集英社、1990/集英社文庫、1994。新潮文庫からも出ているみたいだけれど、手もとにあるのは集英社文庫のもの。わりと透明感のある青春恋愛小説、という感じ。「彼方へ」(『薔薇船』/アンソロジー『恋する男たち』)、「天使」(『律子慕情』)よりもこちらを先に読めばよかったな、失敗した。長篇小説のほうがやっぱり情報量が多い。※以下、いつものようにネタバレ注意です、すみません。

 <学園紛争、デモ、フォーク反戦集会。1960年代、杜の都・仙台。荘厳なバロック音楽の流れる喫茶店で出会い、恋に落ちた野間響子・17歳と堂本渉・21歳。多感で不良っぽい女子高生と男からも女からも愛されるような不思議な雰囲気の大学生の危険で美しい恋。激しい恋をひっそりと見守る渉の特別な友人、関祐之介。三人の微妙な関係が引き起こす忌まわしい事件はやがて20年後の愛も引き裂いていく。異色長編。>(カバー背より)

「私」(野間響子)によって20年前のことが語られる。20年前というのは(ちょっとネタバレしてしまうけれど)主に1969年の春くらいから1970年の冬までで、「私」でいえば高校3年から浪人1年目まで。後ろのほう4分の1くらいが予備校生編かな。時代が時代だから(?)県立S女子高校に通う「私」は、高校の友達のジュリーとレイコ(本名不明)とともに集会やデモに参加したり、ジャズ喫茶やラーメン屋に行ったり、学校(だいぶさぼっているみたいだけれど)では「制服廃止闘争委員会」の先頭に立ったり…している。そんなときに「無伴奏」という、クラシック音楽がかかっている、みんなおとなしく本を読んだりしている喫茶店で、東北大学3年生の堂本渉(わたる)と関祐之介、高校生(M女子学院)の高宮エマと出会う。それが渉との運命的な出会いだったというか、「私」は渉に対して恋に落ちた…みたいな感じ。(あ、渉が「私」に話しかけたきっかけは、「私」が路上で買って、そこで広げて読んでいた詩集。)

どうもエロスとタナトス(生と死)みたいなことが言いたくなってくるな、この小説。後者のほうは、自殺、自殺、自殺……。「私」が直接関わっているのではなくて、ほとんど伝聞的というか間接的なものだけれど。最後になってやっと(正確には最後の1つ前か)他殺が1件出てくる……というか、ミステリーだったのか、この小説は!(びっくりだ)。それはともかく、最初に出てくる自殺ばなしは、両親と妹が父親(サラリーマン)の転勤で東京へ行ったあと「私」が一緒に暮らすことになった伯母さん(子どものいない未亡人、ピアノの先生)の家の話で、伯母さんによれば、

 <「十年くらい前よ。死んだ主人の親戚のお嬢さんが、うちに一年ほど居候してたことがあったの。当時、ちょうど響子ちゃんと同じ年くらいだったかしらね。その子、東北大学の受験に失敗して、一浪したんだけど。よほど神経が疲れてたんだねえ。ある朝、あの物置で首を吊っていたのよ」>(p.27)

とのこと。これは「私」を怖がらせるためかもしれず、真偽のほどは不明。1969年の10年前であれば、1959年? 人口的にあまり女子浪人生はいなかった時代かもしれない。あと、そう、この箇所だけでなく「一浪」という言葉がけっこう使われていて、個人的にはちょっと違和感が…。高校生(現役受験生)にとっては、ふつうただ「浪人」とだけ言えば、1浪のことを指すのではないかと思う。でも、(これもちょっとネタバレしてしまうけれど)「私」は“事件”が起こったりして、結局、1浪では大学に受からず2浪しているから、20年後目線では別に不自然ではないのかもしれない。

父親と交わした約束というか、父親から出された仙台に残ってもいいことの条件の1つに、<浪人せずに東京の大学に合格すること>(p.18)というのがあったにもかかわらず、「私」は浪人生に。浪人した原因はわりとはっきりしている。要するに勉強していない。欠席や早退常習犯の学校はもちろん、申し込んだ予備校の夏期講習や冬期講習には1度も行かず、模擬試験も1度も受けなかった、と言っている。そう、父親が振り込んだ予備校代をすべて使ってしまった、みたいなことも言っていたと思うけれど、そのお金はいったいどこに消えたの? 本を買ったりラーメンを食べたりしたくらいなら、だいぶあまっているはずだよね?(わからん)。伯母さんや父親に勉強をしている振りをしている「私」の言動というか演技というか、女の子がつく嘘はなんていうか、わかりくにくてちょっと怖いな、男の子のそれよりもたぶん。うーん…。あ、忘れていた。勉強していないというか、そもそもこの人、大学じたい1校も受けなかったらしい。浪人になってからは予備校にはちゃんと通っている感じだけれど(ショックな出来事があるまでは)。2浪目のことは、描かれてはいないのだけれど、志望を変えて(“事件”の影響で)最終的には心理学科に落ち着いたらしい。

これも時代が時代というか、最後のほうで出てくる“自殺ばなし”だけれど、三島由紀夫の割腹自殺(11月25日)のニュースを「私」は、予備校の補習室(自習室?)で聞いたと言っている。三島事件(?)も、いろいろな人によって「そのとき自分はどこでどうしていたか」みたいなことが語られがちな、歴史的な大事件なのか。そういえば、私の場合も、直接関わりがあるわけでもないのに、浪人中に起こった大きな社会的な事件(言ってしまうと歳がばれてしまうから言わないけれど)を最初にどこで知ったのかを、いまでもよく覚えている。あと、受験がらみのことでは、そう、「私」が高校3年のときのこと、<そのころ流行っていた『受験生ブルース』>というのを口ずさんでいる箇所がある(p.115)。「浪人ブルース」(だっけ?)という歌はなんとなく知っていたけれど、「受験生ブルース」というのもあったのか、知らなかったです。もっと有名な、舟木一夫の「高校三年生」はいつくらいの歌だっけ? もっと前かな。――あとで検索しておきます(汗)。関係ないけれど、固有名詞つながりでは『女学生の友』という名前も出てきている。“ジュニア小説”が載っている雑誌?(林真理子『葡萄が目にしみる』にも出てくるよね)。女子校であると男の子の目もないから、みんなで回し読みしたりとか、授業中に膝にのせて読んだりとかもしやすいかもね。

どうでもいいけれど、小池真理子の小説って意外と和洋折衷な感じ? 渉の実家が有名な和菓子屋だったり、祐之介が生活していて、渉が転がり込んでいる下宿が、大きな家にある元茶室だったり。(小川洋子の小説だったら洋風なもので統一されていそうなところかもしれない。)あと、この小説も「私」が妊娠するわけではないけれど、“妊娠小説”的な要素ありです。
 
講談社、1981/講談社文庫、1984。1篇ごとに殺人事件が起こって解決する感じの連作短篇集、全8篇。全篇を通して1人称1視点(「おれ」)で書かれているので、以前読んだ3人称複数視点の『ピタゴラス豆畑に死す』よりはずっと読みやすかったかな。でも、その小説と同じくこれもやっぱり中途半端に古い小説という感じ。“受験生小説”としてもちょっといまいちだったかも。小説としては意外に楽しく最後まで読めてしまったけれど。※推理小説なので、以下、いつも以上にネタバレにはご注意ください。毎度すみません。

 <綽名を豪商という今泉、法王こと住永、画伯こと有村たちは、それぞれ国立大、防大、芸大を志望する、兵庫県立宝塚中央高校生。だが彼らの進学の難路と恋路の前に、奇怪極まりない連続殺人の難題が降って湧いた! 彼らを叱咤激励して解決へと導く豪傑バアチャンと共に謎に挑む、傑作大青春推理編。>(表紙カバー背より)

「おれ」=豪商=今泉顕晃(かねあき)、法王=住永弘道、画伯=有村隆文の青年3人組や、名探偵のバアチャン(「おれ」のお祖母さん)が暮らしているのは、「町」になっても農村の風景が残っている宝谷(たからだに)という場所。お父さんがわりと出てくるのだけれど、法王の父親は宝福寺というお寺の和尚さん(芳道(ほうどう)和尚)、画伯の父親は駐在さん、あと高校の同級生の季美子(苗字は…吉沢か)の父親は医者。……和尚以外はミステリーにとって都合のいい職業設定? 「おれ」のお父さんは中学校の英語教師らしい。家はイチゴ栽培農家で、バアチャン(とお母さん)はイチゴを育てている。小説でイチゴ栽培が描かれているのを、今回初めて読んだような気が…。微妙に新鮮かもしれない。登場人物としては、あと宝谷の住民ではないけれど、「おれ」が好意を寄せているというか、狙っている感じの充恵(苗字は浅野)という同級生なども出てくる。

で、ネタバレしてしまうけれど、最初(1篇目)が高校2年の大晦日から始まっていて、時間がとびとびで、最後の3篇(6~8篇目)が“浪人生編”になっている。5篇目(“受験本番編”というか)で、2人より入試日が早かった(防衛大だから)法王は早々と浪人が決定していて、画伯は奈良芸大(日本画科)に合格したけれど、奈良大学(経済学部)を受験した「おれ」も不合格に。続く6篇目に入ると、「おれ」&法王は、大阪梅田にある「科挙予備校」(すごいネーミングだな)に通っている。――いちおう5篇目から1篇ごとにとりあげておこうかな。

「旅は道づれ世は騙しあい」(5篇目)
「おれ」と画伯が一緒に試験を受けに行って、ホテルで事件(というか)に巻き込まれる。――3月1日に出発して(翌日下見をして)試験本番が3月3日か。ちょっと遅いよね? 合格発表が画伯が3月22日で、「おれ」が3月24日か。やっぱり遅いな。落ちてからでは予備校の申し込みが間に合わない(?)。この↓“受験パック”はどう、安い?

 <新婚旅行でもないのに豪華なホテルに宿をとったのは、例の“受験パック”というやつだ。大学受験生にかぎり、一人部屋[シングル]・一泊二食に合格弁当つきで一万三千円、おまけに受験時間に合わせて大学までバスで送ってくれるというのだから、(略)>(p.180、[括弧]はルビ)

25年以上前の話、いま同じ金額ならかなりお徳か。豪華なホテル(「奈良インペリアル・ホテル」)だし、食事はフランス料理らしいし。送迎(「送」だけか)もうれしいやね。1万3千円だけでなく、ホテルまでの交通費もかかるか。兵庫の宝谷から奈良の猿沢池の畔まで。でも、宝塚までは高校に通うためのバスの定期券をもっているのでは?(たいして役に立たないか)。

「女の裸は七難招く」(6篇目)
冒頭、5月1日で予備校の屋上で、下はメーデーのデモ行進(cf.重松清『さつき断景』)。その屋上で「おれ」は、2浪の宮地佐岐子から、友達の芸大生(要するに画伯)にヌード写真を撮ってもらえないか、と頼まれる。もちろん画伯も喜んで引き受けるのだけれど、あとで(ネタバレしてしまうけれど)その佐岐子がイチゴ畑で死体で発見される。――小説では(現実でもかな)少数派の2浪の女子なのに、残念。『ピタゴラス~』の女子浪人生も男の子っぽかったけれど、こちらの浪人生も自称の言葉は「ボク」。もう1人、池口宏美という1浪生も出てくるのだけれど、志望大学が体育大(のちに防衛大?)なので、活発な人? やっぱり女子浪人生は男(の子)っぽく描かれてしまうよな、小説では。ところで佐岐子はどうして2浪に? お父さん(父娘2人家庭らしい)は長いこと失業していたらしいけれど、予備校費用はどうしていたのだろう?(ああまたお金の話だ(汗))。「おれ」は刑事に訊かれて、佐岐子のことを<「ただの同級生ですよ、予備校の」>(p.234)と答えている。1浪と2浪でも同級生?(微妙なところかも…)。

