三木卓 『ほろびた国の旅』
2010年8月8日 読書
最初の単行本は、盛光社というところから1969年に出ているようだ。いま手もとにあるのは、図書館から借りてきた(検索したら1冊しか出てこなかったのだけれど)その新装版(1974年)。右上の画像は2009年に講談社から再刊(復刊)されたもの。児童文学というか「童話」であるようだ。――で、意外と面白かったです。なんていうか“戦争小説”でもあって、もともと子ども向けの本だからか、メッセージがわかりやすくなっているかもしれない。人種差別はいけないとか、もちろん戦争はいけないとか。(あ、「人種差別」と言うよりも「民族差別」と言ったほうがいいのかな。)あと、ちゃんと(?)主人公が精神的に成長していて、“成長小説”にもなっていると思う。
1954年ごろの話、大学受験に失敗した「ぼく」(=三木卓)は、ある日、図書館で本の出納台に昔の知り合いである山形さんに似た青年を見かけ、声をかけてなんだかんだで(?)もみ合いになって書棚で頭を打ってしまう。で、気がつくと、すでに滅んだ国=満州国の大連にいる、みたいな話。――過去の現実(実際)とはずれている点があるにしても、せっかく主人公が時間的・空間的に移動しているのに、大連のあとは、ずっとあじあ号(満州鉄道)に乗ったまま。やっぱり1箇所くらい途中下車してほしかったかな。あ、でも(ページをめくりなおしてみると)大連での話がけっこう長めだったんだね。(関係ないけれど、鉄道といえば、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』? いまだに読んだことがないな。というか、有名な文学作品なんてほとんど読んだことがない(涙)。)
最初のへんが個人的にちょっと好きなのだけれど、引用しても大丈夫かな、
<そのころ、ぼくは大学の入学試験を失敗して、どこにもいかなくていい毎日をすごしていました。ぼくは、星をながめて夜あかしをしたり、郊外の大きな池でプランクトンの網をひっぱったりすることが大好きだったから落第もしかたがなかったのです。(略)/落第したことがわかったとき、ぼくはなんだか、かなりくたびれていたみたいです。風景がとてもきれいに見えて涙が出てきたりしてすこし病気みたいでした。(略)>(pp.6-7)
という感じ。ま、大学受験というのは、かなりくたびれるもんだよね(?)。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
ちなみに作者も、1954年に現役で東大を受けて、落ちて1年浪人している(→早大)。でも、この人、浪人中、どこで何をしていたのかな?(年譜だけではわからない)。『柴笛と地図』(集英社、2004、のち集英社文庫)という小説の最後のへんでは(ネタバレしてしまうけれど)、東大を受けて落ちた高校3年生の主人公(=豊三)は、予備校の入学案内を見比べて(お兄さんは研数学館を勧めるのだけれど)紅露外語という予備校(?)を選んでいる。もし作者が(静岡から上京して)そこに通っていないなら、その名前を持ち出した理由が、私にはよくわからない。
1954年ごろの話、大学受験に失敗した「ぼく」(=三木卓)は、ある日、図書館で本の出納台に昔の知り合いである山形さんに似た青年を見かけ、声をかけてなんだかんだで(?)もみ合いになって書棚で頭を打ってしまう。で、気がつくと、すでに滅んだ国=満州国の大連にいる、みたいな話。――過去の現実(実際)とはずれている点があるにしても、せっかく主人公が時間的・空間的に移動しているのに、大連のあとは、ずっとあじあ号(満州鉄道)に乗ったまま。やっぱり1箇所くらい途中下車してほしかったかな。あ、でも(ページをめくりなおしてみると)大連での話がけっこう長めだったんだね。(関係ないけれど、鉄道といえば、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』? いまだに読んだことがないな。というか、有名な文学作品なんてほとんど読んだことがない(涙)。)
最初のへんが個人的にちょっと好きなのだけれど、引用しても大丈夫かな、
<そのころ、ぼくは大学の入学試験を失敗して、どこにもいかなくていい毎日をすごしていました。ぼくは、星をながめて夜あかしをしたり、郊外の大きな池でプランクトンの網をひっぱったりすることが大好きだったから落第もしかたがなかったのです。(略)/落第したことがわかったとき、ぼくはなんだか、かなりくたびれていたみたいです。風景がとてもきれいに見えて涙が出てきたりしてすこし病気みたいでした。(略)>(pp.6-7)
という感じ。ま、大学受験というのは、かなりくたびれるもんだよね(?)。
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ちなみに作者も、1954年に現役で東大を受けて、落ちて1年浪人している(→早大)。でも、この人、浪人中、どこで何をしていたのかな?(年譜だけではわからない)。『柴笛と地図』(集英社、2004、のち集英社文庫)という小説の最後のへんでは(ネタバレしてしまうけれど)、東大を受けて落ちた高校3年生の主人公(=豊三)は、予備校の入学案内を見比べて(お兄さんは研数学館を勧めるのだけれど)紅露外語という予備校(?)を選んでいる。もし作者が(静岡から上京して)そこに通っていないなら、その名前を持ち出した理由が、私にはよくわからない。
清岡卓行 「アカシヤの大連」
2010年8月8日 読書
この小説もだいぶ前から読まねば、という感じで自分に対する宿題みたいになっていたので、とりあえず読めてよかったです。いま手もとにあるのは、講談社文庫から出ている同名の本(1973年)。初出は『群像』1969年12月号らしい。同名の単行本は講談社から1970年に出ているようだけれど、この文庫版は単行本をそのまま文庫化したものではなく、ほかの単行本との合本になっているっぽい(よくわからないけれど)。文庫はあと、例によって(?)講談社文芸文庫からも出ている模様(画像はこれ)。
読めてよかったのだけれど、でも、純文学系の小説、今回も読んでいてぜんぜん内容が頭に入ってこなくて(涙)、無理やり読了という感じ。なんていうか、詩的で思索的で(それほどでもないとは思うけれど)ちょっと自己陶酔的な、回想的エッセイ風な自伝的小説というか。読んでいるとちょっといい具合に“酔える”かもしれない。青春論みたいな話とか、<憂鬱の哲学>とか、「旅とは?」みたいな話とか、個人的にはもう少し若いときに読みたかったな、とは思う。あ、でも主人公の「彼」は、もう40歳を過ぎている…どころか、50歳に近いのか。若いやね、精神的に。――小説の感想は以上で終わりです(汗)。
<故知れぬ憂鬱、抑え難い衝動のさなかに「甘美な死」への誘惑から「芳潤な生」へと導いた妻との出会い、そして父と子の細やかな交流の襞々に詩と散文とを織りまぜた独自の世界――「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「フルートとオーボエ」「萌黄の時間」「鯨もいる秋の空」の五部作に一つの青春とその後の生き様を追う。>(カバー背より)
最初に入った高校は旅順の高校らしいけれど、そこには大連から通っていたのかな?(それとも寮生活とか?)。小学校の遠足で旅順に行った、みたいなことが書かれているから、通えば通える距離なのかな?(地理的なことにも歴史的なことにも疎すぎる、自分(涙))。ま、細かいことはいいとして。「彼」は生まれてから17歳くらいまで大連で暮らし、そのあと旅順の高校を中退して東京の高校(たぶん一高)に入り直すのだけれど、高校生のときの夏休みにも帰郷したり、大学1年のときにも友人(たち)といっしょに郷里に戻って――それが終戦の5ヶ月ほど前で、それから3年くらいを大連で過ごしている(そして引き揚げ)。小説の最後のへんが(時系列に書かれている小説ではないのだけれど)大連での奥さんと出会い。
高校は浪人(1浪)というより、翌年再受験という感じかもしれないけれど、本の後ろについている年譜(作者自筆)には、<東京に出て浪人生活>とある(昭和15年=1940年、18歳のところ)。今日も引用が多くなってしまう予感がするけれど、引用させてもらうとして(すみません)、
<彼は十七歳である。大連から門司に向う<ばいかる丸>は、秋の夜の玄海灘にさしかかっている。(略)/彼の心は、少年らしい感傷に貫かれている。旅順に出来たばかりの高校に入学した彼は、三箇月ほどで自分からそこを退学してしまった。一口で言えば、おこがましくも、文学をやりたいためである。もう少し具体的に言えば、彼は恥かしがるかもしれないが、ランボーを原語で読む勉強ができる高校にかわりたいためである。それで、東京にある予備校に向かおうとしている彼は、まるで父母とふるさとを、無情に捨てたかのような胸の疼きを覚えているのだ。/今日の昼、彼は生れて始めて煙草を吸った。(略)はじめて母から離れて旅をする海の眩ゆさのように、その煙草のけむりは、いがらっぽく喉にしみた。>(pp.88-9)
後ろの年譜によれば、作者は6月29日生まれらしいから、4月から3ヶ月……ということは、18歳にかなり近い17歳かもしれない。高校をやめた理由は、同じ年譜には<軍国調になじめず>ともある。手もとにある作者の別の年譜(自筆)によれば、作者が通っていた予備校は、城北高等補習学校らしい。現実と小説の境を無視してよければ、上の<東京にある予備校>というのは、その予備校ということになる。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
いちどまとめておきたかったのだけれど、城北高等補習学校(城北予備校)に通っていた小説家は、
昭和13年(1938年) 安岡章太郎、古山高麗雄
昭和14年(1939年) 安岡、古山(→三高)
昭和15年(1940年) 安岡(→慶応予科)、清岡卓行(→一高)
昭和16年(1941年)
昭和17年(1942年)
昭和18年(1943年) 丸谷才一(→新潟)
こんな感じでいい? 少ないな、探せばもっとたくさんいそう。作家以外では、だいぶ前、高田里惠子『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書、2008)という本を読んでいて知ったのだけれど、世間を賑わせた有名な犯罪者というか、「光クラブ」の東大生社長・山崎晃嗣は、昭和15年(1940年)に通っていたようだ(1浪→一高)。逆にまったくの無名な人というか、青木正美『自己中心の文学 日記が語る明治・大正・昭和』(博文館新社、2008)という本の「第三部 無名人の日記は語る」では、6人の無名な人の日記が取りあげられているのだけれど(著者は古本屋さんで日記を収集しているらしい)、その5人目の人は、昭和17年(1942年)の8月25日にその予備校の入学試験を受けて落ちている。ほかには、沢野ひとし『転校生』(角川文庫)によれば、肩書きは文芸評論家でいい? 香山二三郎(1浪→W大)も、1974年に通っていたらしい。ちなみに、開校がいつなのかは私にはわからないのだけれど、廃校は1987年と書かれている本がある(あ、私が浪人していたときにはもうなかったのか)。
読めてよかったのだけれど、でも、純文学系の小説、今回も読んでいてぜんぜん内容が頭に入ってこなくて(涙)、無理やり読了という感じ。なんていうか、詩的で思索的で(それほどでもないとは思うけれど)ちょっと自己陶酔的な、回想的エッセイ風な自伝的小説というか。読んでいるとちょっといい具合に“酔える”かもしれない。青春論みたいな話とか、<憂鬱の哲学>とか、「旅とは?」みたいな話とか、個人的にはもう少し若いときに読みたかったな、とは思う。あ、でも主人公の「彼」は、もう40歳を過ぎている…どころか、50歳に近いのか。若いやね、精神的に。――小説の感想は以上で終わりです(汗)。
<故知れぬ憂鬱、抑え難い衝動のさなかに「甘美な死」への誘惑から「芳潤な生」へと導いた妻との出会い、そして父と子の細やかな交流の襞々に詩と散文とを織りまぜた独自の世界――「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「フルートとオーボエ」「萌黄の時間」「鯨もいる秋の空」の五部作に一つの青春とその後の生き様を追う。>(カバー背より)
最初に入った高校は旅順の高校らしいけれど、そこには大連から通っていたのかな?(それとも寮生活とか?)。小学校の遠足で旅順に行った、みたいなことが書かれているから、通えば通える距離なのかな?(地理的なことにも歴史的なことにも疎すぎる、自分(涙))。ま、細かいことはいいとして。「彼」は生まれてから17歳くらいまで大連で暮らし、そのあと旅順の高校を中退して東京の高校(たぶん一高)に入り直すのだけれど、高校生のときの夏休みにも帰郷したり、大学1年のときにも友人(たち)といっしょに郷里に戻って――それが終戦の5ヶ月ほど前で、それから3年くらいを大連で過ごしている(そして引き揚げ)。小説の最後のへんが(時系列に書かれている小説ではないのだけれど)大連での奥さんと出会い。
高校は浪人(1浪)というより、翌年再受験という感じかもしれないけれど、本の後ろについている年譜(作者自筆)には、<東京に出て浪人生活>とある(昭和15年=1940年、18歳のところ)。今日も引用が多くなってしまう予感がするけれど、引用させてもらうとして(すみません)、
<彼は十七歳である。大連から門司に向う<ばいかる丸>は、秋の夜の玄海灘にさしかかっている。(略)/彼の心は、少年らしい感傷に貫かれている。旅順に出来たばかりの高校に入学した彼は、三箇月ほどで自分からそこを退学してしまった。一口で言えば、おこがましくも、文学をやりたいためである。もう少し具体的に言えば、彼は恥かしがるかもしれないが、ランボーを原語で読む勉強ができる高校にかわりたいためである。それで、東京にある予備校に向かおうとしている彼は、まるで父母とふるさとを、無情に捨てたかのような胸の疼きを覚えているのだ。/今日の昼、彼は生れて始めて煙草を吸った。(略)はじめて母から離れて旅をする海の眩ゆさのように、その煙草のけむりは、いがらっぽく喉にしみた。>(pp.88-9)
後ろの年譜によれば、作者は6月29日生まれらしいから、4月から3ヶ月……ということは、18歳にかなり近い17歳かもしれない。高校をやめた理由は、同じ年譜には<軍国調になじめず>ともある。手もとにある作者の別の年譜(自筆)によれば、作者が通っていた予備校は、城北高等補習学校らしい。現実と小説の境を無視してよければ、上の<東京にある予備校>というのは、その予備校ということになる。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
いちどまとめておきたかったのだけれど、城北高等補習学校(城北予備校)に通っていた小説家は、
昭和13年(1938年) 安岡章太郎、古山高麗雄
昭和14年(1939年) 安岡、古山(→三高)
昭和15年(1940年) 安岡(→慶応予科)、清岡卓行(→一高)
昭和16年(1941年)
昭和17年(1942年)
昭和18年(1943年) 丸谷才一(→新潟)
こんな感じでいい? 少ないな、探せばもっとたくさんいそう。作家以外では、だいぶ前、高田里惠子『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書、2008)という本を読んでいて知ったのだけれど、世間を賑わせた有名な犯罪者というか、「光クラブ」の東大生社長・山崎晃嗣は、昭和15年(1940年)に通っていたようだ(1浪→一高)。逆にまったくの無名な人というか、青木正美『自己中心の文学 日記が語る明治・大正・昭和』(博文館新社、2008)という本の「第三部 無名人の日記は語る」では、6人の無名な人の日記が取りあげられているのだけれど(著者は古本屋さんで日記を収集しているらしい)、その5人目の人は、昭和17年(1942年)の8月25日にその予備校の入学試験を受けて落ちている。ほかには、沢野ひとし『転校生』(角川文庫)によれば、肩書きは文芸評論家でいい? 香山二三郎(1浪→W大)も、1974年に通っていたらしい。ちなみに、開校がいつなのかは私にはわからないのだけれど、廃校は1987年と書かれている本がある(あ、私が浪人していたときにはもうなかったのか)。
丸岡明 「静かな影絵」
2010年8月7日 読書
いま手もとにあるのは、図書館から借りてきた小学館の『昭和文学全集』第7巻。そのpp.969-93(3段組み)。初出は、『群像』の1964年11月号とのこと。ぜんぜん期待していなかったけれど、読んでみたら(読んでいるあいだは)意外と面白かったです。「私」は昨年、母親を亡くしていて、その母親のことを含めて、幼い頃のことから現在にいたるまでのことを、あれこれと思い出している小説。もちろん(?)作者の自伝的な小説。だいたい時系列に(年齢に沿って)語られているけれど、けっこう行ったり来たりもしている。出てくる親族が意外と多くて、私は頭のなかでちょっとごっちゃごちゃになる感じだったかな。
この前読んだ小説、和田芳恵『暗い流れ』のお父さんは、雪道での自動車チェーンみたいなものの特許を取ろうとしていたり、皇室アルバムを売り歩いたり、郷土史の写真集の予約販売みたいなことをしようとしたりしていたけれど、こちらのお父さん――歌人で、謡本を出版したり、引き継いだ(「私」の)母方の紡績工場をつぶしてしまったり――も、
<そうした雲を掴むような話の相棒は、いつも父の義弟になる国文学者の松川の叔父で、自動製本機を考案して、試作品を作ってみたり、自動車の車輪につける泥除けの特許を取ったりしていた。/まだその頃、どの新聞社でも手掛けていなかった年鑑の発行は、予約募集を相当大袈裟にやってみたが、僅かに百部内外の申込みで、中止したそうである。>(p.957・中)
という感じ。『暗い流れ』のお父さんよりも、全体的にものになっている感じだけれど、時代が近いせいなのか、目の付けどころというか、やっていることの発想がちょっと似ている。こちらのお父さんは、でも、一家が暮らしている(読んでいると、引越しが多いけれど)場所がずっと東京であるし、経済的にはどうなっているのやら、ぜんぜん貧乏な感じはしないし(家にお手伝いさんだけでなく一高生の書生=原口さんがいたり)、あと、歌人=文化人で、やっぱり知的で頭がいいのかもしれない。――お父さんの話はともかく。そう、私が田舎者のせいか、「私」=東京の人という感じがけっこうする。やぼったさが少なめというか。そういえば、性的なことはぜんぜん語られていない。あ、病気はしている(入院している)。そうそう、「私」ではないけれど、西森さんという書生(私立大学に通っていたけれど、女中たちが一高生の原口さんと区別するので、頑張って一高生に)が脚気になって郷里に帰って亡くなった、みたいな挿話というかがある(p.983・下)。脚気(かっけ)って死に至る病だったのか、いままで知らなかったです(『暗い流れ』の「私」は夏みかんを食べているくらいな治療だけれど、よく脚気が治ったな。あ、治ったとは書かれていないか)。
