最近読んだ小説またはエッセイ×4
2011年11月17日 読書・亀和田武「1966年冬、ハートブレイク・ホテル」/「時間の街路」
SF短篇集『時間街への招待状』(光風社、1985/新潮文庫、1987)所収、15篇収録されているうちの最初の一篇と最後の一篇。両方とも忘れられない過去=元彼女がらみの物語というか。前者(主人公の小木曾康彦は<音楽ライターとか作詞家>)では、15年前の高校3年のときのことが語られている。後者(「ぼく」=皆川幸夫はサラリーマン)では、10年前の大学1年(=1968年)くらいのときのことが語られている。前者、入試よりも彼女のほうが大事だった、みたいなことが書かれている。
<なに、志望校の入試に失敗したとしても、一年浪人すればすむ話じゃないか(略)。/なにしろ、大学の入学試験には来年があるが、恋には明日さえない。その日、その日が勝負なのだから。それくらい、ぼくは彼女に夢中だった。/多分、女と入試をハカリにかけて、あえて女を選ぶというその決断にぼくはヒロイックな喜びを味わっていたに違いない。しかし、そのことを指摘するだけでは、やはり片手落ちというものだ。彼女が素晴らしく魅力的な子でなかったら、ぼくもそこまでノボセ上がったりはしなかったはずだ。>(p.15、「康彦」ではなく「ぼく」となっているのは作中エッセイだから)
高校3年の受験生には読ませたくないというか、教育上よろしくない文章?(汗)。「ヒロイックな喜び」というのが個人的には微妙に意味がわからないな…。誰に対して「ヒロイック」? あ、自分に対してか(「俺ってかっこいい!」みたいな?)。あと、もし仮に彼女がそれほど「魅力的な子」でなかったとしたら、この人の場合、入試(受験勉強)のほうが優先されていたのかな? なんだか差別だな…。というか、どうでもいいか。どのみち、12月中にはフラれた形になっているから(汗)。しかも、ちゃんと予定通り(?)1年浪人しているようだし。そう、最後の最後、女性のほうはハッピーエンドかもしれないけれど、男性のほうは、なにやらちょっと微妙な感じ? 後者の作品=「時間の街路」は、なんていうか“学生運動もの”だけれど、主人公は浪人中(=1967年)は、まだデモとかには参加したりしていなかったのかな?(大学に入学してから?)。世代的によくわからないけれど、「神田川」の世界?(違うか)。カップルどうしで別々のセクトに属している、みたいなことは当時、よくあったの?
・久世光彦「風の童話」
小説ではなくてエッセイだけれど、小説として読んでいたような。エッセイ集『美の死 ぼくの感傷的読書』(筑摩書房、2001/ちくま文庫、2006)所収。[小川未明]という副題があるというか、初出は<「新潮日本文学アルバム60」一九九六年三月>とのこと。文庫版では7ページ弱の短いもの。私が内容を説明するより読んでもらったほうが早いと思うけれど、もう絶版?(この前、後ろの解説を書いている鴻巣友季子の『全身翻訳家』(ちくま文庫)を買ってみたら、カバー折り返しのお薦め(?)既刊本リストのところに名前が載っていなかった)。すごく面白かった…というと、気分とちょっとずれるかな(あいかわらずボキャ貧ですみません)。とりあえずある意味、感傷的な話ではある。――40年前の話、
<十九歳の秋から次の年の春近くまで、天沼のアパートで、一つ年上の女の子と暮らしたことがある。(略)――昭和三十年、私はようやく東京の生活に慣れはじめた、二年目の予備校生だった。>(p.147)
アパートは風の通り道にあったらしい。というか、久世光彦(1935年生まれ、東大卒)は浪人していたのか、知らなかった。“浪人生小説”というよりは“19歳小説”だけれど。えーと、詩ではなく童話を書く体の熱い「女の子」…。相手を傷つける若さゆえの身勝手さとか、うーん…、いい話…ではないけれど、いい話だと思う(意味不明か)。
・坂上弘「本町通り三丁目」
手もとにあるのは、旺文社文庫『遅い帰りの道で』(1978)。5篇中の3篇目。後ろの「年譜」を見ると、初出は『群像』1971年2月号であるようだ。――読んでいて意外と面白かったな。どこがどう面白かったのか、考えてみてもさっぱりわからないけれど(汗)。――15年前=昭和29年の話、大学に受かった「僕」(=信二、苗字は山崎)は家を出て、それ以前から付き合っていた美代子とアパートで同棲生活(「結婚生活」)を始める。仕事というかアルバイトをして稼がなくてはいけないし(家庭教師をしている)、美代子は妊娠して手術後には具合が悪くなっているし、大学にいけば、若い女子学生たちが華やかに見えるし――というか、なんだかんだ言って小南福子という女の子と付き合っているし…。そう、家主のHさんはいい人でよかったよね。本の後ろの「年譜」を見ると、作者は大学1年のときには杉並区高円寺のアパートに住んでいたようだけれど(その後、引っ越したりしている)、この小説=「本町通り~」は、中野区でいい?(東京のことがよくわからん、調べる気もないし(汗))。――ちゃんと登場してくるわけではないけれど、浪人中の元同級生が。
<昭和二十九年の春、友人の月岡と一緒に受けたK大学には当然受かるはずの月岡が落ちて反対に僕の方が受かってしまった。僕は受験が近づいても美代子と会ったりして殆ど家に寄りつかない生活をしており、家からせしめた受験料をおおかた使ってしまったりして、たった一つだけ受けることにしたK大の文学部に落ちたらそのままどうにでもなれというつもりだった。/(略)/しかし実際に浪人して落胆した月岡と喋っていると、(略)>(p.72)
こういうことがあるから、友達と一緒に合格発表は見に行っちゃいけない! と思うんだけれど、まぁこの2人は仲が悪くなってはいないようだから、別にいいか。月岡くん、その後、「僕」たちのアパートに転がり込んだりもしているけれど(「僕」と同じで家を出たがっている)、結局のところ、大学生にはなれたのかな?(書かれていないのでわからない)。あと、藤井という1年先輩がいるらしい。1年浪人していて「僕」と大学では同級生。(関係ないけれど、最初のへんに出てくる<路地には石炭殻>(p.69)。この「石炭殻」というのは「コークス殻」とも言う? どういうものだったんだろう?(それとも意識せず、どこかで見たことがあるのかな…)。よく知らないけれど、現在のアスファルトにしても、石油の残り部分から作られているんだっけ? であれば、似たようなもんだな、道路は。)
・三木卓「炎に追われて」
『童貞小説集』(小谷野敦編、ちくま文庫)に収録されているのってこれだっけ?(本屋で探してみたらもう売っていなかった(涙))。いま手もとにあるのは、『ミッドワイフの家』(講談社、1973/講談社文庫、1978)の文庫のほう(もちろん古本)。3篇中の2篇目に収録されている。後ろの「解説」(高橋英夫)によれば、初出は『群像』1973年1月号であるようだ。なんていうか微妙な小説? 純文学系の小説、例によって私にはところどころ意味がわからなかったりするけれど。あと、そう、あまり読んだことがないけれど、三木卓の小説って、ちょっと病んでいるように感じることがある(そんなこともない?)。ま、病んでいるのは読んでいる自分のほうかもしれないけれど(涙)。若いころ(高校~大学ぐらいのとき)に読んでいたら、どう思ったかな、この小説…。うーん、やっぱり微妙な小説だと思ったかも(わからないけれど)。――季節は最初は夏、目の前は雑草原で草ぼうぼうな借家に暮らしている大学生の「わたし」(=匹田)。大学は東大を落ちて<二期校だった地方の国立大学の学芸学部理科専攻>(p.89、「地方」といっても東京の隣県)で、高校のときには生物クラブに所属――とにかく植物や昆虫にはちょっと詳しい感じ。以前は、看護学校に通う妹の菊代(2つ歳下)も一緒に暮らしていたけれど、男(医師)を作って出て行ってからは1人きり。男子学生のひとり暮らし、掃除が行き届くはずもなく、性的にも孤独だし(解説で「性的孤独」という言葉が使われている)、その住み処を「わたし」は<窖(あなぐら)>と称している。雑草原の向こうには、はるみ(本名・山口君子)のやっている食堂兼飲み屋(「はるみ」)があって、「わたし」はふだんはそこで食事をしたり…。妹は男を知っているのに、「わたし」ははまだ女を知らない…みたいなことも言っていて、えーと、妹の友人の和子(薬科大学の学生。苗字は古石、<鍼医の娘で、われわれの地元ではよく名の通った家>とのこと、p.100)にアプローチしてみたり、はるみ(若くはないというか、胸も垂れていて、首には皺もみられる。直子という小学生の子どもが1人いる)にも結局、接近していったり…。ひと言でまとめれば、♪愛をください、ウォウォ、愛をください、ウォウォ、動物園動物園…みたいな感じ?(違うか(汗))。他人の体を必要とするという意味では、性行為というのは、多かれ少なかれ、身勝手な行為にならざるを得ないというか、ある程度の強引さがないと童貞は捨てられないというか。うーん…、思うにこの主人公、ちょっと自分勝手? 微妙に冷静でもあるかな。(よく覚えていないけれど、以前読んだことがある小檜山博『地吹雪』(河出書房新社、1982)はもっと肉食系…というか動物系だったような。一方のこちらは草食系…ではなくて、昆虫系?)――真面目な話はもういいや、疲れるから(涙)。射精とロケットはイメージ的に相性がいい?(くだらないことを言ってみる(汗))。作中年、ロシア…じゃなくてソビエトが人類初の人工衛星の打ち上げに成功…というのは、スプートニクな1957年かな。それはそれとして、「わたし」には、菊代に会いに来ていたらしい木俣という友人(のちに絶交)がいたらしい。
<(略)。かれは高校で一緒に生物クラブをやっていた男だが、二年浪人したあげく東京大学に入学したのだ。学校時代の成績はどちらかといえばわたしの方が多少良かったかもしれない。卒業後は疎遠になっていたが、ある日、かれは制帽をかぶってこの家にあらわれ、(略)>(pp.90-1)
「わたし」はあとのほうで1度、自分は東大にも受からなかった、みたいなことも言っているけれど、いわゆる「二期校コンプレックス」という感じ…はしないかな。そういえば、大学の何年生? …4年かな(ちゃんと読み直さないとわからないけれど)。
SF短篇集『時間街への招待状』(光風社、1985/新潮文庫、1987)所収、15篇収録されているうちの最初の一篇と最後の一篇。両方とも忘れられない過去=元彼女がらみの物語というか。前者(主人公の小木曾康彦は<音楽ライターとか作詞家>)では、15年前の高校3年のときのことが語られている。後者(「ぼく」=皆川幸夫はサラリーマン)では、10年前の大学1年(=1968年)くらいのときのことが語られている。前者、入試よりも彼女のほうが大事だった、みたいなことが書かれている。
<なに、志望校の入試に失敗したとしても、一年浪人すればすむ話じゃないか(略)。/なにしろ、大学の入学試験には来年があるが、恋には明日さえない。その日、その日が勝負なのだから。それくらい、ぼくは彼女に夢中だった。/多分、女と入試をハカリにかけて、あえて女を選ぶというその決断にぼくはヒロイックな喜びを味わっていたに違いない。しかし、そのことを指摘するだけでは、やはり片手落ちというものだ。彼女が素晴らしく魅力的な子でなかったら、ぼくもそこまでノボセ上がったりはしなかったはずだ。>(p.15、「康彦」ではなく「ぼく」となっているのは作中エッセイだから)
高校3年の受験生には読ませたくないというか、教育上よろしくない文章?(汗)。「ヒロイックな喜び」というのが個人的には微妙に意味がわからないな…。誰に対して「ヒロイック」? あ、自分に対してか(「俺ってかっこいい!」みたいな?)。あと、もし仮に彼女がそれほど「魅力的な子」でなかったとしたら、この人の場合、入試(受験勉強)のほうが優先されていたのかな? なんだか差別だな…。というか、どうでもいいか。どのみち、12月中にはフラれた形になっているから(汗)。しかも、ちゃんと予定通り(?)1年浪人しているようだし。そう、最後の最後、女性のほうはハッピーエンドかもしれないけれど、男性のほうは、なにやらちょっと微妙な感じ? 後者の作品=「時間の街路」は、なんていうか“学生運動もの”だけれど、主人公は浪人中(=1967年)は、まだデモとかには参加したりしていなかったのかな?(大学に入学してから?)。世代的によくわからないけれど、「神田川」の世界?(違うか)。カップルどうしで別々のセクトに属している、みたいなことは当時、よくあったの?
・久世光彦「風の童話」
小説ではなくてエッセイだけれど、小説として読んでいたような。エッセイ集『美の死 ぼくの感傷的読書』(筑摩書房、2001/ちくま文庫、2006)所収。[小川未明]という副題があるというか、初出は<「新潮日本文学アルバム60」一九九六年三月>とのこと。文庫版では7ページ弱の短いもの。私が内容を説明するより読んでもらったほうが早いと思うけれど、もう絶版?(この前、後ろの解説を書いている鴻巣友季子の『全身翻訳家』(ちくま文庫)を買ってみたら、カバー折り返しのお薦め(?)既刊本リストのところに名前が載っていなかった)。すごく面白かった…というと、気分とちょっとずれるかな(あいかわらずボキャ貧ですみません)。とりあえずある意味、感傷的な話ではある。――40年前の話、
<十九歳の秋から次の年の春近くまで、天沼のアパートで、一つ年上の女の子と暮らしたことがある。(略)――昭和三十年、私はようやく東京の生活に慣れはじめた、二年目の予備校生だった。>(p.147)
アパートは風の通り道にあったらしい。というか、久世光彦(1935年生まれ、東大卒)は浪人していたのか、知らなかった。“浪人生小説”というよりは“19歳小説”だけれど。えーと、詩ではなく童話を書く体の熱い「女の子」…。相手を傷つける若さゆえの身勝手さとか、うーん…、いい話…ではないけれど、いい話だと思う(意味不明か)。
・坂上弘「本町通り三丁目」
手もとにあるのは、旺文社文庫『遅い帰りの道で』(1978)。5篇中の3篇目。後ろの「年譜」を見ると、初出は『群像』1971年2月号であるようだ。――読んでいて意外と面白かったな。どこがどう面白かったのか、考えてみてもさっぱりわからないけれど(汗)。――15年前=昭和29年の話、大学に受かった「僕」(=信二、苗字は山崎)は家を出て、それ以前から付き合っていた美代子とアパートで同棲生活(「結婚生活」)を始める。仕事というかアルバイトをして稼がなくてはいけないし(家庭教師をしている)、美代子は妊娠して手術後には具合が悪くなっているし、大学にいけば、若い女子学生たちが華やかに見えるし――というか、なんだかんだ言って小南福子という女の子と付き合っているし…。そう、家主のHさんはいい人でよかったよね。本の後ろの「年譜」を見ると、作者は大学1年のときには杉並区高円寺のアパートに住んでいたようだけれど(その後、引っ越したりしている)、この小説=「本町通り~」は、中野区でいい?(東京のことがよくわからん、調べる気もないし(汗))。――ちゃんと登場してくるわけではないけれど、浪人中の元同級生が。
<昭和二十九年の春、友人の月岡と一緒に受けたK大学には当然受かるはずの月岡が落ちて反対に僕の方が受かってしまった。僕は受験が近づいても美代子と会ったりして殆ど家に寄りつかない生活をしており、家からせしめた受験料をおおかた使ってしまったりして、たった一つだけ受けることにしたK大の文学部に落ちたらそのままどうにでもなれというつもりだった。/(略)/しかし実際に浪人して落胆した月岡と喋っていると、(略)>(p.72)
こういうことがあるから、友達と一緒に合格発表は見に行っちゃいけない! と思うんだけれど、まぁこの2人は仲が悪くなってはいないようだから、別にいいか。月岡くん、その後、「僕」たちのアパートに転がり込んだりもしているけれど(「僕」と同じで家を出たがっている)、結局のところ、大学生にはなれたのかな?(書かれていないのでわからない)。あと、藤井という1年先輩がいるらしい。1年浪人していて「僕」と大学では同級生。(関係ないけれど、最初のへんに出てくる<路地には石炭殻>(p.69)。この「石炭殻」というのは「コークス殻」とも言う? どういうものだったんだろう?(それとも意識せず、どこかで見たことがあるのかな…)。よく知らないけれど、現在のアスファルトにしても、石油の残り部分から作られているんだっけ? であれば、似たようなもんだな、道路は。)
・三木卓「炎に追われて」
『童貞小説集』(小谷野敦編、ちくま文庫)に収録されているのってこれだっけ?(本屋で探してみたらもう売っていなかった(涙))。いま手もとにあるのは、『ミッドワイフの家』(講談社、1973/講談社文庫、1978)の文庫のほう(もちろん古本)。3篇中の2篇目に収録されている。後ろの「解説」(高橋英夫)によれば、初出は『群像』1973年1月号であるようだ。なんていうか微妙な小説? 純文学系の小説、例によって私にはところどころ意味がわからなかったりするけれど。あと、そう、あまり読んだことがないけれど、三木卓の小説って、ちょっと病んでいるように感じることがある(そんなこともない?)。ま、病んでいるのは読んでいる自分のほうかもしれないけれど(涙)。若いころ(高校~大学ぐらいのとき)に読んでいたら、どう思ったかな、この小説…。うーん、やっぱり微妙な小説だと思ったかも(わからないけれど)。――季節は最初は夏、目の前は雑草原で草ぼうぼうな借家に暮らしている大学生の「わたし」(=匹田)。大学は東大を落ちて<二期校だった地方の国立大学の学芸学部理科専攻>(p.89、「地方」といっても東京の隣県)で、高校のときには生物クラブに所属――とにかく植物や昆虫にはちょっと詳しい感じ。以前は、看護学校に通う妹の菊代(2つ歳下)も一緒に暮らしていたけれど、男(医師)を作って出て行ってからは1人きり。男子学生のひとり暮らし、掃除が行き届くはずもなく、性的にも孤独だし(解説で「性的孤独」という言葉が使われている)、その住み処を「わたし」は<窖(あなぐら)>と称している。雑草原の向こうには、はるみ(本名・山口君子)のやっている食堂兼飲み屋(「はるみ」)があって、「わたし」はふだんはそこで食事をしたり…。妹は男を知っているのに、「わたし」ははまだ女を知らない…みたいなことも言っていて、えーと、妹の友人の和子(薬科大学の学生。苗字は古石、<鍼医の娘で、われわれの地元ではよく名の通った家>とのこと、p.100)にアプローチしてみたり、はるみ(若くはないというか、胸も垂れていて、首には皺もみられる。直子という小学生の子どもが1人いる)にも結局、接近していったり…。ひと言でまとめれば、♪愛をください、ウォウォ、愛をください、ウォウォ、動物園動物園…みたいな感じ?(違うか(汗))。他人の体を必要とするという意味では、性行為というのは、多かれ少なかれ、身勝手な行為にならざるを得ないというか、ある程度の強引さがないと童貞は捨てられないというか。うーん…、思うにこの主人公、ちょっと自分勝手? 微妙に冷静でもあるかな。(よく覚えていないけれど、以前読んだことがある小檜山博『地吹雪』(河出書房新社、1982)はもっと肉食系…というか動物系だったような。一方のこちらは草食系…ではなくて、昆虫系?)――真面目な話はもういいや、疲れるから(涙)。射精とロケットはイメージ的に相性がいい?(くだらないことを言ってみる(汗))。作中年、ロシア…じゃなくてソビエトが人類初の人工衛星の打ち上げに成功…というのは、スプートニクな1957年かな。それはそれとして、「わたし」には、菊代に会いに来ていたらしい木俣という友人(のちに絶交)がいたらしい。
<(略)。かれは高校で一緒に生物クラブをやっていた男だが、二年浪人したあげく東京大学に入学したのだ。学校時代の成績はどちらかといえばわたしの方が多少良かったかもしれない。卒業後は疎遠になっていたが、ある日、かれは制帽をかぶってこの家にあらわれ、(略)>(pp.90-1)
「わたし」はあとのほうで1度、自分は東大にも受からなかった、みたいなことも言っているけれど、いわゆる「二期校コンプレックス」という感じ…はしないかな。そういえば、大学の何年生? …4年かな(ちゃんと読み直さないとわからないけれど)。
源氏鶏太 『緑に匂う花』
2011年11月16日 読書
講談社文庫から出ているようなので、地元ブッ○オフなどで探してみたものの、結局、見つからず。いま手もとにあるのは図書館から借りてきた(検索したら1冊しか出てこなかった)講談社のRoman Books(ロマンブックス)という新書サイズのもの(1957年)。単行本情報などはまったく書かれていない。というか、読んでみたものの、浪人生はぜんぜん出てこなかったです(涙)。何かほかの小説と間違えたっぽいな…。ま、でも、けっこう面白かったからよかったけれど。あ、弟の五郎は(家族ともども)大学進学を希望している高校生なので、いちおう「受験生」と言えるかも(17歳だっけ? 何年生?)。
深刻な問題はいくつか起こっているけれど、全体的にけっこうほのぼの小説だったかもしれない。そう思ってしまうのは、やっぱりすさんでいる(?)いまのご時世に読んでいるからかな?(うーん…)。主人公というかは、桑野蕗子(ふきこ)・22歳。両親と弟と5人で高円寺(2階建ての借家)で暮らしていて、丸の内(東京駅)の会社に勤めている。いいお年ごろ(?)なので、会社にいる同僚やら、三郎兄さんの同僚やらから言い寄られたり、夫の転勤で北海道にいる伸子姉さんが送り込んでくる良平さん(桑野家で一緒に暮らすことに)に心惹かれたり…。蕗子には、結婚している太郎、次郎、三郎の3人の兄がいて(本当はもう1人=四郎がいたけれど、戦死している)たまたま3夫婦とも、わりと近くに暮らしていて(東京のことはほとんど知らないけれど、この小説も“中央線沿線小説”?)、結婚というものを考えた場合、蕗子にとって良くも悪くも、モデルケースになっている。あ、忘れていた、もう1人の姉・律子姉さんの夫婦も、近くに暮らしている。太郎兄さんには“かくし女”がいるし、次郎兄さんは売れない画家だし、…細かいことはいいか。一方、お父さん(58歳だっけ?)の嘱託の契約が数ヶ月後には切れてしまうので(定年は3年前に迎えている)、そのあと両親(と五郎)の面倒は誰がどうするのか、みたいな問題(?)も発生している。子どもがたくさんいるのにな――とは読んでいるこちらも思ったけれど、なかなかするっとは解決しない問題なようだ。そう、このお母さん、子どもを8人も産んでいるんだよね。でも、当時としては「多い」というほどでもなかったのか…。あ、この前読んだ井伏鱒二『貸間あり』の主人公(=ユミ子)は、空襲によって母親と弟が行方不明で、戦後、東京で身寄りがない状態だし、…まぁ人それぞれ、家族それぞれかもしれないけれど、でも、この桑野家はわりと恵まれているほう?
今日もぜんぜん感想を書いていないな…。誰でも思うかもしれないけれど、蕗子さんが自転車に乗りながら歌っている“自転車の歌”が、やっぱりすごくよかったな…。歌というか、歌っている場面が。そう、作中の時代はいつくらい? 昭和30年前後くらいか(「前後」ではなくて「前」=まだ昭和20年代かな)。弟が通っているのが「高校」ではなくて「新制高校」。学制改革って何年だっけ? これ、調べてもすぐに忘れちゃうんだよな、年号が暗記できない(涙)。1947年とか48年とか、そのへんだっけ? あと、蕗子の会社での様子を読んでいると、いまほど仕事とプライベートは分けなくてもいいんじゃないか、とか思えてくる(ひるがえっていえば、現代社会はやっぱり殺伐としている?)。関係ないけれど、本の後ろに「ロマンブックス総目録」という既刊書の広告(リスト)が載っていて(手もとにある図書館本は第1刷ではなくて<昭和49年4月30日 第30刷発行>だから、昭和49年=1974年以前のもの?)、それを見ると、源氏鶏太のものは40冊以上(!)も出ている(えーと、最後が「AS」だから、…40冊以上でいいんだよね。1つずつ数える気がしない(汗)。A~Z, AA~AS)。かなり売れていたのかもしれない。文庫でいえば、講談社文庫以外にも、角川文庫や集英社文庫からもけっこう出ているよね? ときどき古本屋で見かける感じでは。(ぜんぜん関係ないけれど、同じリストには、遠藤周作の『一、ニ、三!』や『灯のうるむ頃』、大谷洋太郎『殺意の演奏』の名前も見られる。新書判でも出ていたのか、知らなかった。)
深刻な問題はいくつか起こっているけれど、全体的にけっこうほのぼの小説だったかもしれない。そう思ってしまうのは、やっぱりすさんでいる(?)いまのご時世に読んでいるからかな?(うーん…)。主人公というかは、桑野蕗子(ふきこ)・22歳。両親と弟と5人で高円寺(2階建ての借家)で暮らしていて、丸の内(東京駅)の会社に勤めている。いいお年ごろ(?)なので、会社にいる同僚やら、三郎兄さんの同僚やらから言い寄られたり、夫の転勤で北海道にいる伸子姉さんが送り込んでくる良平さん(桑野家で一緒に暮らすことに)に心惹かれたり…。蕗子には、結婚している太郎、次郎、三郎の3人の兄がいて(本当はもう1人=四郎がいたけれど、戦死している)たまたま3夫婦とも、わりと近くに暮らしていて(東京のことはほとんど知らないけれど、この小説も“中央線沿線小説”?)、結婚というものを考えた場合、蕗子にとって良くも悪くも、モデルケースになっている。あ、忘れていた、もう1人の姉・律子姉さんの夫婦も、近くに暮らしている。太郎兄さんには“かくし女”がいるし、次郎兄さんは売れない画家だし、…細かいことはいいか。一方、お父さん(58歳だっけ?)の嘱託の契約が数ヶ月後には切れてしまうので(定年は3年前に迎えている)、そのあと両親(と五郎)の面倒は誰がどうするのか、みたいな問題(?)も発生している。子どもがたくさんいるのにな――とは読んでいるこちらも思ったけれど、なかなかするっとは解決しない問題なようだ。そう、このお母さん、子どもを8人も産んでいるんだよね。でも、当時としては「多い」というほどでもなかったのか…。あ、この前読んだ井伏鱒二『貸間あり』の主人公(=ユミ子)は、空襲によって母親と弟が行方不明で、戦後、東京で身寄りがない状態だし、…まぁ人それぞれ、家族それぞれかもしれないけれど、でも、この桑野家はわりと恵まれているほう?