「恋すれば鈍する」(7篇目)
夏休み・ギリシア編というか。息子夫婦(「おれ」の両親)の反対にあっても、“ヘシオドス”の本場、ギリシアに行くと言ってきかないバアチャンの付添いとして「おれ」たちも一緒に行くことに。で、アポロン海岸の浜辺で事件(というか)に巻き込まれてしまう。――大学受験にはほとんど関係のない1篇。滞在は8月10日から一週間か。

「マツタケは食いたし命は惜しし」(8篇目)
10月下旬で、

 <予備校では連日のように模擬試験だ。共通一次の模試が何回かあって、そのあと文系理系に分かれて本番さながらの二次模試がつづく。>(p.302)

これはちょっと早い? 共通一次までまる2ヶ月もある(うーん)。松茸狩りの松茸って山奥の足場の悪いところとかから採って来て“移植”をするんだね、びっくり。潮干狩りのアサリと同じだな。事件としては、毎年恒例宝谷主催の観光マツタケ狩の最後の最後の回に、科挙予備校の教職員団体がやってくる。で、採ったマツタケを焼いたりして食べていたところ、理事長の黒山が突然苦しみ出して、死に至る。どうやら毒キノコが原因らしい、みたいな話に。――突然、近くの人が嘔吐を始めたらどうすればいいの?(受験には関係ない話だけど)。1時間以上後に毒の回るキノコを食べたとはわからないわけだから、とりあえず水を飲ませて、胃の中のものをぜんぶ吐かせたほうがいいかも(北森鴻『屋上物語』の4篇目「挑戦者の憂鬱」では子どもだけれど、そうしている)。自分の身に置きかえて…、やっぱりとっさにはできないか。でも、この小説の場合(体育大志望の生徒もいるからか)予備校御一行の中に体育教師もいたんだよね、暴れる理事長を押さえることくらいできたのでは? あ、体育の先生が腕力があるとはかぎらないか。ちなみに、残念なことに(?)この小説では「おれ」&法王の合否までは描かれていない。
 
『冬物語』(文藝春秋、1997/文春文庫、2002)所収、12篇中の7篇目。“浪人と恋愛”みたいなキーワード(?)を使って読んでしまうと、とりあえず「冬への順応」(『ダイヤモンドダスト』所収)の短い版みたいな印象を受ける。妻と2人の息子、そして妻が主に食事や排泄の世話をしている寝たきりの父(妻にとっては義父)と暮らしている主人公(たぶん医師)が、中学生の次男の言葉をきっかけにして、小学生のときに“初恋”の相手にしてしまったこと、さらに浪人中にその相手(中川清子)と再会したときのことなどを思い出す、みたいな話。再会といっても1度だけだったらしいけれど――「冬への順応」とは違っている――、そのきっかけとなったのが、予備校(お茶の水にある大規模なところ)で模擬試験の結果に掲示されていて、その中にその子の名前が載っていたこと。通っていた医学部のコース(たぶん)はF組まであったらしいけれど、主人公は(1学期は)C組で、中川さんのほうはA組――女の子のほうが頭がいいというあたりも、主人公のほうが優秀な(?)予備校に通っている「冬への順応」とは異なっている。んで、結論というか、先に読んでしまったせいか、個人的にはやっぱり「冬への順応」のほうがいいと思う。そちらのほうが第1志望の大学に落ちた挫折感、みたいなものが詳しく語られているからかな、よくわからないけれど。
 
誰もが疑問に思うのは、中川清子はどうして亡くなったのか、ということ? ――それに対するいちばんつまらない答え(推測)は“失恋による自殺”かもしれないけれど、その可能性は(可能性の1つとして)捨てきれないと個人的には思う。<淋しい葬式だった>理由は、なんだろうね? 自身が大学5年のとき、という語り手の不確かな記憶が正しいとすれば、小学校のときの同級生である清子も(語り手と同じく1浪して医学部に入っているので)、23, 4歳ということになる(亡くなったのが夏とのことで、算数的には23歳の可能性のほうが高い)。20代前半の女性のお葬式が淋しくなってしまう理由っていったい?(そもそも淋しくないお葬式のほうが珍しいだろうし、私にはよくわからないな)。浪人中に再会した時点で、語り手が清子に対して感じた変化とその変化の原因は、具体的にはなんだろうね? うーん…(それもよくわからんです)。あ、推理小説ではないからこれが正しい、みたいな1つの解答はないと思う。間違っている解答は、本文に照らせばいくらもあるだろうけれど。

例えば……いいかげんなことを言うとちゃんとした人から怒られそうだけれど、テキトーなことを言ってよければ、清子のランドセルに語り手がいたずらで入れたウサギ――語り手には結局のところ、どうなったのかわからずじまいのそのウサギは、淋しいと死んでしまう種類のウサギで、鞄に入れられた時点で清子の心の中に移り住んでしまい(もちろんスピリチュアルな話をしている(汗))、中学時代か高校時代か、そのことによって(?)精神的な変調をきたし出して――精神科医になりたい人の多くが他人を治療したいというより、自分が治療されたい、または自分で自分を治療したいと考えている?――で、大学に入学後に“淋しいと死んでしまう病気”を発症して、大学5年の夏に淋しさが致死量に達してついに帰らぬ人に?? 精神的な病気であるとすれば、村上春樹『ノルウェイの森』の直子も、結局のところ、なんだかよくわからない感じだし、この小説も――なんだかよくわからない感じかもしれない。真逆な可能性というか、大学の友だちたちと江ノ島の海で楽しく海水浴中に足をつって溺死→淋しい式、みたいな可能生だってもちろんある。

小説上、抽象的なウサギにしても(小学校時代の)具体的なウサギにしても、とりあえずトリックスター(狂言回し、道化役)として使われている…感じかな。上の子どもが高校2年生ということは、語り手はもう40歳はすぎているか。最後、<ウサギは淋しいと死んじゃう>というTVドラマの台詞を(おそらく二男とは異なる理由で)肯定している、すなわち、成績優秀でスポーツ万能な、ウサギのような(?)色白で可愛らしい清子は、何やら淋しくて、若くして死んでしまった、と考えることくらい許してあげないといけない、中年のおじさんだから(?)。生活は現実であるというか、奥さん&介護されている父親は、現実そのものを強く見せているけれど。そういえば、読んでいてお父さんの性格付け(過去も現在も)がまったくされていないことがちょっと気にはなったかな。

※大幅に加筆、訂正しました(2010/07/31)。

[追記]初出は文庫の後ろのほうに書かれていて、『文學界』1996年6月号らしいです。
 
『ころす・の・よ』(新潮文庫、1988)所収、7篇中の1篇目。※毎度すみません、以下、ネタバレ注意です。これも一応、“疑わしきは浪人生”ものの1つかな。←どういうジャンルだよ!(汗)。そういえば、叔母さんの目から見た(甥の)浪人生が描かれている小説(といっても短篇)は今回、初めて読んだかもしれない。ただ、この小説の語り手兼主人公の女性は、甥に「おばさん」ではなく「お姉さん」と呼ばせているけど。

夫の転勤で知り合いのいない田舎に越してきて、しかも交通事故にあって通院を続けている「わたし」(27歳)のもとに、突然、2人組の警察(県警の刑事)が訪ねてきて、星岡啓吾さん――大学に受かるまでの約束で同居している打ち解けない感じの浪人生の甥、おんとし19歳――は5日前の8月6日にどこにいましたか、みたいなことを尋ねられ(その日に石郷稔という人が殺されている)、「わたし」は図書館に行っていたと思う、みたいなことを答えるのだけれど、そういえばその日、啓吾さんはうんぬん――、みたいな話。

私は途中でオチがわかってしまったけれど、最後まで読むと、ちょっといい話だった、という感じになるかもしれない。表紙の文句はどうなっていたっけ?

 <(略)をはじめ、暑く重苦しい夏の殺人事件と蛍を象徴的にからませた「暗い光」、(略)>

とある。蛍だけでなく「わたし」は甥にスイカを切って出してあげたりしていて、暑くはあれ、ちょうどいま8月であるし、夏に夏の小説を読むのはなかなかよいな、と思ったです(内容とは関係がないか(汗))。あと、出版年は――20年前か、この田舎の描写とかが個人的には、なんとなく懐かしく思えたです。

啓吾くん、予備校には通っていないのかな? 現役受験失敗の理由というかは、小学校のときに両親が離婚してずっと母親と2人暮らしだったらしいけれど、今年の初めにその母親がなくなって、「わたし」の夫の両親(要するに祖父母)のもとに引き取られたけれど、その家族となじめずに(というか、こんなにずるずる書くくらいならp.10の真ん中あたりをそっくり引用したほうがよかったか、失敗です)、それが大学受験にも影響したらしい。
 
講談社、1995/講談社ノベルス、1997/講談社文庫、1998。読んだのは文庫本。小説ではない『文学の輪郭』(別の名前、中島梓)とかは少し読んだことがあったのだけれど、この作者の小説を読むのは今回が始めて。※以下、いちおうネタバレにはご注意ください(推理小説です)。

ひと言でいえば“パソコン通信小説”だろうね。ネットおカマな「姫」とか、乃南アサの『ライン』(講談社文庫、1997/『パソコン通信殺人事件』講談社ノベルス、1990)とけっこう被っているかもしれない。主人公が浪人生なことも、なぜか(?)被っているのだけれど、『ライン』の小田切薫(3浪)と違って、こちらの浪人生「ぼく」=滝沢稔(1浪)は浪人生であることの自覚が(なくはないけれど)けっこう薄い感じ。小説の始まりは、えーと…、1月14日か(1995年)。国公立大学(と一部の私立大学)の受験生たちはセンター試験のかなり直前だよね。「ぼく」は私大志望? というか、時期が時期の浪人生、「パソ通」をいったんやめてさっさと勉強しなさいや。←小説中浪人生にそれを言ったらおしまいフレーズ「勉強しなさい」(汗)。なんていうか、「浪人生」に注目して読んでいるので、「パソ通」に対する記述の詳細さと「大学受験」や「浪人生活」に対するそれのアバウトさが好対照、というか。

そう、どうでもいいけれど、スナックを経営しているらしいお母さん(お父さんは亡くなっている)の1浪である「ぼく」に対する態度が、次の2箇所で矛盾していない?

 <(略)ママもぼくのことは相当呆れているみたいだし、さいわいなことに二浪になるんだろうとなかばあきらめているみたいだけれども、(略)>(p.10)
 <母親には二浪はゆるさないよ、といわれているし、ぼく自身ももし次も駄目だったらもうこれは大学はあきらめて、ペットショップにでもつとめはじめようと思っているし、(略)>(p.334)

矛盾はしていないか。口では「許さない」と言いつつ、頭の中のどこかでは「しかたがない」みたいな? ちなみに、稔くんは生物好き。あ、1箇所ちらっと書かれているだけだけれど、予備校にもいちおう通っているようだ。

小説としては、<「名探偵、みんな集めてさてと云い」>(p.416)というか、最後のほう、伊集院大介の語りがかなり長いよね、読んでいて死にました(涙)。全体的に、話がもう終わったのかと思ったらまだもう少し続いているみたいな、なんていうか、歯切れの悪さがある、この小説。“僕小説”“1人称饒舌体”だから読みやすいけれどね。それでも“回答編”の語りはあまりに長すぎる。あ、でも、栗本薫(あるいは伊集院大介)のファンの人はそれが好きなのかな?(わからない)。
 
宝石社、1963。文庫は角川文庫から出ているようだけれど、私が読んだのは『日本推理作家協会賞受賞作全集18 殺意という名の家畜』(双葉文庫、1995)。中途半端に古い小説だし、ぜんぜん期待していなかったから、思っていたよりは面白かったけれど、でも、うーん…、微妙といえば微妙な感じかもしれない。※以下毎度すみません、ネタバレにはご注意ください。

 <犯罪小説家として売り出し中の私のもとへ、むかし抱いた星村美智から電話がかかってきたのは深夜だった。「今、会ってほしいの」という。むろん私は断ったが、私の郵便受けに一片のメモを残して彼女は消息を絶った。しかたなくメモを調べはじめる私。そこに驚くべき知らせが……!>(カバー後ろより)

