程度はしかたがないと思って読んでいたけれど、それにしてもな…。頭のよろしくない印象を受ける1人称「あたし」語りで、つまらない(と私には思える)無駄話が多くて、話がなかなか前へ進んでいかない(涙)。でも、最後まで読むと「あたし」はいちおう精神的に成長はしているっぽい。よかったですね(?)。

 <中川美麻子(みまこ)18歳、浪人生。私立の中学、高校とエスカレータで来て、大学受験に失敗してしまった。名門の芸大を狙っていたのだが、どうしてもって、わけじゃない。父親は何年かかってもいいから大学に行けといい、母親はさっさと就職しちゃいなさい、という。一年間の浪人生活は執行猶予って感じだ。そんな宙ぶらりんでハンパな状態の美麻子の前に一人の男が現れた。花井愛子が送る大人になりかけの恋の話。大好評の書き下ろし、読みきりシリーズ。>(カバー後ろのところより。)

この紹介文は中身をちゃんと読んでまとめたのかな、事実関係が微妙にずれているところ多し。――それはいいとして。中高一貫の女子校というぬるま湯状態で生活してきて、気がついたら“現実”に直面していたという感じ、かな。大学は四年制大学を2校受けて落ちているのだけれど、そのうちの1校、マンモス大学のほうが気に入ったらしい(あ、受験したのは芸術学部)。最初のほうは、家族に関することや高校のときのこと、あとアルバイトについてとか、あれこれ無駄に(?)ページが費やされているのだけれど、上の文章で「美麻子の前に一人の男」と言っているのは、浪人中、「あたし」がそのマンモス大学に再び訪れたときに出会った「クマさん」こと、久磨哲人(くま・てつんど)のこと。おじさんに見えるけれど、実はそれほど歳はとっていなくて(26歳だっけ?)まだそこの大学の学生で、しかも世界に名の知られた芸術家でもあるそうだ。――恋愛小説という感じは(たぶん)しなくて、そのクマさんと言葉を交わしつつ、ダメ女子高生の成れの果てみたいな(?)主人公が自分の力でものを考えられるようになる、みたいな話? なんというか、成長(精神的なそれ)の第一歩は、人を頼ったり人のせいにすることなく、自分の頭で物事を判断し、思考できるようになることなのか、なんなのか

「あたし」は自由が丘のマンションに住んでいるのだけれど、家にはお金の余裕がなく、予備校には通わせてもらえていない。アルバイトはチェーン店のドーナツ屋で。あと――何か書き忘れているかな。そう、要領よく家を出て行った、ちょっと歳の離れたお姉さんがいるらしい。あ、「お姉さん」で思い出した、エピソード的な印象的な箇所なのだけれど、本屋に絵本を買いに来ていた小学生くらいの姉妹――という話を読んで、また庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を思い出してしまったよ(汗)。やっぱり<薫くん四部作>はちゃんと読んだほうがいいのかな?(自問自答)。ほかには、浪人生活とは関係ないけれど、高校がちゃんと進路指導をしてくれなかった、というのはちょっとかわいそうかな。でも、自分も高校のときに担任教師とかから、それほどちゃんと何かを言われた記憶もないけれど。

描かれているのは、最後のへんで「夏が、来る」とクマさんが言っているので、それくらいの季節まで。そんなことよりも、来年、「あたし」というかみいちゃんは、ちゃんとクマさんのいるその大学に受かったのかな? ――ま、そんな心配をするだけ時間の無駄である小説な気がするけれど。
 
富士見ミステリー文庫、2004。えがきかけ、ではなく、きかけ。※以下、ネタバレ注意です。新人の俳優、女優(アイドル)を売り出す程度の役にしか立たないような、映画の原作にちょうどいいような感じ? ひと言でいえば古風な恋愛小説。男の子が(ほとんど自分に対してだけ)気が強い女の子とうまくいくまでが描かれている。話の展開とか個々の場面とかはしっかりしているわりに、底は浅く感じるかな(ライトノベルだから、と自分を納得させることは可能だけれど)。あと、批判の常套句かもしれないけれど、人物もいまいち描けていないように思う。