「私」は中学卒業後、慶応(の文科)に入るまでに2年浪人している(作中で「浪人」という言葉も使われている)。まず、四修で受けたのは、東京高校の高等科(いまの何大学?)とのこと。中学5年のときと翌年(1浪のとき)に受けたところは――たぶん書かれていないと思う。具体的にどこの学校かわからないけれど、中学5年のときの秋には、<神田の受験講習会に通った>(p.981・中)とある。受験生時代にどこで何をしたかは、わりと書かれているけれど、ちゃんと勉強はしていたのかな、この人?(それがよくわからない)。浪人2年目(何年だっけ? ――作者の年譜をカンニングしたほうが早い(汗)、大正15年=1926年のことか)の最初のころは、
<浪人生活二年目は、私が出たカトリックの中学とは、対照的な校風の府立四中の補修科にいた。/始業時間の合図に、ラッパが鳴った。生徒は脚に、ゲートルを捲いて登校した。カトリックの学校は、女人禁制だったが、この府立の学校の教員室には、気性の激しい女の先生がいたりした。/補修科と云っても、そこへ通うには、相当な競争率の試験があった。だが、私にはさし当って、無用な、英語の時間があまりの多いのを口実に、一学期だけでそこをよした。>(p.982・上)
とのこと。注が必要かもしれない、「府立四中」というのは、現在の都立戸山高校。「補修科」(「補習科」という表記のほうがふつう)というのは、そこの学校の先生が卒業生(その学校以外の卒業生も可)に受験の指導をする場所というか授業というか。絶滅すんぜんなようだけれど、全国的にはいまでも設けている高校はあるらしい(授業料は予備校よりも安かったりする)。あ、ちょっと注意というか、これは、高女(高等女学校)の補習科とは別もの。あと、本当なのかどうなのか、府立四中の補習科が独立してできたものが、城北高等補習学校(=城北予備校、作家では安岡章太郎や丸谷才一が通っている)だと書かれている本もある。あまり関係ないけれど、植草甚一は、同じ年(1926年)に府立五中(現在の都立小石川高校)の補習科に通っている(参考文献:津野海太郎『したくないことはしない――植草甚一の青春』)。やっぱり府立一中(現在の都立日比谷高校)の補習科がいちばん人気で、いちばん競争率が高かったのではないか、と思うのだけれど、よくわからない(手もとに何も資料がない)。――話を戻して、えーと、↑のあと「私」は親戚や知人がいる場所に遠出したりしているけれど、最終的には(?)まず、官立の入試は「小さい叔母」が結婚して暮らしている静岡で受験している。
<二校制という制度が出来、一つところで、二つの高等学校を受けられることになったので、静岡と、京都の三高を選んだ。私は東京を離れて、学校生活をしたく思っていた。/(5段落省略)/しかし静岡で試験をすませると、東京へ戻って慶応の文科を受けた。浪人生活の屈辱に、もうこれ以上、堪えられぬと思ったからだ。結果は、慶応に這入ったが、三高も静岡も駄目だった。>(p.983・中~下)
浪人生活を屈辱に思っている具体的な話が、前後を探してもどこにも書かれていないような? ちょっと唐突かもしれない。注はいらないかもしれないけれど、一応、「静岡」はもちろん静岡高校、「三高」はいまでいえば京都大学。「慶応」というのは、慶応義塾大学の――いきなり大学(の本科)には入れないから――もちろん予科のこと。あ、文学で(人生を?)失敗しているお父さんは、息子には官立の高校を出て外交官になってもらいたかったらしい。
話が前後してしまうけれど、「私」の家は、関東大震災(大正12年=1923年)で焼けてしまったらしい(翌年、引っ越している)。でも、被災の状況についてはぜんぜん書かれていない。一方(?)戦争中、東京の最後の大空襲のさい、奥さんと一緒に逃げている場面はちょっと詳しく書かれている(2人は九死に一生を得ている)。
この前読んだ小説、和田芳恵『暗い流れ』のお父さんは、雪道での自動車チェーンみたいなものの特許を取ろうとしていたり、皇室アルバムを売り歩いたり、郷土史の写真集の予約販売みたいなことをしようとしたりしていたけれど、こちらのお父さん――歌人で、謡本を出版したり、引き継いだ(「私」の)母方の紡績工場をつぶしてしまったり――も、
<そうした雲を掴むような話の相棒は、いつも父の義弟になる国文学者の松川の叔父で、自動製本機を考案して、試作品を作ってみたり、自動車の車輪につける泥除けの特許を取ったりしていた。/まだその頃、どの新聞社でも手掛けていなかった年鑑の発行は、予約募集を相当大袈裟にやってみたが、僅かに百部内外の申込みで、中止したそうである。>(p.957・中)
という感じ。『暗い流れ』のお父さんよりも、全体的にものになっている感じだけれど、時代が近いせいなのか、目の付けどころというか、やっていることの発想がちょっと似ている。こちらのお父さんは、でも、一家が暮らしている(読んでいると、引越しが多いけれど)場所がずっと東京であるし、経済的にはどうなっているのやら、ぜんぜん貧乏な感じはしないし(家にお手伝いさんだけでなく一高生の書生=原口さんがいたり)、あと、歌人=文化人で、やっぱり知的で頭がいいのかもしれない。――お父さんの話はともかく。そう、私が田舎者のせいか、「私」=東京の人という感じがけっこうする。やぼったさが少なめというか。そういえば、性的なことはぜんぜん語られていない。あ、病気はしている(入院している)。そうそう、「私」ではないけれど、西森さんという書生(私立大学に通っていたけれど、女中たちが一高生の原口さんと区別するので、頑張って一高生に)が脚気になって郷里に帰って亡くなった、みたいな挿話というかがある(p.983・下)。脚気(かっけ)って死に至る病だったのか、いままで知らなかったです(『暗い流れ』の「私」は夏みかんを食べているくらいな治療だけれど、よく脚気が治ったな。あ、治ったとは書かれていないか)。
「私」は中学卒業後、慶応(の文科)に入るまでに2年浪人している(作中で「浪人」という言葉も使われている)。まず、四修で受けたのは、東京高校の高等科(いまの何大学?)とのこと。中学5年のときと翌年(1浪のとき)に受けたところは――たぶん書かれていないと思う。具体的にどこの学校かわからないけれど、中学5年のときの秋には、<神田の受験講習会に通った>(p.981・中)とある。受験生時代にどこで何をしたかは、わりと書かれているけれど、ちゃんと勉強はしていたのかな、この人?(それがよくわからない)。浪人2年目(何年だっけ? ――作者の年譜をカンニングしたほうが早い(汗)、大正15年=1926年のことか)の最初のころは、
<浪人生活二年目は、私が出たカトリックの中学とは、対照的な校風の府立四中の補修科にいた。/始業時間の合図に、ラッパが鳴った。生徒は脚に、ゲートルを捲いて登校した。カトリックの学校は、女人禁制だったが、この府立の学校の教員室には、気性の激しい女の先生がいたりした。/補修科と云っても、そこへ通うには、相当な競争率の試験があった。だが、私にはさし当って、無用な、英語の時間があまりの多いのを口実に、一学期だけでそこをよした。>(p.982・上)
とのこと。注が必要かもしれない、「府立四中」というのは、現在の都立戸山高校。「補修科」(「補習科」という表記のほうがふつう)というのは、そこの学校の先生が卒業生(その学校以外の卒業生も可)に受験の指導をする場所というか授業というか。絶滅すんぜんなようだけれど、全国的にはいまでも設けている高校はあるらしい(授業料は予備校よりも安かったりする)。あ、ちょっと注意というか、これは、高女(高等女学校)の補習科とは別もの。あと、本当なのかどうなのか、府立四中の補習科が独立してできたものが、城北高等補習学校(=城北予備校、作家では安岡章太郎や丸谷才一が通っている)だと書かれている本もある。あまり関係ないけれど、植草甚一は、同じ年(1926年)に府立五中(現在の都立小石川高校)の補習科に通っている(参考文献:津野海太郎『したくないことはしない――植草甚一の青春』)。やっぱり府立一中(現在の都立日比谷高校)の補習科がいちばん人気で、いちばん競争率が高かったのではないか、と思うのだけれど、よくわからない(手もとに何も資料がない)。――話を戻して、えーと、↑のあと「私」は親戚や知人がいる場所に遠出したりしているけれど、最終的には(?)まず、官立の入試は「小さい叔母」が結婚して暮らしている静岡で受験している。
<二校制という制度が出来、一つところで、二つの高等学校を受けられることになったので、静岡と、京都の三高を選んだ。私は東京を離れて、学校生活をしたく思っていた。/(5段落省略)/しかし静岡で試験をすませると、東京へ戻って慶応の文科を受けた。浪人生活の屈辱に、もうこれ以上、堪えられぬと思ったからだ。結果は、慶応に這入ったが、三高も静岡も駄目だった。>(p.983・中~下)
浪人生活を屈辱に思っている具体的な話が、前後を探してもどこにも書かれていないような? ちょっと唐突かもしれない。注はいらないかもしれないけれど、一応、「静岡」はもちろん静岡高校、「三高」はいまでいえば京都大学。「慶応」というのは、慶応義塾大学の――いきなり大学(の本科)には入れないから――もちろん予科のこと。あ、文学で(人生を?)失敗しているお父さんは、息子には官立の高校を出て外交官になってもらいたかったらしい。
話が前後してしまうけれど、「私」の家は、関東大震災(大正12年=1923年)で焼けてしまったらしい(翌年、引っ越している)。でも、被災の状況についてはぜんぜん書かれていない。一方(?)戦争中、東京の最後の大空襲のさい、奥さんと一緒に逃げている場面はちょっと詳しく書かれている(2人は九死に一生を得ている)。
和田芳恵 『暗い流れ』
2010年8月7日 読書
いま手もとにあるのは、小学館『昭和文学全集』の第14巻、そのpp.164-261(3段組み)。単行本は1977年に河出書房新社から、文庫本は集英社文庫、講談社文芸文庫から出ているようだ(ちゃんと調べたわけではないので、ほかからも出ているかもしれない。画像は文芸文庫版)。作者の自伝的な長篇小説で、小学生くらいのときから(あ、それ以前のことも書かれているか)中学4年を修了して北海道から上京、東京で書生暮らしをしているとき(関東大震災の翌年)までが描かれている。「明るい」とは言えないけれど、それほど暗い小説でもなかった…かな。けっこう『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)=性遍歴、性人生みたいにもなっている? でも、ちょっと思ったのは『クローバー』とか『グミの実』とか、何かもっと明るいタイトルを付けて、新潮文庫(ちょっと安いから)で文庫化して、『あすなろ物語』とか『しろばんば』とか(ともに井上靖)の隣りにでも置いておけば、間違って(?)けっこう売れるんじゃないかな、この小説? ←何が言いたいのかといえば、読んでいてけっこう面白かったです(汗)。
最近、たまたま“貧乏小説”をいくつか読んだのだけれど(私にとってはぜんぜん他人事ではないけれど)、いちど貧乏になってしまうと(それが常識かもしれないけれど)なかなか脱出ができないみたい、だよね。そもそもの生活困窮の原因は、やっぱりお父さんの稼ぎが悪かったり、それがまったく無かったり、のせいかな。お母さんや子どもたちが内職したり、新聞配達をしたりしても、収入はたかが知れている感じ。この人、中学卒業後にではなく在学中に小学校の代用教員をしているのだけれど、中学校の教頭の紹介で奨学金も受けているし、その1年間の家の暮らしはけっこう楽になったのではないか、と思うのだけれど、ぜんぜんそんな風には見えない感じ。(どうでもいいけれど、田山花袋『田舎教師』の月給は11円だったのに対して、こちらの田舎教師の月給は33円。明治34年=1901年(から3年くらい)→大正11年=1922年、学校や地域によっても違うかもしれないけれど、20年くらいで物価が3倍に?)あと、貧乏以外では“病気”もある。時代は明治の後期から大正――なかには、平成な現在なら簡単に治る病気もあるかもしれない。というか、けっこう時間をかけて読んだわりに今回もたいした感想がない(汗)。
浪人生もいちおう出てくる、万年浪人生1名。――その前に中学を卒業して…じゃなくて、4年を修了して上京するまでもあれこれけっこう大変なのだけれど、それは省略するとして、上京した「私」(=花田吉平、作者の名前からしてたぶん「きっぺい」とかではなく「よしへい」)は、中学時代から奨学金をもらっていた資産家(同郷というかの海運業者)の佐藤家に書生として住み込んで、進学を目指して神田の研数学館に通っている。その予備校では、前年(大正12年=1923年)の関東大震災で被災している友人もできたと言っている。でも、
<去年の大震災にあうまでは、かなりな生活をしていたという話に、みなが落ちてゆくのは、意地わるく見ると嘘を言っているようでもあった。人間のたのしみのうちに、状態の変更ということがあり、わざわいを利用してその人たちは、あまい夢を見ているようであった。/町には仮設建築がたち並び、東京は復興しつつあった。>(p.241・上)
とも語っている。「かなりな生活」とそうではない生活とが、ご破算にされてしまうのが震災というもの? そこに嘘=夢が入り込む余地があるのかもしれない(いままでの「私」が、決して「かなりな生活」をしてこなかったことも考慮しないといけない)。ある意味、いま置かれている立場を忘れたいのが受験生というもの。もちろん死者、負傷者は多数出ているけれど、大地震=非日常的な出来事だから嘘もしかたがない?(よくわからないけれど)。――地震の話はそれくらいにして。家屋敷では主人(2代目社長)の歳の離れた弟の1人や娘に勉強を教えたり、あと、結局、肉体的な関係はないまま終わっているけれど、社長の奥さんとなんだかんだみたいな話もあったりする……けれど、それも措いておいて。「私」は脚気になったりして、いったん帰郷したりするのだけれど、再び上京。で、引用が長くなってしまう予感がするけれど、個人的に(私はいちおう教育学部の英語科卒)興味深い箇所がある。夏…ではなくてもう秋くらいの話か、
<第一外国語学校に受験生の夏季講座があり、私は途中から受講することにした。元一高教授だった岡田実麿が英語の訳解を教えていた。いわゆる紳士といった風格があり、堂堂とした恰幅だった。/>(p.257・下)
いったん切らしてもらって。手もとにある、あまり当てにならない感じの文献(1つ)には、研数学館に英語科が設置されたのが大正8年(=1919年)、第一外国語学校が開校したのが大正13年(=1924年)とある。それが本当であるなら、「私」は(大正13年の話です)どうして英語を習うために、すでに数学を習っている研数学館ではなくて、出来たばかりの第一外国語学校へ? …ま、どうでもいいか。自伝的な小説だろうが小説(フィクション)には変わりがないし。あ、でも、夏期講習だけはほかの予備校に行ってみる、みたいなことはいまでもよくあることかな。
<教室の椅子は、五、六人がいっしょに並んで掛け、机も、それにふさわしい長めのものだった。早いものから、前にすわるので、いろんな人と隣りあわせになった。/「君、『蒲団』という小説を読んだことがあるか」/鉄縁の度の強い眼鏡をかけた青年が私に言った。白絣の単衣をきて、くたびれた袴をはいていた。/「読んだよ。田山花袋の小説だろ」/「よく知っていたな。あのなかに出てくる女弟子横山芳子のモデル岡田美知代の兄が、口髭を生やした口を動かして、英語を訳している岡田実麿なんだ。小説に深入りして、モデルの穿鑿などにうつつを抜かすようになると、僕のような万年受験生になるよ。/私が、ひそかに考えたように、この青年は受験慣れした、落伍者の一人であった。/「癖のように、毎年、受けては落ち、受けては落ち、……」/歌うように言って、私を小莫迦にした笑いを浮かべた。>(p.257・下~p.258・上)
万年浪人生に絡まれている(?)。あ、いままで気にしていなかったけれど、この時点での「私」も、浪人生といえば浪人生(1浪)といえるかも(現役=四修のときにはどこも受験していなかったと思うけれど)。えーと、「蒲団」の初出は明治40年(=1907年)で、それが収録されている単行本(『花袋集』)は翌年の明治41年(=1908年)に出ているようだ。ということは、15年くらい前? 思うにモデル探しができるような小説なんて、世の中にそんなにないよね? 「小説を読みすぎないように」みたいなアドバイスをするならわかるけれど、この青年のロジックが個人的にはよくわからない。あと、「私」のなかでは「万年受験生」=「落伍者」なのか、うーん…。受験生をずっと続けていると、いやでも“受験周辺情報”に詳しくなってしまうよね?(ま、人によるか)。最後、「小莫迦にした笑い」――「私」を馬鹿にしているというよりは、たんなる自嘲という感じも。ちなみに「私」は最初、官立の高校に入ろうと思っていて(それで数学も勉強していたのだけれど)、成績のいいらしい弟(の修平)が小樽の高商を受けると言っていて、でも、なんだかんだで(?)私立でもいいや、みたいなことに。ただ、この小説ではそこまで(受験まで)は描かれていない。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
上の話とは関係がないことだし、どうでもいいことだけれど、大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003/角川文庫、2006)という本をぱらぱらと読み直していたら、次のような箇所があった。
<明治三〇年代の花袋は「中学世界」という雑誌に編集者兼作家として関わっていました。『蒲団』という作品を書く以前の彼は「言文一致」体という文体や「文学」を若い読者に啓蒙する仕事をしていたのです。「言文一致」体や「文学」はそのようにして地方の読者に広がっていきました。(略)>(p.269、文庫版)
田山花袋が中学生向けの雑誌(?)『中学世界』(博文館)に関わっていたというのは本当?(関係ないけれど、『中学世界』は「受験雑誌」と呼ばれることが多いけれど、個人的には安易にその言葉は使いたくない)。
<(略)[引用者注・『蒲団』の]芳子のモデルとされる岡田美知代は「文章世界」の読者で、実は花袋に弟子入りする前に男の筆名でこの雑誌に小説を投稿していたのですが、花袋は気づいていなかったようです。>(p.270、同上)
いま手もとにある岩波文庫『蒲団・一兵卒』(改版、2002)の後ろに付いている作者の略年譜を見てみると、岡田美知代の入門(最初の上京)が明治37年(=1904年)で、雑誌『文章世界』(田山花袋主筆、博文館)の創刊はそれよりあとの明治39年(=1906年)となっている。――ちゃんと調べないとわからないけれど、大塚英志のほうが何か(どこか)勘違いしているのではないかと思う。(昔の、事実関係に関しては、ちょっとしたことであっても、1つの資料に当たるだけでなくて、いくつかの資料を組み合わせて考えてみないと、ほんと駄目な感じ。間違ってしまいやすい。1次資料に簡単に当たれるような環境に自分がいれば、話は別かもしれないけれど。)