「むかし」と言っているけれど、「電話がかかってきた」時点(昭和37年=1962年)から見れば、「私」(岡田晨一)が美智を「抱いた」のは、まだ前年のこと。小説の冒頭に「私」が昨年(昭和37年)のことを回想する、みたいな外枠が設けられているのだけれど、その時点(小説内の現在?)から言っても、前々年(おととし)のことになる。ただ、心理的には(少なくとも↑を書いた人にとっては)「むかし」と言いたくなるくらい前のことなのかもしれないけれど。

ゆくえ知れずの女の子の足跡を辿って、あちこち訪れたり、関係する人たちと会って尋ねたりする、みたいな話は、小説の1つのパターンかな。だんだんとその人の隠されていた面があらわになっていく、みたいな…。小説というか、この小説のようなハード・ボイルドな(?)推理小説でよくある話? そういえば、この小説、調査の糸がとぎれることがない、主人公の行動がほとんど停滞しない感じ。その手の内容の小説を書いている作家とはいえ、素人探偵のはずなのに、ちょっとうまく行きすぎているというか。何度か足が止まるくらいのほうが自然な気も。

それはともかく、ハード・ボイルド作家の(?)「私」が、美智の暮らしていたアパートを訪れると(場所は都内、具体的に書かれているけれど、細かいことはまぁいいか。名前は「栄荘」)、隣の部屋の住人として浪人生、松井良夫(1浪)が登場してくる。小説における浪人生の登場パターンでいえば、“疑わしきは浪人生もの”というか、そんな感じ。大学を卒業して今年から商事会社に勤める兄(新入社員なのに月の半分は海外に?)と2人暮らし、言葉に北関東北部あたりのなまりがある(語り手の推定)らしい。人物造形としては、意外とステレオタイプにはなっていない感じがするけれど。本棚にコリン・ウィルソンの訳本(愛読書?)があるとか。「私」が松井くんと会ったのはいつだっけ? あ、9月14日か。

 <「今日は予備校は?」/「短い夏休みだったんです。だからもう始まってますけど、秋から英語学院だけにしようかと思って、まだ、はっきり決めてませんが、どうせ大学の講師くずれあたりが小遣いかせぎにやってるんだから、どこへ行っても、大して違いはないような気もするし……」>(p.58)

支離滅裂とは言わないけれど、何を言っているのかよくわからない。「短い夏休み」って? 「英語学院」というのは、今風にいえば「英会話学校」「英会話教室」? 英語(だけ)が苦手なのかな。どこでも大差ないなら、そのままいまの予備校に通い続ければいいのに。「小遣い稼ぎ」というのも、大学講師であればありうると思うけれど、「くずれ」となるとむしろ、生活費を捻出な感じ?(「英会話教室」には、あまり大学の講師はいないかもね。そんなこともない?)。昭和30年代後半(1960年代前半)に出版された小説だけれど、“予備校講師観”みたいなものは、現代のそれにも通じる感じかな。大学の教授、准教授とかは(現在では)予備校でのアルバイトはできない(禁止されている)と思うけれど、(いまでも)講師くらいなら大丈夫なのでは?(よく知らないけれど)。――上の引用箇所は次のように続いている(引用多すぎ(汗))、

 <「それもそうだな。おれも、地方から出て来て、一年間、予備校暮らしをやってたんだ。おれの場合は吉祥寺の三畳間だった。中央線の電車が通るたびに、ぐらぐらゆれてひどいもんだったな」/何という感傷的なせりふだろう、そう思いながら私はしゃべった[引用者註:「せりふ」に傍点]。松井の目に、わずかだが、希望のようなものが浮かんだ。だが、私はもうそれ以上は何もいってやらなかった。>(同頁)

どういう「希望」なのか、とても知りたい(連帯意識とか?)。「やらなかった」というのは、ちょっと横柄な?(「私」のキャラクター的にはしようがないか)。「中央線」って、いまと同じ中央線でも、JRではないよね? あ、いつごろだろう? 作者が1935年生まれ(早生まれ)らしいので、「私」もそれくらいの生まれな感じがする(どこかに年齢って書かれていたっけ?)。1953年くらい? 「予備校暮らし」という日本語って、個人的にはちょっと微妙かな…。予備校の建物に住みついているみたいな? 「浪人暮らし」と「予備校通い」が、頭のなかでブレンドされてしまったとか?(わからんけど)。

で、ネタバレしてしまうけれど、予備校に通わなくなっている予備校生の松井くんは、例によって(?)殺されてしまうわけだけれど、殺され方がこれまた、小説中浪人生の殺され方のパターンの例にもれず、自殺を偽装されて、みたいな…。登場してくる、とりあえず自殺であると思っている刑事は、これまた例によって例のごとく「受験ノイローゼ」という言葉も口に出しているし(p.115)。作中浪人生が実際にその理由で自殺する小説よりは多少まし、という気もするけれど。でも、どっちもどっちかな。
 
カッパ・ノベルス、1990/光文社文庫、1994。※いつものように以下、ネタバレにはご注意ください。

 <浪人生・益子竜夫が何者かに刺殺された。死の直前に啄木の歌をつぶやいて……。文芸編集者・笹谷美緒は、その二ヵ月前、担当作家・秋野芙蓉子の部屋で竜夫を目撃していた。さらに二年前、竜夫が犯した婦女暴行事件で、芙蓉子が重要な証言をしていたことが判明。時と場所を越えた事件の鍵は、竜夫が残した歌にある!? 妖しく香る花の伝説が謎を呼ぶ傑作推理小説!>(文庫カバーより)

美緒&壮シリーズのなかの、花伝説シリーズの第3弾(最終作)であるらしい。

例によって残念ながら(?)この小説に出てくる浪人生も、ちゃんとした浪人生であるとは言えない感じかもしれない。益子竜夫(ましこ・たつお、21歳)のプロフィール的なことを整理すれば、高校は函館の「道立北陽高校」で、もともと「北海道文科大学」を受験して自宅から通うつもりでいたのに、高校3年の夏にある人に会ったことをきっかけに、卒業後は東京へ出ることにして、実際に翌年――受験した大学はたぶん落ちて――とげぬき地蔵のあたりのアパートから予備校通いを。志望大学や予備校の名前は不明、というか書かれていない。ほかのことをしていてたぶん、受験勉強も予備校通いもあまりしていなかったのではないかと思うけれど、それはともかく。その年の8月下旬くらいに起きた女子大学生強姦致傷事件の容疑者として逮捕され(12月に判決を受けて控訴せず少年刑務所で服役して)2年後の今年の2月に仮出所する。で、約2ヶ月後の5月9日には石川啄木の歌を最後の言葉にしてこの世から去ってしまう。(というか、ぜんぜん整理できていないな(涙)。)

年齢的には3浪目かもしれないけれど、2年前と今年とで合計7、8ヶ月くらい? 浪人中、実質的には1年も勉強していない感じである。あ、でも、拘置所&刑務所にいても勉強しようと思えばできるのかな? その場合、ちゃんと勉強していればまだ2月だから、出所してすぐにどこかの大学を受験して合格、みたいなことも可能? 実際には入学手続きとかいろいろとあって事実上、ほとんど無理かもしれないけど。(獄中では証明写真を撮らせてくれないとか、そういうシャバ(?)では当たり前にできることができないとか、ごちゃごちゃとありそう…。)ま、でも、いずれにしても竜夫くん、大学受験よりも本人にとっては大切なことがあったのだから、勉強していなくてもそれはそれでしょうがない。(ちなみに、浪人といえば、船岡憲二という弁護士が出てくるのだけれど、この人も2浪しているらしい。でも、司法試験は「京都の大学」卒業後の翌年には受かっているらしい。最初に受けたのがいつなのかわからないけれど、卒業後、司法浪人を1年しかしていないのに、大学浪人が2年になっているのは、この人の場合、恋愛にうつつを抜かしていたから?)

内容的なことについても少し。そう、読んでいて苦痛を感じたのは、いちばんの謎である竜夫と芙蓉子(ふよこ)の関係がかなり早い段階からばればれというか、少なくとも私にはこうではないかと想像できてしまって。なんていうか、基本的に鈍いほうなので、推理小説を読んでいてあまりそういう謎が解けてしまうことってないのだけれど。この小説の場合でも、時間の問題(というか)に関しては最後までわからなかったし。あと、これもけっこう早い段階で思ったことだけれど、浪人生に注目して読んでいるせいか、同じ作者の『タイム』(出版はこちらがあと)と似ているなと思ったです。浪人生が冤罪っぽいところとか、それに関して証人がキーになっているところとか。真犯人が誰なのかわからない(捕まらない)ところなんかも同じ。ほかに細かいところでは、書かれていて個人的にちょっと嬉しかったのは、“花物語”(というよりはギリシャ神話だっけ?)のナルキッソスとエコーの話(pp.138-40)。初めて知ったとき以来、私はこの話がどうも好きらしくて。ナルシストなナルシス(ナルキッソス)にエコーがふられて結局、声だけになってしまう、みたいな悲恋物語。なんで好きなのか自分でもよくわからないけれど。
 
廣済堂、1980/廣済堂文庫、1990。手もとにあるのは文庫のほう。(文庫はほかの出版社からも出ていたと思う。)これもぜんぜん期待していなかったせいか、意外と面白かったです。※以下、いつものようにネタバレしているのでご注意ください。

2つの話が平行して進んでいく感じの小説で、まず1つは、盛岡から上京してアルバイトをしながら予備校生活3年、それでも合格に恵まれなかった若者、仙波勉(21歳)は、背負わされた借金から田舎の両親が自殺してしまい、生きる張り合いを失ったこともあり、(本人も)自殺を考えているけれど、その前に、「西急デパート」社長の娘を誘拐して、両親の死とも無関係ではない資本主義の象徴である(?)デパートに、一般庶民に商品を無料で提供するように要求する、みたいな話。有名進学塾「四谷清明塾」の春期講習に通っている章子(小学5年)を誘拐し、拾った東大生の学生証で半年前から家庭教師をしている生徒の家邸(一家はただいま海外旅行中)で彼女を軟禁(?)しながら、塾に通えない間に勉強が遅れないようにと家庭教師をしたりする。それと平行するもう1つの話は、誘拐事件が起こる1週間くらい前、西急デパートの常務取締役、石本豊が秦野(丹沢山麓)にある別荘住宅の1つでガス中毒により死んでいるところを発見され、警察が採ろうとする自殺説を信じない妻の映子と、石本が目をかけていた部下の大林徳次郎(銀座支店次長)は、殺した犯人が誰なのかを考えたり、その手がかりを得ようとしたりする、みたいな話。というか、あいかわらずあらすじをまとめるのが下手だな、自分(涙)。

そう、家庭教師を可能にする東大生の学生証を拾ったのが半年前なのに、すでに小学生を5人、中学生を10人教えた経験があるというのは、設定にちょっと無理があるような…。ま、拾ったのを1、2年くらい前にすればいいだけか。だいたいそんなに教え方がうまいのなら、自分ももっと勉強ができたのではないかと思うのだけれど、そんなこともないのかな、勉くん。難関である東大や医学部を志望していたというわけでもなさそうだし、どうして受からなかったのかな(うーん…)。そういえば、本人が受験生として、具体的にどういう勉強をしていたのかは書かれていないのに、小学生の章子がどういう勉強をしているのか(例によって国語は漢字とかだけれど)は書かれている。「受験競争」「受験戦争」というと、作者の頭の中では、大学受験よりも中学校受験(あるいは高校受験――大林は今度中3になる息子のことを心配している)のイメージなのだろうか。そう、デパート商法に対してもそうだけれど、なぜか「受験競争」に対してもそれほど批判的なことは書かれていない感じ。

あと、この小説もたいていの小説と同様、受験生がらみの比喩というか、受験生だからこれこれ、みたいな説明的な表現でかえってリアリティーを損なっている気がする。例えば次のような箇所は、個人的には読んでいてちょっといらっとさせられる。