注目すべき点は、付き合っているわけではないけれど、お互いに意識してはいる高校の同級生男女で、男の子のほうが大学に受かって女の子のほうが落ちる、しかも男の子は上京して女の子は地元に残る、みたいな小説であるということ。それがどうした? とか言われそうだけれど、最後(だいぶネタバレになってしまうか)「僕」(遠藤ユキオ)と神木円の2人がうまくいった感じで終わるのは、設定的にはある程度必然なのかな、と思う。これが男の子のほうが浪人・地元、女の子のほうが大学・東京、みたいなことになれば、男のほうが3日おきに電話なんてできないだろうし(現実逃避的とか女々しいとか思われそう?)、女の子のほうからはそれほど電話してくれないだろうし。メールの頻繁なやりとりにしても同じ感じだろうし。浪人生も含めて受験生どうしで付き合っていて、彼女(この小説ではまだ恋人とははっきり言えないのだけれど)のほうだけが落ちると、男の子はけっこう優しいというか。愚痴などの聞き役、受験勉強の励まし態勢に入るのかな、一般的な話として。わからないけれど。というか、人によって違う、としか言いようがないとは思うけれど。でも、ユキオくんはもっと地元に帰ったほうがいいよね、ゴールデンウィークも夏休みもクリスマスもパスしている。

神木さんの大学不合格の理由は書かれていないのでわからないけれど、志望大学は、浪人の途中からユキオくんの通う大学(小平市にある美大)1本にしぼっている。この小説では女の子が気が強いからあまり悲惨さ、悲哀感みたいなもの(?)が醸し出されていないけれど、男の子(彼氏)を後追いする女の子って、うーん…、どうなんだろうね。とりあえず、東京の別の大学くらいでいいんじゃないか、とは思ってしまう。関係ないけれど(なくはないか)、円の「あたし、来年になったら東京に行くから」とか「一年は長くて、東京は遠いね」みたいな台詞は、なんじゃそりゃ、とちょっとひいてしまったけれど、駅でユキオを見送る場面がちょっといいな、と思ったです。手を振るのではなく、腕組みをしてユキオを睨みながら仁王立ち。(そう、この神木円みたいなキャラも、谷川流の「涼宮ハルヒ」を読んでしまうと、弱いというか薄いというか、どこかもの足りなく感じてしまう。)

ところで、ユキオの大学(美大の油絵学科)合格の勝因ってなんだろうね? 小さいころから絵を描いているということと、円(まどか)のひどい悪戯がきっかけとなって美術部を自主退部して高校2年から絵の予備校に通ったこと、でいいのか。それなら円のほうも、早くから予備校に通えばよかったのにね。その予備校は、高校に通うのに利用している、家から最寄の駅の近くにあるらしい。書き忘れたけれど、場所は茨城の海が近くにあるところ。話が飛ぶけれど、ユキオは大学に入ってから3人の仲の良い友達ができるのだけれど(男2人、女1人)、3人とも浪人して入学してきていて、なんていうか、彼らに対してちょっと優しいかもしれない。その大学じたい浪人して入ってくる学生が多いらしいけれど、自分の好きな人が浪人していると、当然、元浪人生たちにも優しくなれるんじゃないかな、みたいなことは思う。(というのは、よくは覚えていないけれど、大学生小説、機本伸司『神様のパズル』では、2浪して大学に入った人が主人公から「おっさん」と呼ばれてうっとうしがられていたような。優しくないやね。)

どうでもいいけれど、2人の初キス、初エッチまでのシチュエーションはこれでいいの? もう少しロマンティックにしてあげてもよかったのでは? あ、でも、むしろこういうほうが現実的なのか。最後(これもネタバレになってしまうか)円の合格発表まで描かれているのだけれど、もともと電報の文句である「サクラサク」が、今風にはこういう使い方もあるんだな、みたいなことは思ったです。あと(もう文章ぐちゃぐちゃだな(汗))、言葉といえば、友達の1人の橋本くんが関西弁なのだけれど、だったら少なくとも高校生パート(第一章)での主役の2人の会話を茨城弁にしてほしかったかな。ぜんぜん違う感触の小説になってしまうかもしれないけれど。
 