最近、たまたま“貧乏小説”をいくつか読んだのだけれど(私にとってはぜんぜん他人事ではないけれど)、いちど貧乏になってしまうと(それが常識かもしれないけれど)なかなか脱出ができないみたい、だよね。そもそもの生活困窮の原因は、やっぱりお父さんの稼ぎが悪かったり、それがまったく無かったり、のせいかな。お母さんや子どもたちが内職したり、新聞配達をしたりしても、収入はたかが知れている感じ。この人、中学卒業後にではなく在学中に小学校の代用教員をしているのだけれど、中学校の教頭の紹介で奨学金も受けているし、その1年間の家の暮らしはけっこう楽になったのではないか、と思うのだけれど、ぜんぜんそんな風には見えない感じ。(どうでもいいけれど、田山花袋『田舎教師』の月給は11円だったのに対して、こちらの田舎教師の月給は33円。明治34年=1901年(から3年くらい)→大正11年=1922年、学校や地域によっても違うかもしれないけれど、20年くらいで物価が3倍に?)あと、貧乏以外では“病気”もある。時代は明治の後期から大正――なかには、平成な現在なら簡単に治る病気もあるかもしれない。というか、けっこう時間をかけて読んだわりに今回もたいした感想がない(汗)。
浪人生もいちおう出てくる、万年浪人生1名。――その前に中学を卒業して…じゃなくて、4年を修了して上京するまでもあれこれけっこう大変なのだけれど、それは省略するとして、上京した「私」(=花田吉平、作者の名前からしてたぶん「きっぺい」とかではなく「よしへい」)は、中学時代から奨学金をもらっていた資産家(同郷というかの海運業者)の佐藤家に書生として住み込んで、進学を目指して神田の研数学館に通っている。その予備校では、前年(大正12年=1923年)の関東大震災で被災している友人もできたと言っている。でも、
<去年の大震災にあうまでは、かなりな生活をしていたという話に、みなが落ちてゆくのは、意地わるく見ると嘘を言っているようでもあった。人間のたのしみのうちに、状態の変更ということがあり、わざわいを利用してその人たちは、あまい夢を見ているようであった。/町には仮設建築がたち並び、東京は復興しつつあった。>(p.241・上)
とも語っている。「かなりな生活」とそうではない生活とが、ご破算にされてしまうのが震災というもの? そこに嘘=夢が入り込む余地があるのかもしれない(いままでの「私」が、決して「かなりな生活」をしてこなかったことも考慮しないといけない)。ある意味、いま置かれている立場を忘れたいのが受験生というもの。もちろん死者、負傷者は多数出ているけれど、大地震=非日常的な出来事だから嘘もしかたがない?(よくわからないけれど)。――地震の話はそれくらいにして。家屋敷では主人(2代目社長)の歳の離れた弟の1人や娘に勉強を教えたり、あと、結局、肉体的な関係はないまま終わっているけれど、社長の奥さんとなんだかんだみたいな話もあったりする……けれど、それも措いておいて。「私」は脚気になったりして、いったん帰郷したりするのだけれど、再び上京。で、引用が長くなってしまう予感がするけれど、個人的に(私はいちおう教育学部の英語科卒)興味深い箇所がある。夏…ではなくてもう秋くらいの話か、
<第一外国語学校に受験生の夏季講座があり、私は途中から受講することにした。元一高教授だった岡田実麿が英語の訳解を教えていた。いわゆる紳士といった風格があり、堂堂とした恰幅だった。/>(p.257・下)
いったん切らしてもらって。手もとにある、あまり当てにならない感じの文献(1つ)には、研数学館に英語科が設置されたのが大正8年(=1919年)、第一外国語学校が開校したのが大正13年(=1924年)とある。それが本当であるなら、「私」は(大正13年の話です)どうして英語を習うために、すでに数学を習っている研数学館ではなくて、出来たばかりの第一外国語学校へ? …ま、どうでもいいか。自伝的な小説だろうが小説(フィクション)には変わりがないし。あ、でも、夏期講習だけはほかの予備校に行ってみる、みたいなことはいまでもよくあることかな。
<教室の椅子は、五、六人がいっしょに並んで掛け、机も、それにふさわしい長めのものだった。早いものから、前にすわるので、いろんな人と隣りあわせになった。/「君、『蒲団』という小説を読んだことがあるか」/鉄縁の度の強い眼鏡をかけた青年が私に言った。白絣の単衣をきて、くたびれた袴をはいていた。/「読んだよ。田山花袋の小説だろ」/「よく知っていたな。あのなかに出てくる女弟子横山芳子のモデル岡田美知代の兄が、口髭を生やした口を動かして、英語を訳している岡田実麿なんだ。小説に深入りして、モデルの穿鑿などにうつつを抜かすようになると、僕のような万年受験生になるよ。/私が、ひそかに考えたように、この青年は受験慣れした、落伍者の一人であった。/「癖のように、毎年、受けては落ち、受けては落ち、……」/歌うように言って、私を小莫迦にした笑いを浮かべた。>(p.257・下~p.258・上)
万年浪人生に絡まれている(?)。あ、いままで気にしていなかったけれど、この時点での「私」も、浪人生といえば浪人生(1浪)といえるかも(現役=四修のときにはどこも受験していなかったと思うけれど)。えーと、「蒲団」の初出は明治40年(=1907年)で、それが収録されている単行本(『花袋集』)は翌年の明治41年(=1908年)に出ているようだ。ということは、15年くらい前? 思うにモデル探しができるような小説なんて、世の中にそんなにないよね? 「小説を読みすぎないように」みたいなアドバイスをするならわかるけれど、この青年のロジックが個人的にはよくわからない。あと、「私」のなかでは「万年受験生」=「落伍者」なのか、うーん…。受験生をずっと続けていると、いやでも“受験周辺情報”に詳しくなってしまうよね?(ま、人によるか)。最後、「小莫迦にした笑い」――「私」を馬鹿にしているというよりは、たんなる自嘲という感じも。ちなみに「私」は最初、官立の高校に入ろうと思っていて(それで数学も勉強していたのだけれど)、成績のいいらしい弟(の修平)が小樽の高商を受けると言っていて、でも、なんだかんだで(?)私立でもいいや、みたいなことに。ただ、この小説ではそこまで(受験まで)は描かれていない。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
上の話とは関係がないことだし、どうでもいいことだけれど、大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003/角川文庫、2006)という本をぱらぱらと読み直していたら、次のような箇所があった。
<明治三〇年代の花袋は「中学世界」という雑誌に編集者兼作家として関わっていました。『蒲団』という作品を書く以前の彼は「言文一致」体という文体や「文学」を若い読者に啓蒙する仕事をしていたのです。「言文一致」体や「文学」はそのようにして地方の読者に広がっていきました。(略)>(p.269、文庫版)
田山花袋が中学生向けの雑誌(?)『中学世界』(博文館)に関わっていたというのは本当?(関係ないけれど、『中学世界』は「受験雑誌」と呼ばれることが多いけれど、個人的には安易にその言葉は使いたくない)。
<(略)[引用者注・『蒲団』の]芳子のモデルとされる岡田美知代は「文章世界」の読者で、実は花袋に弟子入りする前に男の筆名でこの雑誌に小説を投稿していたのですが、花袋は気づいていなかったようです。>(p.270、同上)
いま手もとにある岩波文庫『蒲団・一兵卒』(改版、2002)の後ろに付いている作者の略年譜を見てみると、岡田美知代の入門(最初の上京)が明治37年(=1904年)で、雑誌『文章世界』(田山花袋主筆、博文館)の創刊はそれよりあとの明治39年(=1906年)となっている。――ちゃんと調べないとわからないけれど、大塚英志のほうが何か(どこか)勘違いしているのではないかと思う。(昔の、事実関係に関しては、ちょっとしたことであっても、1つの資料に当たるだけでなくて、いくつかの資料を組み合わせて考えてみないと、ほんと駄目な感じ。間違ってしまいやすい。1次資料に簡単に当たれるような環境に自分がいれば、話は別かもしれないけれど。)
柏原兵三 「徳山道助の帰郷」
2010年8月6日 読書
いま手もとにあるのは『筑摩現代文学大系 94』(筑摩書房、1977)。初出は『新潮』1967年7月号で、この作品を表題作とした単行本は、翌年に新潮社から出ているようだ。文庫本は新しいところでは、講談社文芸文庫から出ているらしい(『徳山道助の帰郷|殉愛』、画像はこれ)。
で、感想はといえば、けっこう面白かったです。話がわりに淡々と進んでいく(語られている)けれど、なんていうか優しさが感じられる小説です。あ、ただ、個人的にハッピーエンディング好きなもので、終わりのほうはちょっといただけなかったけれど。ま、ご老人が出てくる小説はしかたがないよね、“戦争”のほうが悲惨であるといえば悲惨だろうし。
内容というかは、ひと言でいえば、やっぱり“戦争小説”ということになるのかな。貧しい農家(農村、大分市の近く)の出身で、最後は陸軍中将にまで出世したものの、いまは(わずかな軍人恩給は復活しているけれど)不遇をかこつ感じになっている元軍人の徳山道助(どうすけ)・74歳、その過去と現在とが比較的詳しく語られている。頭の中でごっちゃになりはしなかったけれど、やっぱり登場人物が多いから(きょうだいやその子どもたちなど)ちょっと家系図が欲しくなってくる(汗)。
道助は家を3度手放していて、いまは(それほどな感じではないけれど)ぼけている妻の綾子と、娘の家(の離れ)で暮らしている。あ、「いま」というのは、昭和30年(1955年)。娘の富子は1人娘で、亡くなった夫との間に4人の息子がいる。
道助―綾子
L富子―亡夫
L和夫、治、満、士郎
「一夫」ではなくて「和夫」、以下同様(?)……こういう名前の付け方は以前読んだ小説にもあったな(なんだっけ…、あ、これか、佐江衆一『老熟家族』)。和夫は銀行員。道助の養子に入っている治は(敗戦の年に陸軍幼年学校に入学したりもしている)製紙会社に勤めていていまは北海道に。満はT大生、末っ子の士郎は浪人中、とのこと。ほとんど出てこないかと思ったら、満も士郎も意外と登場してくる。今風の、割り切ったものの考え方をする満に対して、士郎はややひょうきんな感じ。飼い犬の美人犬・ポチの面倒(散歩など)は主に士郎くんが見ているようだ(浪人生=暇人だから?)。あ、もちろん(?)作者にいちばん近いと思われるのは、3番目の満くん。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
ちなみに作者は1933年生まれ。都立日比谷高校卒で、大雑把にいえば2浪して東大…という感じ。手もとにある本の後ろに年譜が付いているから、引用してしまえば、
1952年、<大学受験に失敗。当時、次兄が父の事業所を借り受け、神田に予備校を設立。そこに通う。(略)>(p.469)
1953年、<東大入試に再度失敗。千葉大医学部に入学するが、学業身につかず、三度目の文学部受験を決心する。>(同頁)
1954年、<東大文科二類入学。(略)>(同頁)
という感じ。お兄さんの「予備校」の名前が知りたいな。あと、東大と千葉大って両方受けられるの?(私はあいかわらず入試制度がよくわかっていない(涙))。
[追記]山田克己『予備校 不屈の教育者』(育文社、2009)という本によれば――この本を読むといままでわからなかったいくつかのことがわかってとてもありがたい――、とりあえず、予備校の名前は(そのままだけれど)「神田予備校」らしい。でもこの予備校は、柏原兵三の兄や父が創立(開校)したものではないようだ。次兄は事業を引き継いだだけらしい。そこに兵三が通っていたかどうかについては、この本には書かれていない。
で、感想はといえば、けっこう面白かったです。話がわりに淡々と進んでいく(語られている)けれど、なんていうか優しさが感じられる小説です。あ、ただ、個人的にハッピーエンディング好きなもので、終わりのほうはちょっといただけなかったけれど。ま、ご老人が出てくる小説はしかたがないよね、“戦争”のほうが悲惨であるといえば悲惨だろうし。
内容というかは、ひと言でいえば、やっぱり“戦争小説”ということになるのかな。貧しい農家(農村、大分市の近く)の出身で、最後は陸軍中将にまで出世したものの、いまは(わずかな軍人恩給は復活しているけれど)不遇をかこつ感じになっている元軍人の徳山道助(どうすけ)・74歳、その過去と現在とが比較的詳しく語られている。頭の中でごっちゃになりはしなかったけれど、やっぱり登場人物が多いから(きょうだいやその子どもたちなど)ちょっと家系図が欲しくなってくる(汗)。
道助は家を3度手放していて、いまは(それほどな感じではないけれど)ぼけている妻の綾子と、娘の家(の離れ)で暮らしている。あ、「いま」というのは、昭和30年(1955年)。娘の富子は1人娘で、亡くなった夫との間に4人の息子がいる。
道助―綾子
L富子―亡夫
L和夫、治、満、士郎
「一夫」ではなくて「和夫」、以下同様(?)……こういう名前の付け方は以前読んだ小説にもあったな(なんだっけ…、あ、これか、佐江衆一『老熟家族』)。和夫は銀行員。道助の養子に入っている治は(敗戦の年に陸軍幼年学校に入学したりもしている)製紙会社に勤めていていまは北海道に。満はT大生、末っ子の士郎は浪人中、とのこと。ほとんど出てこないかと思ったら、満も士郎も意外と登場してくる。今風の、割り切ったものの考え方をする満に対して、士郎はややひょうきんな感じ。飼い犬の美人犬・ポチの面倒(散歩など)は主に士郎くんが見ているようだ(浪人生=暇人だから?)。あ、もちろん(?)作者にいちばん近いと思われるのは、3番目の満くん。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
ちなみに作者は1933年生まれ。都立日比谷高校卒で、大雑把にいえば2浪して東大…という感じ。手もとにある本の後ろに年譜が付いているから、引用してしまえば、
1952年、<大学受験に失敗。当時、次兄が父の事業所を借り受け、神田に予備校を設立。そこに通う。(略)>(p.469)
1953年、<東大入試に再度失敗。千葉大医学部に入学するが、学業身につかず、三度目の文学部受験を決心する。>(同頁)
1954年、<東大文科二類入学。(略)>(同頁)
という感じ。お兄さんの「予備校」の名前が知りたいな。あと、東大と千葉大って両方受けられるの?(私はあいかわらず入試制度がよくわかっていない(涙))。
[追記]山田克己『予備校 不屈の教育者』(育文社、2009)という本によれば――この本を読むといままでわからなかったいくつかのことがわかってとてもありがたい――、とりあえず、予備校の名前は(そのままだけれど)「神田予備校」らしい。でもこの予備校は、柏原兵三の兄や父が創立(開校)したものではないようだ。次兄は事業を引き継いだだけらしい。そこに兵三が通っていたかどうかについては、この本には書かれていない。
田山花袋 『田舎教師』
2010年8月6日 読書
もともと単行本書き下ろしらしい(左久良書房、明治42年=1909年)。いま手もとにあるのは、岩波文庫(第53刷改版、1980)。画像は新潮文庫。読みにくくはなかったけれど、なぜか読み終わるのにいつもよりも時間が…(涙)。
<日露戦争に従軍して帰国した花袋(1871-1930)は、故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった。多感な青年が貧しさ故に進学できず、代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ、残された日記をもとに、関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。>(表紙カバー・表より)
「従軍」というのは、博文館の記者として。作中に原杏花(はら・きょうか)として作者(を思わせる人物)も登場している。『少年世界』に『中学世界』に、あと『女学世界』とか、ちらちらと博文館の雑誌も出てくる(作者は自分好き?)。『むさし野』とか、新体詩な『藤村詩集』などの本も出てくる(仲間褒め?)。私は文学史的な知識をほとんど持ち合わせていないけれど、人によってはそういう点でも、ちょっと歴史(?)が感じられていいかもしれない。
内容は、ひと言でいえば“小学校代用教員もの”(そのままだな)。明治34年(=1901年)、熊谷の中学校を卒業した林清三は、進学していく同級生たちと同じように進学には憧れているけれど、家(両親と3人暮らし)が貧しいのでそれは叶わず、同級生の1人で、清三と同じく行田に家がある親友・加藤郁治の父親(郡視学)のコネ(というか)で、羽生の三田ヶ谷村弥勒(みろく)の小学校に勤めることに。最初のへんでは、その小学校に初めて訪れた場面などが描かれているけれど、清三が訪ねてみると、役場にも校長にも話が通っていなくて――こんなに詳しく書いてもしようがないな(汗)。場所はだいたい埼玉県の北部というか北東部というかで、もう群馬、栃木、茨城の3県の近く。中田(なかだ)って茨城だっけ? そこに通う途中、利根川を渡っていったん群馬に入ったりもしている(栃木にもだっけ?)。あ、熊谷、行田、羽生は「市」ではなくて「町」。
「田舎教師」と言われると、その教師も田舎者という感じを受けるかもしれないけれど、林くんはそれほど田舎者というわけではなくて(東京の一部以外はみな田舎、という考えもあるかもしれないけれど)、家はもともと足利(栃木県)で呉服店をしていて(当時は裕福)、その店が傾いて7歳(8歳?)のときに埼玉県熊谷へ、そしてさらに中学2年のときに夜逃げに近い形で、行田に引っ越してきたらしい。熊谷の中学に通うのに、行田からは3里もあるらしい。あ、徒歩通学です。(国語辞典を引いてみると、1里は約3.9kmとのこと。3里は約11.7kmか。)それはともかく、やっぱりお父さんの稼ぎが悪いと、貧乏のスパイラルから抜け出せないのかな?(うーん…)。お父さんのいまの職業は、偽の書画の売り歩き(そりゃ駄目だよな…)。お母さんは縫いものの内職をしている。きょうだいは兄も弟も亡くなっていて――そう、弟の話は出てくるけれど、お兄さんの話がぜんぜん出てこない(「清三」だから兄は2人?)。要するに清三くんは、いまは両親の唯一の子ども。そう、性格というか、お父さんもお母さんも優しい感じで(特にお母さんが)、あぁこの親だからこの息子か、みたいなことも思う。そういえば、登場人物にぜんぜん悪人がいなかったような。特に清三のもとによく遊びにくる、郵便局勤めの荻生(おぎゅう)君は、いいキャラクターだよね(?)。