 <受験勉強一筋で、この数年を過ごしてきた勉は、今回の犯行を思い立ったときも、刑法の解説書を取り寄せて、自分の犯罪が、どんな刑罰に値するのか調べた。(略)>(p.32)
 <(略)。どちらでも、構わないようだが、受験勉強で、いわゆる○×問題の解答を考え続けてきた勉には、ハッキリしないのが妙に気がかりで仕方がなかった。>(p.33)

「受験勉強」というのは「調べ学習」のことなのか? あるいは「受験勉強」というのは「○×問題」(答えが○か×かの選択問題)を解くことなのか? うーん…。AでBを説明する場合(BをAに喩えたりする場合)そのAの部分には、なんていうか、話し手の身近なことや当たり前であると考えていることが来やすいけれど、この元浪人生(というより作者)の常識や経験などと、私のなかの大学受験に対するそれとがずれている感じ。逆にそういうところが一致していれば「そうそう!」と思える小説になるのかもしれない。当然そういう小説のほうを私は読みたいと思っているのだけれど。そういえば、この小説も、単行本が1980年に出ているらしいのに、まだ「国立一期校」とか言っているな…(p.65、廣済堂文庫)。あ、でもこの人の場合、3浪しているのだから、それでもいいのか。

文句ばっかり言っていても文句を言われそうなので、例えば次のような箇所は“浪人生小説”としてはよい感じ(?)かもしれない。

 <勉が、真剣に勉強していたとき、「一生懸命、勉強すれば、必ず試験に合格する」という暗黙の約束が、誰かとできていたはずなのだ[「誰か」に傍点―引用者注]。/けれども、現実は厳しかった。ただ勉強しただけでは、合格はしないことが分かった。勉は裏切られたと感じた。しかし、それが誰に裏切られたのかは、まるで分からなかった。そのために、一層、苛立たしく、絶望的になったのである。>(pp.55-6)

傍点付きの「誰か」と約束するということは、イコール「信じる」ということ? 「努力」について書かれている箇所もあったけれど、「頑張れば報われる」と信じていなければ、基本的に楽しいはずがない受験勉強なんて長い間、続けていられないよね。でも、それはたんなる「信念」にすぎないわけで。受験はかなりシビアというか、結果のみが問われ、過程が問われない(フィリップ・マーロウな)世界、だっけ?(by 高田崇史<千波くんシリーズ>)。結果が出ないことには悲しいかな、過程=努力が肯定されない(自己肯定しきれない)。2浪、3浪と浪人年数がかさんでくると、その“努力信仰”(“ガンバリズム”)も揺らいで来てしまうだろうしね。(よく覚えていないけれど、日本人の努力信仰については、新井素子『ハッピー・バースディ』で少し書かれていたと思う。)あ、上の箇所は、努力(勉強)というのは必要条件であって十分条件ではない、すなわち、努力以外にプラス・アルファとして運なども必要、みたいなふうにも読めるか(読めないか)。話が逸れてしまうけれど、以前、何かにどこかの予備校の先生が(よく覚えていないけれど)生徒から「どうして勉強しなければならないのか?」と尋ねられたら、「そういう問いを忘れるために勉強して欲しい」と答える、みたいなことを書いていたのを読んだことがあるけれど、そういうのはどうなのかな? 平面的な答えではなくて、垂直的な答え(メタな回答)? こんな箇所がある、章子に熱心に(?)勉強を教えているところ、

 <勉は、自分が誘拐犯であることを忘れていた。>(p.120)

自分が何者であるか、さらに勉強していることさえも忘れるくらいの勉強が必要なのかもしれない、大学に合格するには。…って、本当かよ!(汗)。

ネタバレしてしまうけれど、勉くんは、当初デパートが要求を実行したら(章子を解放したのち)するつもりだった自殺を、頭の回転が速いというか、おりこうさんな章子と話をしたりしているうちにやっぱり取り止めることに。――これは幼い女の子に救いがある、みたいなよくあるパターン?(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』とか村上春樹とか、小説ではないけれど、宮崎駿のアニメ映画とか)。社長の子どもが息子であれば男の子を誘拐したのかもしれないけれど。いずれにしても(これもネタバレしてしまうけれど)自殺志願を取り下げた勉くんは、自殺を偽装された形で殺されてしまうことに。――浪人生の目線で読めば、いちおう“青春小説”にもなっている感じ、かな。どうでもいいけれど、もし死なずに自首した場合、その後はどうなったかな? 早めに出所できたとしても、デパートからものすごい額の損害賠償を請求されていて、身動きが取れない感じ?

勉の要求に対するデパート側(大人たちというか)の対応についてぜんぜん触れていないけれど、まぁいいか(汗)。
 
廣済堂文庫、1989。『警察拳銃――冬の旅殺人事件――』という新書版のもの(同出版社、1986)が文庫化のさいに改題されたらしい。これもまったく期待せずに読んだら、意外と面白かったです。※以下、内容にまで少し踏み込んでいますので、読まれていない方はご注意ください。

11月の最後の日。北関東の滝上市で探偵事務所(「鬼塚探偵社」)を開いている「わたし」(鬼塚渉)は、訪ねてきた仙葉国夫という浪人生(2浪)から、昨年、東京で同じ予備校に通っていて、付き合ってもいた女性(徳大寺しおり)を探し出して欲しい、と依頼される。――「解説」(中島河太郎)に<青春を弔うこと>という言葉が使われているけれど、弔われるべき青春は(しょっぱなに浪人生が登場していても)やっぱり高校時代のそれになってしまうんだね、うーん…。「わたし」が捜索を依頼された女性を調べていくうちに、仙葉も含めて関係する人物の多くが1つの高校(「私立滝上学園高校」)の卒業生であることがわかる。そう、仙葉が高校に入学したときには、入れ替わりで高田(智子ではなく)圭子は卒業しているのか。もし高校のとき(高1と高3とかで)出会っていれば、仙葉くんはひと目惚れしていたかもしれないな。

「わたし」というか鬼塚(きづか)は、仙葉の言葉を確かめるために一度、予備校(「S予備校」)に足を運んでいるのだけれど、その予備校は<早稲田大学の講堂に、はりつくようにして建ってい>(p.28)るらしい。で、「わたし」はこんなことも語っている。

 <窓ガラス一枚外は、早大生の天下であった。平日の十一時過ぎだ。キャンパスには次第に学生たちが多くなりつつあった。予備校の校舎のしめる残酷な位置に、わたしは片意地な運命の神を見たような気がした。>(同頁)

「残酷」なだけでなく、隣の芝生はあおいというか、目の前に人参をぶらさげられた馬というか、「来年こそは」みたいな動機付けにもなる…感じかな、楽しそうな学生たちの声は? ――いらいらするだけか(汗)。仙葉は、そこの<昼間部、私大文系志望のFコース>(p.16)に通っていたらしい(もちろん早大志望)。ただ、でも、小説のあとのほうで、あまり予備校には通っていなかった、みたいなことも(ある人の口から)語られている。暮らしていたのは、上高田(中野?)にある下宿(『清光荘』)だったらしい。それが去年の話で、今年(1986年)は滝上市の実家に戻っている。なんとなくいわゆる宅浪っぽい感じがするけれど、「わたし」は仙葉のことを予備校生、予備校生と呼んでいる。そういえば、わりのいいアルバイトというか収入源があったのに、この人はどうして実家に戻ってきたのかな? 予備校に通いつづけながら、人探しも東京の探偵会社とかに頼めばよかったのに。そう、実家にいるお母さんがかなりかわいそうだよね、この小説。東京で勉強していると思っていた息子は実は、女性にストーカーまがいのことをしていた、みたいな…ことをお母さんは知らないまま。大学受験に関しても、母1人子1人なんだから、有名大学に受かるくらいの親孝行はしてから、死んで欲しかったな、仙葉くん。ちなみに「滝上県滝上市」というのは、日光がある県の県都らしいから、たぶん「栃木県宇都宮市」のこと。「解説」によると、作者は東京生まれの宇都宮育ちらしい。

小説の本筋についてほとんど触れていないけれど、まぁいいか(汗)。
 
新潮社、2003/新潮文庫(上下巻)、2006。これはとてもおすすめです、“浪人生小説”としても。2年くらい前に1度読んであったのだけれど、オチ(?)もわかっているし、なかなか読み直す気になれなくて…。とりあえず今回、上巻(手もとにあるのは文庫のほう)の途中まで再読。※毎度すみません、以下、ネタバレ注意です。

 <秀明はやや軽めの明るい浪人生。明るいといっても二浪目に突入したのだから、多少の屈託もないわけではない。しかし、女子大生の彼女もちゃんといて、携帯メールを間断なくやりとりして、にやけてみたり、ふて腐れてみたり……。受験の年の元日の未明、秀明の身体を異変が襲った。胃を握り潰されるかのような激しい吐き気、強烈な圧迫感。それは底なしの恐怖の序章に過ぎなかった。>(上巻の表紙カバー後ろより。)

2浪の予備校生、川島秀明のことを「あなた」と呼んで、彼に“憑いている”らしい「私」が語っている1人称パート(あるいは2人称パート)と、ふつうにその秀明が主人公になっている(「私」は隠れた感じになっている)3人称パートが、章(節)がわりで交互に配されて、平行して進んでいくような小説。いずれにしても秀明が視点人物になっている。ジャンルとしてはよくわからないけれど、「青春ホラー」であるらしい(上下巻帯と下巻のカバー背に使われている言葉)。「やや軽め」というよりは「軽い」よね、「私」は「あなた」を「軽薄」とも言っている。2浪の1週間後くらいに冬期講習が始まるの時期、もう20歳にはなっている?(誕生日については書かれていたっけな――忘れちゃったよ)。個人的には、携帯電話(メール)や彼女(複数)が必需品であるような、いまどきの若者にはぜんぜん感情移入ができないな。秀明は大学生の彼女(美奈子)がいるのに、クリスマスに知り合った別の女の子(沙紀)とも付き合い始めている。クリスマスってもう試験がかなり近いのに…。大学に合格してからSキャラの音大大学院生、カンナが出てきて(この女性とも付き合い始めるわけだけど)多少かわいそうに感じることもあったけれど。でも最後(ネタバレしてしまうけれど)秀明ではなくてどうしてこの人が死んでしまうのか? みたいな…。世の中、不平等にできているよね(って違うか)。

同じ作者による『ライン』(推理小説、過去ログ参照)と同じで、浪人や大学受験に関する言及(特に心理描写)はとてもたくさんあって、あちこち引用したくなるのだけれど、とりあえずそれは我慢するとして。で、この小説のキーワードを1つ挙げろと言われたら、やっぱり「強迫観念(オブセッション)」になるかな。どういう文脈かは忘れてしまったけれど、本文中でもたしか1度使われていたと思う。浪人生は常に頭から受験勉強のことが離れない、みたいな心理(を描くのが、乃南アサはうまいよね)。この小説の場合には、本人は何に憑かれているのかわからないけれど、何かに憑かれている(そのことで頭がぼんやりしたりする)みたいなこともあるし、憑いている「私」のほうも“あなた依存症”みたいな感じであるし。

fight to the finish(闘い抜く)なんて熟語は、試験にでるのかな? ――そういう細かいところはいいか。そう、大学(第1志望は東工大だったのだけれど、早稲田大学の理工)に受かったときに、家族(両親と姉)がとても喜んでいるのが、なぜかとても印象に残っている。息子が受かったことを知って、お母さんは涙まで流している(!)。あ、でも、この家族にしてこの息子ありか、みたいなことはちょっと思ったけれどね、軽薄さの点でというか。あと(これはちょっと触れにくいのだけれど)、美作麻衣という2浪の女の子が出てくる。秀明は美作(みまさか)のことを女としては見ていなくて、友達のように感じている。<女で二浪は、さすがにあまり多くない。>(p.25)と本文中でも言われているけれど、2浪の女子浪人生が出てくる小説は、私はこれくらいでしか読んだことがない(買ったまま読んでないのだけれど、同じ作者の『風紋』にも出てくるっぽい)。ただ、1浪の女子でもそうなのだけれど、女子浪人生は小説では、女の子っぽく描かれないという傾向があって、この小説でもやっぱり(とりあえずは)そんな感じになっている。――少し引用しても大丈夫かな(このブログ、引用が多すぎ(涙))、