集英社、1994/集英社文庫、1996。この小説はベストセラーというかロングセラーというかで、最近映画化もされているので、私が感想を書く必要もないと思う(検索すればざくざく出てくると思う)けれど、いちおう感想です。※毎度毎度すみません、以下ネタバレ注意です。

 <そのひとの横顔はあまりにも清冽で、凛としたたたずまいに満ちていた。19歳の予備校生の“僕”は、8歳年上の精神科医にひと目惚れ。高校時代のガールフレンドの夏姫に後ろめたい気持ちはあったが、“僕”の心はもう誰にも止められない。第6回「小説すばる」新人賞受賞作品。みずみずしい感性で描かれた純愛小説として選考委員も絶賛した大型新人のデビュー作。>(文庫カバーより。)

まだ春が浅い時期、美大2校(私立)とふつうの大学1校にふられて、そういう意味でも春が来ていないサクラチルな状態にある「僕」こと、一本槍歩太が、どんよりとした満員電車に乗って予備校の手続きをしに行こうとしていると、途中で停まった駅のホームから(桃色とかではなく)色のカーディガンを着た人が乗ろうとしてきて。歩太くんは彼女が乗れるスペースを作ってあげる。近づいた彼女の髪からは「ほころびかけたのつぼみのような」匂いがし、彼女の耳たぶ+ピアスは「の花びらに水のしずくがのっているみたいに見える」。――ひと目惚れとは一瞬にして頭の中に“お花”が咲いてしまうことなのか、なんなのか。というか日本人たるもの、春といえばやっぱり桜なのか(あー)。極めつけはその女性の名前が――あとからわかるのだけれど、なんと春妃(はるひ)! よくわからないけれど、要するに、大学不合格(将来不透明?)&スーツ姿ばかりの灰色電車に乗っていたところ、「僕」の中にサクラが咲いて、春(しかもお妃?)がやってきたわけです。おめでたい感じですね(意味不明)。この「桜」についてはかなり尾を引いているというか、最後まで関係してきている。

春妃(五堂春妃)は実は、「僕」というか歩太くんの高校のときからのガールフレンド、夏姫(なつき、斎藤夏姫)の姉であることが――しかも、歩太の入院中の父親の新しい担当医であることも――わかるのだけれど、夏姫が春妃お姉ちゃんに勝てなかった(?)理由は、夏にうかうかと大学のサークルの合宿なんかに参加していたからかもしれない。ひまわり柄のTシャツでも着てハイビスカスの香水(なんてないか)とかをつけて歩太くんに猛烈アタック、が必要だった……ってそんな性格ではない感じだけれど。関係ないけれど、歩太くんは春休みに続いて夏休みも土方(どかた)のアルバイトをしているのだけれど、「土方灼け」ってちょっと差別用語っぽくていやだな。何か別の小説では「ポッキー焼け」と言われていたけれど、ポッキーだと、Tシャツを脱いでもまだ着ているように見えるというより、腕だけな感じになっちゃうのか。そう、話が逸れてしまうけれど、下半身がらみの話がちょっと下品に感じることがある、この小説。例えば、夏姫からお姉ちゃんと私とどっちがきれい? みたいに訊かれて、似ているからどちらとも言えない、と答えて、今度は、そんなに似ている? と訊かれて、それに対する「しょうがないだろ。タネと畑が一緒なんだし」という歩太くんの発言…。これはどうなの?(と、女性に訊いてみたい)。私はひいてしまったのだけれど、そんなやつは自分だけか(うーん…)。あと、予備校で石膏像を見ていてそれに春妃を重ね見てしまって、あわててトイレにかけ込んだ、みたいな箇所。美術予備校ではないけれど、自分も昔、予備校に通っていたから、そういう話を聞くと、なんかいや。