「多感な青年」というか、詩とか音楽(オルガン好き)とか芸術の才能は少しあるようだけれど、何か「これこれがしたい!」といった強い意志はないようだ、この青年には。本文中に「薄志弱行」という言葉がなかったっけ?(…ちゃんと読み直さないとわからないな)。あ、文脈はともかく「消極的」という言葉なら使われている。恋愛に関しても、親友の郁治と同じで、北川の妹・美穂子(=「Artの君」)のことが好きなのだけれど、郁治には言い出せず、こっそりと身を引いてしまう感じだし。進学に関しても、友達たちを羨ましがって、漠然と憧れているだけ…ではどうにもならないというか。強い意志がないせいか、最後に死んでしまうにしても、読んでいて“挫折譚”(挫折物語)という感じはあまりしない(そうでもないかな)。ま、意志の強さに関してはぜんぜん人のことが言えないけれど(涙)。
ちょっと話を戻して、恋愛に関しては、清三くんは意外ともてている感じで――例えば、郁治には妹が2人いて、上の雪子から好かれている感じなのだけれど、その雪子との縁談(?)の話が来ても、頭の中でどちらかといえば妹の繁子のほうが好きだ、みたいなことを言っている。ま、「少女病」なんていう小説を書いている作者だから、ロ○コンなのはしかたがない?(最後の田原秀子にしてもね…)。というか、天然自然なものが好きなのかな、この青年は。もともと散歩好きで、最後のほう、同僚の関さんの影響で関心が“植物”に向かっているし。
さらに話が前後してしまうけれど、同級生たちは、進学に関してみんなわりとのんびりしている感じ? 卒業してからどうするかを考えている人が多いような。郁治(加藤)と小畑くんは、卒業の翌春の高等師範学校を(浦和で)受験して合格している。この年の9月から東京に。桜井くんはそれに落ちたらしく、浅草の工業学校に。で、師範学校というのは、卒業の年(の春)には受けられないの?(よくわからん)。あと、その前に卒業の年に(たぶん7月入試)、「第一(高等学校)」志望だった小島くんが「第四」(いまの金沢大学)に合格している。兼六園の絵葉書、ってベタだよな(汗)。で、現在の目線で見てゆいいつ“浪人生”と呼べそうな人物は、北川(もちろん兄のほう)だけかもしれない。卒業の年に士官学校(陸軍士官学校)を受けたらしい。――引用させてもらおう。小説の最初のほう、清三と郁治が北川家を訪れた場面、
<それこれする中[うち]に、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨の出た男で、手織の綿衣[わたいれ]に絣の羽織を着ていた。話の最中[さなか]にけたまましく声を立てて笑う癖がある。石川や清三などとはちがって、文学に対しては余り興味を持っていない。学校にいた頃は、有名な運動家で、ベースボールなどに懸けては級[クラス]の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志望で、卒業するとすぐに熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じて見たが、数学と英語とで失敗した。けれど余り失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、然るべき学校に入って、充分な準備をすると言っている。>(pp.60-1、[括弧]はルビ)
中学校は3月卒業じゃないの? <卒業するとすぐに>といっても、4月の入試に間に合うわけないよね?(よくわからんです)。英語と数学の試験については、もう少し具体的に書かれている。英語では<書取>のとき1度しか読んでくれなかった(注が必要か、書取(かきとり)というのは、いまのリスニング試験と似ているといえば似ているもので、先生が教室というか試験会場の前で英語を読みあげて、それを受験生が書き取るというもの)。数学は代数(の2次方程式)の問題が、ばかに難しかったそうだ(問題を見せてもらった清三くんも納得)。お父さんが漢学者らしいので、国語は得意なのかもしれない。<然るべき学校>というのは、予備校かそれに近いところ? でも、結局――小説のだいぶあとのほう、士官学校には受からずに(何度受験したのかな?)日露戦争中、一年志願兵になっている。ちなみに下の名前は「薫」らしい。(あ、↑引用中の石川というのは、家がお金持ちというか、青縞(あおじま)商の息子で、進学はする必要がない感じ。その石川が中心となって清三たちは『行田文学』という同人誌を発行している。)
“浪人”は関係ないけれど、清三もいちおう上野の音楽学校を受験している。で、落ちている。――これも、引用しておこうか。
<その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群がぞろぞろと出て来た。羽織袴もあれば洋服もある。廂[ひさし]髪や菫[すみれ]色の袴を穿いた女学生もある。校内からはピアノの音が緩やかに聞えた。/その群の中に詰襟の背広を着て、古い麦稈帽子を冠って、一人てくてくと塀際に寄って歩いて行く男があった。靴は埃に塗れて白く、毛繻子[けじゅす]の蝙蝠傘は褪めて羊羹色になっていた。それは田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。/>(p.174、[括弧]はルビ、以下同じ)
<その年>=明治36年(=1903年)。9月なので中学を卒業してから2年半後くらい?(あ、卒業が3月であれば)。ん? 「塀(へい)」という漢字が微妙に違うかな(ま、いいか。というか、昔の小説はめんどくさいな(涙))。清三くん、背広以外は、帽子にしても靴にしても傘にしても、ふだんのまま来ちゃった感じ?(でも、スーツに麦わら帽子ってなかなかグッドです(汗))。東京まで行くと“田舎者”という感じになってしまうか。――上の続きです、
<入っただけでも心が戦えるような天井の高い室[へや]、鬚の生えた肥った立派な体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴を穿いた女が後向になって頻りに妙[たえ]な音を立てていた。清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、何の役に立たなかったことをやがて知った。一生懸命で集めた歌曲の譜も全く徒労に属したのである。かれは初歩の試験に先ず失敗した。顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿が徒らに試験官の笑を買ったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。「駄目! 駄目!」と独で言ってかれは頭を振った。/公園のロハ台は樹の影で涼しかった。風がおりおり心地よく吹いて通った。かれは心を静めるために其処に横になった。(略)>(p.175)
現在でも通じる、努力や希望が無駄になった瞬間の心理というか。「ロハ台」というのは、ベンチのこと(横書きだとわかりにくいかも、「ロハ」=「只(ただ)」で「無料」の意味)。あと、「ピアノ」と「ピヤノ」みたいな表記のずれは原文のままです。そういえば、久米正雄「受験生の手記」(1918)では「ベンチ」という言葉が使われていたと思う。――それはそれとして、現在でも通じる、たそがれるのにベストな場所は、やっぱり公園のベンチなのかな? 清三はこのあと、お茶の水に寄宿しているらしい加藤(郁治)や小畑を訪ねるのはやめて、上野動物園で動物(ライオンなど)を見て、そば屋でそばを食べて帰郷している。――もう受験の話はいいや(汗)。主人公が散歩好きというか、道をよく歩いていて、風景描写もかなり多いし、意外と全体的に“ほのぼの小説”だったような?(そうでもないか、うーん…)。そういえば、「莞爾(にこにこ)」という言葉が何度か使われていたのが、ちょっと印象に残っている。でも、“病気小説”というか“結核文学”というか、最後には、遼陽の占領達成@日露戦争で町じゅうが騒々しい(おめでたくなっている)なか、肺を病んだ清三は、静かに息を引き取っている。
あとは余談です。作者の田山花袋は、館林市(いまは群馬県)出身らしい。地元県なのに私は、館林に3回くらいしか行ったことがないと思う。でも、たまたま<川向こうの上州の赤岩付近>(p.150)には1度だけ行ったことがある(あ、私にとっては川のこちら側)。近くに古本屋さんが1軒あって、そこに行くついでというかで。利根川沿いの土手に、かつて渡し場だったことを示す記念碑みたいなものが立っていたような?(かなりうろ覚え、どこかほかの場所と間違えているかも)。その日は雨が降ったあとか何かで、利根川の水も漫々としていてちょっとよかった覚えも。ほかに上州ということでは、弥勒の小学校にまで板倉沼で獲れた鮒(ふな)を、売りに来ている人がいる(pp.137-41、節番号でいえば「二十八」)。美味しいらしいです、上州の鮒や雑魚(ざっこ)は。あと、ちょっと個人的に驚いたのは、
<[(引用者注)行田の家から羽生へ帰る]途中で日が全く暮れて、さびしい田圃道を一人てくてく歩いて来ると、ふと擦違った人が、/「赤城山[あかぎやま]なァ、山火事だんべい」/と言って通った。/振返ると、暗い闇を通して、其処[そこら]あたりと覚しき処に果して火光が鮮かに照って見えた。山火事! 赤城山の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴[しるし]であった。>(p.118)
という箇所。ときどき「あかぎさん」と言う人がいるけれど、私のなかでは「あかぎやま」が常識。それはともかく、冬の到来の目印となるくらい、毎年のように山火事が?(本当に?)。(そういえば、何で読んだか忘れてしまったけれど、「あか」や「あさ」は語源的に「火」を意味して、火山であることが多い、みたいな説があったような。いずれにしても、とりあえず火事で赤くなるから「赤~」みたいなネーミングではないと思う。)あと、本文中で「赤城おろし」という言葉が使われているけれど(最後の最後にも出てくるけれど)、私は小さいころからあまり耳にしていない。やっぱり「空っ風」という言葉のほうがなじみがある。もちろん埼玉県北東部のことは知らないし、明治30年代のことも知らないけれど。
<日露戦争に従軍して帰国した花袋(1871-1930)は、故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった。多感な青年が貧しさ故に進学できず、代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ、残された日記をもとに、関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。>(表紙カバー・表より)
「従軍」というのは、博文館の記者として。作中に原杏花(はら・きょうか)として作者(を思わせる人物)も登場している。『少年世界』に『中学世界』に、あと『女学世界』とか、ちらちらと博文館の雑誌も出てくる(作者は自分好き?)。『むさし野』とか、新体詩な『藤村詩集』などの本も出てくる(仲間褒め?)。私は文学史的な知識をほとんど持ち合わせていないけれど、人によってはそういう点でも、ちょっと歴史(?)が感じられていいかもしれない。
内容は、ひと言でいえば“小学校代用教員もの”(そのままだな)。明治34年(=1901年)、熊谷の中学校を卒業した林清三は、進学していく同級生たちと同じように進学には憧れているけれど、家(両親と3人暮らし)が貧しいのでそれは叶わず、同級生の1人で、清三と同じく行田に家がある親友・加藤郁治の父親(郡視学)のコネ(というか)で、羽生の三田ヶ谷村弥勒(みろく)の小学校に勤めることに。最初のへんでは、その小学校に初めて訪れた場面などが描かれているけれど、清三が訪ねてみると、役場にも校長にも話が通っていなくて――こんなに詳しく書いてもしようがないな(汗)。場所はだいたい埼玉県の北部というか北東部というかで、もう群馬、栃木、茨城の3県の近く。中田(なかだ)って茨城だっけ? そこに通う途中、利根川を渡っていったん群馬に入ったりもしている(栃木にもだっけ?)。あ、熊谷、行田、羽生は「市」ではなくて「町」。
「田舎教師」と言われると、その教師も田舎者という感じを受けるかもしれないけれど、林くんはそれほど田舎者というわけではなくて(東京の一部以外はみな田舎、という考えもあるかもしれないけれど)、家はもともと足利(栃木県)で呉服店をしていて(当時は裕福)、その店が傾いて7歳(8歳?)のときに埼玉県熊谷へ、そしてさらに中学2年のときに夜逃げに近い形で、行田に引っ越してきたらしい。熊谷の中学に通うのに、行田からは3里もあるらしい。あ、徒歩通学です。(国語辞典を引いてみると、1里は約3.9kmとのこと。3里は約11.7kmか。)それはともかく、やっぱりお父さんの稼ぎが悪いと、貧乏のスパイラルから抜け出せないのかな?(うーん…)。お父さんのいまの職業は、偽の書画の売り歩き(そりゃ駄目だよな…)。お母さんは縫いものの内職をしている。きょうだいは兄も弟も亡くなっていて――そう、弟の話は出てくるけれど、お兄さんの話がぜんぜん出てこない(「清三」だから兄は2人?)。要するに清三くんは、いまは両親の唯一の子ども。そう、性格というか、お父さんもお母さんも優しい感じで(特にお母さんが)、あぁこの親だからこの息子か、みたいなことも思う。そういえば、登場人物にぜんぜん悪人がいなかったような。特に清三のもとによく遊びにくる、郵便局勤めの荻生(おぎゅう)君は、いいキャラクターだよね(?)。
「多感な青年」というか、詩とか音楽(オルガン好き)とか芸術の才能は少しあるようだけれど、何か「これこれがしたい!」といった強い意志はないようだ、この青年には。本文中に「薄志弱行」という言葉がなかったっけ?(…ちゃんと読み直さないとわからないな)。あ、文脈はともかく「消極的」という言葉なら使われている。恋愛に関しても、親友の郁治と同じで、北川の妹・美穂子(=「Artの君」)のことが好きなのだけれど、郁治には言い出せず、こっそりと身を引いてしまう感じだし。進学に関しても、友達たちを羨ましがって、漠然と憧れているだけ…ではどうにもならないというか。強い意志がないせいか、最後に死んでしまうにしても、読んでいて“挫折譚”(挫折物語)という感じはあまりしない(そうでもないかな)。ま、意志の強さに関してはぜんぜん人のことが言えないけれど(涙)。
ちょっと話を戻して、恋愛に関しては、清三くんは意外ともてている感じで――例えば、郁治には妹が2人いて、上の雪子から好かれている感じなのだけれど、その雪子との縁談(?)の話が来ても、頭の中でどちらかといえば妹の繁子のほうが好きだ、みたいなことを言っている。ま、「少女病」なんていう小説を書いている作者だから、ロ○コンなのはしかたがない?(最後の田原秀子にしてもね…)。というか、天然自然なものが好きなのかな、この青年は。もともと散歩好きで、最後のほう、同僚の関さんの影響で関心が“植物”に向かっているし。
さらに話が前後してしまうけれど、同級生たちは、進学に関してみんなわりとのんびりしている感じ? 卒業してからどうするかを考えている人が多いような。郁治(加藤)と小畑くんは、卒業の翌春の高等師範学校を(浦和で)受験して合格している。この年の9月から東京に。桜井くんはそれに落ちたらしく、浅草の工業学校に。で、師範学校というのは、卒業の年(の春)には受けられないの?(よくわからん)。あと、その前に卒業の年に(たぶん7月入試)、「第一(高等学校)」志望だった小島くんが「第四」(いまの金沢大学)に合格している。兼六園の絵葉書、ってベタだよな(汗)。で、現在の目線で見てゆいいつ“浪人生”と呼べそうな人物は、北川(もちろん兄のほう)だけかもしれない。卒業の年に士官学校(陸軍士官学校)を受けたらしい。――引用させてもらおう。小説の最初のほう、清三と郁治が北川家を訪れた場面、
<それこれする中[うち]に、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨の出た男で、手織の綿衣[わたいれ]に絣の羽織を着ていた。話の最中[さなか]にけたまましく声を立てて笑う癖がある。石川や清三などとはちがって、文学に対しては余り興味を持っていない。学校にいた頃は、有名な運動家で、ベースボールなどに懸けては級[クラス]の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志望で、卒業するとすぐに熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じて見たが、数学と英語とで失敗した。けれど余り失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、然るべき学校に入って、充分な準備をすると言っている。>(pp.60-1、[括弧]はルビ)
中学校は3月卒業じゃないの? <卒業するとすぐに>といっても、4月の入試に間に合うわけないよね?(よくわからんです)。英語と数学の試験については、もう少し具体的に書かれている。英語では<書取>のとき1度しか読んでくれなかった(注が必要か、書取(かきとり)というのは、いまのリスニング試験と似ているといえば似ているもので、先生が教室というか試験会場の前で英語を読みあげて、それを受験生が書き取るというもの)。数学は代数(の2次方程式)の問題が、ばかに難しかったそうだ(問題を見せてもらった清三くんも納得)。お父さんが漢学者らしいので、国語は得意なのかもしれない。<然るべき学校>というのは、予備校かそれに近いところ? でも、結局――小説のだいぶあとのほう、士官学校には受からずに(何度受験したのかな?)日露戦争中、一年志願兵になっている。ちなみに下の名前は「薫」らしい。(あ、↑引用中の石川というのは、家がお金持ちというか、青縞(あおじま)商の息子で、進学はする必要がない感じ。その石川が中心となって清三たちは『行田文学』という同人誌を発行している。)
“浪人”は関係ないけれど、清三もいちおう上野の音楽学校を受験している。で、落ちている。――これも、引用しておこうか。
<その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群がぞろぞろと出て来た。羽織袴もあれば洋服もある。廂[ひさし]髪や菫[すみれ]色の袴を穿いた女学生もある。校内からはピアノの音が緩やかに聞えた。/その群の中に詰襟の背広を着て、古い麦稈帽子を冠って、一人てくてくと塀際に寄って歩いて行く男があった。靴は埃に塗れて白く、毛繻子[けじゅす]の蝙蝠傘は褪めて羊羹色になっていた。それは田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。/>(p.174、[括弧]はルビ、以下同じ)