 <だぶだぶのスタジアムジャンパーは彼女の体型を完全に隠しているし、短い髪は量が多いのか、または太くて硬いのか、もっさりとしていて、まるでヘルメットでも被っているみたいな印象を与える。そして、サイズもデザインも合っていない眼鏡。小さい鼻。>(p.40、上巻)

現実問題、男の子よりは少ないかもしれないけれど、2浪の女の子も(絶対数としては)けっこういると思うのだけれど、どうなのかな? 彼氏(いれば)の前では、こざれた格好をするとしても、予備校に行く場合は上と似たり寄ったりな感じに? 別に2浪にかぎらないし、女の子にかぎらない話かな、これは。勉強が何よりも大事、みたいなことになれば、メガネなんて見えればいいんだ!とかね(違うか)。そう、自分が予備校に通っているとき、前髪を女の子が使うような髪留め(正式名称がわからん)で留めて授業を受けている男の子がいたけれど(10年以上も前、いまみたいに男の子が油とり紙なんて使わない頃の話です)、なんていうか、なりふりなんてかまっていられないやね。

去年・一昨年と大学に落ちた理由はなんだっけ? あ、受験校を絞りすぎたからとかか(本当にそれが理由で落ちたのか?)。家は東京で実家(家族と一緒)、予備校へは電車通学。早稲田の合格発表がほかの大学(東工大)の試験日と重なっているので、(合格電報ではなく)合格電話を頼んでいる。――そういうことよりも、浪人生の秀明が、道を歩いている現役受験生をどう見ているかとか、大学生の彼女(美奈子)のことをどう思っているか(逆に美奈子がどう思っているか)とか、たいした大学ではないと(主人公が考える)大学に通う友達をどう思っているかとか、あとは不合格(3浪)への不安とか、そういうことのほうが読んでいて面白いか。詳しいことは読んでください……と言ってしまうと、本の感想ブログとして意味がないか(涙)。(ぜんぜん関係ないけれど、この小説本(文庫のほう)は、上巻の終わりのところ(上・下巻の分冊のしかた)がちょっとうまいなと思う。上巻を読み終わった人は、下巻が早く読みたくなると思う。)

かくかように(?)今回もちゃんとした感想が書けていないけれど、個人的にはとても面白く読んだので(読んでいていらいらはするけれど)、おすすめはおすすめな小説です。『ライン』を“浪人生小説”として読んで(ふつうそんな読み方はしないか(汗))いまいちだったという人や、清水義範の『学問ノススメ』がちょっと古く感じるという人は、ためしにこちらを読んでみるといいかもしれない。
 
文藝春秋、1980/文春文庫、1983。ユーモアというか面白さはあるけれど、冗長というか話が長いというか。読むのにいつも以上に時間が……。あと、文庫の帯(古本屋本なのに付いていた)に、<すべての受験生諸君と/かつて受験生だったあなたに/捧げる井上ひさしの/青春オモシロ小説>とあるけれど(文字のサイズ・太さは均した)、別に“大学受験”が主題になっている小説ではないです。※以下、いつものように内容にまで踏み込んでますので、お読みでない方は毎度すみません、ご注意ください。

 <東大コンプレックス嵩じて強度の吃音症に陥った主人公・小松青年は、転地療養をかね郷里・花石に帰省する。東北一の製鉄所(本書ではしぇーてつそと発音する)のある町を舞台に、焼鳥屋の屋台をまもる逞しい母、鉄材泥棒の偽東大生、薄幸ながら心優しい娼婦かおりらが織りなす、笑いと涙の心温まる青春小説。 解説・川本三郎>(表紙カバー後ろより。「しぇーてつそ」「かおり」に原文傍点)

小説は7月下旬、小松夏夫が花石駅(岩手県)に向う列車に乗っている場面から始まっている。登場人物は↑のほかにも面白い人たちが出てきて(岩館老人や鶏先生、マドロス先生など)、夏夫の精神由来の吃音症は、そうした人たちと交わることで(良くなったり悪くなったりするけれど、最終的には)快復していく感じ。↑「東大コンプレックス」とあるけれど、主人公の小松夏夫は、銀杏を校章とする大学(=東大)だけでなく、稲穂やペンのぶっちがいの大学も受けて落ちていて、鷲のマークの大学に通っている。なので劣等感というかは、稲穂やペンのぶっちがいに対しても持っている感じ。「偽東大生」というのは、ネタバレしてしまうけれど、自転車をゆっくりこいで銀杏のバッチを見せびらかすような振る舞いをしていた、焼鳥(モツ串)がこの町でいちばんおいしいらしい屋台(「徳寿」)の息子のこと。夏夫が船に積み込まれる“カマボコ”(銑鉄)の本数を数えるアルバイトをしているときに、その息子がカマボコ泥棒をしているところを見つけ、なぜ盗んだのかきくと、本当は東大生ではないことや、カマボコは売って授業料にしていることなどをうちあける。――住み込みで新聞配達をしている仮面浪人生って、「ニセ学生」と聞いてふつう想像するそれとはちょっとずれている感じ?

 <母親には<銀杏・授業料低額、学生寮・日本育英会・岩手有為会>の線で振舞っている。だが実体は<桜・授業高額・新聞専売所・日本育英会なし・岩手有為会なし>である。そして後者の実像から前者の虚像を差し引くと差額が出る。別に言うと<授業料高額>だけがそっくり残る。>(p.129)

高校を卒業する前(2年前)に父親が亡くなって、それから春になると毎回、東大を受けているらしい(2年前が現役なら、いま2浪?)。この人(名前は後藤秀一)も、遠藤周作「ニセ学生」(『怪奇小説集』)と同じで、苦労している母親に嘘をついているのか…(家族に迷惑をかけられないからとか、家族を喜ばせたいからというのは、ニセ学生誕生のパターン?)。面白ければそれでいいのかもしれないけれど、↑は引いても意味がないというか、そもそも引けないよね(汗)。実像をそのまま残して、虚像をただ消し去ればいいのかな?(それも意味がないか(汗))。桜をやめずにいる理由も書かれているけれど、それはまぁいいか(ちょっとあきれる感じだけれど、ま、憎めないかな)。そう、夏夫は鷲と桜をどっこいどっこい、と考えているみたいだけれど、いまなら(いつごろからかわからないけれど)やっぱり、桜(=日本大学)よりは鷲(=上智大学)のほうがよい、というイメージが一般にはある、のかな(よく知らんけど)。作中年は――昭和28年(1953年)でいいのか、夏夫が受けたドイツ哲学科は、なんと(?)定員割れを起こしていたらしい(募集が20名、受験者が18名だったとのこと)。いまの上智大学では考えられないこと?

今回もまた周辺的なことばかり書いてしまった気がする(汗)。内容的なことでは、えーと、屋台(「花石屋」)を始めてそれを体を張って守ったりする、ちょっとクールなお母さんのこととか、トラブルでアルバイトをすぐに首になって、バイト先を転々としてしまうこと(自立していく過程)とか、もちろん(?)読んでいて面白かったです。
 
 
[追記(2015/02/09)]よくわからないけれど、「桜」は日本大学ではなくて学習院大学のこと? ネットで検索して見てみると、確かに学習院の校章のほうが桜な感じかもしれない。何か井上ひさしのほかの本(エッセイとか)を読めばわかるのかな?
 
新潮文庫、1990。城南大学の仏文学科に学ぶ4人組が探偵役(というか)を務めている青春ユーモア・ミステリー“クラスメイト・シリーズ”の第3作(3巻目)。シリーズぜんぶで何冊出ているのか知らないけれど、とりあえず5冊は確保してあって、いまのところ3巻目まで読了(※以下、毎度すみません、ちらちらとネタがバれていますので、読まれていない方はご注意ください。あ、3巻目だけでなく、別の巻の内容にも触れています)。なんていうか、1巻目(『〜に手を出すな!』・1988)が妹、妹なのに対して、この3巻目では母親、母親といった感じかな(意味不明か(汗))。このシリーズ、ジュニア向けの小説(?)のせいか、書かれた年代のせいなのか、個人的には読んでいてちょっと懐かしい感じがする。

やっぱり大友洋治こと、飯田くん(飯田隆、3巻目まで22歳)のキャラクターでもっているシリーズなのかな、これ。高校のときは喧嘩の達人で英語は苦手だったにもかかわらず、大学では才能を発揮し、努力の甲斐もあって「三冠王」(会話、文法、講読)と呼ばれるフランス語の秀才に…。一方では亡くなった両親にかわって、高校生の妹の面倒を見ながら浅草橋でスナック(『きびだんご』)を経営しているマスターでもある。この飯田くんの東京下町のべらんべえ口調……ではなくて、なんていうのかな、ちょっと乱暴な感じのしゃべり方も、なんとなく懐かしい感じがする。自分が中学生くらいのときって(あ、別に東京ではないけれど)そういうしゃべり方をする人が周りにけっこういたような…。記憶がおかしくなっているのかな(わからない)。

 <ニセ学生からの脱却を目指し、受験勉強に励む隆。電気店でアルバイトに精をだす耕一。理香と奈美子も教授に褒められるほどフランス語が上達し、四人組にも平和な日々が訪れた……とみえたのも束の間、ひょんなことから、耕一が『きびだんご』に連れてきた男・篠田直樹は何者かに付け狙われているようだった。またまた事件に巻き込まれる凸凹四人組。知恵と勇気と友情のシリーズ第三弾。>(表紙カバーより)

メイン・キャラの4人は、飯田くんのほかには、3巻目ではアルバイト(花崎電気)を始めているけれど、当初は女子高の教師を目指して(アイドルの夢丘真樹好きの夢想家でもある)学校とアパートを往復するだけの真面目な貧乏(というより食料に飢えた)学生、島崎耕一、お嬢様で気さくな性格だけれど(大きめのパンプスが脱げたりする)、でもフランス語が苦手で試験前に飯田くんに泣き付いたりする風間理香、バイクで大学に通っている空手4段の、家の塀なんかも軽々と飛び越えられる山岡奈美子がいる。――“でこぼこ”という感じはしないかな、なんていうか、でも、とりあえず息はぴったりあっている感じ。1〜3巻を読んだ感じでは、推理小説として、この4人が“事件”を調べていく動機がちょっと弱い気も…。必然性があまり感じられないよね?(誰に訊いているのやら(汗))。4人の事件からの距離感というか、死亡事件に関して4人の誰かが死体を発見する、みたいなことはないし、そういう意味では人工的というか、ちょっとファンタジー(?)になっているかもしれない。

あ、それぞれのキャラの服装について書いていなかったよ。…別に書く必要もないか(汗)。でも、そう、まだバブル経済・バブル景気が終わる前の1990年前後、大学生の服装はじめファッションとか、憧れているブランドとかは、実際にも、この小説に描かれている感じだったのかな?(わからん)。飯田くんの時代を超越している(?)服装はともかく、理香や奈美子のそれら…? 2巻目(『〜に御用心』・1989)では消費文化の象徴であるところの(?)デパートが登場してきている。3巻目では家電販売店が。シリーズを通して出てくる食べ物や自動車なんかも、そういう目で見れば、そんなふうに見えてくる気かな…。1巻目では学食のかつカレーとかだったのに対して、3巻目ではふぐさしにふぐちりが…!(1巻目を読んでいるとき、いまが夏だからかもしれないけれど、かつカレーはけっこう食べたくなったです)。