本題というか勉強がらみのことも。話が前後してしまうけれど、昨年度の敗因は美大にするかふつうの大学にするかで迷ったから、とのこと。予備校は「御茶ノ水にある美術専門学校」に通っている。勉強はしていないような、けっこうしているような。ゴールデンウィークは勉強していたり(そういえば、小説で“浪人回し”=ペン回しをしている浪人生を初めて発見したかも)、最後の1月に勉強の追い込みをしたり、はしたらしい。その結果(ネタバレ御免)、前年私大に落ちているのにもかかわらず、今年は新しい希望どおり、芸大に合格している(ちょっとすごい)。あと、勉強がらみで何か書き忘れていることがあったかな、……わからない。家庭環境は(これが大事だったか)お母さんは1人で駅前(駅は大泉学園駅)で居酒屋を経営している。歩太くんはそこを手伝ったりしている。計画性がないように感じるところもあるけれど、春妃との距離を詰めていく感じといい、しっかりしている性格なのかもしれない。アルバイトも計画的にしているし。

1年間が描かれている(時間が経過している)し、将来に対して悩んでいたりもするし、浪人生小説としてお薦めはお薦めです。現実の美大受験浪人生が読んで面白いと思うかどうかはわからないけれど。
 
『麦熟るる日に』(河出書房新社、1978/河出文庫、1982)所収。3篇中の2篇目。いま手にしているのは文庫のほうの新装版初版(1993)というもの。カバー後ろの紹介文には「自伝的三部作を収録」と書かれているけれど、この『麦熟るる日に』自体も、『苦い夏』『季節の終り』と続いて三部作になっているようだ(ある本に書かれていたのだけれど、ほんと?)。全体的な感想としては、個人的に出自など、よくわかる部分もあるのだけれど、哲学書とか難しげな本に手を出していたもっと若いころに読みたかったかな、とは思ったです。

知というか教養や芸術を渇望している「ぼく」は、教養の近くにいる者に対しては憧れを持ったり、羨望したりしている。が、しかし、その反面、教養の側にいない者――その典型が家族、特に北関東の農村出身で大工の父親なのだけれど、そうした人たちに対しては、嫌悪感や反感を抱いている。その嫌悪や反感はだんだんというか、後には「冷たい批判」へと変化したりする。――ちょっと引きぎみに読んでいると、頭の中けっこう自分勝手なやつだな、みたいなことは思うけれど、知への欲求が強すぎて周りのことが見えなくなっている(p.103のへんなど参照)のか、要するにもともとの性格に加えて若さゆえ、みたいな感じなのかな? 家族のみんな、特にお父さんが、この「ぼく」のことをどう思っていたのか、とか徒然に考えてしまう。そう、あまり関係がないけれど、「ぼく」はちょっと人の家にあがりすぎな気がする。なぜか人の家にあがってからその人に対する評価を(主にマイナス方向へ)改めたり深めたりすることが多い(加藤夫妻、木下家、兄夫婦、高橋さん。あと須藤、最初のほうで触れられる谷口中尉の妹もか)。

主人公は昭和初年(1925年)生まれで、描かれているのは昭和16年(1941年)の正月から昭和19年(1944年)の試験が終わるまで。お兄さん(9つ年上)が召集されたり、時代的に当然、本人にも戦争は重くのしかかっている。独学というか、中学校へは通っていなくて(通わせてもらえなくて)、自分で勉強して検定試験(いまで言えば大検にあたる「専検」)を受けて合格し、4月(昭和17年4月)から浪人生活というか、予備校に通い始めている。それまで独りで勉強していたということもあるし、それが教養や芸術(直接的には高校の文化を味わいたい?)へとつながるからか、予備校や講師たちはおおむね肯定されている。戦争、例えば徴用される不安など以外に「ぼく」の行く手を阻むというか歪めるものとしては、まだ専検を受ける前に、近所の奥さんから誘惑される、といった(ベタな?)話もある。