<その年>=明治36年(=1903年)。9月なので中学を卒業してから2年半後くらい?(あ、卒業が3月であれば)。ん? 「塀(へい)」という漢字が微妙に違うかな(ま、いいか。というか、昔の小説はめんどくさいな(涙))。清三くん、背広以外は、帽子にしても靴にしても傘にしても、ふだんのまま来ちゃった感じ?(でも、スーツに麦わら帽子ってなかなかグッドです(汗))。東京まで行くと“田舎者”という感じになってしまうか。――上の続きです、
<入っただけでも心が戦えるような天井の高い室[へや]、鬚の生えた肥った立派な体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴を穿いた女が後向になって頻りに妙[たえ]な音を立てていた。清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、何の役に立たなかったことをやがて知った。一生懸命で集めた歌曲の譜も全く徒労に属したのである。かれは初歩の試験に先ず失敗した。顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿が徒らに試験官の笑を買ったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。「駄目! 駄目!」と独で言ってかれは頭を振った。/公園のロハ台は樹の影で涼しかった。風がおりおり心地よく吹いて通った。かれは心を静めるために其処に横になった。(略)>(p.175)
現在でも通じる、努力や希望が無駄になった瞬間の心理というか。「ロハ台」というのは、ベンチのこと(横書きだとわかりにくいかも、「ロハ」=「只(ただ)」で「無料」の意味)。あと、「ピアノ」と「ピヤノ」みたいな表記のずれは原文のままです。そういえば、久米正雄「受験生の手記」(1918)では「ベンチ」という言葉が使われていたと思う。――それはそれとして、現在でも通じる、たそがれるのにベストな場所は、やっぱり公園のベンチなのかな? 清三はこのあと、お茶の水に寄宿しているらしい加藤(郁治)や小畑を訪ねるのはやめて、上野動物園で動物(ライオンなど)を見て、そば屋でそばを食べて帰郷している。――もう受験の話はいいや(汗)。主人公が散歩好きというか、道をよく歩いていて、風景描写もかなり多いし、意外と全体的に“ほのぼの小説”だったような?(そうでもないか、うーん…)。そういえば、「莞爾(にこにこ)」という言葉が何度か使われていたのが、ちょっと印象に残っている。でも、“病気小説”というか“結核文学”というか、最後には、遼陽の占領達成@日露戦争で町じゅうが騒々しい(おめでたくなっている)なか、肺を病んだ清三は、静かに息を引き取っている。
あとは余談です。作者の田山花袋は、館林市(いまは群馬県)出身らしい。地元県なのに私は、館林に3回くらいしか行ったことがないと思う。でも、たまたま<川向こうの上州の赤岩付近>(p.150)には1度だけ行ったことがある(あ、私にとっては川のこちら側)。近くに古本屋さんが1軒あって、そこに行くついでというかで。利根川沿いの土手に、かつて渡し場だったことを示す記念碑みたいなものが立っていたような?(かなりうろ覚え、どこかほかの場所と間違えているかも)。その日は雨が降ったあとか何かで、利根川の水も漫々としていてちょっとよかった覚えも。ほかに上州ということでは、弥勒の小学校にまで板倉沼で獲れた鮒(ふな)を、売りに来ている人がいる(pp.137-41、節番号でいえば「二十八」)。美味しいらしいです、上州の鮒や雑魚(ざっこ)は。あと、ちょっと個人的に驚いたのは、
<[(引用者注)行田の家から羽生へ帰る]途中で日が全く暮れて、さびしい田圃道を一人てくてく歩いて来ると、ふと擦違った人が、/「赤城山[あかぎやま]なァ、山火事だんべい」/と言って通った。/振返ると、暗い闇を通して、其処[そこら]あたりと覚しき処に果して火光が鮮かに照って見えた。山火事! 赤城山の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴[しるし]であった。>(p.118)
という箇所。ときどき「あかぎさん」と言う人がいるけれど、私のなかでは「あかぎやま」が常識。それはともかく、冬の到来の目印となるくらい、毎年のように山火事が?(本当に?)。(そういえば、何で読んだか忘れてしまったけれど、「あか」や「あさ」は語源的に「火」を意味して、火山であることが多い、みたいな説があったような。いずれにしても、とりあえず火事で赤くなるから「赤~」みたいなネーミングではないと思う。)あと、本文中で「赤城おろし」という言葉が使われているけれど(最後の最後にも出てくるけれど)、私は小さいころからあまり耳にしていない。やっぱり「空っ風」という言葉のほうがなじみがある。もちろん埼玉県北東部のことは知らないし、明治30年代のことも知らないけれど。
若桜木虔 『青春に涙はいらない』
2010年8月5日 読書
秋元文庫、1980。正木恵子さんという女性の半生(大学1年くらいまで)が描かれた「ドキュメンタリー小説」。いまや2010年、これをどういうふうに読めばいいのやら、あれこれ悩んでいるうちに読み終わってしまった感じ(汗)。内容や、感想もちょっと書きにくいな。
主人公というか恵子さんは、昭和29年(1954年)・群馬県生まれ。小学生のときお母さんを結核で亡くし、お父さんも再婚してすぐに癌で入院、そのまま治ることなく亡くなって。新しいお母さんが家を出て行くことはなかったけれど、大黒柱を失った家庭(姉が2人に弟が1人)は、当然、生活が苦しくなる。恵子さんは明るいというか、学校などで嫌なことがあっても、すぐに忘れる楽天的な性格(というふうに描かれている)。高校生のときは下のお姉さんが高校のときにしていたアルバイトを引き継ぐ。卒業後は進学を希望して、でも現役での受験(東外大)には失敗。予備校の費用をかせぐために上京して1年間のアルバイト、翌年は新聞販売店に住み込んで働きながらの予備校通い。でも受験した東大には受かることなく、2次募集の私大に入学して、ダン研部(東大の舞踏研究会)に入り、夏の合宿などで文字通り血のにじむ練習をして、大会ではみごとに優勝。
最後(の章=第五章)は、それまでの貧乏ばなし・苦学物語から体育会系・スポ根ものに変わっている感じ? 家が貧しいゆえのほぼ義務的なアルバイトとは違って、大学の部活なら本当に嫌ならやめられるしね。でも、読んでいて最後、それまでのもやもや(?)がちょっとすっきりするかもしれない。貧乏に関しては、こういうことは較べてはいけないのかもしれないけれど、この人よりも3つ歳上なのかな、うちの母親(昭和26年生まれ)の小さいころの貧乏ばなし(私が小さいころによく聞かされた)のほうが、貧乏がひどい感じ(汗)。父親――私からいえばもう10年以上も前に亡くなった母方の祖父――があまり働かない人だったらしくて。高校は定時制で、そのときにはもう昼間ちゃんと働いていたらしい。――関係ない話はいいとして。
新聞販売店(M新聞)では最初、12人の学生(配達員)のために食事を作っているのだけれど、石油危機(1973年10月?)の影響で――考えてみれば新聞もトイレットペーパーと同じ(というか材料にもなる)紙だもんね――店が傾いて、女の子であるにもかかわらず自転車で新聞を配達することに。(雨ではなく)みぞれが降っているなかでの配達が描かれていて(涙)、泣ける人には泣けるかもしれない。予備校はS台。女子生徒はやっぱり少ない(少なかった)ようです。1クラス約300人のうち、どのクラスも女子は10人足らずとのこと。文系だけれど、東大志望――というより時代のせいかな、女子浪人生が少ないのは。あと、某有名予備校講師について書かれているので、引用しておきたい。
<恵子は人気のある講師の授業が楽しみで、特に英語の鈴木長十という講師は駿台の古だぬきで、生徒からは「長十」としたわれていた。/父子三代に渡って教えた生徒がいるというほどだから、かれこれ五十年は駿台で働いているのだろう。/>(pp.131-2)
いったん切らしてもらって。いま手もとにある情報によれば(*1)、1979年に72歳で亡くなっているらしいので、<五十年>は言いすぎかな。主人公がこの予備校に通っているのは、1954年生まれで高校卒業後2年目なので1974年? 単純計算をすれば、この講師は1974年には67歳。50年前は17歳? あ、でも、学生時代から教えていたとすれば、ぎりぎり50年“近く”にはなるか。――引用を続けると、
<「田舎で皆さん、一生懸命勉強してきたと思うが、ここは東京である。東京に来たからには、都会の洗練された英文解釈を身につけなくてはだめだ。この駿台は全国から優秀な人が集まって来ているが、田舎の人はよくわかるでしょ? 御飯を食べてゆくからには、田舎の高校教師のような教え方じゃ駄目なんですね。さあ今日も、一日も早く僕のような古だぬきとオサラバできるよう頑張って下さいよ」/と言った調子で、丸々と肥った小柄な長十は授業を始める。/毒舌をはくだけあって、彼の授業は一流のものだったが、日本の政治家や文部省に対して猛烈に攻撃し、それが生徒にバカ受けするものだから調子に乗ってしまい、授業も時々脱線した。>(p.132)
この先生をからかっている四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮社、2004→新潮文庫)を読んだあとに読むと、ちょっと心が洗われるというか。それはともかく、ご本人の“声”がどれくらい再現できているのか私にはわからないけれど、懐かしい人には懐かしいのではないかと思う。ちなみに何で知ったか忘れてしまったし、ものすごくうろ覚えなのだけれど、作者の若桜木虔(昭和22年生まれ、東大卒)も、予備校講師をしていたことがあるんだっけ? とりあえず、私には昔のジュニア小説の書き手というイメージしかない。あ、でも、私が読んだことがあるのは、わりと最近の、新書(ベスト新書?)で出ている小説の書き方本だけ(どこかに行ってしまったけれど、2冊持っていたような記憶が)。そう、読んでいるとき、やっぱり女性のことは女性作家が書いたほうがいいのではないか、とは何度か思ったけれどね(あと、この小説の場合には、東大卒ではない作家のほうがよくない? 主人公がその大学に落ちているんだもんね)。
*1 伊村元道「年表でみる英語教育50年」(『『英語教育』創刊50周年記念別冊 英語教育Fifty』大修館書店、2002、pp.97-109)のいちばん最後、「物故者一覧」(p.109)による。
~・~・~・~・~・~・~・~・~
あまり関係ないけれど、四方田犬彦(1浪→東大)がS台に通っていたのは1971年で、坪内祐三(1浪→W大、もともと東大志望)が通っていたのが1977年だから、正木さんが通っていた1974年(推定)はちょうどそのあいだになる。小説家では、1956年生まれの田中康夫(1浪→一橋)が通っていたのが、1975年? この年には奥泉光(2浪→ICU)も通っている(浪人1年目)。1974年……有名な人で誰かいないかな?(ま、いいか)。ちなみに上京組は田中康夫だけで(長野県出身)、あとの3人は地元東京(奥泉光は埼玉)。
主人公というか恵子さんは、昭和29年(1954年)・群馬県生まれ。小学生のときお母さんを結核で亡くし、お父さんも再婚してすぐに癌で入院、そのまま治ることなく亡くなって。新しいお母さんが家を出て行くことはなかったけれど、大黒柱を失った家庭(姉が2人に弟が1人)は、当然、生活が苦しくなる。恵子さんは明るいというか、学校などで嫌なことがあっても、すぐに忘れる楽天的な性格(というふうに描かれている)。高校生のときは下のお姉さんが高校のときにしていたアルバイトを引き継ぐ。卒業後は進学を希望して、でも現役での受験(東外大)には失敗。予備校の費用をかせぐために上京して1年間のアルバイト、翌年は新聞販売店に住み込んで働きながらの予備校通い。でも受験した東大には受かることなく、2次募集の私大に入学して、ダン研部(東大の舞踏研究会)に入り、夏の合宿などで文字通り血のにじむ練習をして、大会ではみごとに優勝。
最後(の章=第五章)は、それまでの貧乏ばなし・苦学物語から体育会系・スポ根ものに変わっている感じ? 家が貧しいゆえのほぼ義務的なアルバイトとは違って、大学の部活なら本当に嫌ならやめられるしね。でも、読んでいて最後、それまでのもやもや(?)がちょっとすっきりするかもしれない。貧乏に関しては、こういうことは較べてはいけないのかもしれないけれど、この人よりも3つ歳上なのかな、うちの母親(昭和26年生まれ)の小さいころの貧乏ばなし(私が小さいころによく聞かされた)のほうが、貧乏がひどい感じ(汗)。父親――私からいえばもう10年以上も前に亡くなった母方の祖父――があまり働かない人だったらしくて。高校は定時制で、そのときにはもう昼間ちゃんと働いていたらしい。――関係ない話はいいとして。
新聞販売店(M新聞)では最初、12人の学生(配達員)のために食事を作っているのだけれど、石油危機(1973年10月?)の影響で――考えてみれば新聞もトイレットペーパーと同じ(というか材料にもなる)紙だもんね――店が傾いて、女の子であるにもかかわらず自転車で新聞を配達することに。(雨ではなく)みぞれが降っているなかでの配達が描かれていて(涙)、泣ける人には泣けるかもしれない。予備校はS台。女子生徒はやっぱり少ない(少なかった)ようです。1クラス約300人のうち、どのクラスも女子は10人足らずとのこと。文系だけれど、東大志望――というより時代のせいかな、女子浪人生が少ないのは。あと、某有名予備校講師について書かれているので、引用しておきたい。
<恵子は人気のある講師の授業が楽しみで、特に英語の鈴木長十という講師は駿台の古だぬきで、生徒からは「長十」としたわれていた。/父子三代に渡って教えた生徒がいるというほどだから、かれこれ五十年は駿台で働いているのだろう。/>(pp.131-2)
いったん切らしてもらって。いま手もとにある情報によれば(*1)、1979年に72歳で亡くなっているらしいので、<五十年>は言いすぎかな。主人公がこの予備校に通っているのは、1954年生まれで高校卒業後2年目なので1974年? 単純計算をすれば、この講師は1974年には67歳。50年前は17歳? あ、でも、学生時代から教えていたとすれば、ぎりぎり50年“近く”にはなるか。――引用を続けると、
<「田舎で皆さん、一生懸命勉強してきたと思うが、ここは東京である。東京に来たからには、都会の洗練された英文解釈を身につけなくてはだめだ。この駿台は全国から優秀な人が集まって来ているが、田舎の人はよくわかるでしょ? 御飯を食べてゆくからには、田舎の高校教師のような教え方じゃ駄目なんですね。さあ今日も、一日も早く僕のような古だぬきとオサラバできるよう頑張って下さいよ」/と言った調子で、丸々と肥った小柄な長十は授業を始める。/毒舌をはくだけあって、彼の授業は一流のものだったが、日本の政治家や文部省に対して猛烈に攻撃し、それが生徒にバカ受けするものだから調子に乗ってしまい、授業も時々脱線した。>(p.132)
この先生をからかっている四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮社、2004→新潮文庫)を読んだあとに読むと、ちょっと心が洗われるというか。それはともかく、ご本人の“声”がどれくらい再現できているのか私にはわからないけれど、懐かしい人には懐かしいのではないかと思う。ちなみに何で知ったか忘れてしまったし、ものすごくうろ覚えなのだけれど、作者の若桜木虔(昭和22年生まれ、東大卒)も、予備校講師をしていたことがあるんだっけ? とりあえず、私には昔のジュニア小説の書き手というイメージしかない。あ、でも、私が読んだことがあるのは、わりと最近の、新書(ベスト新書?)で出ている小説の書き方本だけ(どこかに行ってしまったけれど、2冊持っていたような記憶が)。そう、読んでいるとき、やっぱり女性のことは女性作家が書いたほうがいいのではないか、とは何度か思ったけれどね(あと、この小説の場合には、東大卒ではない作家のほうがよくない? 主人公がその大学に落ちているんだもんね)。
*1 伊村元道「年表でみる英語教育50年」(『『英語教育』創刊50周年記念別冊 英語教育Fifty』大修館書店、2002、pp.97-109)のいちばん最後、「物故者一覧」(p.109)による。
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あまり関係ないけれど、四方田犬彦(1浪→東大)がS台に通っていたのは1971年で、坪内祐三(1浪→W大、もともと東大志望)が通っていたのが1977年だから、正木さんが通っていた1974年(推定)はちょうどそのあいだになる。小説家では、1956年生まれの田中康夫(1浪→一橋)が通っていたのが、1975年? この年には奥泉光(2浪→ICU)も通っている(浪人1年目)。1974年……有名な人で誰かいないかな?(ま、いいか)。ちなみに上京組は田中康夫だけで(長野県出身)、あとの3人は地元東京(奥泉光は埼玉)。
山下洋 『女子高校生』
2010年8月5日 読書
三一新書、1963。いま手もとにあるのは、図書館本。読む本として書名がメモに入っていたのだけれど(たぶんネットで知ったもの)、間違って借りてきてしまった感じ。頑張って4割くらいは読んだのだけれど、もうけっこうです(涙)。著者は高校の先生で、とりあえず“高校生群像小説”みたいな感じ。あ、高校生といっても3年生が中心か。なんていうか、高校生向けの本なのか、教師向けの(広い意味での)教育書なのか、私にはよくわからない。でも、どちらかといえば後者かな。文章はしっかりしているし、会話に関西弁(ちょっと昔の滋賀弁?)が使われていたり、けっこう読めることは読める。
舞台となっている学校というか、登場人物たちが通っている高校は、S県立のS北高校。もともと1つの高校だったS南高校とは違って進学校ではない。書名に反して最初に登場してくるのは、男子な番村麟太郎(新聞部の部長)。話は春休みから始まっていて、作中年は1961年らしい(前年には安保闘争などが)。新聞部にしても職員会議にしても自由な議論ができて、風通しがいい学校なようだ。そう、どうでもいいことだけれど、ちょっとだけ気になったことが。麟太郎くんのお父さんは日中戦争で亡くなった、とのことだけれど、計算は合っているのかな? 1961年に18歳になる高校3年生なら、1943年か1944年生まれ。日中戦争っていつ終わったんだっけ? 第2次世界大戦と同じ?(よくわからない)。えーと、十月十日(とつきとおか)だっけ? …めんどくさいからもういいや(涙)。
直接は登場していないけれど、里岡さち(新聞部で生徒会にも所属。学校では家庭科だけれど、勉強が好きになって進学を考えている感じ)の“また従兄”の城丸正行が、2浪目が決まった東大浪人生らしい。進学校のS南高校卒。お父さんは亡くなっていて、いまは母親と2人暮らし。東京に東大助教授をしているお兄さんが1人いるらしい。さちとの会話で、東大志望の理由も語られている。予備校に通っているかどうかは不明。