今日もぜんぜん感想を書いていないな…。誰でも思うかもしれないけれど、蕗子さんが自転車に乗りながら歌っている“自転車の歌”が、やっぱりすごくよかったな…。歌というか、歌っている場面が。そう、作中の時代はいつくらい? 昭和30年前後くらいか(「前後」ではなくて「前」=まだ昭和20年代かな)。弟が通っているのが「高校」ではなくて「新制高校」。学制改革って何年だっけ? これ、調べてもすぐに忘れちゃうんだよな、年号が暗記できない(涙)。1947年とか48年とか、そのへんだっけ? あと、蕗子の会社での様子を読んでいると、いまほど仕事とプライベートは分けなくてもいいんじゃないか、とか思えてくる(ひるがえっていえば、現代社会はやっぱり殺伐としている?)。関係ないけれど、本の後ろに「ロマンブックス総目録」という既刊書の広告(リスト)が載っていて(手もとにある図書館本は第1刷ではなくて<昭和49年4月30日 第30刷発行>だから、昭和49年=1974年以前のもの?)、それを見ると、源氏鶏太のものは40冊以上(!)も出ている(えーと、最後が「AS」だから、…40冊以上でいいんだよね。1つずつ数える気がしない(汗)。A~Z, AA~AS)。かなり売れていたのかもしれない。文庫でいえば、講談社文庫以外にも、角川文庫や集英社文庫からもけっこう出ているよね? ときどき古本屋で見かける感じでは。(ぜんぜん関係ないけれど、同じリストには、遠藤周作の『一、ニ、三!』や『灯のうるむ頃』、大谷洋太郎『殺意の演奏』の名前も見られる。新書判でも出ていたのか、知らなかった。)
井伏鱒二 『貸間あり』
2011年10月26日 読書
いつもの図書館で検索してみたら『井伏鱒二全集 第十一巻』(筑摩書房、1998)というものしか出てこなくて、だからいま手もとにあるのは借りてきたそれです。たまたま講談社文庫『山椒魚・本日休診』を持っているのだけれど(第1刷は1971年で、持っているのは1983年の第15刷)、後ろに付いている「年譜」を見ると、昭和23年(1948年、50歳)のところに<八月、書下ろし長編『貸間あり』を鎌倉文庫から刊行。>とある。でも、借りてきた本の後ろの「解題」を見ると、書き下ろしではなくて、もともと連載だったようだ。<1948(昭和23)年1月29日発行『週刊サンニュース』(サン出版)第8号から同年5月10日印刷納本第14号まで計7回にわたって「貸間アリ」の標題で連載。>(p.608、原文漢数字)とのこと。文庫本もいちおう出ているらしい(角川文庫『貸間あり・おこまさん』1959)。ちなみに弟子の太宰治が亡くなったのは、1948年の6月。
ひょうひょうとした微妙なユーモア小説? 面白いとは思うけれど、私にはちょっと薄味だったかな…。それとも例によって美味しい部分が読めていないだけ?(涙)。ひと言でいえば“アパート住人小説”(そのままか)。主な視点人物は、商事会社にタイピストとして勤めている津山ユミ子。そのユミ子が、戦争中に知り合った作家の宇山冬平の家を訪れて……みたいな場面から始まっているのだけれど、細かい事情はともかく、宇山から彼が借りていた仕事部屋を提供されて(又貸ししてもらって)ユミ子も「アパート屋敷」@荻窪の住人の1人になる。最近の小説にありがちな(?)例えば1階と2階に同じ間取りの8部屋ずつ――みたいなわかりやすいアパートにはなっていないし、えーと、住人も多いのだけれど(全員を紹介する気になれないな(涙))、キャベツ巻きやコンニャクを作っている洋さん(谷洋吉)、その洋さんを手伝ったり、論文などの代筆をしたりしている五郎さん(与田五郎)。闇屋さんをしているヤスヨ女史、同じく闇屋さんの戸倉さん――もう名前は省略したい(汗)、あとは骨董屋の夫婦とか、食事を作っているお婆さんとか、屋敷の持ち主(部屋の貸し主)のご隠居さんとか。そう、忘れてはいけないのは、旦那を3人持っている(もちろん鉢合わせしないように日程はスケジューリング)お千代さん。あ、口も手癖も悪い(?)ハラ作くん(西原作一)もいたっけ。手もとの全集版では、ぜんぶで150ページ弱(pp.424-570)くらいの分量、そのわりにはやっぱり登場人物が多いよね? (関係ないけれど、逆に、住人が少なめの小説・伊藤たかみ『そのころ、白旗アパートでは』(@荻窪と阿佐ヶ谷の中間)は、この小説を見習えばよかったのに。)
玄関口のある部屋にはペンキ屋の婆さん(息子がペンキ屋)がいて、そこを通らないとそれぞれの部屋にはいけなかったりして(時代がいまと違うせいもあるだろうけれど)住人どうし、誰が誰かはだいたいわかっている感じ。――戦後3年目? 「自活自治」とか「自治委員会」みたいなものも、戦後すぐだから?(あいかわらず歴史オンチでよくらからない(涙))。それはともかく、住人のほどんどが自分で何か“商売”をして生計を立てているようだ。このアパート(の部屋)で商いをしている人も多いよね、洋さんなんて、コンニャクを製造しちゃっているし。あ、ユミ子が街頭で易者をする話は、結局のところ、なんだかかんだでうやむやに…(笑)。そう、ネタバレしてしまうけれど、お千代さんにしても五郎さんにしても、このアパート屋敷をいったん遠く離れてしまったせいで、戻ってこられなくなってしまったのかな?(アパートに磁場が…? 距離は関係ないか)。逆に作家の宇山さんは、仕事部屋がなくなったのにもかわらずうろちょろしている。
時代的に名刺(私はこういうもんです、あやしい者ではありません的な?)は、日本中の人がみんな、できれば持っていたほうがよかったのかな? 名刺によれば「同文専門学院卒業生」の江藤実が五郎さんを訪ねてくる。模擬試験の代理受験(のちの世に言う替え玉受験?)を依頼――。いい成績をとって親を安心させたいらしい(親元を離れて浦和に下宿、郷里は三原…ってどこ?)。「浪人」という言葉は使われていなかったけれど、卒業生で受験生なわけだから、この江藤くんは「浪人生」と呼んでもかまわない感じ。性格的にはどうかな? 精神を病んでいる…感じはしないか。「同文専門学院」ってどこの学校?(フィクショナルなもの?)。「九州大学」を――六高を卒業した人だか、この春、卒業する人だかと同じように――受験できるわけだから、いわゆる「白線浪人」だよね? あ、でも、この人は、白線入りの帽子はかぶっていないっぽい(学生服は着ているけれど)。旧制大学浪人では、旧制高校浪人が主人公の久米正雄「受験生の手記」と比較しても、あまり意味がないか。(そう、私は未読だけれど、早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』の続編で『東京パラダイス』という小説もある。ただ、主人公はあまり浪人生という感じではない。)
友人に文官試験の「万年受験生」がいると言う宇山さんの話が、ちょっと面白いけれど(<快適な焦燥>、<心身ともに若返る>)、大学受験浪人(現在で言うところの)とはあまり関係ないから、それはまぁいいや(p.498、節番号でいえば「五」)。
ひょうひょうとした微妙なユーモア小説? 面白いとは思うけれど、私にはちょっと薄味だったかな…。それとも例によって美味しい部分が読めていないだけ?(涙)。ひと言でいえば“アパート住人小説”(そのままか)。主な視点人物は、商事会社にタイピストとして勤めている津山ユミ子。そのユミ子が、戦争中に知り合った作家の宇山冬平の家を訪れて……みたいな場面から始まっているのだけれど、細かい事情はともかく、宇山から彼が借りていた仕事部屋を提供されて(又貸ししてもらって)ユミ子も「アパート屋敷」@荻窪の住人の1人になる。最近の小説にありがちな(?)例えば1階と2階に同じ間取りの8部屋ずつ――みたいなわかりやすいアパートにはなっていないし、えーと、住人も多いのだけれど(全員を紹介する気になれないな(涙))、キャベツ巻きやコンニャクを作っている洋さん(谷洋吉)、その洋さんを手伝ったり、論文などの代筆をしたりしている五郎さん(与田五郎)。闇屋さんをしているヤスヨ女史、同じく闇屋さんの戸倉さん――もう名前は省略したい(汗)、あとは骨董屋の夫婦とか、食事を作っているお婆さんとか、屋敷の持ち主(部屋の貸し主)のご隠居さんとか。そう、忘れてはいけないのは、旦那を3人持っている(もちろん鉢合わせしないように日程はスケジューリング)お千代さん。あ、口も手癖も悪い(?)ハラ作くん(西原作一)もいたっけ。手もとの全集版では、ぜんぶで150ページ弱(pp.424-570)くらいの分量、そのわりにはやっぱり登場人物が多いよね? (関係ないけれど、逆に、住人が少なめの小説・伊藤たかみ『そのころ、白旗アパートでは』(@荻窪と阿佐ヶ谷の中間)は、この小説を見習えばよかったのに。)
玄関口のある部屋にはペンキ屋の婆さん(息子がペンキ屋)がいて、そこを通らないとそれぞれの部屋にはいけなかったりして(時代がいまと違うせいもあるだろうけれど)住人どうし、誰が誰かはだいたいわかっている感じ。――戦後3年目? 「自活自治」とか「自治委員会」みたいなものも、戦後すぐだから?(あいかわらず歴史オンチでよくらからない(涙))。それはともかく、住人のほどんどが自分で何か“商売”をして生計を立てているようだ。このアパート(の部屋)で商いをしている人も多いよね、洋さんなんて、コンニャクを製造しちゃっているし。あ、ユミ子が街頭で易者をする話は、結局のところ、なんだかかんだでうやむやに…(笑)。そう、ネタバレしてしまうけれど、お千代さんにしても五郎さんにしても、このアパート屋敷をいったん遠く離れてしまったせいで、戻ってこられなくなってしまったのかな?(アパートに磁場が…? 距離は関係ないか)。逆に作家の宇山さんは、仕事部屋がなくなったのにもかわらずうろちょろしている。
時代的に名刺(私はこういうもんです、あやしい者ではありません的な?)は、日本中の人がみんな、できれば持っていたほうがよかったのかな? 名刺によれば「同文専門学院卒業生」の江藤実が五郎さんを訪ねてくる。模擬試験の代理受験(のちの世に言う替え玉受験?)を依頼――。いい成績をとって親を安心させたいらしい(親元を離れて浦和に下宿、郷里は三原…ってどこ?)。「浪人」という言葉は使われていなかったけれど、卒業生で受験生なわけだから、この江藤くんは「浪人生」と呼んでもかまわない感じ。性格的にはどうかな? 精神を病んでいる…感じはしないか。「同文専門学院」ってどこの学校?(フィクショナルなもの?)。「九州大学」を――六高を卒業した人だか、この春、卒業する人だかと同じように――受験できるわけだから、いわゆる「白線浪人」だよね? あ、でも、この人は、白線入りの帽子はかぶっていないっぽい(学生服は着ているけれど)。旧制大学浪人では、旧制高校浪人が主人公の久米正雄「受験生の手記」と比較しても、あまり意味がないか。(そう、私は未読だけれど、早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』の続編で『東京パラダイス』という小説もある。ただ、主人公はあまり浪人生という感じではない。)
友人に文官試験の「万年受験生」がいると言う宇山さんの話が、ちょっと面白いけれど(<快適な焦燥>、<心身ともに若返る>)、大学受験浪人(現在で言うところの)とはあまり関係ないから、それはまぁいいや(p.498、節番号でいえば「五」)。
五十嵐雄策 『小春原日和の育成日記④』
2011年10月25日 読書
電撃文庫、2011.10。※以下ネタバレ注意です。伊豆の海辺で岩男&渚(なぎさ)の磯野家父娘が開いている海の家、その名も『冷凍マグロ』(!)に、「夏季職業体験実習」という名目で、日和さんを始めとする高校生お嬢様たち(といっても半分くらい残念)はしばらくの間、住み込みアルバイトでご厄介になることに。もちろん、語り手の「俺」(=祐介、『桜乃日和荘』の管理人代理)、さらにお馴染みのダメ住人トリオを加えた総勢11名は、夏を満喫(?)する。――夏の海といえば、ライトノベル的にはいろいろな水着? 下乳が出ているこのイラストははたして“萌え”なのか?(なんか微妙…。これは誰だっけ? みんな似たような絵だけれど、えーと…、残念ではないほうの唯香か)。ネタバレしてしまうけれど、もちろん定番の全開のポ●リもあるよ。……祐介くんの(笑)。あ、これは海ではなくてリゾートホテル施設のプールでか。そう、高校2年の「俺」が1つ年下の女の子たちを、性的な対象(?)として見てしまうと、それはもう変態扱い、ロ●コン認定されてしまうの? …いずれにしても、お嬢様たち全員から好かれている、愛すべき“ブタ野郎”であることに変わりはないか。えーと、今回の「俺」たちがクリアすべき課題は、客足の減っている海の家の経営立て直し。その前に黄金色オーラ鷹匠さんの過去が少し知れたり(小学生を含む子どもたちにイナゴの佃煮? おっさんな私はいまだにイナゴが苦手(涙))、定番かもしれないけれど、みんなで(屋台の準備も含めて)花火大会を楽しんだり、その前には(やっと誰が誰かなんとなく思い出せる)“肝試し”もあったり…。そう、この「職業体験」で7人中(「俺」とニートの桃子を入れれば9人中)誰か1人でも将来、海の家で働きたい!と思って、就職する人は出てくるんだろうか?(たぶんゼロだろうね…、無意味な実習だな)。
シリーズも4巻目になると、もう惰性で読んでいる感じ(汗)。というか、この小説、1ページあたりに占める文字数がかなり少なくない? 1~3巻はどうだったっけ? 本は見当たらないし、記憶もほとんどないというか、記憶力なさすぎ…。あいかわらず(読んでいるこっちのほうが)貧乏人なので、あまりスカスカしていると買う気が失せる(涙)。そう、お嬢様たち6人(だっけ?)が1人ずつリアクションしているし…。あと、読んでいてなぜか「てにをは」系の誤植がいくつか目についたかな(メモしたり付箋を貼ったりしていないので、もうどこだかわからないけれど)。というか、そもそも自分はどうしてこのシリーズを読んでいるんだっけ? ――あ、思い出した(汗)。というか、理由なんてどうでもいいや。
シリーズも4巻目になると、もう惰性で読んでいる感じ(汗)。というか、この小説、1ページあたりに占める文字数がかなり少なくない? 1~3巻はどうだったっけ? 本は見当たらないし、記憶もほとんどないというか、記憶力なさすぎ…。あいかわらず(読んでいるこっちのほうが)貧乏人なので、あまりスカスカしていると買う気が失せる(涙)。そう、お嬢様たち6人(だっけ?)が1人ずつリアクションしているし…。あと、読んでいてなぜか「てにをは」系の誤植がいくつか目についたかな(メモしたり付箋を貼ったりしていないので、もうどこだかわからないけれど)。というか、そもそも自分はどうしてこのシリーズを読んでいるんだっけ? ――あ、思い出した(汗)。というか、理由なんてどうでもいいや。
絲山秋子 『不愉快な本の続編』
2011年10月25日 読書
新潮社、2011.9。最後のへんもそうだけれど、読んでいてちょくちょく意味がわからなくて…(涙)。思うに自分、昔よりもだいぶ頭が悪くなっているっぽい。もうやっぱり純文学系の小説を読むのはやめようかな…。えーと、呉(広島)生まれで、高校を卒業してからは東京の「ボク」。苗字は乾(いぬい)で、下の名前は漢字不明でケンジロウ――弟(シゲ)が1人いるだけで、長男らしいのにな(「ジ」の漢字がちょっと気になる)。読み始めてすぐにこいつの話は聞きたくねーとか思ってしまったけれど、…ま、それはともかく。「ボク」はヒモ生活を送っていたけれど(最後の相手は大学のセンセー)、予備校の寮でルームメイトだったイサオから、借金をいくらか返してもらって、まずは新潟へ。その後、富山へ。そういえば、けっこう“自動車小説”だったかも。新潟では代行の仕事をしていて、路上でタイヤがパンクして困っていたユミコ(仮名)と知り合う。富山では、タイヤをスタッドレスに換えたあと(って関係ないか)大学のときの友達・杉村(女性)と再会――。ま、「タイヤ」は現代ニッポンの“足”だもんね(意味不明)。朝比奈あすか『憂鬱なハスビーン』(講談社文庫)ほどはっきりしていないけれど、これも“T大は出たけれど小説”みたいにも読める?(ぜんぜん違うか)。ただ、この「ボク」(1浪)の場合、有名大学在学中の海外留学中(@フランス)に、大切に思う相手には披露できないような性癖が開発されてしまったわけで、よくわからないけれど、大学も中退らしい。そう、予備校の寮での同室者――生涯を通じての友人どころか、この乾&イサオは、悪い意味での切れない関係というか。自動車だけでなく、消費者金融的なお金の貸し借り(というか取り立て)も、現代社会を象徴している――ってそんな小説ではないな(汗)。というか、そもそも私はなんでこんな薄くて1,200円+税もする高価な本(しかも意味がわからない小説)を買って読んでいるんだろう…?(ため息)。
[追記]文芸誌に出ていた書評を読んでから知ったのだけれど、続編の場合には(まぎらわしい書名はともかく)帯とかにそう書いておいてほしいよね(涙)。順番が逆になってしまったけれど、本屋で文庫本(438円+税)を買ってきて、「愛なんかいらねー」(『ニート』角川書店、2005/角川文庫、2008)を読んだ。「大学のセンセー」=成田さん(成田ひろみ)目線の小説。内容は、とりあえず“ス●トロ小説”です。他人目線であると、話し方とか、乾くん、意外と愛嬌がある?(そんなこともないか(汗))。最後のへん@渋谷、道玄坂で古着屋をやっているという乾の友達(「最後の友達」らしい)は見つからず。
[追記2]文庫は新潮文庫、2015.6。
[追記]文芸誌に出ていた書評を読んでから知ったのだけれど、続編の場合には(まぎらわしい書名はともかく)帯とかにそう書いておいてほしいよね(涙)。順番が逆になってしまったけれど、本屋で文庫本(438円+税)を買ってきて、「愛なんかいらねー」(『ニート』角川書店、2005/角川文庫、2008)を読んだ。「大学のセンセー」=成田さん(成田ひろみ)目線の小説。内容は、とりあえず“ス●トロ小説”です。他人目線であると、話し方とか、乾くん、意外と愛嬌がある?(そんなこともないか(汗))。最後のへん@渋谷、道玄坂で古着屋をやっているという乾の友達(「最後の友達」らしい)は見つからず。
[追記2]文庫は新潮文庫、2015.6。
樋口有介 『八月の舟』
2011年10月17日 読書
文藝春秋、1990/ハルキ文庫、1999/文春文庫、2008。手もとにあるのは文春文庫版。8月中に読む予定が、10月の今ごろに。浪人生は全く関係のない高校生小説。※ミステリではないですが、以下、いちおうネタバレ注意です。そう、推理小説でも警察小説でもないけれど、ニセ警察官なら登場してくる(トメちゃん)。『目ン無い千鳥』(どういう歌?)というより、目ん玉つながりお巡りさんの世界? あ、職務質問してくる本物のお巡りさんも出てくるか。
<けだるくて退屈な夏休み。高校生のぼくは不思議な魅力を持つ少女、晶子と出会う。晶子、親友の田中くん、そしてそれぞれの家庭や周囲の大人たちを傍観しながら、ぼくの夏が終わっていく……。1960年代の北関東の小さな街を舞台に、清冽な文体で描かれた、ノスタルジックで透明感に満ちた青春小説の傑作。 解説・福井健太>(表紙カバーより)
基本的には青春ユーモア小説。少人数だけれど、家族小説でもあるかな。で、以前『風少女』は読んであったけれど、また改めてM市を舞台とした青春小説が成立可能なことにびっくり。さらに読んでいて、なんというかM市にあれこれ持って来てしまえるんだな、とか思えて。それが今回、個人的には大発見だった。別に小説を書く予定があるわけではないけれど。だいたい埼玉県熊谷市ほどでないにしても、毎年夏はニュース級に暑くなるのだから、それくらい許されても当然(?)、要は、M市という鍋であれこれ煮込んじゃえばいいんだよ(意味不明か)。ところで暑いのは誰のせいか? 確かに誰のせいでもないかもしれないけれど、この小説とは関係のない話、現代でいえば石炭や石油を燃やして、二酸化炭素を排出し続けている人間(のエゴ)のせい、だと思わなくもない。えーと、話を戻して…というか、県庁所在地をつかまえて「小さな街」とか言うな!(涙)。市北部のA山麓からは、富士山ことニッポン一の山(標高もハイエスト)が小さく小さく見える……こともある。素晴らしきかな、このコントラスト? そういえばこの前、FM地元局のラジオ番組を聴いていたら、東京スカイツリーからA山が見えるとか見えないとか。私は一生行かないと思うけれど、行ったら確かめたくなっちゃうな、たぶん(ザ・定番行動、家の近く探し?)。
<「赤城山のてっぺんまでぶっとばそうぜ。なあ? このくそあちいのに汗たらしながら西瓜食ってるだけなんて、健全な青少年のやることじゃねえや」/「健全な青少年は赤城山に行くべきかな」/「そうよ。健全な青少年はみんな気合い入れて、クルマぶっとばすのよ」>(p.28)
よく知らないけれど、高千穂遙『ヒルクライマー』(私は未読)の影響らしい、最近では自転車急増中の道路――あの道って昔から酒屋さんが多いよね、酒屋というかお酒も売っている「なになに商店」。もうやめてしまった店も多いけれど。ま、作中年から40年以上経っている現在(人生観を左右するらしい料金所もすでにないし)、ビールが飲みたければ24時間営業のコンビニもあるし、小銭がなくても自動販売機に千円札なら入るだろうし(あ、夜に酒類は買えないか)――そんな道路の、A山帰り(山道だからくねくね、下りだからスピードも)にて、17歳の「ぼく」たちは事故を起こす。自転車ではなくて、自動車の無免許&飲酒運転。運転していた田中くん(=田中広司、ひろちゃん)は意識不明で、自宅の隣にある顔のきく(もみ消し可能な)病院に入院…。でも、結局、命に別状はなし。ちょっとイカれた看護婦さん…は措いておくとして、後部座席の「ぼく」(=葉山研一)と助手席の晶子さんは、最初からとりあえず、無事。――で、だから(?)神戸かどこかの猿の檻のある公園に車で突っ込まなくても(村上春樹『風の歌を聴け』)、通称・A県道(=県道4号)沿いの切り立った崖に突っ込めばいいわけだし(「よく」はないか)、「神経痛の牛」ではなくても(同作品)「肩こりの猫」でいいわけだし、コンタクト・レンズやレコード…は措いておくとして、待ち合わせの場所なら、新宿・紀伊国屋書店ではなくても(庄司薫“薫くんシリーズ”)M市K堂の前でいいわけだし。あ、紀伊国屋もK堂も現在のそれとは別の建物…というか、年がばれるな(汗)。あるいは、残念な“海なし県”――海がなくてもA山のO沼(という湖、ワカサギ釣りで有名)や市営プールはあるし、散骨をしたければ大きなT川が流れているわけだし。
水といえば、「ぼく」&田中くんの中学校のときの同級生で、家が「蟹前(かにさき)サイクル」のキヨシくん。市営プールの子ども用プールで、誰からもキャッチされずに死んでしまうわけだけれど、にもかかわらず(?)晶子さんが読んでいるのは、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』ではなくて、田中くんから借りた(もともと「ぼく」が田中くんに貸した)『フラニーとズーイ』。どこかで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』な村上春樹が、関西弁を使って訳したいと言っていた小説。もちろん私は未読。…でもまぁ、田舎だからね、G弁(ないしJ州弁)が使われているこの『八月の舟』――南木佳士(T村出身)や絲山秋子(東京出身)が使っているものと微妙に異なるそれが楽しめていいのではないか、と。関係ないけれど、小説以外では(古本屋によく売っていると思う)多賀たか子『はいすくーる落書』(朝日文庫)は、昔のリアルな高校生のG弁がけっこう楽しめるかも(樋口有介は自分のことについて昔、「不良」だったとも書いていたと思うけれど、一般に、標準語なんてダサくて話してらんねー、というのが不良たるもの? …違うか(汗))。晶子さんはメアリ・マッカーシーも読んでいるようだ(p.131)。なぜ(大江健三郎や村上春樹のように)カーソン・マッカラーズやフラナリー・オコナーじゃないんだろう?(汗)。そういえば、村上春樹が以前どこかで書いていた、新潮文庫から出ていたマッカラーズの『心は孤独な狩人』はいまだに復刊しないよね、作品名は有名なのにな。いや、私も読んだことがないけれど。宮部みゆきとか数学者の藤原正彦とかは、自著にそのもじりタイトルを使っている。そう、以前、小谷野敦『聖母のいない国』(河出文庫)を読んだあと、初めてメアリー・マッカーシー(この人は南部ではなくて北部)を読んでみたいと思ったけれど、そのまま現在まで忘れていた(汗)。というか、そもそも「八月の…?」といえば「光!」なわけだから(人にもよるか)、もっとビッグ・ネームなウィリアム・フォークナーだよね(『八月の光』)。これも当然のごとく私は未読です。というか、そういう意味では、けっこうミステリー寄りの後ろの文庫「解説」がぜんぜん役に立たない(ハルキ文庫版にも付いているかな、解説? 重複を避けたとか?)。
だから(?)アメリカ南部文学のキーワードの1つ、“グロテスク”な要素が散見される。「ぼく」のお母さんの服の趣味はアレな感じだし、田中くん(両親はいない)のお姉さんは、太陽の光を反射するほどの金歯だし。晶子さんのお父さん(「ぼく」&田中くんが通っている高校の校長)の頭は禿げているし(それはまぁいいか(汗))、家の庭で飼っている金魚の頭は、あくまでぼこぼこしているし。体が不自由な人は登場してこないけれど、頭がおかしい(というと語弊があるかもしれないけれど)人は何人か出てくる。上で触れた30歳を過ぎても子どものような自称・警官のトメちゃんや、入院患者・田中くんを「ゼンシンセイシキ(全身清拭)」してくる看護婦さん、ほかにも晶子さんの家のお、お、お手伝いさん(というか)…。それもこれも暑い夏だからこそ、許される?(うーん…)。そう、私はいまだにイナゴ(夏ではなくて秋だけれど)は食べられないです(涙)。「ぼく」は小学校のころ――両親は離婚していて、お母さんはいまはピアノ教室を開いているけれど、以前、小学校の先生をしていたことがある。あ、「ぼく」にはいちおうお姉ちゃんもいる。とにかく家が貧しかったというか、その当時――にイナゴを食べていたおかげで、中学校ではハイジャンプや走り幅跳びが得意だったらしい(少なくとも「ぼく」はイナゴの力(?)を信じているらしい。ま、この小説のユーモア部分の1つかな)。食べればカルシウムは取れそうな気がするけれど、私にはよくわからんです(でも、陸上部の中学生とかは、食べればげん担ぎくらいにはなりそうな? 信じる者は救われる……というか、自分が食べられないものを人に勧めちゃダメだな)。イナゴはともかく、中心市街地にはあまり田んぼや畑はないと思うけれど(この小説を読んでいたとき、作者より1つ歳下・M市出身の母親に「ゴケン道路ってどこ?」と訊いたら、知らないけれど、カンギンのへんじゃないか、とのこと。あのへんか…。「ぼく」の家の近くのS公園にはバラ園もあったりするけれど、とにかく)でも、アメリカで収穫できるものは、たいていM市でも収穫できるんじゃないかな、と。南部といえば農業…。インド人もびっくり(?)カレーに玉ねぎを大量投入する晶子さんが、「ぼく」と行きたがっていた同伴喫茶の名前は『田園』、そのお父さん=校長先生の学校でのあだ名は「案山子(かかし)」…。庭には、金魚の池だけでなく葡萄棚もあったりする。『怒りの葡萄』…は、フォークナーではなくてジョン・スタインベックか(もちろん未読)。
最初、晶子さんの部屋がごみバケツをひっくり返したような散らかり様なのは、何か「ぼく」を試したのかな? 片付ければ片付けられる…。特大の(グロテスクな?)サンドウィッチも同じく? それはそれとして、ネタバレしてしまうけれど、最後――「ぼく」の性格は、冗談の口数は多いにしても、けっこうクールだし(関係ないか)、終始、アツはナツいしで、しかたがないとは思ったけれど、最後のほう、晶子さんでもなく加藤さんでもなく、実はいちばんの恋人だった(?)正子ママンが亡くなってしまう(もちろんアルベール・カミュ『異邦人』参照。米文学ではないけれど)。お母さん、冒頭から「ぼく」に何か言いたそうだったもんね…。で、結局のところ、この小説は若者(男子高校生)にとっての母親の死が描かれた小説、ということ?(別に下手なまとめをしなくてもいいか(汗))。人の死(「人」には自分も含まれる)は、誰にとっても他人事ではないと思うけれど。そう、「かかあ天下とからっ風」という言葉があって――個人的にはあまり好きな言い方ではないけれど(「非国民」ではなくて「非県民」呼ばわりされてしまうかな)、まぁ、夏にからっ風は吹かないからね。
この小説、M市のアピールのために、ちゃんとした人に英訳してもらって海外に向けて売り出せばいいのに。ライトな世界文学として、意外と、アメリカとかフランスあたりで微妙に受け容れられるかも(わからないけれど)。
<けだるくて退屈な夏休み。高校生のぼくは不思議な魅力を持つ少女、晶子と出会う。晶子、親友の田中くん、そしてそれぞれの家庭や周囲の大人たちを傍観しながら、ぼくの夏が終わっていく……。1960年代の北関東の小さな街を舞台に、清冽な文体で描かれた、ノスタルジックで透明感に満ちた青春小説の傑作。 解説・福井健太>(表紙カバーより)
基本的には青春ユーモア小説。少人数だけれど、家族小説でもあるかな。で、以前『風少女』は読んであったけれど、また改めてM市を舞台とした青春小説が成立可能なことにびっくり。さらに読んでいて、なんというかM市にあれこれ持って来てしまえるんだな、とか思えて。それが今回、個人的には大発見だった。別に小説を書く予定があるわけではないけれど。だいたい埼玉県熊谷市ほどでないにしても、毎年夏はニュース級に暑くなるのだから、それくらい許されても当然(?)、要は、M市という鍋であれこれ煮込んじゃえばいいんだよ(意味不明か)。ところで暑いのは誰のせいか? 確かに誰のせいでもないかもしれないけれど、この小説とは関係のない話、現代でいえば石炭や石油を燃やして、二酸化炭素を排出し続けている人間(のエゴ)のせい、だと思わなくもない。えーと、話を戻して…というか、県庁所在地をつかまえて「小さな街」とか言うな!(涙)。市北部のA山麓からは、富士山ことニッポン一の山(標高もハイエスト)が小さく小さく見える……こともある。素晴らしきかな、このコントラスト? そういえばこの前、FM地元局のラジオ番組を聴いていたら、東京スカイツリーからA山が見えるとか見えないとか。私は一生行かないと思うけれど、行ったら確かめたくなっちゃうな、たぶん(ザ・定番行動、家の近く探し?)。
<「赤城山のてっぺんまでぶっとばそうぜ。なあ? このくそあちいのに汗たらしながら西瓜食ってるだけなんて、健全な青少年のやることじゃねえや」/「健全な青少年は赤城山に行くべきかな」/「そうよ。健全な青少年はみんな気合い入れて、クルマぶっとばすのよ」>(p.28)