ほかにシリーズ・キャラクターとしては、飯田くんの妹、裕美(ひろみ)のほかには、飯田くんが尊敬している(飯田くんも信頼されている)学科長の大文字先生がいるのだけれど(大学教授にふさわしいほのぼのと浮世離れした性格?)、そういえばこの人、3巻目ではぜんぜん出てこなかったような…。1巻目でも2巻目でも、事件の関係者が城南大学の学生(しかも両方の巻とも法学部の4年生がらみ。たたられている学部学年?)だったのに対して――というか、2巻目では大文字先生が死体の発見者になっているのだけれど――、3巻目では事件(というか)の関係者が会社に勤めている社会人だったりするので、大学の場面が相対的に少なくなっているから、出てこないのかもしれない。あと、2巻目から飯田くんが大学を受験する決意をして、勉強を始めてしまっているので、小説の関心が大学の授業からちょっと離れていることにも原因があるのかもしれない(というか、そんなことどうでもいいや(汗))。

そう、1巻目で飯田くんが大学の生協で校歌のレコードを購入している。生協ってそうものも商っているんだね(ちょっとびっくり)。自分が通っていた大学でも売っていたのかな、というか、自分の卒業大学の校歌があるのかないのか、それすらも知らない(汗)。いままでぜんぜん考えたことがなかったけれど、校歌を愛するのって、愛校心の現れなんだね、知らなかった(気づかなかった)です。4巻目(『シスター・パニック』・1991、まだ10ページくらいしか読んでいないけれど)の最初のへんでは、大学に合格した飯田くんが生協で購入した“城南大グッズ”をあれこれ身につけたりして登場している。ほかの受験生も見習うべき愛校心? 飯田くんの勉強方法からもちょっと何か学べるかな。勉強し出したら(集中し出したら)学生食堂でも併設の喫茶室でも、猪突猛進型というか、暴走機関車タイプというか、そんな感じの勉強姿勢……まねできないか(汗)。

あと、やっぱり1科目でも得意な科目があると、受験においては得というか、ちょっと有利な感じではあるよね。ネタバレしてしまうけれど、飯田くん、英語が不得意で「アイ・ハブ・ア・ペン」(I have a pen.)から勉強していたところ、英語の代わりに得意なフランス語で受験できることがわかって、だいぶ楽になる(もちろん、英語が苦手なのに仏語が得意、という設定に関しては、本文中でほかの登場人物からツッコミ(?)を入れられている)。でも、国語は小学校の漢字から勉強しているけれど。受験科目はあと世界史があって、合計3科目。試験問題はマーク・シート方式らしい。そう、高校をいちおう卒業できているのが意外と大きいかも。中退であると大検を受けて…みたいな位置からスタートしないといけないから。やっぱりほのぼの小説だよね(?)。

そういえば、本文中に一度でも「浪人」という言葉は出てきたっけ? 出てこなかったような…。以前にも書いたような気がするけれど、大学を受験してちゃんと(?)落ちていないと“浪人生”という感じはしないかもしれない。しかも、飯田くんの場合、すでにちゃんと働いている感じで、そういう意味では“社会人入学”とか、2度目の受験ではないけれど、“再受験”とかそんなようなイメージがあるかもしれない(そうでもないかな、わからない)。でも、いずれにしても、個人的にうらやましく思うのは、友達やその他のクラスメイトたちや、妹から、大学受験を心から応援されているところ、かな。これは当然、キャラクターのたまもの? 自分が大学受験のときのことを振り返っても、表面的な人たち(?)を除けば、応援してくれる人(味方というか)なんて、ぜんぜんいなかったもんな…(遠い目)。

ちなみに「城南大学」というのは、5巻目(『〜はフォーリン・ラブ』・1992)の「解説」(板橋雅弘)であれこれ書かれているけれど、TVドラマや小説を作るさいの有名な“フリー素材”というか、TVドラマや小説でよく見かける大学の名前。最近ではTVドラマの『相棒』を見ていたら出てきていたけれど。あのドラマでは(『アサヒ芸能』ではなくて)『キリン芸能』という雑誌も出てきていたっけな(「アサヒ」「キリン」ってビール? 『ユウヒ芸能』ではサマにならないか)。半村良の小説『下町探偵局 PART1』(過去ログ参照です)では、会話の部分でたしか、小説では大学は「城南大学」、新聞は『毎朝新聞』が定番、みたいなことが書かれていたと思う(それを小説の登場人物が口にしていることが、メタ的に面白いのかもしれないけれど)。ちなみに“クラスメイト・シリーズ”の「城南大学」は、田町にあるらしい。
 
角川文庫、1998。シリーズ何作目? ちゃんと調べないと(この本だけでは)わからないけれど、とりあえず、『ぼくらの七日間戦争』(左の画像はこれ)に始まる“ぼくらシリーズ”の1作。

 <勉強なしの少人数制、ストレスがないからイジメもない。銀座・勝鬨[かちどき]中学は、親にも教師にもなつかない“のら犬”たちの楽園。けれど、あと一年足らずで廃校が決まっている。それを知った「ぼくら」は学校を最恐のお化け屋敷に改造!!/ところが、戦争中建てられたというその校舎には、お化け屋敷よりも恐い、凶悪犯罪組織の秘密が隠されていて…。ヤクザの3D[スリー・ドラゴン]が、のら犬たちを脅かす。/大都会の神話、子どもたちの砦を守れ! 知恵と勇気の大作戦。>(表紙カバーより。[括弧]はルビ。)

4月、浪人している菊地英治のもとに、中学のときの担任、北原から電話がかかってきて、おれがいま出向している廃校間際の中学(生徒10人、のちに増えて12人に)で、教師の助手として手伝わないか、みたいなことを言われ、中学の教員が志望でもある英治は、その誘いを喜んで(?)引き受ける、みたいな始まり。シリーズ全体に言えることかもしれないけれど、映画『ホーム・アローン』の団体版というか、そんな感じかもしれない。中学生たちが、いろいろな意味で悪い大人たちに対して、いたずらの延長的な、相手が死なないくらいの仕掛けを作って、攻撃を防いだり攻撃をしたりする、みたいな感じ。

浪人中、勉強とはまったく関係のないアルバイトをするよりは、相手が中学生であれ(お金にはならないものであれ)勉強を教えたりするほうが、まだましかな? うーん…。ま、どうでもいいか、そんなこと。というか、小説の関心(?)が“浪人生”よりも“中学生たち”(=子どもたち)にあるのだからしかたがない。“浪人”がらみのことは、いちおう最初のへんでちょっと触れられている、けれど、あとは全体的にあまり書かれていないかな。でも、浪人していたりするとやっぱり、元同級生(“ぼくら”のメンバー)に会うたびに、<「私。勉強してる?」>(p.39)とか、<「ところで勉強のほうはどうだ?」>(p.43)みたいなことを言われてしまう(あ、これはともに電話か)。英治くんは、通っていた塾とはつながりがまだあるみたいだけれど、予備校には通っていない模様。ちょっとネタバレしてしまうけれど、中学校の廃校が早まってしまうので、そのあと勉強する時間は十分あるかもしれない。ちなみに“ぼくら”のなかでは、英治のほかに柿沼(医者の息子、お気楽浪人生?)と安永が浪人しているらしい。

英治を始めとして“ぼくら”というのは、全共闘チルドレンというか、いわゆる“団塊ジュニア”であるので(第1作の『〜七日間戦争』など参照)、教師になるにしても就職が大変な足踏み世代、いわゆる“ロスジェネ”(ロスト・ジェネレーション)にあたるから、前途はけっこう大変かもしれない。ま、そのへんとかは続編、続々編を読んでいけばわかるかもしれないけれど。そういえば、いまどきの中学生は…的な発言を英治はしているのだけれど、よく考えたら3年生の生徒たちとは4つしか違わないよね?(作者のご意見が混じってしまっている感じ?)。あと、ぜんぜん関係ないけれど、最初のへんにちらっと出てくる、ひとみの大学(教育学部)の友達、笹本遥という人が、なんのためにこの小説に登場しているのか、がよくわからない。何か布石というか伏線として使おうとして、回収し忘れたのかな?(あるいは同シリーズの別の作品にも出てくるとか?)。

そういえば、これもぜんぜん関係ないけれど、小説の始まり(?の1の冒頭)が、T.S.エリオットの「荒地」(詩)の冒頭っぽくなっている。たまたまだろうけどね。

 <四月は、学校を落第した者にとっては残酷な月である。>(p.5)

あれ、「落第」とか言っているな。世代論(?)はあまり好きではないのだけれど、90年代後半、もう、受験生たちは入学試験で不合格になることを「落第する」とはあまり言わないかもしれない(ちなみに作者は1928年生まれ)。
 
講談社X文庫ティーンズハート、1994。シリーズものの18冊目らしい(上下巻が1作あるみたいで、17作目らしい)。順に読みたいのだけれど、どこの古本屋にも行ってもぜんぜん売っていなくて、とりあえず(あまり行かない古本屋で)やっと手に入ったのがこの1冊。※以下、いつものようにネタがばれていますので、読まれていない方はご注意ください。基本的に高校1年から主人公の学年というか年齢があがっていくタイプのシリーズらしく、この1作は浪人生編の最後にあたるようだ。――で、ぜんぜん期待せずに読んだら意外と面白かったです。けっこう“浪人生小説”にもなっている感じだし。でも、だからやっぱり、現役受験の手前くらいから読みたかったかな。ま、そのうちどこかの古本屋でふと出会うこともあるか。

 <ホシオと出会って、3年の月日。/宇宙船にのって地球にやってきたホシオだけど、見た目は、ふつうの日本人。/あたしのイトコってことになってる、あたしの落ちた燈林学院大1年生。/あたし、百武千晶。19歳、予備校生。/燈林に入れなかったら、クリスマスも、ヴァレンタインも、きっとあたしの誕生日もこの地球から消滅させてやるわ……。/お願い、ホシオといつも一緒にさせて>(表紙カバーの折り返しより。最後の「させて」のあとに白抜きのハートマーク)

なんていうか、「ホシオ、ホシオ」と言っているような小説、かな。秋くらいから始まっていて、ストーリーとしては、燈林の学園祭、クリスマスにヴァレンタイン、といった感じなのだけれど(ってどんな感じだよ…)、“浪人生小説”としての読みどころは、まず、やっぱり大学生と浪人生はわかりあえない、みたいな部分かな。「あたし」のいらいら、というか。ホシオくんの名言(?)があるな、

 <ホシオは笑って、/「千晶と話していると、大学生でいることが犯罪みたいな気がしてくる」>(p.111)

。「大学生は大学生で大変」とか「浪人時代もあとから振り返ればいいもの」的な発言は、大学生未満の浪人生の神経を逆なでするよね。たしかに千晶の言うとおり、そういうものはマリー・アントワネット的な発言(「パンがないならお菓子を食べればいいのに」)だよね(…でも、ちょっとずれているか)。彼女が勉強で忙しいだろうから会わないようにしたり、電話もあまりしないようにしたりする、みたいなことはどうなの? なんとなくありがちなベタなカップルという気もするけれど、あまり小説では書かれていない部分かもしれない。それにしても、ホシオくんは寛容というか、優しい感じだよね。浪人生の彼女をもつ大学生が読めば、ホシオくんの対応は多少参考になるかもしれない(って、ならないか(汗))。でも、いまさらながら受験生は大変だよね、クリスマスは模擬試験、ヴァレンタインは本命大学の入試日…。

ネタバレしてしまうけれど、世界史を捨てて英語と国語だけ勉強して、その世界史のために落ちたと思っていたら、実は(英語で高得点をとっていて?)受かっていた、みたいな(“ところがどっこい”的な?)展開は、まぁ、漫画でよくありそうな感じかな(某漫画では、落ちたと思ったら補欠で合格していた、みたいなことが)。書き忘れていたけれど、「あたし」は都立高校卒。ちなみに、「あとがき」によれば、作者の津原やすみ(津原泰水)――男性作家だよね?――も「A山学院大学」に入るのに浪人しているらしい。浪人時代のことを、<いま思うとやっぱり楽しかった>、<不安定で、自由で、不思議な時代でした>(ともにp.205)と語っている。(関係ないけれど、清水義範「国語入試問題必勝法」的なことが書かれている箇所もあったっけな。えーと、p.87か。)
 