舞台となっている学校というか、登場人物たちが通っている高校は、S県立のS北高校。もともと1つの高校だったS南高校とは違って進学校ではない。書名に反して最初に登場してくるのは、男子な番村麟太郎(新聞部の部長)。話は春休みから始まっていて、作中年は1961年らしい(前年には安保闘争などが)。新聞部にしても職員会議にしても自由な議論ができて、風通しがいい学校なようだ。そう、どうでもいいことだけれど、ちょっとだけ気になったことが。麟太郎くんのお父さんは日中戦争で亡くなった、とのことだけれど、計算は合っているのかな? 1961年に18歳になる高校3年生なら、1943年か1944年生まれ。日中戦争っていつ終わったんだっけ? 第2次世界大戦と同じ?(よくわからない)。えーと、十月十日(とつきとおか)だっけ? …めんどくさいからもういいや(涙)。
直接は登場していないけれど、里岡さち(新聞部で生徒会にも所属。学校では家庭科だけれど、勉強が好きになって進学を考えている感じ)の“また従兄”の城丸正行が、2浪目が決まった東大浪人生らしい。進学校のS南高校卒。お父さんは亡くなっていて、いまは母親と2人暮らし。東京に東大助教授をしているお兄さんが1人いるらしい。さちとの会話で、東大志望の理由も語られている。予備校に通っているかどうかは不明。
丸山英人 「デコは口ほどにものを言う」
2010年7月20日 読書
短篇集『隙間女(幅広)』(電撃文庫、2010)の「第参話」(全5話)。※以下ネタバレ注意です、毎度すみません。
主人公というか語り手は、高校時代に入り浸っていてツケもたまっている、遠縁にあたるおじさん(奥さんが実家に家出中)が経営する喫茶店で、目下、アルバイトをしている(させられている)浪人中の「僕」(=幸太郎、苗字は黒田)。その喫茶店の近くには海水浴場があって、お盆までは1年でいちばん込むらしく、おじさんはもう1人、アルバイトとして雇うことに。そこで登場してくるのが、小石原春(こいしはら・はる)という高校生。「僕」の妹の小学校時代の同級生(ということも早めに判明)で、お互いにいちおう顔見知り。で、なぜか前髪を長く降ろしているその小石原さん=ハルちゃんにはある秘密が……、みたいな話。
ネタバレしてしまうけれど(タイトルがすでにネタバレぎみだけれど)、おデコの口がものを言う、みたいな。言い方を少し気をつけないと、妖怪差別発言(?)になりかねないけれど、個人的にはいまいち萌えない設定というか。人数的にも、ライトノベルって女の子がたくさん出てくるようなイメージがあるけれど、1人とあと口だけ、ってどうよ?(ま、短篇だからしようがないか)。いや、個人的にはどちらかといえば少人数小説のほうが好きだけれど。あと、ライトノベルって(「ライト」なわりに?)文章の密度がけっこう濃いイメージがあるけれど、この小説はけっこう薄め…かな。そういえば、<夏を制する者が、受験を制する>(p.195)という言葉は、なんだか久しぶりに聞いたような。ちょっとノスタルジックな気分。小説を読んでいてもけっこう出てくる文句だけれど。
主人公というか語り手は、高校時代に入り浸っていてツケもたまっている、遠縁にあたるおじさん(奥さんが実家に家出中)が経営する喫茶店で、目下、アルバイトをしている(させられている)浪人中の「僕」(=幸太郎、苗字は黒田)。その喫茶店の近くには海水浴場があって、お盆までは1年でいちばん込むらしく、おじさんはもう1人、アルバイトとして雇うことに。そこで登場してくるのが、小石原春(こいしはら・はる)という高校生。「僕」の妹の小学校時代の同級生(ということも早めに判明)で、お互いにいちおう顔見知り。で、なぜか前髪を長く降ろしているその小石原さん=ハルちゃんにはある秘密が……、みたいな話。
ネタバレしてしまうけれど(タイトルがすでにネタバレぎみだけれど)、おデコの口がものを言う、みたいな。言い方を少し気をつけないと、妖怪差別発言(?)になりかねないけれど、個人的にはいまいち萌えない設定というか。人数的にも、ライトノベルって女の子がたくさん出てくるようなイメージがあるけれど、1人とあと口だけ、ってどうよ?(ま、短篇だからしようがないか)。いや、個人的にはどちらかといえば少人数小説のほうが好きだけれど。あと、ライトノベルって(「ライト」なわりに?)文章の密度がけっこう濃いイメージがあるけれど、この小説はけっこう薄め…かな。そういえば、<夏を制する者が、受験を制する>(p.195)という言葉は、なんだか久しぶりに聞いたような。ちょっとノスタルジックな気分。小説を読んでいてもけっこう出てくる文句だけれど。
連作といえば連作かな(たぶん場所が共通)、短篇集『四雁川流景』(文藝春秋、2010)に収録されている一篇(7篇中の5篇目)。ひと言でいえば“お墓小説”?(違うか)。感想はといえば、どこが面白いのやらさっぱりわからず(誰か読み方を教えて欲しい)。
舞台は四雁(しかり)川が流れるどこかの地方の県。予備校の友人(=幸介)が山(風穴)に行くと言って、そのままゆくえ知れずに。ちょっとミステリー風な? 彼が置き忘れていった本(観光ガイドブック)に書き込まれていた場所は、チタンダエル…じゃなくて、「タワードエル」の13階(最上階)の一室。そこは整体院で、主人公(というか視点人物)の雄作が訪ねて行くと、白衣を着た老婆と1匹の老兎が出てくる。――その建物は、古くは古墳があり、戦争中、誤爆によって開いた穴にはたくさんの遺体が埋葬されたという土地の上に、10年くらい前に建てられたチョコレート色のマンション。文房具屋の老主人いわく、<あれは巨大な墓だ、コンクリートの塔婆なんだ>(p.124)。で、そもそも思うに「(卒)塔婆」という言葉は、別にお婆さんには関係がないよね? 「塔に婆(ばあ)」――漢字依存的な笑えないだじゃれだよ(とほほ)。“母-息子小説”としても、どうなのかな? よくわからないけれど、微妙といえば微妙かもしれない。
帯に<芥川賞作家がおくる>みたいな言葉があるけれど、なんていうか“純文学”系の小説がこんなにベタでいいの?(というか、私の読み方が浅いだけなのかな)。場所が地方であるにしても、携帯電話(「Cメール」って何?)がある世界なのに、全体的になんだか「いつの時代の話だよ?」みたいな感じもするし。ずっと1視線小説(1元小説)で、その視点を担っている雄作くんの、数年前に癌で亡くなったお父さんが美術教師とのことだけれど、お父さんの血を受け継げなかったのか、風景描写もなんだか安っぽいというか、詩ごころが足りていない感じだし。
まだ秋なのに、<センター試験が近づいた今>(p.118)。作者は、国民的行事(?)センター試験が毎年いつ頃に行なわれているのか、知らんのか?(うーん…)。雄作は、近所の八百屋にパートに出ているお母さんと2人暮しっぽい。経済的に大学進学は問題ないのかな?(余計なお世話か)。自分の部屋からは“塔”が見える。志望大学・学部は不明。行方が不明な幸介くんのほうは、獣医学部志望で、両親は健在のようだ。お父さんは医者らしい(獣医?)。「隣町」「隣町」と言っているけれど、雄作の家と件のマンションが同じ町にあって、その隣町に幸介の家と予備校があるの?(ちゃんと読み直さないとわからないな)。
ちなみに作者は1956年、福島県生まれ。別の資料(本)によれば、浪人はしているっぽい。高校卒業後、上京。予備校を経て慶応義塾大学に入学とのこと。(あ、関係ないけれど、「千反田える」というのは、米澤穂信の小説の登場人物。)
[追記]収録本はその後、文庫化される(文春文庫、2013.3)。
舞台は四雁(しかり)川が流れるどこかの地方の県。予備校の友人(=幸介)が山(風穴)に行くと言って、そのままゆくえ知れずに。ちょっとミステリー風な? 彼が置き忘れていった本(観光ガイドブック)に書き込まれていた場所は、チタンダエル…じゃなくて、「タワードエル」の13階(最上階)の一室。そこは整体院で、主人公(というか視点人物)の雄作が訪ねて行くと、白衣を着た老婆と1匹の老兎が出てくる。――その建物は、古くは古墳があり、戦争中、誤爆によって開いた穴にはたくさんの遺体が埋葬されたという土地の上に、10年くらい前に建てられたチョコレート色のマンション。文房具屋の老主人いわく、<あれは巨大な墓だ、コンクリートの塔婆なんだ>(p.124)。で、そもそも思うに「(卒)塔婆」という言葉は、別にお婆さんには関係がないよね? 「塔に婆(ばあ)」――漢字依存的な笑えないだじゃれだよ(とほほ)。“母-息子小説”としても、どうなのかな? よくわからないけれど、微妙といえば微妙かもしれない。
帯に<芥川賞作家がおくる>みたいな言葉があるけれど、なんていうか“純文学”系の小説がこんなにベタでいいの?(というか、私の読み方が浅いだけなのかな)。場所が地方であるにしても、携帯電話(「Cメール」って何?)がある世界なのに、全体的になんだか「いつの時代の話だよ?」みたいな感じもするし。ずっと1視線小説(1元小説)で、その視点を担っている雄作くんの、数年前に癌で亡くなったお父さんが美術教師とのことだけれど、お父さんの血を受け継げなかったのか、風景描写もなんだか安っぽいというか、詩ごころが足りていない感じだし。
まだ秋なのに、<センター試験が近づいた今>(p.118)。作者は、国民的行事(?)センター試験が毎年いつ頃に行なわれているのか、知らんのか?(うーん…)。雄作は、近所の八百屋にパートに出ているお母さんと2人暮しっぽい。経済的に大学進学は問題ないのかな?(余計なお世話か)。自分の部屋からは“塔”が見える。志望大学・学部は不明。行方が不明な幸介くんのほうは、獣医学部志望で、両親は健在のようだ。お父さんは医者らしい(獣医?)。「隣町」「隣町」と言っているけれど、雄作の家と件のマンションが同じ町にあって、その隣町に幸介の家と予備校があるの?(ちゃんと読み直さないとわからないな)。
ちなみに作者は1956年、福島県生まれ。別の資料(本)によれば、浪人はしているっぽい。高校卒業後、上京。予備校を経て慶応義塾大学に入学とのこと。(あ、関係ないけれど、「千反田える」というのは、米澤穂信の小説の登場人物。)
[追記]収録本はその後、文庫化される(文春文庫、2013.3)。
飯田雪子 『桜の下で、もういちど』
2010年6月24日 読書
ハルキ文庫、2010。※今回も以下ネタバレ注意です。作者の出身大学が同じだし(それは関係ないか)遠距離恋愛がテーマの1つだろうし、舞台が前半地方で後半東京だし、意外と乾くるみ『イニシエーション・ラブ』と似ているかな。雰囲気や、恋愛の扱われ方はぜんぜん違うけれど。
内容というかは、受験的にも恋愛的にも咲奈(「さくな」ではなく「えみな」、苗字は佐藤)の頭上に文字通りな意味でも、文字通りでない意味でも“桜”が咲くまでの春夏秋冬2回り+3度目の春が描かれている小説。彼女には高校の元同級生で、ひと足先に東京の大学生になっている彼氏の陽太(苗字は…ちゃんと読み直さないとわからないな)がいて、要するにいわゆる遠恋(えんれん)状態に。最初、予備校の入学式の日から始まっていて、学校の教室ではそうそうに若林春子、佐藤賢吾、吉崎亨という3人の「同志」(「戦友」)ができている。登場人物としてはほかに、家にはカナ(漢字は「愛」)という現役受験生の妹がいたりする。全体的な雰囲気はテンション低めというか、地味で真面目な感じというか。で、正直に言って、読んでいてどこが面白いのやらぜんぜんわからず(※あくまで個人の意見です)。主人公の性格や考え方に共感ができないこともちょくちょくあって。ただ、でも登場人物の設定や物語の構成はけっこういいな、とは思ったです。そもそも主人公が(前半では)女子予備校生で、しかも舞台が地方というだけで、個人的には好感が持ててしまう。ま、それはともかくとして。
差が意味を持つ、価値は差である、というのは文化人類学ではなくてソシュールな構造主義だっけ? 落差は運動(ストーリーの進行)も促すというか、下だる場合は特に一段一段足を運ばなければいけない階段――なんていうか、別にどうでもいいことだけれど、「差が1」というのがキーワードっぽいかな、この小説。「1」というのは、見方によっては「わずか」という意味にもなる。で、この小説において浪人生がどう描かれているのかといえば、1つには、
大学生が“持つ者”であるのに対して、予備校生(浪人生)は“持たざる者”
という感じかもしれない。「大学生」「予備校生(浪人生)」はそれぞれ「東京の大学生」「地方の予備校生(浪人生)」とほとんど同義。でも、具体的に何をか、といえば、大学生はお化粧できたり服装でおしゃれできたりするけれど、浪人生にはできない(する必要がない)みたいな。自分が服装にぜんぜん気を使わない人間だからか、どうでもいいことのように思えるし、少なくとも物理的には(物質的には)両者の差は、だから“わずか”だ(そうでもない?)。浪人生は“持たざる者”――その傍証というか、前半の浪人生編では(後半の大学生編に比べて)主人公はあまり人に物をあげていなかったと思う。つまり“持っていない”からあげられない。妹に参考書を貸す場面でさえ、勝手に持って行かれる感じで描かれている。どうでもいいけれど、差があまりないということは(全体的に地味な印象を与えるだけでなく)いわゆるキャラ立ちが悪いということにも繋がるかもしれない。賢吾と亨の2人の浪人生がいて、賢吾が春子のことを好きであるにしても(それを主人公が知っているにしても)主人公=咲奈が亨のこと(亨のほう)を好きになる理由が、私にはよくわからない。賢吾と亨の違いは一応、描かれてはいるけれど。
うーん…、やっぱり「つまらない」とだけ言ってしまうには、ちょっと惜しい小説という気がする。上にも書いたけれど、とりあえずあれこれ設定は面白いと思う。友人の春子の置かれている状況(古風なのか今風なのか私にはわからないけれど)とか、本人が大学生になれても「戦友」の1人が戦地から帰還できていない(?)こととか、上京してマンション(アパートだっけ)の隣の部屋には(万年浪人生とか万年留年生とかではなくて)失恋常習者の先輩(志乃)がいたりする点とか。
内容というかは、受験的にも恋愛的にも咲奈(「さくな」ではなく「えみな」、苗字は佐藤)の頭上に文字通りな意味でも、文字通りでない意味でも“桜”が咲くまでの春夏秋冬2回り+3度目の春が描かれている小説。彼女には高校の元同級生で、ひと足先に東京の大学生になっている彼氏の陽太(苗字は…ちゃんと読み直さないとわからないな)がいて、要するにいわゆる遠恋(えんれん)状態に。最初、予備校の入学式の日から始まっていて、学校の教室ではそうそうに若林春子、佐藤賢吾、吉崎亨という3人の「同志」(「戦友」)ができている。登場人物としてはほかに、家にはカナ(漢字は「愛」)という現役受験生の妹がいたりする。全体的な雰囲気はテンション低めというか、地味で真面目な感じというか。で、正直に言って、読んでいてどこが面白いのやらぜんぜんわからず(※あくまで個人の意見です)。主人公の性格や考え方に共感ができないこともちょくちょくあって。ただ、でも登場人物の設定や物語の構成はけっこういいな、とは思ったです。そもそも主人公が(前半では)女子予備校生で、しかも舞台が地方というだけで、個人的には好感が持ててしまう。ま、それはともかくとして。
差が意味を持つ、価値は差である、というのは文化人類学ではなくてソシュールな構造主義だっけ? 落差は運動(ストーリーの進行)も促すというか、下だる場合は特に一段一段足を運ばなければいけない階段――なんていうか、別にどうでもいいことだけれど、「差が1」というのがキーワードっぽいかな、この小説。「1」というのは、見方によっては「わずか」という意味にもなる。で、この小説において浪人生がどう描かれているのかといえば、1つには、
大学生が“持つ者”であるのに対して、予備校生(浪人生)は“持たざる者”
という感じかもしれない。「大学生」「予備校生(浪人生)」はそれぞれ「東京の大学生」「地方の予備校生(浪人生)」とほとんど同義。でも、具体的に何をか、といえば、大学生はお化粧できたり服装でおしゃれできたりするけれど、浪人生にはできない(する必要がない)みたいな。自分が服装にぜんぜん気を使わない人間だからか、どうでもいいことのように思えるし、少なくとも物理的には(物質的には)両者の差は、だから“わずか”だ(そうでもない?)。浪人生は“持たざる者”――その傍証というか、前半の浪人生編では(後半の大学生編に比べて)主人公はあまり人に物をあげていなかったと思う。つまり“持っていない”からあげられない。妹に参考書を貸す場面でさえ、勝手に持って行かれる感じで描かれている。どうでもいいけれど、差があまりないということは(全体的に地味な印象を与えるだけでなく)いわゆるキャラ立ちが悪いということにも繋がるかもしれない。賢吾と亨の2人の浪人生がいて、賢吾が春子のことを好きであるにしても(それを主人公が知っているにしても)主人公=咲奈が亨のこと(亨のほう)を好きになる理由が、私にはよくわからない。賢吾と亨の違いは一応、描かれてはいるけれど。
うーん…、やっぱり「つまらない」とだけ言ってしまうには、ちょっと惜しい小説という気がする。上にも書いたけれど、とりあえずあれこれ設定は面白いと思う。友人の春子の置かれている状況(古風なのか今風なのか私にはわからないけれど)とか、本人が大学生になれても「戦友」の1人が戦地から帰還できていない(?)こととか、上京してマンション(アパートだっけ)の隣の部屋には(万年浪人生とか万年留年生とかではなくて)失恋常習者の先輩(志乃)がいたりする点とか。
葉月九ロウ 『ラブひな 混浴厳禁』
2010年6月24日 読書天樹征丸 『電脳山荘殺人事件 金田一少年の事件簿3』
2010年6月23日 読書
マガジン・ノベルス、1996/講談社文庫、2000。※以下、ネタバレ注意です。
<パソコン通信で知り合った互いの本名も素性も知らぬ七人の男女。人里離れた山荘で、彼らが初めて顔を合わせた夜、恐るべき殺意の罠が始動した。皆殺しを目論む犯人の意外な動機とは? 名探偵・金田一一が看破した映像化不可能の殺人トリックとは? 大人気コミックの原作者が放つ完全オリジナル推理小説!>(文庫カバーより)
期待せずに読んだせいか、意外と面白かったです。でも、かなりベタな推理小説(ミステリ)という感じ。それはともかく(ネタバレしてしまうけれど)小説的に、匿名性の高いパソコン通信(今ならインターネット)と「浪人生」との相性は、意外といいのかな?(うーん…)。この小説の場合、7人が全員ともけっこう若い(10代後半から20代前半)から、浪人生が出てくるのかな? 探偵役が「ジッチャンの名にかけて」な高校生・一(はじめ)ちゃんだし。でも、もし私が大学受験浪人の身で、何かほかの身分を騙るとしたら、大学生(早大生でも東大生でも)ではなくて、もっと別なぜんぜん関係ないものにすると思う。ふつうそうじゃない?(そんなこともないか)。浪人生(2浪)に大学生(早大生)と偽らせる、というのも、考えてみればベタ(な発想)かもしれない。そういえばもう年が明けているんだっけ、この浪人生も、オフ会に参加するよりも勉強しようよ…。ま、もう死んでしまったから何を言ってもしかたがないけれど。