いちばんの読みどころというか、ちょっと突き抜けていてよいと思うは、予備校での友人、青木くんが、学院長のはからいによる遠足のさいに、生徒たちがいちばん憧れているはずの一高の寮歌を、朗々と歌いあげる場面(pp.131-2)。浪人生であるみんなの間に悲しい一体感と、それでも希望がある、という感じ。(よくいる酒の席で昔、通っていた学校の校歌を歌いだす人とか、個人的には嫌いだけれど、それとは逆。過去でなく未来。あ、でも)主人公はさらにその悲哀(のほう)を、自分を含めて小学校のとき中学校へ進学できなかった者たちのそれと重ね見ている。またあとで(ページ的にはすぐあと)1年目の受験で合格できなかったときに、帰りの汽車のいちばん後ろのデッキで、青木くんをまねてその歌を歌っている。――こういうのは「酔っている?」とか思ってしまうと、それまでだけれど。

いつも書いているようなことも書いておかないと。家は市川(千葉)? 1篇目をちゃんと読んでいないのでよくわからない。家族は大工の棟梁である父、家で献身的に働く母、帰って来て転勤になってまた出て行くアルミの会社に勤める兄(と田舎出の嫁)、時計工場で働き始める妹、あと弟が2人いるらしい。「ぼく」は弟たちを除いてぜんいんを嫌悪している感じ。家族の中で心理的に孤立しているから、予備校に通い始めてからも、そういう意味では「独学」と言えるのかもしれない。意外と金銭的な心配はしていない模様。あ、予備校の月謝を妹の月収と比べて後ろめたく(?)感じている箇所はあったか。

予備校に関してはけっこう具体的に書かれていて、「ぼく」が通い出すのは、受験雑誌の広告で知ったできたばかりの予備校。場所は……どこ? 電車を上中里で降りている。建物は「寄席のあと」らしい。教師は、学院長は別の人らしいけれど、国数英の3人(高橋さん、三井さん、平山さん)、生徒数は6、70人とのこと。途中というか9月からは引っ越して、校舎は本郷(帝大の)農学部裏の通りにある古い洋館、教師も生徒も増えたらしい。関係ないけれど、受験自体もそうだし、予備校も引っ越しているし、女性からも2度誘惑されているし、この小説では2度、2回なことが多い(?)。家庭学習は、一時は近くの木下家の離れ(高校に受かった息子が使っていた場所)で勉強しているけれど、それ以外は2畳の自分の部屋で。本棚の上のほうには『三太郎の日記』や『哲学以前』、『善の研究』、あと『トオマス・マン短篇集』などの教養本が「守護天使」のように飾られている。TVなんかを見ていると受験生の部屋の壁によく「東大合格!」みたいな張り紙がしてあるけれど、あれみたいなもの?(ああいうのはお守りな感じではなく、自分にはっぱをかける勉強への動機付けか)。

受験は1度目は松本の高校。1次は合格して2次の面接試験で落ちている。狭き門の専検に1度で受かっているし、もちろん努力のたまものだろうけれど、勉強が足りなくて落ちたわけではなさそうである。翌年の2度目は、熊本の高校(1次は長崎でも受けられたらしく、そちらで受けている)を受けて合格。最初のほうで文中に夏目漱石の『三四郎』がちらっと出てきているのは、微妙に伏線になっているのかもしれない(この小説について触れた何かの本に「難関五校に進学」と書かれていたけれど「五高」の誤植か)。小説のラストは、また汽車の中。自分が抱えていた歪みがほどける、というか、要するに報われた形で終わっている。連作(続きがある)にしても、高校(いまなら大学)に合格した時点で終わる小説ってどうよ? と思う人は思うかもね。

予備校に通い始めるのは、ページ数的には半分をすぎてからだけれど、浪人生小説としては……どうなのかな、お薦めといえばお薦めかもしれないです。浪人生が読んで役に立ちそうな感じはしないけれど。(量的にはそれほどでもないのだけれど、最近このブログのせいでジャンル的に乱読ぎみで、自分の中の小説に対する評価基準がぶれまくりです(涙)。)
 