『アタシはジュース』(TOKYO FM出版、1995/集英社文庫、1996)所収、4篇中の4篇目。予想していたよりは面白かったです。現状に行きまづっている主人公が、きっかけを与えられて立ち直っていくというか、結果として現状が打破される、みたいな話かな。文章(文体)はちょっと軽い感じだけれど(何か映画とかのノベライゼーションっぽい感じもする)、明るくて個人的には嫌いではないです、こういう小説。※以下いつものようにネタバレにはご注意ください。

6浪めの6月、道を歩いていた「オレ」は女性から声をかけられ「人間レンタル」の会社にスカウトされる。――多浪であるとやっぱり、ちょっと漫画っぽくなっちゃうよな。「6浪」って勉三さん(from『キテレツ大百科』)にも匹敵してしまうし。どうでもいいことだけれど、おもいっきり某予備校、の生徒が出てくる小説は今回、初めて読んだと思う。

 <「村上さとる。二十四歳。駿台予備校午前部文科?類六年生。東京都三鷹市在住。両親健在。賞罰なし。悪いけどキミの経歴はあらかじめ調べさせていただいたわ。(略)」>(p.142、文庫)

この予備校、90年代半ばくらいには「午前部/午後部」という分け方はもう、なかったのではないかと思うけれど、それはそれとして。「人間レンタル」は要するに演じるわけだから、研修(?)は演劇の訓練みたいな感じになっていて、村上くんは、声をかけてきた女性、一瀬薫(「有限会社東京ハッピネス・クリエイティブ」の理事)から、下北沢にある会社の入っている雑居ビルの屋上で、≪おたけび≫というのをやらされている。

 <「ボ、ボクはス、駿台予備校の……」/「声が小さい!」/「ボ、ボクはス、駿台予備校の……」/「声が小さい!」/「ボ、ボクはス、駿台予備校の……」/「声が小さい!」>(p.156)

「養老の滝」にしてもユーミンのコンサートにしても、登場人物たち(例えば慶応大生の夏目忠やレンタル依頼者の桜田育代)にしても、肯定しているのか否定しているのよくわからない小説だけれど、↑この某予備校に対してもそんな感じかな。読者への宣伝になっているようななっていないような…。というか、なっていないか(汗)。何度も落ちて6浪なわけだし、主人公は(先のほうを書きすぎてしまうけれど)人間レンタルをやめてから、後期は授業料を払えなくて除籍されたと言っているし。6浪めが決まって親からは学費は出さないと宣告された、ってそれは当然だよね、むしろ親はよく5浪めまで面倒を見たよ(汗)。でも、予備校のほうも、生徒が不真面目で落ちたとか、高望みをしすぎて落ちたとか、そういう理由でなければ、4浪めくらいから無料にしてあげるとか何かフォローしてあげればいいのにね。関係ないけれど、あと、<駿台予備校は席順は成績で決まる。>(p.195)と「オレ」は語っているけれど、この小説が出版された当時くらいまでかな、たしかいまは違うんじゃなかったっけ?(よく知らんけど)。

そういえば(これもどうでもいいことだけれど)、2浪のときに付き合っていた元彼女(当時1浪、現在上智大学4年生)の名前が、川上さとみ。「村上さとる」と「川上さとみ」って、どうしてそんなに似た名前を…? 固有名詞とかってどうも気になってしまうな、集中して読んでいないからかな。その彼女と最初の仕事(?)のときに再会するのだけれど、3年以上も主人公のことを好きでいてくれた大学生ってどう? そんなけなげな女の子はあまりないような…。でも、村上くんのほうが、大学に受かった彼女の前から勝手に去ってしまったみたいだから、彼女=川上さんのほうに未練があっても不思議ではないか。

彼女も戻ってきた感じになって、レンタル人間(「クリエイター」)をやめてから“宅浪”として勉強に集中し始めるのだけれど、勉強方法が…、これはちょっと真似できないかな。まず、日本史・地理・生物などの暗記科目は頭に入っているから勉強せず(うらやましいやね)、英語と数学だけを勉強し始める。その2教科の勉強のしかたも個人的にはちょっとどうかな…と思う。その前に、6回も受験に失敗している理由はなんだっけ? 例によって小説にありがちな「本番に弱い」とかか。この小説では「オレ」は、それは思い込み、言い訳だったみたいな反省をしているけれど。――で、ネタバレしてしまうけれど、東北大学文学部に合格。そう、合格電報(というあたりも90年代な感じがしないけれど)が、<「ミチノクニ サクラサク」>(p.206)というのは、意外とふつうだな、東北大学。

はい、今回の教訓――。勉強にいきづまって、人生にもいきづまってしまっている多浪の人は、意外とアルバイトを始めてみるとか、劇団員になってみるとかすると、人生が開けてくる?

(ちなみに、同書の2篇目「体育館少女」では、浪人生ではないけれど、高校を卒業して3ヶ月、何もしていない感じの女の子が語り手兼主人公。)
 
大学受験の勉強といえば暗記、暗記といえば英単語または歴史の年号、英単語といえば市販の単語集『豆単』または『でる単』。逆にいえば『豆単』または『でる単』は、受験勉強を象徴するもの、ということになる。……ほんまかいな(汗)。

(1) 『豆単』『でる単』両方とも出てくる小説。
  霞流一『おさかな棺』
  北村薫『スキップ』
  小峰元『ピタゴラス豆畑に死す』

(2) 『豆単』が出てくる小説。
  井上ひさし『青葉繁れる』
  遠藤周作『ただいま浪人』
  小峰元のいくつかの小説(『ピポクラテスの初恋処方箋』など)
  清水義範「続・イエスタデイ」(『イエスタデイ』)
  干刈あがた「雲とブラウス」(『樹下の家族』/文庫『ウホッホ探検隊』)
  三木卓『柴笛と地図』
  村上龍『69』
  村田基「山の家」(『恐怖の日常』)
  森詠『那珂川青春記』
  結城恭介「美琴姫様騒動始末」(『美琴姫様騒動始末』)

cf. 『豆単』は出てこないけれど、abandonが出てくる小説。
  庄司薫『さよなら快傑黒頭巾』
  中上健次「黄金比の朝」(『岬』)

(3) 『でる単』が出てくる小説。
  五十嵐貴久『Fake』
  江國香織『流しのしたの骨』
  清水義範『学問ノススメ』
  延江浩「レント・ア・キッス」(『アタシはジュース』)
  氷室冴子『雑居時代』
  姫野カオルコ『ひと呼んでミツコ』
  ――『ラブレター』/文庫『終業式』
  日向章一郎『蟹座の君を忘れたくないから』
  松村栄子「僕はかぐや姫」(『僕はかぐや姫』)
  みうらじゅん『自分なくしの旅』
  皆川ゆか『太陽系アイドル伝説』
  室井光広「ヴゼット石」(『そして考』)

cf. 『でる単』が出てくる漫画。
  原秀則『冬物語』

・集めているわけではなく、たまたま見かけたものだけ。
・書名そのまま(赤尾好夫『英語基本単語(熟語)集』、森一郎『試験にでる英単語』)で出てくるよりも、略称(『豆単』、『でる単』『シケ単』など)で出てくることのほうが多いです。
・出てくるといっても、物として出てくるのではなく、話の流れの中でたんなる名前(言葉)として出てくることが多い。
・ちなみに、英単語関係で、小説を読んでいて『豆単』や『でる単』と同じくらい出てくるものに『コンサイス』(『コンサイス英和辞典』三省堂)がある。

(0) 『コンサイス』が出てくる小説。
  阿部昭「未成年」(文庫『子供部屋』)
  井上ひさし『花石物語』
  宮部みゆき『蒲生邸事件』
  森詠『那珂川青春記』

cf. 『コンサイス』を使っていた作家(以下のエッセイ集を参照)。
  大江健三郎『私という小説家の作り方』
  常盤新平『そうではあるけれど、上を向いて』
  吉村昭『私の流儀』

最終更新:2010/03/17
 
新潮社、2004/新潮文庫、2007。「零時」から「二十三時」までの24の時をお題にした「私」による回想的エッセイ風の連作短篇集(「私」が同一人物であるとすると、矛盾しているように感じる箇所もあったけれど)。子ども時代から始まって…みたいな時系列になっているわけではなく、配列も「二十三時」「十八時」「十三時」…と始まって最後は「四時」で終わっている、みたいなことになっている。各篇を超えて全体的に何度か繰り返して出てくるもの・ことがあるのだけれど(犬とか雪とかラジオ番組とか)「浪人生」というのもそのなかの1つ。

「私」の年齢に即して言えば、(1) 中学生のころに空家だった隣家に越してくる4人家族(+犬)の息子が、家からあまり出ない感じの暗い浪人生(「一時」)、(2) 高校3年生のときに予備校の冬期講習に通い始めてそこで友達になる人のなかにや、その友達たちと一緒に行き始めた予備校近くの喫茶店に客としてたくさんの浪人生が(「十一時」)、(3) (浪人せずに)大学生になったときには同じ歳の幼なじみ(男の子)で、高校3年の秋くらいから「私」が飼っている犬(「くま」)の散歩を一緒にしていた「よっちゃん」が、恋に目覚めた浪人生に(「二十二時」)、(4) 同じく大学生のときには予備校生や予備校OBが集う喫茶店で知り合って付き合い始めるのが、健康を害していく浪人生(「七時」)。「私」自身は浪人していないのに“浪人生”によほどの縁があるのかなんなのか、この人。暗かったり明るかったり、その両方を持ち合わせていて「私」にはせつなく思えたり、数種類の浪人生が描かれている。群像小説のように(並列的に)複数の浪人生が描かれているのではなく、見つめる側の「私」の立場も変わっていっていることが、ほかの“浪人生小説”とは一線を画しているかな。

  (1) 私=中学生〜高校生 → 浪人生=隣家の息子
  (2) 私=高校3年(現役受験生) → 浪人生(集団的)=友達たち/喫茶店の客たち
  (3) 私=大学1年 → 浪人生(よっちゃん)=幼なじみ
  (4) 私=大学生 → 浪人生=彼氏

別にまとめる必要はなかったか(汗)。で、“浪人生小説”としておすすめなのは((2)も面白かったけれど、団体だからはずすとすれば)(4)しかないか。多浪&リタイア系。あらすじを書きすぎてもアレ(?)だから、短いですし、読んでみてください。

ところで、早稲田大学のある高田馬場は予備校街でもあるの? 知らなかったです。いまでもそうなのかな?(「私」はたぶん作者と同じで1960年生まれ)。大学に入る前にその大学の校歌を歌える浪人生って、確かにちょっと切ないやね…(あ、(2)に関して)。実際のところ、いま志望校の校歌を歌える浪人生っているの? あまりいない気がするけれど…。というか、早稲田なら私もちょっと歌えるか、ふつうに有名だから(汗)。♪都の西北〜。(浪人生と校歌に関しては、旧制高校だけれど、中野孝次「雪ふる年よ」(『麦熟るる日に』)、浪人中のことではないけれど、遠藤周作のエッセイ「わが青春に悔いあり(二)」(『わが青春に悔いあり』)など参照です。)
 
講談社文芸文庫、1993(図書館で借りたもの)。なんていうか、時代的にいま読むような本ではないような…。そういう言い方はよくないか、とりあえず個人的には面白くなかったです。なので、例によって最後まで読み通せず(どうにか読んで173頁まで到達、3分の2は読んでいるかな)。単行本は講談社から1971年に出ているらしい。

主人公の寺沢は千葉医大に落ちたらしく、浪人している。――高校浪人が出てくる小説は2、3作読んでいたけれど、大学浪人が主人公の小説は今回初めて読んだと思う、たぶん。あ、昭和5年(1930年)の話です、旧制高校・旧制大学の話。やっぱり現在の大学浪人生と較べると、この寺沢くんは大人な感じ、というか。高校の友達である中島と三浦は、東京ですでに左翼運動に加わっていて、自分もその運動に足を踏み入れるかどうかで悩んでいる。まぁでも、大学に落ちた理由が「怠惰で意志薄弱」とか、性欲が強くてどうのとか、そういう点では現在の浪人生が読んでも、多かれ少なかれ共感できる部分もあるかもしれない。そう、友達の2人とも東大に通っているのだけれど、中島のほうだっけな、なんと(?)無試験で入ったと言っていて。大学入学の大変さに落差がありすぎ、というか、昔から医大は入るのが大変だったのかな?(あいかわらず学校制度、入試制度がわかっていないです自分(涙))。寺沢が通っていた東海にある高校というのは、作中には名前はなかったと思うけれど(本の後ろの「解説」などを読むと)作者が通っていた八高のことらしい。寺沢くんは1年のときに落第したらしく、4年かかって卒業したとのこと。で、この人は何歳なの? 中学4年で高校に入ったとしても(いわゆる四修だとしても)20歳にはなっているよね。――いまさらだけれど、本の後ろの文句を引用しておこうか、