よく知らないけれど、高千穂遙『ヒルクライマー』(私は未読)の影響らしい、最近では自転車急増中の道路――あの道って昔から酒屋さんが多いよね、酒屋というかお酒も売っている「なになに商店」。もうやめてしまった店も多いけれど。ま、作中年から40年以上経っている現在(人生観を左右するらしい料金所もすでにないし)、ビールが飲みたければ24時間営業のコンビニもあるし、小銭がなくても自動販売機に千円札なら入るだろうし(あ、夜に酒類は買えないか)――そんな道路の、A山帰り(山道だからくねくね、下りだからスピードも)にて、17歳の「ぼく」たちは事故を起こす。自転車ではなくて、自動車の無免許&飲酒運転。運転していた田中くん(=田中広司、ひろちゃん)は意識不明で、自宅の隣にある顔のきく(もみ消し可能な)病院に入院…。でも、結局、命に別状はなし。ちょっとイカれた看護婦さん…は措いておくとして、後部座席の「ぼく」(=葉山研一)と助手席の晶子さんは、最初からとりあえず、無事。――で、だから(?)神戸かどこかの猿の檻のある公園に車で突っ込まなくても(村上春樹『風の歌を聴け』)、通称・A県道(=県道4号)沿いの切り立った崖に突っ込めばいいわけだし(「よく」はないか)、「神経痛の牛」ではなくても(同作品)「肩こりの猫」でいいわけだし、コンタクト・レンズやレコード…は措いておくとして、待ち合わせの場所なら、新宿・紀伊国屋書店ではなくても(庄司薫“薫くんシリーズ”)M市K堂の前でいいわけだし。あ、紀伊国屋もK堂も現在のそれとは別の建物…というか、年がばれるな(汗)。あるいは、残念な“海なし県”――海がなくてもA山のO沼(という湖、ワカサギ釣りで有名)や市営プールはあるし、散骨をしたければ大きなT川が流れているわけだし。
水といえば、「ぼく」&田中くんの中学校のときの同級生で、家が「蟹前(かにさき)サイクル」のキヨシくん。市営プールの子ども用プールで、誰からもキャッチされずに死んでしまうわけだけれど、にもかかわらず(?)晶子さんが読んでいるのは、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』ではなくて、田中くんから借りた(もともと「ぼく」が田中くんに貸した)『フラニーとズーイ』。どこかで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』な村上春樹が、関西弁を使って訳したいと言っていた小説。もちろん私は未読。…でもまぁ、田舎だからね、G弁(ないしJ州弁)が使われているこの『八月の舟』――南木佳士(T村出身)や絲山秋子(東京出身)が使っているものと微妙に異なるそれが楽しめていいのではないか、と。関係ないけれど、小説以外では(古本屋によく売っていると思う)多賀たか子『はいすくーる落書』(朝日文庫)は、昔のリアルな高校生のG弁がけっこう楽しめるかも(樋口有介は自分のことについて昔、「不良」だったとも書いていたと思うけれど、一般に、標準語なんてダサくて話してらんねー、というのが不良たるもの? …違うか(汗))。晶子さんはメアリ・マッカーシーも読んでいるようだ(p.131)。なぜ(大江健三郎や村上春樹のように)カーソン・マッカラーズやフラナリー・オコナーじゃないんだろう?(汗)。そういえば、村上春樹が以前どこかで書いていた、新潮文庫から出ていたマッカラーズの『心は孤独な狩人』はいまだに復刊しないよね、作品名は有名なのにな。いや、私も読んだことがないけれど。宮部みゆきとか数学者の藤原正彦とかは、自著にそのもじりタイトルを使っている。そう、以前、小谷野敦『聖母のいない国』(河出文庫)を読んだあと、初めてメアリー・マッカーシー(この人は南部ではなくて北部)を読んでみたいと思ったけれど、そのまま現在まで忘れていた(汗)。というか、そもそも「八月の…?」といえば「光!」なわけだから(人にもよるか)、もっとビッグ・ネームなウィリアム・フォークナーだよね(『八月の光』)。これも当然のごとく私は未読です。というか、そういう意味では、けっこうミステリー寄りの後ろの文庫「解説」がぜんぜん役に立たない(ハルキ文庫版にも付いているかな、解説? 重複を避けたとか?)。
だから(?)アメリカ南部文学のキーワードの1つ、“グロテスク”な要素が散見される。「ぼく」のお母さんの服の趣味はアレな感じだし、田中くん(両親はいない)のお姉さんは、太陽の光を反射するほどの金歯だし。晶子さんのお父さん(「ぼく」&田中くんが通っている高校の校長)の頭は禿げているし(それはまぁいいか(汗))、家の庭で飼っている金魚の頭は、あくまでぼこぼこしているし。体が不自由な人は登場してこないけれど、頭がおかしい(というと語弊があるかもしれないけれど)人は何人か出てくる。上で触れた30歳を過ぎても子どものような自称・警官のトメちゃんや、入院患者・田中くんを「ゼンシンセイシキ(全身清拭)」してくる看護婦さん、ほかにも晶子さんの家のお、お、お手伝いさん(というか)…。それもこれも暑い夏だからこそ、許される?(うーん…)。そう、私はいまだにイナゴ(夏ではなくて秋だけれど)は食べられないです(涙)。「ぼく」は小学校のころ――両親は離婚していて、お母さんはいまはピアノ教室を開いているけれど、以前、小学校の先生をしていたことがある。あ、「ぼく」にはいちおうお姉ちゃんもいる。とにかく家が貧しかったというか、その当時――にイナゴを食べていたおかげで、中学校ではハイジャンプや走り幅跳びが得意だったらしい(少なくとも「ぼく」はイナゴの力(?)を信じているらしい。ま、この小説のユーモア部分の1つかな)。食べればカルシウムは取れそうな気がするけれど、私にはよくわからんです(でも、陸上部の中学生とかは、食べればげん担ぎくらいにはなりそうな? 信じる者は救われる……というか、自分が食べられないものを人に勧めちゃダメだな)。イナゴはともかく、中心市街地にはあまり田んぼや畑はないと思うけれど(この小説を読んでいたとき、作者より1つ歳下・M市出身の母親に「ゴケン道路ってどこ?」と訊いたら、知らないけれど、カンギンのへんじゃないか、とのこと。あのへんか…。「ぼく」の家の近くのS公園にはバラ園もあったりするけれど、とにかく)でも、アメリカで収穫できるものは、たいていM市でも収穫できるんじゃないかな、と。南部といえば農業…。インド人もびっくり(?)カレーに玉ねぎを大量投入する晶子さんが、「ぼく」と行きたがっていた同伴喫茶の名前は『田園』、そのお父さん=校長先生の学校でのあだ名は「案山子(かかし)」…。庭には、金魚の池だけでなく葡萄棚もあったりする。『怒りの葡萄』…は、フォークナーではなくてジョン・スタインベックか(もちろん未読)。
最初、晶子さんの部屋がごみバケツをひっくり返したような散らかり様なのは、何か「ぼく」を試したのかな? 片付ければ片付けられる…。特大の(グロテスクな?)サンドウィッチも同じく? それはそれとして、ネタバレしてしまうけれど、最後――「ぼく」の性格は、冗談の口数は多いにしても、けっこうクールだし(関係ないか)、終始、アツはナツいしで、しかたがないとは思ったけれど、最後のほう、晶子さんでもなく加藤さんでもなく、実はいちばんの恋人だった(?)正子ママンが亡くなってしまう(もちろんアルベール・カミュ『異邦人』参照。米文学ではないけれど)。お母さん、冒頭から「ぼく」に何か言いたそうだったもんね…。で、結局のところ、この小説は若者(男子高校生)にとっての母親の死が描かれた小説、ということ?(別に下手なまとめをしなくてもいいか(汗))。人の死(「人」には自分も含まれる)は、誰にとっても他人事ではないと思うけれど。そう、「かかあ天下とからっ風」という言葉があって――個人的にはあまり好きな言い方ではないけれど(「非国民」ではなくて「非県民」呼ばわりされてしまうかな)、まぁ、夏にからっ風は吹かないからね。
この小説、M市のアピールのために、ちゃんとした人に英訳してもらって海外に向けて売り出せばいいのに。ライトな世界文学として、意外と、アメリカとかフランスあたりで微妙に受け容れられるかも(わからないけれど)。
大谷羊太郎 『殺意の演奏』
2011年10月11日 読書
講談社、1970/講談社文庫、1975。今年は2011年なので約40年前の江戸川乱歩賞受賞作(画像は講談社文庫の全集版)。あ、小峰元『アルキメデスは手を汚さない』(1973)より古いのか。※以下ネタバレ注意です、毎度すみません。
<芸能ショーの若手司会者、細井道夫が死体となって発見された。部屋は内鍵が下ろされた密室で死因はガス中毒。机上に遺書とみられる暗号日記が残されており暗号を解読した捜査当局は、自殺と断定し、捜査を打ちきった。が、解読されたはずの暗号が二重構成と判明するや、事件は、がぜん複雑な相を帯びてきた。>(文庫表紙カバー背より)
2度目のJ大(私立の名門)受験に失敗したあと、あてもなく大阪の街をさまよい歩き(エリート意識やプライドが高いとそのぶん不合格のショックも大きいらしい)、いざなわれるように入った音楽喫茶で司会者という天職(?)を見つけて(もともとの夢はJ大を出てテレビ局のアナウンサー)、プロの司会者として舞台に立っていた細井道夫(本名・杉山重一、21歳)が、大阪市内の自宅というか下宿(離れ)で死体となって発見される。発見したのは、東京から帰郷してきた、高校のときの同級生で友人の村田久光、L大(現役合格、J大より格下)の2年生。――2年生ではなくて3年生でないと計算が合わないような?(まぁいいか)。部屋はいわゆる密室状態で、周りにはトランプがばらまかれていたり、暗号で書かれた日記が残されていたり…。でも、結局、この事件(?)は自殺ということになって、それから約10年後。あ、細井が亡くなったのが昭和3*年11月の末だから、約10年後は昭和4*年くらい? どこかの大学を卒業してラジオ局に勤めている細井の弟・杉山真二が登場。偶然、ある作家が書いた推理小説を読んで、そこに兄の“遺書日記”と符合する部分があることに気づき、その作者=浅野正夫(付属高校からJ大、中退)を疑い出す。推理小説好きの恋人・高岡妙子、さらに兄の友人で第1発見者の村田も加えて、調査を始めてみると――。
この作者、ミステリ系の人にしては、風景描写や心理描写(特に「演奏」される「殺意」?)がけっこう丁寧であるような? 全体的にけっこう面白かったけれど(でもちょっと長かったかな)、はたしてミステリ部分が面白かったのかどうか、自分でもよくわからない。そう、戦後2, 30年ぶんくらいの日本の軽音楽史が勉強できたりもする。…それはともかく、えーと、なんだっけ? あ、大事なのは、禍福はあざなえる縄の如し(ことわざ)か。縄(なわ)が端っこで繋がっていれば、2本ではなくて1本の可能性もあるのか(へぇ~、そういう風に考えたことがなかった)。小説の構成というか構造というかは、ちょっと数学的というか幾何学的な感じかもしれない。(関係ないけれど、哲学者・入不二基義の『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)や『時間は実在するか』(講談社現代新書)を読み直したくなったりした。あと、何かまた西澤保彦の小説も読んでみたいな。いまそんな暇はないけれど(涙)。とにかく積ん読本を減らさないと。)
「劣等感」という言葉は、この小説のキーワードの1つかもしれないけれど、それはまぁいいか(よくはないか(汗))。そう、小説を読んでいてまた出てきた、ロバート・ブラウニングのでんでん虫の詩が好きな人ってけっこう多い?(学校で習うのかな?)。「第八章」のタイトルは、「神、そらに知ろしめす」――というか「神のみぞ知る」とか言っていないで、現場ひゃっぺん、もう1度あれこれ証拠探し、目撃者探しから始めればいいのに!(そういう小説ではないのか…)。どうでもいいけれど、最後のへん、探偵役カップル(真二&妙子)の今後の仲(関係)がちょっと心配。ちなみに作者(この小説における神様)は慶応大学中退らしい。J大でもL大でもなくて(JとLの間の)K大だね。
<芸能ショーの若手司会者、細井道夫が死体となって発見された。部屋は内鍵が下ろされた密室で死因はガス中毒。机上に遺書とみられる暗号日記が残されており暗号を解読した捜査当局は、自殺と断定し、捜査を打ちきった。が、解読されたはずの暗号が二重構成と判明するや、事件は、がぜん複雑な相を帯びてきた。>(文庫表紙カバー背より)
2度目のJ大(私立の名門)受験に失敗したあと、あてもなく大阪の街をさまよい歩き(エリート意識やプライドが高いとそのぶん不合格のショックも大きいらしい)、いざなわれるように入った音楽喫茶で司会者という天職(?)を見つけて(もともとの夢はJ大を出てテレビ局のアナウンサー)、プロの司会者として舞台に立っていた細井道夫(本名・杉山重一、21歳)が、大阪市内の自宅というか下宿(離れ)で死体となって発見される。発見したのは、東京から帰郷してきた、高校のときの同級生で友人の村田久光、L大(現役合格、J大より格下)の2年生。――2年生ではなくて3年生でないと計算が合わないような?(まぁいいか)。部屋はいわゆる密室状態で、周りにはトランプがばらまかれていたり、暗号で書かれた日記が残されていたり…。でも、結局、この事件(?)は自殺ということになって、それから約10年後。あ、細井が亡くなったのが昭和3*年11月の末だから、約10年後は昭和4*年くらい? どこかの大学を卒業してラジオ局に勤めている細井の弟・杉山真二が登場。偶然、ある作家が書いた推理小説を読んで、そこに兄の“遺書日記”と符合する部分があることに気づき、その作者=浅野正夫(付属高校からJ大、中退)を疑い出す。推理小説好きの恋人・高岡妙子、さらに兄の友人で第1発見者の村田も加えて、調査を始めてみると――。
この作者、ミステリ系の人にしては、風景描写や心理描写(特に「演奏」される「殺意」?)がけっこう丁寧であるような? 全体的にけっこう面白かったけれど(でもちょっと長かったかな)、はたしてミステリ部分が面白かったのかどうか、自分でもよくわからない。そう、戦後2, 30年ぶんくらいの日本の軽音楽史が勉強できたりもする。…それはともかく、えーと、なんだっけ? あ、大事なのは、禍福はあざなえる縄の如し(ことわざ)か。縄(なわ)が端っこで繋がっていれば、2本ではなくて1本の可能性もあるのか(へぇ~、そういう風に考えたことがなかった)。小説の構成というか構造というかは、ちょっと数学的というか幾何学的な感じかもしれない。(関係ないけれど、哲学者・入不二基義の『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)や『時間は実在するか』(講談社現代新書)を読み直したくなったりした。あと、何かまた西澤保彦の小説も読んでみたいな。いまそんな暇はないけれど(涙)。とにかく積ん読本を減らさないと。)
「劣等感」という言葉は、この小説のキーワードの1つかもしれないけれど、それはまぁいいか(よくはないか(汗))。そう、小説を読んでいてまた出てきた、ロバート・ブラウニングのでんでん虫の詩が好きな人ってけっこう多い?(学校で習うのかな?)。「第八章」のタイトルは、「神、そらに知ろしめす」――というか「神のみぞ知る」とか言っていないで、現場ひゃっぺん、もう1度あれこれ証拠探し、目撃者探しから始めればいいのに!(そういう小説ではないのか…)。どうでもいいけれど、最後のへん、探偵役カップル(真二&妙子)の今後の仲(関係)がちょっと心配。ちなみに作者(この小説における神様)は慶応大学中退らしい。J大でもL大でもなくて(JとLの間の)K大だね。
中央公論新社、2001/中公文庫、2004。手もとにあるのは文庫版。夏の小笠原(父島)を舞台とした青春ミステリー。これは、ふつうに面白かったです。ただ、できれば暑い夏に読みたかったかな。もちろん自分がいけないのだけれど。いまもう10月(涙)。※以下いちおうネタバレ注意です。
<東京の竹芝桟橋から<小笠原丸>に揺られること二十六時間。ぼくは二年振りに中学高校時代を過ごした父島の土を踏むが、同級生だった一宮和希が三日月山展望台から転落死する。和希は本土から来たストーカー男に脅えていたというが、男は逮捕されることもなく島に居座り続ける。そして、ついに“洋上の楽園”で殺人事件が――。>(表紙カバーより)
登場人物が多くて、「ぼく」(=木村洋介、大学3年?)の元同級生としては、山屋浩司(漁師、父親と「第二やまや丸」に)や棚橋旬子(家の民宿「たなはし荘」手伝い)、丸山翔子(中学3年から白血病で自宅療養、家は財閥で大金持ち)に一宮和希(東京の大学生、父親は前村長で「小笠原興業」社長)、藤井智之(無職、家は自動車修理「藤井自動車」)が登場してくる。東京組=「ぼく」・和希・藤井の3人が島に戻っているのは、いちおう偶然。ほかには「ぼく」が帰宅すると、有名な画家である父親・木村輪一が新しいモデルの干川雪江を描いていて。一方(?)悪友の浩司は、「ぼく」とともに高校のときから出入りしているマスター(=安西つとむ)の店「トムズハウス」の新しいアルバイト・坂戸可保里に熱をあげていたり…。あと、死んでしまう和希の妹・高校2年生の夏希やら、和希のストーカーという噂が立っている真崎(下の名前は何だっけ?)やらも出てくる。雪江・可保里・真崎が本土から来ている一時滞在組というか。あ、浩司がナンパ(?)してきた観光客・田村亜矢という大学生も出てくる。あと、そう、わりとお父さんが出てくるよね、この小説。「ぼく」・和希&夏希・藤井、あと翔子のお父さんもか。旬子の父親は病弱らしいけれど、代わりに(?)お祖父さんがちょっと出てくる(民宿の釣り舟を出している、言葉に上州弁が混じっている?)。あ、病気の翔子を(亡くなったお祖母さんの代わりに)世話している早苗(遠い親戚)も出てくる(翔子の両親はふだんは本土に)。だから要するに登場人物が多い(涙)。ま、長篇小説だからね(しかたがない)。
「島」というのは、たいてい海に囲まれているものだろうけれど、芸術家のお父さんの持論(?)が“海イコール女”らしく、けっこう裸の女性(というか女性の裸)が出てくる。「ぼく」はクールだったりもするけれど、女性たちに囲まれている(モテモテ?)というか、交わってもいる(汗)。私はこの作者の小説は、いままでに『風少女』しか読んだことがなくて、勝手に“キス止まり”なイメージを持っていたのだけれど――ちょっとびっくり(汗)。ま、亜熱帯だし、夏でもあるし、服を脱ぎたくもなるか(人にもよるだろうけれど)。どうでもいいけれど、カメを食べる人(=木村画伯)とはセッ●スできないと言うモデルの雪江が、海でお●っこをしている場面は、海亀の産卵の逆っぽい? そう、読んでいてちょっと気になったのは“青と赤”。青海亀/赤海亀とか、青灯台/赤灯台とか、何か文学的な(象徴的な)意味でもあるのかな? あ、でも、青いペディキュアとか、青い口紅とか――海に囲まれた南の島だから“青”のイメージ?(違うか)。
私は見たことがない、「グリーンペペ」というキノコ(「夜光茸」の俗称とのこと)は、暗い夜に放つ弱い光がみどり色?(蛍光グリーン?)。白血病を治せる薬「グリーンペペシン」を完成させるために、日夜、CIAのスパイたちの目も気にしながら、草木の陰に隠れていたり孤軍奮闘(?)、神出鬼没な、三日月山で電波も受信できるらしい藤井くん。ネタバレしてしまうけれど、お父さんの話によれば、去年の秋から今年の4月くらいまで東京で入院していたそうだ。であれば、2浪めの途中で完全におかしくなったのかな? 原因としては失恋が関係ないなら、単純に受験だけのせい?(いわゆる受験ノイローゼ?)。大学生になってから「ぼく」は、藤井に東京で1度会ったことがあるそうで、そのときすでにおかしな兆候(?)もあったらしい。そう、自首した藤井くんに対して「ぼく」は、中学生のときのようにまた目立ちたかったんだろう、みたいなことを言っているけれど、うーん…、そうなのかな?(まぁいいか)。高校は奨学金をもらって東京の学校――どんな高校生活を送っていたんだろう? でも、プレッシャーに負けた…というより、ちょっとプライドが高くて真面目な、中学校時代の優等生――医学部志望の動機が好きな女の子の病気を治すため、という純粋さ――のその後の(高校以降の)受験がらみの悲劇がここにもある、というか。…意味不明か(汗)。そう、どうでもいいけれど、この『海泡』(読み方は「かいほう」、単行本は中央公論新社、2001.6)のほうが、“白血病もの”片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館、2001.4→小学館文庫)よりも、2ヶ月あとに出ているようだ。2ヶ月差、…ま、偶然の一致だろうね。そう、『セカチュー』はたしか、出版されてすぐに売れたわけじゃなかったよね?(よく覚えていないけれど)。
ちなみに浪人がらみでは、文庫版「あとがき」が作者の自伝エッセイにもなっているので、過去の浪人ぐあいなどが知れる。
<東京の竹芝桟橋から<小笠原丸>に揺られること二十六時間。ぼくは二年振りに中学高校時代を過ごした父島の土を踏むが、同級生だった一宮和希が三日月山展望台から転落死する。和希は本土から来たストーカー男に脅えていたというが、男は逮捕されることもなく島に居座り続ける。そして、ついに“洋上の楽園”で殺人事件が――。>(表紙カバーより)
登場人物が多くて、「ぼく」(=木村洋介、大学3年?)の元同級生としては、山屋浩司(漁師、父親と「第二やまや丸」に)や棚橋旬子(家の民宿「たなはし荘」手伝い)、丸山翔子(中学3年から白血病で自宅療養、家は財閥で大金持ち)に一宮和希(東京の大学生、父親は前村長で「小笠原興業」社長)、藤井智之(無職、家は自動車修理「藤井自動車」)が登場してくる。東京組=「ぼく」・和希・藤井の3人が島に戻っているのは、いちおう偶然。ほかには「ぼく」が帰宅すると、有名な画家である父親・木村輪一が新しいモデルの干川雪江を描いていて。一方(?)悪友の浩司は、「ぼく」とともに高校のときから出入りしているマスター(=安西つとむ)の店「トムズハウス」の新しいアルバイト・坂戸可保里に熱をあげていたり…。あと、死んでしまう和希の妹・高校2年生の夏希やら、和希のストーカーという噂が立っている真崎(下の名前は何だっけ?)やらも出てくる。雪江・可保里・真崎が本土から来ている一時滞在組というか。あ、浩司がナンパ(?)してきた観光客・田村亜矢という大学生も出てくる。あと、そう、わりとお父さんが出てくるよね、この小説。「ぼく」・和希&夏希・藤井、あと翔子のお父さんもか。旬子の父親は病弱らしいけれど、代わりに(?)お祖父さんがちょっと出てくる(民宿の釣り舟を出している、言葉に上州弁が混じっている?)。あ、病気の翔子を(亡くなったお祖母さんの代わりに)世話している早苗(遠い親戚)も出てくる(翔子の両親はふだんは本土に)。だから要するに登場人物が多い(涙)。ま、長篇小説だからね(しかたがない)。
「島」というのは、たいてい海に囲まれているものだろうけれど、芸術家のお父さんの持論(?)が“海イコール女”らしく、けっこう裸の女性(というか女性の裸)が出てくる。「ぼく」はクールだったりもするけれど、女性たちに囲まれている(モテモテ?)というか、交わってもいる(汗)。私はこの作者の小説は、いままでに『風少女』しか読んだことがなくて、勝手に“キス止まり”なイメージを持っていたのだけれど――ちょっとびっくり(汗)。ま、亜熱帯だし、夏でもあるし、服を脱ぎたくもなるか(人にもよるだろうけれど)。どうでもいいけれど、カメを食べる人(=木村画伯)とはセッ●スできないと言うモデルの雪江が、海でお●っこをしている場面は、海亀の産卵の逆っぽい? そう、読んでいてちょっと気になったのは“青と赤”。青海亀/赤海亀とか、青灯台/赤灯台とか、何か文学的な(象徴的な)意味でもあるのかな? あ、でも、青いペディキュアとか、青い口紅とか――海に囲まれた南の島だから“青”のイメージ?(違うか)。
私は見たことがない、「グリーンペペ」というキノコ(「夜光茸」の俗称とのこと)は、暗い夜に放つ弱い光がみどり色?(蛍光グリーン?)。白血病を治せる薬「グリーンペペシン」を完成させるために、日夜、CIAのスパイたちの目も気にしながら、草木の陰に隠れていたり孤軍奮闘(?)、神出鬼没な、三日月山で電波も受信できるらしい藤井くん。ネタバレしてしまうけれど、お父さんの話によれば、去年の秋から今年の4月くらいまで東京で入院していたそうだ。であれば、2浪めの途中で完全におかしくなったのかな? 原因としては失恋が関係ないなら、単純に受験だけのせい?(いわゆる受験ノイローゼ?)。大学生になってから「ぼく」は、藤井に東京で1度会ったことがあるそうで、そのときすでにおかしな兆候(?)もあったらしい。そう、自首した藤井くんに対して「ぼく」は、中学生のときのようにまた目立ちたかったんだろう、みたいなことを言っているけれど、うーん…、そうなのかな?(まぁいいか)。高校は奨学金をもらって東京の学校――どんな高校生活を送っていたんだろう? でも、プレッシャーに負けた…というより、ちょっとプライドが高くて真面目な、中学校時代の優等生――医学部志望の動機が好きな女の子の病気を治すため、という純粋さ――のその後の(高校以降の)受験がらみの悲劇がここにもある、というか。…意味不明か(汗)。そう、どうでもいいけれど、この『海泡』(読み方は「かいほう」、単行本は中央公論新社、2001.6)のほうが、“白血病もの”片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館、2001.4→小学館文庫)よりも、2ヶ月あとに出ているようだ。2ヶ月差、…ま、偶然の一致だろうね。そう、『セカチュー』はたしか、出版されてすぐに売れたわけじゃなかったよね?(よく覚えていないけれど)。
ちなみに浪人がらみでは、文庫版「あとがき」が作者の自伝エッセイにもなっているので、過去の浪人ぐあいなどが知れる。
太宰治 『パンドラの匣』
2011年10月10日 読書
手もとにあるのは、同タイトルの新潮文庫。『正義と微笑』という作品が併録されている。後ろの「解説」(奥野健男)によれば、<昭和20年(1945年)10月22日から翌21年1月7日まで64回にわたって『河北新報』に連載され、昭和21年(1946年)6月、河北新報社より単行本として刊行された>とのこと(p.333、数字は原文では漢数字)。※以下いちおうネタバレ注意です。とりあえずこれも、広い意味で“戦争小説”かな。
<「健康道場」という風変りな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた表題作。社会への門出に当って揺れ動く中学生の内面を、日記形式で巧みに表現した『正義と微笑』。いずれも、著者の年少の友の、実際の日記を素材とした作品で、太宰文学に珍しい明るい希望にみちた青春小説。>(カバー背より)
あれこれ黒いものが出ていったあと、箱の底に残っているのは“希望”。――書簡は1通ではなくて(合計10通は超えている? …面倒だから数えないことにする(汗))、各手紙の最後には日付が入っていて、最初のものが昭和20年(1945年)8月25日で、最後のものが12月9日。だから、えーと、3ヶ月半くらい?(「僕」は6ヶ月で全快すると言われたらしい)。手紙しかないから、読者としてはその内側(内容)から判断するしかないけれど、送り主は「僕」(道場でのあだ名は「ひばり」=小柴利助)で、送り先は中学校のときの同級生で、詩人の卵(?)である高校生の「君」。「僕」が入っている「桜の間」の愉快な(?)面々は、
ひばり(=「僕」、小柴利助) …20歳、中学を卒業してそのまま。
越後獅子(=大月松右衛門) …けっこう年配、娘がいる。実は××。
かっぽれ(=木下清七) …28歳、独身。俳句を詠んだり。
つくし(=西脇一夫) …北海道へ転院。そこから助手さんの1人・マァ坊(=三浦正子)に手紙。
固パン(=須川吾郎) …「つくし」に代わって入室。26歳、法科の学生。英語が得意(?)。
といった感じ。あだ名で呼び合うのも絶対(ちゃんとした規則)ではないようで、例えば「僕」は助手さん(=看護婦さんのこと)の1人・竹さん(=竹中静子)から、「ひばり」ではなく「ぼんぼん」と呼ばれたりもしている。あ、「僕」のお父さんは「数学の教授」らしい。そう、誰かのコネがないと入れないような特殊な療養施設なのかな、ここは? でも、やっていることは、ほとんどベッドの上での体操と摩擦(助手さんに体を拭いてもらう)だけだもんね。お父さんは(数学が得意でも)お金の勘定は苦手で、家は貧乏…みたいな言い訳(?)はある。そう、読んでいて飽きてくるのは、閉じているというか、外部(道場の外)の場面がほとんどないからかな…(よくわからないけれど)。
本日の本題に。長めに引用させてもらえば――最初のへん(1通め)に次のような箇所がある。
<そりゃ僕だって、いままでずいぶんつらい思いをして来たのです。君もご存じのとおり、僕は昨年の春、中学校を卒業と同時に高熱を発して肺炎を起し、三箇月も寝込んでそのために高等学校への受験も出来ず、どうやら起きて歩けるようになってからも、微熱が続いて、医者から肋膜の疑いがあると言われて、家でぶらぶら遊んで暮らしているうちに、ことしの受験期も過ぎてしまって、僕はその頃から、上級の学校へ行く気も無くなり、そんならどうするのか、となると眼の先がまっくらで、家でただ遊んでいるのもお父さんに申しわけなく、またお母さんに対しても、ていさいの悪いこと並たいていではなく、君には浪人の経験が無いからわからないかも知れないが、あれは全くつらい地獄だ。僕はあの頃、ただもうやたらに畑の草むしりばかりやっていた。そんな、お百姓の真似をする事で、わずかにお体裁を取りつくろっていた次第なのだ。(略)>(p.189)
途中を省略してもよかったけれど、↑2文めがやけに長いでしょ?(涙)。最初の「そりゃ」に対応する「けれども」もあとで出てくるけれど(p.190の真ん中へんのほう)、長くなりすぎるから無視したい(中途半端な引用で諦めたい(涙))。それはともかく、注目すべきは「浪人」という言葉が使われている点かな。その言葉が“上級学校への進学を目指して勉強している過年度卒業生”に対して使われるようになったのは――これもちゃんと引用しておくか、
<過年度卒業生を指す浪人という言葉がいつごろから使われるようになったかは不明だが、おそらく大正末期からであろう。>(竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史』講談社現代新書、1991、p.72)
という説(?)もある。単行本で言ったほうがいいかな、『パンドラの匣』は終戦の翌年=1946年(昭和21年)6月に出ている。大正が終わって昭和になってから20年も経っているじゃないか、とか言うなかれ(?)、もしかしたら、私がいままでに見たことがある「浪人」という言葉が使われている、いちばん古い小説かもしれない(探せば――別に探しているわけではないけれど、探せばもっと古いものがたくさん出てきそうだけれど)。ただ、残念なことに(?)上の箇所をよく読むと、たんなる“受験浪人”の意味でその言葉を使っている感じではない。
でもまぁ、病気では受験放棄(放置)もしょうがないか。あ、四修では受験しなかったのかな?(わからないな)。でも、お父さんが数学の教授(大学? 高校?)で、いちばんの友人も高校に入学しているのに、この人、高校(もちろん旧制)に対する憧れ、みたいなものが弱すぎない?(まぁいいか)。ちなみに小説ではなくて現実の話、昭和19年(1944年)には入試科目から英語がなくなり、翌年=昭和20年(1945年)には試験じたいがなくなる(内申書のみ)。この小説を読んでもわからないけれど、昭和20年の旧制高校受験浪人生は、実際問題、どうだったのかな? 試験がないから現役受験生(四修or五卒)と比べて不利だったみたいなこともあった?(あ、四修ではないや、この年は中学4年で繰上げ卒業だから、四卒?)。
関係ないけれど(なくはないか)、上の引用の少しあとに、太宰文学のキーワードの1つ(?)<余計者>という言葉が見られる。――これも引用しておこうか(引用多すぎ(涙))、
<君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。>(p.190)