同名書(講談社、1981/講談社文庫、1985)所収。単行本には表題作のみ、文庫本にはもう1篇収録されている。※以下、内容についても触れています。この小説も早いところで浪人ではなくなってしまうので、浪人生小説として読むとがっかりな感じだけれど、主人公が付き合うのが予備校の講師であるし、大学に入ってから予備校に関わるアルバイトを始めるので、(個人的にはあまり興味がないけれど)予備校小説として読むとそれなりに面白いかもしれない。

 <予備校生の弓子は、古文の講師三村がしきりと気になった。三村は五十五歳、まるで親と子の年齢差なのに。それに彼には妻と、二号さえいた。しかしそれがなんだ、自分には自分の愛があるはず……少女弓子が遭遇した大人の愛の世界を、みずみずしいタッチで描く。(略)>(文庫の後ろの紹介文より。)

2号vs.3号の戦い(ロボットかよ!)みたいな話なら単純でわかりやすいだろうけれど、そんなふうでもなく。ひと言でまとめると「おとな」のふりをしている(あるいはふりをしいられた)少女が、「おとな」のような「子供」のような歳上の男と付き合い、別れることによって、歳相応で無理のない自然な「おとな」あるいは「子供」(この小説では大学生)に戻る、というような話かな。……全然「ひと言」でまとまっていない(涙)。年齢差が30歳以上、どうせうまくいくわけがない、とはつい思ってしまうし、弓子も周囲の人からそれに似たようなことを言われもするらしいけれど、結局、最後はそんなような感じになって終わる。要するに2人は別れる。なので(?)読みどころは、どう付き合っているかよりも、どう別れるかになるのかな。作家の高橋源一郎はこの小説について次のように書いている。

 <(略)。限りなくさえない男との恋(映画では山崎努がやっていたっけ。けっこう似合っていたような気がする)が、限りなく現実的でせつないこの物語のクライマックスはパックのお惣菜を容器に移すシーンなので、よく注意して読むように。同じ頃、見延典子の『もう頬づえはつかない』という作品もあったが、僕はこっちに軍配をあげる。>(高橋源一郎「ノン・ジャンルのラヴ・ロマンス(日本篇)ベスト50」[ぼくらはカルチャー探偵団編『恋愛小説の快楽 ブックガイド・ベスト600』角川文庫、1990]より。)

丸括弧の中が長くてわかりくいけれど、文法的には「限りなく現実的でせつない」のは「限りなくさえない男との恋」である。三村はたんにさえないわけではなくて、年齢的にというか経験的に女性の口説き方には長けている。「パックのお惣菜を容器に移す」と言い方も、なにやら違うイメージを抱きそうな表現だけれど、デパートの包み紙のまま開いてテーブルの上に置いてあった冷えたお惣菜を、参考書のゴースト・ライターをして得たお金で買った、いちばん気に入っている小鉢(「容器」といえば「容器」か)に移している。――2人の別れに繋がっていく場面なのだけれど、ここが本当に「クライマックス」なのだろうか、確かに注意して読まないとわからないかもしれない。

浪人に関係するコメントは、こんな箇所くらいしかないかな。

 <(略)。予備校では、学力の絶対評価によってしか人間は分類されない。そして、弓子にとっても、受験勉強は確実に結果を伴って、自分のあらゆる行為を正当化してくれるはずの格好の逃げ場であった。/「栄光の陰に涙あり」/とか、「今泣くか、後で泣くか」/とか言って、受験が迫るにつれてますます元気になっていく友人達から仲間はずれにはなりたくなかった。希望大学には、どうしても入らなければならなかった。>(p.21)