 <性と思想に切り裂かれる青春を頑なまでに潔癖に生き、後年の著者の厳しく深い文学と人生を予感させる青春像。昭和初期に青春を生きた知識人が不可避だった“思想”問題、それを自らに苛酷に課した著者の苦悶、家族への深い愛。時代と自分の良心を誠実・厳格に生きた著者の青春自伝。>(カバー背より)

「青春」の大安売り…というか、頭痛が痛くなってくる文言? それなら“浪人”について一言くらい触れてくれてもいいのにな。それはともかく、翌年の受験に関しては結局(ネタバレしてしまうけれど)救世主が現れるというか、友達の三浦経由で、同じ高校の卒業生で千葉医大に通っている朝川と再会して、いろいろなアドバイスをもらって――ドイツ語の出題者は何々先生で、たぶん何々という本から出題するからとか、ピンポイントな感じ、で――合格してしまう。でも(これも本の後ろの「解説」をカンニングすると)作者は同じ大学に入るのに2浪しているらしい。性の問題のほうは、その合格がわかった日に思い立って遊廓に行って、あっさり解消(?)してしまう感じ。飛び込んでみればあっけなかったというかなんというか。それで自信(?)がついたあとは、同じ大学に通っている神谷(既婚)の義理の妹に手を出したりしている。この人はやっぱりちょっとずるいのかな…、後だしジャンケン的な振る舞いが多いような気が。左翼運動にしても性的なことにしても、自分の意志ではなかったとはいえ、進学に関しても、人の振りを批判的に見たりしたのちに行動をとっている。あ、あと家族のことにも触れておけば、実家は薬屋で、兄(元医大生)と妹が結核で病床に臥せっている。最初は仕送りをしてもらっているのだけれど、東京に出てからはそれを断っていちおう働き始める。労働者が暮らしているアパートに住み始めて「ルンペン」を自称したりする。――やっぱりこの小説を読むより、小林多喜二の『蟹工船』でも読んだほうがまし? 最近はやっているらしいし。そういえば、寺沢くんはけっこう引っ越しをしている。勉強に集中するにはあまりいいことじゃないよね、わからないけれど。

ぜんぜん関係ないけれど、寺沢は試験の前に心を入れかえるために赤城山に行って一泊している。夜なかに外をほっつきあるっていたら宿の主人に自殺志願者と間違われて…、みたいな。『二十歳のエチュード』の原口統三(一高生)がその山で自殺に失敗したのはいつだっけ? だいぶあとかな(15年以上もあと?)。赤城山は別に自殺の名所というわけではないと思うけれど。

+++++++++++++

[追記] 図書館で上の本を返したあと、『藤枝静男著作集 第六巻』(講談社、1977)を借りてきたのだけれど、後ろのほうに載っている年譜(伊東康雄による)を見てみると、高校に入るのにも浪人しているようだ、この作者。まず中学4年で八高に落ちている。で、中学にはそのまま通わなかったらしく(この人みたいに高校に受かっていないのに、四修で中学校に通わなくなっちゃう人ってけっこういたの? 作家ではたしか柴田錬三郎がそうだったっけな)、その時点で浪人生になっているといえばなっているのかもしれない。翌年は――引用したほうが早いか、

 <大正十四年(一九二五年)/三月、旧制第一高等学校に願書を出したが試験場入口から引返して浪人となる。兄とともに名古屋市(略)に下宿し、医大病院裏手の予備校中野塾に通う。(略)>(p.383)

どうして引き返したのか、ちょっと気になるな。その前にこの年は(八高ではなく)一高を受けようとしたんだね、それもどうしてなんだか…。天下の一高ゆえにひるむなり、諦めるなりした?(うーん…)。この「中野塾」という予備校はもうないのかな?(有名どころ?)。その後はだいたい上で書いた通りで、翌年に八高に合格。1年で落第、4年かかってそこを卒業して、3度目で(2浪して)千葉医大(千葉医科大学)に合格。要するに浪人期間は、高校浪人1年(または2年)・大学浪人2年といった感じ。
 
手もとにあるのは『人でなしの恋』(創元推理文庫、1995)。その最初に収録されている1篇(全10篇)。初出は大正14年(1925年)であるらしい。初めて読んだ江戸川乱歩なのだけれど、うーん…、ちょっと微妙かもしれない。今後ほかの作品を読みたいとは、あまり思えなかったです。※以下、ネタバレをしているところがあるので、ご注意ください。

小説(「一」の冒頭)は、次のように始まっている。

 <僕の書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。>(p.9)

「日露戦争」っていつだっけ? また無知がばれてしまうな(涙)。調べてみると、→1904年から1905年?(あってますか?)。「すぐあと」というのは、主観的というか、人によってばらつきが出そうな気がするけれど、個人的には2年くらいまで、この場合なら1907年くらいまでなら許せるかな。1905年であれば(基準にしていいのかどうかわからないけれど)久米正雄の「受験生の手記」(『学生時代』)の作中年よりも7、8年くらい前になるのか。それよりも問題(というか)は「書生」という言葉のほうであると思う。個人的には「書生」というのは、作家とか、ちょっと偉い人の家(一軒家)に住み込んで、お使いを頼まれたり、留守番をしたりする(学校に通っている)学生、みたいなイメージがあるけれど、それは「書生」の一部だけなのか、知らんかったです(やっぱり無知…)。――上で引いた箇所は(1度改行されて)次のように続いている。

 <その頃、僕は中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時僕の地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、僕は小学校教員をかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、その頃は、そんなのがめずらしくはなかったよ。何しろ給料に比べて物価の方がずっと安い時代だからね。>(同頁)

えー!これで「書生」なの?(とかつい思ってしまうけれど、それは私の持っているイメージのほうが間違っているわけか…)。↑ほかにもわからないことだらけというか、頭に疑問符がたくさん浮んでしまうというか。中学を出ていれば小学校教員(代用教員?)はできるのか、それも知らなかったです。しかも、物価に比べてお給料も悪くないらしいし。(時代はもっとあとだけれど、作家ではたしか坂口安吾もしている、小学校の代用教員。落第したりして中学校を卒業するときにはだいぶ歳がいっていたみたいだけれど。)そういえば、いま大学(高校の上級学校)のない都道府県ってないよね、考えてみるとちょっとすごいことかもしれない。――んでさ、この「僕」は“浪人生”とは呼べるの? 呼べないの?(うーん…)。別に呼べなくて困るわけではないけれど。一般に(?)「書生」と言った場合、そのうちの何割くらいに“浪人生”が含まれているのか、がよくわからんです。ま、でも、とにかく、この人もしっかりお金を蓄えてから上京しないと(早瀬乱『三年坂 火の夢』みたいに)東京で人力車を引いたりする羽目とかになっちゃうよね。たいへんだ(「気の長い話」ってどれくらいなんだろう? そんなにすぐには貯まらないか)。そういえば、勉強のほうはあまり問題がないのかな、この人。

小説の主要部分に関係のない話ばかり書いてもアレなんで、ミステリ部分にも少しだけ触れておくと、「役者」は結局、誰か みたいな話? というか、ネタバレしてしまうけれど、結局のところ、新聞記者をしているR先輩(中学校の先輩)というのが何を考えていたのか、いるのか、がよくわからない。狐につままれたような読後感、ですが、それいいの?(いいとか悪いとかではないか(汗))。
 
官○小説ではないのにエ○な検索にかかってしまいそうな予感が…。まぁどうでもいいか(最近なげやりぎみです(汗))。シリーズものの1作目『女医彩子の事件カルテ』(光文社文庫、1990)に収録されている5話のうちの「第一話」。なんていうか、18、19の娘2人が危なっかしい感じがするのだけれど、意外と年ごろの娘をもつおっさんが安心して読めるような小説になっているかもしれない。

桃子(18歳・3月生まれ)は1年浪人して(予備校に通って)、父親が薦める政治学部(私大)と自分が行きたかった芸術学部の両方に受かるのだけれど、絵を道楽(趣味)と考える父親には芸術学部のほうに行きたいとは言い出せず(言い出しても聞き入れてもらえそうになく)、経済学部のほうには父親がすでにお金を払ってしまっているし、芸術学部のほうは手続きの期限が迫っているけれど、アルバイトをして貯めたお金ではだいぶ足りない……ので、どうするかといえば、要するに女の子ならではの(?)体でどうにかみたいな話。高校を卒業して働きながら夜は赤坂でホステスのアルバイトをしている親友の紅子(19歳)の勧めで、彼女のお客であるおじさんに処○と引き換えにお金を借りる、みたいな計画。場所はなぜか(?)箱根のホテル。

なんていうか、小説としても微妙であるし(作者が医者で、専業小説家ではないからしかたがないかもしれないけれど)、常識的にちょっと変だなと感じる箇所も少なくない(書かれた時代のせいもあるかもしれないけれど)。後者については例えば、

 <この二月に、父のすすめる政治学部を受験、そして合格。/父は、まるで自分が合格でもしたようにはじゃぎ、高いブランデーをふんぱつして祝ってくれたが、桃子の[芸術学部で勉強したいという]意志は変わらなかった。>(p.21、[括弧]は引用者補足。)

大学に合格してブランデーをごちそうしてくれても(いちおう未成年でもあるし)あまりうれしくない気が…。というか、それはお父さんが自分で飲むの?(ちょっと変じゃない? 私が変な方向に考えているだけかな)。受験にも関係する箇所では、例えば、

 <[過去の話→アルバイトは]模擬試験があると、予習で休まなければならない。>(p.24、[括弧]は同上)

ほかの小説でも似たことが書かれていそうだけれど(なので、あげあしとりかもしれないけれど)、「模擬試験」の「予習」をするってちょっと変じゃない?(というか、誰に訴えているのやら(汗))。予習できないのが模擬テストというものでは?

芸術学部――私立か国公立か書かれていなかったと思うけれど――は昨今の「受験難」もあって、倍率が三十数倍らしい。でも、一次の学科試験で6倍に絞られるらしい。たいていの人は門前払いをされてしまう感じか。私はぜんぜん知らないのだけれど、ふつうの(フィクションではない)美大や音大はどうなのかな? 実技試験よりも筆記試験のほうが倍率的にたいへん?(わからん)。お金は、いま大学に入るのにさしあたってどれくらいかかるの? 美大とか音大のほうがたくさんとられるのかな? この人(というかこの小説)の場合、入学金(+1年分の授業料?)で130万円もかかるらしい。

最後は、もちろんシリーズ・キャラクターの彩子先生も登場してきて、ハッピー・エンディングな感じになっている(なんていうか、昔のコメディTVドラマなんかでありそうなオチかな、小説でもありそうだけれど)。桃子は油絵の勉強という夢(油絵を勉強したいという目的)をちゃんともっていて、そのへんに強みがあったというか。夢も目的もない人は親の言うがままになってしまう…のかな。あ、書き忘れていたけれど、桃子は大学には受かっているし、1つの大学にはお金も納めているし、浪人生でないといえば浪人生ではないかもしれない。ただ、家に帰るまでが遠足、ではないけれど(?)、自分の入りたい大学(第1志望でなくても)にちゃんと入れるまでが浪人生、と考えればいちおう浪人生ということになるかもしれない(むりやりだな(汗))。“受験生小説”としての読みどころとしては、そのままだけれど、やっぱり娘と父の衝突(というか)だろうね。
 

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