<「健康道場」という風変りな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた表題作。社会への門出に当って揺れ動く中学生の内面を、日記形式で巧みに表現した『正義と微笑』。いずれも、著者の年少の友の、実際の日記を素材とした作品で、太宰文学に珍しい明るい希望にみちた青春小説。>(カバー背より)
あれこれ黒いものが出ていったあと、箱の底に残っているのは“希望”。――書簡は1通ではなくて(合計10通は超えている? …面倒だから数えないことにする(汗))、各手紙の最後には日付が入っていて、最初のものが昭和20年(1945年)8月25日で、最後のものが12月9日。だから、えーと、3ヶ月半くらい?(「僕」は6ヶ月で全快すると言われたらしい)。手紙しかないから、読者としてはその内側(内容)から判断するしかないけれど、送り主は「僕」(道場でのあだ名は「ひばり」=小柴利助)で、送り先は中学校のときの同級生で、詩人の卵(?)である高校生の「君」。「僕」が入っている「桜の間」の愉快な(?)面々は、
ひばり(=「僕」、小柴利助) …20歳、中学を卒業してそのまま。
越後獅子(=大月松右衛門) …けっこう年配、娘がいる。実は××。
かっぽれ(=木下清七) …28歳、独身。俳句を詠んだり。
つくし(=西脇一夫) …北海道へ転院。そこから助手さんの1人・マァ坊(=三浦正子)に手紙。
固パン(=須川吾郎) …「つくし」に代わって入室。26歳、法科の学生。英語が得意(?)。
といった感じ。あだ名で呼び合うのも絶対(ちゃんとした規則)ではないようで、例えば「僕」は助手さん(=看護婦さんのこと)の1人・竹さん(=竹中静子)から、「ひばり」ではなく「ぼんぼん」と呼ばれたりもしている。あ、「僕」のお父さんは「数学の教授」らしい。そう、誰かのコネがないと入れないような特殊な療養施設なのかな、ここは? でも、やっていることは、ほとんどベッドの上での体操と摩擦(助手さんに体を拭いてもらう)だけだもんね。お父さんは(数学が得意でも)お金の勘定は苦手で、家は貧乏…みたいな言い訳(?)はある。そう、読んでいて飽きてくるのは、閉じているというか、外部(道場の外)の場面がほとんどないからかな…(よくわからないけれど)。
本日の本題に。長めに引用させてもらえば――最初のへん(1通め)に次のような箇所がある。
<そりゃ僕だって、いままでずいぶんつらい思いをして来たのです。君もご存じのとおり、僕は昨年の春、中学校を卒業と同時に高熱を発して肺炎を起し、三箇月も寝込んでそのために高等学校への受験も出来ず、どうやら起きて歩けるようになってからも、微熱が続いて、医者から肋膜の疑いがあると言われて、家でぶらぶら遊んで暮らしているうちに、ことしの受験期も過ぎてしまって、僕はその頃から、上級の学校へ行く気も無くなり、そんならどうするのか、となると眼の先がまっくらで、家でただ遊んでいるのもお父さんに申しわけなく、またお母さんに対しても、ていさいの悪いこと並たいていではなく、君には浪人の経験が無いからわからないかも知れないが、あれは全くつらい地獄だ。僕はあの頃、ただもうやたらに畑の草むしりばかりやっていた。そんな、お百姓の真似をする事で、わずかにお体裁を取りつくろっていた次第なのだ。(略)>(p.189)
途中を省略してもよかったけれど、↑2文めがやけに長いでしょ?(涙)。最初の「そりゃ」に対応する「けれども」もあとで出てくるけれど(p.190の真ん中へんのほう)、長くなりすぎるから無視したい(中途半端な引用で諦めたい(涙))。それはともかく、注目すべきは「浪人」という言葉が使われている点かな。その言葉が“上級学校への進学を目指して勉強している過年度卒業生”に対して使われるようになったのは――これもちゃんと引用しておくか、
<過年度卒業生を指す浪人という言葉がいつごろから使われるようになったかは不明だが、おそらく大正末期からであろう。>(竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史』講談社現代新書、1991、p.72)
という説(?)もある。単行本で言ったほうがいいかな、『パンドラの匣』は終戦の翌年=1946年(昭和21年)6月に出ている。大正が終わって昭和になってから20年も経っているじゃないか、とか言うなかれ(?)、もしかしたら、私がいままでに見たことがある「浪人」という言葉が使われている、いちばん古い小説かもしれない(探せば――別に探しているわけではないけれど、探せばもっと古いものがたくさん出てきそうだけれど)。ただ、残念なことに(?)上の箇所をよく読むと、たんなる“受験浪人”の意味でその言葉を使っている感じではない。
でもまぁ、病気では受験放棄(放置)もしょうがないか。あ、四修では受験しなかったのかな?(わからないな)。でも、お父さんが数学の教授(大学? 高校?)で、いちばんの友人も高校に入学しているのに、この人、高校(もちろん旧制)に対する憧れ、みたいなものが弱すぎない?(まぁいいか)。ちなみに小説ではなくて現実の話、昭和19年(1944年)には入試科目から英語がなくなり、翌年=昭和20年(1945年)には試験じたいがなくなる(内申書のみ)。この小説を読んでもわからないけれど、昭和20年の旧制高校受験浪人生は、実際問題、どうだったのかな? 試験がないから現役受験生(四修or五卒)と比べて不利だったみたいなこともあった?(あ、四修ではないや、この年は中学4年で繰上げ卒業だから、四卒?)。
関係ないけれど(なくはないか)、上の引用の少しあとに、太宰文学のキーワードの1つ(?)<余計者>という言葉が見られる。――これも引用しておこうか(引用多すぎ(涙))、
<君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。>(p.190)
宮崎博史 『クラスに忍者あり』
2011年10月10日 読書秋元文庫、1974(レビュー機能、この本の画像が出てこないな…)。微妙な面白さが漂っている小説かも(笑)。※以下いちおうネタバレ注意です。
<目高高校三年の真木律太は、忍者としてクラス中の人気を集めている。なにしろ、一番前の席で目をあけていねむりしたり、マンガを読んだりすることは、あさめしまえのことなのである。>(表紙カバー後ろより)
どこが忍者だよ!(笑)。なのに、同級生も先生も、家族も、みんな律太のことを忍者(っぽい)と思っていて、何の疑いも抱いていない。ちょっとシュール? そう、疑問符(?)も感嘆符(!)も使われていなくて、淡々と書かれているから、笑いどころがよくわからないんだよね、この小説。
口数が少なくクールで、わりと天邪鬼な律太くん。――「クラス」(教室)の場面はそれほどないけれど、えーと、忍者律太のクラスメイトで親友というかは、19歳の高校生・大谷弘一。病気で「二落」(2年留年)しているらしい。「めだか正宗」という銘酒の酒造家のひとり息子。田辺すみ子は律太のいとこで、真木家(産婦人科の医院)に出入りしていて、律太のお母さんと通じていたりする(「女忍者」とも書かれている。くのいち?)。ほかにクラスメイトは、なぜか律太のお父さん(産婦人科医、目高高校の校医も)に自分の日記を売りつけにくる、「文学少女」磯辺八重子がいたりする。設定がいいかげん――というわけではないかもしれないけれど、上で挙げた全員が最初2年A組で、4月からは3年B組に。担任が立花先生(教科は国語)であるのも変わらない。
でも(?)いとこの田辺すみ子も、日記少女の磯辺八重子もそうだけれど、学校よりも、律太の家にやって来る人が多いんだよね。商売で成功している大阪の叔父さん(お父さんの弟)は、ときどきやってきては、お父さんの昔のことを暴露するので、お母さんがひやひやする、みたいな…。律太たちが修学旅行に行って泊まった仙台の旅館の娘・木下妙子が突然、訪ねてきたり、律太は3年の夏休みに東京の予備校に通うのだけれど、そこで知り合った「老受験生」中根一成も突然やってきたり――。そういえば、なぜか担任の先生(の奥さん)が流産する、みたいなビターな(?)挿話も出てくる。叔父さんも、息子(当時高1)を中耳炎の手術の失敗で亡くしているらしい(ほかに子どもはいないとのこと)。そういうのは、必要な設定なの? (ん? 中耳炎の手術というのは、人は亡くなるほどの?)そういえば、教頭先生の名前がぶれていたような。最初「田村教頭」(p.98)とあるのに、あとのほうでは「木村ルノー」(p.173、「ルノー」はあだ名)になっている。
“浪人生小説”としての読みどころはけっこうある(と思う)けれど、えーと、その前に、この小説は「一」から「十五」までの全15章という構成になっていて、「一」は1月、「二」は2月…と1ヶ月ずつ進んでいき、最後の「十五」は翌年の3月になる。もともと何か月刊誌の連載だったのかな? …それはともかく、「一」~「三」だけだけれど(ネタバレしてしまうけれど)、律太の兄・真木永助が浪人生(1浪)。もちろん家を継ぐために医学部志望――だったのだけれど、フェイクというか、勝手に薬科大学を受験して合格してしまう。で、そのとばっちりは、もちろん弟の律太くんに行くわけだけれど、…それはそれとして。1箇所くらい引用させてもらえば、
<「にいさん、浪人てほんとにいやなもんかい」/「そうだな、そんなにいやなもんじゃないよ。これが二年三年と連続ではどうか知らないが、一年ぐらいならそうでもないよ。だいいちだれにもこうそくされないで好きな本がゆっくり読めるしな。浪人でもしなくては一生涯小説なんかゆっくり読めないよ」/永助浪人のことばは意外であった。(略)>(p.23)
「浪人は嫌か?」――直球な質問だよね(汗)。お兄ちゃん、逆のこと(=浪人はつらい、みたいなこと)も言っていたと思うけれど、…まぁいいか。律太忍者は、その後、夏期講習(帰省して空いたお兄ちゃん・永助大学生の本郷の下宿から神田の予備校へ)で、2浪3浪どころか、5浪の「老受験生」(中根一成)と知り合ってしまうわけだけれど(笑)。そう、私は「老受験生」という言葉は初めて聞いたかもしれない。作者の造語――というわけでもないのかな?(昔の受験雑誌とかを見れば出てくる?)。あ、「多浪生」ではなくて、どこかに「長浪人(ちょうろうにん?)」という言葉が使われていなかったっけ?(…見つからないな、私の頭が勝手に造語したかもしれない)。第10章というか「十」のタイトルは、その「老受験生」となっている。10月、律太に会うために(というか旅行好きなんだっけ?)中根一成が目高市にやってくる。そう、あと、律太&永助のお父さんも、昔、医専(医学専門学校)に入るのに2浪しているようだ。だから息子が浪人することに対しては、お母さんよりも寛大というか。学歴がないと思われていた叔父さんに関しても、実は…みたいな話がある。
もっとユーモア部分について触れたほうがよかったかな…。「アベック勉強法」とか。まぁいいか。――とにかく微妙に面白い“受験生小説”だと思うので、興味がある方は、読んでみてください。お薦めです(あ、面白くてもつまらなくてもそこは自己責任で)。
<目高高校三年の真木律太は、忍者としてクラス中の人気を集めている。なにしろ、一番前の席で目をあけていねむりしたり、マンガを読んだりすることは、あさめしまえのことなのである。>(表紙カバー後ろより)
どこが忍者だよ!(笑)。なのに、同級生も先生も、家族も、みんな律太のことを忍者(っぽい)と思っていて、何の疑いも抱いていない。ちょっとシュール? そう、疑問符(?)も感嘆符(!)も使われていなくて、淡々と書かれているから、笑いどころがよくわからないんだよね、この小説。
口数が少なくクールで、わりと天邪鬼な律太くん。――「クラス」(教室)の場面はそれほどないけれど、えーと、忍者律太のクラスメイトで親友というかは、19歳の高校生・大谷弘一。病気で「二落」(2年留年)しているらしい。「めだか正宗」という銘酒の酒造家のひとり息子。田辺すみ子は律太のいとこで、真木家(産婦人科の医院)に出入りしていて、律太のお母さんと通じていたりする(「女忍者」とも書かれている。くのいち?)。ほかにクラスメイトは、なぜか律太のお父さん(産婦人科医、目高高校の校医も)に自分の日記を売りつけにくる、「文学少女」磯辺八重子がいたりする。設定がいいかげん――というわけではないかもしれないけれど、上で挙げた全員が最初2年A組で、4月からは3年B組に。担任が立花先生(教科は国語)であるのも変わらない。
でも(?)いとこの田辺すみ子も、日記少女の磯辺八重子もそうだけれど、学校よりも、律太の家にやって来る人が多いんだよね。商売で成功している大阪の叔父さん(お父さんの弟)は、ときどきやってきては、お父さんの昔のことを暴露するので、お母さんがひやひやする、みたいな…。律太たちが修学旅行に行って泊まった仙台の旅館の娘・木下妙子が突然、訪ねてきたり、律太は3年の夏休みに東京の予備校に通うのだけれど、そこで知り合った「老受験生」中根一成も突然やってきたり――。そういえば、なぜか担任の先生(の奥さん)が流産する、みたいなビターな(?)挿話も出てくる。叔父さんも、息子(当時高1)を中耳炎の手術の失敗で亡くしているらしい(ほかに子どもはいないとのこと)。そういうのは、必要な設定なの? (ん? 中耳炎の手術というのは、人は亡くなるほどの?)そういえば、教頭先生の名前がぶれていたような。最初「田村教頭」(p.98)とあるのに、あとのほうでは「木村ルノー」(p.173、「ルノー」はあだ名)になっている。
“浪人生小説”としての読みどころはけっこうある(と思う)けれど、えーと、その前に、この小説は「一」から「十五」までの全15章という構成になっていて、「一」は1月、「二」は2月…と1ヶ月ずつ進んでいき、最後の「十五」は翌年の3月になる。もともと何か月刊誌の連載だったのかな? …それはともかく、「一」~「三」だけだけれど(ネタバレしてしまうけれど)、律太の兄・真木永助が浪人生(1浪)。もちろん家を継ぐために医学部志望――だったのだけれど、フェイクというか、勝手に薬科大学を受験して合格してしまう。で、そのとばっちりは、もちろん弟の律太くんに行くわけだけれど、…それはそれとして。1箇所くらい引用させてもらえば、
<「にいさん、浪人てほんとにいやなもんかい」/「そうだな、そんなにいやなもんじゃないよ。これが二年三年と連続ではどうか知らないが、一年ぐらいならそうでもないよ。だいいちだれにもこうそくされないで好きな本がゆっくり読めるしな。浪人でもしなくては一生涯小説なんかゆっくり読めないよ」/永助浪人のことばは意外であった。(略)>(p.23)
「浪人は嫌か?」――直球な質問だよね(汗)。お兄ちゃん、逆のこと(=浪人はつらい、みたいなこと)も言っていたと思うけれど、…まぁいいか。律太忍者は、その後、夏期講習(帰省して空いたお兄ちゃん・永助大学生の本郷の下宿から神田の予備校へ)で、2浪3浪どころか、5浪の「老受験生」(中根一成)と知り合ってしまうわけだけれど(笑)。そう、私は「老受験生」という言葉は初めて聞いたかもしれない。作者の造語――というわけでもないのかな?(昔の受験雑誌とかを見れば出てくる?)。あ、「多浪生」ではなくて、どこかに「長浪人(ちょうろうにん?)」という言葉が使われていなかったっけ?(…見つからないな、私の頭が勝手に造語したかもしれない)。第10章というか「十」のタイトルは、その「老受験生」となっている。10月、律太に会うために(というか旅行好きなんだっけ?)中根一成が目高市にやってくる。そう、あと、律太&永助のお父さんも、昔、医専(医学専門学校)に入るのに2浪しているようだ。だから息子が浪人することに対しては、お母さんよりも寛大というか。学歴がないと思われていた叔父さんに関しても、実は…みたいな話がある。
もっとユーモア部分について触れたほうがよかったかな…。「アベック勉強法」とか。まぁいいか。――とにかく微妙に面白い“受験生小説”だと思うので、興味がある方は、読んでみてください。お薦めです(あ、面白くてもつまらなくてもそこは自己責任で)。
浪人生登場もの2、それ以外のもの2。※以下すべてネタバレ注意です。
・那須正幹『チカちゃんは四年生』
偕成社、1975。いま手もとにあるのは図書館本(地元ブック○フにあるかな…、それとも新刊で手に入る?)。子どものころにしても、大人になってからでも、私はあまり児童向けの図書を読んだことがなくて…。うーん…、でも、これは面白かったといえば面白かったかな…(自分の感想にあまり自信が持てない)。全4話で、「第三話 子おいひも」に浪人生が出てくる。チカ子は、毎年夏休みにかあちゃんの実家へ。今年は妹のヒトミもいっしょに行くはずだったけれど、あとから来ることに。出迎えてくれたおじいちゃんは、村で唯一の散髪屋さんで、タエ子おばちゃん(といっても21歳)と2人で暮らしている。隣の家(農家)には、毎年いっしょに遊んだりする6年生のユキエがいて、そのユキちゃんにはお兄ちゃん=カズにいちゃん(カズヒロ)がいる。――ユキちゃんが<(にいちゃんは)浪人ちゅう>と言ったのを、チカちゃんが<ロウニン中学校>という中学校があるんだと勘違いするあたり、小学生らしくて(?)ちょっと面白い。去年は、遊び場というか山や川へ案内してくれた親切なカズにいちゃんだったけれど、今年は打って変わってチカ子に花火がうるさいから町へ帰れ、みたいな暴言を…。この人、高校3年生の去年も受験生だったはずだよね、前年は受験に関してそれほどいらいらしていなかったのかな? 大学に落ちたことがよほどショックだった?(うーん…)。ちょっとびっくりなのは、去年までは庭の牛小屋があったところに、今年はプレハブの勉強小屋が…。牛を売ったお金で作ったらしい。親不孝なドナドナ(?)浪人生だな…。飼い犬のジョンはうるさい、とのことで、親戚の家に預けられている。家族&親戚迷惑なにいちゃんだな…。でも、最後、少しだけ活躍(?)しているけれど。というか、それ以前の箇所が仕込み(前振り)になっていたことがわかる。妹とはいくつ離れているの? えーと…、学年でいえば7つか。主人公=チカちゃんよりは9つ上だね。『サザエさん』でいえば、ワカメちゃんがじん六さんを見るような?(作家先生の息子・じん六さんは草食系かもしれないけれど。「~系」は関係ないか(汗))。
・片川優子『ジョナさん』
講談社、2005/講談社文庫、2010。続編の『チロル、プリーズ』(を先に読んでしまったのだけれど)よりも、こちらのほうが若干シリアス度が高い? 主人公がいっぱいいっぱいというか、ぜんぜん余裕がない感じがする、というか。(続編のほうでは「私」がちょっとおとぼけキャラに?)
<毎週日曜、死んだおじいちゃんの愛犬と公園へ行く。これが高校二年、チャコの習慣だ。しかしのどかな風景とは裏腹に頭の中は悩みでいっぱい。大学受験、親友との大喧嘩、そしてバラバラな家族。青春まっただ中って感じだけど当人は息苦しいことこの上ない。そしてさらにチャコは出逢ってしまう――恋に。>(文庫表紙カバー後ろより)
おじいちゃん&わんこ、というあたりは、児童文学?(よくわからないけれど)。親友トキコの<「言ってなかったけどさ、あたし、大学行かないから」>(p.7)という発言で、この小説は始まっている。――高校生、あれこれ1つひとつ向き合っていると、ほんと大変だよね…。まぁそれは高校生にかぎらないか。だから逆に(?)受験勉強だけしていればいい高校生は、ある意味で“幸せ”かもしれない。そう、オレンジジュースは最初、マッキー(友だち)が飲んでいるんだね。「私」(=チャコ)はジンジャーエール。甘さ…ではなくて、「私」には問題解決にさいして“甘え”がない感じ?(人に対して甘えていないというか)。でも、担任教師(ある意味ダメ教師だろうね、この人)に対しても、母親に対しても、「私」はただ批判するだけでなくて、最終的にある程度、理解して許してもいる(?)ので、けっこう好感がもてる。そう、読む前は、なんとなく「ジョナさん」ってもっと年配の、ロマンスグレーな人かと思っていたら、けっこう若い茶髪の好青年(?)だった(汗)。高校を卒業してすぐにフリーターになっても、最初の1年くらいは(大学を目指して)浪人している友だちもいるから、人生に(?)焦りとかは感じなくて済むらしい(へぇ~。浪人生の存在意義がそんなところに! …というか、自称・浪人生応援ブログとしてはちょっと微妙です(汗))。そういえば核家族ではなくて、核分裂家族? お父さんは登場してくるけれど、家を出ている大学生のお兄ちゃんは最後まで出てこなかったな。
・津原やすみ『抱きしめてエンジェル あたしのエイリアン』
講談社X文庫ティーンズハート、1993。シリーズ16作目(上下巻が1つあって通算で17冊目)。でも、私は手前の15作(16冊)をまったく読んでいない。――それはともかく。こちらのジョナサンは、トサカヘア(赤いモヒカン)にサングラスの宇宙人。
<<N・Yペアでご招待>の1等賞を福引きで当てちゃった千晶とホシオ。で、でもエイリアンのホシオって、どうやってパスポート取るの!? だけど、ホシオはニューヨークの叔父の子ってことになってるんだから、行くっきゃないのよネ。こんな時にジョナサンがいてくれたら……あれ、あの人どうやって日本に入国できるの? ってわけで、ドジで元気な千晶たちご一行の、奇妙な一団は世界の摩天楼ニューヨークへ乱入だい!?>(表紙カバー折り返しより)
アメリカの地に降り立つまでがけっこう長い? それほど文字量のある小説ではないし、内容的にもわりと楽しいから、読んでいて苦にはならなかったけれど。「ご一行」というのは、だんだんと同行予定の人数が増えていって、結局6人に。男女3人ずつ、宇宙人4人に地球人2人。あ、その前にボビさんのサックスがきっかけで、ジョナサン&ボビさんにも会えるのだけれど(ネタバレしてしまうけれど)、エイリアンの人たちのパスポートは結局、ふつうに偽造パスポートを使っている(汗)。――浪人生の千晶(ちあき)、さすがに観光旅行では勉強道具(参考書など)を持ってはいかないか。定番の名所を回ったり、映画を撮ったり…と、することはいろいろある感じだけれど、1週間だっけ? 受験生としては大いなる“息抜き”だよね。受験のことは基本的に忘れている感じ(旅行中、ほとんど思い出していない)。ぜんぜん関係ないけれど(どうでもいいことだけれど)、両手と片足をあげて驚く、って、どういう手と足のあげ方?(汗)。頭の中で何パターンか想像してみたのだけれど、いまいちどれもしっくりこない(涙)。そういえば“お酒”が何度か出てくる。大学生(ホシオは大学生)といえば、飲み会というイメージ?
・西澤保彦『黄金色の祈り』
文藝春秋、1999/文春文庫、2003。これはここ3、4ヶ月くらいの間に読んだ小説でいちばん面白かったかもしれない。面白いというか、内容面が、読んでいて身につまされる感じだった(涙)。何か1つ嘘をついたら、辻褄をあわせるために別の嘘をつき続けなくてはいけない…のと同じように、欺瞞(自己欺瞞)に関しても、結局、自分と向き合うことからは逃げ切れはしないようだ。文章面というか、文章もしっかりしている感じ。「型」が出来ているというか。
<他人の目を気にし、人をうらやみ、成功することばかり考えている「僕」は、高校卒業後、アメリカの大学に留学するが、いつしか社会から脱落していく。しかし、人生における一発逆転を狙って、ついに小説家デビュー。かつての旧友の死を題材に小説を発表するが…作者の実人生を思わせる、青春ミステリ小説。解説・小野不由美>(文庫表紙カバー後ろより)
「黄金色」の読み方は「きんいろ」。ブラスバンドの「ブラス」(brass)って「真鍮」という意味だったんだ、知らなかった。主人公というか語り手の「僕」は最初、中学2年生で吹奏楽部。そこから最後、40歳くらいまでのことが書かれている。――大学受験に関して「僕」がとった「一発逆転」の方法は、といえば、
<浪人する、ではなくて留学する、という方が断然、体裁がいい。はっきりいえば、そっちの方がかっこいい。そう思ったのだ。>(p.164)
留学。これほど「はっきり」と言われているのは、初めて見たかもしれない。「僕」は国際基督教大学(ICU)も受けて、落ちている(小説的には“神様”関係の大学だから落ちたのか?)。作者(1960年生まれ)じしんも、アメリカ南部の大学に留学しているらしく、そういう意味でも、アメリカ編のリアリティはかなりありそうだ。あくまで小説(フィクション)ではあるけれど、卒業後に留学してみたいと思っている高校生は読んでみてもいいのでは?(あ、いまはインターネットがあるから直接、リアル留学生の言葉を読むこともできるか)。でも、うーん…、やっぱり行ってからが大変みたいだよね(って当たり前か)。あと、名前に関して、「美夜(みや)」→「ミャアちゃん」ってそのままだな。でも、性格がネコ系?(名は体を表す?)。先輩の教子(きょうこ)さんは、いわゆる“ボクっ娘”はなくて“ワガハイっ娘”。そう、あとのほうで急に触れられているけれど、同級生の葛目菜摘(くずめ・なつみ)という人は、地元の大学に入るのに1年浪人していたようだ(p.279)。「僕」はいちおう“就職浪人”はしている。――でも(?)思うに、いずれにしても読者は、主役願望をもつ「僕」を主役として読んでいくしかないわけだから、そういう意味では最初から「一発逆転」も何もない?(しらじらしい?)。
・那須正幹『チカちゃんは四年生』
偕成社、1975。いま手もとにあるのは図書館本(地元ブック○フにあるかな…、それとも新刊で手に入る?)。子どものころにしても、大人になってからでも、私はあまり児童向けの図書を読んだことがなくて…。うーん…、でも、これは面白かったといえば面白かったかな…(自分の感想にあまり自信が持てない)。全4話で、「第三話 子おいひも」に浪人生が出てくる。チカ子は、毎年夏休みにかあちゃんの実家へ。今年は妹のヒトミもいっしょに行くはずだったけれど、あとから来ることに。出迎えてくれたおじいちゃんは、村で唯一の散髪屋さんで、タエ子おばちゃん(といっても21歳)と2人で暮らしている。隣の家(農家)には、毎年いっしょに遊んだりする6年生のユキエがいて、そのユキちゃんにはお兄ちゃん=カズにいちゃん(カズヒロ)がいる。――ユキちゃんが<(にいちゃんは)浪人ちゅう>と言ったのを、チカちゃんが<ロウニン中学校>という中学校があるんだと勘違いするあたり、小学生らしくて(?)ちょっと面白い。去年は、遊び場というか山や川へ案内してくれた親切なカズにいちゃんだったけれど、今年は打って変わってチカ子に花火がうるさいから町へ帰れ、みたいな暴言を…。この人、高校3年生の去年も受験生だったはずだよね、前年は受験に関してそれほどいらいらしていなかったのかな? 大学に落ちたことがよほどショックだった?(うーん…)。ちょっとびっくりなのは、去年までは庭の牛小屋があったところに、今年はプレハブの勉強小屋が…。牛を売ったお金で作ったらしい。親不孝なドナドナ(?)浪人生だな…。飼い犬のジョンはうるさい、とのことで、親戚の家に預けられている。家族&親戚迷惑なにいちゃんだな…。でも、最後、少しだけ活躍(?)しているけれど。というか、それ以前の箇所が仕込み(前振り)になっていたことがわかる。妹とはいくつ離れているの? えーと…、学年でいえば7つか。主人公=チカちゃんよりは9つ上だね。『サザエさん』でいえば、ワカメちゃんがじん六さんを見るような?(作家先生の息子・じん六さんは草食系かもしれないけれど。「~系」は関係ないか(汗))。
・片川優子『ジョナさん』
講談社、2005/講談社文庫、2010。続編の『チロル、プリーズ』(を先に読んでしまったのだけれど)よりも、こちらのほうが若干シリアス度が高い? 主人公がいっぱいいっぱいというか、ぜんぜん余裕がない感じがする、というか。(続編のほうでは「私」がちょっとおとぼけキャラに?)
<毎週日曜、死んだおじいちゃんの愛犬と公園へ行く。これが高校二年、チャコの習慣だ。しかしのどかな風景とは裏腹に頭の中は悩みでいっぱい。大学受験、親友との大喧嘩、そしてバラバラな家族。青春まっただ中って感じだけど当人は息苦しいことこの上ない。そしてさらにチャコは出逢ってしまう――恋に。>(文庫表紙カバー後ろより)
おじいちゃん&わんこ、というあたりは、児童文学?(よくわからないけれど)。親友トキコの<「言ってなかったけどさ、あたし、大学行かないから」>(p.7)という発言で、この小説は始まっている。――高校生、あれこれ1つひとつ向き合っていると、ほんと大変だよね…。まぁそれは高校生にかぎらないか。だから逆に(?)受験勉強だけしていればいい高校生は、ある意味で“幸せ”かもしれない。そう、オレンジジュースは最初、マッキー(友だち)が飲んでいるんだね。「私」(=チャコ)はジンジャーエール。甘さ…ではなくて、「私」には問題解決にさいして“甘え”がない感じ?(人に対して甘えていないというか)。でも、担任教師(ある意味ダメ教師だろうね、この人)に対しても、母親に対しても、「私」はただ批判するだけでなくて、最終的にある程度、理解して許してもいる(?)ので、けっこう好感がもてる。そう、読む前は、なんとなく「ジョナさん」ってもっと年配の、ロマンスグレーな人かと思っていたら、けっこう若い茶髪の好青年(?)だった(汗)。高校を卒業してすぐにフリーターになっても、最初の1年くらいは(大学を目指して)浪人している友だちもいるから、人生に(?)焦りとかは感じなくて済むらしい(へぇ~。浪人生の存在意義がそんなところに! …というか、自称・浪人生応援ブログとしてはちょっと微妙です(汗))。そういえば核家族ではなくて、核分裂家族? お父さんは登場してくるけれど、家を出ている大学生のお兄ちゃんは最後まで出てこなかったな。
・津原やすみ『抱きしめてエンジェル あたしのエイリアン』
講談社X文庫ティーンズハート、1993。シリーズ16作目(上下巻が1つあって通算で17冊目)。でも、私は手前の15作(16冊)をまったく読んでいない。――それはともかく。こちらのジョナサンは、トサカヘア(赤いモヒカン)にサングラスの宇宙人。
<<N・Yペアでご招待>の1等賞を福引きで当てちゃった千晶とホシオ。で、でもエイリアンのホシオって、どうやってパスポート取るの!? だけど、ホシオはニューヨークの叔父の子ってことになってるんだから、行くっきゃないのよネ。こんな時にジョナサンがいてくれたら……あれ、あの人どうやって日本に入国できるの? ってわけで、ドジで元気な千晶たちご一行の、奇妙な一団は世界の摩天楼ニューヨークへ乱入だい!?>(表紙カバー折り返しより)
アメリカの地に降り立つまでがけっこう長い? それほど文字量のある小説ではないし、内容的にもわりと楽しいから、読んでいて苦にはならなかったけれど。「ご一行」というのは、だんだんと同行予定の人数が増えていって、結局6人に。男女3人ずつ、宇宙人4人に地球人2人。あ、その前にボビさんのサックスがきっかけで、ジョナサン&ボビさんにも会えるのだけれど(ネタバレしてしまうけれど)、エイリアンの人たちのパスポートは結局、ふつうに偽造パスポートを使っている(汗)。――浪人生の千晶(ちあき)、さすがに観光旅行では勉強道具(参考書など)を持ってはいかないか。定番の名所を回ったり、映画を撮ったり…と、することはいろいろある感じだけれど、1週間だっけ? 受験生としては大いなる“息抜き”だよね。受験のことは基本的に忘れている感じ(旅行中、ほとんど思い出していない)。ぜんぜん関係ないけれど(どうでもいいことだけれど)、両手と片足をあげて驚く、って、どういう手と足のあげ方?(汗)。頭の中で何パターンか想像してみたのだけれど、いまいちどれもしっくりこない(涙)。そういえば“お酒”が何度か出てくる。大学生(ホシオは大学生)といえば、飲み会というイメージ?