この小説では友人(たち)というのがちょっとくせもの、かな。「ハンサム君」という人以外は直接は登場してこないけれど。弓子は友達たちや母親には三村とのことを隠さずに話しているらしく、よくある(?)2人だけ、みたいな閉じた関係にはなっていない(あるいは、なっていないようでなっている?)。ところで、入試日が近づくとどうして友人達は「元気になっていく」の? 焦燥感とかで壊れぎみ、テンションがおかしくなっているのを、主人公が誤解しているだけだったり? あと、「学力の絶対評価」というのもちょっとハテナかな。受験がらみの「学力」というのは、基本的に「相対評価」でしょう? 偏差値にしても、成績ランキングにしてもそうだし、実際の大学入試にしても人よりも点数が取れれば合格するわけだし。たぶんそういう意味の「絶対」ではないと思うけれど。(「結果」「正当化」うんぬんについては、高田崇史<千波くん>のぴいくんも、浪人の世界は、結果のみが問われ過程が問われないフィリップ・マーロウな世界、とかなんとか言っていたような。)

プロフィール的なことを書いておかないと。高校は女子高で、田舎から出てきているらしい。1人暮らしだったのかな(大学生になってからはアパートで三村と半同棲のような感じ)。母親は元教師で、職業はわからないけれど父親は厳しい人らしい。通っている予備校は……どこ? 代々木の駅から歩ける距離にあるみたい(東京の地理に疎くてすみません)。特待生で、三村の授業では、授業が始まる前に黒板にテキストの答えを書いてしまう助手的な存在らしい。大学(早稲田大学)には受かる。描かれているのは、予備校の新学期(9月?)から、最後「メーデーの代々木駅前」(p.122)と言っているので、大学2年の5月まで?

どうでもいいけれど、三村の年齢が最初と最後で矛盾しているような。最後、もう1年歳を取っていないとおかしいような気がする。あと、これもどうでもいいといえばどうでもいいのだけれど、

 <「お前はかわいいな」/(略)/「誰と比べて?」/(略)/「えっ?」/「『は』っていうのは区別を表わす格助詞でしょう?」/「じゃ、何て言えばいい?」/「主語は、いらないと思いますけど……」/「そうか。……かわいいな」>(p.41)

「は」っていうのは助詞でしょう? ――という決め付けもよくないか(汗)。国語教師の三村は、暗喩と隠喩の違いにはちょっとうるさそうなのに、この格助詞と副助詞の区別にはまったくツッコミを入れていない(うーん…)。会話自体はどこかで聞いたことがあるような「今日はきれいだね」「今日は?」「今日も」――みたいなものと同じタイプか(こちらの「は」はもう格助詞とは言えないかも)。関係ないけれど、「た?」みたいな返しもよくあるか、「なんで過去形?」みたいな意味で。

そう、この小説、笑えるほどではないけれど、ちょくちょく“言葉”が面白い。受験に関係するものでは、誰が言い出したのか、たまに見かけるけれど、「一浪は「ひとなみ」と読む」(p.9)とか、私も昔この覚え方で覚えたけれど、古典文法の語呂合わせ「サ未四已(寂しい)完了の“り”」(p.57)とか。あと、早稲田ってどうして中退する人が多いんだろうね、弓子たちは卒業することを「タテに出る」、中退することを「ヨコに出る」と言っているらしい(p.110)。

[追記]初出は『早稲田文学』1981年4月で、単行本は同年5月に出ているようだ。
 
主人公の年齢があがっていくタイプの連作集『律子慕情』(集英社、1998/集英社文庫、2000)所収。6篇中の4篇目。小池真理子の小説ってそれほど苛々はしないけれど、何か変な気がする。違和感がある。その「何か」がわかれば苦労(?)はしないのだけれど。※いつものように以下、ネタバレにはご注意ください。

父親の学生のときの先輩で、家によく訪ねてくる本間のおじさん(とてもいい人)には実は隠し子がいたらしく、母親と祖母と3人で暮らしていたその子(中3)を、ある事情から――というか、母親が家出して、祖母が怪我で入院してほかに行き所がなく――「私」(木所律子)の家で一時的に預かることに。尼崎からやって来た関西弁のその少年はとても素朴で、すぐに顔を赤らめる(勉強はできないけれど)とてもいい子。――ひと言でいうと(だいぶ違う気もするけれど、でもやっぱり?)ガール・ミーツ・ボーイという感じなのかな、その子(石田光男)がやってくるのは、8月。