<パソコン通信で知り合った互いの本名も素性も知らぬ七人の男女。人里離れた山荘で、彼らが初めて顔を合わせた夜、恐るべき殺意の罠が始動した。皆殺しを目論む犯人の意外な動機とは? 名探偵・金田一一が看破した映像化不可能の殺人トリックとは? 大人気コミックの原作者が放つ完全オリジナル推理小説!>(文庫カバーより)
期待せずに読んだせいか、意外と面白かったです。でも、かなりベタな推理小説(ミステリ)という感じ。それはともかく(ネタバレしてしまうけれど)小説的に、匿名性の高いパソコン通信(今ならインターネット)と「浪人生」との相性は、意外といいのかな?(うーん…)。この小説の場合、7人が全員ともけっこう若い(10代後半から20代前半)から、浪人生が出てくるのかな? 探偵役が「ジッチャンの名にかけて」な高校生・一(はじめ)ちゃんだし。でも、もし私が大学受験浪人の身で、何かほかの身分を騙るとしたら、大学生(早大生でも東大生でも)ではなくて、もっと別なぜんぜん関係ないものにすると思う。ふつうそうじゃない?(そんなこともないか)。浪人生(2浪)に大学生(早大生)と偽らせる、というのも、考えてみればベタ(な発想)かもしれない。そういえばもう年が明けているんだっけ、この浪人生も、オフ会に参加するよりも勉強しようよ…。ま、もう死んでしまったから何を言ってもしかたがないけれど。
折原一 『叔父殺人事件 グッドバイ』
2010年6月23日 読書斎藤栄 『真夜中の意匠』
2010年6月22日 読書
手もとにあるのは徳間文庫版(1998年)、初出=書き下ろしの単行本は1967年に講談社から出ているようだ(画像は集英社文庫版)。読んでいてちょっとすかすか感(すーすー感)もあったけれど、ぜんぜん期待せずに読んでいたせいか、それほど嫌に感じる小説ではなかったです。
<岡弘が絞殺された。発見者は弘の継母、久子。父、一夫はがんセンターに入院中で余命幾ばくも無い。ちょうど岡家代々の土地が、ニュータウン計画に莫大な金額で回収されることが決まった時であり、遺産相続がらみの殺人との観点で捜査が始まった。もっとも有力な容疑者は弘の叔父の京一郎だが、彼には鉄壁のアリバイがある……。幾重にも連なるアリバイの巧妙さで、推理小説界に反響を巻き起こした、傑作長篇!>(カバー裏より)
「京一郎」は「京二郎」の間違い(「伯父」ではなく「叔父」だしね)。大部分が警察サイド目線の小説で(田所部長刑事、本部から来た桜林警部)、その叔父さんが主張するアリバイが1つ嘘であるとわかると、また別のアリバイが主張されて調べて…、みたいな構造になっている。冒頭のへん、散歩中に首輪を外してもらった犬(チェリー)が、スピード違反の自動車に轢かれている。――個人的な話、最近やけに犬が亡くなったり(亡くならないまでも)犠牲になったりする小説を読んでいるような…。あと、岡家があるのは、横浜市(港北区勝田町)。警察発表では無職の若者とかだっけ、弘くんは大学受験失敗後、自室をアトリエにして絵を描いていたらしい。
<「型にはまった大学の勉強より、アメリカ大陸で自由に絵を書く方が、おれの性に合っている!」>(p.17)
お父さんはもちろん反対。大学進学をやめて芸術家に、というのは(少なくとも)小説では1つのパターンだと思う。東大志望や医学部志望をやめて美大志望に、みたいなケースも多い。ま、いずれにせよ、亡くなってしまえば意味がないよね(?)。そう、どうでもいいけれど、「親不孝通り」(p.232)というのは、東京にもあるの? 知らなかったです(たくさん飲み屋があるようなところ?)。
<岡弘が絞殺された。発見者は弘の継母、久子。父、一夫はがんセンターに入院中で余命幾ばくも無い。ちょうど岡家代々の土地が、ニュータウン計画に莫大な金額で回収されることが決まった時であり、遺産相続がらみの殺人との観点で捜査が始まった。もっとも有力な容疑者は弘の叔父の京一郎だが、彼には鉄壁のアリバイがある……。幾重にも連なるアリバイの巧妙さで、推理小説界に反響を巻き起こした、傑作長篇!>(カバー裏より)
「京一郎」は「京二郎」の間違い(「伯父」ではなく「叔父」だしね)。大部分が警察サイド目線の小説で(田所部長刑事、本部から来た桜林警部)、その叔父さんが主張するアリバイが1つ嘘であるとわかると、また別のアリバイが主張されて調べて…、みたいな構造になっている。冒頭のへん、散歩中に首輪を外してもらった犬(チェリー)が、スピード違反の自動車に轢かれている。――個人的な話、最近やけに犬が亡くなったり(亡くならないまでも)犠牲になったりする小説を読んでいるような…。あと、岡家があるのは、横浜市(港北区勝田町)。警察発表では無職の若者とかだっけ、弘くんは大学受験失敗後、自室をアトリエにして絵を描いていたらしい。
<「型にはまった大学の勉強より、アメリカ大陸で自由に絵を書く方が、おれの性に合っている!」>(p.17)
お父さんはもちろん反対。大学進学をやめて芸術家に、というのは(少なくとも)小説では1つのパターンだと思う。東大志望や医学部志望をやめて美大志望に、みたいなケースも多い。ま、いずれにせよ、亡くなってしまえば意味がないよね(?)。そう、どうでもいいけれど、「親不孝通り」(p.232)というのは、東京にもあるの? 知らなかったです(たくさん飲み屋があるようなところ?)。
遠藤周作 『あべこべ人間』
2010年6月22日 読書
集英社、1982/集英社文庫、1985。いま読むと(当時読んでも?)ちょっと時代(古さ)も感じるけれど、けっこう面白かったです。※以下、ネタバレ注意です。
<予備校生の岡本茂は、実業家の金山から新しいタイプのモデルになるよう、勧められていた。「現代の美は、男でも女でもないミックス・セックスから生れる。君こそぴったりだ…」と。そして、秘かに開発された新ホルモン剤を注射、一夜にして美しい女性へと性転換するが……。現代人の心に潜む変身願望を背景に、若い男女の愛を軽快に描くユーモア長篇。/解説・佐藤愛子>(文庫カバーより)
平戸からフェリーボートで高校に通う春江(苗字は松浦)。友人たちには内緒で、そのフェリーで乗り合わせる高校生(別の高校、同学年)・岡本茂のことを密かに想っている。でも、バレンタインデーでの作戦もうまくいかない。高校を卒業したあとは、地元の信用金庫に就職して働き始め、一方、噂では大学受験(慶応)に失敗した茂は、東京で予備校に通っているという。茂のことが忘れられない春江は、東京にいる従姉(スズ子姉ちゃん)の出産の手伝いをきっかけに上京、そのさい茂の通う予備校(「原宿予備校」)を訪ねてみるけれど、最近姿を見せていないと言われ、でも、アパートの住所は聞き出せて(新宿御苑の近く)訪ねてみるけれど――要するになんだかんだで会えるのだけれど、茂は「リノ」という名前で新宿のゲイバーで働いていたり、高野というニューヨーク帰りの美容師(男性)と付き合っていたり。で、春江も東京に留まる決意をして、女性評論家の兵頭先生(兵頭啓子)の家のお手伝いさんを始めて……。ひと言でいえば、純朴な田舎娘(?)春江の一途な愛の結末は……? みたいな小説(違うか)。あ、視点人物になっているのは春江だけではなくて、茂目線の箇所もあるし、性転換を促すホルモン剤を入手する(金山広一郎の秘書・)杉田を視点としている箇所もある。
もう1980年代に入っているけれど、やっぱり時代的にいまよりも(インターネットも携帯電話もないし)地方と東京との距離が大きい感じ? 性的、性別的には、なんていうか、女性目線の小説を多く書いている(男性作家の)遠藤周作、こういう小説を書いていても、ぜんぜん不自然ではないかもしれない。えーと、「ミドルセックス」なら「中性」か、「ミックス~」だもんね(?)、そういえば、ここ最近はあまり聞かない気がするけれど、「ユニセックス」という言葉もなかったっけ?(日本語でいえば何? 「合性」ではないな…、わからない)。それはともかく、以前にも書いたような気がするけれど、遠藤周作の小説に出てくる浪人生は、一度でもまともに大学に合格したことがあるのだろうか?(うーん…)。あ、遠藤作品の浪人生は、大学受験に失敗→大学受験をやめる、みたいなパターンが多い気がするけれど、この小説では(浪人生として)受験する前にドロップアウトしている。ドロップアウトというか、ありがちだけれど、それ以前に大学や予備校に通うことを口実に(性別的にも)自由な東京へ出たかっただけ、だったというか。
<予備校生の岡本茂は、実業家の金山から新しいタイプのモデルになるよう、勧められていた。「現代の美は、男でも女でもないミックス・セックスから生れる。君こそぴったりだ…」と。そして、秘かに開発された新ホルモン剤を注射、一夜にして美しい女性へと性転換するが……。現代人の心に潜む変身願望を背景に、若い男女の愛を軽快に描くユーモア長篇。/解説・佐藤愛子>(文庫カバーより)
平戸からフェリーボートで高校に通う春江(苗字は松浦)。友人たちには内緒で、そのフェリーで乗り合わせる高校生(別の高校、同学年)・岡本茂のことを密かに想っている。でも、バレンタインデーでの作戦もうまくいかない。高校を卒業したあとは、地元の信用金庫に就職して働き始め、一方、噂では大学受験(慶応)に失敗した茂は、東京で予備校に通っているという。茂のことが忘れられない春江は、東京にいる従姉(スズ子姉ちゃん)の出産の手伝いをきっかけに上京、そのさい茂の通う予備校(「原宿予備校」)を訪ねてみるけれど、最近姿を見せていないと言われ、でも、アパートの住所は聞き出せて(新宿御苑の近く)訪ねてみるけれど――要するになんだかんだで会えるのだけれど、茂は「リノ」という名前で新宿のゲイバーで働いていたり、高野というニューヨーク帰りの美容師(男性)と付き合っていたり。で、春江も東京に留まる決意をして、女性評論家の兵頭先生(兵頭啓子)の家のお手伝いさんを始めて……。ひと言でいえば、純朴な田舎娘(?)春江の一途な愛の結末は……? みたいな小説(違うか)。あ、視点人物になっているのは春江だけではなくて、茂目線の箇所もあるし、性転換を促すホルモン剤を入手する(金山広一郎の秘書・)杉田を視点としている箇所もある。
もう1980年代に入っているけれど、やっぱり時代的にいまよりも(インターネットも携帯電話もないし)地方と東京との距離が大きい感じ? 性的、性別的には、なんていうか、女性目線の小説を多く書いている(男性作家の)遠藤周作、こういう小説を書いていても、ぜんぜん不自然ではないかもしれない。えーと、「ミドルセックス」なら「中性」か、「ミックス~」だもんね(?)、そういえば、ここ最近はあまり聞かない気がするけれど、「ユニセックス」という言葉もなかったっけ?(日本語でいえば何? 「合性」ではないな…、わからない)。それはともかく、以前にも書いたような気がするけれど、遠藤周作の小説に出てくる浪人生は、一度でもまともに大学に合格したことがあるのだろうか?(うーん…)。あ、遠藤作品の浪人生は、大学受験に失敗→大学受験をやめる、みたいなパターンが多い気がするけれど、この小説では(浪人生として)受験する前にドロップアウトしている。ドロップアウトというか、ありがちだけれど、それ以前に大学や予備校に通うことを口実に(性別的にも)自由な東京へ出たかっただけ、だったというか。
安岡章太郎 「聊斎私異」
2010年6月21日 読書
いま手もとにあるのは、講談社文芸文庫『走れトマホーク』(1988、最近買ったばかり2010年5月に復刊されたもの)。9篇中の8篇目。初出は(別の本で調べたところ)『文學界』1970年新年号らしい。私は読んでいないけれど、『私説聊斎志異』(朝日新聞社、1975)というロングバージョンもあるようだ。中国の怪異譚の古典『聊斎志異』の作者・蒲松齢(ほ・しょうれい)は、老齢になっても科挙の試験を受け続けていたらしい。万年落第生。――久しぶりに小説(あまり小説っぽくないエッセイ風なものだけれど)を読んで、ちょっと感動してしまう。「感動」というか、身につまされたというか、ちょっと慰められたように感じたというか、…うまく言えないけれど。でも(?)個人的な話をすれば、“浪人生が出てくる小説”を探し出して読む、というアホな作業を始めて今年で4年目。いま30歳代半ばのおっさん、惰性で続けてはいるものの、もういいかげん限界です(涙)。今年いっぱいでやめたいと思う。
一般に小説に出てくる“万年浪人生”は、もののけ(?)になってしまうよりも、特にミステリ(推理小説)などでは、自滅して、死んでしまうことが多いかな。死なないと浪人生活にピリオドが打てないから? 延江浩「レント・ア・キッス(Rent A Kiss)」(『アタシはジュース』所収)みたいなものは例外かもしれない。2,3読んだことはあるけれど、元多浪生の幽霊というのも、意外と小説には出てこないような?(あ、でも、あまり見かけないのは、私がほとんど非日常系の小説を読んでいないからかな)。
一般に小説に出てくる“万年浪人生”は、もののけ(?)になってしまうよりも、特にミステリ(推理小説)などでは、自滅して、死んでしまうことが多いかな。死なないと浪人生活にピリオドが打てないから? 延江浩「レント・ア・キッス(Rent A Kiss)」(『アタシはジュース』所収)みたいなものは例外かもしれない。2,3読んだことはあるけれど、元多浪生の幽霊というのも、意外と小説には出てこないような?(あ、でも、あまり見かけないのは、私がほとんど非日常系の小説を読んでいないからかな)。
谷崎潤一郎 「金色の死」
2010年6月21日 読書
段落の冒頭が1文字下がっていなくてちょっと気持ちが悪いな。見た目に違和感が...。
手もとにあるのは、講談社文芸文庫『金色の死 谷崎潤一郎大正期短篇集』(2005)。その7篇中の最初の1篇。初出は本文の最後(と本の後ろの年譜)に書かれていて、<大正三年十二月「東京朝日新聞」>らしい。(大正3年=1914年ということは、大正7年発表の久米正雄「受験生の手記」よりも4年早いのか。)
友人の岡村君は機械体操好きで、肉体美うんぬん…みたいな。1作も読んだことがないけど、イメージ的に三島由紀夫を思い浮かべてしまう。ネタバレしてしまうけれど、岡村君の生涯で唯一の巨大な創作、文字通り見どころであるはずのその絶景パノラマみたいなものが私には、頭の中でうまく想像できなくて(涙)。あいかわらずの想像力がないのと、たぶん芸術的な知識がぜんぜんないせい。ロダンの作品もぜんぜん知らないし。
しかも、これもネタバレになってしまうけど(推理小説ではないけど)、オチというか、最後の最後のタイトルにも関係する箇所を読んでいて、思わず「それじゃ死ねないやろ!」と突っ込んでしまった(汗)。というのは、わりと最近、山本幸久『失恋延長戦』(祥伝社、2010)という小説の次の箇所を読んでいたから。
<「皮膚呼吸ができなくて倒れたんでしょ」『と』が断言する。「全身に金粉を塗ってると二十分が限界なんですよ。うちの父さんが昔観たショーで司会者がそう説明したって言ってましたもん」/(略)/「それ、病院の先生に言ったら」セーラー服だった女性が口をはさんできた。「嘘ですよって諭すように言われたわ」>(p.202)
人は全身に金粉を塗っても(皮膚呼吸ができなくなったとしても)すぐには倒れることはない? 「金色の死」のほうは次のように書かれている。
<徹夜の宴に疲れ抜いて、殿堂の廊下や柱や長椅子にしどけなく酔い倒れたまゝ、明くる日の明け方まで何も知らずに睡り通した一同の者は、やがて眼を醒ますと部屋の中央の卓子の上に、金色の儘水の如く冷たくなって居る岡村君の死骸を発見したのです。彼の邸に雇ってあった医師の説明に依ると金箔の為めに体中の毛孔を塞がれて死んだのであろうと云う事でした。>(p.45)
金箔で毛孔(毛穴?)を塞がれると死んでしまう、というのが当時の医学の常識なのか、あるいはこの医師がたんなるやぶ医者なのか…。あるいはやっぱり金粉を塗りたくると人は死んでしまうのか? ...私にはわからない。
*
岡村君は「私」(島田)とは違って一高に入るのに1年遅れている。「私」とは違って数学があまりできないらしい。希臘(ギリシャ)の芸術について口にしていたり、リズム感もありそうだったり、...数学的なことも得意なような感じはするけど。高校デビューではなくて浪人デビューというか、服装などがさらに芸術的に派手になっている。女装に近くなっていたり、化粧をしたり。身体を鍛えていてマッチョだから、個人的にはどうも美輪明宏とか思い浮かべてしまって(汗)。あと、岡村君はある種の“遊び”も始めている。
<「何も急ぐ事はないのだから、来年亦試験を受ける。今年一年死んだ気になって少うし数学を勉強しよう。」彼はこう云ってさ程落胆した気色もなく、その後当分毎日二三時間ずつ、幾何や代数を練習して居る様子でした。/「君なんぞは一層西洋へ留学に行ったらいゝじゃないか。」私がこんな忠告をすると、「そりゃ行きたい事は非常に行きたいんだが、どうしても伯父が許してくれない。伯父の生きて居る間はまあ駄目だろう。」と云って居ました。>(p.17)
「急ぐことはない」みたいな余裕がある感じは、いまでも家が裕福で、そこそこ勉強のできる東大志望の青年とかが言いそうなセリフ? 岡村君は両親が亡くなっていて、伯父さんがその莫大な遺産を管理している(一方の「私」のほうは中学校卒業の半年前に家の酒問屋が傾いて、生活などが苦しくなっている)。お金持ちの息子が大学に落ちたら(浪人生というのは世間体が悪いから)いっそのこと海外に留学させてしまう、要するに厄介払いみたいなものは、現実でも小説でも1つのパターンかもしれないけど(そうでもないかな...)、「私」の岡村君への西洋留学はどうか、という提案はそれに近くないこともないかな。
<「君のような生活を送って居たら、もう再び学校なんぞへ這入るのは嫌になるだろう。」私がこう云って尋ねると、彼は頻りに冠を振って、/「いやそんな事はない。僕は決して学問の値打ちを軽蔑する事は出来ない。君にはまだ僕の性質がほんとうに分って居ないのだろう。」/と答えました。>(p.19)
そこら辺にいる堕落学生(ダメ浪人生)、遊蕩児とは異なる岡村君は違う? でも高校に入学できたあとは、出席不足で落第(留年)を繰り返したりしている。作者は「私」と同じように浪人せずに一高に入学しているらしいけど、それは明治38年(1905年)らしい。なので、大正ではなくて明治の浪人生かな。ちなみに(久米正雄「受験生の手記」と同じで)この小説でも「浪人」という言葉は使われていない。
※少し直しました(2016.04.23)。
手もとにあるのは、講談社文芸文庫『金色の死 谷崎潤一郎大正期短篇集』(2005)。その7篇中の最初の1篇。初出は本文の最後(と本の後ろの年譜)に書かれていて、<大正三年十二月「東京朝日新聞」>らしい。(大正3年=1914年ということは、大正7年発表の久米正雄「受験生の手記」よりも4年早いのか。)