・西澤保彦『黄金色の祈り』
文藝春秋、1999/文春文庫、2003。これはここ3、4ヶ月くらいの間に読んだ小説でいちばん面白かったかもしれない。面白いというか、内容面が、読んでいて身につまされる感じだった(涙)。何か1つ嘘をついたら、辻褄をあわせるために別の嘘をつき続けなくてはいけない…のと同じように、欺瞞(自己欺瞞)に関しても、結局、自分と向き合うことからは逃げ切れはしないようだ。文章面というか、文章もしっかりしている感じ。「型」が出来ているというか。
<他人の目を気にし、人をうらやみ、成功することばかり考えている「僕」は、高校卒業後、アメリカの大学に留学するが、いつしか社会から脱落していく。しかし、人生における一発逆転を狙って、ついに小説家デビュー。かつての旧友の死を題材に小説を発表するが…作者の実人生を思わせる、青春ミステリ小説。解説・小野不由美>(文庫表紙カバー後ろより)
「黄金色」の読み方は「きんいろ」。ブラスバンドの「ブラス」(brass)って「真鍮」という意味だったんだ、知らなかった。主人公というか語り手の「僕」は最初、中学2年生で吹奏楽部。そこから最後、40歳くらいまでのことが書かれている。――大学受験に関して「僕」がとった「一発逆転」の方法は、といえば、
<浪人する、ではなくて留学する、という方が断然、体裁がいい。はっきりいえば、そっちの方がかっこいい。そう思ったのだ。>(p.164)
留学。これほど「はっきり」と言われているのは、初めて見たかもしれない。「僕」は国際基督教大学(ICU)も受けて、落ちている(小説的には“神様”関係の大学だから落ちたのか?)。作者(1960年生まれ)じしんも、アメリカ南部の大学に留学しているらしく、そういう意味でも、アメリカ編のリアリティはかなりありそうだ。あくまで小説(フィクション)ではあるけれど、卒業後に留学してみたいと思っている高校生は読んでみてもいいのでは?(あ、いまはインターネットがあるから直接、リアル留学生の言葉を読むこともできるか)。でも、うーん…、やっぱり行ってからが大変みたいだよね(って当たり前か)。あと、名前に関して、「美夜(みや)」→「ミャアちゃん」ってそのままだな。でも、性格がネコ系?(名は体を表す?)。先輩の教子(きょうこ)さんは、いわゆる“ボクっ娘”はなくて“ワガハイっ娘”。そう、あとのほうで急に触れられているけれど、同級生の葛目菜摘(くずめ・なつみ)という人は、地元の大学に入るのに1年浪人していたようだ(p.279)。「僕」はいちおう“就職浪人”はしている。――でも(?)思うに、いずれにしても読者は、主役願望をもつ「僕」を主役として読んでいくしかないわけだから、そういう意味では最初から「一発逆転」も何もない?(しらじらしい?)。
奥泉光 『シューマンの指』
2011年10月9日 読書
講談社、2010。昨年(=2010年)わりと話題になっていた本。書名や装丁を見て、あとクラシック(西洋古典音楽)が扱われているらしい、みたいな事前情報から、なんとなく新潮クレスト・ブックスとかにありそうな、海外文学みたいな小説かなと勝手に思っていたら、そんな感じでもなかったです。文章的にも内容的にも、意外とけっこう俗っぽい? えーと、この小説も、ネタバレをさせないで何か言えそうな気がしないな…、すみません、※以下、ネタバレ注意です。
ページ数でいえば、大部分が「私」(=里崎優)による手記というか、「私」がそう称している文章で構成されている。で、その回想的な手記によれば、「私」が高校3年になったとき、音楽界ではすでに有名人・天才ピアニストでシューマン推しの永嶺修人(「修人」は「まさと」と読む)が1年生として入学してくる。「私」とその永嶺は、「私」の中学からの友達・鹿内堅一郎を加えて「僕らのダヴィッド同盟」を結成、音楽に関することなどを書き込むノートを巡回させたりしている。「私」が高校を卒業した春(3月下旬)「私」は偶然、学校で永嶺修人の演奏を耳にする機会を得たのだけれど、そのとき、学校のプールで女子生徒が殺害される事件が発生。これは、結局(30年後の話)犯人が捕まらないまま時効になったようだ。「私」と永嶺修人との交流は、ピアニストとしては致命的な出来事、すなわち永嶺が指を失うまで――1979年の夏、「私」が1浪して入学したT音大の1年のときまで――続いている。
読んでいて音楽を聞いてみたくはなったけれど、「シューマン」という言葉には現時点で、もううんざりです(涙)。というか、私は(以前にも書いたけれど)音楽的な知識がぜんぜんなくて(クラシックでもジャズでも、ロックでも)、正直、これだけ薀蓄(というか不案内なジャンルの言葉)が多いと読んでいて、めんどくさくなる…。ただ、天ぷらの衣というか、音楽的な要素をとっぱらってしまえば、意外とシンプルな推理小説しか残らない?(そうでもないのか)。実際に演奏された不完全な音楽から、完全な音楽そのものを聴く――みたいな大袈裟なことではなくて、シューマンの曲は陰でこっそりと(?)暗い感じの別の曲が流れている――みたいな音楽的な話でもなくて、俗っぽい話だけれど、推理小説(ミステリー)というのはたぶん、全般的に多かれ少なかれ、語られていることの裏っかわを読もうとしないと、最後あたりで、あー、だまされた、みたいなことになってしまう…よね? でも、私の場合、テレビで手品を見ていたりしても、どうなっているのやら、タネが分かったためしがないし(涙)。ま、頭が悪いと言ってしまえばそれまでかもしれないけれど。この小説も、読み終わったあとで、ぱらぱら読み返してみると、ヒントというか伏線というかが山ほどあって、あ゛ー、という気分です。
ところで、これは、音大受験生が読んで面白かったり、役に立ったりする作品になっているかな?(私にわかるわけがないか)。高校や自宅があるのは東京っぽいけれど(あるいはその近郊?)、最初のへんで「私」の音大時代の友人の話で、和歌山から飛行機で東京までレッスンを受けに来ていた、みたいな話もあって(ちょっとびっくり)。「私」も5歳からピアノを習っていたと言っているし、「T音大」に入るのに、通常のレッスン(K先生)以外にそのT音大の先生のレッスンも受けているようだし。自宅や学校での練習量はもちろん多い…。音大にもよるのかもしれないけれど、かなり大変な感じ。身近に音楽の“天才”がいる……みたいなことは、どうなのかな? この人の場合、わりと受験には役立っているような? (あ、すっかり忘れていたけれど、漫画、さそうあきら『神童』(文庫版・全3巻)をだいぶ前に買ったまま、まったく読んでいない(涙)。)
そういえば、なんとなく予想していたよりも「私」の浪人中の話が多くて、その点ではよかったかな(何がよいのやら?(汗))。月光下プールサイド殺人がらみ事件も、3月中とはいえ「私」が卒業してから起こっているし。えーと、何年だっけ? …1978年か。浪人(1浪)するのは予定通りとか、織り込み済みだったみたいなことも言っているけれど、浪人中は苦しかったとも語っている(でも、その苦しみの数パーセントは永嶺修人のせいらしい)。そう、文脈の説明は省略させてもらうけれど、演奏や音楽に関してあれこれ言ってしまった「私」が、ある音大生女子(?)から「まだあれのくせに」とか言われている。「あれ」=浪人。「私」に遠慮したというより「浪人」という言葉を口にするのが汚らわしかった? ちなみに、高校に入ってからケガや病気で1年遅れた(「私」の1学年下の)堅一郎も、1年浪人している(結局、第2志望の私大に入学したらしい)。こちらの浪人年は1979年か。
「里崎優」の下の名前の読み方って、どこかに書かれていたっけ? でも、たぶん「まさる」だよね。「マルタ」と「マルデ」とか、「ケンイチロウ」とか、やっぱりこの小説、振り返ればヒント(?)がいらないくらい沢山あったんだよね。
[追記]文庫本は、講談社文庫、2012.10。
ページ数でいえば、大部分が「私」(=里崎優)による手記というか、「私」がそう称している文章で構成されている。で、その回想的な手記によれば、「私」が高校3年になったとき、音楽界ではすでに有名人・天才ピアニストでシューマン推しの永嶺修人(「修人」は「まさと」と読む)が1年生として入学してくる。「私」とその永嶺は、「私」の中学からの友達・鹿内堅一郎を加えて「僕らのダヴィッド同盟」を結成、音楽に関することなどを書き込むノートを巡回させたりしている。「私」が高校を卒業した春(3月下旬)「私」は偶然、学校で永嶺修人の演奏を耳にする機会を得たのだけれど、そのとき、学校のプールで女子生徒が殺害される事件が発生。これは、結局(30年後の話)犯人が捕まらないまま時効になったようだ。「私」と永嶺修人との交流は、ピアニストとしては致命的な出来事、すなわち永嶺が指を失うまで――1979年の夏、「私」が1浪して入学したT音大の1年のときまで――続いている。
読んでいて音楽を聞いてみたくはなったけれど、「シューマン」という言葉には現時点で、もううんざりです(涙)。というか、私は(以前にも書いたけれど)音楽的な知識がぜんぜんなくて(クラシックでもジャズでも、ロックでも)、正直、これだけ薀蓄(というか不案内なジャンルの言葉)が多いと読んでいて、めんどくさくなる…。ただ、天ぷらの衣というか、音楽的な要素をとっぱらってしまえば、意外とシンプルな推理小説しか残らない?(そうでもないのか)。実際に演奏された不完全な音楽から、完全な音楽そのものを聴く――みたいな大袈裟なことではなくて、シューマンの曲は陰でこっそりと(?)暗い感じの別の曲が流れている――みたいな音楽的な話でもなくて、俗っぽい話だけれど、推理小説(ミステリー)というのはたぶん、全般的に多かれ少なかれ、語られていることの裏っかわを読もうとしないと、最後あたりで、あー、だまされた、みたいなことになってしまう…よね? でも、私の場合、テレビで手品を見ていたりしても、どうなっているのやら、タネが分かったためしがないし(涙)。ま、頭が悪いと言ってしまえばそれまでかもしれないけれど。この小説も、読み終わったあとで、ぱらぱら読み返してみると、ヒントというか伏線というかが山ほどあって、あ゛ー、という気分です。
ところで、これは、音大受験生が読んで面白かったり、役に立ったりする作品になっているかな?(私にわかるわけがないか)。高校や自宅があるのは東京っぽいけれど(あるいはその近郊?)、最初のへんで「私」の音大時代の友人の話で、和歌山から飛行機で東京までレッスンを受けに来ていた、みたいな話もあって(ちょっとびっくり)。「私」も5歳からピアノを習っていたと言っているし、「T音大」に入るのに、通常のレッスン(K先生)以外にそのT音大の先生のレッスンも受けているようだし。自宅や学校での練習量はもちろん多い…。音大にもよるのかもしれないけれど、かなり大変な感じ。身近に音楽の“天才”がいる……みたいなことは、どうなのかな? この人の場合、わりと受験には役立っているような? (あ、すっかり忘れていたけれど、漫画、さそうあきら『神童』(文庫版・全3巻)をだいぶ前に買ったまま、まったく読んでいない(涙)。)
そういえば、なんとなく予想していたよりも「私」の浪人中の話が多くて、その点ではよかったかな(何がよいのやら?(汗))。月光下プールサイド殺人がらみ事件も、3月中とはいえ「私」が卒業してから起こっているし。えーと、何年だっけ? …1978年か。浪人(1浪)するのは予定通りとか、織り込み済みだったみたいなことも言っているけれど、浪人中は苦しかったとも語っている(でも、その苦しみの数パーセントは永嶺修人のせいらしい)。そう、文脈の説明は省略させてもらうけれど、演奏や音楽に関してあれこれ言ってしまった「私」が、ある音大生女子(?)から「まだあれのくせに」とか言われている。「あれ」=浪人。「私」に遠慮したというより「浪人」という言葉を口にするのが汚らわしかった? ちなみに、高校に入ってからケガや病気で1年遅れた(「私」の1学年下の)堅一郎も、1年浪人している(結局、第2志望の私大に入学したらしい)。こちらの浪人年は1979年か。
「里崎優」の下の名前の読み方って、どこかに書かれていたっけ? でも、たぶん「まさる」だよね。「マルタ」と「マルデ」とか、「ケンイチロウ」とか、やっぱりこの小説、振り返ればヒント(?)がいらないくらい沢山あったんだよね。
[追記]文庫本は、講談社文庫、2012.10。
『! ビックリマーク』(アルファポリス、2009/アルファポリス文庫、2011)所収、全3篇中の2篇目。手もとにあるのは文庫版。単行本が出たときには見逃していたようだ。基本的にホラー小説が苦手なのだけれど(怖いのやら“曖昧”なのやらが好きではなくて)、でも、これはけっこう面白かったです(ある種の理屈はちゃんと通っているし)。ただ、良かれ悪しかれ、たくさんの人が死んでいるうえ、「私」(=漢字不明で「リョウコ」)はわりと平気な感じだけれど、私というか個人的には、死体の描写もちょっと…。でも、なにげなく読んだ推理小説のその手の場面のほうが、逆に残酷だったりもすることもあるし、これくらいは大丈夫――と自分に言い聞かせて(汗)。(そういえば、以前読んだ、村田基『恐怖の日常』に収録されている「山の家」は、いまだに記憶に残っている。ちょっとトラウマっぽい。)
同級生たちが楽しそうな高校生活(部活や恋愛、文化祭など)を送っているのを横目に、両親の意向にも沿ってずっと勉強してきた「私」は、両親――難関大学の卒業生で、勉強が得意ではない娘の気持ちが理解できない――とともに訪れた大学の合格発表で、不合格であることを知って涙する、というか、母親が見つけてきた予備校の寮に入って、友人が1人もいない状態で予備校通いをしている。バラ色の大学生活を目指して、ピンク色の(?)高校生活を犠牲にしたのに、灰色の浪人生活が待っているなんて! みたいなことは、予備校の難関大学を目指すコースなら、1人や2人どころか、生徒の半分くらいがそういう人たちなのでは?(“高校至上主義”的な現在ではそれほど多くはないか。たいていの人が高校生活をエンジョイ?)。
ところでコーヒー(というかカフェイン)には、そんなに精神を落ち着ける作用があるの?(うーん…)。「私」は別にコーヒー好きというわけではないのに、缶コーヒー(たぶん苦いもの)を1日5本、帰宅してからもインスタントのものをたくさん…。ふつうに飲みすぎだよね(笑)。でも、女の子ってあまり缶コーヒーを飲まないイメージがあるけれど。ストロー付きのカップのものを買っていそうな? で(?)買い置きしてあったインスタントコーヒーを、椅子を使って高いところから取ろうとして、ぐらっと来て壁に体当たり。亀裂が入ってしまう。のちに広げて、自分が入れる穴にまで拡大。穴の向こうにはコンクリートの空間があって、そこはどうやら、殺人鬼さんが殺した死体(ゴミ袋入り)の置き場にしているようで…、みたいな話。――死体を発見した時点で、警察に通報しろよ! とか思ってしまうけれど(これはミステリ思考? or 市民の義務?)、「私」は共感して(?)その姿が見えない人物と、置き手紙方式で文通を始めたり…。
“浪人生小説”としても意外と面白かった気が。細かいところで違和感はあるけれど(例えば模擬試験の重要性とか)、設定とストーリー(物語)とがちゃんと噛み合っているというか、浪人設定がたんなる設定(記号)になっていない。でも、置かれている状況が、女の子にしてはちょっと悲惨すぎる?(この予備校には気軽に相談できるチューターとか、カウンセラーやアドバイザーはいないのか?)。でも、読んでいると「私」の性格がわかってきて、大学に現役合格できなかった理由もなんとなくわかるような気もする(汗)。えーと、「穴」=人生の落とし穴、蟻地獄――とまでは書かれていなかったっけ(汗)。「受験地獄」という言葉なら、世間的にもう死語になっているかな(そうでもない?)。そう、「寮」というより、予備校生向けのたんなるアパートっぽいかもしれない(通っている予備校が経営しているところとか?)。「私」は101号室らしいけれど、隣の102号室の人とも交流がないらしい。「寮」としての長所――友だちたくさんor入居者たちの愛憎劇?――をぜんぜん享受できていないよね、この人。あと、まかない付きではなく、自炊をしているようだ。でも(作れば作れるのに)カップ麺やレトルトカレーが多いらしい。一般的な話、1人暮らしの予備校生って何を食べているのかな? ま、大学生と同じで、だんだんと外食が多くなっちゃうかもしれないよね(大学生よりも予備校生のほうが、1年を通して勉強が忙しそうだし)。
そういえば「私」の実家はどこなのかな? 自宅からは予備校に通えないのか? えーと、季節はいちおう夏だっけ? 「私」の誕生日が7月18日で、カレンダーの印を見たらしい殺人鬼さんからプレゼントをもらっている。でも、夏季のわりに死体の腐敗ぐあいが遅そうな?(ま、そういう細かいことはいいか)。――「私」目線の箇所だけでなく、太字で手記(【殺人鬼の考えたこと】)が載っていて、読者にはわりと早めに殺人鬼さんも、浪人生(一応)であることがわかる。音楽家(ピアニスト?)が夢で音楽大学に行きたくて、高校時代、それに反対する両親と衝突をしたらしい。でも、それくらいで(最終的に)人を殺すまでに至るかな?(うーん…)。いや、読んでいてそれほど不自然には感じなかったけれど。というか、大量殺人犯じたい、世の中にそれほどいないか(いたら困るな)。
同級生たちが楽しそうな高校生活(部活や恋愛、文化祭など)を送っているのを横目に、両親の意向にも沿ってずっと勉強してきた「私」は、両親――難関大学の卒業生で、勉強が得意ではない娘の気持ちが理解できない――とともに訪れた大学の合格発表で、不合格であることを知って涙する、というか、母親が見つけてきた予備校の寮に入って、友人が1人もいない状態で予備校通いをしている。バラ色の大学生活を目指して、ピンク色の(?)高校生活を犠牲にしたのに、灰色の浪人生活が待っているなんて! みたいなことは、予備校の難関大学を目指すコースなら、1人や2人どころか、生徒の半分くらいがそういう人たちなのでは?(“高校至上主義”的な現在ではそれほど多くはないか。たいていの人が高校生活をエンジョイ?)。
ところでコーヒー(というかカフェイン)には、そんなに精神を落ち着ける作用があるの?(うーん…)。「私」は別にコーヒー好きというわけではないのに、缶コーヒー(たぶん苦いもの)を1日5本、帰宅してからもインスタントのものをたくさん…。ふつうに飲みすぎだよね(笑)。でも、女の子ってあまり缶コーヒーを飲まないイメージがあるけれど。ストロー付きのカップのものを買っていそうな? で(?)買い置きしてあったインスタントコーヒーを、椅子を使って高いところから取ろうとして、ぐらっと来て壁に体当たり。亀裂が入ってしまう。のちに広げて、自分が入れる穴にまで拡大。穴の向こうにはコンクリートの空間があって、そこはどうやら、殺人鬼さんが殺した死体(ゴミ袋入り)の置き場にしているようで…、みたいな話。――死体を発見した時点で、警察に通報しろよ! とか思ってしまうけれど(これはミステリ思考? or 市民の義務?)、「私」は共感して(?)その姿が見えない人物と、置き手紙方式で文通を始めたり…。
“浪人生小説”としても意外と面白かった気が。細かいところで違和感はあるけれど(例えば模擬試験の重要性とか)、設定とストーリー(物語)とがちゃんと噛み合っているというか、浪人設定がたんなる設定(記号)になっていない。でも、置かれている状況が、女の子にしてはちょっと悲惨すぎる?(この予備校には気軽に相談できるチューターとか、カウンセラーやアドバイザーはいないのか?)。でも、読んでいると「私」の性格がわかってきて、大学に現役合格できなかった理由もなんとなくわかるような気もする(汗)。えーと、「穴」=人生の落とし穴、蟻地獄――とまでは書かれていなかったっけ(汗)。「受験地獄」という言葉なら、世間的にもう死語になっているかな(そうでもない?)。そう、「寮」というより、予備校生向けのたんなるアパートっぽいかもしれない(通っている予備校が経営しているところとか?)。「私」は101号室らしいけれど、隣の102号室の人とも交流がないらしい。「寮」としての長所――友だちたくさんor入居者たちの愛憎劇?――をぜんぜん享受できていないよね、この人。あと、まかない付きではなく、自炊をしているようだ。でも(作れば作れるのに)カップ麺やレトルトカレーが多いらしい。一般的な話、1人暮らしの予備校生って何を食べているのかな? ま、大学生と同じで、だんだんと外食が多くなっちゃうかもしれないよね(大学生よりも予備校生のほうが、1年を通して勉強が忙しそうだし)。
そういえば「私」の実家はどこなのかな? 自宅からは予備校に通えないのか? えーと、季節はいちおう夏だっけ? 「私」の誕生日が7月18日で、カレンダーの印を見たらしい殺人鬼さんからプレゼントをもらっている。でも、夏季のわりに死体の腐敗ぐあいが遅そうな?(ま、そういう細かいことはいいか)。――「私」目線の箇所だけでなく、太字で手記(【殺人鬼の考えたこと】)が載っていて、読者にはわりと早めに殺人鬼さんも、浪人生(一応)であることがわかる。音楽家(ピアニスト?)が夢で音楽大学に行きたくて、高校時代、それに反対する両親と衝突をしたらしい。でも、それくらいで(最終的に)人を殺すまでに至るかな?(うーん…)。いや、読んでいてそれほど不自然には感じなかったけれど。というか、大量殺人犯じたい、世の中にそれほどいないか(いたら困るな)。
豊島与志雄 「都会の幽気」
2011年10月8日 読書
だいぶ前に「青空文庫」で知って、気にはなっていたのだけれど、そのまま読んでいなかったもの。最近、本屋で東雅夫編『文豪怪談傑作選・昭和篇 女霊は誘う』(ちくま文庫、2011.9)というアンソロジー本を手にとってみたら、収録されていたので買ってみた。(本の)後ろのほうによれば、初出は<『サンデー毎日』1924(大正13)年1月号>とのこと(「サンデー」なのに週刊誌ではなくて月刊誌?)。収録作品のなかでこの1篇だけ「昭和」ではなくて、まだ「大正」なようだ。単行本は……細かいことはいいか(汗)。感想というかは、とりあえず(一読した段階では)微妙…だったかな。どういう風に読めばいいのやら楽しみ方(?)がわからない。
種々雑多な、大勢の人々が集まって活動しているのが、ザ・都会。どこの地面をとっても、かつて誰も踏んでいない場所はなく、誰にも触れられていない壁などもなく、空気にしても以前に誰かが吸ってはいたものを、また別の人が吸ってはいている。「幽鬼」ではなくて「幽気」――以前にその場所にいた人の気持ちというか、気配というか雰囲気というか。暴風雨やなんかで吹き飛ばされたり、洗い流されたり(?)してしまうらしいけれど、夜や、昼間でも曇った日には、あちこちにそれらが吹き溜まっているようだ。何で生計を立てているのやら職業が不明な「私」は、失恋をきっかけに、賑やかさを求めて友人たちと遊んだりして、日常的に帰宅する時間が遅くなっていたけれど、ある夜、下宿までの道を歩いていると、誰かがあとを付けてくる気配が…。「志村、後ろ後ろ!」状態…ではないけれど、もちろん(?)振り返っても誰もいない。で、だんだんと感度がよくなってくるというか、「私」はどんどん見えるようになっていく。――なんていうか、とりあえず“憑かれるかもしれない恐怖”が描かれた小説?
机に座っていると、右手の上のほうには、何かがぶらさがっているような…。ついに家の中にまでか! で、それは若い男の姿をしている。――下宿のお上さん(が登場)の話によれば、
<丁度五年前のやはり今時分、あの室で年若い学生が縊死を遂げた。大変勉強家のおとなしい静かな男だったが、高等学校の入学試験に失敗をして、この下宿から一年間予備校に通っていたが、翌年また失敗をして少し気が変になり、そこへまた不運なことには、この下宿にいた年増な女中からいつしか誘惑され、その女中が姙娠したことを知って、初心な気の弱さの余り世を悲観して、遂に死を決したものらしい。故郷の両親へ宛てた遺書の一通が見出されたけれど、ただ先立つ不孝を詫たばかりで、事情は少しも書いてなかった。(略)>(p.92)
とのこと。これだけではよくわからないけれど、浪人生の自殺――動機というか原因というかは、例によって(?)複合的な感じ。2年続けて受験に失敗しただけでは(それくらいでは)あまり死のうとは思わないかも。好意的にみれば、お姉さん的な存在の女性が、大学…じゃなくて旧制高校か、の受験に失敗した可哀想な浪人青年を慰めているうちに恋愛に発展? 遺書でも口数が少ない感じの元浪人生――内向的、というか思いを内に込めるタイプだったのかな、この学生さん? あ、でも、「妊娠」がわかって以降、相手から結婚を迫られたのか、あるいは出産とか中絶とかの多額な費用を請求されたのか…? ま、もうどうでもいいか(汗)。そう、小説中の自殺というと、個人的には月明かりの晩に水(海や川、湖、沼、池など)に入る、みたいなイメージがあるけれど、ホラー系の小説ではわりと縊死(首吊り)が多い?
作中の時代がわからないけれど(「今時分」というか、季節もよくわからない感じだけれど)、初出の1924年(大正13年)くらいであるとすれば、「五年前」というのは、1919年(大正8年)くらいになる。まだ四修(中学四年修了)では受験できなかったあたりの年?(正確なことは、何か本を読み返さないとわからないな(涙))。かなりいいかげんな推測だけれど、
1916年くらい 中学4年
1917年くらい 中学5年
1918年くらい 浪人1年目(上京して予備校)
1919年くらい 浪人2年目というか、自殺
こんな感じかも。ちなみに、作者の豊島与志雄(とよしま・よしお)はたしか、旧制高校(というか一高)に入るのに浪人はしていなかったと思う(うろ覚えだけれど)。芥川龍之介や久米正雄のように無試験入学?
種々雑多な、大勢の人々が集まって活動しているのが、ザ・都会。どこの地面をとっても、かつて誰も踏んでいない場所はなく、誰にも触れられていない壁などもなく、空気にしても以前に誰かが吸ってはいたものを、また別の人が吸ってはいている。「幽鬼」ではなくて「幽気」――以前にその場所にいた人の気持ちというか、気配というか雰囲気というか。暴風雨やなんかで吹き飛ばされたり、洗い流されたり(?)してしまうらしいけれど、夜や、昼間でも曇った日には、あちこちにそれらが吹き溜まっているようだ。何で生計を立てているのやら職業が不明な「私」は、失恋をきっかけに、賑やかさを求めて友人たちと遊んだりして、日常的に帰宅する時間が遅くなっていたけれど、ある夜、下宿までの道を歩いていると、誰かがあとを付けてくる気配が…。「志村、後ろ後ろ!」状態…ではないけれど、もちろん(?)振り返っても誰もいない。で、だんだんと感度がよくなってくるというか、「私」はどんどん見えるようになっていく。――なんていうか、とりあえず“憑かれるかもしれない恐怖”が描かれた小説?
机に座っていると、右手の上のほうには、何かがぶらさがっているような…。ついに家の中にまでか! で、それは若い男の姿をしている。――下宿のお上さん(が登場)の話によれば、
<丁度五年前のやはり今時分、あの室で年若い学生が縊死を遂げた。大変勉強家のおとなしい静かな男だったが、高等学校の入学試験に失敗をして、この下宿から一年間予備校に通っていたが、翌年また失敗をして少し気が変になり、そこへまた不運なことには、この下宿にいた年増な女中からいつしか誘惑され、その女中が姙娠したことを知って、初心な気の弱さの余り世を悲観して、遂に死を決したものらしい。故郷の両親へ宛てた遺書の一通が見出されたけれど、ただ先立つ不孝を詫たばかりで、事情は少しも書いてなかった。(略)>(p.92)
とのこと。これだけではよくわからないけれど、浪人生の自殺――動機というか原因というかは、例によって(?)複合的な感じ。2年続けて受験に失敗しただけでは(それくらいでは)あまり死のうとは思わないかも。好意的にみれば、お姉さん的な存在の女性が、大学…じゃなくて旧制高校か、の受験に失敗した可哀想な浪人青年を慰めているうちに恋愛に発展? 遺書でも口数が少ない感じの元浪人生――内向的、というか思いを内に込めるタイプだったのかな、この学生さん? あ、でも、「妊娠」がわかって以降、相手から結婚を迫られたのか、あるいは出産とか中絶とかの多額な費用を請求されたのか…? ま、もうどうでもいいか(汗)。そう、小説中の自殺というと、個人的には月明かりの晩に水(海や川、湖、沼、池など)に入る、みたいなイメージがあるけれど、ホラー系の小説ではわりと縊死(首吊り)が多い?
作中の時代がわからないけれど(「今時分」というか、季節もよくわからない感じだけれど)、初出の1924年(大正13年)くらいであるとすれば、「五年前」というのは、1919年(大正8年)くらいになる。まだ四修(中学四年修了)では受験できなかったあたりの年?(正確なことは、何か本を読み返さないとわからないな(涙))。かなりいいかげんな推測だけれど、
1916年くらい 中学4年
1917年くらい 中学5年
1918年くらい 浪人1年目(上京して予備校)
1919年くらい 浪人2年目というか、自殺
こんな感じかも。ちなみに、作者の豊島与志雄(とよしま・よしお)はたしか、旧制高校(というか一高)に入るのに浪人はしていなかったと思う(うろ覚えだけれど)。芥川龍之介や久米正雄のように無試験入学?