 <昭和四十六年八月。その年、大学受験に失敗した私は予備校に通っていた。夏ともなると、クーラーの効いた場所を求めてやって来る予備校生たちで、教室は芋の子を洗うような混雑ぶりになる。だから私は夏期講習を受けるのをやめ、夏の間は自宅で勉強することに決めていた。>(文庫、p.129)

4人掛けの椅子に5人で座らせられるとか?(cf.中沢けい「海を感じる時」)。教室だけでなく(あれば)自習室とかも混んでいるだろうしね。関係ないけれど、「芋の子を洗うような」ってなんだか久しぶりに聞いた言葉な気がする(「の子」って必要だっけ?)。あと、昭和46年(1971年)、予備校=涼しいというのがちょっと時代を感じる(cf.盛田隆二「新宿の果実」)。いまふつうに、家に冷房くらいあるもんね(って私はいまだに扇風機だけれど(汗)。cf. 同じくらいの時代に浪人している遠藤周作『ただいま浪人』)。

あと、浪人生小説として気になるのは、主人公りっちゃんには、付き合っている同じく浪人生の彼氏(遠藤伸也)がいるのだけれど――引用させてもらえば、

 <私と伸也とは、大学に合格するまでは決して身体の関係は持たない、という約束を交し合っていた。キスはいい、抱き合うのもかまわない、乳房に少し触れるのもよしとしよう、だがスカートの下、下半身に触れてはならない、苦しくなったらその気持ちを勉強にふりあてよう、入試に合格したら、いくらでも好きなことができるのだから……というのが私たちが取り交わした、子供じみた大まじめな約束の内容であった。>(同、p.141)

浪人生どうし…じゃなくても受験生どうしで付き合っている人たちはどうしているのかな? 体がどうのこうの(線引き問題?)よりも、今は(?)デートとかメールとかで時間を取られるほうが問題だと思うのだけれど、どうなんだろうね。そのへん(時間のやりくり)を失敗してしまうと、男の子のほうだけ落ちる(しかもふられる)、みたいなありがちな結果になるような。よくわからないけれど。この小説では伸也くんも、一線を超えなかったおかげで(?)大学には受かっている(でも、次の1篇「流星」を読むと早くもふられている)。以前にも書いたような気がするけれど、「入試に合格したら、いくらでも好きなことができる」というのは、ある意味では幻想だよね。受験生には必要とされる“にんじん”かもしれないけれど。

書き忘れたけれど、家は東京(のどこ?)。家族は両親のほかに双子の妹たちがいる。
 
角川書店、2002。文庫化はされていない? 図書館で単行本を借りて、読み始めてみて……早めに挫折。というか、読む気がしない(汗)。とりあえず、浪人時期は21ページまでで終わり。しかもその短いページ数に中学の回想も挟まっている。要するに浪人生小説として読むと、かなりがっかりな感じ。

浪人生のありすは、上京してアルバイト(コンビニやファミレス)をしながら予備校に通っている。ただ、高校のときの友達2人(上京している)には、国立の女子大に通っているふりをしているらしい。頭はよいというか、成績はよかったらしい。志望は「そんなにエリートじゃなくてもいいから、まあまあの大学」とのこと。国立大学に通っていると嘘をついているのに、予備校では「とりあえず一流私大コースに在籍している」らしい。大学には、翌年ふつうに受かっちゃうみたいね。

浪人の世界は男の世界だから(?)しかたがないのかもしれないけれど、浪人生女子が主人公の長篇小説って本当に少ないな。何かまともなものってある? 検索(ネットや図書館にて)のしかたが悪いのかな。仮に主人公が浪人生であっても、女の子の場合、浪人生であることがあまり意味をなしていないのか、なんなのか(だから検索にもかかりにくい?)。
 

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