友人の岡村君は機械体操好きで、肉体美うんぬん…みたいな。1作も読んだことがないけど、イメージ的に三島由紀夫を思い浮かべてしまう。ネタバレしてしまうけれど、岡村君の生涯で唯一の巨大な創作、文字通り見どころであるはずのその絶景パノラマみたいなものが私には、頭の中でうまく想像できなくて(涙)。あいかわらずの想像力がないのと、たぶん芸術的な知識がぜんぜんないせい。ロダンの作品もぜんぜん知らないし。
しかも、これもネタバレになってしまうけど(推理小説ではないけど)、オチというか、最後の最後のタイトルにも関係する箇所を読んでいて、思わず「それじゃ死ねないやろ!」と突っ込んでしまった(汗)。というのは、わりと最近、山本幸久『失恋延長戦』(祥伝社、2010)という小説の次の箇所を読んでいたから。
<「皮膚呼吸ができなくて倒れたんでしょ」『と』が断言する。「全身に金粉を塗ってると二十分が限界なんですよ。うちの父さんが昔観たショーで司会者がそう説明したって言ってましたもん」/(略)/「それ、病院の先生に言ったら」セーラー服だった女性が口をはさんできた。「嘘ですよって諭すように言われたわ」>(p.202)
人は全身に金粉を塗っても(皮膚呼吸ができなくなったとしても)すぐには倒れることはない? 「金色の死」のほうは次のように書かれている。
<徹夜の宴に疲れ抜いて、殿堂の廊下や柱や長椅子にしどけなく酔い倒れたまゝ、明くる日の明け方まで何も知らずに睡り通した一同の者は、やがて眼を醒ますと部屋の中央の卓子の上に、金色の儘水の如く冷たくなって居る岡村君の死骸を発見したのです。彼の邸に雇ってあった医師の説明に依ると金箔の為めに体中の毛孔を塞がれて死んだのであろうと云う事でした。>(p.45)
金箔で毛孔(毛穴?)を塞がれると死んでしまう、というのが当時の医学の常識なのか、あるいはこの医師がたんなるやぶ医者なのか…。あるいはやっぱり金粉を塗りたくると人は死んでしまうのか? ...私にはわからない。
*
岡村君は「私」(島田)とは違って一高に入るのに1年遅れている。「私」とは違って数学があまりできないらしい。希臘(ギリシャ)の芸術について口にしていたり、リズム感もありそうだったり、...数学的なことも得意なような感じはするけど。高校デビューではなくて浪人デビューというか、服装などがさらに芸術的に派手になっている。女装に近くなっていたり、化粧をしたり。身体を鍛えていてマッチョだから、個人的にはどうも美輪明宏とか思い浮かべてしまって(汗)。あと、岡村君はある種の“遊び”も始めている。
<「何も急ぐ事はないのだから、来年亦試験を受ける。今年一年死んだ気になって少うし数学を勉強しよう。」彼はこう云ってさ程落胆した気色もなく、その後当分毎日二三時間ずつ、幾何や代数を練習して居る様子でした。/「君なんぞは一層西洋へ留学に行ったらいゝじゃないか。」私がこんな忠告をすると、「そりゃ行きたい事は非常に行きたいんだが、どうしても伯父が許してくれない。伯父の生きて居る間はまあ駄目だろう。」と云って居ました。>(p.17)
「急ぐことはない」みたいな余裕がある感じは、いまでも家が裕福で、そこそこ勉強のできる東大志望の青年とかが言いそうなセリフ? 岡村君は両親が亡くなっていて、伯父さんがその莫大な遺産を管理している(一方の「私」のほうは中学校卒業の半年前に家の酒問屋が傾いて、生活などが苦しくなっている)。お金持ちの息子が大学に落ちたら(浪人生というのは世間体が悪いから)いっそのこと海外に留学させてしまう、要するに厄介払いみたいなものは、現実でも小説でも1つのパターンかもしれないけど(そうでもないかな...)、「私」の岡村君への西洋留学はどうか、という提案はそれに近くないこともないかな。
<「君のような生活を送って居たら、もう再び学校なんぞへ這入るのは嫌になるだろう。」私がこう云って尋ねると、彼は頻りに冠を振って、/「いやそんな事はない。僕は決して学問の値打ちを軽蔑する事は出来ない。君にはまだ僕の性質がほんとうに分って居ないのだろう。」/と答えました。>(p.19)
そこら辺にいる堕落学生(ダメ浪人生)、遊蕩児とは異なる岡村君は違う? でも高校に入学できたあとは、出席不足で落第(留年)を繰り返したりしている。作者は「私」と同じように浪人せずに一高に入学しているらしいけど、それは明治38年(1905年)らしい。なので、大正ではなくて明治の浪人生かな。ちなみに(久米正雄「受験生の手記」と同じで)この小説でも「浪人」という言葉は使われていない。
※少し直しました(2016.04.23)。
重松清 『日曜日の夕刊』
2010年6月20日 読書
毎日新聞社、1999/新潮文庫、2002。12篇収録されている短篇集。いちおう2篇に浪人生が出てくる。感想というかは、なんていうか、重松清の小説を読んでいると、いつも頭に「愚鈍」という言葉が浮かんでくる。今回も、読んでいてけっこういらいらでした(感想ではないよな)。
「寂しさ霜降り」(6篇目)
6月に入ったばかり、ダイエット中の「わたし」(彩香、18歳)は大学1年生。3ヶ月前に上京しておねえちゃん=ミーちゃん(美津子、社会人・24歳)とふたり暮らしをしている。で、その妹と姉に元(実の)父親が余命3ヶ月であることが知らされる。9年前に両親が離婚して父親が家を出てから(「わたし」とは違って)太り出して、太っていることを気にしていなかったおねえちゃんが、やせると言い出す。――姉妹というか「わたし」に父親が余命幾ばくもないことを伝えるのが、浪人中で予備校生のいとこ(正確には元いとこか)。「カツトシ(勝利)」という名前だけれど、「わたし」は「マケトシ」と呼んでいる。読んでいて最初2人が付き合っているのかな、と思ってしまったけれど、同じ歳の幼なじみ的な感じ? 「わたし」は(ダイエット中のいらいらもあってか)カツトシに皮肉っぽいことを言っているし、八つ当たり(というか)もしている。――ちょっと引用させてもらうか、このいとこの「マケトシ」具合を。
<(略)。高校受験は第一志望の県立を落っこちたし、大学受験も滑り止めまで全滅。いちおうキムタクかソリマチ意識してロン毛に日焼け入れてるけど、ルックスがよくないぶんかえってみじめだし、スポーツも苦手、歌もへた、オタクになってなにかをきわめる根気もなけりゃ、ストーカーになるほどの熱意もない。ついで予備校の奨学生試験にも落っこちたし、格安の寮の抽選にもはずれた。(略)>(p.196、文庫)
私は反町隆史(俳優)がロン毛だったことをすでに覚えていない(汗)。要するにいわゆる“丘サーファー”みたいな?(それも死語か)。あ、寮に入りたかったということは、本当は上京したかったということかな?(…東京とはかぎらないな、別の都市かもしれないし)。あと、自動車の免許も持っているのだけれど、浪人生が車の免許をもっている、というのは、なんだか、青春ミステリーな小峰元の小説みたいだな(というか、読んだことがないですか、小峰元?)。年齢的には運転できても「わたし」のほうは、女性だし(特に長距離の運転をさせるのは危ない?)、上京しているので免許不要(東京は電車がたくさん)だからかもしれない。あ、経済的な理由もあるかな。
「サンタにお願い」(9篇目)
クリスマス本番目前の12月20日、「オレ」(マツオカ)は受験勉強をほとんど放棄している上京予備校生…というよりほとんどフリーターで、この日もピザ屋のアルバイトをしている。
<親父やオフクロは、東京から遠く離れた故郷の町で、オレの大学合格を祈ってるだろう。予備校の冬期講習に通って必死に勉強してるんだと信じてるだろう。まさかピザのデリバリーのバイトくんやってるなんて、しかもサンタクロースの格好してスクーターかっとばしてるなんて、夢にも思ってないはずだ。>(p.326)
で、ピザの配達中に<ガングロ白メッシュ、涙シール付き>(p.328)な女子高校生に声をかけられ――確認しておくと、この小説のタイトルは「サンタにお願い」――ピザ代とバイト代のぶんのお金(援○交際まがいで稼いだもの)を払うから、1時間付き合って欲しい、と頼まれて、なんだかんだで付き合うことに。すると、その子の出身中学校に連れて行かれ(ネタバレしてしまうけれど)まだ灯りの点いている職員室の中に見える、あの男性が自分の父親だと言う。――ほんと重松清の小説にはむかついてしまって(涙)。なんでだろう?(というか、自己分析したくないや(汗))。家族(特に父と息子、父と娘)を描くにしてももっと別な方法があるのではないか。うーん…。
上の2篇以外に、お馬鹿な大学1年生を語り手にした「桜桃忌の恋人」(3篇目)には、最初のへんに次のような箇所がある。
<「障害は不便だけど不幸じゃない」とか、いいこと言うんだ、このひと[=『五体不満足』のオトタケさん(引用者注)]がまた。あんまり感心したもんで、大学受験に失敗したダチに「浪人は不便だけれど不幸じゃない」と励ましのファックスを送ってやったら、マジ、絶交されそうになった。>(p.78)
二重、三重の意味で笑えない。大学に入学して初めて読んだ本が『五体不満足』で、しかもそれが『一杯のかけそば』以来の「カンドー」…。主人公がこのあと、なんだかんだで太宰治の小説(タイトル参照)にはまるのだけれど、私は(何度も書いているような気がするけれど)太宰治が嫌いなんだよね(涙)。関係ないけれど、乙武洋匡さんは1浪(S台の新宿校)→W大。太宰治は、旧制高校に入るのに浪人はしていない(四修で合格)。知らないけれど、重松清も浪人はしていないんじゃないかな(いや、わからないけれど)。あ、大学は「桜桃忌の恋人」の「オレ」(広瀬)とは違って、女優・広末涼子の先輩にあたる(W大の教育学部)。
「寂しさ霜降り」(6篇目)
6月に入ったばかり、ダイエット中の「わたし」(彩香、18歳)は大学1年生。3ヶ月前に上京しておねえちゃん=ミーちゃん(美津子、社会人・24歳)とふたり暮らしをしている。で、その妹と姉に元(実の)父親が余命3ヶ月であることが知らされる。9年前に両親が離婚して父親が家を出てから(「わたし」とは違って)太り出して、太っていることを気にしていなかったおねえちゃんが、やせると言い出す。――姉妹というか「わたし」に父親が余命幾ばくもないことを伝えるのが、浪人中で予備校生のいとこ(正確には元いとこか)。「カツトシ(勝利)」という名前だけれど、「わたし」は「マケトシ」と呼んでいる。読んでいて最初2人が付き合っているのかな、と思ってしまったけれど、同じ歳の幼なじみ的な感じ? 「わたし」は(ダイエット中のいらいらもあってか)カツトシに皮肉っぽいことを言っているし、八つ当たり(というか)もしている。――ちょっと引用させてもらうか、このいとこの「マケトシ」具合を。
<(略)。高校受験は第一志望の県立を落っこちたし、大学受験も滑り止めまで全滅。いちおうキムタクかソリマチ意識してロン毛に日焼け入れてるけど、ルックスがよくないぶんかえってみじめだし、スポーツも苦手、歌もへた、オタクになってなにかをきわめる根気もなけりゃ、ストーカーになるほどの熱意もない。ついで予備校の奨学生試験にも落っこちたし、格安の寮の抽選にもはずれた。(略)>(p.196、文庫)
私は反町隆史(俳優)がロン毛だったことをすでに覚えていない(汗)。要するにいわゆる“丘サーファー”みたいな?(それも死語か)。あ、寮に入りたかったということは、本当は上京したかったということかな?(…東京とはかぎらないな、別の都市かもしれないし)。あと、自動車の免許も持っているのだけれど、浪人生が車の免許をもっている、というのは、なんだか、青春ミステリーな小峰元の小説みたいだな(というか、読んだことがないですか、小峰元?)。年齢的には運転できても「わたし」のほうは、女性だし(特に長距離の運転をさせるのは危ない?)、上京しているので免許不要(東京は電車がたくさん)だからかもしれない。あ、経済的な理由もあるかな。
「サンタにお願い」(9篇目)
クリスマス本番目前の12月20日、「オレ」(マツオカ)は受験勉強をほとんど放棄している上京予備校生…というよりほとんどフリーターで、この日もピザ屋のアルバイトをしている。
<親父やオフクロは、東京から遠く離れた故郷の町で、オレの大学合格を祈ってるだろう。予備校の冬期講習に通って必死に勉強してるんだと信じてるだろう。まさかピザのデリバリーのバイトくんやってるなんて、しかもサンタクロースの格好してスクーターかっとばしてるなんて、夢にも思ってないはずだ。>(p.326)
で、ピザの配達中に<ガングロ白メッシュ、涙シール付き>(p.328)な女子高校生に声をかけられ――確認しておくと、この小説のタイトルは「サンタにお願い」――ピザ代とバイト代のぶんのお金(援○交際まがいで稼いだもの)を払うから、1時間付き合って欲しい、と頼まれて、なんだかんだで付き合うことに。すると、その子の出身中学校に連れて行かれ(ネタバレしてしまうけれど)まだ灯りの点いている職員室の中に見える、あの男性が自分の父親だと言う。――ほんと重松清の小説にはむかついてしまって(涙)。なんでだろう?(というか、自己分析したくないや(汗))。家族(特に父と息子、父と娘)を描くにしてももっと別な方法があるのではないか。うーん…。
上の2篇以外に、お馬鹿な大学1年生を語り手にした「桜桃忌の恋人」(3篇目)には、最初のへんに次のような箇所がある。
<「障害は不便だけど不幸じゃない」とか、いいこと言うんだ、このひと[=『五体不満足』のオトタケさん(引用者注)]がまた。あんまり感心したもんで、大学受験に失敗したダチに「浪人は不便だけれど不幸じゃない」と励ましのファックスを送ってやったら、マジ、絶交されそうになった。>(p.78)
二重、三重の意味で笑えない。大学に入学して初めて読んだ本が『五体不満足』で、しかもそれが『一杯のかけそば』以来の「カンドー」…。主人公がこのあと、なんだかんだで太宰治の小説(タイトル参照)にはまるのだけれど、私は(何度も書いているような気がするけれど)太宰治が嫌いなんだよね(涙)。関係ないけれど、乙武洋匡さんは1浪(S台の新宿校)→W大。太宰治は、旧制高校に入るのに浪人はしていない(四修で合格)。知らないけれど、重松清も浪人はしていないんじゃないかな(いや、わからないけれど)。あ、大学は「桜桃忌の恋人」の「オレ」(広瀬)とは違って、女優・広末涼子の先輩にあたる(W大の教育学部)。
井上ひさし 「他人の臍」
2010年6月20日 読書
『他人の血』(講談社、1979/講談社文庫、1982)所収、10篇中の3篇目。「臍(へそ)」というより「臍の緒」か。面白かったといえば面白かったです。文庫カバーの後ろに<セクシャル・ブラック・ユーモア>とあるけれど、私は小説を読んでいるとき、頭の中で実写で想像していることが多いので、(とりあえずこの1篇は)かなり怖かったです(汗)。「ブラック」というよりホラーな?
マンションの12階でひと目を避けて暮らす女彫金師。彼女は実は、17年間妊娠している。「妊娠」というか、お腹のなかにいま16、7歳になる子ども(泰二)がいる。当時、高校3年生の彼女をはらませたのは(強姦したのは)、上京して彼女の家(中野駅近くの打越町)から予備校に通っていたいとこ。県立病院(長野)の内科医長の息子。――冗長的な文体だから引用すると長くなっちゃうけれど、
<(略)この若者がまことにいい加減な出来損い野郎だった。彼は医科大学を受験するつもりで上京してきたのだが、金を積めばどんな劣悪な成績をとっても医学生になれる愛知医大のような便利のいい学校がまだ出来ていなかったので、受験した三つの医科大学を三つとも滑ってしまった。そこで彼は打越町に腰を据えて予備校へ通うことになったが、ある初夏の夜、彼はまだお医者さんの卵にもなっていないくせに(略)>(p.57)
という感じ。つかこうへい『弟よ!』の弟が通っている「豊橋医科歯科大学」というのは、この愛知医大がモデル? ――それはともかく。ちょっと面白いのはこの「出来損い」=子どもの父親が、17年後の現在、再び登場してくることかな。5年間予備校に通っても結局、医学部(医科大学)には受からず、いまは医師の国家試験を受ける人向けの予備校(「東京医学ゼミナール」)を経営しているという。きっかけは(通っていた)予備校の経営者と仲良くなったことらしい。――ありそうといえばありそうな人生?(うーん…)。例えばこれ以上浪人できないから、とりあえず望まない大学に入学して、すぐに家庭教師や塾講師を始めて、生徒に怪しげな受験テクニック(?)を教える……みたいなことならありそうかな。夢破れたお父さんが息子に夢を託す、みたいな?
そう、作中年は同時代? この1篇の初出は、本の後ろのほうによれば、<小説現代Gen昭和52年盛夏号>(p.270)とのこと。昭和52年(1977年)から17年を引けば、1960年。それくらいの時代の浪人生ということになるのかもしれない。(あ、本文中で「浪人」という言葉は使われていないっぽい。収録されている別の短篇には、使われているけれど。)
マンションの12階でひと目を避けて暮らす女彫金師。彼女は実は、17年間妊娠している。「妊娠」というか、お腹のなかにいま16、7歳になる子ども(泰二)がいる。当時、高校3年生の彼女をはらませたのは(強姦したのは)、上京して彼女の家(中野駅近くの打越町)から予備校に通っていたいとこ。県立病院(長野)の内科医長の息子。――冗長的な文体だから引用すると長くなっちゃうけれど、
<(略)この若者がまことにいい加減な出来損い野郎だった。彼は医科大学を受験するつもりで上京してきたのだが、金を積めばどんな劣悪な成績をとっても医学生になれる愛知医大のような便利のいい学校がまだ出来ていなかったので、受験した三つの医科大学を三つとも滑ってしまった。そこで彼は打越町に腰を据えて予備校へ通うことになったが、ある初夏の夜、彼はまだお医者さんの卵にもなっていないくせに(略)>(p.57)
という感じ。つかこうへい『弟よ!』の弟が通っている「豊橋医科歯科大学」というのは、この愛知医大がモデル? ――それはともかく。ちょっと面白いのはこの「出来損い」=子どもの父親が、17年後の現在、再び登場してくることかな。5年間予備校に通っても結局、医学部(医科大学)には受からず、いまは医師の国家試験を受ける人向けの予備校(「東京医学ゼミナール」)を経営しているという。きっかけは(通っていた)予備校の経営者と仲良くなったことらしい。――ありそうといえばありそうな人生?(うーん…)。例えばこれ以上浪人できないから、とりあえず望まない大学に入学して、すぐに家庭教師や塾講師を始めて、生徒に怪しげな受験テクニック(?)を教える……みたいなことならありそうかな。夢破れたお父さんが息子に夢を託す、みたいな?
そう、作中年は同時代? この1篇の初出は、本の後ろのほうによれば、<小説現代Gen昭和52年盛夏号>(p.270)とのこと。昭和52年(1977年)から17年を引けば、1960年。それくらいの時代の浪人生ということになるのかもしれない。(あ、本文中で「浪人」という言葉は使われていないっぽい。収録されている別の短篇には、使われているけれど。)