「浪人」は基本的に関係なし。※以下、いちおうすべてネタバレ注意です。
・片川優子『チロル、プリーズ』
講談社、2011。『ジョナさん』という小説の続編らしい。帯にちょこっとでもいいからそう書いておいてほしいよね、本屋で買ってそのまま知らずに読んでいた(涙)。でも、けっこう面白かったです。ひと言でいえば“わんこ小説”? ギバちゃん&ポンちゃん。おじいちゃんの置きみやげ(?)のギバちゃんは『踊る大走査線』の柳葉敏郎似で、「私」(=チャコ)との散歩の行き先はゲートボール場(!)、ポンちゃんは予備校でのお喋り仲間で、犬顔…。読んでいてちょっと癒される。いい歳したおっさんが癒されている場合じゃないな(汗)。物語は、「私」の親友で学校ではクラスメイトのトキコ(高校3年生)による<「あ、そういやあたし、結婚するから」>(p.5)という発言で始まっている。それをきっかけに「私」は、トキコに対して距離を感じるようになって、よそよそしい態度をとるように――。トキコさんはブラックコーヒーを愛飲、「私」はオレンジジュース。なんだか“ドリンクバー小説”のような? でも、以前から高校生が出てくる小説を読んでいて、高校生ってこんなにコーヒーを飲むのかな? と疑問に思うことがあって…、そうだよ、甘いものを飲めばいいんだよ、まだ若いんだから!(?)。受験生なら勉強疲れの頭に、糖分はたぶん良いのでは? そう、私は“コーヒーゼリー飲料”って一度も飲んだことがない。何種類かありそうだけれど、「ドロリッチ」って言うんだっけ? あのテレビCMを見たせいで、むしろ飲みたくなくなってしまって(涙)。でも、いちど飲んでみようかな…(まだ売っているかな、ご近所コンビニ)。あ、でも、若い人でも糖尿病になったりするみたいだから(“ペットボトル症候群”なる言葉もあるみたいだし)、高校生でも、糖分の摂りすぎにはご注意を。少しネタバレしてしまうけれど、ポンちゃんの大学に進学したい理由が、なんとTVドラマ『オレンジデイズ』!(柴咲コウ、妻夫木聡など出演、TBS系列?)。『あすなろ白書』とかではないんだね、って当たり前か(というかやっぱりおっさんだな、自分は(涙))。そう、深夜テレビといえば、さまぁ~ず――ってこの作者なかなかわかっているな(汗)。ちなみに舞台となっているのは横浜市(神奈川県)のへんで、9月から始まっている。大学受験がらみのことでは――長くなりすぎるからもういいや、省略です。
・篠原一『ゴージャス』
角川書店、1998。東京の有名私立女子校に通う高校2年の「僕」(=椎名憧子)。学校生活やら家族(特に母親)のことやら、作家デビュー(「B――文学賞」を最年少で受賞)のことやら、自分自身のことやらが語られている。感想はといえば、とりあえずふつーだったかな…。なんとなくもっといらいらする小説かと思ったら、それほどでもなかったです。テンション低めの「僕」は、自意識過剰というほど自意識が過剰な感じでもないし、保健室の常連で、貧血で倒れるキャラだったりするので、バランス(?)がとられている感じ(よくわからないけれど)。学校があるのは、JR御茶ノ水駅の隣の駅(水道橋?)。
<「それはそうと(略)苑緒ちゃん、今日はどっかおでかけですか?」/(略)/「S台」/「あ、お勉強ですか。それは大変ですね」/「それが高校生のつとめだよ(略)」/(略)>(p.63)
藤野千夜の“浪人生小説”「午後の時間割」(『少年と少女のポルカ』所収、初出は『海燕』1995年11月号)では1991年、主人公たちが予備校をさぼって行くのがO駅(たぶん)の近くにある<Lテリア>。それに対してこちらの“高校2年生小説”では1993年、坂を下りきったとこらへんにある<三省堂脇ロッテリア>がだべり場(?)になっているようだ。そういえば、最初と最後(#0と#XX)を除くと、お茶の水に始まってお茶の水に終わる小説になっている。小説をあれこれ読んでいるとわりと見かけるパターン? 後藤明生『挾み撃ち』は違ったっけ? ――前言撤回、それほど見かけないかも(汗)。ま、始めと終わりのどちらかなら、けっこうあるかもしれない。最後のへん、小沢健二――そんな時代なんだね。一方では(?)「所沢」がバカにされちゃっているよ。関係ないけれど、そういえば、獅子文六『自由学校』がいまだに読めていない(このまま一生読まずじまいかもしれない。というか、自分、ほんと“時代感覚”がめちゃくちゃだな(涙))。いちばん最後には後日談が付いていて(#XX)、上の苑緒嬢(苗字は小坂)――中学2年のときから「僕」と作品を見せ合う仲間で、親友というか――は、東大理Ⅱに現役で合格している。東大進学率20パーセントの学校に通っていて、しかも学校から歩いていける距離にS台(の本家)があるんだもんね。本人の努力も、もちろん大きいんだろうけれど…。「僕」を含めて仲間5人のうち、2人が浪人している。1浪と2浪。2浪の人のほう(ネタバレするというか、あまり名前は書かないほうがいいか)は、東京薬科大学に入ったらしいけれど、えーと…、1993年に高2だから2浪すると…、1997年入学? 薬学部ってもう4年制から6年制になっている? あ、あれ、本の後ろのほうに<初出誌>として、<月刊カドカワ’95・10月号~’96・12月号>と書かれている。まだ1997年になっていないな。単行本が1998年に出ている…からいいのか(というかあくまで小説=フィクションだし)。
・戸松淳矩『名探偵は最終局に謎を解く』
創元推理文庫、2004。シリーズものの3冊目(前2作は未読です)。後ろの「解説」(つずみ綾)などによれば、もともと1987年に「墨田川幽霊グラフィティ」というタイトルで雑誌(『獅子王』朝日ソノラマ)に連載されていたものらしい(連載といっても3回)。感想というかは、なんだかいまいちだったかな…。私はどうも創元推理文庫というだけで(それほどたくさん読んでいるわけではないけれど)ちょっと期待しすぎてしまうみたいで…。これは少年小説というか、子ども向け小説という感じ? 内容というかは、最初、デパート(「柏屋デパート」)の屋上にある幽霊屋敷(お化け屋敷)で、「オレ」たち高校生3人組が首吊り死体を発見。でも、おお騒ぎのうちにその死体が消えてしまう――。ちゃんと遺体があるわけでもないのに、どうしてこんなに警察が動いているのかな? あ、失踪扱いで? 同時に火災(不審火)も起こっているんだっけ?(読み直さないとダメだな、記憶力がなさすぎ(涙))。そう、この小説、語り手の「オレ」による“前振り”がちょっと多め?(うーん…)。「オレ」というのは――最初のほうに自己紹介がある、
<それでまずオレの名前だけれど、九重一雄という。両国にある私立高校の三年で、この春から添削つきの通信教材をやり、お茶の水にある予備校にも通っているという、絵に描いたような(?)受験生である。>(p.11)
名前を名乗っているけれど、作中で人からぜんぜんその名を呼ばれていなかったような?(これも読み直さないとわからないけれど)。夏休みの終わり(8月の終わり)くらいから始まっているのだけれど、予備校での場面も、高校での場面もまったく描かれていない。(そういえば、この小説とは関係ないけれど、いつのまにやら両国予備校もつぶれちゃったよね。研数学館の閉校とは違って歴史的な意味(?)はほとんどなさそうだけれど。)
・角田光代『菊葉荘の幽霊たち』
角川春樹事務所、2000/ハルキ文庫、2003。手もとにあるのは文庫版。たんなる“幽霊”つながり(大学受験とは関係なし)。なんとなく久しぶりに微妙に純文学っぽい小説を読んだような…。でも、村上春樹の小説ってなんで面白いんだろう、とか関係のないことを考えてしまう(意味不明か)。
<友人・吉元の家探しを手伝いはじめた“わたし”。吉元が「これぞ理想」とする木造アパートはあいにく満室。住人を一人追い出そうと考えた二人だが、六人の住人たちは、知れば知るほどとらえどころのない不思議な人間たちばかり。彼らの動向を探るうち、やがて“わたし”も吉元も、影のようにうろつきはじめている自分に気づき……。奇怪な人間模様を通じて、人々の「居場所」はどこにあるかを描く長篇。(解説・池田雄二)>(文庫カバーより)
読んでいて「私」(=本田典子、アルバイトを首になって失業中というか求職中というか)にまったく共感できず。後ろの解説で<駄目工作員>という言葉が使われているけれど、かなり甘さに欠けたハニー・トラップにひっかかっちゃったもんだよね、大学1年生・蓼科くん。可哀想に。あ、いや、そういう問題ではなくて、6人(?)の住人たちがそれぞれに満ち足りた生活を――送っているのかどうかはわからないけれど、「私」が完全にたんなる闖入者にしか思えなくて…。あ、住人目線で読んでいたのか(違うか)。思うに作戦というか任務というかは、「私」が蓼科と半同棲状態になった時点で、「私」は吉元の代理であるにしても、目的(=菊葉荘に住むこと)の4分の1くらいは達成できているわけで(?)、もう住めてるんだからそれだけで十分やろ? みたいな気分に。えーと、「私」はアラサーまではいっていなかったっけ…、いずれにしても、高校生が着そうな服くらい着てあげればいいのに、うだつのあがっていない万年床大学生のために。コスプレは嫌でも、ジーンズはフリーターの命です――そんなことは書かれていなかったか(汗)。そう、女性どうしがケンカをすると、年下のほうは年上のほうを「ばばあ」呼ばわりするのは、常套手段? …どうでもいいか、そんなことは(汗)。焼き鳥とか、寿司にビール――“ばばあ”というより“おっさん”っぽいかな。最後、吉元のアパートの大家さん、すなわち物語を始動させた張本人であるお婆さんが登場。でも、どうやら認知症らしくもあり、本当に吉元に対して部屋を出て行くように言ったのか、原点(?)があやふやなことに。「私」は探しても居所のつかめない吉元くん、の部屋の荷物を勝手に持ち出して、なぜか空っぽになってしまった2号室「?」さんの部屋――以前、吉元が電化製品をパクったせいで引っ越したか?――に無理やり突っ込んで、任務完了=小説が終了。“退屈”がすべての元凶らしい。この小説はともかく、思うに逆に、世の中に“幽霊”ではない人間なんているのか? みたいな疑問が…。意味不明か(汗)。
・片川優子『チロル、プリーズ』
講談社、2011。『ジョナさん』という小説の続編らしい。帯にちょこっとでもいいからそう書いておいてほしいよね、本屋で買ってそのまま知らずに読んでいた(涙)。でも、けっこう面白かったです。ひと言でいえば“わんこ小説”? ギバちゃん&ポンちゃん。おじいちゃんの置きみやげ(?)のギバちゃんは『踊る大走査線』の柳葉敏郎似で、「私」(=チャコ)との散歩の行き先はゲートボール場(!)、ポンちゃんは予備校でのお喋り仲間で、犬顔…。読んでいてちょっと癒される。いい歳したおっさんが癒されている場合じゃないな(汗)。物語は、「私」の親友で学校ではクラスメイトのトキコ(高校3年生)による<「あ、そういやあたし、結婚するから」>(p.5)という発言で始まっている。それをきっかけに「私」は、トキコに対して距離を感じるようになって、よそよそしい態度をとるように――。トキコさんはブラックコーヒーを愛飲、「私」はオレンジジュース。なんだか“ドリンクバー小説”のような? でも、以前から高校生が出てくる小説を読んでいて、高校生ってこんなにコーヒーを飲むのかな? と疑問に思うことがあって…、そうだよ、甘いものを飲めばいいんだよ、まだ若いんだから!(?)。受験生なら勉強疲れの頭に、糖分はたぶん良いのでは? そう、私は“コーヒーゼリー飲料”って一度も飲んだことがない。何種類かありそうだけれど、「ドロリッチ」って言うんだっけ? あのテレビCMを見たせいで、むしろ飲みたくなくなってしまって(涙)。でも、いちど飲んでみようかな…(まだ売っているかな、ご近所コンビニ)。あ、でも、若い人でも糖尿病になったりするみたいだから(“ペットボトル症候群”なる言葉もあるみたいだし)、高校生でも、糖分の摂りすぎにはご注意を。少しネタバレしてしまうけれど、ポンちゃんの大学に進学したい理由が、なんとTVドラマ『オレンジデイズ』!(柴咲コウ、妻夫木聡など出演、TBS系列?)。『あすなろ白書』とかではないんだね、って当たり前か(というかやっぱりおっさんだな、自分は(涙))。そう、深夜テレビといえば、さまぁ~ず――ってこの作者なかなかわかっているな(汗)。ちなみに舞台となっているのは横浜市(神奈川県)のへんで、9月から始まっている。大学受験がらみのことでは――長くなりすぎるからもういいや、省略です。
・篠原一『ゴージャス』
角川書店、1998。東京の有名私立女子校に通う高校2年の「僕」(=椎名憧子)。学校生活やら家族(特に母親)のことやら、作家デビュー(「B――文学賞」を最年少で受賞)のことやら、自分自身のことやらが語られている。感想はといえば、とりあえずふつーだったかな…。なんとなくもっといらいらする小説かと思ったら、それほどでもなかったです。テンション低めの「僕」は、自意識過剰というほど自意識が過剰な感じでもないし、保健室の常連で、貧血で倒れるキャラだったりするので、バランス(?)がとられている感じ(よくわからないけれど)。学校があるのは、JR御茶ノ水駅の隣の駅(水道橋?)。
<「それはそうと(略)苑緒ちゃん、今日はどっかおでかけですか?」/(略)/「S台」/「あ、お勉強ですか。それは大変ですね」/「それが高校生のつとめだよ(略)」/(略)>(p.63)
藤野千夜の“浪人生小説”「午後の時間割」(『少年と少女のポルカ』所収、初出は『海燕』1995年11月号)では1991年、主人公たちが予備校をさぼって行くのがO駅(たぶん)の近くにある<Lテリア>。それに対してこちらの“高校2年生小説”では1993年、坂を下りきったとこらへんにある<三省堂脇ロッテリア>がだべり場(?)になっているようだ。そういえば、最初と最後(#0と#XX)を除くと、お茶の水に始まってお茶の水に終わる小説になっている。小説をあれこれ読んでいるとわりと見かけるパターン? 後藤明生『挾み撃ち』は違ったっけ? ――前言撤回、それほど見かけないかも(汗)。ま、始めと終わりのどちらかなら、けっこうあるかもしれない。最後のへん、小沢健二――そんな時代なんだね。一方では(?)「所沢」がバカにされちゃっているよ。関係ないけれど、そういえば、獅子文六『自由学校』がいまだに読めていない(このまま一生読まずじまいかもしれない。というか、自分、ほんと“時代感覚”がめちゃくちゃだな(涙))。いちばん最後には後日談が付いていて(#XX)、上の苑緒嬢(苗字は小坂)――中学2年のときから「僕」と作品を見せ合う仲間で、親友というか――は、東大理Ⅱに現役で合格している。東大進学率20パーセントの学校に通っていて、しかも学校から歩いていける距離にS台(の本家)があるんだもんね。本人の努力も、もちろん大きいんだろうけれど…。「僕」を含めて仲間5人のうち、2人が浪人している。1浪と2浪。2浪の人のほう(ネタバレするというか、あまり名前は書かないほうがいいか)は、東京薬科大学に入ったらしいけれど、えーと…、1993年に高2だから2浪すると…、1997年入学? 薬学部ってもう4年制から6年制になっている? あ、あれ、本の後ろのほうに<初出誌>として、<月刊カドカワ’95・10月号~’96・12月号>と書かれている。まだ1997年になっていないな。単行本が1998年に出ている…からいいのか(というかあくまで小説=フィクションだし)。
・戸松淳矩『名探偵は最終局に謎を解く』
創元推理文庫、2004。シリーズものの3冊目(前2作は未読です)。後ろの「解説」(つずみ綾)などによれば、もともと1987年に「墨田川幽霊グラフィティ」というタイトルで雑誌(『獅子王』朝日ソノラマ)に連載されていたものらしい(連載といっても3回)。感想というかは、なんだかいまいちだったかな…。私はどうも創元推理文庫というだけで(それほどたくさん読んでいるわけではないけれど)ちょっと期待しすぎてしまうみたいで…。これは少年小説というか、子ども向け小説という感じ? 内容というかは、最初、デパート(「柏屋デパート」)の屋上にある幽霊屋敷(お化け屋敷)で、「オレ」たち高校生3人組が首吊り死体を発見。でも、おお騒ぎのうちにその死体が消えてしまう――。ちゃんと遺体があるわけでもないのに、どうしてこんなに警察が動いているのかな? あ、失踪扱いで? 同時に火災(不審火)も起こっているんだっけ?(読み直さないとダメだな、記憶力がなさすぎ(涙))。そう、この小説、語り手の「オレ」による“前振り”がちょっと多め?(うーん…)。「オレ」というのは――最初のほうに自己紹介がある、
<それでまずオレの名前だけれど、九重一雄という。両国にある私立高校の三年で、この春から添削つきの通信教材をやり、お茶の水にある予備校にも通っているという、絵に描いたような(?)受験生である。>(p.11)
名前を名乗っているけれど、作中で人からぜんぜんその名を呼ばれていなかったような?(これも読み直さないとわからないけれど)。夏休みの終わり(8月の終わり)くらいから始まっているのだけれど、予備校での場面も、高校での場面もまったく描かれていない。(そういえば、この小説とは関係ないけれど、いつのまにやら両国予備校もつぶれちゃったよね。研数学館の閉校とは違って歴史的な意味(?)はほとんどなさそうだけれど。)
・角田光代『菊葉荘の幽霊たち』
角川春樹事務所、2000/ハルキ文庫、2003。手もとにあるのは文庫版。たんなる“幽霊”つながり(大学受験とは関係なし)。なんとなく久しぶりに微妙に純文学っぽい小説を読んだような…。でも、村上春樹の小説ってなんで面白いんだろう、とか関係のないことを考えてしまう(意味不明か)。
<友人・吉元の家探しを手伝いはじめた“わたし”。吉元が「これぞ理想」とする木造アパートはあいにく満室。住人を一人追い出そうと考えた二人だが、六人の住人たちは、知れば知るほどとらえどころのない不思議な人間たちばかり。彼らの動向を探るうち、やがて“わたし”も吉元も、影のようにうろつきはじめている自分に気づき……。奇怪な人間模様を通じて、人々の「居場所」はどこにあるかを描く長篇。(解説・池田雄二)>(文庫カバーより)
読んでいて「私」(=本田典子、アルバイトを首になって失業中というか求職中というか)にまったく共感できず。後ろの解説で<駄目工作員>という言葉が使われているけれど、かなり甘さに欠けたハニー・トラップにひっかかっちゃったもんだよね、大学1年生・蓼科くん。可哀想に。あ、いや、そういう問題ではなくて、6人(?)の住人たちがそれぞれに満ち足りた生活を――送っているのかどうかはわからないけれど、「私」が完全にたんなる闖入者にしか思えなくて…。あ、住人目線で読んでいたのか(違うか)。思うに作戦というか任務というかは、「私」が蓼科と半同棲状態になった時点で、「私」は吉元の代理であるにしても、目的(=菊葉荘に住むこと)の4分の1くらいは達成できているわけで(?)、もう住めてるんだからそれだけで十分やろ? みたいな気分に。えーと、「私」はアラサーまではいっていなかったっけ…、いずれにしても、高校生が着そうな服くらい着てあげればいいのに、うだつのあがっていない万年床大学生のために。コスプレは嫌でも、ジーンズはフリーターの命です――そんなことは書かれていなかったか(汗)。そう、女性どうしがケンカをすると、年下のほうは年上のほうを「ばばあ」呼ばわりするのは、常套手段? …どうでもいいか、そんなことは(汗)。焼き鳥とか、寿司にビール――“ばばあ”というより“おっさん”っぽいかな。最後、吉元のアパートの大家さん、すなわち物語を始動させた張本人であるお婆さんが登場。でも、どうやら認知症らしくもあり、本当に吉元に対して部屋を出て行くように言ったのか、原点(?)があやふやなことに。「私」は探しても居所のつかめない吉元くん、の部屋の荷物を勝手に持ち出して、なぜか空っぽになってしまった2号室「?」さんの部屋――以前、吉元が電化製品をパクったせいで引っ越したか?――に無理やり突っ込んで、任務完了=小説が終了。“退屈”がすべての元凶らしい。この小説はともかく、思うに逆に、世の中に“幽霊”ではない人間なんているのか? みたいな疑問が…。意味不明か(汗)。
大谷羊太郎 『完全密室殺人事件』
2011年9月6日 読書
大陸ノベルス、1990。いま手もとにあるのは図書館本(地元ブック○フでは見つけられず。表紙カバーがはずされているむき出しの本で、内容紹介というか宣伝文句がまったくわからず)。これはけっこう面白かったな…。なぜか意外と“青春ミステリ”になっている? 文章も装飾が少なくて(ごてごてしていなくて)いいと思う。読みやすいし、説明的な部分もわかりやすかったような気が。警視庁の刑事たち(須賀班の面々)もふざけすぎず、まじめすぎず…な、ちょうどいい按配(?)だし(あ、※以下ネタバレ注意です、だいぶネタを割いてしまいそうな予感が)、殺人事件は年月を隔てて2件起こっているのだけれど、被害者の2人は幼なじみ(小中高、短大の同級生)で、その2人を知る人たちの話を聞くために、刑事たち(増川&添田)が2人の故郷の群馬県桐生市を訪れて、すると(?)幼なじみがもう1人いることがわかって(=山谷芳一、20歳で病死)、翌日、その、生前付き合っていた元彼女(結婚して引っ越している)に会うためにJR足尾線に乗って――たいした箇所ではないけれど、読んでいてちょっと“自然”がいいな、と思った(汗)。渡良瀬川とか、草木湖とか。大谷羊太郎のトラベル・ミステリが読んでみたいとまで思った(読まなくてはいけない小説本がたくさんで、そんなひまはないけれど。というか自分はどこか疲れているのか?(涙))。
7年前の10月半ば、場所は埼玉県草加市のアパート・青葉荘。国立大学に落ちて上野の予備校に通う浪人生・氏家正人(浜松出身)が、いつもと同じ勉強終わり時間の午前2時――すぎて、でも、この日は寝ようと思っても寝付かれずいたところ、真上にあたる女子短大生・平沼美奈子の部屋から、人がもみ合っている音、さらに助けを呼ぶ声が聞こえてきて。カーテンを開けてみると外には梯子がかかっていて、黒い人影が去っていくのも見えて…。氏家やほかの住人たちが駆けつけてみると、部屋主は無事。あとで、残されていたペンキなどから、最近近くで連続発生している痴漢事件(女性を全裸&ロープ縛り、足にはオリジナル配合のペンキで丸印)と同じ犯人によるものではないか、と疑われたけれど、犯人は捕まらず。氏家は想いを寄せていた、でも度胸がなくて告白できずにいた美奈子(性格もよくて誰もが認める美人)と、事件をきっかけに少し言葉を交わすことができたけれど、残念ながら彼女は引っ越していくことに。その空いた部屋――2階建て2階の南西角部屋、窓が2つ取れたいちばんいい部屋――には、別の部屋を借りていた、彼女の幼なじみで同じ大学に通う原木千枝が入居することに。で、まさか同じ部屋が同じように侵入を受けることはないだろう、と思っていたら、今度は命まで、すなわち千枝は殺害されてしまう。ロープによる絞殺、部屋はいわゆる密室のような状態、もちろん(?)下の部屋の氏家はまた黒い人影を目撃――。というか内容を詳しく書きすぎ(涙)。でも、もう少し先まで書かないとか。
そして犯人が捕まらないまま7年後。氏家くんは「実力相応の大学」を卒業して製薬会社に勤めるサラリーマンに。住み続けていた青葉荘からは3年前に引っ越して、現在は同じ市内のマンションに入居している。まだ独身。そんな氏家のもとを、過去の性犯罪を調べて脚色して、友人と共同で通俗大衆誌に発表していると言う加賀良樹なる人物が訪ねてくる。7年前、こちらに住んでいたこともあり(当時は写真愛好会に参加していたり)、“あの事件”に興味があって、氏家から話を聞きたいという。髭をはやしていて色付き眼鏡、もと芸術家志望で現在は花屋さん(実家を継いでいる)――ルポライターな加賀さん、あやしさ満点?(汗)。氏家くん、もう少し疑ってもいいのにな。…それはともかく、草加市といえば、やっぱりお煎餅? 地元老舗せんべい屋のご主人と結婚した、かつての青葉荘の住人の1人・章子のおかげで、居場所がわかって氏家&加賀は、美奈子に会いに行くことに。平沼改め、戸田美奈子(バスケ部つながりで、同じ高校の4年先輩だったご主人・戸田貞道は、飛行機事故ですでに死亡していて、いまは独身、渋谷でレストランを経営している)は、変わりようでは(?)いい意味で氏家くんの想像を裏切っていて――。で、数日後、その美奈子も自宅の2階で殺害されてしまう。……内容紹介はこれくらいでいいかな、書いていて疲れた(涙)。というか例によってぐちゃぐちゃ(涙)。
タイトルに入れるほど、「密室」な感じもしないけれど、2つの事件ともそうなっているといえばそうなっている。というか、私にはあいかわらず「密室」の定義がよくわからないけれど。あ、全体的にインパクトの弱い小説なので、小粒な「密室」に見えてしまうのかもしれない(よくわからないけれど)。ほかに、推理小説的な部分では、増川刑事が尊敬している須賀警部(2人とも下の名前はあったっけ、…あ、あるな、言い直せば、増川道也が信頼している須賀庄司警部)の演説のような感じになっているけれど、事件に関してちゃんと“仮説”を立てているあたり、読んでいて好感が持てた(そういった肝心の“推理”が、いいかげんな推理小説ってわりと多くない?)。どうでもいいけれど、最後のほうで1箇所、人物名が間違っている。「相川好子」(p.198)は、たぶん「藤沢理加」のこと。そうだ、名前といえば(3人称小説で氏家か、刑事の増川が視点になっていることが多い)この小説、フルネームでない場合、登場人物は男性は上の名前、女性は下の名前で呼ばれている。そういえば、全体的に極悪人みたいな人は出てこなかったっけな。
小説における浪人生の登場パターンとしては、いちおう“深夜の事件目撃者もの”に当てはまるかな。でも、ステレオタイプな描かれ方にはなっていない。そう、氏家くん、純情で消極的な性格というか、けっこう謙虚な人? だから(?)最終的に婚約者をゲットすることが出来ているのかな。あ、でも、この人、そもそも大学はどうして落ちたのかな? あまり高望みをしている感じではないのに。結局、「実力相応」の大学に落ち着いたらしいし。どこかに(社会人になってからの話で)出世欲がない、みたいなことも書かれていたと思う。でも、わざわざ上京して予備校通い――地元に浪人生が通える予備校や塾がなかったのかな?(ないわけないか、浜松市。私の地元県を思い出してみるに、T進の衛星なのとか、けっこうな田舎でも見かけたりする。あ、時代が違うか)。考えてみれば、学生向けアパートな青葉荘、氏家と美奈子(&千枝)とは年齢はあまり違わないんだよね。えーと、氏家が1浪で、美奈子が短大の2年生で、1つ歳上なだけか。そう、自分が好きだった相手が暮らしていた部屋に引っ越したい(実際には別の人=千枝に先を越されたわけだけれど)、移り香が残っていたりするかもしれないから――みたいなのは、あれだ、田山花袋の「蒲団」かよ!(読んだことがないけれど(汗)。というかぜんぜん違うか)。相手にもよるかもしれないけれど、青春時代の初恋はあとをひくもの? 最後に“浪人生語録”も拾っておこうか(社会人になってからのものだけれど)、
<苦しかった浪人生活の中で、美奈子さんは心の慰めだった>(p.42)
そのままか(汗)。作中年がわからないけれど(駅周辺の開発されぐあいから推測できる人には推測できるのかもしれないけれど)、出版年の1990年くらいであるとすれば、7を引いて、1983年くらいの上京浪人生、かな。
7年前の10月半ば、場所は埼玉県草加市のアパート・青葉荘。国立大学に落ちて上野の予備校に通う浪人生・氏家正人(浜松出身)が、いつもと同じ勉強終わり時間の午前2時――すぎて、でも、この日は寝ようと思っても寝付かれずいたところ、真上にあたる女子短大生・平沼美奈子の部屋から、人がもみ合っている音、さらに助けを呼ぶ声が聞こえてきて。カーテンを開けてみると外には梯子がかかっていて、黒い人影が去っていくのも見えて…。氏家やほかの住人たちが駆けつけてみると、部屋主は無事。あとで、残されていたペンキなどから、最近近くで連続発生している痴漢事件(女性を全裸&ロープ縛り、足にはオリジナル配合のペンキで丸印)と同じ犯人によるものではないか、と疑われたけれど、犯人は捕まらず。氏家は想いを寄せていた、でも度胸がなくて告白できずにいた美奈子(性格もよくて誰もが認める美人)と、事件をきっかけに少し言葉を交わすことができたけれど、残念ながら彼女は引っ越していくことに。その空いた部屋――2階建て2階の南西角部屋、窓が2つ取れたいちばんいい部屋――には、別の部屋を借りていた、彼女の幼なじみで同じ大学に通う原木千枝が入居することに。で、まさか同じ部屋が同じように侵入を受けることはないだろう、と思っていたら、今度は命まで、すなわち千枝は殺害されてしまう。ロープによる絞殺、部屋はいわゆる密室のような状態、もちろん(?)下の部屋の氏家はまた黒い人影を目撃――。というか内容を詳しく書きすぎ(涙)。でも、もう少し先まで書かないとか。
そして犯人が捕まらないまま7年後。氏家くんは「実力相応の大学」を卒業して製薬会社に勤めるサラリーマンに。住み続けていた青葉荘からは3年前に引っ越して、現在は同じ市内のマンションに入居している。まだ独身。そんな氏家のもとを、過去の性犯罪を調べて脚色して、友人と共同で通俗大衆誌に発表していると言う加賀良樹なる人物が訪ねてくる。7年前、こちらに住んでいたこともあり(当時は写真愛好会に参加していたり)、“あの事件”に興味があって、氏家から話を聞きたいという。髭をはやしていて色付き眼鏡、もと芸術家志望で現在は花屋さん(実家を継いでいる)――ルポライターな加賀さん、あやしさ満点?(汗)。氏家くん、もう少し疑ってもいいのにな。…それはともかく、草加市といえば、やっぱりお煎餅? 地元老舗せんべい屋のご主人と結婚した、かつての青葉荘の住人の1人・章子のおかげで、居場所がわかって氏家&加賀は、美奈子に会いに行くことに。平沼改め、戸田美奈子(バスケ部つながりで、同じ高校の4年先輩だったご主人・戸田貞道は、飛行機事故ですでに死亡していて、いまは独身、渋谷でレストランを経営している)は、変わりようでは(?)いい意味で氏家くんの想像を裏切っていて――。で、数日後、その美奈子も自宅の2階で殺害されてしまう。……内容紹介はこれくらいでいいかな、書いていて疲れた(涙)。というか例によってぐちゃぐちゃ(涙)。
タイトルに入れるほど、「密室」な感じもしないけれど、2つの事件ともそうなっているといえばそうなっている。というか、私にはあいかわらず「密室」の定義がよくわからないけれど。あ、全体的にインパクトの弱い小説なので、小粒な「密室」に見えてしまうのかもしれない(よくわからないけれど)。ほかに、推理小説的な部分では、増川刑事が尊敬している須賀警部(2人とも下の名前はあったっけ、…あ、あるな、言い直せば、増川道也が信頼している須賀庄司警部)の演説のような感じになっているけれど、事件に関してちゃんと“仮説”を立てているあたり、読んでいて好感が持てた(そういった肝心の“推理”が、いいかげんな推理小説ってわりと多くない?)。どうでもいいけれど、最後のほうで1箇所、人物名が間違っている。「相川好子」(p.198)は、たぶん「藤沢理加」のこと。そうだ、名前といえば(3人称小説で氏家か、刑事の増川が視点になっていることが多い)この小説、フルネームでない場合、登場人物は男性は上の名前、女性は下の名前で呼ばれている。そういえば、全体的に極悪人みたいな人は出てこなかったっけな。
小説における浪人生の登場パターンとしては、いちおう“深夜の事件目撃者もの”に当てはまるかな。でも、ステレオタイプな描かれ方にはなっていない。そう、氏家くん、純情で消極的な性格というか、けっこう謙虚な人? だから(?)最終的に婚約者をゲットすることが出来ているのかな。あ、でも、この人、そもそも大学はどうして落ちたのかな? あまり高望みをしている感じではないのに。結局、「実力相応」の大学に落ち着いたらしいし。どこかに(社会人になってからの話で)出世欲がない、みたいなことも書かれていたと思う。でも、わざわざ上京して予備校通い――地元に浪人生が通える予備校や塾がなかったのかな?(ないわけないか、浜松市。私の地元県を思い出してみるに、T進の衛星なのとか、けっこうな田舎でも見かけたりする。あ、時代が違うか)。考えてみれば、学生向けアパートな青葉荘、氏家と美奈子(&千枝)とは年齢はあまり違わないんだよね。えーと、氏家が1浪で、美奈子が短大の2年生で、1つ歳上なだけか。そう、自分が好きだった相手が暮らしていた部屋に引っ越したい(実際には別の人=千枝に先を越されたわけだけれど)、移り香が残っていたりするかもしれないから――みたいなのは、あれだ、田山花袋の「蒲団」かよ!(読んだことがないけれど(汗)。というかぜんぜん違うか)。相手にもよるかもしれないけれど、青春時代の初恋はあとをひくもの? 最後に“浪人生語録”も拾っておこうか(社会人になってからのものだけれど)、
<苦しかった浪人生活の中で、美奈子さんは心の慰めだった>(p.42)
そのままか(汗)。作中年がわからないけれど(駅周辺の開発されぐあいから推測できる人には推測できるのかもしれないけれど)、出版年の1990年くらいであるとすれば、7を引いて、1983年くらいの上京浪人生、かな。
高2予備校生もの2、高3もの2、大学1年もの1、の計5作。どれも基本的に「浪人」は関係なし。この夏のあいだ(現在8月の終わりくらい)、なんとなく“高校生もの”が読みたくなって(読まなくてはいけない“浪人生もの”は見て見ぬふりをして)手もとにあった小説の中から、テキトウに選んで読んだもの、など。上から順に読み終わった順。※以下、すべてネタバレ注意です。
・工藤水生「笑えよ」
第6回ダ・ヴィンチ文学賞の受賞作、『ダ・ヴィンチ』2011年7月号(メディアファクトリー)に掲載されている。最初のへん、文章がぎこちないな、と思ったけれど、読み終わってみれば、意外と面白かったな、みたいな感想に。でも、主人公の「私」(や、これを書いているという意味で、作者)には、なんとなくあまり共感できずじまい。――「私」(柏木葉)、橋立、仲平の3人は高校のクラスメイトで、同じ予備校に通っている(あ、まだ高校2年生)。現役受験生に力を入れているらしい予備校――高校生と浪人生でいえば、高校生は時間的、労力的に、家(または学校)からあまり離れたところにある塾や予備校には通いづらいよね、やっぱり。ほかの学校に通わなくてもいい浪人生なら、大手予備校を目指して例えば片道2時間くらい、どうってことないかもしれないけれど。(どうってことあるか、往復4時間(汗)。)ミスドで勉強――マクドで勉強よりは自然と糖分が摂れそうでいいよね。ほかのお客さんも、なんとなくマックよりは静かそうな印象が…。それは、うちのへん地元店舗だけのイメージか(汗)。そう、マーク式の国語の問題の選択肢が…うんぬんみたいな話のなかで、「ゲシュタルト崩壊」(別名・意味飽和?)という言葉が使われているけれど、これはうーん…、別にそれほど変ではないのか。“受験生あるある”、たしかに繰り返し読んでいると(見つめていると)どれも意味が無いように見えてくる。ゲシュタルトって「形」みたいな意味だっけ? あまりセンテンスに対して使われる印象がないな、個人的には。ちなみに季節は冬で、場所は雪の降る地方。([追記]単行本はメディアファクトリー、2012.3。1作しか収録されていないようだ。)
・十文字青『ヴァンパイアノイズム』
一迅社文庫、2009.10。「ノ」は「の」で、とりあえず「吸血鬼の主義」みたいな意味っぽい。例えば谷川流『絶望系 閉じられた世界』よりは、ずっとついていける感じだけれど、この小説もかなりテンションが低いよなぁ…。“心中小説”ではなくて…、なんていうんだろう、こういうのは?(わからないな)。病み上がり、浪人するつもりで勉強していない高校3年生の「僕」(片桐ソーヤ)。家の隣には同学年の幼なじみで「僕」の部屋にも出入りしている、同じ高校でクラスメイトの詩歌(苗字は四條)がいて――人物紹介はいいや(汗)。なんだかんだで「僕」は、クラスメイトの萩生(下の名前は季穂)の吸血鬼になりたい、という願望を叶える手伝いをすることに。クラシック&J-POP、血液&コーヒー…。ちょっと思ったのだけれど、すっぽんの血なら、扱っている料理屋でふつうに飲めそうだよね。あ、継続的にであると、高校生だから財力が続かないか(というか人間に近い動物ではないと意味がないんだっけ?)。喫茶店の名前が「ブラジル」。おいしいらしいけれど、豆はブラジルに限定? 「萩生(はぎお)」ってちょっと「蘇生(そせい)」のもじりっぽいな(見た感じがちょっと似ているだけか)。生&死、ミイラ取りがミイラにみたいな感じで(違うか)「僕」も、死そのものが怖くなってしまう。でも、いまはインターネットで、そんなことについても調べられちゃうんだね…。やむにやまれず心理学の本とか、哲学書(例えば中島義道のものとか)を手に取らなくても済んでしまうのか。そういえばこの小説、全体的になんとなく村上春樹っぽい? クラシックとか、手を繋いだりとかは『1Q84』、ちらっとアジカンの(だけれど)『アフターダーク』も出てくるし。登場してはこないけれど、詩歌が付き合っていて別れたという元彼氏(同学年別クラス)の名前が、常世田(とこよだ)ハルキ。…関係ないか。そう、詩歌といえば、カバー(後ろ側のほう)のイラストが、ちょっと安易な感じ? 少し溶けぎみな棒状のアイスをくわえようとしている。小説中の「僕」&萩生の“ヴァンパイア・プレイ”というか“モスキート・プレイ”みたいなもののほうが、よっぽどエロい(汗)。あと、どこだっけ、わりと最後のほうで(p.287)、浪人するとどれくらい無駄か、みたいなことがちらっと語られていて。残り60年のうちの1年、2浪なら2年が無駄になる――1パーセント以上? けっこう大きいよね。ただ、なんだか前提が少しおかしいような…。高校時代にも、ほかのことを犠牲にして、勉強している人は勉強しているわけだし、人生の時間って一生涯、そんなに均質に流れている(?)わけではないし。そう、逆に「人生80年だから、1年くらい浪人したところで、どうってことない」みたいなことを言う人はけっこう多いと思う(分母を平均寿命ではなく、今後の60年と考えてしまうと、必然、浪人期間の無駄率が上がっちゃうよね)。
・三上康明『恋の話を、しようか』
ガガガ文庫、2009.6。浅いというか、けっこうシンプル? ちょっとスピード感もあって、読みやすくてよかった。最初のへん、4人の主要メンバーがそろっている状態で、電気が消えたり点いたりしていて――ちょっと舞台劇っぽいな、とは思った。そう、あと、この分量で(文庫本で280ページくらい)こんなに予備校の場面が多く描かれている小説は、初めて読んだかも(最近記憶力がなさすぎで、何かいろいろと忘れているかもしれないけれど)。でも、生徒をしかってくるマンドリル先生とか、あまり予備校っぽくもないような…?(ふつうに中学・高校っぽいかな)。いちばんの主人公は、基本的に明るくてよくしゃべる、でも、高校生なのに胃薬携帯キャラの桧山ミノル。きっかけがあって別の高校に通う、同じ予備校の生徒――神野若葉、市川(男)、霧原かずみ――と“停電仲間”を結成(?)する。4人とも高校2年生。恋愛小説としては、ネタバレしてしまうけれど、想いの向かう矢印が1方向で、きれいな四角関係になっている(おおー)。家や予備校があるのは、中途半端な田舎、とのこと。ミノルのお父さんは、町役場の課長で町(街)づくりにも関係している。――町(街)が“父性”を帯びちゃっているよね。ただ、昔の小説に比べて(?)“東京”に対する憧れみたいなものは、ほとんどない感じ。ま、インターネットな世の中だしね。若葉のお姉ちゃんについては、いまどきこんなに妹を束縛してくる人がいるのかな、とは思った。そう、あと、武士道セブンティーンな市川くん、のお兄さんの名前がちょっと知りたかったな。でも、おもしろネームでも笑えないよね、亡くなっているから。(というか浅い感想ばかりで、申し訳ない(涙)。)あ、季節は冬で、雪も降る地方らしい。[追記]肝心なことを書き忘れていた。この予備校には生徒を呪い殺す(?)“幽霊”の噂があるらしい。ミノル&若葉のやりとり、<「で、その怖い話ってアレだろ? この予備校に通ってた生徒で、二浪しても志望大学には入れなかったもんだから、それを苦にして自殺っていう」/「し、知ってるの!?」/「つーか、その手の話ってありふれてる感じしねえ?」>(p.87)。ま、たしかにありふれた話かも。全国、あちこちの予備校でその手の噂が? でも、まだ1度も大学に落ちたことがない現役受験生たちの間にだからかな…、少なくとも1度は落ちている(ことが多い)浪人生のあいだにも同じ噂が?(ふつうに3浪中の人なら、たかが2浪くらいで、みたいなことは思うかな)。
・紅玉いづき『ガーデン・ロスト』
メディアワークス文庫、2010.1。切ないというよりは、痛々しい感じ。この作者、ある種の“ヘタウマ”なのかな?(私にはけっして読みやすくはない文章)。「わかりにくいこと」というか「わかってもらいにくいこと」を伝えるには、小説という形態がふさわしい? ――それはともかく、内容というかは、高校1年から高校3年の現在まで、同じ4人だけの、ガーデン=庭というか温室のような放送部…。1章ごとに視点が変わって(すべて1人称)、春、夏、秋、冬それぞれ1人ずつ――あー、説明が下手で申し訳ない(汗)、えーと、後ろのへん(カバーの文句)から引用しておけば、
<誰にでも優しいお人好しのエカ、漫画のキャラや俳優をダーリンと呼ぶマル、男装が似合いそうなオズ、毒舌家でどこか大人びているシバ。(略)>
という4人。第2章(マルの夏篇)は、桜井亜美をもっと深くしたような感じ?(うーん…)。全章通じて、キーワードの1つは「優しくされること」? 最後の章(シバの冬篇)は、主人公は人を傷つけないではいられない、…とりあえず“母娘小説”(たんに“親子小説”かな)でもあるけれど、なんだか壮絶な大学受験になっている。どうでもいいけれど、放送部の仕事がほとんど描かれていない。体育祭があるけれど(実況中継はしなくても)人の呼び出しとか、そういう仕事が少しくらいあるのでは?(そういえば、自分が通っていた高校にも、放送部ってあったけれど、部員の人たちがどういうことをしていたのか、まったく記憶にない。あ、お昼に校内放送で、何やらつまらない音楽をかけていたけれど)。あと、どこだっけ、…ここか、第2章の最初のへんで、エカがデパートにある、願い事たくさんで垂れ下がった七夕飾りを、「欲の木」(p.69)と呼んでいて。思わずうわー、とか思ってしまったけれど。女子高校生らしい微妙な“残酷さ”?
・竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム3 仮面舞踏会』
電撃文庫、2011.8。あいかわらずテンションのアップダウンが激しい“大学生たち青春恋愛小説”。キーワードな“仮面”はちょっとしつこかったかな。冒頭、アニ林田の「ウヴォイッ!」に笑う。哲学で“ガヴァガイ問題”というのがあるけれどね、異言語人とのファースト・コンタクトは大変だ、みたいな話(違うか)。万里(ばんり)&やなっさんが独自解釈に落ち着いている、My boyfriend巻き舌な香子(こうこ)の「O! M! G!」は、たぶんふつうに“Oh, my god!”では? 大学最寄り駅で万里を待ち伏せていた忠犬・香子。自称ロミジュリで、2人はバカップルぶりを発揮している(おバカというよりシュール?)。ネタバレしてしまうけれど、万里のアパート(マンション)隣の部屋には、なんとあのNANA先輩が暮らしていて。その隣人宅からはリンダこと、林田奈々が出てきたり…。こちらは過去の万里(死亡中)を待ち続ける、もう1人のハチ公だよね(読んだことがないけれど、マンガ『NANA』参照)。逮捕された記憶もまだ新しい、大学生といえばいわゆる“家飲み”? 宴のあとは、夜空を見上げたりとか、シリーズもの小説として、まだあまりシュリンクしてほしくないけれどね(もっと東京を暴走しておけ、万里。東京タワーとか、できたてほやほやなスカイツリーとか、都庁とか、あとついでに高尾山も登っておけ、万里。打倒『ちい散歩』or『モヤモヤさまぁ~ず』だよ、万里!)。私は1、2巻の内容をほとんど覚えていないけれど(読んだ記憶はあるから大丈夫)、万里は千波ちゃんのことをこんなに言葉攻めするキャラだったっけ? 言葉ではなくリアル方面、いまのところ万里のキノコは、エッフェル塔な巴里に行かないと活躍できないらしいけれど。あ、文字どおりな“万里の長城”に行くことはないのかな? 卒業旅行で(鬼が3回くらい笑っちゃうほど先の話やな(汗))みんなで行けばいいのにね、チャイナへ行っちゃいな! くらいな大学生らしい(?)だじゃれノリで。えーと、鬼のぶっかけファブリーズ――いまちょっと言ってみたかっただけ(汗)。あとは、あいかわらずのテンションの低さを見せている、万里の文字どおり過去の亡霊・セルフ守護霊な「俺」(場所いらずなゼロ次元くん?)。自動車にひかれても死なない(すでに死んでいるから)。ま、最後のほうで、いままでの膠着状態(?)に大きな変化が見られるけれど。そう、最後のほう、薔薇で黄金で太陽だった香子も、「黄金ロボ子」を返上、「あけぼの」を通り越して(?)入梅というよりスコールな雨が降ってきちゃっているし…。このブログでは何度も書いているけれど(繰り返しておけば)、わしゃ、明るい話とハッピー・エンドが好きなんじゃ!(涙)。
・工藤水生「笑えよ」
第6回ダ・ヴィンチ文学賞の受賞作、『ダ・ヴィンチ』2011年7月号(メディアファクトリー)に掲載されている。最初のへん、文章がぎこちないな、と思ったけれど、読み終わってみれば、意外と面白かったな、みたいな感想に。でも、主人公の「私」(や、これを書いているという意味で、作者)には、なんとなくあまり共感できずじまい。――「私」(柏木葉)、橋立、仲平の3人は高校のクラスメイトで、同じ予備校に通っている(あ、まだ高校2年生)。現役受験生に力を入れているらしい予備校――高校生と浪人生でいえば、高校生は時間的、労力的に、家(または学校)からあまり離れたところにある塾や予備校には通いづらいよね、やっぱり。ほかの学校に通わなくてもいい浪人生なら、大手予備校を目指して例えば片道2時間くらい、どうってことないかもしれないけれど。(どうってことあるか、往復4時間(汗)。)ミスドで勉強――マクドで勉強よりは自然と糖分が摂れそうでいいよね。ほかのお客さんも、なんとなくマックよりは静かそうな印象が…。それは、うちのへん地元店舗だけのイメージか(汗)。そう、マーク式の国語の問題の選択肢が…うんぬんみたいな話のなかで、「ゲシュタルト崩壊」(別名・意味飽和?)という言葉が使われているけれど、これはうーん…、別にそれほど変ではないのか。“受験生あるある”、たしかに繰り返し読んでいると(見つめていると)どれも意味が無いように見えてくる。ゲシュタルトって「形」みたいな意味だっけ? あまりセンテンスに対して使われる印象がないな、個人的には。ちなみに季節は冬で、場所は雪の降る地方。([追記]単行本はメディアファクトリー、2012.3。1作しか収録されていないようだ。)
・十文字青『ヴァンパイアノイズム』
一迅社文庫、2009.10。「ノ」は「の」で、とりあえず「吸血鬼の主義」みたいな意味っぽい。例えば谷川流『絶望系 閉じられた世界』よりは、ずっとついていける感じだけれど、この小説もかなりテンションが低いよなぁ…。“心中小説”ではなくて…、なんていうんだろう、こういうのは?(わからないな)。病み上がり、浪人するつもりで勉強していない高校3年生の「僕」(片桐ソーヤ)。家の隣には同学年の幼なじみで「僕」の部屋にも出入りしている、同じ高校でクラスメイトの詩歌(苗字は四條)がいて――人物紹介はいいや(汗)。なんだかんだで「僕」は、クラスメイトの萩生(下の名前は季穂)の吸血鬼になりたい、という願望を叶える手伝いをすることに。クラシック&J-POP、血液&コーヒー…。ちょっと思ったのだけれど、すっぽんの血なら、扱っている料理屋でふつうに飲めそうだよね。あ、継続的にであると、高校生だから財力が続かないか(というか人間に近い動物ではないと意味がないんだっけ?)。喫茶店の名前が「ブラジル」。おいしいらしいけれど、豆はブラジルに限定? 「萩生(はぎお)」ってちょっと「蘇生(そせい)」のもじりっぽいな(見た感じがちょっと似ているだけか)。生&死、ミイラ取りがミイラにみたいな感じで(違うか)「僕」も、死そのものが怖くなってしまう。でも、いまはインターネットで、そんなことについても調べられちゃうんだね…。やむにやまれず心理学の本とか、哲学書(例えば中島義道のものとか)を手に取らなくても済んでしまうのか。そういえばこの小説、全体的になんとなく村上春樹っぽい? クラシックとか、手を繋いだりとかは『1Q84』、ちらっとアジカンの(だけれど)『アフターダーク』も出てくるし。登場してはこないけれど、詩歌が付き合っていて別れたという元彼氏(同学年別クラス)の名前が、常世田(とこよだ)ハルキ。…関係ないか。そう、詩歌といえば、カバー(後ろ側のほう)のイラストが、ちょっと安易な感じ? 少し溶けぎみな棒状のアイスをくわえようとしている。小説中の「僕」&萩生の“ヴァンパイア・プレイ”というか“モスキート・プレイ”みたいなもののほうが、よっぽどエロい(汗)。あと、どこだっけ、わりと最後のほうで(p.287)、浪人するとどれくらい無駄か、みたいなことがちらっと語られていて。残り60年のうちの1年、2浪なら2年が無駄になる――1パーセント以上? けっこう大きいよね。ただ、なんだか前提が少しおかしいような…。高校時代にも、ほかのことを犠牲にして、勉強している人は勉強しているわけだし、人生の時間って一生涯、そんなに均質に流れている(?)わけではないし。そう、逆に「人生80年だから、1年くらい浪人したところで、どうってことない」みたいなことを言う人はけっこう多いと思う(分母を平均寿命ではなく、今後の60年と考えてしまうと、必然、浪人期間の無駄率が上がっちゃうよね)。
・三上康明『恋の話を、しようか』
ガガガ文庫、2009.6。浅いというか、けっこうシンプル? ちょっとスピード感もあって、読みやすくてよかった。最初のへん、4人の主要メンバーがそろっている状態で、電気が消えたり点いたりしていて――ちょっと舞台劇っぽいな、とは思った。そう、あと、この分量で(文庫本で280ページくらい)こんなに予備校の場面が多く描かれている小説は、初めて読んだかも(最近記憶力がなさすぎで、何かいろいろと忘れているかもしれないけれど)。でも、生徒をしかってくるマンドリル先生とか、あまり予備校っぽくもないような…?(ふつうに中学・高校っぽいかな)。いちばんの主人公は、基本的に明るくてよくしゃべる、でも、高校生なのに胃薬携帯キャラの桧山ミノル。きっかけがあって別の高校に通う、同じ予備校の生徒――神野若葉、市川(男)、霧原かずみ――と“停電仲間”を結成(?)する。4人とも高校2年生。恋愛小説としては、ネタバレしてしまうけれど、想いの向かう矢印が1方向で、きれいな四角関係になっている(おおー)。家や予備校があるのは、中途半端な田舎、とのこと。ミノルのお父さんは、町役場の課長で町(街)づくりにも関係している。――町(街)が“父性”を帯びちゃっているよね。ただ、昔の小説に比べて(?)“東京”に対する憧れみたいなものは、ほとんどない感じ。ま、インターネットな世の中だしね。若葉のお姉ちゃんについては、いまどきこんなに妹を束縛してくる人がいるのかな、とは思った。そう、あと、武士道セブンティーンな市川くん、のお兄さんの名前がちょっと知りたかったな。でも、おもしろネームでも笑えないよね、亡くなっているから。(というか浅い感想ばかりで、申し訳ない(涙)。)あ、季節は冬で、雪も降る地方らしい。[追記]肝心なことを書き忘れていた。この予備校には生徒を呪い殺す(?)“幽霊”の噂があるらしい。ミノル&若葉のやりとり、<「で、その怖い話ってアレだろ? この予備校に通ってた生徒で、二浪しても志望大学には入れなかったもんだから、それを苦にして自殺っていう」/「し、知ってるの!?」/「つーか、その手の話ってありふれてる感じしねえ?」>(p.87)。ま、たしかにありふれた話かも。全国、あちこちの予備校でその手の噂が? でも、まだ1度も大学に落ちたことがない現役受験生たちの間にだからかな…、少なくとも1度は落ちている(ことが多い)浪人生のあいだにも同じ噂が?(ふつうに3浪中の人なら、たかが2浪くらいで、みたいなことは思うかな)。
・紅玉いづき『ガーデン・ロスト』
メディアワークス文庫、2010.1。切ないというよりは、痛々しい感じ。この作者、ある種の“ヘタウマ”なのかな?(私にはけっして読みやすくはない文章)。「わかりにくいこと」というか「わかってもらいにくいこと」を伝えるには、小説という形態がふさわしい? ――それはともかく、内容というかは、高校1年から高校3年の現在まで、同じ4人だけの、ガーデン=庭というか温室のような放送部…。1章ごとに視点が変わって(すべて1人称)、春、夏、秋、冬それぞれ1人ずつ――あー、説明が下手で申し訳ない(汗)、えーと、後ろのへん(カバーの文句)から引用しておけば、
<誰にでも優しいお人好しのエカ、漫画のキャラや俳優をダーリンと呼ぶマル、男装が似合いそうなオズ、毒舌家でどこか大人びているシバ。(略)>
という4人。第2章(マルの夏篇)は、桜井亜美をもっと深くしたような感じ?(うーん…)。全章通じて、キーワードの1つは「優しくされること」? 最後の章(シバの冬篇)は、主人公は人を傷つけないではいられない、…とりあえず“母娘小説”(たんに“親子小説”かな)でもあるけれど、なんだか壮絶な大学受験になっている。どうでもいいけれど、放送部の仕事がほとんど描かれていない。体育祭があるけれど(実況中継はしなくても)人の呼び出しとか、そういう仕事が少しくらいあるのでは?(そういえば、自分が通っていた高校にも、放送部ってあったけれど、部員の人たちがどういうことをしていたのか、まったく記憶にない。あ、お昼に校内放送で、何やらつまらない音楽をかけていたけれど)。あと、どこだっけ、…ここか、第2章の最初のへんで、エカがデパートにある、願い事たくさんで垂れ下がった七夕飾りを、「欲の木」(p.69)と呼んでいて。思わずうわー、とか思ってしまったけれど。女子高校生らしい微妙な“残酷さ”?
・竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム3 仮面舞踏会』
電撃文庫、2011.8。あいかわらずテンションのアップダウンが激しい“大学生たち青春恋愛小説”。キーワードな“仮面”はちょっとしつこかったかな。冒頭、アニ林田の「ウヴォイッ!」に笑う。哲学で“ガヴァガイ問題”というのがあるけれどね、異言語人とのファースト・コンタクトは大変だ、みたいな話(違うか)。万里(ばんり)&やなっさんが独自解釈に落ち着いている、My boyfriend巻き舌な香子(こうこ)の「O! M! G!」は、たぶんふつうに“Oh, my god!”では? 大学最寄り駅で万里を待ち伏せていた忠犬・香子。自称ロミジュリで、2人はバカップルぶりを発揮している(おバカというよりシュール?)。ネタバレしてしまうけれど、万里のアパート(マンション)隣の部屋には、なんとあのNANA先輩が暮らしていて。その隣人宅からはリンダこと、林田奈々が出てきたり…。こちらは過去の万里(死亡中)を待ち続ける、もう1人のハチ公だよね(読んだことがないけれど、マンガ『NANA』参照)。逮捕された記憶もまだ新しい、大学生といえばいわゆる“家飲み”? 宴のあとは、夜空を見上げたりとか、シリーズもの小説として、まだあまりシュリンクしてほしくないけれどね(もっと東京を暴走しておけ、万里。東京タワーとか、できたてほやほやなスカイツリーとか、都庁とか、あとついでに高尾山も登っておけ、万里。打倒『ちい散歩』or『モヤモヤさまぁ~ず』だよ、万里!)。私は1、2巻の内容をほとんど覚えていないけれど(読んだ記憶はあるから大丈夫)、万里は千波ちゃんのことをこんなに言葉攻めするキャラだったっけ? 言葉ではなくリアル方面、いまのところ万里のキノコは、エッフェル塔な巴里に行かないと活躍できないらしいけれど。あ、文字どおりな“万里の長城”に行くことはないのかな? 卒業旅行で(鬼が3回くらい笑っちゃうほど先の話やな(汗))みんなで行けばいいのにね、チャイナへ行っちゃいな! くらいな大学生らしい(?)だじゃれノリで。えーと、鬼のぶっかけファブリーズ――いまちょっと言ってみたかっただけ(汗)。あとは、あいかわらずのテンションの低さを見せている、万里の文字どおり過去の亡霊・セルフ守護霊な「俺」(場所いらずなゼロ次元くん?)。自動車にひかれても死なない(すでに死んでいるから)。ま、最後のほうで、いままでの膠着状態(?)に大きな変化が見られるけれど。そう、最後のほう、薔薇で黄金で太陽だった香子も、「黄金ロボ子」を返上、「あけぼの」を通り越して(?)入梅というよりスコールな雨が降ってきちゃっているし…。このブログでは何度も書いているけれど(繰り返しておけば)、わしゃ、明るい話とハッピー・エンドが好きなんじゃ!(涙)。
安萬純一 『ガラスのターゲット』
2011年8月30日 読書
東京創元社、2011。1作目を読んでいないけれど、シリーズ2作目らしい。※まだ読まれていない方は、以下、いつものようにネタバレには気をつけてください。毎度毎度、すみません。
感想というかは、これも意外と面白かったです。センテンスが短めで、わりと読みやすくてよかった(総合点で70点くらいあげてもいいかな)。ただ、文章にしても内容にしても、ちょっとふわっとしたところがある? 地に足がついていないというか。例えば、同窓会で14人も犠牲になっているのに、卒業中学の名前が出てこないとか。5人が犠牲になっている事件の、卒業高校名も出てこない。事件が起こった場所(すべて都内)については書かれている(その場所に応じて、どこどこ署の刑事たちが登場してくる)。なんていうか、全体的にネーミングが駄目な感じなのかな…、タイトルからして(たぶん「ガラス」=透明くらいの意味)もっといい言葉があったのではないか、と思える。でも、「名前」がキーワードの1つになっている小説だから、全体としてはそれでいいのか。漠然としているほうが。あと、ちょっと気になったのは、遺体の損傷ぐあい。最初のアパート火災&爆発では、犠牲者(というか被害者)の後頭部が殴られていることが早めにわかったり…なのに対して、レストラン爆破事件のほうの被害者たちは、ばらばらで黒焦げ――でも、そのうちの1人・暴力団関係の男性には刺青が入っていることがわかったり…。ややご都合主義?
それと、全体的に引っぱりすぎなような気が…。遠出すると(?)なかなか帰ってこないらしい鉄砲玉探偵、行方不“名”探偵こと被砥功児(ピート・コージ)。やっと戻ってきたと思ったら、事件がまだまだ解決しない(てっきりこの探偵がいれば、もうぱぱっと解決するもんかと…)。冒頭のシーンで高校生くらいの女の子が、2人で会話をしていて――というか、小説冒頭は<「へえ、また学校入るの?」>となっていたりするのに、被砥くんが「転校生(転入生)」という言葉を口にするまでがやけに長い(涙)。ほかにも、読者に対して犯人目線の箇所を見せてしまうと(要するにヒントを与えてしまうと)、刑事たちor探偵たちがあれこれと可能性を(脳内/脳外で)検討していても、その可能性についてはゼロ、みたいなことがあるわけで――要するにこの小説には“引っぱりすぎ”な箇所がある、という話。そう、ながなが読んで最後の最後、だいぶネタバレしてしまうけれど(作者の意図はわからないけれど)、結局、『トッカータ』がドッカーン、という駄洒落オチになっているし(ちょっと脱力…)。
私立中学だっけ? 公立中学あるいは同じ地元どうしなら、1月の成人式で再会していそうな気もするけれど、それはともかく。20歳の人が結局、えーと…、14人+5人+3人=合計22人死亡? ほとんど大学生だよね、もっといろいろな人がいてもいいと思うんだけれど。「大学生」と言われるから、成人している20歳でもまだ若い、親がかり、みたいなイメージになる? …まぁそれもそれとして。最後の3人は元予備校生の、現在は大学生。「予備校」というのは匿名性が高い場所らしい(ミステリー的には戦中、あるいは戦後の闇市のような? 要するにスケキヨか!)。でも、いくら生徒管理が(中学や高校に比べて)ゆるい学校であるにしても、さすがに2年前=前々年度の生徒名簿(受講生リスト)くらいまだ残っているのではないか? 授業料だってたいてい銀行振込とかでしょう?(うーん…)。いちおう浪人生も出てくる。
<「ああ、この三人なら見たことありますよ」/藤崎という予備校生は、口の両脇にまるで仙人のように髭を長く伸ばしており、とても二十代前半には見えない。予備校職員でも知らぬ人がないという、名物男だった。>(p.191)
ちょい役にしてはキャラクターが十分(笑)。予備校の寮とかにならいそうだよね、「仙人」とか「長老」とか「ヌシ」みたいな、素敵な(?)あだ名をつけられちゃっている多浪生が。
ぜんぜん関係ないけれど、最後のほうにありがちな間違い。…間違いというか、<デヴュー>(p.285)は「デビュー」のほうがいい。綴りが“debut”だから。ピーくん、アメリカ帰りらしいのにな。(もともとフランス語らしいけれど。)
感想というかは、これも意外と面白かったです。センテンスが短めで、わりと読みやすくてよかった(総合点で70点くらいあげてもいいかな)。ただ、文章にしても内容にしても、ちょっとふわっとしたところがある? 地に足がついていないというか。例えば、同窓会で14人も犠牲になっているのに、卒業中学の名前が出てこないとか。5人が犠牲になっている事件の、卒業高校名も出てこない。事件が起こった場所(すべて都内)については書かれている(その場所に応じて、どこどこ署の刑事たちが登場してくる)。なんていうか、全体的にネーミングが駄目な感じなのかな…、タイトルからして(たぶん「ガラス」=透明くらいの意味)もっといい言葉があったのではないか、と思える。でも、「名前」がキーワードの1つになっている小説だから、全体としてはそれでいいのか。漠然としているほうが。あと、ちょっと気になったのは、遺体の損傷ぐあい。最初のアパート火災&爆発では、犠牲者(というか被害者)の後頭部が殴られていることが早めにわかったり…なのに対して、レストラン爆破事件のほうの被害者たちは、ばらばらで黒焦げ――でも、そのうちの1人・暴力団関係の男性には刺青が入っていることがわかったり…。ややご都合主義?
それと、全体的に引っぱりすぎなような気が…。遠出すると(?)なかなか帰ってこないらしい鉄砲玉探偵、行方不“名”探偵こと被砥功児(ピート・コージ)。やっと戻ってきたと思ったら、事件がまだまだ解決しない(てっきりこの探偵がいれば、もうぱぱっと解決するもんかと…)。冒頭のシーンで高校生くらいの女の子が、2人で会話をしていて――というか、小説冒頭は<「へえ、また学校入るの?」>となっていたりするのに、被砥くんが「転校生(転入生)」という言葉を口にするまでがやけに長い(涙)。ほかにも、読者に対して犯人目線の箇所を見せてしまうと(要するにヒントを与えてしまうと)、刑事たちor探偵たちがあれこれと可能性を(脳内/脳外で)検討していても、その可能性についてはゼロ、みたいなことがあるわけで――要するにこの小説には“引っぱりすぎ”な箇所がある、という話。そう、ながなが読んで最後の最後、だいぶネタバレしてしまうけれど(作者の意図はわからないけれど)、結局、『トッカータ』がドッカーン、という駄洒落オチになっているし(ちょっと脱力…)。
私立中学だっけ? 公立中学あるいは同じ地元どうしなら、1月の成人式で再会していそうな気もするけれど、それはともかく。20歳の人が結局、えーと…、14人+5人+3人=合計22人死亡? ほとんど大学生だよね、もっといろいろな人がいてもいいと思うんだけれど。「大学生」と言われるから、成人している20歳でもまだ若い、親がかり、みたいなイメージになる? …まぁそれもそれとして。最後の3人は元予備校生の、現在は大学生。「予備校」というのは匿名性が高い場所らしい(ミステリー的には戦中、あるいは戦後の闇市のような? 要するにスケキヨか!)。でも、いくら生徒管理が(中学や高校に比べて)ゆるい学校であるにしても、さすがに2年前=前々年度の生徒名簿(受講生リスト)くらいまだ残っているのではないか? 授業料だってたいてい銀行振込とかでしょう?(うーん…)。いちおう浪人生も出てくる。
<「ああ、この三人なら見たことありますよ」/藤崎という予備校生は、口の両脇にまるで仙人のように髭を長く伸ばしており、とても二十代前半には見えない。予備校職員でも知らぬ人がないという、名物男だった。>(p.191)
ちょい役にしてはキャラクターが十分(笑)。予備校の寮とかにならいそうだよね、「仙人」とか「長老」とか「ヌシ」みたいな、素敵な(?)あだ名をつけられちゃっている多浪生が。
ぜんぜん関係ないけれど、最後のほうにありがちな間違い。…間違いというか、<デヴュー>(p.285)は「デビュー」のほうがいい。綴りが“debut”だから。ピーくん、アメリカ帰りらしいのにな。(もともとフランス語らしいけれど。)
☆雑誌について雑記。(その2)
2011年8月23日 読書
年々もの忘れが激しくなってきて(涙)、以下、ほとんど自分のための備忘読書メモ、書籍購入メモです(適当に読み飛ばしていただけるとありがたいです)。2011年上半期(1月~6月)といえば――というか、もう8月も終わろうとしているけれど(汗)、松本清張『高校殺人事件』が再文庫化されている(光文社文庫、3月)。まだぜんぜん読んでいないのだけれど、…内容は措いておいて、本の後ろのほうによれば、この小説の初出は、
<(略)1959年11月より1960年3月まで「高校上級コース」に、1960年4月号より61年3月号まで「高校コース」に連載された。原題名『赤い月』を、61年12月、光文社よりカッパノベルスで刊行されるにあたり改題された。>(漢数字は見づらいので勝手に直した。以下引用では同じ)
とのこと。「号」が付いていたり付いていなかったりする…のは、なぜ? 「上級」のあるなしも、別々の雑誌なのか、誌名変更なのか、私にはわからない。そう、松本清張は、自伝的な小説「父系の指」(新潮文庫『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』など所収)を読むと、「わしゃ、学習誌になんぞ書かん!」みたいなことを言い出しそうな気もするけれど(というかそんな喋り方ではないか(汗))実際には書いているんだよね。ところで、八木義徳(1911年生まれ)の年譜を見てみると――あ、「年譜」といっても色々かな、いま手もとにあるのは『芥川賞全集 第三巻』(文藝春秋、1982)に収録されている自筆のもの。その昭和35年=1960年のところに、
<1月「私は愛する」(高校コース)を1年間連載する。>
と書かれている。さらに翌年=1961年のところには、<3月、『私は愛する』を秋元書房より刊行。>とある。最寄の図書館にあるかな、この本。なさそうな…。タイトルだけでは、小説なのかエッセイなのかすらわからない(何を愛しているんだ?)。そう、秋元文庫の創刊っていつだっけ? …それはともかく、1960年1月から3月まで『高校コース』はあったのかな?(だから「上級」ってなんだよ?(涙))。それにしても、少なくとも9ヶ月間、松本清張と八木義徳はいっしょに連載していたわけか(そう聞くと、ぶれまくりの自分のなかの時代感覚がまた微妙にぶれていく…。あ、年齢はけっこう近いのか。1909年生まれと1911年生まれ)。えーと、あいかわらず行き当たりばったりな感じだけれど、最近(まったく関係のない理由で)買ったばかり、『本の雑誌』2011年9月号(本の雑誌社)に掲載されている高橋良平「日本SF戦後出版史 続々“S・F特集”の巻」(いつから連載されているのかな? とりあえず連載ものの1つ)を読むと、「さらに余談――」として、1963年、1964年の「児童誌・学習誌」の休刊・創刊について書かれている(p.105)。高校生向け“コース”と“時代”については、要するにこんな感じか、
1963年4月 学研『高校コース』が『高1コース』と『高2コース』に分裂。
1964年4月 旺文社『高校時代』が『高一時代』と『高二時代』に分裂、学研『大学進学コース』が『高3コース』に改名。
。『高3コース』よりも『大学進学コース』のほうが(『螢雪時代』と同じで)浪人生も買いやすそうでよかったのにな、と個人的には思う。――もっとあれこれ書いておこう。この前、本を片付けていたら、いつ購入したのやらぜんぜん記憶にない白石浩一『高校生心理学 悩み多き若ものに与う』(現代教養文庫、1968)という本が出てきて。著者は心理学者? 「あとがき」によれば――引用したほうがいいかな、長くなりそうだけれど、
<筆者は、学習研究社から出ている、ある高校生向けの月刊誌で、昭和38年4月号から41年3月号まで、3ヵ年にわたって、誌上カウンセラーを担当したことがある。その間、全国の高校生諸君・諸嬢から、おびただしい数の相談、悩み、訴えの手紙が寄せられた。(略)/本書の“一問一答”形式の部分は、そうした手紙の中から、割合に高校生全般に普遍的で、かつ重要な問題をなしているものを56篇選びだし、これに補筆したものである。/また4つの章の、それぞれの後に付したアドバイス14篇は、学習研究社や旺文社発行の高校生雑誌とその他の雑誌に、おりおり執筆した原稿に、改訂・加筆を行なったものである。>(p.287)
「ある高校生向けの月刊誌」ってどれのことだよ? …まぁいいか。1963年4月号から、ということは、清張「赤い月」の連載が終了してから丸2年経ってから。…でも、当時のリアルな高校生(の一端)を知りたい人は、この本(ブックオフとかによく売っている気が)を、『高校殺人事件』と併読してもいいのではないか、と思う。関係ないけれど(なくはないか)こんな本も持っていた、秋山仁『オロカ者の定義』(大学受験ポケットシリーズ、学研、1995)。「あとがき」のあとに、
<この本は『大学受験Vコース』平成4年4月号~平成7年3月号に連載された、「偏差値なんて気にするな」および「オロカ者の定義」をもとに分類、整理して制作したものです。この連載の間、多くの読者から沢山の相談が寄せられ、その中から受験生の悩みを代表しているものを選び、回答させてもらいました。(略)>(p.190)
とある。『大学受験Vコース』というのは、たぶん『高3コース』が誌名変更されたもの(いつからその名前に? あ、浪人生も買いやすそうな名前になったね)。1992年4月号から3年間、って、高校生・受験生向け“コース”全体でいえば、約30年後にまったく同じことをしている…? ただ、この『オロカ者の定義』(著者は元予備校講師で数学者)は、見た目、『高校生心理学』よりもだいぶ安っぽく感じる。情報量も少なくなっているし。ま、時代のせいかな。そう、今年(2011年)になって、光文社文庫からは『高校殺人事件』だけでなく、なぜか赤川次郎<悪魔シリーズ>の新装版も刊行されていて、もともとどれが(どこまでが)『高2コース』(正確には『高2V進学コース』?)で連載されていたものか、私にはわからないけれど、とりあえず(『青春共和国』所収「鏡の中の悪魔」を除いて)4冊目の『雪に消えた悪魔』は、1992年4月号から1年間連載されていたもので、だから(“コース”全体でいえば)『オロカ者の定義』の最初のころと連載期間がかぶっている(というか、ホントどうでもいい話やな(汗))。――話をというか、時代を戻して。最近になって、地元のよく行く新刊本屋の古本コーナー(あまりやる気が感じられない、無理やりに作られたっぽいコーナー)に売っていたので買ってみたのだけれど、赤尾好夫のエッセイ集『若人におくることば』(旺文社文庫、1965)。この本について、『螢雪時代』やその前身の『受験旬報』の巻頭言を集めたもの、と書かれている本があって。でも、なかを見ただけではよくわからない(本当にそうなのかな?)。「序にかえて」の最後の〔付記〕には、
<本稿は、各章末の「年・月」に明らかなように、昭和10年(1935)~昭和40年(1965)にかけて発表したものであるが、戦前と戦後とを問わず、私の考え方は本質的には変わっていないつもりである。したがって、古いものにもあえて手を加えることなくここに収めた。若干の矛盾があるかもしれない。ご了解を願いたい。>(p.4)
と書かれている。幅広いけれど、いちおう1960年代前半のものも収録されている。戦後、大変な目にあった(?)赤尾社長、「考え方は…変わっていない」のあたりは、少し意を汲んであげたほうがいいのかな?(深読みか)。同じ旺文社文庫からは、小松左京『やぶれかぶれ青春記』(1975)という本も出ている(光文社文庫からも出ている)。表題部分は『螢雪時代』で連載されていたもの。1969年4月号~11月号。8ヶ月ってちょっと中途半端だな。えーと、関係あるかないかわからないけれど(たぶんないけれど)、この前、たまたま南英男『ミッドナイト・ラブ』(コバルト文庫、1984)という小説本の「あとがき」を見ていたら、――これも引用しておこうか(今日も引用多すぎ(汗))、
<ぼくが若者向けの小説を書くようになったのは、単なる偶然にすぎない。たまたまぼくが書いたルポ記事を読んでくれたある学年誌の編集者が、連載青春小説を依頼してきたのである。25か6のときだった。当時、ぼくは雑多な文章を書きちらして、かろうじて生計を支えていた。/6ヶ月のレギュラー仕事は、ありがたかった。(略)原稿料は、雑文のほぼ3倍だった。署名活字も驚くほど大きかった。>(pp.310-1)
と書かれている。中学生向けなのか高校生向けなのか、あるいは小学生向けなのか、「学年誌」であることしかわからない。でも、ちょっと気にはなるな(作品名だけでも教えてほしいよね)。作者は1944年(昭和19年)生まれなので、単純計算すると、25歳か26歳のときは、1969年か1970年になる。
<(略)1959年11月より1960年3月まで「高校上級コース」に、1960年4月号より61年3月号まで「高校コース」に連載された。原題名『赤い月』を、61年12月、光文社よりカッパノベルスで刊行されるにあたり改題された。>(漢数字は見づらいので勝手に直した。以下引用では同じ)
とのこと。「号」が付いていたり付いていなかったりする…のは、なぜ? 「上級」のあるなしも、別々の雑誌なのか、誌名変更なのか、私にはわからない。そう、松本清張は、自伝的な小説「父系の指」(新潮文庫『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』など所収)を読むと、「わしゃ、学習誌になんぞ書かん!」みたいなことを言い出しそうな気もするけれど(というかそんな喋り方ではないか(汗))実際には書いているんだよね。ところで、八木義徳(1911年生まれ)の年譜を見てみると――あ、「年譜」といっても色々かな、いま手もとにあるのは『芥川賞全集 第三巻』(文藝春秋、1982)に収録されている自筆のもの。その昭和35年=1960年のところに、
<1月「私は愛する」(高校コース)を1年間連載する。>
と書かれている。さらに翌年=1961年のところには、<3月、『私は愛する』を秋元書房より刊行。>とある。最寄の図書館にあるかな、この本。なさそうな…。タイトルだけでは、小説なのかエッセイなのかすらわからない(何を愛しているんだ?)。そう、秋元文庫の創刊っていつだっけ? …それはともかく、1960年1月から3月まで『高校コース』はあったのかな?(だから「上級」ってなんだよ?(涙))。それにしても、少なくとも9ヶ月間、松本清張と八木義徳はいっしょに連載していたわけか(そう聞くと、ぶれまくりの自分のなかの時代感覚がまた微妙にぶれていく…。あ、年齢はけっこう近いのか。1909年生まれと1911年生まれ)。えーと、あいかわらず行き当たりばったりな感じだけれど、最近(まったく関係のない理由で)買ったばかり、『本の雑誌』2011年9月号(本の雑誌社)に掲載されている高橋良平「日本SF戦後出版史 続々“S・F特集”の巻」(いつから連載されているのかな? とりあえず連載ものの1つ)を読むと、「さらに余談――」として、1963年、1964年の「児童誌・学習誌」の休刊・創刊について書かれている(p.105)。高校生向け“コース”と“時代”については、要するにこんな感じか、
1963年4月 学研『高校コース』が『高1コース』と『高2コース』に分裂。
1964年4月 旺文社『高校時代』が『高一時代』と『高二時代』に分裂、学研『大学進学コース』が『高3コース』に改名。
。『高3コース』よりも『大学進学コース』のほうが(『螢雪時代』と同じで)浪人生も買いやすそうでよかったのにな、と個人的には思う。――もっとあれこれ書いておこう。この前、本を片付けていたら、いつ購入したのやらぜんぜん記憶にない白石浩一『高校生心理学 悩み多き若ものに与う』(現代教養文庫、1968)という本が出てきて。著者は心理学者? 「あとがき」によれば――引用したほうがいいかな、長くなりそうだけれど、
<筆者は、学習研究社から出ている、ある高校生向けの月刊誌で、昭和38年4月号から41年3月号まで、3ヵ年にわたって、誌上カウンセラーを担当したことがある。その間、全国の高校生諸君・諸嬢から、おびただしい数の相談、悩み、訴えの手紙が寄せられた。(略)/本書の“一問一答”形式の部分は、そうした手紙の中から、割合に高校生全般に普遍的で、かつ重要な問題をなしているものを56篇選びだし、これに補筆したものである。/また4つの章の、それぞれの後に付したアドバイス14篇は、学習研究社や旺文社発行の高校生雑誌とその他の雑誌に、おりおり執筆した原稿に、改訂・加筆を行なったものである。>(p.287)
「ある高校生向けの月刊誌」ってどれのことだよ? …まぁいいか。1963年4月号から、ということは、清張「赤い月」の連載が終了してから丸2年経ってから。…でも、当時のリアルな高校生(の一端)を知りたい人は、この本(ブックオフとかによく売っている気が)を、『高校殺人事件』と併読してもいいのではないか、と思う。関係ないけれど(なくはないか)こんな本も持っていた、秋山仁『オロカ者の定義』(大学受験ポケットシリーズ、学研、1995)。「あとがき」のあとに、
<この本は『大学受験Vコース』平成4年4月号~平成7年3月号に連載された、「偏差値なんて気にするな」および「オロカ者の定義」をもとに分類、整理して制作したものです。この連載の間、多くの読者から沢山の相談が寄せられ、その中から受験生の悩みを代表しているものを選び、回答させてもらいました。(略)>(p.190)
とある。『大学受験Vコース』というのは、たぶん『高3コース』が誌名変更されたもの(いつからその名前に? あ、浪人生も買いやすそうな名前になったね)。1992年4月号から3年間、って、高校生・受験生向け“コース”全体でいえば、約30年後にまったく同じことをしている…? ただ、この『オロカ者の定義』(著者は元予備校講師で数学者)は、見た目、『高校生心理学』よりもだいぶ安っぽく感じる。情報量も少なくなっているし。ま、時代のせいかな。そう、今年(2011年)になって、光文社文庫からは『高校殺人事件』だけでなく、なぜか赤川次郎<悪魔シリーズ>の新装版も刊行されていて、もともとどれが(どこまでが)『高2コース』(正確には『高2V進学コース』?)で連載されていたものか、私にはわからないけれど、とりあえず(『青春共和国』所収「鏡の中の悪魔」を除いて)4冊目の『雪に消えた悪魔』は、1992年4月号から1年間連載されていたもので、だから(“コース”全体でいえば)『オロカ者の定義』の最初のころと連載期間がかぶっている(というか、ホントどうでもいい話やな(汗))。――話をというか、時代を戻して。最近になって、地元のよく行く新刊本屋の古本コーナー(あまりやる気が感じられない、無理やりに作られたっぽいコーナー)に売っていたので買ってみたのだけれど、赤尾好夫のエッセイ集『若人におくることば』(旺文社文庫、1965)。この本について、『螢雪時代』やその前身の『受験旬報』の巻頭言を集めたもの、と書かれている本があって。でも、なかを見ただけではよくわからない(本当にそうなのかな?)。「序にかえて」の最後の〔付記〕には、
<本稿は、各章末の「年・月」に明らかなように、昭和10年(1935)~昭和40年(1965)にかけて発表したものであるが、戦前と戦後とを問わず、私の考え方は本質的には変わっていないつもりである。したがって、古いものにもあえて手を加えることなくここに収めた。若干の矛盾があるかもしれない。ご了解を願いたい。>(p.4)
と書かれている。幅広いけれど、いちおう1960年代前半のものも収録されている。戦後、大変な目にあった(?)赤尾社長、「考え方は…変わっていない」のあたりは、少し意を汲んであげたほうがいいのかな?(深読みか)。同じ旺文社文庫からは、小松左京『やぶれかぶれ青春記』(1975)という本も出ている(光文社文庫からも出ている)。表題部分は『螢雪時代』で連載されていたもの。1969年4月号~11月号。8ヶ月ってちょっと中途半端だな。えーと、関係あるかないかわからないけれど(たぶんないけれど)、この前、たまたま南英男『ミッドナイト・ラブ』(コバルト文庫、1984)という小説本の「あとがき」を見ていたら、――これも引用しておこうか(今日も引用多すぎ(汗))、
<ぼくが若者向けの小説を書くようになったのは、単なる偶然にすぎない。たまたまぼくが書いたルポ記事を読んでくれたある学年誌の編集者が、連載青春小説を依頼してきたのである。25か6のときだった。当時、ぼくは雑多な文章を書きちらして、かろうじて生計を支えていた。/6ヶ月のレギュラー仕事は、ありがたかった。(略)原稿料は、雑文のほぼ3倍だった。署名活字も驚くほど大きかった。>(pp.310-1)
と書かれている。中学生向けなのか高校生向けなのか、あるいは小学生向けなのか、「学年誌」であることしかわからない。でも、ちょっと気にはなるな(作品名だけでも教えてほしいよね)。作者は1944年(昭和19年)生まれなので、単純計算すると、25歳か26歳のときは、1969年か1970年になる。
誼阿古 『クレイジーフラミンゴの秋』
2011年8月23日 読書
GA文庫、2007。※以下、ネタバレしているといえばけっこうしているので注意です、毎度すみません。『ガンダム』&『ガンバ』、そして洋楽あれこれ…。<「あのなあ、趣味なんてのは同じ趣味の相手になら言っても聞いても面白いけど、(以下略)」>(p.24)――そうなんだよ、ガンバは少々わかるけれど、ガンダムと洋楽(というか音楽ほとんど全般)がさっぱりわからんのです、私は(涙)。『クレイジーカンガルーの夏』(GA文庫、2006)と同じ1979年、阪神間のT市が主な舞台となっている小説。『~夏』では中学1年の須田広樹(すだ・こうき)が主人公だったのに対して、こちらでは同じ中学同じ学年で別のクラス・菅野晴(かんの・はる)が主人公。「秋」になってもう夏休みがあけているので、学校での場面がだいぶ増量されている。晴は、1年2組の消極的な学級委員で(もう1人の学級委員は、広樹のいとこ・冽史=きよふみ)合唱部に所属、頭の中で繰り返す口癖は<バッカみたい>。で、前半の盛りあがりどころはたぶん、学年無差別なクラス対抗・合唱コンクール。――読んでいて“懐かしい”というより、むしろいま風だな、とは思ったけれど。あ、1979年がどれくらい再現できているのか、私には年齢的にわからない。そう、自分も中学生のときに経験があるけれど、合唱コンクールって(まとまり具合も含めて)そのクラスのカラーがかなり出ちゃうよね。
あと、以前にも書いた気がするけれど、3人称1視点の長篇小説って、読んでいてけっこう飽きてくる(うーん…)。1人称(例えば「私」)にしてしまうと、語彙が中1レベルに制限されたりするから、しかたがないのかもしれないけれど。というか、この小説では、中学1年生たちが描かれているだけでなくて、半分くらいは教師たち――特に担任教師のイカサマ(=原田、教科は英語)が描かれている(ので、たぶんしかたがない)。私がたんに教師嫌いっぽいところがあるので、そう思うのかもしれないけれど、最後のほう、晴が原田のアパートを訪ねて原田があれこれ言うあたりで、思わず、あー、つまらない小説だったな、とか思ってしまって(汗)。全体的にそれほどつまらなかったわけではないけれど。うーん…。子どもは大人になれるけれど、大人は子どもになれないからね(意味不明か)。生徒がどこまでも教師の掌の上で転がされているのも、ま、しかたがないのかも。そう、『~夏』では中1主人公たちと親たち&親戚たち(要するに大人たち)の間にお兄ちゃん(=優樹、高3・受験生)がいたけれど、こちら=『~秋』では(原田シンパの)中学3年先輩たちが間に挟まっている。子どもは急には大人にはなれない?
でも、自分は中学1年のときに、こんなに周囲の人やものを言葉で捉えていたっけな…。いまいち思い出せないけれど、やっぱりもっとずっとぼんやりしている部分もあったと思う。――まぁそれはともかく。えーと、どうでもいいことだけれど、どこだっけ…、あ、ここか。<目的格>(p.234、会話内)というのは「目的語」と言ったほうがいいな。あと、原田先生の授業にはそれほど違和感がなかったけれど、合唱コンクールの場面で書かれているBilly Joelの『PIANO MAN』の日本語訳(訳詞)がちょっと駄目っぽい気がする(pp.170-2)。
It’s nine o’clock on a Saturday
土曜日の午後九時
The regular crowd shuffles in
いつもの連中が席でごそごそしている
開店してお客が入ってくるってことでしょう? なんだ、「席でごそごそ」って(涙)。shuffleを英和辞典で引いてみると、例として<~ out of a room 足をひきずって部屋を出る>というのが載っている(『リーダーズ英和辞典』第2版)。だから<shuffle(s) in>で、「足をひきずって入ってくる」だよ、たぶん。歌詞がぜんぶ載っているわけではないので、よくわからないけれど、さらに、
He says, bill, I believe this is killing me
彼は言った、「ビル、俺は酒に殺されるって信じてるよ」
As the smile ran away from his face
その微笑みは、彼の顔から逃げていくようだ
“Well,I’m sure that I could be a movie star
「そう、俺は映画スターにだってなれたろうさ
If I could get out of this place
ここから出て行くことさえできたらな」
1979年までに出ていたレコードに付いていた歌詞カードそのままの訳なのかな、これは? これを訳した人、時制も仮定法もよくわかっていない感じが…。特にひどいのは接続詞asの訳かな。せめて「~ようだ」ではなくて「~ように」と訳してほしい。でも、ここでは“様態”(様子)ではなくて、たぶん“時間”の意味(“理由”ではないよね?)。私にもよくわからないけれど(人のことは言えないな(涙))「顔からさっと笑みを消しながら」「ほほ笑むのをやめて」くらいの訳でいいのでは?(あ、それだとranが過去形になっているのが訳せていないか)。あと、最初のbillがよくわからないな。人の名前(呼びかけ)みたいに訳されているけれど、小文字で始まっているよ?(でも、歌っているのがBillyだから、Billでいいのか)。というか、やっぱり少しくらい洋楽も聴かないとダメだな、考えてみたら自分、生まれてこのかた英語の歌詞カードをほとんど見たことがない。(あ、ほかにも、英語の歌詞ではないけれど、『ライ麦畑でつかまえて』の最後が間違っている。H(p.318)ではなくてE。「ライ麦」は「RYH」ではなくて「RYE」。というか、ぜんぶ大文字で書くのはやめてほしい(涙)。)
やっと本日の本題。数学の大木先生(あだ名は「ノロイ」)の下の息子が浪人中らしい(pp.228-9)。それはともかく(かなりネタバレしてしまうけれど)小説の最後、おまけ(?)として、7年後(=1986年)の話があって、それは、中1のときの某クラスメイトからの晴への手紙(書簡体というか)になっている。送り主は現在2浪目らしい。あと、たまたま会った別のクラスメイトから聞いた話として、もう1人――引用したほうがいいか、人の名前と予備校の名前は伏字にしておくけれど、
<それが、奴に訊いてびびったんだけど、××、××××、あいつも難関狙ったせいで浪人しただろ? お前知ってた? その後、××××で男ができて駆け落ちしたって言うんだ。/(略)今年になってあいつ男と別れて家帰って、も一度法学部目指してまた予備校に通ってるって言うんだよ。(略)>(p.324)
最初の「××」は下の名前、次の「××××」はフルネーム(わかりにくくて申しわけない、要するに1人です)。予備校の「××××」は、たぶん神戸(の三宮)ではなくて、大阪のほう。大阪のほうが近いようだから。というか、私にはぜんぜん土地鑑がなくて、読んだことがないけれど、有川浩『阪急電車』(幻冬舎文庫?)が読みたくなってくる(汗)。そう、2浪目のいまも、前年と同じ予備校に通っているのかな、この人?(同じところには通いづらいか)。それはともかく、個人的には“中学生思春期小説”や“中学校教師お悩み小説”よりも、こちらの“予備校生駆け落ちストーリー”のほうが読みたかったな。
~・~・~・~・~・~・~・~・~
以下、上の小説とは関係のない話。作家の島尾敏雄(1917年生まれ、1浪→長崎高商)は、浪人中の1935年(昭和10年)、秋から「大阪青年会高等予備校」というところに通っていたらしい。で、いまだによくわからないのだけれど、その予備校は、ベストセラー作家・東野圭吾(1958年早生まれ、1浪→大阪府立大)が通っていたという、次の予備校と同じところなのかな?
<大学受験に失敗した後、僕が通うことになったのは、レベルの高さでは大阪でも屈指の予備校だった。ある団体の傘下に属していたのだが、その団体というのはアメリカで発売禁止になったビレッジ・ピープルの歌で有名である。日本語の歌詞をつけ、西城秀樹が歌って大ヒットしたといえば、まあ大抵のひとならわかるだろう。>
エッセイ集『あの頃ぼくらはアホでした』(集英社文庫、p.183)より。TVドラマ『寺内貫太郎一家』では浪人生だった西城秀樹……。それはともかく、郷ひろみは『ムー一族』で……それもいま措いておいて。たぶん同じ学校ではないかと思う、「青年」のへんが「ヤングマン」っぽいもんね(ちょっとテキトー(汗))。
東野圭吾が浪人していた1976年、の10年前、『むさしキャンパス記』(徳間文庫、単行本は1979年に角川書店から)によれば、1966年(昭和41年)、かんべむさしは高校を卒業して関学(関西学院大学)に入学している(現役で)。当時、新しい環境になじむまで――新しい友人ができたりするまで、高校の同級生たちと<郵送巡回させるノート>(p.34)を作っていたという。<その現物がいま手元にあるので、少し書き写すことにしよう。>(同頁)といって、書き出されているのだけれど、最初が浪人中の人のもの。貴重な(?)リアル浪人生の手記なので、まるごと引用させてもらうと(著作権はだいじょうぶかな)、…これもいちおう伏字にしておくか(もうあまり意味がないけれど(汗))、
<「まずまず元気である。××××の予備校に通っているが、初めての電車通学なので、実は少々バテ気味だ。七時四十三分のに乗っているのだからな。皆に一度会いたいと思うので、それぞれ都合のいい日時を教えてくれ」>(同頁)
とのこと。でも、こういう“交換ノート”があれば、大学生にとっても浪人生にとっても、いわゆる五月病の対策、予防になりそうだよね。大学新入生や浪人生は、真似できれば真似してみてもいいかもしれない。あ、高校のとき、仲良しグループみたいなもの(最低でも3人以上?)を形成していないとできないか。というかいまインターネットな時代だし、郵送というのが…。(ちなみに、堀勝治『青春の彷徨』(角川文庫)という本を、私は持っているのだけれど、うーん…、最初のあたりは“リアル浪人生の手記”@大阪だし、この人も1浪して結局、関学に入学している(1968年入学だから、かんべ氏の2学年下かな)けれど、高野悦子『二十歳の原点』(新潮文庫)にしても、“遺稿集”というのはどうも触れにくくて…。遺稿集って、著者に共感して読む以外の読み方をしてはいけないような気がして。とりあえずまた別の機会にしたい。あ、宮本輝の小説「星々の悲しみ」(同名書所収、単行本は1981年に文藝春秋から)は、1965年、主人公が大阪・梅田の予備校に通っている。というかすぐに通わなくなっている。)
大阪ではなくて、神戸××××予備校(××××予備校神戸校)には、中島らも(1952年生まれ、1浪→大阪芸大)が通っている。というか、(こちらも)ありがちな話、ほとんど通わなかったらしいけれど。1971年か。参考文献は『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町[増補版]』(朝日文庫)。
あと、以前にも書いた気がするけれど、3人称1視点の長篇小説って、読んでいてけっこう飽きてくる(うーん…)。1人称(例えば「私」)にしてしまうと、語彙が中1レベルに制限されたりするから、しかたがないのかもしれないけれど。というか、この小説では、中学1年生たちが描かれているだけでなくて、半分くらいは教師たち――特に担任教師のイカサマ(=原田、教科は英語)が描かれている(ので、たぶんしかたがない)。私がたんに教師嫌いっぽいところがあるので、そう思うのかもしれないけれど、最後のほう、晴が原田のアパートを訪ねて原田があれこれ言うあたりで、思わず、あー、つまらない小説だったな、とか思ってしまって(汗)。全体的にそれほどつまらなかったわけではないけれど。うーん…。子どもは大人になれるけれど、大人は子どもになれないからね(意味不明か)。生徒がどこまでも教師の掌の上で転がされているのも、ま、しかたがないのかも。そう、『~夏』では中1主人公たちと親たち&親戚たち(要するに大人たち)の間にお兄ちゃん(=優樹、高3・受験生)がいたけれど、こちら=『~秋』では(原田シンパの)中学3年先輩たちが間に挟まっている。子どもは急には大人にはなれない?
でも、自分は中学1年のときに、こんなに周囲の人やものを言葉で捉えていたっけな…。いまいち思い出せないけれど、やっぱりもっとずっとぼんやりしている部分もあったと思う。――まぁそれはともかく。えーと、どうでもいいことだけれど、どこだっけ…、あ、ここか。<目的格>(p.234、会話内)というのは「目的語」と言ったほうがいいな。あと、原田先生の授業にはそれほど違和感がなかったけれど、合唱コンクールの場面で書かれているBilly Joelの『PIANO MAN』の日本語訳(訳詞)がちょっと駄目っぽい気がする(pp.170-2)。
It’s nine o’clock on a Saturday
土曜日の午後九時
The regular crowd shuffles in
いつもの連中が席でごそごそしている
開店してお客が入ってくるってことでしょう? なんだ、「席でごそごそ」って(涙)。shuffleを英和辞典で引いてみると、例として<~ out of a room 足をひきずって部屋を出る>というのが載っている(『リーダーズ英和辞典』第2版)。だから<shuffle(s) in>で、「足をひきずって入ってくる」だよ、たぶん。歌詞がぜんぶ載っているわけではないので、よくわからないけれど、さらに、
He says, bill, I believe this is killing me
彼は言った、「ビル、俺は酒に殺されるって信じてるよ」
As the smile ran away from his face
その微笑みは、彼の顔から逃げていくようだ
“Well,I’m sure that I could be a movie star
「そう、俺は映画スターにだってなれたろうさ
If I could get out of this place
ここから出て行くことさえできたらな」
1979年までに出ていたレコードに付いていた歌詞カードそのままの訳なのかな、これは? これを訳した人、時制も仮定法もよくわかっていない感じが…。特にひどいのは接続詞asの訳かな。せめて「~ようだ」ではなくて「~ように」と訳してほしい。でも、ここでは“様態”(様子)ではなくて、たぶん“時間”の意味(“理由”ではないよね?)。私にもよくわからないけれど(人のことは言えないな(涙))「顔からさっと笑みを消しながら」「ほほ笑むのをやめて」くらいの訳でいいのでは?(あ、それだとranが過去形になっているのが訳せていないか)。あと、最初のbillがよくわからないな。人の名前(呼びかけ)みたいに訳されているけれど、小文字で始まっているよ?(でも、歌っているのがBillyだから、Billでいいのか)。というか、やっぱり少しくらい洋楽も聴かないとダメだな、考えてみたら自分、生まれてこのかた英語の歌詞カードをほとんど見たことがない。(あ、ほかにも、英語の歌詞ではないけれど、『ライ麦畑でつかまえて』の最後が間違っている。H(p.318)ではなくてE。「ライ麦」は「RYH」ではなくて「RYE」。というか、ぜんぶ大文字で書くのはやめてほしい(涙)。)
やっと本日の本題。数学の大木先生(あだ名は「ノロイ」)の下の息子が浪人中らしい(pp.228-9)。それはともかく(かなりネタバレしてしまうけれど)小説の最後、おまけ(?)として、7年後(=1986年)の話があって、それは、中1のときの某クラスメイトからの晴への手紙(書簡体というか)になっている。送り主は現在2浪目らしい。あと、たまたま会った別のクラスメイトから聞いた話として、もう1人――引用したほうがいいか、人の名前と予備校の名前は伏字にしておくけれど、
<それが、奴に訊いてびびったんだけど、××、××××、あいつも難関狙ったせいで浪人しただろ? お前知ってた? その後、××××で男ができて駆け落ちしたって言うんだ。/(略)今年になってあいつ男と別れて家帰って、も一度法学部目指してまた予備校に通ってるって言うんだよ。(略)>(p.324)
最初の「××」は下の名前、次の「××××」はフルネーム(わかりにくくて申しわけない、要するに1人です)。予備校の「××××」は、たぶん神戸(の三宮)ではなくて、大阪のほう。大阪のほうが近いようだから。というか、私にはぜんぜん土地鑑がなくて、読んだことがないけれど、有川浩『阪急電車』(幻冬舎文庫?)が読みたくなってくる(汗)。そう、2浪目のいまも、前年と同じ予備校に通っているのかな、この人?(同じところには通いづらいか)。それはともかく、個人的には“中学生思春期小説”や“中学校教師お悩み小説”よりも、こちらの“予備校生駆け落ちストーリー”のほうが読みたかったな。
~・~・~・~・~・~・~・~・~
以下、上の小説とは関係のない話。作家の島尾敏雄(1917年生まれ、1浪→長崎高商)は、浪人中の1935年(昭和10年)、秋から「大阪青年会高等予備校」というところに通っていたらしい。で、いまだによくわからないのだけれど、その予備校は、ベストセラー作家・東野圭吾(1958年早生まれ、1浪→大阪府立大)が通っていたという、次の予備校と同じところなのかな?
<大学受験に失敗した後、僕が通うことになったのは、レベルの高さでは大阪でも屈指の予備校だった。ある団体の傘下に属していたのだが、その団体というのはアメリカで発売禁止になったビレッジ・ピープルの歌で有名である。日本語の歌詞をつけ、西城秀樹が歌って大ヒットしたといえば、まあ大抵のひとならわかるだろう。>
エッセイ集『あの頃ぼくらはアホでした』(集英社文庫、p.183)より。TVドラマ『寺内貫太郎一家』では浪人生だった西城秀樹……。それはともかく、郷ひろみは『ムー一族』で……それもいま措いておいて。たぶん同じ学校ではないかと思う、「青年」のへんが「ヤングマン」っぽいもんね(ちょっとテキトー(汗))。
東野圭吾が浪人していた1976年、の10年前、『むさしキャンパス記』(徳間文庫、単行本は1979年に角川書店から)によれば、1966年(昭和41年)、かんべむさしは高校を卒業して関学(関西学院大学)に入学している(現役で)。当時、新しい環境になじむまで――新しい友人ができたりするまで、高校の同級生たちと<郵送巡回させるノート>(p.34)を作っていたという。<その現物がいま手元にあるので、少し書き写すことにしよう。>(同頁)といって、書き出されているのだけれど、最初が浪人中の人のもの。貴重な(?)リアル浪人生の手記なので、まるごと引用させてもらうと(著作権はだいじょうぶかな)、…これもいちおう伏字にしておくか(もうあまり意味がないけれど(汗))、
<「まずまず元気である。××××の予備校に通っているが、初めての電車通学なので、実は少々バテ気味だ。七時四十三分のに乗っているのだからな。皆に一度会いたいと思うので、それぞれ都合のいい日時を教えてくれ」>(同頁)
とのこと。でも、こういう“交換ノート”があれば、大学生にとっても浪人生にとっても、いわゆる五月病の対策、予防になりそうだよね。大学新入生や浪人生は、真似できれば真似してみてもいいかもしれない。あ、高校のとき、仲良しグループみたいなもの(最低でも3人以上?)を形成していないとできないか。というかいまインターネットな時代だし、郵送というのが…。(ちなみに、堀勝治『青春の彷徨』(角川文庫)という本を、私は持っているのだけれど、うーん…、最初のあたりは“リアル浪人生の手記”@大阪だし、この人も1浪して結局、関学に入学している(1968年入学だから、かんべ氏の2学年下かな)けれど、高野悦子『二十歳の原点』(新潮文庫)にしても、“遺稿集”というのはどうも触れにくくて…。遺稿集って、著者に共感して読む以外の読み方をしてはいけないような気がして。とりあえずまた別の機会にしたい。あ、宮本輝の小説「星々の悲しみ」(同名書所収、単行本は1981年に文藝春秋から)は、1965年、主人公が大阪・梅田の予備校に通っている。というかすぐに通わなくなっている。)
大阪ではなくて、神戸××××予備校(××××予備校神戸校)には、中島らも(1952年生まれ、1浪→大阪芸大)が通っている。というか、(こちらも)ありがちな話、ほとんど通わなかったらしいけれど。1971年か。参考文献は『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町[増補版]』(朝日文庫)。